ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(25)
●カボチャの頭
親子を断絶させるものに、三つある。価値観の違い、リズムの乱れ、それに相互不信。それはまたべつのとろで考えるとして、親子の断絶は、最初は小さなキレツで始まる。しかもたいてい親が気づかないところで始まる。そこでテスト。
あなたの子どもが学校から帰ってきたら、どこでどう心を休めるか、観察してみてほしい。そのときあなたのいる前で、あなたのことを気にしないで心を休めているようであれば、あなたと子ども関係は良好とみてよい。
しかしもしあなたの子どもが、好んであなたのいないところで心を休めるとか、あなたの姿を見たとたん、どこかへ逃げていくようであれば、あなたと子どもの関係はかなり悪化しているとみてよい。今は小さなキレツかもしれないが、やがて断絶ということにもなりかねない。
ちなみに子ども(中学生)が、「心が休まる場所」としてあげたのは、(1)風呂の中、(2)トイレの中、それに(3)フトンの中(学外研・九八年報告)だそうだ。
それはそれとして、子どもが小さいときはともかくも、子どもが大きくなったら、家庭は、「しつけの場」から、「いこいの場」、あるいは「いやしの場」とならなければならない。子どもは学校で疲れた心を、その家庭でいやす。よく子どもに何か問題が起きたりすると、「そら、学校が悪い」「そら、先生が悪い」と言う人がいる。学校や先生に問題がないとは言わないが、しかし、もし子どもが家庭でじゅうぶん心を休めることができたら、それらの問題のほとんどは、その家庭の中で解決するはずである。そのためにも、つぎのことに注意する。
もし先のテストで、「好んであなたのいないところで心を休めるとか、あなたの姿を見たとたん、どこかへ逃げていく」というのであれば、子どもが心を休めている様子を見せたら、何も言わない、何も見ない、何も聞かない。できればあなたのほうがその場から遠ざかる。あれこれ気をつかうのもやめる。仮にだらしない様子を見せたとして、それは無視する。「家庭」というのは、もともとそういうもの。そういう前提で、家庭のあり方を反省する。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(26)
●逃げ場を大切に
どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。もちろん人間の子どもにもある。子どもがその逃げ場へ逃げ込んだら、親はその逃げ場を荒らしてはいけない。子どもはその逃げ場に逃げ込むことによって、体を休め、疲れた心をいやす。たいていは自分の部屋であったりするが、その逃げ場を荒らすと、子どもの情緒は不安定になる。ばあいによっては精神不安の遠因ともなる。
あるいはその前の段階として、子どもはほかの場所に逃げ場を求めたり、最悪のばあいには、家出を繰り返すこともある。逃げ場がなくて、犬小屋に逃げた子どももいたし、近くの公園の電話ボックスに逃げた子どももいた。またこのタイプの子どもの家出は、もてるものをすべてもって、一方向に家出するというと特徴がある。買い物バッグの中に、大根やタオル、ぬいぐるみのおもちゃや封筒をつめて家出した子どもがいた。(これに対して目的のある家出は、その目的にかなったものをもって家を出るので、区別できる。)
子どもが逃げ場へ逃げたら、その中まで追いつめて、叱ったり説教してはいけない。子どもが逃げ場へ逃げたら、子どものほうから出てくるまで待つ。そういう姿勢が子どもの心を守る。が、中には、逃げ場どころか、子どものカバンの中や机の中、さらには戸棚や物入れの中まで平気で調べる親がいる。仮に子どもがそれに納得したとしても、親はそういうことをしてはならない。こういう行為は子どもから、「私は私」という意識を奪う。
これに対して、親子の間に秘密はあってはいけないという意見もある。そういうときは反対の立場で考えてみればよい。いつかあなたが老人になり、体が不自由になったとする。そういうときあなたの子どもが、あなたの机の中やカバンの中を調べたとしたら、あなたはそれを許すだろうか。プライバシーを守るということは、そういうことをいう。秘密をつくるとかつくらないとかいう次元の話ではない。
むずかしい話はさておき、子どもの人格を尊重するためにも、子どもの逃げ場は神聖不可侵の場所として大切にする。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(27)
●友を責めるな
あなたの子どもが、あなたからみて好ましくない友だちとつきあい始めたときの鉄則がこれ。「友を責めるな、行為を責めよ」。
イギリスの格言だが、たとえばどこかでタバコを吸ったとする。そういうときは、タバコは体に悪いとか、タバコを吸うことは悪いことだと言っても、決して相手の子どもを責めてはいけない。名前を出すのもいけない。この段階で、たとえば「D君は悪い子だから、つきあってはダメ」などと言うと、それは子どもに、「友を選ぶか、親を選ぶか」の、二者択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなた(親)を選べばよいが、そうでなければあなたと子どもの間に大きなキレツを入れることになる。あとは子ども自身が自分で考え、その「好ましくない友だち」から遠ざかるのを待つ。
