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彡彡人ミミ 彡彡彡彡彡
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 09年 6月 1日号
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6月1日……1207号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●家族を迎える
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三男が、嫁さん(「嫁さん」という言い方には、どうも抵抗を感ずるが……)、
その嫁さんを連れて、今、帰郷している。
明るい性格のさっぱりした女性だが、どこかで無理をしていないか、少し心配。
私が嫁さんの立場なら、半日で、激しい片頭痛に襲われるだろう。
どうか気を遣わないで、我が家では気楽に過ごしてほしい。
言いかえると、私たちも気を遣わない。
ありのまま。
言いたいことを言い、したいことをしている。
それが最善の迎え方(?)。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++
●家の女?
私たちはともかくも、相手の親は、さぞかしさみしい思いをしていることと思う。
ワイフから聞いた話しでは、嫁さんの実姉も、結婚が決まったとか。
つまり2人つづけて、結婚する。
今どき「家を出る」とか、「嫁ぐ」とか、そういう言い方をするのは好きではない。
同じように「嫁さん」という言い方にも、どこか抵抗を覚える。
「嫁」とは、「家の女」という意味。
私は、そういう発想そのものに、生理的な抵抗感を覚える。
どうして1人の人間が、「家の女」?
ほかに呼び方はないのだろうか。
二男の妻?
二男の奥さん?
二男の連れ添い?
二男のワイフ?
どれもどこかに封建主義的な臭いを感ずる。
「~~の」という言い方そのものが、おかしい。
嫁さんは、「モノ」ではない。
で、あえて言えば、(英語式に)「二男のワイフ」がいちばん私は好きだが、
しかしそういう言い方をする人は、この日本では少ない。
●今は静観
二男が結婚し、今度、三男が結婚した。
私にとっては、2人目ということで、どこかサバサバしている。
「サバサバ」というのは、どこか事務的?
だからといって、「どうでもいい」ということではない。
これは子どもの入学と似ている。
最初の子どものときは、あれこれと気を使うものだが、2人目となると、心に余裕が
できる。
その余裕が、サバサバした感じを作る。
つまり大切なのは、「結婚」というその(時点)ではなく、この先のプロセス。
わかりやすく言えば、結婚するのは簡単。
「好きだ」「好きよ」で、結婚できる。
しかしこれから先が、たいへん。
その(たいへんさ)を知っているから、その心配の方が先に来てしまう。
「何とか、うまくやってほしい」と願うだけ。
つまり親が介入できることは、そこまで。
あとは本人たちの問題。
もちろん何か問題が起きれば、私もワイフも、身を投げ打ってでも助ける。
(少しおおげさかな?)
しかし今は静観するしかない。
「ま、どうぞ、ご勝手に」と。
●さみしさ
こうして息子たちは、巣だっていく。
「いつかは……」と覚悟はしていたが、これほどまでにさみしいものとは思っていな
かった。
息子たちが去っていくのが、さみしいのではない。
いや、それもあるが、私自身が、用なしになっていくのが、さみしい。
この先、私たちを待っているのは、老後。
ちょうどベンチの席をつぎの人に明け渡すように、私たちは席を譲らねばならない。
この地球に住める人間の数にも限界がある。
やがて三男夫婦も、子どもをもうけるだろう。
そのとき私たちがこの世界にのさばっていたら、子どもたち、つまり孫たちの座る
席がなくなってしまう。
私たちのほうが先に腰をあげ、「さあ、どうぞ!」と言ってあげねばならない。
が、その先、私たちの座る場所がない。
それがツンとしたさみしさとなって、心を包む。
●気楽に
三男夫婦を見ながら、「では、私たちができることは何だろう」と、しばしば考える。
第一にしてあげられることは、私の家を、「羽を休める場所として提供する」こと。
この先、いろいろなことがあるだろう。
そのとき三男夫婦も、疲れ、ときには羽を休めたくなるだろう。
そういうときは、我が家へ帰ってきて羽を休めればよい。
しかし……。
我が家は、それにふさわしい家なのだろうか。
三男夫婦は、私の家にやってきて、羽を休めることができるのだろうか。
実のところ、自信がない。
三男夫婦は、ある種の義務感を覚えて、私の家に帰郷した。
何もない家だから、楽しいはずはない。
私もワイフも、あまり楽しい人間ではない。
ま、オーストラリア流でいけば、何もしないことこそ、よいのかもしれない。
三男夫婦が、したいことができるようにしてやる。
何も考えず、ただひたすら気楽に!
