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彡彡人ミミ 彡彡彡彡彡
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 6月 22日号
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★★★★★★★★★★HTML版★★★★★★★★★★★
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●ショッパーの広告
昨日、中日ショッパーのT氏からメールが入っていた。
「5月2x日号に、あきができましたから、無料で掲載してあげますよ」と。
中日ショッパーというのは、中日新聞社が母体の広告紙である。
このあたりでは、月に8回前後、発行されている。
地域の広告媒体としては、絶対的な影響力をもっている。
さっそくお願いする。
同時に、次回からモデルとして使っている孫の誠司の写真の変更をお願いする。
キャッチは、「BW幼児教室、ネットで無料体験」とした。
この数か月、もっとも力を入れているのが、「無料体験教室」。
毎日教室でビデオを撮影し、そのままYOUTUBEにアップロードしている。
家にいながら、BW教室の雰囲気をそのまま楽しめる(多分)。
子どもも、学習できる(多分)。
ぜひ、この機会に、体験教室に目を通してほしい。
「BW体験教室」へは、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
より。
ほかの幼児教材にはない、生(なま)のおもしろさがある(多分)。
ビデオを見ながら、あなたの子どもと笑ってもらえれば、うれしい。
(付記)
まだ正確にカウントしたわけではないが、BLOGやHPなどへの
アクセス数が、月間ですでに30万件を超えているのではないか。
おおざっぱな計算だが、そういう数字が出てきた。
昨年の2月に10万件を超えたばかりだから、これはものすごいことだと思う。
読者のみなさん、ありがとう!
私はみなさんに情報を提供する。
みなさんは、私に生きがいをくれる。
だから、ありがとう!
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【心の部屋論】(道徳完成論)
++++++++++++++++++
人間の心には、いくつかの部屋がある。
言うなれば、どこかの大学のようなもの。
事務室もあれば、講義室もある。
講義室にしても、大講堂もあれば、研究室もある。
研究室といっても、ひとつではない。
哲学を研究する研究室もあれば、化学を研究する
化学室もある。
もちろん教会もあれば、博物館もある。
サッカー場もあれば、パチンコ店もある。
それぞれが有機的につながりながら、独自の
活動をしている。
たとえば今、私は、私の心の中の心理学の
研究室にいる。
「脳みそ」を大学に例えるなら、その総合的な
機能を研究するのが、心理学の研究室である。
この研究室からは、大学全体を見渡せる。
近くには政治学部があり、その向こうには
美術学部がある。
こうした大学は、人によって大きさも、構成の
しかたも、みなちがう。
中には、コンピュータ研究室が特異に大きな
大学に住んでいる人もいるだろう。
あるいは音楽学部が特異に大きな大学に住んでいる
人もいるだろう。
私はそれぞれの学部や研究室で、ときに教授に
なりながら、またときに、学生になりながら、
そのときどきを過ごす。
が、こわいのは、つまり私たちがもっとも警戒
しなければならないのは、心の闇の部分に相当
する、地下室である。
外からは見えないが、そこには、ありとあらゆる
ゴミがたまっている。
ゴミといっても、邪悪なゴミだ。
ウソ、インチキ、ごまかし、嫉妬、怒り、不満、
ウラミ、などなど。
私たちは日常的にゴミを出しながら、それを
捨てた段階で、そのゴミのことを忘れる。
(……意図的に忘れる。)
しかしゴミは確実にたまり、やがて大学の運営
そのものに、影響を与えるようになる。
あのユングという学者は、それを「シャドウ」と
いう言葉を使って説明した。
大切なことは、ゴミを作るとしても、最小限に!
できればゴミを出さない。
日々に、明るく、朗らかに、かつさわやかに……、
ということになる。
さあ、今日も一日、始まった。
今朝はたっぷり熟睡して、今は、午前7時35分。
今の私は大学の学長だ。
まずいくつかの学部を訪れてみる。
とりあえずすぐ隣の心理学部では、「心の広さ」に
ついて研究しているようだ。
そこをのぞいてみる。
みなさん、おはようございます!
5月21日、木曜日!
+++++++++++++++++++++
●心の広さ
「心の広さ」を知るときは、反対に心の狭い人をみればよい。
俗にいう、「心に余裕のない人」である。
私はこのことを、母の介護をしているときに、知った。
同じ親の介護をしながら、明るく、ほがらかに、かつさわやかに
介護している人もいれば、反対に、暗く、つらそうに、かつ
グチばかり並べてしている人もいる。
「老人臭がする」
「町内会に出られなくなった」
「内職の仕事ができなくなった」
「コンロの火がつけっぱなしだった」
「廊下で、母が便をした」などなど。
このタイプの人のグチには、「では、どうればいいのか?」という部分がない。
ないまま、いつまでも同じグチを繰り返す。
ネチネチとグチを繰り返す。
私なら、……実際、そうしてきたが、老人臭が気になれば、換気扇をつければよい。
町内会など、出なければならないものではない。
みな、事情を話せば、わかってくれる。
内職の仕事にしても(やりくり)の問題。
老人が家にいるからといって、できなくなるということはない。
コンロの火が心配なら、自動消火装置つきのコンロにすればよい。
廊下で便など、子どもの便と思えばよい。
私の息子たちはみな、こたつの中で便をしていたぞ!
要は、心の広さの問題ということになる。
●道徳の完成度
心の広さを、お金(マネー)にたとえるのも、少し気が引ける。
しかし似ている。
たとえばふところに、10万円もあれば、どこのレストランへ行っても、安心して
料理を楽しむことができる。
が、それが1000円とか2000円だったりすると、とたんに不安になる。
では、心の広さのばあいは、どうか。
どうすれば、心の余裕を作ることができるか。
心を広くすることができるか。
ひとつのヒントとして、コールバーグが説いた「道徳の完成度」というのがある。
つまり、道徳の完成度は、(1)いかに公正であるか、(2)いかに自分を超えたもの
であるか、その2点で判断される、と。
(1)いかに公正であるか……相手が知人であるとか友人であるとか、あるいは自分が
その立場にいるとかいないとか、そういうことに関係なく、公正に判断して行動
できるかどうかで、その人の道徳的完成度は決まる。
(2)いかに自分を超えたものであるか……乳幼児が見せる原始的な自己中心性を原点と
するなら、いかにその人の視点が、地球的であり、宇宙的であるかによって、
その人の道徳的完成度は決まる。
心が広い人イコール、道徳の完成度の高い人ということにはならない。
しかし道徳の完成度の高い人イコール、心の広い人と考えてよいのでは?
