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子育て最前線の育児論byはやし浩司 6月 15日号
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選ばれました!
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
休みます。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【前回からのつづきです】
8:アドミニストレイションについて
○インタビュアー:先生、東京大学の方に戻られてからは、結構、学内のいろいろなアド
ミニストレーション的なお仕事も大分していらっしゃるのではないですか。
○田丸先生:それは、ちょっと話があるのですけれども、プリンストンに小平邦彦先生と
いうフィールド賞をもらわれた有名な数学の先生がいらして。
○インタビュアー:小平先生、数学者。
○田丸先生:あの方がプリンストンに一番最初からいらして、日本人の仲間の村長さんみ
たいだったんですけれども、その100メートルぐらいのところに私たちは住んでいて、し
ょっちゅうお邪魔に上がり、先生も僕たちとはとてもよく話してくださって、小平式の考
え方がとても勉強になりました。
小平先生が帰国されて程なく、紛争の直後だったわけですよ。それで、事もあろうに、
理学部の教授会が小平先生を理学部長に選んだんですよね。それで、小平先生はもう絶対
に嫌だ、そんなために日本に帰ってきたのではないから絶対に嫌だと言われて。だけれど
も、教授会で一旦選ばれて断れるという前例をつくられると、あの時代に、なる人がいな
くなりますでしょう。だから、みんなで助けるから是非断らないでくれと言って。そうし
たら、化学では田丸さんを知っていると言うんですね。それで僕が学部長補佐の中に入れ
られて、学生とごたごたさせられて。あのころ、いろいろ大変だったでしょう。
○インタビュアー:そうですね。
○田丸先生:もうそれこそ学生が、先生たちは「専門ばか」だと言って。小平先生が、「先
生は「専門ばか」と言われるけど、学生はただの「ばか」だね」と(笑)。小平語録という、
そういう面白い話がたくさんあるんです。そんな形で、そういうアドミニストレーション
に引っ張り込まれたわけです。それまではもう研究しかやっていなかったんですけれども。
○インタビュアー:それから後、もちろん研究者としては、我々は日本化学会ですから、
化学会賞も先生に取っていただいていますし、化学会の会長にもなってご尽力していただ
きましたね。いろいろあるんですが、先生は、東京大学をご退官になってから、たしか、
今、山口東京理科大という、最初からそうだったんでしたか。
9:東京理科大時代と新しい大学作り
○田丸先生:東大を辞めて、東京理科大にまず行ったわけですね。理科大で呼んでくださ
って、そこに11年いました。神楽坂のあそこへ。でも、その終わりのころは、山口に短大
があったんですね。それを4年制にするから大学づくりを手伝ってくれと。僕は、まずよ
い大学を作るのには人集めが大切だからといって。でも、田舎の小さい大学なのに、随分
いい人が来てくれました。僕が言うと変ですけれども、田丸先生だからあれだけ集まった
んですねと言われ、例えば、木下実さんという学士院賞を後でもらった人も来てくれたし、
東大からは化学会で賞をもらった戸嶋直樹さんとか、清水忠二先生とか、東工大から山本
経二さんとか、いろいろないい人が随分来てくれて。ただ、残念ながら、今はもうほとん
ど定年になって辞めていきますけれども。だから今、大分苦しい立場らしいですけれども。
そのころは、新しい大学とはどういうものであるべきかというので、初め東京理科大の
中で、橘高先生という偉い理事長さんが、「理科大の教育を高度化する委員会」をつくって、
その委員長をさせられたんです。それで私は、まず、アメリカ式に、教育を充実させよう、
先生の講義に学生が意見を出すべきだと、いろいろなそういう話をしたら、皆さん、その
ときはもう、「とんでもない、学生の分際で先生の講義を……」と、そういう雰囲気だった
んです。それで、その新しい考え方を山口で実施したわけです。ですから、そのころの一
部の人は知っていますけれども、要するに、理科大はこうあるべきだというモデルをそこ
につくって、例えば人事をするときは、自分たちだけではなくて、その分野の専門家も学
外から入れて決めるべきだとか、カリキュラム自体も、例えば数学の先生が書いてくるも
のをそのまま受け取るのではなくて、やはり全体的に客観的な意見を学外からも求めて、
全体的にきちんとしたカリキュラムをするべきだとか、今まで習慣的にやってきた大学の
あり方を大きく変えて、山口で始めました。今どうなっているか知りませんけれども。
10:大学入試について