●まねごと
ひとつだけ三男夫婦を見ていて学んだことがある。
仲のよいカップルを見ていると、こちらまで照れくさくなる。
三男は、嫁さんにラブラブ。
嫁さんも、三男を、好きで好きでたまらないといったふう。
並んで座っていても、たがいに体が自然に傾いていく。
いつの間にか、寄り添っている。
そういう姿を見ていると、私の方まで気が若くなる。
思わずワイフの手を握ったりする。
「お前ら、若いものに負けてたまるか!」という競争心からかもしれない。
あるいは「私たちも私たちなりに、人生を楽しもう」という思いがあるからかも
しれない。
どうであるにせよ、何もラブラブは、若い人たちだけの特権ではない。
私たちは私たち。
ハハハ。
どうせ勝ち目のない戦いだが、せめてまねごとだけはしてみたい。
ハハハ。
●だいじょうぶかな?
しかしおかしなもので、三男は三男。
幼いころのあの三男。
「あいつが、本当に結婚するのだろうか」と、いまだに信じられない。
そんな思いが残っているから、どこか不安。
どこか心配。
で、そのつど三男の心を確かめるのだが、私の若いころより、ずっとしっかりしている。
それをやはりそのつど確かめながら、自分を納得させる。
「だいじょうぶかな?」「これならだいじょうぶ」と。
そんな会話を、心の中でザワザワと繰り返す。
●親は脇役
しかしそれは私たちの気持ち。
相手の両親は、もっとさみしい思いをしているはず。
それを思うと、なんとかしなければと思う。
なにかよい方法はないものか……。
しかしその一方で、私たち夫婦にしても、できることはほとんどない。
結婚は、あくまでも当事者の問題。
三男夫婦の考えに従うしかない。
三男夫婦が、「こうしてくれ」と言えば、それに従う。
「ああしてくれ」と言えば、それに従う。
これは私たち夫婦もそうだったが、夫婦の絆のほうが、親子の絆より、はるかに
太く、しっかりとしたものになる。
親というのは、いつも脇役でしかない。
また脇役で甘んじるしかない。
繰り返しになるが、私たちは(去りゆく者)。
●プロセス
結婚は、プロセス。
これから先、ゆっくりと時間をかけて、少しずつ、人間関係を作っていけばよい。
ワーワー騒いで、急速に接近したところで、それほど意味はない。
嫁さんにしても、少しずつ時間をかけて、人間関係を作ればよい。
1年とか、2年とか……。
その時点、時点で、静かに過去を振り返りながら、地盤を固めていく。
その結果として、10年後がやってくる。
20年後がやってくる。
そのときは、私たち夫婦も、ボケてしまって、何もわからなくなるかもしれないが、
そのときはそのとき。
私たちの時代は終わった。
生まれてくる孫にしても、それほど長く、顔を見ることはできないだろう。
せいぜい、孫が、中学生か高校生になるころまで。
いや、そのころまで生きていられれば、御の字。
この先、この世界を生きていくのは、三男たち。
三男の家族たち。
今の私たち夫婦を見れば、それがわかる。
今では、家族と言っても、私とワイフだけ。
●結婚式
ふつう息子が結婚したというと、何かの達成感があるものではないかと思っていた。
しかしそんな達成感など、どこにもない。
「子どもを育て上げた」という充実感もない。
先にも書いたように、結婚は、プロセス。
