2009年7月21日火曜日

*Essays on House Education (July 21st)

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(501)

●いこいと、やすらぎと、そして、いやし

 家庭の役目は三つある。(1)いこい(憩い)、(2)やすらぎ(安らぎ)、(3)いやし(癒し)。

●いこいというのは、家族との心のふれあいをいう。たがいに心を開いた状態をいう。閉じていては、いこうことはできない。

 心が開いているとき、子どもは自然な形で、親に甘えたり、スキンシップを求めてきたりする。(甘えたり、スキンシップを求めてくることを悪いことと決めてかかってはいけない。)が、心が閉じると、「すなおさ」が消える。いじけたり、つっぱったり、すねたり、ひねくれたりする。言いたいことを言いあい、したいことをしあうというのが、本来のあるべき家庭の姿ということになる。

●家庭は安らぐ場所でなければならない。そこでテスト。あなたの子どもは、あなたのいるところや、あなたの見えるところで、平気で体を休めたりしているだろうか。もしそうなら、それでよし。そうではなく、あなたの姿を見ると、どこかへ消えたり、好んであなたのいないところで体を休めているようなら、家庭のあり方をかなり反省したほうがよい。

●家族はいやしあう。そのために五つの働きがある。助け合い、はげましあい、いたわりあい、守りあう、教えあう。

 日本人は、封建時代の昔から、「家」という形にこだわる一方、そのため中身を粗末にしてきた。そのため「家庭論」とか、「家族論」というのが、ほとんど発達しないまま、現在に至っている。ウソだと思うなら、アメリカへ行って、本屋をのぞいてみるとよい。

どこの本屋でも、学校教育の本と並んで、それと同じくらい数の、家庭教育の本が並んでいる。もともとアメリカでは家庭教育が発達して、それが学校教育になったという歴史的な背景もある。それはそれだが、ホームスクーラー(学校へ行かないで、家庭で学習する子ども)には、州政府が、教員まで派遣して、家庭での学習を指導している(アーカンソー州など、ほとんどの州)。学校という場でも、「よき家庭人」を育てるが、教育の柱になっている。

 一方日本では、学校という場が、人間を選別する場として機能してきた。今もその機能は根強く残っている。そのため「教育」というのが、「受験のための教育」と変貌(へんぼう)し、家庭教育そのものをゆがめた。それでよいのか悪いのかという議論は、もうそれ自体、無意味といってもよい。今こそ、日本の教育、なかんずく、家庭教育のあり方を考えなおすときではないのか。
 




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(502)

●あなたの家庭診断(試作)

 あなたの家庭は、子どもの側からみて、家庭として機能しているだろうか。こんな診断テストを考えてみた。あなたとあなたの子どもの関係に焦点をあてて、判断してみてほしい。(あなたにとって居心地のよい家庭でも、子どもにはそうでないケースは、多い。このテストでは、子どもの側からみた、あなたの家庭を診断する。)

( )去年とくらべて、同じようなリズムで親子の生活が流れている。親は親で、子どもは子どもで、それぞれのリズムで、生活している。大きな変化はない。(+1)
( )疲れたとき、さみしいとき、つらいときなど、家庭がその「逃げ場」になっているようだ。学校から帰ってくると、ほっとするような様子を見せる。(+1)
( )子どもはあなたに何でも言いたいことを言えるようだ。あなたの前でも態度も大きく、したいことを平気でしているようだ。(+1)
( )何か新しいことができるようになったとき、あるいはよいニュースがあったようなとき、それが家族全体の話題になる。たがいにそれを喜びあう雰囲気がある。(+1)
( )家庭の中にも、居場所や逃げ場をもっていて、それぞれが、いてもいなくても、気をつかうことなく、体を休めたり、心をいやしたりすることができる。(+1)
 一方、以上の五項目とは反対に……
( )親子のリズムがつかめない。どこかチグハグで、去年と比べても、大きく変化したようだ。どこか毎日、あたふたとしているうちに過ぎていくといった感じ。(-1)
( )外から帰ってくるようなとき、どこか雰囲気が暗いときがある。気晴らしをするときも、好んで外の世界で(あるいは閉じこもって)しているようだ。(-1)
( )あなたの前では静かで、話しかけても、あまり返事をしない。どこかよい子ぶっているところがある。何を考えているかわからないときがある。(-1)
( )親子の間に感動が少なくなった。よいニュースがあっても、自分だけの世界にそれを閉じこめようとする。自分だけで問題を解決しようとすることが多いようだ。(-1)
( )できるだけ親の顔や姿が見えないところで、体を休めている。家族と顔をあわせるのを避け、顔を見ると、どこかへ姿を消すことが多い。(-1)

 以上の質問で、プラス・マイナスを合計して、プラス点であればよし。マイナス点であれば、この時点を原点として、一年単位で「よき家庭づくり」を始める。「よき家庭」というのは、そういう意味で、健康に似ている。怠惰(たいだ)な生活をしていると、すぐ崩壊する。「よい家庭」というのは、家族が力をあわせて、つくりあげるもの。決して、向こうからやってくるものではない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(503)

●まじめな子ども

 基本的なまじめさは、幼児期に決まる。この時期までの、バランスのある生活が、子どもの「まじめさ」をつくる。ここでいう「バランスのある生活」というのは、心静かで、おだやかな生活をいう。まずいのは、アンバランスな生活。極端な甘やかしと、極端なきびしさが同居するような生活は、子どもを育てる環境としては、決して好ましいものではない。

よくある例は、極端にきびしい母親と、子育てに無関心な父親、あるいはデレデレに甘い祖父母と、しつけにきびしい母親との組みあわせ。育児拒否や家庭内騒動がよくないことは、言うまでもない。こういう環境では、子どもは静かに考えること自体できない。

 そのまじめさは、いかに自分を律するかで決まる。こんな子ども(小四女子)がいた。たまたまバス停で会ったので、私が「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけたときのこと。その子どもはこう言った。「いえ、いりません。これから家に帰って夕ご飯を食べますから」と。こういう子どもを、まじめな子どもという。

 一方、自分で考える習慣のない子どもは、行動がどこか、常識ハズレになりやすい。あるとき年長児のクラスで、私が、「ブランコを横取りされたら、君はどうしますか」と聞いたときのこと。一人の子ども(男児)は、こう言った。「そういうヤツはぶん殴ってやる。どうせ口で言ってもわかんねエ~」と。

