2009年6月23日火曜日

*Short Essays (1)

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(124)

●気負いは子育てを疲れさせる

 「いい親子関係をつくらねばならない」「いい家庭をつくらねばならない」と、不幸にして不幸な家庭に育った人ほど、その気負いが強い。しかしその気負いが強ければ強いほど、親も疲れるが子どもも疲れる。そのため結局は、子育てで失敗しやすい……。

 子育ては本能ではなく、学習によってできるようになる。

たとえば一般論として、人工飼育された動物は、自分では子育てができない。「子育ての情報」、つまり「親像」が、脳にインプットされていないからである。人間とて例外ではない。「親に育てられた」という経験があってはじめて、自分も親になったとき子育てができる。こんな例がある。

一人の父親がこんな相談をしてきた。娘を抱いても、どの程度、どのように抱けばよいのか、それがわからない、と。その人は「抱きグセがつくのでは……」と心配していたが、彼は、彼の父親を戦争でなくし、母親の手だけで育てられていた。つまりその人は父親というものがどういうものなのか、それがわかっていなかった。しかし問題はこのことではない。

 だれしも、と言うより、愛情豊かな家庭で、何不自由なく育った人のほうが少ない。そんなわけで多かれ少なかれ、だれしも、何らかのキズをもっている。問題は、そういうキズがあることではなく、そのキズに気づかないまま、それに振りまわされることである。よく知られた例としては、子どもを虐待する親がいる。

このタイプの親というのは、その親自身も子どものころ、親に虐待されたという経験をもつことが多い。いや、かく言う私も団塊の世代で、貧困と混乱の中で幼児期を過ごしている。親たちも食べていくだけで精一杯。いつもどこかで家庭的な温もりに飢えていた。そのためか今でも、「家庭」への思いは人一倍強い。

が、悲しいことに、頭の中で想像するだけで、温かい家庭というのがどういうものか、本当のところはわかっていない。だから自分の息子たちを育てながらも、いつもどこかでとまどっていた。たとえば子どもたちに何かをしてやるたびに、よく心のどこかで、「しすぎたのではないか」と後悔したり、「してやった」と恩着せがましく思ったりするなど、どこかチグハグなところがあった。

 ただ人間のばあいは、たとえ不幸な家庭で育ったとしても、近くの人たちの子育てを見たり、あるいは本や映画の中で擬似体験をすることで、自分の中に親像をつくることができる。だから不幸な家庭に育ったからといって、必ずしも不幸になるというわけではない。そこで大切なことは、たとえあなたの過去が不幸なものであったとしても、それはそれとしてあなたの代で切り離し、つぎの世代にそれを伝えてはいけないということ。その努力だけは忘れてはならない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(125)

●学歴信仰

 「学歴信仰はもうない」という人もいる。が、身分による差別意識はまだ根強く残っている。どこにどう残っているかは、実はあなた自身が一番よく知っている。日本人は肩書きや地位のある人にはペコペコする反面、そうでない人は、ぞんざいにあつかう。

またこの日本、公的な保護を受ける人は徹底的に受け、そうでない人は受けない。そういう不公平を親たちは毎日肌で感じている。だから親はこう言う。「何だかんだといっても、結局は学歴ですよ」と。

 が、学歴で生きる人は、結局はその学歴で苦しむことになる。Y氏(45歳)がそうだ。Y氏はことあるごとに、S高校の出身であることを自慢していた。会話の中に、それとなく出身校を織り込むというのが、彼の言い方だった。「今度、S高校の同窓会がありまして」とか、「S高校の仲間とゴルフをしましてね」とか。が、S氏の息子がいよいよ高校受験ということになった。が、息子にはそれだけの「力」がなかった。だから毎晩のように、S氏と息子は、「勉強しろ!」「うるさい!」の大乱闘を繰り返していた。

 一方アメリカでは、入学後の学部変更は自由。大学の転籍すら自由。勉強したい学生は、より高度な勉強を求めて、大学間を自由に転籍している。しかもそれが今、国際間でもなされ始めている。彼らにしてみれば、最終的にどこで学位を認められるかは重要なことだが、そんなわけで「出身校」には、ほとんどこだわっていない。

大学教育のグローバル化の中で、やがて日本もそういう方向に向かうのだろうが(向かわざるをえないが)、少なくともこれからは学歴や、地位、それに肩書きをぶらさげて生きるような時代ではない。それに親が受験競争に狂奔すればするほど、子どもの心はあなたから離れる。