どこかの標識を過ぎたからといって、それで旅が終わるわけではない。
簡単に言えば、結婚式をすませたからといって、それで終わるわけではない。
……しかし、三男夫婦は、結婚式をどう考えているのだろう。
いろいろと考えているようだが、イマイチ、「?」。
まあ、そのうち何かの連絡があるだろう。
私の方から、あれこれと言うのは、私のやり方ではない。
三男が責任をもって、自分たちのしたいようにすればよい。
私たち夫婦は、それに従うだけ。
やりたければやればよい。
やりたくなければ、やらなくてもよい。
私は前から、「相手の両親の意向だけを大切にしろ」と、三男には教えてきた。
私たちのほうは、どうでもよい。
だいたい、偉そうなことは、言えない。
私たち夫婦は、お金がなくて、結婚式すら、していない。
10万円の貯金がやっとできたときで、今のワイフに、「このお金で結婚式をするか、
それとも香港へいっしょに旅行するか」と聞いたときのこと。
ワイフは「香港へ行きたい」と。
それで2人で、香港へ行った。
それでおしまい。
そんな私がどうして三男に、「立派な結婚式をしろ」と言うことができるのか。
●金食い虫
どうであるにせよ、この先、三男夫婦が、幸福な家庭を築くことこそ、大切。
形ではない、中身。
中身だけを考えて、一歩、一歩、前に進めばよい。
結果はあとからついてくる。
あせらなくても、ついてくる。
最後まで見届けることは、私たち夫婦には、もうできない。
そうそう、三男について心配なこと。
昔から私は、「口臭男」と呼んでいた。
歯を磨かない。
そのためいつも口臭がしていた。
それを指摘すると、いつも三男は怒った。
口臭だけは、自分で気がつかない。
(そう言えば、おとといも、歯垢の臭いがプンとしたぞ!)
それに金遣いが荒い。
私とワイフは、内々では、三男を、「あの金食い虫」と呼んでいた。
交際費、つまり友人のためなら、惜しみなく(多分?)、金を」使う。
だから嫁さんには、こう言った。
「給料は、あなたがしっかりと管理するんですよ」と。
そうすれば三男も、少しは、おとなしくなるだろう。
●負けないぞ!
浜松には3泊して、明日、千葉へ帰るという。
また長い空白期間が生まれる。
しかしそんなことは気にしない。
私は私で、明日からまた私の生活を始める。
映画も見るぞ!
運動もするぞ!
仕事もするぞ!
原稿も書くぞ!
講演もするぞ!
だれにも遠慮しない。
ジジ臭い生き方など、まっぴらごめん。
一応70歳まで働くと心に決めているが、そこで仕事をやめるわけではない。
余力があれば、80歳までだって、現役で仕事をしてやる!
……そのとき、三男は47歳。
嫁さんは、45歳。
そのころ、三男夫婦は、幸福になっていればよい。
それを見届けられたら、御の字。
あとに思い残すことは、何もない。
そんなわけで、幸福宣言!
お前も幸福になれ!
私たちも、負けずに幸福になる!
負けないぞ!
……とまあ、力んでみたところで、今日はここまで。
ま、いつでも、戻っておいで、
待っているよ。
(2009年5月6日)
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●日本に希望はあるのか?(Can we share hopes in Japan?)