こういうケースでは、よく親は、「うちの子は悪くない。相手が悪い」と決めてかかることが多いが、あなたの子どもがその中心格になっていると考えて対処する。が、それでもうまくいかないときがある。そういうときは、つぎの手を使う。
子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のよい面を見せようとする。そこであなたは子どもの前で、相手の子どもをほめる。○○君は、おもしろい子ね。ユーモアがあって、お母さんは大好きよ」とか。あなたのそういう言葉は必ず相手の子どもに伝わる。
その時点で、相手の子どもは、あなたの期待にこたえようとし、その結果、あなたの子どもをよい方向に導いてくれる。いうなればあなたはあなたの子どもを通して、相手の子どもを遠隔操作するわけだが、これは子育ての中でも高等技術に属する。
ほとんどの親は、子どもが非行に向かうようになると、子どもを叱ってなおそうとする。暴力や威圧を加える親もいる。しかし一度こわれた子どもの心は、そんなに簡単にはなおらない。もしそういう状態になったら、今より症状を悪化させないことだけを考えながら、一年単位で子どもの様子をみる。あせって何かをすればするほど、逆効果になるので注意する。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(28)
●相手を喜ばす
子どもにとって(おとなもどうだが)、やさしい人というのは、思いやりのある人のことをいう。その思いやりのある子どもに育てるコツがこれ、「相手を喜ばす」。
たとえばスーパーなどでものを買い与えるときでも、直接子どもに買い与えるのではなく、「これがあるとパパが喜ぶわね」とか、「あとでお姉さんに半分分けてあげてね。お姉さんは喜ぶわよ」とか言うなど。昔、幼稚園にこんな子ども(年長男児)がいた。見るといつも三輪車にだれかを乗せ、それをうしろから押していた。そこで私が、「たまにはだれかに押してもらったら?」と声をかけると、その子どもはこう言った。「先生、ぼくはこのほうが楽しい」と。そういう子どもをやさしい子どもという。
よく誤解されるが、柔和でおとなしい子どもをやさしい子どもとは言わない。たとえばブランコを横取りされても、ニコニコ笑ってそのまま明け渡してしまうなど。むしろこのタイプの子どもほど、表情とは裏腹のところでストレスをためやすく、その分、心をゆがめやすい。教える側から見ると、いわゆる「何を考えているかわからない子」といった感じになる。
子どものやさしさは、心豊かな環境で、はぐくまれる。そのためにも、乳幼児期にはつぎの三つを避ける。(1)闘争心、(2)嫉妬心、(3)不満と不安。攻撃的な闘争心は、子どもの動物的な本能を刺激する。ばあいによっては、善悪の判断ができなくなり、性格そのものが、凶暴化することもある。
嫉妬心はえてして情緒不安の原因となる。赤ちゃんがえりに見られるように、本能的な部分で子どもの心をゆがめることもある。
またこの時期、不満や不安は、子どもの性格をゆがめる。攻撃的になったり、反対にものに固着したり執着したりする。さらに神経症や情緒不安、さらには精神不安の原因になることもある。要するにこの時期は、心静かで穏やかな環境を大切にする。
やさしさというのは、作って作れるものではない。家庭環境の中から、自然に生まれてくるものである。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(29)
●ベッドタイムゲーム
子どもは床についてから眠るまで、毎晩、同じことを繰り返す習性がある。これを英語では「ベッドタイムゲーム」(日本語では、「就眠儀式」)という。このベッドタイムゲームのしつけが悪いと、子どもはなかなか寝つかなくなるばかりでなく、ばあいによっては情緒そのものが不安定になることもある。もしあなたの子どもが寝る前になると決まって、ぐずったり(マイナス型)、暴れたりするようであれば(プラス型)、このしつけの失敗を疑ってみる。
方法としては、(1)毎晩同じことを繰り返すようにする。(2)心安らかな状態を大切にし、就寝前少なくとも一時間はテレビやゲームなど、はげしい刺激は避ける。(3)ベッドのまわりにぬいぐるみなどを置いてあげ、心が暖まる雰囲気をつくるなどがある。毎晩本を読んであげるとか、静かな音楽を聞かせるというのもよい。
まずいのは子どもを子ども部屋に閉じ込め、強引に電気を消してしまうような行為。こうした乱暴な行為が繰り返されると、子どもは眠ることそのものに恐怖心を抱くようになる。
ところで今、年長児(満六歳児)でも、5人のうち3人が、「ほとんど毎朝、こわい夢をみる」ことがわかっている(2001年・筆者調査)。「どんな夢?」と聞くと、「ワニに追いかけられる夢」「暗い穴にいる夢」「怪獣の夢」という答が返ってきた。子どもの世界がどこか不安定になっていると考えてよい。
ちなみに年中児で睡眠時間(眠ってから起きるまでのネット時間)は10時間15分、年長児で10時間(筆者調査)。子どもが小学生になると、睡眠時間はぐんと短くなるが、それでも最低九時間半を確保する。睡眠不足が知能の発育に影響を与えるというデータはないが、しかし睡眠不足が続くと集中力が弱くなる。あるいは突発的に興奮することはあっても、すぐ潮が引くようにぼんやりとしてしまう。園や学校などでの学習面で影響が出てくる。なお年中児になっても「昼寝グセ」が残っているようなら、その時間ガムをかかせるという方法でなおす。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(30)
