●中国の教育の現状
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中国の教育の現状を知ると、そのまま
それが40年前、30年前の日本であることを知る。
中国は日本を追いかけているのか。
それとも日本とは別の道を進みつつあるのか。
あるいは日本も中国も、同じなのか。
Record Chinaは、中国の教育にかけるのは、
「議論」と「消化」であると看破している。
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Record Chinaは、中国の教育の現状について、『中国では、哲学者は育たない』と出して、つぎのように伝える(ヤフー・ニュース・09・06・14日より転載)
『2009年6月、米紙ボストングローブは記事「米国人学生の目から見た中国の教育」を掲載した。米国の私立小学校、公立中学校を卒業した学生が、中国の教育について語った。12日、鳳凰鋭評が伝えた。
米国の教室では子どもたちはいつもわいわいと騒いでいた。一方、北京の学校は厳粛な空気に包まれて息苦しいほど。しかしボストンの学校で学んだことは北京の学校で学んだことよりも多かったように思う。
中国の勉強方法といえば、教科書の暗唱、黙って問題を解く、あるいは声をそろえての発話練習など。すべては受験の準備にあてられている。それも仕方がないところだろうか、中国の高校や大学は点数だけで計られるからだ。中国の学生が必死に勉強するさまは、名門ハーバード大学を目指す米国学生ですらもかなわないだろう。
ただし自由討論や自分なりの解決方法の模索に慣れた米国人学生にとって中国の授業はあまりにも空虚で制約されたもののように思える。中国では1クラスには平均45人の学生がいる(ボストンでは28人)。学生の数も教師が一人一人に気をかけることを難しくしている。
中国の教育課程は自由度が少なく、数学もコンピューターの授業もただ一つの解決方法しかない。作文の機会も少なく、読む本といえば歴史や古典、漢詩ばかりで小説を読むことは少ない。しかしこうしたなか、学生は議論の機会を持てず、学んだ知識を消化することができない。米国人にとっては深く思索すること、決断することこそが教育の重要な一部であるが、中国の中高生にはほとんどこうした経験がない。中国の学校にも多くの長所があろうが、しかし哲学者を育てるものではないようだ』(以上、翻訳・編集KT)。
この記事の中で、とくに気になったのは、「学生は議論の機会を持てず、学んだ知識を消化することができない」という部分。
「議論」と「消化」。
さすがアメリカの学生。
鋭いことを指摘している。
(1)議論
日本の教育の最大の欠陥といえば、「議論しない」という点にある。
「議論を許したら、教育がバラバラになってしまう」と考える風潮すらある。
明治の昔から、さらに江戸時代の寺子屋の昔から、この日本では、「もの言わぬ従順な民づくり」が基本だった。
「教育」という言葉にしても、「教え育てる」(田丸謙二先生指摘)。
さらに「学ぶ」という言葉も、「マネブ」、つまり「まねる」に由来するという(同)。
つまり上意下達方式が、日本の教育の(柱)になっている。
(2)消化
知識や情報は、脳の中で一度加工されて、はじめて意味をもつ。
加工されない知識や情報は、ただの知識であり情報。
田丸先生は、「そんなものは、今ではインターネットで自由に手に入れることができる」と言っている。
つまり無価値。
そういう無価値なものを、価値あるものと錯覚しているところに、日本の教育の最大の悲劇がある。
(ちょっと言いすぎかな?)
もちろん、だからといって情報や知識を否定しているのではない。
大切なことは、情報や知識を得たら、それを頭の中で加工すること。
わかりやすく言えば、「自ら考えること」。
田丸先生は、「Independent Thinker」(自分で考える人)という言葉を使って、それを説明している。
「教育では、自分の頭で考えさせることが、何よりも大切」と。
1971年にペキン大学に留学したことのあるD・キシア君(現在、私の親友)は、こう話してくれた。
「みな、中国の学生はテープレコーダーみたいだった」と。
つまりみな、同じようなことしか、言わなかった、と。
同じようなことを田丸先生も、私に話してくれたことがある(YOUTUBEに収録)。
それから40年。
中国はいまだに、その流れの中にあるらしい。
では、この日本はどうなのか?
だいじょうぶなのか?
その一例として、私はテレビ番組の、あのバラエティ番組をあげる。
何もバラエティ番組が、日本人の脳みそに影響を与えていると思っているわけではない。
ああいう番組が無数にあり、つぎからつぎへと同じような番組が生まれているというところに、日本人の思考能力の貧弱性が集約されている。
視聴率を稼げるから、テレビ局もそういった番組を作りたがる。
つまり日本人が総バラエティ番組化しているのではなく、日本人自身が、そういう番組を下から支えている。
脳に飛来した情報を、ペラペラと口にしているだけ。
だれも考えない。
何も考えない。
だからいくら話をしても、その話は、そのままどこかへ消えていく。
ただの雑談。
もちろん哲学を生み出すなどということは、夢のまた夢。
言うなれば、情報のゴミ。
そのゴミの中に埋もれながら、私たちは生きている(?)。
(これも、ちょっと言いすぎかな?)
ともあれ、「議論」と「消化」。
この記事を読んで、私はこの2つの言葉に、ドキッとした。
つづいて、「米国人にとっては深く思索すること、決断することこそが教育の重要な一部であるが、中国の中高生にはほとんどこうした経験がない」とまで言い切っている。
「さすが、アメリカの学生!」と、私は感心した。
と同時に、「いつになったら、日本の学生も、そういうことを言うことができるようになるのか」と、不安になった。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 中国の教育の現状 中国の教育 情報と知識 議論 debate)
2009年6月14日日曜日
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