(超管理社会)
++++++++++++++++++++
資格と規則で、がんじがらめ。
何をするにも、許可だの認可だのが必要。
地方の小さな町で、観光ガイドをするにも必要。
祭りにさえ、自由に出られない。
服装から持ち物まで決められ、許可証まで必要。
こんな国で生きていこうと思ったら、
小さく、狭い世界で、閉じこもるしかない。
ここまで書いて、以前、こんなことを
書いたことがある。
++++++++++++++++++++
●日本は超管理型社会
最近の中学生たちは、尾崎豊をもうすでに知らない。そこで私はこの歌を説明したあと、中学
生たちに「夢」を語ってもらった。私が「君たちの夢は何か」と聞くと、まず一人の中学生(中
2女子)がこう言った。「ない」と。
「おとなになってからしたいことはないのか」と聞くと、「それもない」と。「どうして?」と聞
くと、「どうせ実現しないから」と。もう1人の中学生(中2男子)は、「それよりもお金がほし
い」と言った。そこで私が、「では、今ここに1億円があったとする。それが君のお金になった
らどうする?」と聞くと、こう言った。
「毎日、机の上に置いてながめている」と。ほかに5人の中学生がいたが、皆、ほぼ同じ意見だ
った。今の子どもたちは、自分の将来について、明るい展望をもてなくなっているとみてよい。
このことは内閣府の「青少年の生活と意識に関する基本調査」(2001年)でもわかる。
15~17歳の若者でみたとき、「日本の将来の見とおしが、よくなっている」と答えたのが、
41・8%、「悪くなっている」と答えたのが、46・6%だそうだ。
●超の上に「超」がつく管理社会
日本の社会は、アメリカと比べても、超の上に「超」がつく超管理社会。アメリカのリトルロ
ック(アーカンソー州の州都)という町の近くでタクシーに乗ったときのこと(01年4月)。
タクシーにはメーターはついていなかった。料金は乗る前に、運転手と話しあって決める。しか
も運転してくれたのは、いつも運転手をしている女性の夫だった。「今日は妻は、ほかの予約で
来られないから……」と。
社会は管理されればされるほど、それを管理する側にとっては便利な世界かもしれないが、一
方ですき間をつぶす。そのすき間がなくなった分だけ、息苦しい社会になる。息苦しいだけなら
まだしも、社会から生きる活力そのものを奪う。尾崎豊の「卒業」は、そういう超管理社会に対
する、若者の抗議の歌と考えてよい。
(参考)
●新聞の投書より
ただ一般世間の人の、生徒の服装に対する目には、まだまだきびしいものがある。中日新聞が、
「生徒の服装の乱れ」についてどう思うかという投書コーナーをもうけたところ、一一人の人か
らいろいろな投書が寄せられていた(2001年8月静岡県版)。それをまとめると、次のよう
であった。
女子学生の服装の乱れに猛反発 ……8人
やや理解を示しつつも大反発 ……3人
こうした女子高校生に理解を示した人 ……0人
投書の内容は次のようなものであった。
☆「短いスカート、何か対処法を」……学校の校則はどうなっている? きびしく取り締まって
ほしい。(65歳主婦)
☆「学校の現状に歯がゆい」……人に迷惑をかけなければ何をしてもよいのか。誠意と愛情をも
って、周囲の者が注意すべき。(40歳女性)
☆「同じ立場でもあきれる」……恥ずかしくないかっこうをしなさい。あきれるばかり。(16
歳女子高校生)
☆「過激なミニは、健康面でも問題」……思春期の女性に、ふさわしくない。(61歳女性)
●学校教育法の改正
校内暴力に関して、学校教育法が2001年、次のように改定された(第26条)。
次のような性行不良行為が繰り返しあり、他の児童の教育に妨げがあると認められるときは、
その児童に出席停止を命ずることができる。
一、 他の児童に傷害、心身の苦痛または財産上の損失を与える行為。
二、 職員に傷害または心身の苦痛を与える行為。
三、 施設または設備を損壊する行為。
四、 授業その他の教育活動の実施を妨げる行為、と。
文部科学省による学校管理は、ますますきびしくなりつつある。