●じゅうぶんな睡眠時間を
目をさましてから起きあがるまでの時間には、特別の意味がある。この時間、人間の心はもっとも静かな「時」を迎える。雑念や俗念、不安や心配、さらには恐怖や妄想から解放される。つまりこの時間、自分の「原点」をそこで見つめることができる。もっと言えば、その人がもっともその人らしくなる……。
パスカルは『思考が人間の偉大さをなす』(パンセ)と書いている。つまり考えるから人間は人間である、と。言いかえると、考えるかどうかで、その人の「質」が決まる。知識や知恵ではない。技術や肩書きでもない。反対に考えない人間がどうなるか。その例というわけではないが、深夜のバラエティ番組に出てくる若者たちを見ればそれがわかる。実に「軽い」。軽すぎて、「これが同じ人間か」とさえ思うときがある。自ら考える習慣のない人間は、そうなる。
子どもに考えさせる習慣を身につけさせるもっともよい方法は、子どもがひとり、静かに自分の時を過ごせるような時間と場所を用意することである。総じてみれば日本人は、集団教育のし過ぎ(……され過ぎ)。一人で静かに考えるという習慣そのものもないし、その価値を認めない。子どもが机に向かってひとりぼんやりしていたとすると、親や先生は、「何、しているんだ!」と、それを叱る。しかし大切なことは、「自分で考えること」だ。子どもがあれこれ自分で考える様子を見せたら、そっとしておいてあげる。
で、その一つの方法というわけではないが、子どもが目をさましてから、起きあがるまでの時間を大切にする。そういう意味でも、静かな目覚めを大切にする。またそのためにも、睡眠時間はたっぷりととる。まずいのは、「もう起きなさい!」と、まだ眠気まなこの子どもを、床の中から引きずり出すような行為。子どもが静かにものを考えることができる、せっかくの時間そのものを奪ってしまう。
前回と今回は、子どもの睡眠について考えてみたが、もう少し子どもの睡眠には、親は慎重であってもよいのではないか。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(31)
●子どもを自立させる
子育ての目標は、子どもを自立させること。その「自立」には二つの意味がある。子ども自身の自立と、親の自立である。依存心というのは相互的なもので、子どもに依存心をもたせることに無頓着な親は、一方で、自分自身もだれかに依存したいという潜在的な願望をもっていると考えてよい。つまり子どもを自立させたいと思ったら、親もまた自立しなければならない。こんな親(60歳女性)がいた。
会うと私にこう言った。「先生、息子なんて、育てるもんじゃないですね。息子は横浜の嫁に取られてしまいました」と。そしてさらに顔をしかめて、「親なんてさみしいもんですわ」と。その親は、息子が結婚して、横浜に住んでいることを、「取られた」というのだ。
こうした親は、親意識が強く、その強い分だけ、子どもを「モノ」と見る傾向が強い。そして自分にベタベタと甘える子どもを、かわいい子イコール、よい子とし、親に反発する独立心の旺盛な子どもを、「鬼っ子」として嫌う。こうした親の意識の背景にあるのが、依存心ということになる。もう少しわかりやすい言葉でいうなら、「甘え」ということになる。
子育ての目標は、子どもを自立させること。「あなたの人生だから、思う存分、あなたの人生を生きなさい。たった一度しかない人生だから、思いっきり大空を飛びなさい。親孝行……? そんなこと考えなくてもいい」と、一度は子どもの背中をたたいてあげる。それでこそ親は親としての義務を果たしたことになる。もちろんそのあと子どもが自分で考えて、親のめんどうをみるというのであれば、それは子どもの勝手。子どもの問題。
日本人は、国際的にみても、互いの依存心が強い国民である。長く続いた封建時代という時代が、こういう民族性をつくったとも言える。どこかの国に移住しても、すぐ日本人どうしが集まり、そこにリトル東京(日本人街)をつくったりする。親子関係もそうで、互いに甘え、甘えられる親子ほど、よい親子と評価する。
しかし依存心が強ければ強いほど、その人から「私」を奪う。しかしこれは、これからの日本人の生き方ではない。少なくとも、こうした生き方は、世界ではもう通用しない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(32)
●釣竿を買ってあげるより、魚を釣りに行け
子どもにより高価なものを買ってあげるのが、親の愛だと錯覚している人がいる。あるいは「高価なものを買ってあげたから、子どもとのきずなは強くなった」と考える人がいる。親は子どもはそれで感謝するだろうと思ってそうする。あるいはそれで子どもの心をつかんだと考える。しかしこれは誤解。
あるいはかえって逆効果。先日も一人の祖母が、孫(小4女児)のために、数万円もするような服を買ってあげているところがテレビで紹介されていた。レポーターが、「(そんな高価なもの)、いいんですか?」と聞くと、その女性は、「いいんです、いいんです。かわいい孫のことですから」と言っていた。が、こんな愚かなこと(失礼!)をするから、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。金銭感覚そのものがマヒする。たとえ一時的に感謝することはあっても、その感謝は決して長続きしない。