 まじめな子どもは、当然のことながら、自分を律する力が強い。よく子どもの非行が話題になるが、非行に走るか走らないかは、その子どもの抵抗力による。もっとわかりやすく言えば、抵抗力に弱い子どもが、非行に走るようになる。で、その抵抗力というのは、ここでいう「自分を律する力」をいう。まじめな子どもは、誘惑を受けたときも、その誘惑を自分で判断し、一時的に負けることはあっても、やがてその誘惑に打ちかつ。しかしそうでない子どもは、そのまま誘惑に負けて、非行へと進む。

 ……だから乳幼児期の教育が重要と書けば、私の手の内が見えてしまう。しかし事実は、そのとおりで、私の視点からすると、小学一年生ですら、おおきな子どもに見える。中学生ともなると、もう手の届かない、おとなに見える。だから中学生をもつ親から、「どうしたらいいでしょうか」という相談を受けると、私は実のところ、何と答えてよいのかわからなくなる。「手遅れ」という言葉は使いたくないが、しかしそれに近い印象をもつことは事実だ。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(504)

●別れぎわの美学

 その月の最後のレッスンのとき。しかもその日の授業が終わったとき、生徒の一人が、私にメモを渡した。見ると、「今日で、BW(私の教室)をやめます」と。母親の字だった。私はそのメモを読んで、体が震えた。「やめる」は、この世界では、クビ切りと同じ。そういうクビ切りを、たった一枚のメモですますとは!

 ……と言っても、そういうことはこの世界では、日常茶飯事。いちいち怒っていたのでは、仕事はできない。「元気でね、さようなら」と言い終わるときには、もうその生徒のことは忘れることにしている。が、それは同時に、私にとっても、決別のときでもある。そういうやめ方をする人の子どもは、二度と教えない。それは私の意地というよりも、この世界に生きる人間のプライドのようなものだ。地位や肩書きのない人間は、この日本では軽く見られる。その軽く見られた分だけ、私は私の生きざまをつらぬく。

 が、当の親には、その意識がない。数週間もすると、またメールを送ってきて、「来週から、またお世話になります」などと言ってきたりする。あるいは図々しくも(?)、今度は兄のことで相談してきたりする。私はそういうとき、はっきりと「断わります」と言う。が、断われば断わったで、そういう親ほど、デパートで販売拒否にでもあったかのように怒り出す。もともと私をその程度の人間にしか見ていないからだ。

 先日もこんなことがあった。私の書いた原稿を、私に無断で、あちこちに転送した女性がいた。しかも私の原稿をズタズタにしたうえ、ほとんど一行ごとに、コメントを書き添えて、だ。それには「美人はとくね」と、私を揶揄(やゆ)したようなコメントまであった。最終的には、その原稿は私のところへ回送されてきたが、そのときほど体が怒りで震えたことはない。

私はしがないもの書きだが、女房ですら、そこまではさせない。(女房だって、しない。)以後、その女性とは縁を切ったが、この女性にも罪(?)の意識はなかった。何度かメールで、「どうして返事をくれないのですか」と言ってきた。が、返事など書けるものではない。平気で私信を、それも許可なく転送する人に、返事など書けない。

 ……と、まあ、他人の批判ばかりしているが、私も他人に対して、同じようなことをするときがある。もともと性格がゆがんでいるから、キズつけられるよりも、キズつけることのほうが多いかもしれない。偉そうなことは言えない。しかしこれだけは言える。

 人と出会うのは、簡単なことだ。しかし別れるときは、そうでない。言いかえると、人のつきあいは、別れぎわの美学で決まる。つまりいかに美しく、わだかまりなく別れるかで、その人の価値が決まる。「価値」というと少しおおげさに聞こえるかもしれないが、人間の価値は、人との「かかわり」の中で決まる。その「かかわり」は、別れるとき清算される。別れぎわが汚いということは、それまでの「かかわり」を否定することになる。決してメモ一枚で、相手と別れてはいけない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(505)

●親に甘えない子ども

 親に甘えることができない子どもは、多い。あなたの子どものことではない。あなた自身のことだ。あなたは自分の親に、甘える、つまり全幅に心を開くことができるか。

 ある母親はこう言った。「今でも親の前へ行くと、気が疲れます」と。「実家へ帰るのが、苦痛でならない」と言った母親もいた。「両親とも教師で、私は今でも親の前では、いい子ぶっています」「親子なのに、私は親とは儀礼的なつきあいしかできません」と言った母親もいた。親子だから、それなりに親密のはずと決めてかかってはいけない。私が知る範囲でも、何割かの母親は、実の親たちとのつきあいのことで、悩んでいる。

 が、もっと大きな悲劇は、そういう息子や娘をもちながら、とうの親たちは、「できのよい子ども」と誤解しているところにある。一人の母親は、こうメールに書いてきた。「私の両親は、私のことをできのいい娘と思っているようです。それに私が東京のT大学(国立)を出たことを自慢していますが、私にはそれが不愉快でなりません。両親は私の仮面しか見ていないからです」と。

 そこで今、あなたとあなたの子どもの関係をみてほしい。あなたの子どもは、あなたに対して、全幅に心を開いているだろうか。言いたいことを言い、したいことをしているだろうか。あるいは反対に、ひょっとしたら、あなたの前で仮面をかぶってはいないだろうか。あなたの前でよい子ぶったり、仮面をかぶっていないだろうか。

前者のようであればよし。しかしそうでなければ、親子のあり方を、かなり反省したほうがよい。とくに権威主義は、親子のあいだに、大きなキレツを入れる。「私は親だ」「親に向かって、何だ」というような言い方をしていて、どうして子どもはあなたに心を開くことができるのか。

 繰り返すが、「たがいに心を開いて、わかりあえる」。それが家族の第一の役目である。家族が家族である理由は、すべてこの一語に行きつく。そのほかの問題は、すべてマイナーな問題。どうでもよいとは言わないが、しかしこの役目の前では、ささいな問題と考えてよい。
 




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(506)

●よい親子でいるために

 心というのは、一度、閉じると、開くのは容易ではない。中学生や高校生でも、親と会話すらしない子どもは、いくらでもいる。なぜそうなるかは別として、子どもの心を安易に考えてはいけない。一度閉じた心を開くのは、それこそ五年単位の時間と努力を必要とする。成人してからも、ほとんど会話のない親子はいくらでもいる。私の知人のK氏は、今年三五歳になるが、父親(六二歳)と、食事すら別々。廊下ですれ違うときも、目をそむけあっている。同居しているだけに、ことは深刻である。K氏の妻はこう言った。「毎日が一触即発の状態です。先日も、『殺す』『殺してみろ』のおおげんかをしました」と。