++++++++++++++++++
新聞社への投書の中で、16歳の少女が、「同じ立場でもあきれる。恥ずかしくないかっこう
をしなさい。あきれるばかり」と書いている点が、気になる。が、私に言わせれば、こういう優
等生のほうに、あきれる。「恥ずかしくないかっこうって何か」と。「まただれに対して、恥ずか
しくあってはいけないのか」と。
顔のある子どもは、その顔を大切にすればよい。幸せな子どもだ。しかし顔のない子どもは、
どうやって生きていけばよいのか。
あえて告白しよう。最近、……といっても、この5、6年のことだが、私はあのホームレスの
人たちを見ると、言いようのない親近感を覚える。ときどき話しかけて、冗談を言いあうことも
ある。そのホームレスの人たちというのは、その少女の感覚からすれば、「恥ずかしい部類の人
間」ということになる。
しかしどうしてそういう人たちが、恥ずかしいのか。多分、その投書を書いた少女は、そうい
うホームレスの人たちを見ると、あきれるのだろう。もしそうなら、どうして、その少女は、あ
きれるのか。私には、よく理解できない。
そう、私は、子どもたちを教えながらも、その優等生が、嫌い。ぞっとするほど、大嫌い。以
前、こんな原稿も書いたことがある。それを掲載しておく。少し話が脱線するが、許してほしい。
+++++++++++++++++++
【世間体】
●世間体で生きる人たち
世間体を、おかしいほど、気にする人たちがいる。何かにつけて、「世間が……」「世間が……」
という。
子どもの成長過程でも、ある時期、子どもは、家族という束縛、さらには社会という束縛から
離れて、自立を求めるようになる。これを「個人化」という。
世間体を気にする人は、何らかの理由で、その個人化の遅れた人とみてよい。あるいは個人化
そのものを、確立することができなかった人とみてよい。
心理学の世界にも、「コア(核)・アイデンティティ」という言葉がある。わかりやすく言えば、
自分らしさ(アイデンティティ)の核(コア)をいう。このコア・アイデンティティをいかに確
立するかも、子育ての場では、大きなテーマである。
個人化イコール、コア・アイデンティティの確立とみてよい。
その世間体を気にする人は、常に、自分が他人にどう見られているか、どう思われているかを
気にする。あるいはどうすれば、他人によい人に見られるか、よい人に思われるかを気にする。
子どもで言えば、仮面をかぶる。あるいは俗にいう、『ぶりっ子』と呼ばれる子どもが、この
タイプの子どもである。他人の視線を気にしたとたん、別人のように行動し始める。
少し前、ある中学生とこんな議論をしたことがある。私が、「道路を歩いていたら、サイフが
落ちているのがわかった。あなたはどうするか?」という質問をしたときのこと。その中学生は、
臆面もなく、こう言った。
「交番へ届けます!」と。
そこですかさず、私は、その中学生にこう言った。
「君は、そういうふうに言えば、先生がほめるとでも思ったのか」「先生が喜ぶとでも思った
のか」と。
そしてつづいて、こう叱った。「サイフを拾ったら、うれしいと思わないのか。そのサイフを
ほしいと思わないのか」と。
するとその中学生は、またこう言った。「そんなことをすれば、サイフを落した人が困ります」
と。
私「では聞くが、君は、サイフを落して、困ったことがあるのか?」
中学生「ないです」
私「落したこともない君が、どうしてサイフを落して困っている人の気持ちがわかるのか」
中「じゃあ、先生は、そのサイフをどうしろと言うのですか?」
私「ぼくは、そういうふうに、自分を偽って、きれいごとを言うのが、嫌いだ。ほしかったら、
ほしいと言えばよい。サイフを、もらってしまうなら、『もらうよ』と言えばよい。その上で、
そのサイフをどうすればいいかを、考えればいい。議論も、そこから始まる」と。
(仮に、その子どもが、「ぼく、もらっちゃうよ」とでも言ってくれれば、そこから議論が始
まるということ。「それはいけないよ」とか。私は、それを言った。決して、「もらってしまえ」
と言っているのではない。誤解のないように!)