イギリスの教育格言に、『釣竿を買ってあげるより、一緒に魚を釣りに行け』というのがある。子どもの心をつかみたかったら、釣竿を買ってあげるより、子どもと魚釣りに行けという意味だが、これはまさに子育ての核心をついた格言である。少し前、どこかの自動車のコマーシャルにもあったが、子どもにとって大切なのは、「モノより思い出」。この思い出が親子のきずなを太くする。
日本人ほど、モノに執着する国民も、これまた少ない。アメリカ人でもイギリス人でも、そしてオーストラリア人も、彼らは驚くほど生活は質素である。少し前、オーストラリアへ行ったとき、友人がくれたみやげは、石にペインティングしたものだった。それには、「友情の一里塚(マイル・ストーン)」と書いてあった。日本人がもっているモノ意識と、彼らがもっているモノ意識は、基本的な部分で違う。そしてそれが親子関係にそのまま反映される。
さてクリスマス。さて誕生日。あなたは親として、あるいは祖父母として、子どもや孫にどんなプレゼントを買い与えているだろうか。ここでちょっとだけ自分の姿を振り返ってみてほしい。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(33)
●先生の悪口は言わない
教育もつきつめれば人間関係で決まる。教師と生徒との良好な人間関係が、よい教育の基本。この基本なくして、よい教育は望めない。そこで大原則。
「子どもの前では、先生の悪口は言わない」。先生を批判したり、あるいは子どもが先生の悪口を言ったときも、それに相槌(づち)を打ってはいけない。打てば打ったで、今度は、「あなたが言った言葉」として、それは先生の耳に入る。必ず、入る。子どもというのはそういうもので、先生の前では決して隠しごとができない。親よりも、園や学校の先生と接している時間のほうが長い。また先生も、この種の会話には敏感に反応する。
一方、先生もまた生身の人間。中には聖人のように思っている人もいるかもしれないが、そういうことを期待するほうがおかしい。子どもと接する時間が長いというだけで、先生とてこの文を読んでいるあなたと、どこも違わない。そこでこう考えてみてほしい。もしあなたが教師で、生徒にこう言われたとする。「あんたの教え方ヘタだって、ママが言っていたよ」と。そのときあなたはそれを笑って無視できるだろうか。中には、「あんたの教え方ヘタだから、今度校長先生に言って、先生をかえてもらうとママが言っていた」と言う子どもさえいる。あなたは生徒のそういう言葉に耐えられるだろうか。
教育というのは、手をかけようと思えば、どこまでもかけられる。しかし手を抜こうと思うえば、いくらでも抜ける。ここが教育のこわいところでもあるが、それを決めるのが、冒頭にあげた「人間関係」ということになる。実際、やる気を決めるのは、教師自身ではなく、この人間関係である。それを一方で破壊しておいて、「よい教育をせよ」はない。が、それだけではすまない。
あなたが先生の悪口を言ったり、先生を批判したりすると、子ども自身もまた先生に従わなくなる。一度そうなるとそれが悪循環となって、(損とか得とかいう言い方は好きではないが……)、結局は子ども自身が損をすることになる。仮に先生に問題があるとしても、子どもの耳に入らないところで、問題を処理する。子どもが先生の悪口を言ったとしても、「あなたが悪いからでしょ」と言ってのける。これも大原則の一つである。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(34)
●まじめな子ども
言われたことをきちんと、しかも従順にする子どものことを、まじめな子どもと考えている人がいる。しかしこれは誤解。その子どもがまじめかどうかは、その子どもがどれだけ自己規範(自分で考え、その判断に従って行動すること)を守れるかどうかで決まる。こんな子どもがいた。
ある日、バス停で1人の女の子(小3)に会った。以前の生徒だったので、「ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子はこう言った。「いいです。これから家に帰って、夕ご飯を食べますから。ジュースを飲んだら、夕ご飯が食べられなくなります」と。こういう子どもをまじめな子どもという。
子どものまじめさは、家庭環境で決まる。しかも0歳からの乳幼児期にかけて決まる……? そのことを、私は2匹の犬を飼ってみて知った。
私の家には2匹の犬がいる。1匹は、保健所で処分される寸前にもらってきた犬(これをA犬とする)。もう1匹は、愛犬家のもとで手厚く育てられた犬(これをB犬とする)。この2匹の犬は、我が家へ来てからずっと、性格は幼犬のときのまま。A犬は、もう15才にもなるが、忠誠心も弱く、裏の木戸があいていようものなら、すぐ遊びに出て行ってしまう。だれにでもシッポを振るから、番犬にはならない
一方B犬のほうは、態度も大きいが、忠誠心も強い。見知らぬ人が来たりすると、けたたましくほえる。実のところ人間も犬と同じ。生後まもなくから、親の手を離れて育った子どもや、育児拒否、家庭騒動、虐待を経験した子どもは、A犬のような性格をもつ。一方、心穏やかな環境で、親の愛をたっぷりと受けて育ったような子どもは、B犬のような性格をもつ。