異論、反論もあろうかと思うが、その分だけ、そのときどきの(縁)に翻弄(ほんろう)
されるというこが少なくなる。
心理学的には、自己管理能力の高い人ということになる。
大脳生理学的には、前頭連合野の活動が、すぐれている人ということになる。
そういうものが総合されて、その人の心の広さを決定する。
が、何よりも大切なことは、運命を受け入れて生きるということ。
●運命論
どんな人にも、まただれにも、無数の糸がからんでいる。
生い立ちの糸、家族の糸、社会の糸、能力の糸、人間関係の糸、健康の糸、
性質の糸、、性格の糸、環境の糸などなど……。
そういった糸が無数にからんできて、ときとして私やあなたは、自分の意図する
のとは別の方向に、足を踏み入れてしまうことがある。
いや、そのときはそれに気がつかない。
あとで振り返り、そのうしろの足跡を見て、それに気づく。
運命というのがあるとすれば、運命というのは、そういうもの。
その運命を心のどこかで感じ、そしてそれが抵抗しても意味のないものと
知ったら、運命は受け入れる。
すなおに受け入れる。
そのわかりやすさが、私やあなたの心を広くする。
私も母の介護をするようになって、はじめてその運命のもつ力というか、
ものすごさを知った。
ふつうの母と子の関係なら、それほど苦しまなかったかもしれない。
しかし私のばあい、そうではなかった。
だからこそ、苦しんだ。
が、母が、私の家にやってきたとき、それは一変した。
下痢で汚れた母の尻を拭いてやっているとき、それまでのわだかまりや、こだわりが、
ウソのように消えた。
そこに立っているのは、どこまでもか弱い、そしてどこまでもあわれな、1人の
老婆にすぎなかった。
体の大きさも、小学生ほどになっていた。
それを知った、その瞬間、私は運命を受け入れた。
そう、運命というのは、そういうもの。
それに逆らえば、運命は、キバをむいて、私やあなたに襲いかかってくる。
しかし一度それを受け入れてしまえば、運命は、シッポを巻いて、向こうから逃げていく。
●生きる醍醐味
「生きる醍醐味は何か?」と問われれば、この心の部屋論にたどりつく。
大豪邸に住み、ぜいたくな生活をするのが、醍醐味ということではない。
(もちろんそういう人の心は、狭いということではない。誤解のないように!)
しかしいくらボロ家に住んで、つつましやかな生活をしていても、
心の部屋まで狭くしてしまってはいけない。
こんな例が参考になるかどうかは、わからないが、最近も、こんなことがあった。
私たち夫婦は、今年、H社のハイブリッド・カーを購入するつもりでいた。
何度もショールームに足を運んだ。
T社のハイブリッド・カーも魅力的だった。
何でも燃費が、リッターあたり、38キロ!
驚異的な数字である。
迷ったが、地元の会社であるT車のハイブリッド・カーに決めた。……決めていた。
で、その時期をねらっていたら、三男が結婚して、車がほしいと言い出した。
給料はかなり安いらしい。
しかも電車を乗り継いで通勤できるようなところではないらしい。
そこで私たちは、ギブアップ。
そのお金を三男に回した。
今しばらく、T社のビッツに乗りつづけることにした。
T社の車の中では、最安値の車である。
が、ビッツに乗っていても、卑下感は、まったくない。
大型高級車を見たりすると、ホ~~ッとため息をつくことはあるが、そこまで。
けっして負け惜しみではない。
私たち夫婦は、いつもこう言っている。
「車はビッツでも、肉体はベンツ」と。
そういうこともあって、このところ毎日、2人で、10キロは歩くようにしている。
プラス、ワイフは、週2回のテニスクラブ。
私は週4~5単位のサイクリング。
(1単位=40分の運動量をいう。)
つまりこれが心の余裕ということになる。
さて、ここで究極の選択。
「肉体はビッツで車はベンツ、あるいは肉体はベンツで車はビッツ。
あなたはどちらを選ぶか?」
あるいは、
「豪華な生活をしながら心は4畳半、あるいは4畳半に住みながら、心は
大豪邸。あなたはどちらを選ぶか?」でもよい。
もっとも私のばあい、本音を言えば、大豪邸に住んで、心も大豪邸。
できれば超大型のベンツにも乗りたい。
そういう人も、知人の中には、いないわけではない。
まっ、がんばろう。
ここはがんばるしかない。
隣の心理学部を出て……。
その横には銭湯がある。
これから朝風呂を浴びてくる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
コールバーグ 道徳の完成度 道徳完成度 はやし浩司 道徳の完成度 完成論
はやし浩司 心の部屋論 運命論 無数の糸)
Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司
【子どもの道徳・道徳の完成度】
●地球温暖化
+++++++++++++
子どもたちほど、地球温暖化の
問題を真剣に考えているという
のは、興味深い。
他方、おとなほど、この問題に
関して言えば、無責任(?)。
「何とかなるさ」という言い方をする
おとな。「だれかが何とかしてくれ
る」とか、「私ひとりが、がんばって
も、どうしようもない」とか。
そんなふうに考えているおとなは、
多い。
+++++++++++++
道徳の完成度は、(1)いかに公正であるか、(2)いかに自分を超えたものであるか、
その2点で判断される(コールバーク)。
いかに公正であるか……相手が知人であるとか友人であるとか、あるいは自分がその立
場にいるとかいないとか、そういうことに関係なく、公正に判断して行動できるかどうか
で、その人の道徳的完成度は決まる。
いかに自分を超えたものであるか……乳幼児が見せる原始的な自己中心性を原点とする
なら、いかにその人の視点が、地球的であり、宇宙的であるかによって、その人の道徳的
完成度は決まる。
たとえばひとつの例で考えてみよう。
あなたはショッピングセンターで働いている。そのとき1人の男性が、万引きをしたと
する。男性は品物をカートではなく、自分のポケットに入れた。あなたはそれを目撃した。
そこであなたはその男性がレジを通さないで外へ出たのを見計らって、その男性に声を
かけた。が、あなたは驚いた。他人だと思っていたが、その男性は、あなたの叔父だった。
こういうケースのばあい、あなたなら、どう判断し、どう行動するだろうか。「叔父だか
ら、そのまま見過ごす」という意見もあるだろう。反対に、「いくら叔父でも、不正は不正
と判断して、事務所までいっしょに来てもらう」という意見もあるだろう。
つまりここであなたの公正さが、試される。「叔父だから、見過ごす」という人は、それ
だけ道徳の完成度が低い人ということになる。
またこんな例で考えてみよう。
今、地球温暖化が問題になっている。その地球温暖化の問題について、いろいろな考え
