2009年6月23日火曜日

*Short Essays (4)

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(106)

●自慢は要注意

 日本人はもともと上下意識の強い民族。上下関係がないと落ち着かない。そのため無意識のうちにも、上下関係を身の回りでつくろうとする。そしてその結果、「上」の人には必要以上にペコペコし、「下」の人には尊大ぶったり、いばったりする。が、その上下関係がはっきりしないときがある。

そういうとき日本人は、自慢話を始める。……と決めてかかるのも危険なことだが、日本人は自慢することによって、相手を「下」におこうとする。先祖や家柄を自慢する人、学歴や経歴を自慢する人、親類や子どもを自慢する人などがいる。自慢しながら、自分を優位な立場に置こうとする。で、その自慢のし方は、人さまざま。

(1)それとなく会話に中に自慢を折り込む人……「今度S高校(市内でも有名な進学校)の連中と、同窓会をしましてね」とか、「いとこがA町で町長をしてましてね」とか。あるいは「今度の選挙で、親類の選挙運動を頼まれました」とか言うなど。「私の先祖に、○○藩で家老をしていたのがいます」と、ストレートに自分を自慢する人もいる。  

(2)大物ぶる人……「定年退職をしたら、郷里で市長でもしようかな」とか、「先週、○○市の市長から電話がありましてね」とか。「あの大臣がね、この町に来たときにね、パーティに出てほしいと言われて、しかたなく出てきました」と言った人もいた。

 「今」という現実の中で、「私は私」と生きている人は、自慢などしない。しても意味がない。しかし仮想現実の世界※で、他人の目を気にして生きている人は、どうしても自慢が多くなる。だいたいにおいて人間の上下関係などというのも、フィクション(架空)に過ぎない。人間に上下などない。あるわけがない。同じように名誉や地位、肩書き、社会的地位もフィクション。それはちょうど子どものゲームのようなもので、その世界にハマッた人にはその愚かさがわからない。

言いかえると自慢話をして自分を飾る人は、それだけ自分のない人とみる。たとえば議員バッジを胸につけ、ふんぞりかえって歩く国会議員を思い浮かべればよい。はたから見るとこっけいなのだが、本人にはそれがわからない。

 ……と言いながら、実のところ私も、ときどき自慢話をする。しかしそのたびに、「くだらないからやめろ」という声も聞こえてくる。あるいは自慢話をしたあとというのは、どこか不愉快になる。自分がなさけなくなるときもある。「自慢」というのはそういうもので、自慢話をするときの自分は、自分であって、自分でない。だから自慢はできるだけしない。しそうになると、「やめた」と言って、自ら遠ざかる。私は私だ。他人がどう思うとも、私の知ったことではない。さてあなたはどうだろうか。きわどい話になってしまったが、この項は、あくまでも一つの参考意見としてとらえてほしい。

※ ……生きる本分を忘れた生活を、私は、「仮想現実の世界」と呼んでいる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(107)

●子どもは自慢せよ

 前の項で、「自慢は要注意」を書いた。が、「自慢してはいけない」と言っているのではない。問題は、自慢の「質」だ。たとえば英語国では、親は平気で子どもを自慢する。「私は息子を誇りに思う」とか、「私の息子は、○○コンテストで1位になった」とか。日本人はそういうほめ方はしない。謙遜して自分の息子を、「愚息」とか、「バカ息子」とか言うことが多い。

 一般論として、子どもの努力とやさしさはほめる。顔やスタイルはほめない。「頭」についてはほめてよいときと、そうでないときがあるので慎重にする。そこで子どもの自慢も同じように考えてよい。子どもが努力したことについては、遠慮なくほめる。自慢する。そういう前向きな姿勢が、子どもを伸ばす。

……と言っても、はじめてアメリカへ行ったとき、向こうの親が自分の子どもを自慢するのを聞いて、私は少なからず驚いた。日本でも自分の子どもを自慢する親はいるにはいるが、アメリカ人のように多くはない。が、そのうち日本と英語国では、自慢の「質」が違うことに気づいた。

日本では、見栄やメンツのために子どもを自慢することが多い。つまり何らかの下心をもって自慢する。しかし英語国では、そういうものをクリアした段階で、子どもを自慢する。つまり親は、子どもという人間だけをみて、子どもを自慢する。だから子どももそれをすなおに受け入れる。受け入れながら、子どもは、「父はぼくを信じていてくれるのだ」「父はぼくのことを喜んでいてくれるのだ」というように思うようになる。