これ以上のことは、あれこれ誤解を招くので。ここでは書けないが、子どもをここでいう「まじめな子ども」にしたかったら(当然だが……)、B犬が育ったような環境で、子どもを育てる。もっと言えば、子どもの側からみて、絶対的な安心感のある家庭で、子どもを育てる。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。そういう家庭があってはじめて子どもは、善悪を静かに判断して、それに従って行動できるようになる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(35)
●マトリックスの世界
少し前、キアヌ・リーブズ主演の、『マトリックス』という映画があった。おもしろい映画だった。仮想現実の世界を母体(マトリックス)と思い込んだ人たち(?)が、本当の母体を知るという映画だったが、しかしそれは映画の世界だけの話ではない。
子どもを育てるということは、人間を育てることをいう。教育というのがあるとするなら、それは子どもに生きるために必要な知識や経験を、武器として与えることをいう。しかしそれが今、逆転している。教育のために、子どもを育てるのが、この日本では子育ての基本になっている。そら進学だ、そら受験だ、と。
人間を育てる世界を母体(マトリックス)とするなら、教育の世界は、いわば仮想現実の世界ということになる。が、ほとんどの親はその仮想現実の世界にハマりながら、それが仮想現実の世界だとすら気づかないでいる……! こんなことがあった。
K君(中1)という、本当にまじめな子どもがいた。ただ能力的には、あまり恵まれていなかった。私のところへ来ても、ただひたすらコツコツと勉強をしていたが、そんなわけで学校での成績は思わしくなかった。で、最初の期末試験が終わったときのこと。K君の母親から電話がかかってきた。いわく、「成績が悪かった。もっと息子をしぼってほしい」と。しかし私はこう言った。「K君には、よくがんばったねと言うことはできても、これ以上がんばれとは、私には言えない」と。すると今度は父親から電話がかかってきて、「うちの息子はどうしても、S高(静岡県でも最難関の進学高校)へ入ってもらわねばならない。S高へ入れてもらえるか」と。そこで私が、「うちは進学塾ではありません」と言うと、「君はうちの子ではS高は無理と言っているのか。失敬ではないか!」と、怒り出してしまった。
この両親のばあいも、人間を育てるという本来の母体(マトリックス)を忘れてしまい、仮想現実の世界で子どもを育てていた。本末転倒という言葉があるが、まさにその本末が転倒していた。
映画「マトリックス」は、もちろんSF(空想科学)映画だが、しかしSFとばかり言えない面がある。一度仮想現実の世界にハマってしまうと、それが現実の世界だと思い込んでしまう。さて、あなたも一度、あなたの仮想現実の世界を疑ってみたらどうだろうか。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(36)
●こわい三大主義
子育てで避けたい主義に、スパルタ主義、完ぺき主義、それに極端主義がある。スパルタ主義や完ぺき主義はともかくも、問題は極端主義。子育てはどこか標準的、どこかいいかげん、どこかふつうという感じが大切。「どこか極端?」と感ずるような子育て法は、効果よりもその弊害を疑ってみたほうがよい。
ところでこの世界、つまり教育(子育て)評論の世界では、他人の子育て法には干渉しないという暗黙の了解がある。自分の正しさを前向きに主張しても、他人のそれは批判しない。しかし、だ。それでもおかしな教育法がある。
昔、Tヨットスクールという団体があった。それもそのひとつだが、最近でも、不登校の子どもやそれをもつ親に向かって、「バカヤロー」とか、「おまえら!」とか叫んでなおす(?)という女性が現れた。NHKテレビでも紹介されたというから驚きである(新聞の広告)。私は彼女が書いた本を2冊ほど読んだが、とても読むに耐えない内容の本だった。感情的というか、感情的すぎるほどの本だった。だいたいにおいて、不登校を「悪」と決めてかかる発想が、短絡的である。
いうなればこれもここでいう極端主義である。彼女は「不登校を怒鳴ってなおす」と言っているようだが、これは一方で、子どもの不登校問題を地道に考え、指導してきた人たちへの冒涜(ぼうとく)でもある。仮にそれでなおったかのように見えるとしても、さらに大きなキズを子どもの心に残すかも知れない。このことはあのTヨットスクールですでに証明されたことでもある。
ときどき、しかも忘れたころ、こうした極端な教育法がこの世界をにぎわす。不安のどん底にいる人にとっては、魅力的な教育法に見えるかもしれないが、こうした極端な教育法はまず疑ってみたほうがよい。あるいは近づかないほうがよい。
子育てというのは、あくまでも子どもという「人間」を見て判断する。しかしそれは難しいことではない。もしそれがわからなければ、子どもを「あなた」と置き換えてみるとよい。いつも「自分なら、それを望むだろうか」「自分なら、それができるだろうか」「自分なら、どうなるだろうか」と考えればよい。それでよい。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(37)
●教育カルトにご注意