 そこでもしあなたが、今、あなたの子どもの心が閉じ始めているのを感じたら、できるだけ初期のうちに、手を打つのがよい。この問題だけは、遅れれば遅れるほど、こじれる。ある母親は息子(小五)の受験勉強に狂奔しながら、こう言った。「私は息子には、ひどい母親に見えるかもしれません。しかしいつか息子が目的の中学校に入学したとき、私のことを理解し、感謝してくれると思います」と。が、残念ながら、そういうことはありえない。絶対にありえない。こういうケースのばあい、閉じるどころか、心そのものが破壊される。

 親というのは、皮肉なものだ。自分だって一度は子どもであったにもかかわらず、その子どもの心がわからない。わからないまま、「子どものことは私が一番よく知っています」と、子どもの心を、親の立場で決めてしまう。そしてやがて行き着くところまで行き、そこで失敗する。その途中で、私のようなものがアドバイスしても、ムダ。「私にかぎって」とか、「うちの子にかぎって」とか言って、その時期を見逃してしまう。どれもこれも、結局は子どもの心を安易に考えるところから始まる。繰り返すが、子どもの心を決して安易に考えてはいけない。

(チェックテスト)
● あなたは子どもの心を安易に考えていないか。
● あなたは子どもの心をつかんでいると誤解していないか。
● あなたは自分のエゴを子どもに押しつけていないか。
 
 



ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(507)

●顔の見えない親たち

 まさに顔が見えない。インターネットで、メールを交換していると、「文」だけの関係になる。そのためおかしな現象が起きる。

 たとえばA市に住むAさんから、子育ての相談を受けたとする。で、数回、メールを交換したとする。で、しばらくしたあと、今度はB市に住むBさんから、別の相談を受けたとする。で、同じように数回、メールを交換したとする。こういうことを、全体として、何度も繰り返していると、だれがだれだかわからなくなってしまう。当然といえば、当然だが、そんなとき、「以前、相談したことのあるC市のCです」というようなメールをもらうと、頭の中が大混乱してしまう。

 ひとつの解決策としては、その人の写真を同時に送ってもらうことだが、まさか「写真を送ってください」とは、言えない。相手が母親だとまずいが、父親だと、もっとまずい。へんに誤解されてしまう。たぶんこのことは、相手の人にもそうだろう。「はやし浩司は一対、どんな男なのだろう」と思いながら、相談してくる人も多いと思う。今のところどのように解決したらよいのかわからないが、そのうちもう少しインターネットが発達すれば、テレビ電話のようなことができるようになるかもしれない。そうなれば、たがいに顔を見ながら、メールを打つことができるようになるだろう。

 そこで私のばあいは、メールをくれる人には、住所と名前を書いてもらうことにしている。これはイタズラメールや、ウィルス入りのメールを防ぐ目的もあるが、そうすることで、「個性」を確認することにしている。が、ここでもおかしな現象が起きる。名前やその人が住んでいる土地で、その人のイメージが、勝手に頭の中でつくられてしまう。たとえば……(不謹慎だが、相手が母親だと……)、

京都の京子さんという名前だと、舞妓さんのような女性をイメージしてしまう。大阪のマユミさんという名前だと、都会的なキャリアウーマンをイメージしてしまう。一方岩手の岩枝さんだと……、これは書けない。ともかくも勝手に頭の中でイメージがつくられてしまう。そしてこれが誤解と偏見の原因となる。

さてさてどうしたらよいものか? ……と思いつつ、今朝も数人の方に、メールの返事を書いた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(508)

●子どものトラブル解決法(1)

 子どもどうしのトラブルが、一定の限度を超えて、子どもの心に影響が出てくることがある。たとえば深刻なケースとしては、不登校(学校恐怖症)にまで発展することもある。が、そこまではいかないにしても、相手の子どもの暴力や暴言、いじめなどが原因で、子どもの心が変調をきたすことがある。ぐずったり、元気がなくなったり、反対に家で荒れたりする。そういうトラブルがつづくと、当然のことながら親は、「学校に言うべきかどうか」で悩む。ひとつのケースを、モデルに考えてみる。

【K君、小三男児のケース】
 K君は、スポーツも得意で、よくハメをはずすことはあるが、学校でも人気者で、性格も明るかった。毎日そのため、いつも友だちの家で回り道をして帰ってきた。算数教室にも通っていたが、一度、友だちの家に集合し、そこからみなといっしょに算数教室へ通っていた。

 そのK君の様子がおかしくなったのは、秋も深くなった一一月のことだった。K君が「学校はいやだ」「学校へ行きたくない」と言い出した。朝、起きてもぐずぐずしているだけで、したくすらしない。そこで父親が理由を聞くと、「M君(同級生)がいじめるからだ」と。M君は、キレると別人のように暴れるタイプの子どもだった。父親はこう言った。

 「それまでは、回り道をして帰ってくるのがふつうだったKですが、このところまっすぐ家に帰ってきます。それがかえって不自然な感じがします。それに母親が『算数教室のプリントをしたら』というと、突発的に興奮状態になって、暴れます」と。

 不登校が長期にわたることが多いのに、学校恐怖症がある。この恐怖症には、ある一定の前兆現象があるのが知られている。K君のケースでも、朝起きたとき、ぐずる、不平、不満が多くなるなどの症状がみられる。ほかの神経症による症状、たとえば腹痛、頭痛などの症状が今のところ見られないので、まだ初期の、初期症状と考えてよい。しかし様子は慎重に判断しなければならない。この段階で、無理をして、子どもの心を見失うと、症状は一挙に加速、悪化する。

 ここでは不登校を問題にしているのではない。ここでは、だれに、どのように相談し、問題を解決したらよいかという問題を考える。当然、最終的には学校ということになるが、その前にやるべきことは多い。(不登校については、別のところ読んでほしい。)

(1) 家庭を心をいやすやすらぎの場と心得ること。外の世界で疲れた子どもを、温かくしっかりと包み込むような雰囲気を大切にする。子どもの生活態度や生活習慣が乱れ、だらしなくなることが多いが、それはそれとして、大目にみる。

(2) 食事面で、Ca、Mgの多い食生活にこころがけ、子どもの心を落ちつかせることを大切にする。そして家では子どもを、「あなたはよくやっている」というような言い方をして、子どもの心を裏から支えるようにする。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(509)

●子どものトラブル解決法(2)