が、この日本ではそうはいかない。「うちの息子はA国立大学へ入いりましてね」と親が言ったりすると、どこかイヤ味に聞こえる。あるいはそれを言うほうにしても、相手はイヤ味に感ずるだろうということがわかっているから、あえて話題にしない。

 ……と言っても今、日本の社会は大きく変わりつつある。欧米化というより、グローバル化が進んでいる。外国の人に自分の息子を、「マイ・スチューピッド・サン(私の愚息)……」などと紹介しようものなら、相手は目を白黒させて驚くだろう。つまりこうした言い方は日本以外の国では通用しない。(だからといって日本のやり方がまちがっているというのではない。念のため。)しないならしないで、なぜ外国では通用しないかを考えてみることも、大切なことではないのか。

もっと言えば、日本は日本で、長くつづいた島国根性の中で、ゆがめられた部分も多いということ。この「自慢」もその一つと考えてよい。本来、親はもっと自分の子どもの成長を、人前でもすなおに喜んでもよいのではないか。しかしそれがこの日本では、どうもできない。できないところが、その「ゆがみ」ということになる。この問題の「根」は、想像以上に深い。
 




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(108)

●今を懸命に生きる

 バーチャルな世界に生きる人ほど、過去や未来(結果)にこだわる。先日もある男性(60歳)が私にこう言った。「そういうことをすれば、私の先祖が許さない」と。私は思わず、「どこに先祖がいるのですか?」と聞きそうになった。このタイプの人は、何ごとにつけ、家柄や出身にこだわる。それが生きがいになっていることもある。

一方、「死に際の様子で、その人の一生が決まる」と言った女性(45歳)がいた。死に際の様子がよければそれでよし。そうでなければ、その人の一生はまちがっていたことになるのだ、と。ある宗教団体に属する人だった。私はこの話を聞いて、「交通事故では死ねないな」と思った。しかし交通事故にあうかあわないかは、偶然と確率の問題。仮に交通事故で死んだからといって、その人の人生がまちがっていたことにはならない。

 ロビン・ウィリアムズ主演の映画に「今を生きる」というのがあった。「今を懸命に生きろ」と教える教師。進学指導中心の学校側。そのはざまで一人の高校生が自殺するという映画である。この「今を生きる」という生き方が、バーチャルな生き方の正反対の位置にある。「過去や未来などどこにもない。あるのは今という現実だけ。だったらこの現実の中で精一杯、人間らしく生きよう。結果はあとからついてくる」と。

 概して日本人は仏教(チベット密教)の影響を大きく受けているから、結果を重視する。「終わりよければ、すべてよし」と。そしてこういう生きざまは子どもの教育にも大きな影響を与えている。いつも結果を重要視するから、幼稚園教育は小学校の入試のため。小学校教育は中学校の入試のため。さらに中学や高校は大学入試のため。大学は就職のため、と。また社会へ出てからも、いつも「今」を未来のために犠牲にするようになる。

こうした生き方は、休暇のすごし方にもあらわれる。日本人はたまの休みが与えられても、その休みの間は休みが終わったあとの仕事のことしか考えない。だからのんびりと休むこともできない。子どもについても同じ。子どもが日曜日に家でゴロゴロしていようものなら、親はこう言う。「宿題はやったの?」「来週のテストはだいじょうぶ?」と。

 が、何といっても日本人の最大の悲劇は、そのバーチャルな世界に住みながらも、それがバーチャルな世界だと気づかないところにある。それはまさしく映画「マトリックス」の世界といってもよい。「今を生きる」という本分が、どこかへ飛んでいってしまい、わからなくなってしまう。

 ……と書いたが、ここから先は、それぞれの人の生きざまの問題。私のようなものがとやかくいう問題ではない。あとは皆さんの判断による。ただ誤解しないでほしいのは、だからといって先祖を粗末にしてよいとか、そういうことを言っているのではない。「あくまでも生きる本分を忘れてはならない」と、私は言っているのである。




 
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(109)

●生きる誇り

 私の留学の世話人になってくれたのが、正田英三郎氏だった。皇后陛下の父君。そしてその正田氏のもとで、実務を担当してくれたのが、坂本義行氏だった。坂本竜馬の直系のひ孫氏と聞いていた。私は東京商工会議所の中にあった、日豪経済委員会から奨学金を得た。正田氏はその委員会の中で、人物交流委員会の委員長をしていた。その東京商工会議所へ遊びに行くたびに、正田氏は近くのソバ屋へ私を連れて行ってくれた。

そんなある日、私は正田氏に、「どうして私を(留学生に)選んでくれたのですか」と聞いたことがある。正田氏はそばを食べる手を休め、一瞬、背筋をのばしてこう言った。「浩司の『浩』が同じだろ」と。そしてしばらく間をおいて、こう言った。「孫にも自由に会えんのだよ」と。