○インタビュアー:少し戻りますが、先生は、山口東京理科大で、モデルケースをつくろ
うというか、一つの実験をしようという感じだったと思うんですが、入学試験の制度を変
えたらどうかということを、私、何か先生のお話を聴いたことがあるんですが、それはど
んなものだったんでしょうか。
○田丸先生:さっき言ったように、これからあるべき大学の姿をつくりたいといって、入
学試験を面接に加えて教科書持参で筆記試験をやったんです。高校以下の教育を改善する
には大学の入試を改善することが大事なんですね。福井謙一先生も何時も言っておられま
した、「今の大学の入試はどうでもいいこまかいことまで覚えさせられて、あれは若い人の
芽を摘んでいるんですよ」と。
○インタビュアー:教科書持参ですか。なるほど。
○田丸先生:文部省検定の教科書を持ってきていいよ。すると、教科書を持っているから、
「これ覚えているか?」式の暗記問題はできないんですよね。教科書を本当に理解してい
るか、こういう場合はどうすればいいのか、という考える問題にしたのです。福井先生が
それを聞かれて大変に褒めていただきました。その大学の開学式にご挨拶してくださり、
その冒頭に入試についてお褒めの言葉を頂きました。
ですから、例えば、塩と砂糖と白い砂がまざっているものがある。それがどのくらいの
割合であるかどうやって調べればいいか、そうやって教科書には全然出ていない考え方を
聞くわけですね。そうすると、実によくわかりますね、この子は考えることができる子か、
たとえ結論が間違っていても、ちゃんと食いついてくる子かどうかというのが、非常によ
くわかります。
だから、ああいうのは、入学試験で、例えば大学院の試験でもそうかもしれないんです
けれども、普通の講義の試験になっていると、要するに入学試験の準備で、日本は高等学
校の理科を見ても、「わかったか、覚えておけ」、そういう一方的な教え込む授業ばかりで
すよね。またそれが入試対策にはいい教え方なんです。それで、大学へ来ても、そういう
延長ですから、生徒から先生に質問がろくにないわけです。アメリカだと、極端な場合は、
講義の後、先生の部屋の前に並んで待っていますよ、ディスカッションするために。日本
じゃ、ただ受け取るだけの話で、それで大学院へ来るわけですね。それでクリエイティブ
なことをしろと言ったって自立していないからできない。ついイージーな教育になってし
まうので、ほんとうの「研究」から大きく外れて一生損をします。
本当に、さっきの私が経験したような辛い思いを大学院に入って数カ月、「おまえ考えろ」
だけでもいいです。何をすればいいかね。そうやって、やはり研究というのは考えるもの
だと。それが知的体力を鍛えるのです。そうして人生全体に、independent thinkerとして、
やはり考える自立した人間をつくらなければいけないんだということで、入試を変えない
といけないですね。
○インタビュアー:それは、先生がそう言われても、例えば入学試験の問題をつくるのは、
今までいた教官なわけですね。そうするとなかなか。
○田丸先生:それが見えてくる。非常にはっきり分かれるんです。「先生、問題をつくれま
せん」と。確かに容易ではないんですけれどもね。だけども、本当に考えられる人は研究
も立派に出来ます。或いは研究の優れた人は自分で独自に考えることができますし問題も
作れます。きちんと考えますから。だから、僕は、大学院の試験でも同じように、講義の
試験をするようなことではなくて、例えば、高等学校のときに習って覚えている話があり
ますけれども、例えばアボガドロの法則といったようなものを、気体の体積、圧力が同じ
で同じ数の分子があるとか、そういうものを習いますよね。それから、食塩はイオン結晶
だよとか、水素と塩素の反応は連鎖反応だとか教わりますよね。だから、そういう三つの
ことをみんなよく知っているんだけれども、では、それぞれを実験的に証明する仕方を述
べなさいと出題するわけです。そうすると、よくわかるんですよね。よく知っていること
を、どうしてそうなのか実験的に証明しろと言われると、本当にその人の考える力がわか
るんですね。
そういう意味で、教育自体が、入学試験を含めて自分で考えてやるものだという。ただ、
先生がこう言ったから、はいわかりましたと覚えて、物知りになって出てくる、そうやっ
て育ってくる人間ではなくて、「先生そう言うけど、これはなぜ?」とか、さっきの小学校
2年の孫が聞いたのと同じことなんです。そうやって、それぞれの事柄が、バックがきち
んとあるのを、みんなただ教科書を覚えさせられてもだめなんですよね。
○インタビュアー:先生、試験のそういう試みをされたときは、全学の受験生に対してそ
れをされたわけですか、それともある学科だけ。
○田丸先生:いや、全部。全部といっても、学部は1つしかなかった小さい大学ですから。
○インタビュアー:その結果は、先生、どんな感じ、何年間ぐらい続くことが可能でござ
いましたか。