 子どもどうしのトラブルが、限界を超えたら、(どこが限界かを判断するのはむずかしいが)、学校の先生に相談、ということになる。その相談について……。

 これはどんなばあいでもそうだが、自分の子どものことを先生に相談するときは、子どもの症状だけを、ていねいに訴えて、それですますこと。親が原因さがしをしたり、理由づけをしてはいけない。いわんや相手の子どもの名前を出したり、先生を批判してはいけない。あくまでも子どもの症状だけを訴えて、それですます。判断や指導は、プロである先生に任す。

それがわからなければ、たとえばあなたが病気になったときのことを思い浮かべればよい。あなたはドクターに、自分の診断名や治療法を話すだろうか。そんなことをしても、意味がない。ないばかりか、かえって、診断や治療のさまたげになる。学校という社会では、先生は、まさに教育のドクター。が、それだけではない。

 この種のトラブルは、たとえばあなたが相手の子どもの名前を口にしたりすると、問題が思わぬ方向に、飛び火したりする。一〇人もいれば、一人はまともでない親がいる。そのうちさらに一〇人のうち一人は、頭のおかしい親(失礼!)がいる。そういう人をトラブルの中に巻き込むと、それこそたいへんなことになる。現に今、私が知っている人の中には、「言ったの、言わないの」が、こじれて、親どうしで裁判闘争している人さえいる。こうなると、子どものトラブルではすまなくなる。

 私は、つぎのような格言を考えた。

●親どうしのつきあいは、如水淡交……親どうしのつきあいは、水のように淡(あわ)く、サラサラとつきあうようにする。教師との関係もそうで、濃密だから、子どもに有利とか、そういうふうに考えてはいけない。

●行為を責めても、友を責めるな……これはイギリスの格言だが、子どもが非行に走っても、その行為を責めるにとどめ、友を責めてはいけない。「あの子と遊んではダメ」と子どもに言うことは、子どもに「親をとるか、友をとるか」の択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなたをとればよいが、友をとれば、同時にあなたと子どもの間には大きなキレツが入ることになる。

同じように、学校でのトラブルでも、仮に先生に問題があっても、先生を責めてはいけない。症状だけを訴えて、あとの判断は先生に任す。(もっともあなたが転校を覚悟しているのなら、話は別だが……。)

●子どもどうしのトラブルは、一に静観、二にがまん。三、四がなくて、五にほかの親に相談……「ほかの親」というのは、同年齢もしくはやや年齢の大きい子どもをもつ親のこと。そういう親に相談すると、「うちもこんなことがありまたよ……」というような会話で、大半の問題は解決する。学校の先生に相談するのは、そのあとということになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(510)

●世間体論

 クイズ……「A氏(六五歳男性)の母親はBさん(他界)。しかし戸籍上は、A氏とBさんは弟姉になっている。こんなことはありえるだろうか」

 古い世代の人は、このクイズはすぐ解ける。しかし若い世代の人には、むずかしい。つまり昔の人は、それくらい世間体を気にした。

 先日もある母親から、こんな相談があった。「離婚をしたが、子どもを連れて、実家へは帰れない。どうしたらいいか」と。私が「どうして?」と聞くと、「実家の両親が、世間体もあるから、実家へ入れるわけにはいかないと言っている」と。つまり娘が離婚し、子ども(孫)を連れて帰ってくることを、親たちは「恥ずかしい」というのだ。

私はこの話を聞いたとき、第一に、その母親のことよりも、その実家の両親のことをかわしそうに思った。年齢を察するに、私と同じくらいか。その親が、いまだに自分の人生観を確立することができないでいる! それだけではない。子どもを愛するということが、何であるかさえわかっていない!

 あなたは世間体という魔物を知っているか? この世間体に毒されると、自分を見失う。家族の心を見失う。この世間体は、もともと戦前の、もしくはそれ以前からの全体主義的なものの考え方に由来する。みなと同じことをしていれば安心。そうでなければ不安。みなと同じことをしている人を受け入れる。そうでない人を排斥する。そういうものの考え方が基本にあって、日本人は、その世間体を気にするようになった。「世間が笑う」「世間が許さない」という言い方も、そこから生まれた。

 また子どもを愛するということは、子どもをあるがまま受け入れるということ。この親たちは、子どもの苦しみや悲しみさえわかっていない。あるいはその苦しみや悲しみを、共有しようという意識さえない。いったいこの親たちは、何のために、どうして子育てをしてきたのか? 娘の苦しみや悲しみを救うことよりも、世間体のほうが大切にしている。自分のメンツや見てくれ、体裁のほうが大切にしている。

その母親は離婚という状況に追いこまれたが、今どき、離婚など、どうということはない。その両親は、さかんに孫のことを、「かわいそうだ」「あわれだ」と言っているそうだが、本当にかわいそうなのは、孫ではない。娘というその母親でもない。その母親の両親だ。自分をつかめない、両親だ。

 さて冒頭のクイズ。そのA氏は、私X児(今、この言葉は禁止語になっている)として生まれた。そこで世間体を気にしたBさんの父親が、自分の息子として戸籍に入れた。だから戸籍上は、A氏とBさんは、戸籍上では、弟姉となった。戦前まではよくあったことである。あなたはこのクイズが解けただろうか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(511)

●時間論
 久しぶりに、自宅から市内にある教室まで歩いてみた。地図の上では、六キロだが、歩くと七〇分もかかった。たまたまワールドカップの最中だったので、「前半と後半で、計九〇分間も走り回るのも、結構たいへんだなあ」と、へんな感心をしながら歩いた。それともうひとつ。「江戸時代には、みんなこの道を歩いたのかなあ」とも。が、そのうち、「時間」について考えるようになった。

 車で行けば、一〇~一五分の距離。それを歩いていくのは、時間のムダなのか。それともムダでないのか、と。ときどき若い男が、車で猛スピードで私の横を通り過ぎていったが、それを見たとき、今度は反対のことを考えた。彼は時間を大切にしているのか。それとも大切にしていないのか、と。

 話はぐんと現実的になるが、今、平均的な高校生で、一日、四~五時間(各種調査)は、家でテレビを見ている。学校での授業を、五〇分かける五時限として、一日、二五〇分。時間になおすと、四時間と少し。つまり学校で授業を受ける時間より、家でテレビを見る時間のほうが、長い。影響ということを考えるなら、子どもたちは学校で受ける影響よりも、テレビでのほうで、はるかに強い影響を受けている。