こうして子どもは、人は、自分を偽ることを覚える。そしてそれがどこかで、他人の目を気に
した生きザマをつくる。言うまでもなく、他人の目を気にすればするほど、個人化が遅れる。「私
は私」という生き方が、できなくなる。
いろいろな母親がいた。
「うちは本家です。ですから息子には、それなりの大学へ入ってもらわねば、なりません」
「近所の人に、『うちの娘は、国立大学へ入ります』と言ってしまった。だからうちの娘には、
国立大学へ入ってもらわねば困ります」ほか。
しかしこれは子どもの問題というより、私たち自身の問題である。
●他人の視線
だれもいない、山の中で、ゴミを拾って歩いてみよう。私も、ときどきそうしている。
大きな袋と、カニばさみをもって歩く。そしてゴミ(空き缶や、農薬の入っていたビニール袋
など)を拾って、袋に入れる。
そのとき、遠くから、一台の車がやってきたとする。地元の農家の人が運転する、軽トラック
だ。
そのときのこと。私の心の中で、複雑な心理的変化が起きるのがわかる。
「私は、いいことをしている。ゴミを拾っている私を見て、農家の人は、私に対して、いい印
象をもつにちがいない」と、瞬間だが、まず、そう考える。
しかしそのあとすぐに、「何も、私は、そのために、ゴミを拾っているのではない。かえって
わざとらしく思われるのもいやだ」とか、「せっかく、純粋なボランティア精神で、ゴミを集め
ているのに、何だかじゃまされるみたいでいやだ」とか、これまた瞬間だが、思いなおす。
そして最後に、「だれの目も気にしないで、私は私がすべきことをすればいい」というふうに
考えて、自分を納得させる。
こうした現象は、日常的に経験する。こんなこともあった。
Nさん(40歳、母親)は、自分の息子(小5)を、虐待していた。そのことを私は、その周
囲の人たちから聞いて、知っていた。
が、ある日のこと。Nさんの息子が、足を骨折して入院した。原因は、どうやら母親の虐待ら
しい。……ということで、病院へ見舞いに行ってみると、ベッドの横に、その母親が座っていた。
私は、しばらくNさんと話をしたが、Nさんは、始終、柔和な笑みを欠かさなかった。それば
かりか、時折、体を起こして座っている息子の背中を、わざとらしく撫でてみせたり、骨折して
いない別の足のほうを、マッサージしてみせたりしていた。
代理ミュンヒハウゼン症候群によるものとまでは断言できないが、それに近かった。
息子のほうは、それをとくに喜ぶといったふうでもなく、無視したように、無表情のままだっ
た。
Nさんは、明らかに、私の視線を気にして、そうしていたようである。
……というような例は、多い。このNさんのような話は別にして、だれしも、ある程度は、他
人の視線を気にする。気にするのはしかたないことかもしれない。気にしながら、自分であって
自分でない行動を、する。
それが悪いというのではない。他人の視線を感じながら、自分の行動を律するということは、
よくある。が、程度というものがある。つまりその程度を超えて、私を見失ってしまってはいけ
ない。
私も、少し前まで、家の近くのゴミ集めをするとき、いつもどこかで他人の目を気にしていた
ように思う。しかし今は、できるだけだれもいない日を選んで、ゴミ集めをするようにしている。
他人の視線が、わずらわしいからだ。
たとえばゴミ集めをしていて、だれかが通りかかったりすると、わざと、それをやめてしまう。
他人の視線が、やはり、わずらわしいからだ。
……と考えてみると、私自身も、結構、他人の視線を気にしている、つまり、世間体を気にし
ている人間ということがわかる。
●世間体を気にする人たち
世間体を気にする人には、一定の特徴がある。
その中でも、第一の特徴といえば、相対的な幸福観、相対的な価値観である。
このタイプの人は、「となりの人より、いい生活をしているから、自分は幸福」「となりの人よ
り悪い生活をしているから、自分は不幸」というような考え方をする。
そのため、他人の幸福をことさらねたんでみたり、反対に、他人の不幸を、ことさら喜んでみ
せたりする。
20年ほど前だが、こんなことがあった。
Gさん(女性、母親)が、私のところにやってきて、こう言った。「Xさんは、かわいそうで
すね。本当にかわいそうですね。いえね、あのXさんの息子さん(中2)が、今度、万引きをし
て、補導されてしまったようですよ。私、Xさんが、かわいそうでなりません」と。
Gさんは、一見、Xさんに同情しながら、その実、何も、同情などしていない。同情したフリ
をしながら、Xさんの息子が万引きしたのを、みなに、言いふらしていた!