○田丸先生:だから、時々そうやって選んだ生徒はどうなっていますかと言われるんです。
あとよくわからないんですけれども、一つは、初めから受験生の質の問題もありますから
わかりませんが、日本全体の入学試験自体が問題で。アメリカ辺りでも、有名大学によっ
てはクリエイティビティーとリーダーシップを見て選ぶとか言いますね。そうやって人の
上にたつ人を資料や面接を通してきちんと見るんですね。ケンブリッジでもそうです。教
科書を丸暗記しているような子は採らない。やはり自分で考えられる将来のリーダーを選
ぶんですね。
本当は東大でも、そういう意味で、将来のリーダーを選ぶクリエイテイブな入学試験を、
面接などに時間がかかるかもしれないけれども、2倍ぐらいに絞ってからでもいいですが、
そういう自分で考えられる人間を選び育てるんだという姿勢で、それこそ京大でも、東大
でもみんなそういうことにいたしますと、高等学校以下でもそれに備えてそういう準備教
育をいたしますから、だんだん自分で考える人間が育ってくるわけですね。そういうのが
私の意見です。
○インタビュアー:山口理科大で先生がそういう試みをされたときは、そのころは文部省
でしょうか、それは別に、「どうぞやってください」という、それに対して何らか規制とい
うか抵抗は別になかったわけですね。
○田丸先生:私立ですし、理事長さんが僕の意見を入れてくださったからよかったんです。
でも、教科書持参の試験を一部でいいですからやるのもアイデアだと思うんです。
○インタビュアー:そうですね。
○田丸先生:例えばサッカーの選手だって、練習で余りこまかい受験準備はできなかった
けれども、そういう考え方には自信があるよというのは、そっちの方へ行って受けるとか
ね。しかし本当に問題づくりが難しいんですよ。だから、要するに先生のクリエイティビ
ティーの問題なんですよね。
○インタビュアー:そんな感じはしますね。
○田丸先生:ですから、逆に言うと、先生を選ぶ人事のときも、そういうことができる人
間を大学として大事にする、またそういう人は研究面でも必ず優れています。そういうこ
とをしないと、ただ知識を教えるだけなら、教科書に書いてあるのを説明するだけで、「わ
かったか、おい」とかというだけの話ですから自分で考えるようには育たないですね。
11:父親、田丸節郎について
○インタビュアー:先生、ちょっと話が変わりますが、一番最初のころに出ました先生の
お父様、何といってもハーバーとの関係で、我々、表面だけなんですが非常によく存じ上
げているのですが、そのあたりのことをちょっとお伺いしておければありがたいと思うん
ですが、お父様は、やはり東京大学をご卒業されてから向こうに行かれたわけですか。
○田丸先生:そうです。(亡父の兄は田丸卓郎で、東大の物理の教授で寺田寅彦の先生とし
て、またローマ字論者として知られている)
○インタビュアー:第一次世界大戦の前。
○田丸先生:文部省の留学生としてハーバーのところに行ったんですね。それで、カール
スルーエでアンモニア合成をやって、40人もいたそうですけれども、ハーバーがベルリン
の新しい研究所(現 Fritz-Haber-Institut der Max-Planck-Gesellshaft,Berlin)の所
長に選ばれたときに、その中から父を選んで連れていって研究職員にしたんですね。その
研究所が世界一の研究所で、アインシュタイン(Albert Einstein)などもいたし、日本人も
随分そこに留学に行っています。
○インタビュアー:何年間ぐらいドイツというか、いらっしゃったんですか。
○田丸先生:合計8年ぐらいだったと思います。だから、ベルリンにいた日本の大使が父
に、「日本からどんないい職が来ても、私が断ってあげますよ」と言ったそうだけれども、
それだけ日本人として大変に珍しく重要な地位だったらしいのですが、世界大戦が始まる
と、ドイツは日本の敵ですからおれなくなって。
○インタビュアー:第一次世界大戦ですね。
○田丸先生:それでニューヨークに行って、高峰さんなんかと一緒にいて、日本に理研を
つくろうじゃないかと話し合ったりして。ハーバードにもいましたけれども。
○インタビュアー:それで高峰譲吉先生とか
○田丸先生:はい。理研も最初、化学の研究室は父が責任を持ってつくって、日本に初め
て本式の化学の実験室というのをつくりたいというので、相当無理したらしいです。その
頃日本にはなかった本当の化学の研究室のモデルをつくりたいと。それで多分、費用もか
かって大分言われたらしいのですが、大震災で他の建物は大分つぶれてしまったのにその
建物はガラス1枚割れなかったというので大変に評価されたらしいんです。
○インタビュアー:震災というと、それは関東大震災ですか。
○田丸先生:そうです。
○インタビュアー:ああ、そうなんですか。
○田丸先生:大正12年のね。僕が生まれる前です。
父が一番最後に努力したのは、学術振興会をつくることでした。昭和一桁の時は、ご存