しかしこういうのを時間のムダというのではないのか。「娯楽」と言えば聞こえはよいが、低俗なバラエティ番組を見ながら、ギャーギャーと笑うことが、本当に娯楽なのか。また高校生に、そんな娯楽が必要なのか。……と書くのは、ヤボなことだが、私はこのところ、「だからどうなのか?」ということをよく考える。年齢のせいかもしれない。「急いで帰って、それがどうなのか」とか、「テレビを見て楽しんで、それがどうなのか」と。最近は、億単位のお金を稼ぐ人の話を聞くと、「必要以上に、お金を稼いで、それがどうなのか」と考えることもある。これは私のひがみのようなものかもしれない。

 結論から言うと、歩くことは、決してムダではない。健康にもよいが、それ以上に、時間というものを、しっかりと自分でつかむことができる。一方、何か理由があって急ぐのならともかくも、そうでなければ車に乗ることは……? ムダとは言いきれないが、「だからどうなのか」という部分が、どうしても浮かびあがってこない。若い男が猛スピードで走り去るのを見たときも、そうだった。私は「そんなに急いで、どうするのか?」と。

 考えてみれば人生で一番大切な財産は、時間だ。この時間は、お金にはかえられない。で、そこで重要なことは、いかに自分のものとして、そのときどきの時間をつかむか、だ。いかにして納得してすごすかということになるかもしれない。その方法は、人さまざまだが、私のばあい、「生きる」ということは、「考える」こと。考えたときが、まさにつかんだ時間ということになる。だからたとえばつまらないビデオを見たりして時間をムダにしたと感じたりすると、「しまった!」と思うことがある。

 私はその六キロを歩きながら、そんなことを考えた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(512)

●日本の仏教

 日本の仏教には、多くの矛盾がある。矛盾だらけと言ってもよい。少し前になくなったが、東大のN名誉教授は、さかんに「大乗非仏説」を唱えていた。つまりインドからヒマラヤ山脈の北を回って中国、日本へと伝わった仏教(大乗仏教、北伝仏教)は、釈迦が唱えた仏教とは異質のものである、と。

 私はすべてがそうだとは言わないが、矛盾がないわけではない。たとえば、インドでは男性だったカノンが、日本では観音様という女性になっていること。日本の仏像が、(ガンダーラの仏像もそうだが)、古代インドの服装ではなく、すべてヘレニズム文化の影響を受けた古代ギリシアの服装を身につけていること。

また経典の中に、よく、貨幣の話が出てくるが、釈迦の時代にはまだ貨幣はなかったこと、などなど。釈迦の生誕地に残る仏典(法句経)は別として、それ以外は、どうも?、というものが多い。そういうものを根拠にして、仏教を説いても、あまり意味がないのではないのか。さらに総じてみれば日本の仏教は、あのチベット密教の影響をモロに受けている。それが中国の土着宗教と結びついて、日本へ入ってきた。チベット密教そのものと言う人もいる。

 だからといって私は仏教を否定しているのではない。仮に仏教が否定されたとしても、
その仏教とともに生きてきた、何億何千万もの人たちの人生まで否定することはできない。ただ、盲信するのはいけない。中には、経典の一言半句にまで深い意味を求める人もいるが、しかしここにも書いたように、矛盾がないわけではない。そういう矛盾、つまり明らかなまちがいまで押し殺して盲信するのは、危険なことでもある。

 大切なことは、自分で考えることだ。先日もある著名な仏教哲学者U氏の講演をテレビで見ていたが、その中でその哲学者はこう言っていた。「○○経にXXという言葉がありますが、つまり人間はみな、平等と釈迦は教えているのです」(NHK、〇二年六月)と。しかし、だ。何もおおげさに経典の一節をもちださなくても、人間がみな平等というのは常識ではないのか。ほんの少し自分自身の「常識」に照らし合わせれば、小学生にだってわかる。

それにその哲学者は、こうも言っていた。「人間は白人も、黒人も、黄色人種も、みな平等だと、そういうことを釈迦は教えているのです。すばらしいことです」と。しかしこの話はウソ。釈迦の時代に、釈迦の周辺に、白人や黒人、黄色人種はいなかった!

 私たちは何の疑いもなく、日々の生活の中で、仏教的な儀式を繰り返している。そしてそれがあるべき方法だと、信じて疑わないでいる。しかしそういう姿勢こそ、ひょっとしたら、釈迦がもっとも嫌った姿勢ではないのか。話せば長くなるが、法句経で述べている釈迦の精神とは、どこか違うような気がする。

 ここではこの程度にしておくが、もし興味があったら、あとは皆さんが、自分でたしかめてほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(513)

●妻の呼び名

 数年前になくなったが、私のオーストラリアの友人の父親は、彼の妻のことを、いつも「フレッド(Fred)」と呼んでいた。「友」という意味である。

 で、私は家では、「晃子(あきこ)」と名前で呼んでいる。しかし文では、「女房」と書いている。ところが最近、私はこの「女房」という言い方に、どこか抵抗を覚えるようになった。そこで女房に相談すると、女房は、「ワイフでいいんじゃない?」と、言った。そこで今日から、女房の呼び方(書き方)を変えることにした。「ワイフ」にした。

女房……何となく、古臭い。
妻……夫と妻というように、どこかに上下意識があっていけない。
家内……男尊女卑っぽい。
かみさん……どこか古臭い。
ワイフ……まあ、悪くない。
つれそい……どこか男尊女卑的。
フレッド……パクリっぽい。それにいちいち括弧づけで、「フレッド(妻)」と書かねばならない。

 いろいろあるが、そんなわけで、「ワイフ」にした。これからは、この呼び方で統一する。書くときも「ワイフ」にする。これなら上下意識も感じられない。ただひとつだけ気になることがある。どうも本人とのイメージがあわない。私のワイフは、このところますます、「かみさん」風になってきた。それを「ワイフ」とは? それにワイフが「ワイフ」なら、私は「ダーリン」か? どこかくすぐったい感じがしないでもない。

 ……ともかくも、今日からワイフ。私の原稿で、「女房」と書いてあるのは、二〇〇二年六月二八日以前のもの。「ワイフ」と書いてあるのは、六月二八日以後のもの。しかもこの子育て ONE POINT アドバイス!の第513号が、その境目ということになる。どうでもよいことだが……。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(514)

●親の支配意識

 あなたは今、親だ。それはわかる。しかし親といっても、その意識は、みな違う。たとえば子どもを支配したいという意識がある。支配意識という。その意識は、人によってみな、違う。そこでテスト。