方がある。コールバークが考えた、「道徳的発達段階」を参考に、考え方をまとめてみた。
(第1段階)……自分だけが助かればばいいとか、自分に被害が及ばなければ、それでい
いと考える。被害が及んだときには、自分は、まっさきに逃げる。
(第2段階)……仕事とか、何か報酬を得られるときだけ、この問題を考える。またその
ときだけ、それらしい意見を発表したりする。
(第3段階)……他人の目を意識し、そういう問題にかかわっていることで、自分の立場
をつくったりする。自分に尊敬の念を集めようとする。
(第4段階)……みなでこの問題を考えることが重要と考え、この問題について、みなで
考えたり、行動しようとしたりする。
(第5段階)……みなの安全と幸福を最優先に考え、そのために犠牲的になって活動する
ことを、いとわない。日夜、そのための活動を繰りかえす。
(第6段階)……地球的規模、宇宙的規模で、この問題を考える。さらに、人類のみなら
ず生物全体のことを念頭において、この問題を考え、その考えに沿って、行動する。
この段階論は、子どもたちの意見を聞いていると、よくわかる。「ぼくには関係ない」と
逃げてしまう子どももいれば、とたん、深刻な顔つきになる子どももいる。さらに興味深
いことは、幼少の子どもほど、真剣にこの問題を考えるということ。
子どもも中学生や高校生になると、「何とかなる」「だれかが何とかしてくれる」という
意見が目立つようになる。つまり道徳の完成度というのは、年齢とかならずしも比例しな
いということ。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
子供の道徳 道徳の完成度 道徳 完成度 はやし浩司 道徳の完成度 コールバーク
道徳完成度 完成度段階説)
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●道徳の完成度(2)
+++++++++++++++++++
道徳の完成度は、(1)いかに公正であるか、
(2)いかに自分を超えたものであるか、
その2点で判断される(コールバーク)という。
いかに公正であるか……相手が知人である
とか友人であるとか、あるいは自分がその立場
にいるとかいないとか、そういうことに関係なく、
公正に判断して行動できるかどうかで、その人の
道徳的完成度は決まる。
いかに自分を超えたものであるか……乳幼児
が見せる原始的な自己中心性を原点とするなら、
いかにその人の視点が、地球的であり、宇宙的
であるかによって、その人の道徳的完成度は決
まる。
+++++++++++++++++++
この2日間、「道徳の完成度」について、考えてきた。「言うは易(やす)し」とは、よ
く言う。しかし実際に、どうすれば自己の道徳を完成させるかということになると、これ
はまったく別の問題と考えてよい。
たとえば公正性についても、そのつど心の中で揺れ動く。情に動かされる。相手によっ
て、白を黒と言ってみせたり、黒を白と言ってみせたりする。しかしそれでは、とても公
正性のある人間とは言えない。
またその視野の広さについても、ふと油断すると、身近なささいな問題で、思い悩んだ
り、自分を取り乱したりする。天下国家を論じながら、他方で、近隣の人たちとのトラブ
ルで、醜態をさらけだしたりする。
コールバークの道徳論を、もう一度、おさらいしてみよう。
(1)「時、場所、そして人のいかんにかかわらず、公正に適応されるという原則」
(2)「個人的な欲求や好みを超えて、個人の行為を支配する能力」(引用文献:「発達心理
学」ナツメ社)。
そこで重要なことは、日々の生活の中での心の鍛錬こそが重要、ということになる。常
に公正さを保ち、常に視野を広くもつということ。が、それがむずかしい。ときとして問
題は、向こうから飛びこんでくる。こんな話を聞いた。
よくある嫁―姑(しゅうとめ)戦争だが、嫁の武器は、子ども。「孫がかわいい」「孫に
会いたい」という姑の心を逆手にとって、その嫁は、姑を自分のよいように操っていた。
具体的には、姑のもつ財産をねらっていた。
いつしか姑が、息子夫婦の生活費を援助するようになっていた。嫁の夫(=姑の息子)
の給料だけでは、生活が苦しかった。質素に生活すれば、できなくはなかったが、嫁には、
それができなかった。嫁は、派手好きだった。
そのうち、姑は、孫(=嫁の息子、娘)の学費、教育費まで負担するようになった。し
かし土地などの財産はともかくも、現金となると、いつまでもつづくわけではない。そこ
で姑が、支出を断り始めた。「お金がつづかない」とこぼした。とたん、嫁は、姑と息子と
娘(=姑の孫)が会うのを禁止した。
息子(小4)と娘(小1)は、「おばあちゃんに会いたい」と言った。
嫁は、「会ってはだめ」「電話をしてもだめ」と、自分の子どもにきつく言った。
姑は「孫たちに会いたいから、連れてきてほしい」と、嫁に懇願した。
嫁は間接的ながら、「お金がなかったら、土地を売ってお金をつくってほしい」と迫った。
……という話を書くのが、ここでの目的ではない。こういう話は、あまりにも低レベル
というか、あさましい。できるなら、こういう話は聞きたくない。話題にしたくもない。
が、現実の世界では、こうした問題が、つぎからつぎへと起きてくる。いくら道徳的に高
邁(こうまい)でいようとしても、ふと気がつくと、こうした問題のウズの中に巻き込ま
れてしまう。
言いかえると、道徳の問題は、頭の中だけで論じても、意味はないということ。この私
だって、偉そうなことなら、いくらでも言える。それらしい顔をして、それらしい言葉を
口にしていれば、それでよい。それなりの道徳家に見える。
しかし実際には、中身はガタガタ。私はその嫁とはちがうと思いたいが、それほどちが
わない。そこで繰りかえすが、「日々の生活の中での心の鍛錬こそが重要」ということにな
る。
私たちは常に試される。この瞬間においても、またつぎの瞬間においても、だ。何か大
きな問題が起きれば、なおさら。そういうときこそ、日々の鍛錬が、試される。つまりそ
の人の道徳性は、そういう形で、昇華していくしかない。
(道徳性について、付記)
高邁な道徳性をもったからといって、どうなのか……という問題が残る。たとえばこん
な例で考えてみよう。最近、実際、あった事例である。
あなたは所轄官庁の担当部長である。今度、遠縁にあたる親類の1人が、介護施設を開
設した。あなたは自分の地位を利用して、その親類に、多額の補助金を交付した。その額、
数億円以上。
そのあなたが、ある日、その親類から、高級車の提供をもちかけられた。別荘の提供も
もちかけられた。飲食して帰ろうとすると、みやげを渡された。みやげの中には、現金数
百万円が入っていた。
(お気づきの人もいるかと思うが、これは実際にあった事件である。)
こういうケースのばあい、あなたならどう判断し、どう行動するだろうか?