 おかげで私はとんでもない世界に足を踏み入れてしまった。私が寝泊まりをすることになったメルボルン大学のカレッジは、各国の王族や皇族の子弟ばかり。私の隣人は西ジャワの王子。その隣がモーリシャスの皇太子。さらにマレーシアの大蔵大臣の息子などなど。毎週金曜日や土曜日の晩餐会には、各国の大使や政治家がやってきて、夕食を共にした。元首相たちはもちろんのこと、その前年には、あのマダム・ガンジーも来た。

ときどき各国からノーベル賞級の研究者がやってきて、数カ月単位で宿泊することもあった。しかし「慣れ」というのは、こわいものだ。そういう生活をしても、自分がそういう生活をしていることすら忘れてしまう。ほかの学生たちも、そして私も、自分たちが特別の生活をしていると思ったことはない。意識したこともない。もちろんそれが最高の教育だと思ったこともない。が、一度だけ、私は自分が最高の教育を受けていると実感したことがある。

 カレッジの玄関は長い通路になっていて、その通路の両側にいくつかの花瓶が並べてあった。ある朝のこと、花瓶の1つを見ると、そのふちに50セント硬貨がのっていた。だれかが落としたものを、別のだれかが拾ってそこへ置いたらしい。当時の50セントは、今の貨幣価値で800円くらいか。もって行こうと思えば、だれにでもできた。しかしそのコインは、次の日も、また次の日も、そこにあった。4日後も、5日後もそこにあった。私はそのコインがそこにあるのを見るたびに、誇らしさで胸がはりさけそうだった。そのときのことだ。私は「最高の教育を受けている」と実感した。

 帰国後、私は商社に入社したが、その年の夏までに退職。数か月東京にいたあと、この浜松市へやってきた。以後、社会的にも経済的にも、どん底の生活を強いられた。幼稚園で働いているという自分の身分すら、高校や大学の同窓生には隠した。しかしそんなときでも、私を支え、救ってくれたのは、あの50セント硬貨だった。

私は、情緒もそれほど安定していない。精神力も強くない。誘惑にも弱い。そんな私だったが、曲がりなりにも、自分の道を踏みはずさないですんだのは、あの50セント硬貨のおかげだった。私はあの五十セント硬貨を思い出すことで、いつでも、どこでも、気高く生きることができた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(110)

●恐怖症は心の発熱

 先日私は、交通事故で、危うく死にかけた。九死に一生とは、まさにあのこと。今、こうして文を書いているのが、不思議なくらいだ。が、それはそれとして、そのあと、妙な現象が現れた。夜、自転車に乗っていたのだが、すれ違う自動車が、すべて私に向かって走ってくるように感じたのだ。私は少し走っては自転車からおり、少し走ってはまた、自転車からおりた。こわかった……。恐怖症である。

子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になりやすい。たとえば以前、「学校の怪談」というドラマがはやったことがある。そのとき「小学校へ行きたくない」と言う園児が続出した。これは単なる恐怖心だが、それが高じて、精神面、身体面に影響が出ることがある。それが恐怖症だが、この恐怖症は子どもの場合、何に対して恐怖心をだくかによって、ふつう、次の三つに分けて考える。

 【対人(集団)恐怖症】子ども、特に幼児のばあい、新しい人の出会いや環境に、ある程度の警戒心を持つことは、むしろ正常な反応とみる。知恵の発達がおくれぎみの子どもや、注意力が欠如している子どもほど、周囲に対して、無警戒、無とんちゃくで、はじめて行ったような場所でも、我が物顔で騒いだりする。が、反対にその警戒心が、一定の限度を超えると、人前に出ると、声が出なくなる(失語症)、顔が赤くなる(赤面症)、冷や汗をかく、幼稚園や学校がこわくて行けなくなる(不登校)などの症状が現れる。

 【場面恐怖症】その場面になると、極度の緊張状態になることをいう。エレベータに乗れない(閉所恐怖症)、鉄棒に登れない(高所恐怖症)などがある。私も子どものころ、暗いトイレがこわくて、用を足すことができなかった。そのせいかどうかは知らないが、今でもトンネルなどに入ったりすると、ぞっとするような恐怖感を覚える。

 【そのほかの恐怖症】動物や虫をこわがる(動物恐怖症)、手の汚れやにおいを嫌う(疑惑症)、先のとがったものをこわがる(先端恐怖症)などもある。ペットの死をきっかけに死を極端にこわがるようになった子ども(年長男児)もいた。