たとえば子どもが受験期を迎えるまでは、日本のばあい、親子関係がほかの国とくらべても、とくに悪いということはない。しかし子どもが受験期を迎えると、親子関係は急速に悪化する。なぜそうなのかというところに、日本の子育ての問題点が隠されている。一度あなたも、自分の心にメスを入れてみてはどうだろうか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(126)

●溺愛ママ

 親が子どもに感ずる愛には、3種類ある。本能的な愛、代償的な愛、それに真の愛である。本能的な愛というのは、若い男性が女性の裸を見たときに感ずるような愛をいう。たとえば母親は赤ん坊の泣き声を聞くと、いたたまれないほどのいとおしさを感ずる。それが本能的な愛で、その愛があるからこそ親は子どもを育てる。もしその愛がなければ、人類はとっくの昔に滅亡していたことになる。

つぎに代償的な愛というのは、自分の心のすき間を埋めるために子どもを愛することをいう。一方的な思い込みで、相手を追いかけまわすような、ストーカー的な愛を思い浮かべればよい。相手のことは考えない、もともとは身勝手な愛。子どもの受験競争に狂奔する親も、同じように考えてよい。「子どものため」と言いながら、結局は親のエゴを子どもに押しつけているだけ。

三つ目に真の愛というのは、子どもを子どもとしてではなく、一人の人格をもった人間と意識したとき感ずる愛をいう。その愛の深さは子どもをどこまで許し、そして忘れるかで決まる。英語では『Forgive & Forget(許して忘れる)』という。つまりどんなに子どものできが悪くても、また子どもに問題があっても、自分のこととして受け入れてしまう。その度量の広さこそが、まさに真の愛ということになる。

それはさておき、このうち本能的な愛や代償的な愛に溺れた状態を、溺愛という。たいていは親側に情緒的な未熟性や精神的な問題があって、そこへ夫への満たされない愛、家庭不和、騒動、家庭への不満、あるいは子どもの事故や病気などが引き金となって、親は子どもを溺愛するようになる。

 溺愛児は親の愛だけはたっぷりと受けているため、過保護児に似た症状を示す。(1)幼児性の持続(年齢に比して幼い感じがする)、(2)人格形成の遅れ(「この子はこういう子だ」というつかみどころがはっきりしない)、(3)服従的になりやすい(依存心が強いわりに、わがままで自分勝手)、(4)退行的な生活態度(約束や目標が守れず、生活習慣がだらしなくなる)など。全体にちょうどひざに抱かれておとなしくしているペットのような感じがするので、私は「ペット児」(失礼!)と呼んでいる。柔和で、やさしい表情をしているが、生活力やたくましさに欠ける。

 溺愛ママは、それを親の深い愛と誤解しやすい。中には溺愛していることを誇る人もいる。が、溺愛は愛ではない。このテストで高得点だった人は、まずそのことをはっきりと自分で確認すること。そしてつぎに、その上で、子どもに生きがいを求めない。子育てを生きがいにしない。子どもに手間、ヒマ、時間をかけないの3原則を守り、子育てから離れる。 





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(127)

まじめ7割、いいかげんさ3割

 子育ては『まじめ7割、いいかげんさ3割』と覚えておく。これはハンドルの「遊び」のようなもの。この遊びがあるから、車も運転できる。子育ても同じ。

たとえば参観授業のようなとき、親の鋭い視線を感じて、授業がやりにくく思うことがある。ときにはその視線が、ビンビンとこちらの体をつらぬくときさえある。そういう親の子どもは、たいていハキがなく、暗く沈んでいる。ふつう神経質な子育てが日常的につづくと、子どもの心は内閉する。萎縮することもある。(あるいは反対に静かな落ち着きが消え、粗放化する子どももいる。このタイプの子どもは、神経質な子育てをやり返した子どもと考えるとわかりやすい。)

 子育ての3悪に、スパルタ主義、極端主義、それに完ぺき主義がある。スパルタ主義というのは、きびしい鍛練を主とする教育法をいう。また極端主義というのは、やることなすことが極端で、しかも徹底していることをいう。おけいこでも何でも、「させる」と決めたら、毎日、そればかりをさせるなど。要するに子育ては自然に任すのが一番。