以前、たまごっちというゲームがはやった。そのときのこと。あの電子の生き物(?)が死んだ(?)だけで、おお泣きする子どもはいくらでもいた。一方、その少しあと、今度は、ミイラ化した死体を、「生きている」とがんばったカルト教団が現れた。
この二つの事実は、まったく正反対で、関連性がないように思う人がいるかもしれないが、その「質」は同じとみる。つまり生きていない生き物(?)を死んだと思い込む回路と、死んだ人間を生きていると思い込む回路は、方向性こそ逆だが、その中身は同じ。子どもも、そしておとなも、ふとしたきっかけで、こうした回路にハマりやすい。
実のところ、教育の世界にもカルトは存在する。「S方式教育法」と言い出したら、あけてもくれても、「S方式」と言い出す。「M方式」と言い出したら、あけてもくれても「M方式」と言い出す。親や子どもではない。教育者自身がそう言い出す。そしてそれを盲信するあまり、ほかの教育法を徹底的に攻撃する……。次のような症状があれば、教育カルトを疑ってみる。
(1)「自分の教育法が絶対正しい」という反面、その返す刀で、「相手はまちがっている」という。
(2)絶対的な権威者をもちだし、その権威者を神か仏のようにあがめる。あがめる分だけ、「私」がどこかへ消える。「この教育法で学んだすばらしい子どもたちの演奏をお聞きください」と雑誌に書いていた人がいた。「私」というものがあれば、おこがましくて、ここまでは書けない。
(3) 狂信的な説明が多くなる。常識ハズレなことを言い出す。「どこかおかしい」と感じるような発言が多くなる。「この方式で学んだ子どもたちが、やがてゾロゾロと東大の赤門をくぐることになるでしょう」と書いている団体が、実際にある。
ひとつの教育法を盲信することは、その盲信する人にとっては、たいへん楽なことでもある。「考える」ということには、それ自体苦痛がともなう。そこで人は自分の思想を他人に預ける。しかしこれはたいへん危険なことでもある。いつしかとんでもない世界にハマりながら、それにすら気づかなくなる。それこそミイラ化した死体を見ながら、「生きている」とがんばるようなこともするようになる。
子育てではいつも「常識」を基準にして考える。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(38)
●帰宅拒否を疑う
不登校ばかりが話題になるが、それと同じくらい問題なのが、帰宅拒否。今、園でも学校でも、家に帰りたがらない子どもがふえている。もっとも子どものばあい、「帰りたくない」とは言わない。態度や行動で、それを示す。そこでもしあなたの子どもが、毎日家に帰ってくるのが、不自然に遅いとか、回り道をしてくるとか、あるいはいつも友だちの家に寄ってくるというのであれば、この帰宅拒否を疑ってみる。こんな子ども(年長男児)がいた。
帰りのバスの時刻になると、決まってどこかへ隠れてしまうのだ。炊事室の中や、園舎の裏など。で、そのたびに幼稚園中が大騒ぎ。やがて先生が手を焼き、親に迎えにきてほしいという手紙を出したが、このケースで、まず疑ってみるべきは、帰宅拒否である。「家に帰りたくない」という思いが、子どもをしてこうした行動をとらせるようになる。
もちろん原因は、家庭にある。家そのものが狭いとか窮屈ということもあるが、子どもの側からみて、息が抜けない、気が休まらないなど。それをまず疑ってみる。親の神経質な過干渉、過関心が原因となることも多い。ほかに家庭騒動、不和、崩壊などもある。家庭が家庭として機能していないとみる。
そこでテスト。あなたの子どもは、園や学校から帰ってきたとき、明るい声で、「ただいま!」と、意気揚々と帰ってくるだろうか。もしそうならそれでよい。しかしここに書いたように、様子がへんだと感じたら、家庭のあり方をかなり反省したほうがよい。こうした状態が長く続けば続くほど、子どもの心に深刻な影響を与える。最悪のばあいには、外泊、家出、さらには集団非行へと進みかねない。
前にも書いたが、「家庭(ホーム)」は、子どもにとっては、心をいやし、心を休める場所でなければならない。またそれができてこそ、「家庭」という。そういう家庭を用意するのは、親の義務と考えてよい。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(39)
●親のうしろ姿は見せない
子育てのために苦労している姿。生活のために苦労している姿。そういうのを、この日本では、「親のうしろ姿」という。こうしたうしろ姿は、親が見せたくなくても、子どもは見てしまうものだが、しかしそれを子どもに押し売りしてはいけない。
よい例が、窪田聡という人が作詞した、「かあさんの歌」である。「♪かあさんは夜なべをして、手袋編んでくれた……」というあの歌である。しかしあの歌ほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。そういう歌が、日本の名曲になっているところに、日本の子育ての問題点が隠されている。ちなみに、歌詞は、3番まであるが、3、4行目は、かっこつきになっている。つまりその部分は、母からの手紙の引用ということになっている。
「♪木枯らし吹いちゃ、冷たかろうて、せっせと編んだだよ」「♪おとうは土間で、ワラ打ち仕事。お前もがんばれよ」「♪根雪も溶けりゃ、もうすぐ春だで。畑が待っているよ」と。