「私はそういう不正なことは、しません」と、それを断るだろうか。その勇気はあるだ
ろうか。また断ったところで、何か得るものは、あるだろうか。
私はそういう場に立たされたことがないので、ここでは何とも言えない。しかし私なら、
かなり迷うと思う。今の私なら、なおさらそうだ。いまだに道路にサイフが落ちているの
を見かけただけで、迷う。
不運にも(?)、この事件は発覚し、マスコミなどによって報道されるところとなった。
しかしこうした事例は、小さなものまで含めると、その世界では、日常茶飯事。それこ
そ、どこでも起きている。
つまり道徳性の高さで得られるものは、何かということ。それがこの世界では、たいへ
んわかりにくくなっている。へたをすれば、「正直者がバカをみる」ということにもなりか
ねない。
ところで、少し前、中央教育審議会は、道徳の教科化を見送ることにしたという。当然
である。
道徳などというものは、(上)から教えて、教えられるものではない。だいたい道徳を教
える、長の長ですら、あの程度の人物。公平性、ゼロ、普遍性、ゼロ。どうしてそんな人
物が、道徳を口にすることができるのか。
「学習指導要領の見直しを進めている中央教育審議会は、18日、道徳の授業を教科と
しない方針を固めた。政府の教育再生会議は、規範意識の向上を目的に、第二次報告で道
徳を『徳育』としたうえで、教科化するよう求めていた。もともと中教審の内部では、教
科化に慎重な意見も強かったが、安倍首相の辞任後、『教育再生』路線との距離の置き方も、
明確になった格好だ」(中日新聞)とある。
わかりやすく言えば、安倍総理大臣が辞任したこともあり、安倍総理大臣が看板にして
いた徳育教育(?)が、腰砕けしたということ。
閣僚による数々の不祥事。加えて、安倍総理自身も、3億円の脱税問題がもちあがって
きている。「何が、道徳か!」、ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
道徳 道徳教育 徳育 徳育教育 教育再生会議 中央教育審議会)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●美人論
++++++++++++++++++
食事をしながら、ワイフとこんな会話をした。
ワイフが突然、「クレオパトラも、楊貴妃も、
それほど美人じゃあ、なかったってエ」と。
ついでに「小野小町も、紫式部も……」と。
現代人の美的感覚によれば、そうかも
しれない。
たとえばあのオカメさんが、いる。
「オカメ、ヒョットコ」のオカメさんである。
あのオカメさんは、昔は美人の代名詞だった。
今風に言いかえると、「美女と野獣」という
関係になる。
私「昔はね、しもぶくれの顔が美人顔だった。
巻物などに描かれている女性たちも、
みなそうなっている。
オカメさんもそうだ。
しかし今は、あごが細く、とがっている女性ほど
美人ということになっている」
ワ「フ~~ン」
私「昔は昔で、そういう女性を、男たちは
追い求めたんだろうね」
ワ「……?」と。
あと1000年もすると、あごがさらに細くなり、
額が大きく、頭のふくらんだ女性が美人顔と
いうことになるかもしれない。
目の大きさも、今よりも、数倍は大きくなる。
それをワイフに話すと、「気味が悪いワ。
それって、宇宙人顔じゃ、ない?」と。
そう宇宙人顔。
やがて人類は、そういう顔になる。
またそういう顔を基準にして、女は男を見、男は女を見る。
そうなれば、今、私たちがもっている美人像という
のは、どこかへ吹き飛んでしまう。
そして同じように、こう言う。
「吉永小百合も、小雪も、それほど美人じゃなかった
てエ」と。
そしてあとは、今と同じ会話を繰り返す。
+++++++++++++++++++++
●あのK国が……
あのK国が言うにこと欠いて、今度はこんなことを言い出した。
「(開城工業団地の)道路を傷つけたら、罰金1万ドル」と。
まあ、よくもこういうアホなことを、つぎからつぎへと言うものだ。
道路どころか、建物、インフラ(電気、ガス、下水道)すべてを韓国に作らせて
おきながら、それを傷つけたら、「罰金、1万ドル」とは!
(1万ドルという罰金も、法外! 日本円に価値換算すると、1億円!)