GさんとXさんは、ライバル関係にあった。が、Gさんは、別れぎわ、私にこう言った。
「先生、この話は、どうか、内緒にしておいてくださいよ。Xさんが、かわいそうですから。
Gさんは、ひとり息子に、すべてをかけているような人ですから……」と。
●作られる世間体
こうした世間体は、いつごろ、どういう形で作られるのか? それを教えてくれた事件にこう
いうことがあった。
ある日のこと。教え子だった、S君(高校3年生)が、私の家に遊びにきて、こう言った。(今
まで、この話を何度か書いたことがある。そのときは、アルファベットで、「M大学」「H大学」
と、伏せ字にしたが、今回は、あえて実名を書く。)
S君は、しばらくすると、私にこう聞いた。
「先生、明治大学と、法政大学、どっちがかっこいいですかね?」と。
私「かっこいいって?」
S「どっちの大学の名前のほうが、かっこいいですかね?」
私「有名……ということか?」
S「そう。結婚式の披露宴でのこともありますからね」と。
まだ恋人もいないような高校生が、結婚式での見てくれを気にしていた!
私「あのね、そういうふうにして、大学を選ぶのはよくないよ」
S「どうしてですか?」
私「かっこいいとか、よくないとか、そういう問題ではない」
S「でもね、披露宴で、『明治大学を卒業した』というのと、『法政大学を卒業した』というのは、
ちがうような気がします。先生なら、どちらが、バリューがあると思いますか」
私「……」と。
このS君だけではないが、私は、結論として、こうした生きザマは、親から受ける影響が大き
いのではないかと思う。
親、とくに母親が、世間体を気にした生きザマをもっていると、その子どもも、やはり世間体
を気にした生きザマを求めるようになる。(あるいはその反動から、かえって世間体を否定する
ようになるかもしれないが……。)
生きザマというのは、そういうもので、無意識のまま、親から子へと、代々と引き継がれる。
S君の母親は、まさに世間体だけで生きているような人だった。
++++++++++++++++++++
これからますます、「顔」が問題になってくる。それともほとんどの人たちは、老齢になると
ともに、その顔を、放棄してしまうのか。これから先、私自身がどう変化していくか、それを静
かに観察してみたい。
(はやし浩司 個人化 アイデンティティ コアアイデンティティ コア・アイデンティティ
顔 顔のない子供 ペルソナ 仮面 はやし浩司 代理ミュンヒハウゼン 超管理社会
はやし浩司 タクシー 白タク)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●5月6日
+++++++++++++++++++++
この数日間、軽い虚脱感に襲われている。
日々の生活が、それほど変化したというわけではない。
何か大きな問題があるというわけでもない。
しかしどこか虚しい。
けだるい。
「これでいいのか?」という思い。
「こんなことをしていていいのか?」という思い。
それがよどんだ池に浮かぶ、メタンガスのように、
ポカン、ポカンと、水面に浮かびあがってくる。
5月に入ってから、そんなわけで原稿をあまり
書いていない。
本来なら、今ごろは、6月5日号の電子マガジンの編集を
していなければならない。
(マガジンは、いつも1か月先の分を、配信予約をしている。)
しかしまだ6月号には、手をつけていない。
(そんなわけで、この原稿は、6月1日号用
ということになる。)
マガジンの読者がふえなくなって、もう数か月になる。
私のワイフですら、このところ、私のマガジンを
あまり読んでいない。
BLOGのほうの原稿も書いているが、こちらも、
原稿をアプロードしなくなったとたん、ガクンと
読者数が減る。
ここ数日は、合計でも1日あたり、1000件程度。
アクセス数が低迷している。
(それ以前は、多いときは、合計で、5000件~。)
アクセス数がふえるのはうれしい。
が、毎日、何かに追い立てられているような感じ。
気が抜けない。
それが少し、負担になってきた?
……というより、少し疲れを覚えるようになってきた。
なぜだろう……?、と考えながら、こうした
心の状況を記録しておくことは、将来の自分の
ためにも、また同じような状態にある人たちの
ためにも役に立つのではないか。
こうした虚脱感は、多かれ少なかれ、だれしも、
そのつど日常的に経験するもの。
けっして私だけに起きていることではない。
++++++++++++++++++++++
●原因
原因のひとつとして、手を広げ過ぎた?
あれこれやりすぎた?
2月に入ってから、「BW公開教室」を手がけるようになった。
毎日、教室の様子をビデオの収め、それをYOU・TUBEにUPLOADする。
教室での作業は、ビデオカメラのスイッチを入れたり切ったりするだけ。
編集にも、それほど時間はかからない。
YOU・TUBEにUPLOADするときに、時間がかかるが、ただぼんやりと
待っているわけではない。
ほかのパソコンを使って、別の作業をする。
だから時間的ロスは、それほどないはず。
どうしてだろう?
