ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(114)
●受験競争の魔力
受験競争に巻き込まれれば巻き込まれるほど、子どもはもちろんのこと、親もその住む世界を小さくする。この世界では、勝った負けたは、当たり前。取るか取られるか、蹴落とすか蹴落とされるか……。教育とは名ばかり。その底流では、ドス黒い人間の欲望がはげしくウズを巻いている。ある母親は受験どころか、子ども(中学生)がテスト週間を迎えるたびに病院通いをしていた。
いわく「テスト中は、お粥しかのどを通りません」と。子どもの受験競争が高じて、親どうしがいがみあう例となると、まさに日常茶飯事。幼稚園という世界でも、珍しくない。現に今、言ったの言わないのがこじれて、裁判ザタになっているケースすらある(小学校)。さらに息子(中3)が高校受験に失敗したあと、自殺をはかった母親だっている!
こうした狂騒は部外者が見ると、バカげているとわかるが、当の本人たちはそうでない。それはまさしく命がけ、血みどろの戦い。もっともこうした戦いが親の世界だけでとどまっているならまだしも、子どもの世界まで巻き込んでしまう。さらに学校という教育の世界まで巻き込んでしまう。この受験競争だけが原因とは言えないが、そのため心を病む教師はあとを断たない。
東京都の調べによると、東京都に在籍する約6万人の教職員のうち、新規に病気休職した人は、93年度から4年間は毎年210人から220人程度で推移していたが、97年度は、261人。さらに98年度は355人にふえていることがわかった(東京都教育委員会調べ・九九年)。
この病気休職者のうち、精神系疾患者は。93年度から増加傾向にあることがわかり、96年度に一時減ったものの、97年度は急増し、135人になったという。この数字は全休職者の約52%にあたる。(全国データでは、97年度は休職者が4171人で、精神系疾患者は、1619人。)さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、うつ病、うつ状態が約半数をしめていたという。
何だかんだといっても、受験が教育の柱になっている。もしこの日本から、受験という柱を抜いたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育ですら崩壊する。問題はなぜ受験が教育の柱になっているかだが、それについては別のところで考えるとして、結論から先に言えば、受験が子どもや親を大きくする要素などどこにもない。仮にそれに打ち勝ったとしても、「何とかうまくやった」というあと味の悪さが残るだけ。
受験競争は決して教育ではない。そういう前提で、一歩退いてつきあう。そういう冷静さがあなたの心を守り、あなたの子どもの心を守る。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(115)
●10%のニヒリズム
テレビドラマに「三年B組金八先生」※というのがある。まさに熱血漢教師のドラマだが、実際にはああいう教師はいない。それはちょうどアクションドラマの中で、暴力団と刑事がピストルでバンバンと撃ちあうようなものだ。
ドラマとしてはおもしろいが、現実にはありえない。仮に金八先生のような教師がいたとすると、その教師はあっという間に、身も心もボロボロにされる。第一、この世界には内政不干渉の原則というのがある。いくら問題が家庭におよんでも、教師は家庭問題までクビをつっこんではいけない。またその権利もなければ義務もない。つっこんだらつこんだで、たいへんなことになる。私にもいろいろな経験がある。
私はある時期、毎日のように母親教室を開いていた。が、それがよくなかった。ある朝まだ床の中で眠っていると、一人の男がいきなり飛び込んできて、こう叫んだ。「うちの女房が妊娠した。どうしてくれる!」と。寝耳に水とはまさにこのこと。私が驚いていると、その様子から察したのか、その男はこう言った。「すまんすまん。カマだ」と。
話を聞くと、その男の妻がその前夜から家出をしたという。そこでその男は、妻がよく口にしていた私のところへ逃げてきたと思ったらしい。その妻というのは、私の母親教室の熱心な受講生だった。以来私は、毎日の母親教室を、週1回に減らした。同時に、子どもの子育ての問題以外、「私は関係ない」という姿勢を貫くようにした。