 あなたの子ども(小学生~中学生)が、何かの賞金で、少し高額のお金を手にしたとする。そのとき、あなたはそのお金をどう思うだろうか。

(1) 子どものお金だから、私には、関係ないと思う。どう使おうと、子どもの勝手。私の知ったことではない。(2)子どものものは、私のもの。当然、私が使う権利があると思う。使い道については、私が指示する。あるいは私のお金として使う。 

 ここに書いたのは、極端な例で、もちろんその中間もある。しかし支配意識の強い親ほど、(2)のように考える。いろいろな例がある。

 ある女性(55歳)は夫が死んだあと、小さな店を継いだが、ときどきその店を手伝っていた自分の娘(既婚、夫と別場所に住む)には、ほとんど給料を払わなかった。

 ある女性(七〇歳)はこう言った。「私は今の家に嫁いで四五年になるが、夫にさえ、嫁いだころは、お手伝いか、女C(この語は今、禁止語になっている)のようにしかあつかってもらえなかった」※と。

 ある母親(七五歳)は、自分の息子のできがよいのを喜び、息子を自慢のタネにして、友人たちの間で、いばっている。「あの息子を育てたのは、私だ」と。

 支配意識の強い親ほど、「私のものは、私のもの。私の子どもは、私のもの。だから私の子どものものは、私のもの」という考え方をする。「自分の娘だから、給料など払う必要はない」「嫁は、家に嫁いできたのだから、まず家のために働くべき」「老後は、息子や娘の自慢話をするのが、何よりも楽しみ」と。

 しかしこうした考え方は、一方で、子どもの人格や人権を否定することになる。どう否定するかということではない。支配意識をもつこと自体、否定していることになる。言いかえると、子どもの人格や人権を認めるためには、親自身が、この支配意識から抜け出さなければならない。もっと言えば、「あなたの人生はあなたのもの。どこまでいっても、あなたのもの」と、一〇〇%の人生を子どもに手渡してこそ、子どもの人格や人権を認めたということになる。

 さてあなたの支配意識は、どの程度だろうか。だれにでも、ある程度の支配意識はある。が、もしあなたが「うちの子のことは、私が一番よく知っている」という言葉を、日常的に使っているようなら、一度、この支配意識を疑ってみたらよい。

※……このケースは、夫が妻に対して支配意識の強いケースである。あなたは妻に対して、どの程度の支配意識をもっているか。反対にあなたの夫は、あなたに対してどの程度の支配意識をもっているか。それを知るのも、何かの役にたつかもしれない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(515) 

●偏見と誤解

 教育の世界には、偏見と誤解が満ちあふれている。ここでひとつ、「心の実験」をしてみよう。
 あなたは「はやし浩司」という人間を、どう見ているだろうか。たぶん、あなたは私のことを、まじめで、融通のきかないカタブツ人間と思っているだろう。教育問題を論じているから、なおさらそういうタイプの人間だと思っている。あるいはもっと別のイメージをもっているかもしれない。あなたが私をどういう目で見ているか、だいたいのところ察しはつく。しかしつぎの文を読んでほしい。

 「いつも寝る前に、バイアグラと鉄分を含んだ鉄剤をのんでいた男がいた。朝起きると、彼の頭はいつも北の方角をさしていたという。また別の老人は、いつもバイアグラを、一錠だけのんでいた。ドクターが、『バイアグラは二錠のまないと効果がない』と言ったら、その老人は、こう答えた。『いえ、わしは、小便するとき、足元をぬらさないためにのんでいるだけでサ』と。

カトリックの神父学校では、もちろんバイアグラは厳禁。小便のあと、あれを何回まで振ってよいかも決まっている。聞くところによると、三回まではよいそうだ。四回以上は、マスターベーションになるからダメだそうだ」(オーストラリアのB君のメールより)。

 この文を読んで、たいていの人は、強いショックを受けるにちがいない。もちろんこれはつくり話である。私とて男だから、この程度のメールのやりとりは、いつもしている。が、問題はそのことではない。

 このときあなたの頭の中では、バチバチと偏見と誤解がショートを起こして火花を飛び散っているにちがいない。「教育評論家が何てことを書くのだ!」「バイアグラをテーマにするなんて、どういうことだ!」と。

 さて、本題。偏見と誤解について。私たちは日常的な常識(私がいう「常識論」の常識とは別)の中で生きている。そしてその常識が、一方でひとつの固定観念をつくる。固定観念がまちがっているというのではない。その固定観念が、ときとして偏見と誤解を生む。教育の世界はとくにそうだ。その中でも最大のものは、教職は聖職であるという偏見と誤解。中には、教師のことを、牧師か出家者のように思っている人がいる。

私も教育の世界をかいまみて三二年になるが、これほどまでの偏見と誤解が満ちあふれた世界はほかに知らない。しかし教師といっても、あなたやあなたの夫や妻と、どこも違わない。違うほうがおかしい。大学で教育言論を履修したとか、多少の実習を受けたということをのぞけば、会社へ入社した社員と、どこも違わない。

 実は、教育論もそうだ。本来、教育論は、もっと生々しく、もっと人間くさいもの。教育を「教育」として構えてしまうから、話がおかしくなる。そのおかしさを、逆説的にわかってほしかったから、あえてここで「心の実験」をしてみた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(516)

●同性愛

 「君には好きな子がいないのか?」と聞くと、J君(高一男子)は、さみしそうにうなずいた。ピリッとした緊張感が走ったが、心のどこかで私の話を拒絶したのかもしれない。あるいは罪の意識をもっていたのかもしれない。

 J君は、決してもてないタイプの男ではない。色白で、整った顔立ちをしていた。その気になれば、いくらでもガールフレンドなどできたであろう。で、そこでまた、「女の子に興味がないのか?」と聞くと、J君は黙ったまま、下を向いてしまった。

 この時期に、同性愛者かどうかの傾向がはっきりする。私は女子の同性愛については、まったくわからないが、男子のそれはよくわかる。私が「男」であることによるためかもしれない。本能的な部分で、それをかぎ分けることができる。私は「濃い男」か、「薄い男」かと聞かれれば、「濃い男」だ。女性から遠い位置にいる男を、「濃い男」、女性に近い位置にいる男を、「薄い男」という。これは私が勝手に作った言葉だが、つまり私自身が濃い男であるがゆえに、そうでない薄い男がよくわかる。

 こういうケースでは、私としてはなすべきことは、何もない。あるがままを認めて、あるがままを受け入れるしかない。いつかオーストラリアの友人がこう言ったのを覚えている。「白人の男性の、約三分の一は、同性愛者だ」と。日本では、そこまで多くないかもしれないが、しかし「いない」わけではない。それに同性愛者といっても、いろいろなタイプがある。私の知人の中には、同性愛者でありながら、一方で平穏な結婚生活を営んでいる人もいる。

 J君が、どのようなタイプなのかはわからない。心の奥まで、私とてのぞくことはできない。ただ「できれば……」という思いが働いて、教育の場で何とかできないものかということは考える。ときどき冗談をまじえながら、「女性のヌード写真くらいはもっているだろ?」とか、自分の失敗談を話したりして、それとなく反応をみるのだが、まったくと言ってよいほど、そういう話には乗ってこない。「親に報告すべきか」ということで迷うこともあるが、しかしそれをしたところで、それがどうだというのか? そもそも同性愛は、まちがっているのか? それはいけないことなのか?