あるいは仕事が忙しくなりすぎた?
昨年度より、量的には、1・x~x倍になった。
しかしこれとて、若いときの量にくらべたら、何でもない。
その分だけ、体力と気力が低下した?
こういう世相だから、仕事があるだけでも、御の字。
こういう年齢だから、仕事ができるだけも、御の字。
健康で仕事ができるだけでも、御の字。
家族がいるだけでも、御の字。
が、何よりも大きな理由は、このところ目標がはっきりしないからではないか。
「何のために」という部分がない。
さらに言えば、「だからそれがどうしたの?」という質問に対して、答えがない。
いくら書いても、孤独感が癒されるわけではない。
もちろん収入につながるわけでもない。
何かしら、壮大な(お人好し)をしている感じ。
バカなことをしている感じ。
その(感じ)から、自分を解き放つことができない。
いや、ボランティアならボランティアでもよい。
しかし私がしているボランティア活動には、ギャラリーがいない。
他人の視線を感ずることもなければ、拍手を受けることもない。
あるとすれば、日々のアクセス数だけ。
数字だけ。
それにだからといって、みながみな、好意的に読んでくれているというわけではない。
中には、私のアイディアをどんどんと盗んでいる人もいる。
盗んで本にしている人もいる。
一般の人にはわからないかもしれないが、私にはそれがわかる。
というのも、育児書というのは、ひとつの哲学書でもある。
その哲学、もっと言えば、育児哲学というのは、そうは一致しない。
書いた人によって、大きな違いが出てくる。
出てきて、当然。
が、その育児哲学が一致している本が、別のところで数百万部も売れていたりする。
おかしなことだが、相手も、利口な人だと思う。
それなりの肩書もある。
しっぽをつかまれるようなことはしないだろう。
あるいは別のライターが書いて、その人の名前で出しているのかもしれない。
この世界では、よくある話である。
そういうのを知るたびに、ガクン、ガクンと、やる気がうせる。
今がそのときかもしれない。
ときどき「一気に、すべてのHPを閉鎖しようか」とも考える。
「とりあえず、電子マガジンを休刊にしようか」とも。
こんなお人好しをつづけていて、何になるのか。
だれが評価してくれるのか。
孤独……。
本当に孤独……。
……しかしここはがんばるしかない。
読者のため……などという、きれいごとは言わない。
私は、私自身のために書く。
だれのためではない。
私自身のため、である。
『我らが目的は、成功することではない。
失敗にめげず、前に進むことである』(スティーブンソン)と。
●気分転換
こういうときは何かの気分転換をするのがよい。
自分でも、それがよくわかっている。
そのこともあって、ここ数日は、私が料理をしている。
コツは、ぐんと腹が減った状態で、料理をすること。
たまたま三男夫婦が遊びに来ているので、それなりに結構、楽しかった。
で、今日の目標。
(1)朝風呂に入る。
(2)床屋へ行く。
(3)三男と嫁の両親のために、なにかみやげを用意する。
(4)ワイフと1万歩を目標に、散歩する。
(5)昨夜の夕食の様子を、YOU・TUBEにUPLOADする。
そして
(6)何とか、今日中に、電子マガジン6月1日号の配信予約を入れる。
虚脱感というのは、吹き寄せる風のようなもの。
こちらがふんばれば、何とかもちこたえることができる。
こちらが弱気になれば、そのまま体ごと吹き飛ばされる。
あとは気力の問題。
がんばるしかない!
とにかく、がんばるしかない!
大切なことは、人に期待をしないこと。
甘い幻想を抱かないこと。
期待を抱けば、裏切られる。
「だれかが何かをしてくれるだろう」という甘い期待をもたないこと。
私は私。
それを貫く。
とくにこういう状態のときは、前に向って、一歩、足を踏み出す。
……ということで、5月6日が始まった。
みなさん、おはようございます。
(5月6日、午前6時10分記)
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