こうしたトラブルは、本当に多い。毎年少しずつ賢くなったつもりだが、つい油断をすると、同じような失敗を繰り返す。そこで10%のニヒリズム。昔、どこかの教師が懇談会の席でそう教えてくれた。
「どんなに教育に没頭しても、100%、全力投球してはいけない。最後の10%は自分のためにとっておく。裏切られてもキズつかないようにするためだ」と。実際、この世界、報われることよりも、裏切られることのほうが多い。10%のニヒリズムは、そのための処世術である。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(116)
●小食で困ったら、冷蔵庫をカラに
体重15キロの子どもが、缶ジュースを1本飲むということは、体重60キロのおとなが、4本飲む量に等しい。いくらおとなでも、缶ジュースを4本は飲めない。飲めば飲んだで、腹の中がガボガボになってしまう。アイスやソフトクリームもそうだ。子どもの顔よりも大きなソフトクリームを一個子どもに食べさせておきながら、「うちの子は小食で困っています」は、ない。
突発的にキーキー声をはりあげて、興奮状態になる子どもは少なくない。このタイプの子どもでまず疑ってみるべきは、低血糖。一度に甘い食品(精製された白砂糖の多い食品)を大量に与えると、その血糖値をさげようとインスリンが大量に分泌される。が、血糖値がさがっても、さらに血中に残ったインスリンが、必要以上に血糖値をさげてしまう。
つまりこれが甘い食品を大量にとることによる低血糖のメカニズムだが、一度こういう状態になると、脳の抑制命令が変調をきたす。そしてここに書いたように、突発的に興奮状態になって大声をあげたり、暴れたりする。このタイプの子どもは、興奮してくるとなめらかな動きがなくなり、カミソリでものを切るように、スパスパした動きになることが知られている。
アメリカで「過剰行動児」として、30年ほど前に話題になったことがある。日本でもこの分野の研究者は多い(岩手大学名誉教授の大澤氏ほか)。そこでもしあなたの子どもにそういう症状が見られたら、一度砂糖断ちをしてみるとよい。効果がなくて、ダメもと。一周間も続けると、子どもによってはウソのように静かに落ち着く。
話がそれたが、子どもの小食で悩んでいる親は多い。「食が細い」「好き嫌いがはげしい」「食事がのろい」など。幼稚園児についていうなら、全体の約50%が、この問題で悩んでいる。で、もしそうなら、一度冷蔵庫をカラにしてみる。お菓子やスナック菓子類は、思いきって捨てる。「もったいない」という思いが、つぎからのムダ買いを止める力になる。そして子どもが食事の間に口にできるものを一掃する。
子どもの小食で悩んでいる親というのは、たいてい無意識のうちにも、間食を黙認しているケースが多い。もしそうなら、間食はいっさい、やめる。
(小食児へのアドバイス)
(1)ここに書いたように、冷蔵庫をカラにし、菓子類はすべて避ける。
(2)甘い食品(精製された白砂糖の多い食品)を断つ。
(3)カルシウム、マグネシウム分の多い食生活にこころがける。
(4)日中、汗をかかせるようにする。
ただ小食といっても、家庭によって基準がちがうので、その基準も考えること。ふつうの家庭よりも多い食物を与えながら、「少ない」と悩んでいるケースもある。子どもが健康なら、小食(?)でも問題はないとみる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(117)
●常識は静かに引き出す
ものごとを静かに考え、正しい判断をくだし、その判断に従って行動する力のことを、「バランス感覚」という。このバランス感覚がないと、子どもはかたよった考え方や、極端なものの考え方をするようになる。たとえば「この地球上の人間は、核兵器か何かで、半分くらいは死ねばいい」と言った男子高校生がいた。あるいは「私は結婚して、早く未亡人になり、黒い喪服を着てみたい」と言った女子高校生がいた。そういうようなものの考え方をするようになる。
このバランス感覚を別の言葉で言いかえると、「豊かな常識」ということになる。この常識というのは、だれにも平等に備わっているかのようにみえるが、そうではない。常識のない人はいくらでもいる。しかも幼児期にすでにそれが決まる。そこで「教育!」ということになるが、実際には子どもに教えるのはたいへんむずかしい。