 私はさまざまな問題にかかわってきたが、こと「性」の問題については、「我、関せず」を貫いている。さらに最近は、この問題は、教育の問題ではないとさえ考え始めている。もっと言えば、性の問題は、教育の向こうにある問題、と。ただ、子どもが同性愛者になる前の段階として、いろいろなすべきことはあるように思う。環境、なかんずく父母の性格や子育て観が大きく影響することは考えられる。しかしその分野まで、教育が踏み込むのは、はたして正しいことなのか。許されるべきことなのか。

 J君を前にするたびに、私は深く考え込んでしまう。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(517)

●同性愛者になる子ども

 実のところ、この問題は、今日、はじめて考える。だからこの原稿は、あくまでもこれからの叩き台でしかない。あるいは「入り口」と考えてほしい。不勉強で、まちがっているかもしれない。

 男子の同性愛傾向は、いくつかのパターンに分けられる。(1)女の子に興味をもたないタイプ、(2)女の子を嫌悪するタイプ、(3)男子に興味をもつタイプ、(4)自分が「男」というより、「女」と思っているタイプ。いろいろなケースがあった。 

タイプ(1)女の子に興味をもたないタイプ……フロイト風に段階的に分類するなら、男子は肛門期以後、乳房期(乳房に強い関心とあこがれをもつ)、女性器期(女性の性器に強い関心をもつ)、接触期(女性との肉体的接触に強くひかれ、それを求める)という段階を経て、性にめざめる。このうち女の子に興味がないタイプは、肛門期以後、ここにあげたような、段階的興味をもたない。「おっぱい」の話をすると、小学校の低学年児でも恥ずかしそうにニヤニヤするが。そういった反応がない。中学生になっても、女体や女性器に興味をもたない。女の子とは、それなりに「友」としてつきあうが、それ以上の関係には発展しない。

タイプ(2)女の子を嫌悪するタイプ……女性そのものに嫌悪感をもち、そのため女性には関心があっても、女性を女性と意識すると同時に、恐怖心に襲われる。強度の母親恐怖症など、何らかの環境的理由が、子どもにそういう恐怖心をもたせる。これは女子のケースだが、印象に残っている女の子(中学生)に、こんな子どもがいた。

その女の子は、男を男とも思わないというか、完全に男を軽蔑していた。原因は家庭環境にあった。父親は静かでおとなしく、まったく風采のあがらない人だった。一方、母親は、あらゆる会の会長を務めるなど、まさにバリバリのやり手ママといったふうだった。その女の子は、そういう環境の中で、母親の、ものの考え方や男性観をそっくりそのまま受け継いでいた。同じように母親の存在感が強過ぎることが原因で、女性恐怖症になる男子は少なくない。

タイプ(3)男子に興味をもつ……こうした同性愛的傾向は、それぞれの時期に、一時的に見られることはよくある。が、その程度が著しく超え、男子に興味をもち、理想の男性に強いあこがれをもつ。よくあるケースは、兵士やスポーツ選手、さらに筋肉的な男性を理想像と思い、そういう男性に傾注する。男性としての自己コンプレックスの変形とも考えられる。

タイプ(4)自分が「男」というより、「女」と思っているタイプ……独特のしぐさを見せるようになるので、それと区別できる。隣の子どもが何かの拍子に、足を蹴られたとき、「イヤ~ン」という声を出した子ども(小四男子)がいた。歩き方も、どこかナヨナヨしていて、女性的なものを身につけたり、ほしがったりする。花柄のパンツ、花柄のノートや下敷きをもっていた男子高校生もいた。

 こうした子どもへの対処法は、ケースバイケースだが、残念ながら私は指導した経験がないので、これ以上のことはわからない。これからのテーマとしたい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(518)

●家族のルール、一〇か条

●ルール1……家族へのプレゼントは、お金で買ったものはだめ。とくに誕生日、クリスマスなど、心のお祝いをするときは、お金で買ったものはだめ。家族の間で、たがいにそう取り決めておく。

●ルール2……食事のあとしまつは、それぞれがする。使った食器、食べ残したものは、それぞれが自分で始末する。食器を洗い、フキンでふいて、それを棚へしまうまで、個人の責任とする。

●ルール3……たがいを判定(ジャッジ)しない。相手の意見は聞き、自分の意見は言っても、たがいを評価したり、判定したりしない。「あなたはダメな子ね」式の人格攻撃はタブー中のタブー。

●ルール4……家族の言い争いは一日で消す。どんな言い争いをしても、その争いは一日ですます。あとでむしかえしたり、「この前も……」という言い方はしてはいけない。あれこ過去もちだすのはタブー。

●ルール5……家族の悪口は言わない。どんなばあいも、家族で、家族の悪口は言わない。不平、不満も言わない。不平や不満があるときは、本人だけに言い、その範囲でおさめる。「あなたのお父さんはだらしないね」式の批判は、タブー。

●ルール6……喜びあい、ほめあうときは皆の前でする。何かよいニュースがあったら、おおげさに喜びあい、ほめあう。「忠告はひそかに、賞賛は公(おおやけ)に」(シルス)と言った、古代ローマの劇作家がいた。

●ルール7……家族の秘密をあばかない。個人あての手紙、メール、メモなどは、絶対に見ない。携帯電話を調べたり、バッグの中をのぞいたり、子ども部屋を調べたりするのは、タブー。そういうことをしなければならないという状況になったら、すでに家族は破壊されたとみる。夫婦でも、このルールは守る。