中央N報によれば、「賃上げなどに応じない企業をねらいうちにするための措置」とか。
記事の一部を紹介する。
『……中央日N報が入手した計44条項にのぼる細則の草案は、「民族経済、道路運輸に向
けたもの」としている。しかし「道路の建設・管理・利用における制度・秩序を厳しく決
める」と明記し、目的が統制・制裁にあることを暗示している。また、大半の条項が、韓
国側が守るべき義務とそれを違反した場合に科する罰金に関する内容だ。
したがってK国が各種の規制で韓国側に圧力を加えると同時に同団地への統制権を強化
し、韓国側がこれを拒んだ場合、団地の存廃に触れる狙いだと懸念する声があがっている。
細則の草案は「乱れている車、環境を汚染する車、道路に損傷を与えうる車」の運行を禁
止し、「車両の運行に支障をもたらす行動」を禁止するとした。
K国にとって都合のいい解釈が可能な部分だ。最高1万ドル(約96万円)にのぼる罰金
条項も新設した。入居企業にも、道路建設への投資を拡大し、管理委員会に道路使用料を
納めるよう求め、企業の負担が増えるものとみられる。自転車道と芝・街路樹などを備え
た「最上級」の道路の建設も求めた……』
『…… ある入居企業の関係者は「草案通りならK国側が突然一斉取締りを行い、統制に乗
り出すことができるということだが、賃上げなどを受け入れない企業をターゲットにした
取締りで圧力を加えることができる」と懸念した』
(09年5月21日)と。
つぎからつぎへと、無理難題をふっかけてくるK国。
でたらめばかり言ってくるK国。
韓国側が見るに見かねて、助けているのにもかかわらず、この調子。
『……自転車道と芝・街路樹などを備えた「最上級」の道路の建設も求めた』という
部分も、笑えてくる。
そんなに「最上級の道路」とやらがほしければ、自分たちで建設したらよい。
が、これは何も韓国とK国の間の問題ではない。
やがて日本も、巨額の戦後補償費をK国に支払わねばならないときがやってくる。
そのとき同じような問題が、起きてくる。
約束など、あってないようなもの。
条約や取り決めですら、平気で反故(ほご)にする。
そしてやさしくしてやると、どこまでもつけあがる。
それがK国の本質と考えてよい。
まあ、いろいろ言いたいことはあるが、ここまで。
何からなにまで、あの国は、常識をはずれている。
Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司
●雑感
●消えた手続き記憶
FLASHというのが、ある。
HPなどの上で、勝手に画像をパッパッと切り替え、まるでビデオの
ように見える、あれである。
私のHPの最上段でもそれを利用している。
で、そのFLASH使うようになって、もう3年近くになる。
買った当時、あれこれと悪戦苦闘したものの、なんとか、使いこなせるまでになった。
いろいろなFLASHを、自分で制作した。
HPのFLASHも、自分で制作した。
(「制作した」と言えるような大げさなものではないが……。)
で、昨日の夜、再度挑戦してみた。
3年ぶりである。
ところが、である。
「こんなのはビデオの編集と同じ」と思って始めてみたが、それが???の連続。
どうもうまくいかない。
「どうしてだろ?」と思いつつ、30分ほどが過ぎたところで、ギブアップ。
ちょうど床に就く時刻だったので、ガイドブックを片手に、ふとんの中へ。
それを読みながら、軽い敗北感のようなものを味わった。
「記憶というのは、そういうものか?」と。
幸いなことにガイドブックをながめていたら、おぼろげながら使い方を思い出した。
もともと不親切なガイドブックである。
できの悪いガイドブックである。
そのことも思い出した。
「今度の日曜日に、再挑戦してみよう」ということで、そのまま眠った。
これから先、こういうことが多くなる……?
新しいことを覚えても、一方で、どんどんと忘れていく。
そんなわけで、脳みそというのは、常に鍛える。
それを怠ったとたん、あとは後退の一途。
私の年齢では、とくにそうである。
Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司
●さわやかな風
+++++++++++++++++++++++
5月のさわやかな雨上がりの朝、ガーデン・パークに
来てみた。
(ガーデン・パーク……浜名湖の北にある、無料公園。)
ライトブルーの空を背景に、若葉の輝く景色が美しい。
それをぼんやりと眺めていると、やさしい風が
汗ばんだ頬や顔を、静かに冷やしてくれる。
もし「天国」と呼ばれる世界があるなら、きっと、
こんな世界をいうにちがいない。
「極楽」でもよい。
そう、ここはまさに天国だ。
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●休息
デジタルカメラで、花の写真を撮る。
そういうときの私は、無我夢中。
「きれい!」と思ったつぎの瞬間には、シャッターを切る。
パシャ、パシャ、パシャ……と。
こう書くと、花を楽しむ時間がないのではと心配する人もいるかもしれない。
が、心配ご無用!
たった今も軽い食事を終えて、屋根のある小さなベンチに座って、この
文章を書いている。
木々の小枝が、音もなく、たがいにせわしく、こすりあっている。
遠くで子どもの声もする。
鳥のさえずり。
もう30分以上も、こんなことをしている。
言い忘れたが、たった今、お茶を飲んだところ。
●雑念
こういうときというのは、無数の雑念が、つぎからつぎへとわいては消える。
思いつくまま、書き留めてみる。
……たった今、目の前を通り過ぎた、4人組の女性たち。
いつものように、ペチャペチャと、おしゃべり。
女性がグループをつくると、どうしてこうまでおしゃべりになるのだろう。
……チチ、ピピピッと小鳥の声。
コジュウカラか、コガラか?
……大手を振って歩く男。
太りすぎもよくないが、足が、鳥のガラのようでも困る。
先ほど通り過ぎた男の足は、鳥のガラみたいだった。
今、通り過ぎた男は、太りすぎ。
ダイナミックな歩き方からみると、体力にはかなり自信があるらしい。
年齢は、40歳くらいか。
……ワイフが鏡をのぞいて、なにやら気にしている。
あの年齢になっても、女な女かな?