あなたが息子であるにせよ、娘であるにせよ、親からこんな手紙をもらったら、それこそ羽ばたける羽もはばたけなくなってしまう。たとえそうであっても、親が子どもに手紙を書くとしたら、「村祭りに行ったら、手袋を売っていたから、買って送るよ」「おとうは居間で俳句づくり。新聞にもときどき、載るよ」「春になったら、みんなで温泉に行ってくるからね」である。
日本人は無意識のうちにも、子どもに、「産んでやった」とか「育ててやった」とか言って、恩を着せる。子どもは子どもで、「産んでもらった」とか「育ててもらった」とか言って、恩を着せられる。そしてそういう関係の中から、日本独特の親意識が生まれ、親孝行論が生まれる。
しかし子どもが親のために犠牲になる姿など、美徳でも何でもない。いわんや親がそれを子どもに求めたり、期待してはいけない。親は親で、自分の人生を前向きに生きる。そしてそういう姿を見て、子どもは子どもの人生を前向きに生きる。親子といえども、その関係は、1人の人間対1人の人間の関係である。一見冷たい人間関係に見えるかもしれないが、1人の人間として互いに認めあう。それが真の親子関係の基本である。あのイギリスのバートランド・ラッセル(イギリス・ノーベル文学賞受賞者、哲学者)もこう言っている。
「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれども、決して限度を超えないことを知っている、そんな両親のみが、家族の真の喜びを与えられる」と。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(40)
●成長を喜ぶ
まずテスト。あなたの子どもは何か新しいことができるようになったり、おもしろいことを発見したようなとき、あなたのところにやってきて、「見て、見て!」と言うだろうか。もしそうならそれでよし。しかしそういう会話が親子の間から消えているようなら、あなたはあなたの子育てをかなり反省したほうがよい。
子どもを伸ばす三大要素に、(1)好奇心(いつもあらゆる方向に触覚がのびている)、(2)生活力(自立し、自分で何でもできる)、(3)頭の柔軟さ(頭がやわらかく、臨機応変にものごとに対処できる)がある。
もちろん生まれつきの能力も関係するが、これは遺伝子の問題だから、教育的にはあまり論じても意味がない。で、こうした三大要素を側面から支えるのが、家庭、なかんずく「親」ということになる。こんな家庭があった。
その家庭には三人の男の子がいたが、皆、表情が明るく、伸び伸びとしていた。そこでその秘訣をさぐると、それは母親の言葉にあるのがわかった。子どもたちが何か、新しいことができるようになるたびに、その母親がそれを心底、喜んでみせるのである。下の子が上の子のおさがりをもらうときもそうだ。母親は下の子に、上の子のおさがりを着させながら、「おお、あんたもお兄ちゃんのが着られるようになったわね」と、喜んでみせていた。こうした家庭のリズムが、子どもたちを伸びやかにしていた。
子どもを伸ばすためには、子どもの成長を喜んでみせる。ウソではいけない。本心からそうする。そういう前向きな姿勢が親にあってはじめて、子どもも伸びる。が、そうでない親もいる。「あんたはダメな子ね」式の言い方をいつもする親である。子どもの表情が暗くなって当然。こういう家庭では、子どもは決して、「見て、見て!」とは言わない。「どうせ、ぼくはダメだ」と逃げてしまう。
もしそうなら、今日からでも遅くないから、子どもの成長を喜ぶようにする。たとえテストの点が悪くても、「去年よりはずっとよくなったわね」などと言う。そういう姿勢が子どもを伸ばす。子どもの表情を明るくする。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(41)
●子どもを知る
「己の子どもを知るは賢い父親だ」と言ったのはシェークスピア(「ベニスの商人」)だが、それくらい自分の子どものことを知るのは難しい。親というのは、どうしても自分の子どもを欲目で見る。あるいは悪い部分を見ない。
「人、その子の悪を知ることなし」(「大学」)というのがそれだが、こうした親の目は、えてして子どもの本当の姿を見誤る。いろいろなことがあった。
ある子ども(小6男児)が、祭で酒を飲んでいて補導された。親は「誘われただけ」と、がんばっていたが、調べてみると、その子どもが主犯格だった。ある夜1人の父親が、A君(中1)の家に怒鳴り込んできた。「お宅の子どものせいで、うちの子が不登校児になってしまった」と。A君の父親は、「そんなはずはない」とがんばったが、A君は学校でもいじめグループの中心にいた、などなど。
こうした例は、本当に多い。子どもの姿を正しくとらえることは難しいが、子どもの学力となると、さらに難しい。たいていの親は、「うちの子はやればできるはず」と思っている。たとえ成績が悪くても、「勉強の量が少なかっただけ」とか「調子が悪かっただけ」と。そう思いたい気持ちはよくわかるが、しかしそう思ったら、「やってここまで」と思いなおす。
子どものばあい、(やる・やらない)も力のうち。子どもを疑えというわけではないが、親の過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。そこで子どもの学力は、つぎのようにして判断する。