● ルール8……家族は、助け合い、はげましあい、いたわりあい、守りあう、教えあう。これにもうひとつ。「家族は同居する」。単身赴任などという状態は、あってはならない

● という前提で、考える。仕事は大切だが、家族のために仕事を犠牲にしてはいけない。皆がそういう意識をもったとき、日本のこのゆがんだ制度は、改善される。

●ルール9……家族にはウソは言わない。隠しごとはしない。いつもすべて話せというわけではない。自分から言う必要がないと判断すれば言わなくてもよい。しかし聞かれたら、ウソは言わない。隠しごとはしない。どうしても言いたくなければ、黙っていればよい。

●ルール10……命令、禁止命令はしない。夫婦の間はもちろんのこと、親子の間でも、命令はしない。しかしこれを守るのは実際にはたいへんむずかしい。だからあくまでも努力目標ということになる。そういう前提で、できるだけ命令口調はひかえる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(519)

●他人に左右されない人生

 個性とは……、他人に左右されない人生をいう。人間は個性的に生きるから人間。言いかえると、他人の目を意識した人生ほど、つまらないものはない。人生そのものを、棒に振ることにもなる。はたから見ても、それほど見苦しい生き方もない。

 たとえば「出世」という言葉がある。しかしこの言葉ほど、その裏で、他人の目を意識した言葉はない。こうした言葉に毒されると、自分を見失う。自分だけではない。政治家や役人に利用されると、国の方向性すらゆがむ。最近でも、鈴木Mという代議士がいる。出世欲にとりつかれた餓鬼(がき)としか、言いようがない。ああいう政治家の見苦しさを、私たちは今ここで、しっかりと頭に焼きつけておかねばならない。

 たとえば「偉い」という言葉がある。しかしこの言葉ほど、人間の上下を位置づける言葉はない。この日本では、「偉い人」というときは、地位の高い人や、肩書きのある人をいう。よい例が水戸黄門だが、どうして水戸黄門は偉いのか。どうして民衆は、彼に頭をさげるのか。

英語国では、日本人が「偉い人」と言いそうなとき、「尊敬される人(respected man)」という言い方をする。だから親は子どもにこう言う。「尊敬される人になりなさい」と。「偉い人」と、「尊敬される人」との間には、越えがたいほど大きなへだたりがある。「尊敬される人」というときには、地位や肩書きには関係ない。

 たとえば「立派」という言葉がある。この言葉のおかしさは、今の中国をみればわかる。あの国では、国をあげて「立派な国民」づくりに狂奔している。少し前の日本にそっくりと言ってもよい。「立派になる」というのは、偉い人になって出世することを意味する。

 たとえば「世間体」という言葉がある。日本人は皆と同じことをしていれば安心、そうでなければ不安と、どこか全体主義的な生き方をよい生き方としている。そのため幸福観も相対的なもので、「皆よりいい生活をしているから幸福」「皆より悪い生活をしているから不幸」という考え方をする。しかしそういうものの考え方が強くなればなるほど、自分を見失う。

 私たちは今、生きている。たった一度しかない人生を、この大宇宙の中で、しかも何十億年という時間の、その瞬間を生きている。だったら、思いっきり、自分らしく生きよう。私は私だ。あなたはあなただ。もしそれがまちがっているというのなら、それを言う人のほうがまちがっている。たとえ神や仏でも、この生き方をじゃますることはできない。




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(520)

●変わった性意識

 うちへ遊びにきた女子高校生たち四人が、春休みにドライブに行くと言う。みんな私の教え子だ。そこで話を聞くと、うち三人は高校の教師と、もう一人は中学時代の部活の顧問と行くという。

しかも四人の教師のうち、独身なのは一人だけ。あとは妻帯者。私はその話を聞いて、こう言った。「大のおとなが一日つぶしてドライブに行くということが、どういうことだか、君たちにわかるか。無事では帰れないぞ」と。それに答えてその高校生たちは明るく笑いながら、こう言った。「先生、古~イ。ヘンなこと想像しないでエ!」と。

 しかし私は悩んだ。親に言うべきか否か、と。言えば、行くのをやめる。しかしそうすればしたで、それで私と彼女たちの信頼関係は消える。私は悩みに悩んだあげく、女房に相談した。すると女房はこう言った。「ふ~ン。私も(高校時代に)もっと遊んでおけばよかった」と。

私はその一言にドキッとしたが、それは女房の冗談だと思った。思って、いよいよ春休みという間ぎわになって、その中の一人に電話をした。そしてこう言った。「これは君たちを教えたことのある、一人の教師の意見として聞いてほしい。ドライブに行ってはダメだ」と。するとその女子高校生はしばらく沈黙したあと、こう言った。「じゃあ、先生、あんたが連れてってヨ。あんたは車の運転ができないのでしょ!」と。

 以来一〇年近くになるが、私は一切、この類の話には、「我、関せず」を貫いている。はっきり言えば、今の若い人たちの考え方が、どうにもこうにも理解できない。私たち団塊の世代にとっては、男はいつも加害者であり、女はいつも被害者。遊ぶのは男、遊ばれるのは女と考える。

しかし今ではこの図式は通用しない。女が遊び、男が遊ばれる時代になった。だから時折、援助交際についても意見を求められるが、私には答えようがない。私が理解できる常識の範囲を超えている。ただ言えることは、世代ごとに性に対する考え方は大きく変わったし、変わったという前提で議論するしかないということ。避妊教育や性病教育を徹底する一方、未婚の母問題にも一定の結論を出す。

やがては学校内に託児所を設置したり、授業でセックスのし方についての指導をすることも考えなくてはならない。厚生省の調査によると、女子高校生の三九%が性交渉を経験し、一〇代の中絶者は、三万五〇〇〇人に達したという(九九年)。しかしこの数字とて、控え目なものだ。

つまりこの問題だけは、「おさえる」という視点では解決しないし、おさえても意味がない。ただ許せないのは、分別もあるはずのおとなたちが、若い人たちを食いものにして、金を儲けたり遊んだりすることだ。先に生まれた者が、あとに生まれた者を食いものにするとは、何ごとぞ!、と。私はもともと法科出身なので、すぐこういう発想になってしまうが、こういうおとなたちは厳罰に処すればよい。アメリカ並に、未成年者と性交渉をもったら、即、逮捕する、とか。しかしこういう考え方そのものも、もう古いのかもしれない。

 かつて今東光氏は、私が東京のがんセンターに彼を見舞ったとき、こう教えてくれた。「所詮、性なんて、無だよ、無」と。……実は私もそう思い始めている。

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