じのように、日本の経済は非常に悪かったので、せっかく理研なんかをつくっても、研究
費が削られることはあっても、来にくかったんですね。大学でもほとんど研究費が乏しく
て、これではとてもいけないからというので、桜井錠二先生を担いで、父も必死になって
学術振興会をつくる運動をしました。身体が悪かったんですけれども無理をしながら。結
局、一番最後は、手回ししたんでしょうが、昭和天皇が、私の身の回りのことは幾ら節約
してもいいから、学術振興のためにお金を出してくれとおっしゃってくださったんですね。
それで、昭和7年かにできて、それで、それから急に論文の数が日本で倍くらいに増えて、
論文だけじゃなくて、それで人材が育ったんですね。その人材が次の代を育てて日本が発
展していった、それが父の一番の苦労でした。
○インタビュアー:櫻井錠二先生。お名前は。
○田丸先生:先生の残された遺言書に書いてありますけれども、学術振興会なんかでも、
本当に田丸のおかげでできたと。
○インタビュアー:そうですか、立派なことをなさったんですね。
○田丸先生:それが、日本を欧米並みにしようという努力ですね。理研を作り、理研の実
験室をつくること自体も、そういう意味で大分努力したのではないかと思います。
ハーバーがベルリンに連れていってくれたときも、よく、「田丸は死ぬほど働くから」と
言ったそうなんですけれども、何か死ぬほど働いたらしいんですね。アンモニアの合成な
んかにできるかどうかというのが。それで、死ぬほど働いてどうにかなった。だから、テ
イラー先生も、田丸の息子だからというので、何かにも書いてありましたが、「父親の素質
を受け継いでよくやってくれた」と。
○インタビュアー:先生もお父さんと同じように、死ぬほどテイラー先生のところで働か
れたんですね。
○田丸先生:いいえ、僕はそれほど勤勉ではありません、死ぬほどなどしなかったです。
○インタビュアー:いやいや、周りのアメリカ人とかイギリス人は結構、lazy で、だから
先生を見たらもう脅威だったのではないですか。
○田丸先生:そうですね。そういえば、一緒にいたイギリス人が「ケンジは一日16 時間実
験する」と言ったことはあります。家との通勤が片道車でほんの5分くらいでしたし、実験
の合間に食事に帰って、新しい方法で、新しいexciting な興味あるデータがどんどん出て
きて研究がとても面白かったですから。
○インタビュアー:ブラックボックスを先生がちょっと開けて見られたわけで、そういう
感じですね。
○田丸先生:そうですね。でも、その結果というか、それからの50年間が、そういう意味
で触媒の分野が本当に進歩したんですね。反応最中の表面を調べ始めましたから。それで、
いろいろな機器もどんどん進歩しましたから。それで、結論的に、一昨年ノーベル賞をも
らっています。そういう基本的な分野が今、日本で案外なほど少ないんですよ。大学院生
をこれできちんと育てないとという心配もありますね。
○インタビュアー:先生のおっしゃることはよくわかります。私は一応これでも京都で福
井謙一先生の門下生の端くれなんですけれども、福井先生も先生と同じようなことをいつ
も考えておられて、「サイエンスそのものを考えるのが大切だ。その根本を考えろ」といつ
も言われていましたね。それはなかなかわからなかったんですけれども、先生のおっしゃ
るのと、やはりそうなんですね。
12::Catalysis Letters に載った写真について
○田丸先生:先生に一つ見ていただきたいのは、これは、2000年に出たCatalysis Letters
でそんなに昔の話ではないんですけれども、触媒の歴史をまとめて、例えばベルツェリウ
ス(Jons Jacob Berzelius)が「触媒」という言葉を初めて言い出して、ファラデー(Michael
Faraday)が出てきて、そしてハーバーが出ているんですけれども、その中にこういう、こ
の写真を勝手に使ったんですよ。僕の許しを得ないで出していて。
○インタビュアー:どこからこういうのが手に入っていったんですか。先生がどこかに出
されたんですか。
○田丸先生:ここの家の前で撮った写真ですよ。
○インタビュアー:それを誰かから手に入れているわけですか。
○田丸先生:もう一枚、現在の私のと。あなたの写真を2枚入れたよと言ってくれたんで
すが、他人の写真を、これは1984年にベルリンで大きな触媒の学会(第8回ICC)があった
ときに、ハーバーの展示コーナーをつくったんです、ハーバーが初めてアンモニア合成し
たときの装置なんかを出して見せて。それで、僕のところに、何かハーバーに関連したも
のを送ってくれないかというので、それまでほとんど出さなかったんですけれども、その
写真を送ったんですよ。そうしたら、ケンブリッジの教授のジョン・トーマスさんが、僕
に是非このコピーをくれと言って、それで上げたのをオフィスに飾って、日本人が来ると、