……我が家の庭も、庭園風にしようか。
それとも一面、すべて畑にしようか。
頭の中で、設計図をいろいろと考える。
そんなことを考えていたら、背中の力が抜け始めた。
脳みそは、うたた寝モード。
目を開いているだけでも、つらい。
それに気づいたのか、今、ワイフがこう言った。
「そこで横になったら?」と。
(このあとワイフのひざ枕で、30分ほど、昼寝。)
Hiroshi Hayashi++++++++May・09++++++++++はやし浩司
「生きること」を考える
●観念論vs実存論
おおざっぱに言えば、世の中には、2つの大きな考え方がある。
ひとつは、(1)「私は親に産んでもらった」「先祖があるから、私がいる」
という考え方。
もうひとつは、(2)「私が生まれたら、親がいた」「生まれてみたら先祖がいた」と
いう考え方。
前者は、観念論ということになるし、後者は、実存論ということになる。
おもしろいことに、私の母は、根っからの観念論者だったが、父は、どちらかというと、
実存論者だった。
母は熱心な信者だったが、私は父が仏壇に手を合わせたり、墓参りをしたのを
見たことがない。
天皇を、「天皇」と呼び捨てにしただけで、殴られたことはあるが、それ以外に
信仰らしい信仰はしていなかった。……ようだ。
で、この両者のばあい、とくに大きくちがってくるのが、神や仏の捕らえ方。
神や仏に対する考え方で、2つのうちどちらをとるかで、生き様は決定的に分かれる。
前者は、「神によって、私たちは作られた」と考える。
後者は、「人間が神を作った」と考える。
(実際には、仏教でいう仏というのは、心の中に存在する善なる概念をいう。
キリスト教でいう神のような存在を、仏教では認めない。)
こうしたちがいは、「死」についての考え方に、大きな影響を与える。
前者は、「死んでも魂(霊)は残り、現世と何らかの関係を保つ」と考える。
後者は、「死んだら、自分の肉体、精神とともに、この宇宙すべてが消えてなくなる」と
考える。
「この宇宙すべてが消えてなくなる」というのは、それを認識する「私」という母体が
消滅するのだから、少なくとも私は認識でない。
たとえて言うなら、熟睡しているときの自分を思い出せばよい。
熟睡しているときに、宇宙を認識することなど、できるだろうか。
夢で宇宙らしいものを見ることはあるが、死ねば、その夢も見ない。
だから「消えてなくなる」ということになる。
では、どちらが正しいのか。
●生まれる前
そのヒントとなるのが、生まれる前。
「私」が生まれる前は、どうであったかということ。
死んだあとは、生まれる前と同じ状態と考えるのは、それほどまちがっていない。
もし死んだあと、あの世に行って、この世のことがわかるとするなら、
生まれる前にだって、この世のことがわかるはず。
たとえば私は戦後の生まれだから、あの戦争を知らない。
母の話によれば、岐阜市が大空襲にあったとき、空は真っ赤に燃えあがり、みな
家財道具を乳母車に積み、あちこちを逃げ回ったという。
母は、そのとき死を覚悟したという。
しかしもちろん、私にはその記憶はない。
どこかにその記憶あれば、私は生まれる前から、どこかに存在したということになる。
何しろ、強烈な印象である。
私が生まれる前から、私は存在していたとするなら、そうした記憶の片鱗くらい、
記憶の中に残っていても、おかしくない。
が、何も残っていないということは、やはり生前の私は、この世界に存在しなかった
ことになるのでは……?
さらに言えば、地球の歴史は60億年ともいうが、その60億年の記憶すらない。
その実感となると、これまた、まったく、ない。
私が生まれる前には、この宇宙は存在したのか?
が、もちろんこの宇宙は存在した。
ビッグバンの時代から、この宇宙は存在した。
となると、「私」という個体は死んでも、この宇宙は存在することになる。
「私」は消えても、この宇宙は存在することになる。
そのことは、周囲で死んでいく人たちをみればわかる。
その人は死んで、跡形もなく消えるが、この宇宙はそのまま。
現に今、そのまま残っている。
ということは、「私が死んだら、私もろとも、この宇宙は消えてなくなる」という
考え方は、合理性を失う。
しかし、だ。
が、ここで、また新しい考え方が登場した。
●大宇宙は、無数にある
S・ホーキング博士という、天才的頭脳をもった科学者が現れた。
その科学者が、こんなことを言った。
実は、私が今住んでいるような宇宙というのは、これまた無数にあって、しかも
ここにも、そこにも、あそこにもあるという。
ぎっしりと、この宇宙の中に詰まっているという。
この世に宇宙は、けっしてひとつではないという。
今、私たちがこの宇宙に住んでいるのは、偶然にそのまま偶然にすぎない。
生まれてみたら、たまたまこの宇宙に生まれていた。
「たまたま」だ。
簡単に言えば、そういうことになる。
そこであたりを見回してみる。
ホーキング博士は、私たちが住んでいるような宇宙は、無数にあるという。
が、ホーキング博士が説くような宇宙を、私は見ることができない。
ここにも、そこにも、あそこにも、広大な宇宙があるというが、それを見ること
ができない。
感ずることさえできない。
たまたま今、夜空を見あげれば、そこにあるのは、この大宇宙。
私たちが今、住んでいる、この大宇宙。
大宇宙だけ。
そこに無数の星が見えるのは、たまたま私が、この大宇宙に生まれたからにほかならない。
たしかにその大宇宙だけは、見ることができる。
しかしその「私」が、もし、どこか別の大宇宙に生まれていたとしたら、どうなのか?
私は今、ここに住んでいる大宇宙を、見ることはできるのか。
こちらから向こうの大宇宙は見ることができない。
だから向こうの大宇宙に生物がいたとしても、こちらを見ることはできない。
そちらの大宇宙に生まれていたら、今のこの大宇宙を、存在しないものとして考えるに
ちがいない。
話が混乱してきたが、私たちが今、「ここに存在する」と断言してはばからない、この
大宇宙にしても、存在していないということになってしまう。
存在しているか、存在していないかということになれば、そういうことになる。
たまたまこの宇宙の中で、生を受けた。
だからたまたまこの宇宙を、認識できる。
仮に、100歩譲って、死んだあとあの世で生まれ変わるとしても、その「あの世」
という宇宙は、「この世」という宇宙とは、似ても似つかない世界と考えるのが
正しい。
しかもどの宇宙で生まれ変わるか、それすらもわからない。
何しろ、そうした宇宙が、ここにも、そこにも、あそこにも、無数にある。
数をあげろと言われたら、「無限大」ということになる。
生まれ変わって、再びこの世にやってくる確率となると、かぎりなくゼロに近い。
1等1億円の宝くじを、数億回つづけて当てる確率より、さらに低い(?)。
しかしこれも(生まれ変わり)があるとするならの話。
もしそれすらもないとしたら、……?