いや、教えて教えられるものではない。親としてせいぜいできることがあるとすれば、常識を奪わないということ。威圧的な過干渉、権威主義的な押しつけ、神経質な過関心が日常化すると、子どもはいわゆる常識ハズレの子どもになる。
昔、一生懸命粘土をコンセントに詰めて遊んでいた子ども(年長男児)がいた。先生のコップに殺虫剤を入れた子ども(中学男子)がいた。バケツに絵の具を溶かして、それを二階のベランダから下を歩く子どもにかけていた子ども(年長男児)などがいた。ふつう子どものいたずらというと、どこかほのぼのとした子どもらしさを感ずるが、それがない。常識というブレーキがかからないためと考える。
一般に子どもがドラ息子化すると、子どもからこのバランス感覚が消える。子どもというのはきびしさとやさしさが、ほどよく調和した環境の中で、心をはぐくむ。が、たとえば父親が極端にきびしく、母親が極端に甘いとか、あるいはガミガミときびしい反面、結局は子どもの言いなりになってしまうような甘い環境が続くと、子どもはドラ息子化する。症状としては、自分勝手でわがまま、約束や目標が守れない、依存心が強い割に無責任になるなど。
常識力を養うためには、子どもには自分で考える時間を、たっぷりとあげる。「あなたはどう思うの?」「あなたはどうしたいの?」と聞きながら、子どもが何かを答えるまでじっと待つ。そういう姿勢が子どもを常識豊かな子どもにする。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(118)
●個性とは
「私は私」という生きざまを貫くことを、個性という。しかしこの日本にはそれを支えるだけの土壌がまだない。社会のしくみそのものもそうだ。昨年(2001年)、東京に「フリーター撲滅運動」なるものを始めた高校の校長がいた。
「撲滅」というのは、「たたきのめして滅ぼす」という意味だ。高校の校長という、きわめて恵まれた環境、つまり酸素もエサも自動的に与えられる水槽のような世界に住んでいる人が、そういうことを言うからおかしい。私はそのフリーターを、もう40年近くもしてきた。たしかに社会的に不利だが、不利なのは、社会の制度がそれだけ不公平だからにほかならない。
教育もまた、個性を伸ばすしくみになっていない。たとえば全国の小学校で英語教育が実験的になされているが、いまだに「すべきかどうか」で議論している。その議論はちょうど平成元年のころ議論が始まったから、もう20年以上になるのでは……?
しかし北海道のハシから沖縄県のハシまで同じ教育というのはおかしい。英語についていえば、英語教育が必要だと思う親もいれば、そうでないと思う親がいる。英語を学びたいと思っている子どももいれば、そうでないと思っている子どももいる。英語教育をしたいと思っている教師もいれば、そうでない教師もいる。だったら、そういうのは、個人の選択に任せればよい。その分学校を早く終わって、ドイツのように子どもたちはクラブへ行けばよい。
こうした実用的な教育は民間に任せたほうが、はるかに効率よくいく。またこういうのを教育の自由化、あるいは規制緩和というのではないのか。学校の先生にしても、教育はもちろんのこと、しつけから心のケア、さらには家庭問題まで、こうまで押しつけられたらたまらない。……と思っていると思う。ある小学校の教師はこう言った。「忙しすぎて、授業中だけが休みの場所です」と。
「子どもの個性を伸ばせ」と簡単に言うが、ではあなた自身が、そういう個性を認めているかどうかというと疑わしい。あるいは個性というのがどういうものか、本当にわかっているだろうか。さらにあなたは「私は私」という生き方をしているだろうか。私たちは尾崎豊の言葉を借りるなら、「しくまれた自由」(「卒業」)の中で、あがきもがいているだけではないのか。
個性とは生きざまの問題。「私は私」という生きざまをどう確立するかで、その人の個性が決まる。くだらないことだが、子どもの髪の毛を茶パツに染めたりすることは、個性とはいわない。また個性というのは、そのレベルの問題ではない。またどこか常識ハズレのことをするのを個性と思っている人は多い。しかし個性というのは、繰り返すが、どこまでも生きざまの問題であって、行動の問題ではない。またそのレベルの問題ではない。
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