この赤ん坊が謙二なんだよと言って。
○インタビュアー:そうですよ、先生、これとこれなんですね。
○田丸先生:この赤ん坊なんですよ。ハーバーに会っている証拠の写真です。
○インタビュアー:だから二つ載っていると、そういう意味ですね。現在のとで二枚。
○田丸先生:そうなんです。そういう、大げさに言えば、化学者になるように運命づけら
れていたということかもしれないんですけれども。
○インタビュアー:すばらしいな。
13:アインシュタインからの手紙について
○田丸先生:それから、私の家宝の一つなんですけれども、これは、この人の手紙ですよ
。
○インタビュアー:アインシュタインですね。
○田丸先生:田丸あてですよ。
○インタビュアー:1949年、すごいですね。
○田丸先生:アインシュタインが、そのころは世界が、第二次大戦が終わって、もう日本
もめちゃくちゃになっちゃったし、ヨーロッパも戦争でめちゃくちゃになって。でも原爆
ができて、だから、トルーマンがスターリンに、もう一回、今米ソでやれば必ず勝つとい
うわけですね。
○インタビュアー:アメリカがソ連にですね。
○田丸先生:いわゆる緊張した時代だったんです。私の父はアインシュタインと同じ研究
所で知っていましたから、その息子なんだけれども、世界がこんなんでいいんだろうかと
いう、若気の過ちで手紙を出したら、きちんと返事が来ましてね。
しかも、面白いのは、世界が平和になるのは、アンダーラインをして、1つの方法しか
ないというんです。それはもう世界連邦しかないと。それから今まで60年ですか、随分た
っていますけれども、今ヨーロッパに行くと、もう本当にそういう感じがしますものね。
各国が同じお金を使うし、パリみたいに、昔は英語なんか全然しゃべらなかった所が、英
語もどうにか通じるようになるし、いわゆる連邦という感じがしますでしょう。
それで、僕は、これから50年のうちには東洋もそうなると思うんですけどね。コンピュ
ーターの時代になって、国や宗教、人種の違いを超えてお互いのcommunicationも加速度
的に自由になって増えてきますし、だんだん世界中そういう連邦になるのではないかと思
って。その方向に。要するにワンウェイしかないと。アインシュタインが自分でサインし
て田丸あてにくれたというのが。
○インタビュアー:湯川秀樹先生も書いているんですね。オール……(以下、アインシュ
タインからの手紙を読む)……すごいな。
○田丸先生:アインシュタインの言葉が、今の現実を見るとき、あのときにはもう全然考
えられない時代でした。フランスとドイツだってお互いに殺し合いをしていた直後でしょ
う。だけれども、それからもう50年、60年たつと、そういう方向にどんどんなっていって
いるというので……。
○インタビュアー:これは先生、是非この冊子に載せさせてくださいね、この言葉はね。
○田丸先生:はい。
○インタビュアー:これはすごいですね。
○田丸先生:僕は、そういう意味で、このアインシュタインの言葉と今の現実とを対比す
ると、本当にそうだなという感じがいたしますね。
○インタビュアー:湯川先生も一生懸命、世界連邦をつくるということを言っておられま
したけれどもね。
○田丸先生:そうですね。
○インタビュアー:早くからそういうふうにね。
○田丸先生:実際に、田丸謙二あてに書いてくれたというのが、僕としてはありがたい言
葉で。それで、僕はある高等学校で化学の話をさせられて、普通の話をして、そのときに
アインシュタインのこの話を一寸出したんです。そうしたら、何かすごくみんなショッキ
ングで、それで、質問が幾つか来て、「どうしたらああいう手紙をもらえるんでしょうか」
と。(笑)
○インタビュアー:なるほど、そうですか。やはり純粋な心を持つということでしょうか。
○田丸先生:つまらない話ばかりして申し訳ないんですけど。
○インタビュアー:いやいや貴重な話ですよ。いろいろお話いただいてお疲れでしょうが、
いろいろ先生からお話を伺って、今、先生はもう満85歳におなりですし、大体、若者に対
しての言葉というものもいただいて、「考えろ」というふうなことなんですが、あとほんの
少し、何か先生、もうちょっとこれだけ言っておきたいということがございましたら、少
しだけでも何かありましたら。
14:日米の教育の差について
○田丸先生:繰り返しになりますが、やはり教育界全体が問題で、例えば20年近い前か
な、アメリカでは、アカデミーを中心にして、これからの子供の教育は、コンピューター
の時代になるし、大幅に変えなければいけないというので、それまでは理科でも、クジラ
の種類を覚えさせたり、そういう理科の授業だった。それではいけないというので、そん
なのは全部やめて、science inquiry という、科学の考え方ですね。さっきのように、「な
ぜこうなのか?」という理科に変えるんだといって猛烈な努力をしたんです。もう全国で
150 回ぐらい講習会を開いて、それから、教育関係学会とも協力し、最後は4万冊刷って