●生まれていない孫から見ると……
反対に、こんなふうに考えてみたら、どうだろうか。
最近、私の三男が結婚した。
まだ新婚ホヤホヤというのに、もう子どもができるのを楽しみにしている。
私にとっては、孫ということになる。
もちろん孫は、まだ存在していない。
三男の嫁の胎内にも、存在していない。
その孫は、今、どこにいるのか。
やがて生まれてくるであろう、その孫は、どこにいるのか。
もし死後の世界があるとするなら、当然、生まれる前の世界もあるはず。
どこかに孫がいて、この世に生まれるのを、その世界で待っていることになる。
この大宇宙の中で、か?
それとも別の大宇宙の中で、か?
で、その孫にしてみれば、こちらから見えないのと同じように、向こうからも、
こちらの世界が見えないはず。
今、この世界に存在していないとするなら、孫から見れば、この世界は存在して
いないことになる。
仮に生まれ変わりがあるとしても、死んだら、この世は存在しなくなる。
ちょうど孫から見たら、今のこの宇宙が存在しないように、この世は存在しなくなる。
まだ生まれていない孫と同じ状態になるとしたら、そういうことになる。
(自分でも何を書いているか、よくわからない……ゴメン!
要するに、今、私たちが、「ある」と主張する、この宇宙にしても、ホーキング博士
が説く宇宙のひとつにすぎない。
つまりほかの無数の宇宙と同じように、この宇宙も、たいへん不可思議な世界だという
こと。
私たちは、光と分子の織りなす世界で、「これが宇宙」と思い込まされているだけ。
さらにたとえて言うなら、パソコンのゲームの世界に入り込んでいるだけ。
そんなふうにも考えられる。)
●孤独の始まり
やはり死んだら、「私」はこの宇宙もろとも、この消滅する。
わかりやすく言えば、母親の胎内に宿ったときを原点とするなら、
その原点よりも、前の世界と同じ世界に戻る。
暗闇すら認識できない、(無)の世界に戻る。
もちろんそこには(時間)もない。
ちょうど私やあなたが、数10億年という気が遠くなるような地球の時間を、
今の今、まったく感じないように、死んだあとは、やはり仮に数10億年たった
としても、それを一瞬にすら感じないだろう。
しかしそう考えることは、同時にこの世との絶縁を意味する。
そこにいるあなたの家族や肉親との、永遠以上の永遠の別れを意味する。
あなたはすべてのものを失う。
財産も地位も名誉も、そして光も音も思い出も……。
それは想像を絶するほど過酷な世界である。
「孤独」という言葉では、ひょっと言い表せないほど、孤独な世界である。
この孤独とどう闘うか。
結局は、実存主義を唱える人たちの問題は、ここに集約される。
そう、私のように、神や仏の存在を信じられない人間は、自由と引き換えに、
孤独の世界に叩き落とされる。
●孤独論
逃げるか、闘うか?
あるいは深く考えないで、適当につきあうか?
孤独というのは、つきつめれば、そういう問題である。
「逃げる」ためのもっとも有効な方法は、「あの世」を信ずること。
思い込みでも何でもよい。
それで気が楽なるなら、それでよい。
どうせ死んだら、(だまされた)ということすら、わからない。
(もし「死んでもあの世など、なかった。オレはだまされた」と言って怒ってくる
人(=幽霊)がいたとしたら、それこそパラドックス。
幽霊になれたということは、あの世があるという証拠。
あの世がなかったら、「だまされた」ということすら、わからない。)
だったら、どうするか?
私のばあい、「あの世はない」という前提で生きている。
「死んだら、私もろとも、この大宇宙もろとも消えてなくなる」という前提で
生きている。
何度も書くが、それは宝くじのようなもの。
あるかないか、わからない世界をあてにして、この世の生活をだらしないもの
にはしたくない。
当たるか当たらないかわからないような宝くじをアテにして、車を買ったり、
旅行をしたりする人はいない。
車を買ったり、旅行をするのは、宝くじが当たってからでよい。
同じように、死んでみて、あの世があれば、もうけもの。
そのときは、そのとき。
あの世はあの世で、楽しく生きればよい。
●祖父の話
私の祖父には、無二の親友がいた。
祖父はいつもそう言っていた。
その親友と祖父は、生前、固い約束をかわした。
どちらか一方が先に死んだら、あの世があるかどうか、それを相手に知らせるという
約束だった。
で、親友のほうが、先に死んだ。
が、親友は、祖父のもとには、現れなかった。
そのことを説明しながら、祖父は、あるとき私にこう教えてくれた。
「浩司、あの世なんて、ないよ。
もしあれば、あいつが真っ先に教えてくれたはず。
あいつは、オレを裏切るはずがないから」と。
その話を聞いて、私は子どもながら、「そういうものだろうな」と思った。
●現実主義
こう書くからといって誤解しないでほしいのは、だからといって、この世に
生きるのはつまらないとか、無意味とか言っているのではない。
私が書きたいのは、むしろ、その逆。
この宇宙が奇跡であるとするなら、その宇宙で生きている私たちは、さらに奇跡。
生きていること自体が、奇跡。
だったら、その軌跡を大切にしたらよい。
もっとわかりやすく言えば、「たった一度しかない人生なら、思う存分、生きてみよう」
と。
私が言う「現実主義」は、ここから生まれる。
そしてその現実主義は何のためにあるかといえば、名誉や地位のためではない。
もちろんお金のためでもない。
真理探究のためにある。
人間の能力では、(私の能力と言い換えてもよいが)、この先、1万年生きても、
(真理)のふもとにもたどりつけないかもしれない。
しかしそれでもその山に向って歩きつづける。
それが真理探究ということになる。
●完全燃焼
ということで、「生きていること自体が奇跡」(アインシュタイン)というなら、
思う存分、その(生きていること)を、満喫しようではないか。
一瞬だって、一秒だって、無駄にできる時間はない。
燃やして、燃やして、燃やし尽くす。
一縷(いちる)の悔いさえも残さないように、燃やし尽くす。
もし正しい生き方があるとするなら、そういう生き方をいう。
その結果として、その私やあなたがどうなるか、またどういう結末を
迎えることになるか、それはわからない。
しかしそのときは、そのとき。