人間は過去数10万年もの間、こうして生きてきた。子育てのし方にしても、ここ100年や200年くらいの間に、「変わった」と思うほうがおかしい。心のどこかで「不自然さ」を感じたら、その子育ては疑ってみる。

 完ぺき主義もそうだ。このタイプの親は、あらかじめ設計図を用意し、その設計図に無理やり子どもをあてはめようとする。こまごまとした指示を、神経質なほどまでに子どもに守らせるなど。このタイプの親にかぎって、よく「私は子どもを愛している」と言うが、本当のところは、自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。自分の欲望を満足させるために、子どもを利用しているだけ。

 子どもが学校に入り、大きくなったら、家庭の役割も、「しつけの場」から、「いやしの場」へと変化しなければならない。子どもは家庭という場で、疲れた心をいやす。そのためにも、あまりこまごまとしたことは言わないこと。

アメリカの劇作家のソローも、『ビロードのクッションの上に座るよりも、気がねせず、カボチャの頭のほうがよい』と書いている。こまごまとしたことが気になるなら、このソローの言葉の意味を考えてみてほしい。

 また子どもに何か問題が起きたりすると、「先生が悪い」「友だちに原因がある」と騒ぐ人がいる。しかしもし子どもが家庭で心をいやすことができたら、そのうちのほとんどは、そのまま解決するはずである。そのためにも「いいかげんさ」を大切にする。「歯を磨かなければ、虫歯になるわよ」と言いながらも、虫歯になったら、歯医者へ行けばよい。痛い思いをしてはじめて、子どもは歯をみがくようになる。「宿題をしなさい」と言いながらも、宿題をしないで学校へ行けば、先生に叱られる。叱られれば、そのつぎからは宿題をするようになる。そういういいかげんさが、子どもを自立させる。たくましくする。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(128)

●自己中心ママ

自己中心性の強い母親は、「私が正しい」と信ずるあまり、何でも子どものことを決めてしまう。もともとはわがままな性格のもち主で、自分の思いどおりにならないと気がすまない。

 このタイプの母親は、思い込みであるにせよ何であるにせよ、自分の考えを一方的に子どもに押しつけようとする。本屋へ行っても、子どもに「好きな本を買ってあげる」と言っておきながら、子どもが何か本をもってくると、「それはダメ、こちらの本にしなさい」と、勝手にかえたりする。子どもの意見はもちろんのこと、他人の話にも耳を傾けない。
 
 こうした自己中心的な子育てが日常化すると、子どもから「考える力」そのものが消える。依存心が強くなり、善悪のバランス感覚が消える。「バランス感覚」というのは、善悪の判断を静かにして、その判断に従って行動する感覚のことをいう。そのため言動がどこか常識ハズレになりやすい。たとえばコンセントに粘土を詰めて遊んでいた子ども(小1男児)や、友だちの誕生日のプレゼントに、虫の死骸を箱に入れて送った子ども(小3男児)がいた。さらに「核兵器か何かで世界の人口が半分になればいい」と言った男子高校生や、「私は結婚して、早く未亡人になって黒いドレスを着てみたい」と言った女子高校生がいた。

 ところで母親にも、大きく分けて2種類ある。ひとつは、子育てをしながらも、外の世界に向かってどんどんと積極的に伸びていく母親。もう1つは自分の世界の中だけで、さらにものの考え方を先鋭化する母親である。

外の世界に向かって伸びていくのはよいことだが、反対に自分のカラを厚くするのは、たいへん危険なことでもある。こうした現象を「カプセル化」と呼ぶ人もいる。一度こうなると、いろいろな弊害があらわれてくる。

たとえば同じ過保護でも、異常な過保護になったり、あるいは同じ過干渉でも、異常な過干渉になったりする。当然、子どもにも大きな影響が出てくる。50歳をすぎた男性だが、80歳の母親の指示がないと、自分の寝起きすらできない人がいる。その母親はことあるごとに、「生まれつきそうだ」と言っているが、そういう男性にしたのは、その母親自身にほかならない。

 子育てでこわいのが、悪循環。子どもに何か問題が起きると、親はその問題を解決しようと何かをする。しかしそれが悪循環となって、子どもはますます悪い方向に進む。とくに子どもの心がからむ問題はそうで、「以前のほうが症状が軽かった」ということを繰り返しながら、症状はさらに悪くなる。

 自己中心的なママは、この悪循環におちいりやすいので注意する。

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