みんなに配って意見を求めて広め、理科を基本的に変えるという時代でした。
ちょうどそのころですよ、日本の化学教育の関係者が集まって、文部省の教科書検定に、
高等学校から「平衡」という言葉を消したんですよ。「平衡」なんていうのは、ものを考え
る一番基本ですよ。例えば蒸気圧一つにしても、平衡で蒸気圧降下はなぜ起こるかとか、
それから、沸点上昇でも、凝固点降下でも、浸透圧でもみんな平衡をもとにして考え方が
出てくるわけですね。それで日本は、むしろ考えない方向にした時代です。今は直りまし
たからいいのですけれど。日米の教育関係者の知的レベルの差はこれほど大きいのです。
大事なことは、そういう日本の教育関係者たちが、本当のことを全くわかっていないと
いうことですね。それで、文部省も有名人を集めて平衡をなくしたわけです。そのくらい
の知的レベルなんですね。それで、アメリカの方ではそういう画期的な努力をして、新し
いものをつくって、それがヨーロッパに広まって、かえってそれが日本に入ってきて、「ゆ
とり教育」を始めようと言い出すわけです。
ゆとり教育というのは、覚えることを少なくさせるための教育ではなくて、考える教
育を育てるというのが基本なんですけれども、日本にそういう基盤がないんですよね。
ろくな準備もしてないで入れるものですから、ますます駄目なのです。本当は知識は
基本的なものに限り、互いに debate し合いながら、それを基に各人が十二分に自立
して「考える教育」に切り替える訓練をして、新しい時代に向けての「考える教育」を
するために非常な努力をしなければいけなかったのです。「化学と教育」誌57巻3号
(2009年)に日本化学会会長の中西宏幸さんがお書きになっています。「イノベーショ
ンを推進するためにはこれを担う人材の育成が急務であるが、残念ながら、わが国の
人材育成は多くの問題を抱え危機的な状況にあると言わざるをえない。コミュニケー
ション能力の不足、専門以外の基礎学力の不足、自分で考える力あるいは意欲の低下
といった問題が感じられるのは私だけではないと思う。」要するに「ゆとり教育」が「教
える知識の減少」のみが実際に実施され、最も肝心な「考える教育」の育成は文科省
も教師も全く受け入れる基盤のない結果として、単に「学力の低下」になってしまっ
た。一番の被害者は生徒たちで、一番大事な考える重要性も、考え方も教わらず、肝
心なその訓練もなく、単に教わる項目が減ったと言うことで、「実力が下がった」と言
われる結果となってしまった。時代の大きな新しい流れに乗って世界的に教育改革を
する折角のいい機会だったのに自国の「考えない入試本位の教育の基本的欠点を改め
ようともせずに、国を損なった文科省を初めとする教育関係者の罪は大変に重いとい
わざるを得ないのではないでしょうか。
考える範囲を限るという考え方は、学術の健全な姿ではないんです。「ゆとり教育」の
初期の議論で再三問われたのは「最低限教える必要のある項目を精査する」ことだった
はずがどこかで「必要十分条件」とすりかえられてしまったことが不幸の始まりだっ
たと思います。自分で考えようとする姿勢を持っている子供たちには、その知的好奇
心に答えるための教育であるべきです。先程の私の孫の例でもよい参考になりますが。
子供の数が激減している現状では、少人数学級や副主任などの制度が整備されれば、
各人の個性に応じた個別教育に近い対応も可能なのではないかと、思いますが。
○インタビュアー:「ゆとり教育」も何か妙になってしまったんですね、あれも。
○田丸先生:そうなんですね。やはり学力が低下したとかなんか言うんだけれども、本当
の話は、考える教育が世界中に広まってきて、日本だけがそうやって手遅れになってしま
うということです。
それが、大事なことは、文部科学省をはじめとして教育関係者がわかっていないという
ことですね。それで、小学生にindependent thinkerに教育をするんだと思っている先生
なんて、日本にどれだけいるでしょうか!小学生は何も知らないで入ってくるから教える
んだという、教え込むことだけでやっていますね。最近少しずつ変わってきているようで
すが。教え込む方が楽ですし、入学試験もそれでいくし。だから、何かそういう、さっき
のケンブリッジでもそうですけれども、将来のリーダーを育てるという教育が、日本には、
差別というのはいかんという形ですが、差別という意味ではなくて、各人の異なった資質
を区別しながら才能を伸ばす教育、各人が自分の個性を育てるように自分で考える、要す
るに個性を育てる教育に切り替えないと。これは先生からそうだと思う。やはり生徒は先
生の背を見て育ちますから、先生がそうやって自分で考える教育をすると、生徒も考えな
ければいけないんだなということがわかってくると思うんです。
○インタビュアー:先生まで変えていかなければいかんので、これからも時間がかかりま
すね。