そのときがくれば、わかる。
今は今として、できることを精一杯する。
やるべきことを、精一杯する。
「たとえ明日、世界が終焉を迎えることになっても」(ゲオルギウ)だ。
それが「生きる」ことの意味だと、私は考える。
Hiroshi Hayashi++++++++May・09++++++++++はやし浩司
●K国情勢
+++++++++++++++++++++
38度線のすぐ北側に、韓国側が出資して作られた
工業団地がある。
その規模、数千億円とも言われている。
開城(ケソン)工業団地である。
その工業団地に、約4万人弱(09年5月)の
K国の労働者たちが働いている。
この工業団地を通して、かなりの現金が、
K国側に渡っている。
その額、毎年、30~40億円。
経済規模の小さいK国にとっては、かなり
まとまった現金ということになる。
K国国内では、ゆいいつの工業団地と
言ってもよい。
その工業団地の存続が、危ぶまれている。
++++++++++++++++++++
●「出て行ってもいい」
要するにK国側の言い分は、「給料をあげろ」ということ。
これに対して韓国側は、「現在の給料で、精一杯。
給料をあげたら、開城に工場をもつ意味がない」と反論。
そこでK国側は、「(文句があるなら)、出て行ってもいい」と。
私はこの「(文句があるなら)、出て行っていい」という言葉を聞いたとき、即座に
ある知人のことを思い出した。
同じセリフを、その知人が口にしたからである。
その知人が、ある宗教団体に入信したときのこと。
知人の妻は、すぐにはそれに応じなかった。
そのときその知人は、妻にこう言ったという。
「入信するか、しないか。入信しなければ、この家を出て行ってもいい」と。
しかしこれほど乱暴な言葉はない。
妻には職がなく、収入もなかった。
そういう妻に向かって、「出て行ってもいい」は、ない。
で、その妻は、その後しばらくして、同じ宗教に入信した。
知人は、その話を半ば自慢げに話していた。
「オレは、妻よりも、この信心を選んだ」と。
●契約を破棄
開城工業団地は、冒頭に書いたように、韓国側が、そのほとんどを出資して作られた。
インフラ、つまり道路に始まって、電気、ガス、水道、すべて、韓国側が負担した。
K国側にあって、北側の労働者が働いているかもしれないが、韓国の工場団地と考えて
よい。
その工業団地について、K国側は、契約の破棄を一方的に通告してきた。
「賃金をあげろ」「無料で貸していた土地は、有料にする」と。
韓国側は、いつもの瀬戸際戦術とらえている。
イチかパチか、ダメでダメもと、と。
しかしそれに対して、韓国国内で、撤退論がもちあがってきた。
「開城工業団地からの撤退も、やむなし」と。
もし撤退ということになれば、韓国側は、投資分など、丸々損をすることになる。
4万人弱と言われているK国の労働者たちも、職を失うことになる。
「暴動が起きる可能性もある」(某・韓国紙)という。
では、どうなるか?
●日本の本音
アメリカや日本は、現在、K国に経済制裁を加えている。
しかし中国、それに韓国は、それを骨抜きにしている。
とくに中国。
アメリカや日本が手を引いた以上の分の、貿易量をふやしている。
で、韓国だが、脅されても、脅されても、K国の言いなり。
今回も抑留された韓国側社員について、手も足も出せない。
そういう状況のとき、「出て行ってもいい」と。
アメリカにしても、日本にしても、本音を言えば、開城工業団地については、
不快に思ってきた。
K国はそこで得た現金収入をもとに、ミサイルや核兵器の開発をつづけてきた。
しかしK国に遠慮して、(あるいはときの韓国の大統領に遠慮して)、
それを言えなかった。
が、K国側から「出て行ってもいい」というのなら、出て行けばよい。
今すぐ、出て行けばよい。
●K国は困らない
……こう書くと、K国側も困るのだから、最終的には、K国側が折れて出てくるはず
という意見もあるかもしれない。
しかしK国側は、困らない。
理由の第一。
K国側のねらいは、開城工業団地の(乗っ取り)にある。
韓国側の指導者たちが出て行けば、あとは自分たちで好き勝手なことができる。
原材料は、中国から調達すればよい。
完成品は中国へ輸出すればよい。
あるいはそういう話しあいが、すでに中国側とすんでいるのかもしれない。
ともに小ズルさにかけては、世界では1、2を争う国である。
●韓国の弱み
韓国側にも、強く出られない弱みがある。
もともと開城工業団地は、K国を援助するためというよりは、そこをショールームに
して、K国を解放させようという目的で開かれた。
進んだ韓国の工業技術を見せつければ、K国もそれに驚き、門戸を開くだろう、と。
門戸を開かないまでも、人心を動揺させることはできる。
うまくいけば、なし崩し的にK国を、韓国に吸収合併できる。
その隠された意図を見抜かれた今、韓国としても、開城工業団地を存続させる意味がない。
開城工業団地は、韓国側の撤退で、閉鎖される可能性が大きくなってきた。
開城工業団地を取り仕切っている(現代社)の大株主ですら、閉鎖やむなしを公言
するようになった(5月19日)。
●末期
それにしても、K国の言い分は、何かにつけて、常識をはずれている。
韓国側の意図はともかくも、自ら、ひがみ、いじけ、墓穴を掘っていく。
世界中が見るに見かねて、助けの手をのばしているのに、自らそれを拒絶していく。
理由は、明白。
自分たちの悪政を、世界に知られないため。
自分たちの悪政を、自分たちの国民に悟られないため。
だから世界に向かっては、K国内部を隠し、国内に向かっては、世界を隠す。
もちろん独裁制維持のため。
しかしこんな矛盾が、いつまでもつづくはずがない。
人間というのは、緊張感に対して、それほどタフにはできていない。
崩壊するときは、一気に崩壊する。
……ということで、K国はまさに末期的症状。
崩壊寸前の状態で、瀬戸際戦術を繰り返している。
もう、どうしようもない。
開城閉鎖がそのきっかけとなる可能性は、じゅうぶんある。
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2009年6月22日月曜日
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