 子ども自身の力でコントロールできないから、恐怖症という。そのため説教したり、しかっても意味がない。一般に「心」の問題は、1年単位、2年単位で考える。子どもの立場で、子どもの視点で、子どもの心を考える。無理な誘動や強引な押し付けは、タブー。無理をすればするほど、逆効果。ますます子どもは物事をこわがるようになる。いわば心が熱を出したと思い、できるだけそのことを忘れさせるような環境を用意する。症状だけをみると、神経症と区別がつきにくい。

私の場合も、その事故から数日間は、車の速度が50キロ前後を超えると、目が回るような状態になってしまった。「気のせいだ」とは分かっていても、あとで見ると、手のひらがびっしょりと汗をかいていた。恐怖症というのはそういうもので、自分の理性や道理ではどうにもならない。そういう前提で、子どもの恐怖症に対処する。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(111)

●疑わしきは罰する

 今、子どもたちの間で珍現象が起きている。四歳を過ぎても、オムツがはずせない。幼稚園や保育園で、排尿、排便ができず、紙オムツをあててあげると、排尿、排便ができる。六歳になっても、大便のあとお尻がふけない。あるいは幼稚園や保育園では、大便をがまんしてしまう。反対に、その意識がないまま、あたりかまわず排尿してしまう。原因は、紙オムツ。最近の紙オムツは、性能がよすぎる(?)ため、使用しても不快感がない。子どもというのは、排尿後の不快感を体で覚えて、排尿、排便の習慣を身につける。

 このことをある雑誌で発表しようとしたら、その部分だけ削除されてしまった(M誌88年)。「根拠があいまい」というのが表向きの理由だったが、実はスポンサーに遠慮したためだ。根拠があるもないもない。こんなことは幼稚園や保育園では常識で、それを疑う人はいない。紙オムツをあててあげると排尿できるというのが、その証拠である。

 ……というような問題は、現場にはゴロゴロしている。疑わしいが、はっきりとは言えないというようなことである。その一つが住環境。高層住宅に住んでいる子どもは、情緒が不安定になりやすい…? 実際、高層住宅が人間の心理に与える影響は無視できない。こんな調査結果がある。

とえば妊婦の流産率は、6階以上では24%、10階以上では39%(1~5階は5~7%)。流・死産率でも6階以上では21%(全体8%)(東海大学医学部逢坂氏)。マンションなど集合住宅に住む妊婦で、マタニティーブルー(うつ病)になる妊婦は、一戸建ての居住者の四倍(国立精神神経センター北村俊則氏)など。

母親ですら、これだけの影響を受ける。いわんや子どもをや。さらに深刻な話もある。

 今どき野外活動か何かで、真っ黒に日焼けするなどということは、自殺的行為と言ってもよい。私の周辺でも、何らかの対策を講じている学校は、1校もない。無頓(とん)着といえば無頓着。無頓着過ぎる。オゾン層のオゾンが1%減少すると、有害な紫外線が2%増加し、皮膚がんの発生率は4~6%も増加するという(岐阜県保健環境研究所)。実際、オーストラリアでは,1992年までの7年間だけをみても、皮膚がんによる死亡件数が、毎年10%ずつふえている。日光性角皮症や白内障も急増している。

そこでオーストラリアでは、その季節になると、紫外線情報を流し、子どもたちに紫外線防止用の帽子とサングラスの着用を義務づけている。が、この日本では野放し。オーストラリアの友人は、こう言った。「何も対策をとっていない? 信じられない」と。ちなみにこの北半球でも、オゾン層は、すでに10~40%(日本上空で10%)も減少している(NHK「地球法廷」)。

 法律の世界では「疑わしきは罰せず」という。しかし教育の世界では「疑わしきは罰する」。子どもの世界は、先手先手で守ってこそ、はじめて、守れる。害が具体的に出るようになってからでは、手遅れ。たとえば紫外線の問題にしても、過度な日焼けはさせない。紫外線防止用の帽子を着用させる、など。あなたが親としてすべきことは多い。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(112)

●今を生きる

 定年退職が近づくと、それぞれが退職後の夢を話し始める。「田舎へ入って農業をする」「妻と船で世界を回る」「自動車で日本を一周する」など。「四国八八か所を歩いて回る」と言った人もいた。しかし人生観などというのは、退職と同時にそんなに簡単に変えられるものではない。「組織」というバーチャル(仮想現実)な世界に生きてきた人が、退職と同時に、「生きる本分」に戻れるとは、私は思わない。