○田丸先生:それがいい方向に向かっていればまだいいんだけれども、どうも時代はどん
どん加速度的に変化していきますよね。日本では、それについていけるかどうか。
○インタビュアー:いえいえそんなことは。そうならないようにね。
○田丸先生:政治家でも何でもそうですけれども、立花隆が『天皇と東大』という本を書
きましたが、あれにも書いてあるんですけれども、東大生は習ったことをそのまま理解し
てはき出す、そういう能力は非常に高い者が多いけれども、要するに自分で考えるクリエ
イティブな人は必ずしも多くない。クリエイティビティーで試験をしていませんから。そ
れで、それが大学を出て、公務員試験などを経て、必ずしもクリエイテイブでないリーダ
ーになるわけですね。それが日本の国策を決めていくわけです。ですから、やはり基本は
考えることが大事だ、と。それで、そういう人材のつくり方をきちんとしていかないとい
けないのではないかと思うんですけどね。国の将来は教育が決めるんです。
○インタビュアー:それについて、京都でも考えるんですけれど、私を見てもわかります
ように、大したものがなかなか出ていないというのもあるんですね。
○田丸先生:本当は先生がきちんとすべきなんですよね。先生の再教育のための講習会を
開いても、来る先生はまあいいんだけれども、むしろ来ない先生の方が問題でね。やはり
先生の再教育ということは、本当に大事なことだと思いますね。
○インタビュアー:先生ありがとうございます。
15::テニスと天皇・皇后両陛下について
最後に、全然関係ないですが、先生はお忘れでしょうが、私は昔、先生とテニスをさせ
ていただいたこと、覚えているんですけれども、先生はそのとき、鎌倉のこのあたりのロ
ーンテニスクラブか何かの会長か何かをしているとおっしゃっていた。もうこのごろは、
テニスなんかは全然していらっしゃらない。
○田丸先生:もう今はひざが痛くてできないんですけれどね。会長も、それこそ早稲田の
テニス部の元キャプテンだったなんていううまい人がたくさんいるクラブで、当時六百人
以上のクラブなんです。ただ、そのテニスコートをつくった隣に頼朝がつくったというお
寺があって、それを鎌倉市はもとのお寺に復興させようと。そうすると、そのテニスコー
トがそのお寺の庭になってつぶれる恐れがあるんですよね。鎌倉市は世界史跡都市とかに
なりたいというので一生懸命で、そうしたいと言っていて、2年のうちにそういうふうに
するという時代があったんです。
ちょうど景気の悪くなるちょっと前でしたか。それで、その費用の8割を出す文化庁に
一寸でも顔のきく人がいないか、と。僕は全然だめよと繰り返し言ったんだけれども、会
長にさせられちゃって。そうしたら、ちょうど私が東大の総長特別補佐(副学長)をやら
せてもらったときに、文部省から東大の法学部を出た女の人が学務課長に来ていたんです。
それが文化庁へ戻って、文化庁でその問題を取り扱う隣の課長になっていた。それでもう
その人を頼みにするしかないというので行ったら、とてもよくしてくれて、その係の人た
ちを集めて僕の説明を聞いてくれたり、それで予算のときでも考慮に入れてくれ、それで
一番の危ないときを乗り越えまして、とてもありがたかったんです。
天皇陛下が葉山にいらっしゃるときに、御用邸がありますでしょう、天皇。皇后両陛下
がテニスをしに時々いらっしゃるんですよ。それでそのときに僕は、侍従なんかに言った
ら絶対にだめなんですけれども、天皇陛下に、「ここのクラブの特別名誉会員になっていた
だけますか」と直接お願いしたんです。そうしたら、まんざらでもないお言葉があったん
ですよ。それで、「天皇陛下がいいっておっしゃったよ」とみんなに言いふらして。そうし
たら、本当にそういう手続を一応して、そうなったんです。
天皇。皇后両陛下とも素晴らしいお二人です。形式抜きにおもてなしして、気楽にお話
し下さるようにするんですけれど、本当に素晴らしいご夫婦ですね。ご結婚50周年で新聞
にも出ていましたが、テニスコートにいらっしゃると、テニスだけでなく、お気楽にお話
になる雰囲気がお好きなんですよね。特別名誉会員になっていただいた次のときにいらし
たときに、お帰りになるときに、「おたくのクラブの特別名誉会員にしていただいてありが
とうございました」とお礼をおっしゃるじゃないですか。普通、お礼を言われると、「どう
いたしまして」と言うんですけれど、こういうとき何て言っていいかわからないで、もう
まごまごしてしまったんですけれども。
○インタビュアー:先ほど、先生の写真がね、天皇・皇后両陛下とご一緒に写った写真を
拝見しましたから、ふと、ああ、そうだ、先生テニスをされていたなと思い出したので。
○田丸先生:でも、気楽にお話をすると、とても素晴らしい方々ですよ。皇后陛下もお利
口さんだし、お心遣いもなさり、本当によくできた素晴らしいお二人です。
○インタビュアー:私は、化学会としては6年前に125周年のときに陛下に来ていただい
て。
○田丸先生:そうなんですよね。その前に前立腺の手術をなさったでしょう。そのときに
僕はお見舞い状を出そうやと言ってお見舞い状を出したんです。またお元気になられてテ
ニスをしにいらっしゃいということで。そうしたら翌日、侍従から直接電話が来てね、陛
下がとてもお喜びになりました、と。その時は本当にごらんになったのかなと半信半疑に
思って。だって、沢山の人が祈念しに行ったときでしょう。そうしたら、その後退院され
て初めての公務として化学会にいらしたでしょう。
○インタビュアー:そうです。来ていただいたんですよ。
○田丸先生:それで、立派なお言葉を賜り、その後でレセプションがあったときに、陛下
が僕の顔を見て、いらして、「その節はお見舞いありがとうございました」ってお礼を言わ
れたんですよ。天皇陛下がそこまで細かいことにまで気を遣われるとは夢にも思わなかっ
たんですけれども、僕の顔を見て、お礼をおっしゃいました。
○インタビュアー:先生、本当にいいお話を聞かせていただきました。
○田丸先生:いやいやとんでもないです。つまらない話ばかりで。
16:「サロン・ド・田丸」について
○インタビュアー:今日は、先生のお弟子さんの先生方が沢山お宅に来ていらして。
○田丸先生:そうですね。昨年11月に田丸研究室の出身者の集まりを東京でしたんですけ
れど、皆が来ますと限られた時間内ではお互いにゆっくりと話し合えなかったんですね。
そうしたら、もっと先生と親しくしゃべりたいというので、有志が「サロン・ド・タマル」
というのをつくって、早速12月にやろうというので、もう勝手に企画して、鎌倉駅に早め
に集まって食べるもの飲むものなど全部買い集めて、しかも集まる人数はなるべく10人以
下にしたいというのですが、実際にやって、見ると数名の幹事役を除いても優にその二倍
にもなったりして、私の家で僕を囲んでしゃべるというんです。僕は、その会の幹事役に
任せてあるんですけれど、僕の会費分は僕に払わせてもらって、ただ皆さんが楽しくしゃ
べっているのを聴いて楽しむだけが主な役なんですけれど、今日は午後その日に当たって
いるのです。場合によってはわざわざ大阪からその為に来る人もいます。
研究室として、以前はしょっちゅうここの庭でバーベキューなど集まりをしまして、み
んな仲がいいものだから、一緒に来た外邦人なんかも驚くんですね。アメリカなんかでは
考えられない、と。だから、いつまでも家族的に皆さん仲よくやってくれるという、それ
は、とても素晴らしいことですね。日本的なところでもありますけれども。
○インタビュアー:それは、日本的であると同時に、やはり先生のご人徳であり、一つの
教育を、その場でやはり教育になっているんでしょうね。
○田丸先生:そうですね。出世した弟子たちに今更わたくしからの教育でもないのですが、
意見があれば伝えますが、逆に現役の連中から近頃の様子を教えてもらったり、(折に触れ
て彼らの研究室のゼミに出させてもらっていますが)前回は化学会学会賞が今度3月末か
な、川合真紀さんがもらいますから、それをこのサロンで皆でお祝いし、それから、今日
の午後には、触媒学会賞を今度もらう内藤周弌君夫妻が来ます。お祝いも忙しいですが、
皆さん、弟子の方々がだんだん偉くなって、紫綬褒章も、今までもらった人は研究室出身
者の中から4人ですけれども、将来多分もっと増えるのではないでしょうか。
○インタビュアー:先生、それをいつまでも見届けるように頑張ってください。是非長生
きしていただいて。
○田丸先生:それが私の毎日の楽しみの一つなんです。卒業生の皆さんがメールや電話で
よくお見舞いなどしてくれ有難いことです。一人住まいで不便の面もありますけれど、け
れど毎日がお蔭様で、ありがたく、楽しく、感謝しています。
○インタビュアー:それは、これから元気でいらっしゃる大きなドライビングフォースで
すね。 今日は先生、本当にありがとうございました。
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(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
田丸謙二 田丸先生 Kenzi Tamaru Kenji Tamaru)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
休みます。
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はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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2009年6月15日月曜日
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