このタイプの人は、自分がバーチャルな世界にいることすら気づいていない。退職と同時に、その気力も消えうせ、仮に旅に出たとしても、帰ってきてからの仕事ばかり考えるにちがいない。また退職後、しばらく仕事をしないでいると、体そのものが動かなくなることだってある。いや、それまで健康がもつかどうかさえあやうい。

 地位、肩書き、名誉、さらに学歴、家柄がすべてバーチャルであるように、実のところ未来もバーチャルとみる。そんなものはどこにもない。ないことは、飼っている犬を見ればわかる。庭の土の上をうごめくアリを見ればわかる。そんなものはすべて、ここ1000年、あるいは2000年のうちに人間が勝手に作り出したもの。数10万年もの人類の歴史からみれば、ほんの一瞬のうちにできたものにすぎない。

大切なことは「今」という現実の中で、精一杯、自分らしく、この「時」をしっかりとつかみながら生きること。過去という存在しないものにこだわる必要はない。同じように、未来という存在しないもののために、「今」を犠牲にしてはいけない。結果はあくまでも、あとからついてくる。あるいはその結果として、地位、肩書き、名誉があるとするなら、それはそれでかまわない。大切なことは生きる本分を忘れないことだ。これを忘れると、バーチャルな世界にハマってしまう。

 夢があるなら、「今」すればよい。決してあと回しにしてはいけない。田舎へ入って農業をしたければ、今からする。近くに畑を借りて、野菜を育てるのもよいだろう。妻と船で世界を回りたければ、手始めに、韓国や台湾あたりに行ってみればよい。自動車で日本一周をしたければ、今度の日曜日には、あなたの町を一周してみればよい。今、やるべきこと。今、やれることは、いくらでもある。それが「今を生きる」ということになる。

 子どもにしてもしかり。大切なことは、子どもが子どもらしく、いかに「今」という時の中で、自分を輝かせていきるか、だ。それともあなたは……、いや、こんな愚かな母親だいた。息子(中3)が高校受験に失敗したとき、その母親は息子にこう言った。「幼稚園のときから英語教室や算数教室に通ったけど、みんなムダだったわね」と。バーチャルな世界に生きる人は、そういうようなものの考え方をする。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(113)

●子どもの集中力

 集中力と子どもの知的能力は、表裏の関係にある。集中力のある子どもは、すぐれた知的能力をみせる。このタイプの子どもは一度何かに集中し始めると、他人を寄せつけない気迫に包まれる。一方、集中力のない子どももいる。何ごとにつけあきっぽく、しばらくするとすぐ、「退屈~ウ」とか、「つまらな~イ」とか言い出す。

 そんなわけで、つまり知的能力を高める方法があまりないのと同じように、集中力をつける方法というのも、それほどない。あるとすれば、集中力をなくさせるようなことをしないという消極的なものでしかない。たとえば無理、強制、条件、比較などを日常的にして、子どもからやる気を奪う。

慢性的な睡眠不足状態にするなど。言いかえると、子どもの集中力を最大限引き出すためには、できるだけこうした方法を避けるということになる。が、それでも集中力が続かないとしたら……。答は簡単。あきらめる。それがその子どもの能力の限界と知ったうえで、あきらめる。

 よく誤解されるが、サッカーならサッカーで、すぐれた集中力をみせるからといって、知的な面でも集中力があるということにはならない。(もちろん両面ですぐれた集中力を示す子どももいるが……。)脳の中でも運動面をつかさどるのが、大脳半球の中の運動野(中心前回)という部分。知的能力をつかさどるのが、連合野という部分。連合野は人がサルから進化する過程でとくに発達した部分であり、運動をつかさそる運動野とはまったく別物と考えるのが正しい。

 ただ教育的には方法がないわけではない。子どもの方向性を見きわめたうえで、うまく好奇心を引き出しながらそれに集中させるなど。算数はきらいでも、虫が好きで、虫のこととなると夢中で調べる子どもは、いくらでもいる。あるいは英語には、「楽しく学ぶ子どもはよく学ぶ」というのもあるが、子どもを好きにさせるという方法もある。まずいのは、満腹状態の子どもに、さらに食事を与えるような行為。集中力がなくなって当然である。

 この集中力がなくなると、子どもは、フリ勉(まじめに勉強しているフリだけをする)、ダラ勉(ダラダラと身をもてあます)、時間ツブシ(つめをほじったり、やらなくてもよいような簡単な問題ばかりをする)がうまくなる。こうした症状が出てきたら、できるだけ早い時期に、家庭教育のあり方を猛省したほうがよい。小学低学年で一度そういう症状を身につけると、なおすのは容易ではない。

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