子どもの学校生活には、ほとんど心配しない。いつも安心して子どもに任せているというのであれば、あなたの子どもはかなり優秀な子どもとみてよい。しかしいつも何か心配で、不安がつきまとうというのであれば、あなたの子どもは、その程度の子ども(失礼!)とみる。そしてもし後者のようであれば、できるだけ子どもの力を認め、それを受け入れる。早ければ早いほどよい。そうでないと、(無理を強いる)→(ますます学力がさがる)の悪循環の中で、子どもの成績はますますさがる
要するに「あきらめる」ということだが、不思議なことにあきらめると、それまで見えていなかった子どもの姿が見えるようになる。シェークスピアがいう「賢い父親」というのは、そういう父親をいう。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(42)
●親孝行を美徳にしない
日本では「親孝行」が、当たり前になっている。しかしそういう常識(?)の陰で、人知れず、それに苦しんでいる人は多い。親を前にすると体中が緊張する(34歳女性)、実家へ帰るのが苦痛(30歳女性)など。しかし世の中には、親をだます子どもがいるが、子どもをだます親もいる。Tさん(70歳)がそうだ。Tさんは息子(45歳)がもっている土地の権利書を言葉巧みに取りあげて、それを他人に転売してしまった。権利関係が複雑な土地だったこともあるが、その息子はこう言う。
「親でなかったら、訴えているところです」と。が、当のTさんには、罪の意識がまったくない。間に入った人がそれとなく息子の気持ちを伝えると、Tさんはこう言った。「親が息子の財産をつかって何が悪い。私が息子たちにかわって、先祖や家を守ってやっているのだ」と。
親孝行するかしないかは、あくまでも子どもの問題。もっと言えば、一対一の人間関係が基本。「親が上で、子は下」という関係では、そもそも良好な人間関係など育たない。親子はあくまでも平等だ。その基本なくして、親孝行はありえない。
言いかえると、親は、子どもを「モノ」とか、「所有物」として考えるのではなく、一人の「人間」として認める。すべてはここから始まる。つまり親は子どもを育てながら、自らも「尊敬される親」にならなければならない。子どもが親を孝行するかしないかは、あくまでもその「結果」でしかない。
さらに言いかえると、子どもが親を軽蔑し、親孝行を考えなくなったとしても、その責任は子どもにはない。そういう親子関係しか作れなかった親自身にある。きびしいことを言うようだが、親になるということは、それくらいたいへんなことでもある。
親孝行を子どもに求める親というのは、それだけで、依存心の強い親とみる。「甘えている」と言ってもよい。そういう親からは、自立した子どもは生まれない。前にも書いたが、依存心というのは、あくまでも相互的なものである。そんなわけで子どもを自立させたかったら、親自身も子どもから自立する。またそのほうが、結局は子どもから尊敬される親になる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(43)
●負けるが勝ち
この世界、子どもをはさんだ親同士のトラブルは、日常茶飯事。言った、言わないがこじれて、転校ざた、さらには裁判ざたになるケースも珍しくない。ほかのことならともかくも、間に子どもが入るため、親も妥協しない。が、いくつかの鉄則がある。
まず親同士のつきあいは、「如水淡交」。水のように淡く交際するのがよい。この世界、「教育」「教育」と言いながら、その底辺ではドス黒い親の欲望が渦巻いている。それに皆が皆、まともな人とは限らない。情緒的に不安定な人もいれば、精神的に問題のある人もいる。さらには、アルツハイマーの初期のそのまた初期症状の人も、40歳前後で、20人に1人はいる。このタイプの人は、自己中心性が強く、がんこで、それにズケズケとものをいう。そういうまともでない人(失礼!)に巻き込まれると、それこそたいへんなことになる。
つぎに「負けるが勝ち」。子どもをはさんで何かトラブルが起きたら、まず頭をさげる。相手が先生ならなおさら、親でも頭をさげる。「すみません、うちの子のできが悪くて……」とか何とか言えばよい。あなたに言い分もあるだろう。相手が悪いと思うときもあるだろう。しかしそれでも頭をさげる。あなたががんばればがんばるほど、結局はそのシワよせは、子どものところに集まる。
しかしあなたが最初に頭をさげてしまえば、相手も「いいんですよ、うちも悪いですから……」となる。そうなればあとはスムーズにことが流れ始める。要するに、負けるが勝ち。
……と書くと、「それでは子どもがかわいそう」と言う人がいる。しかしわかっているようでわからないのが、自分の子ども。あなたが見ている姿が、子どものすべてではない。すべてではないことは、実はあなた自身が一番よく知っている。あなたは子どものころ、あなたの親は、あなたのすべてを知っていただろうか。それに相手が先生であるにせよ、親であるにせよ、そういった苦情が耳に届くということは、よほどのことと考えてよい。そういう意味でも、「負けるが勝ち」。
これは親同士のつきあいの大鉄則と考えてよい。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(44)
●育児ノイローゼに注意
子育てをしていて育児ノイローゼになる人は多い。圧倒的に母親に多いが、父親がノイローゼになることも、珍しくはない。精神的な打撃によって起こる心的障害のことをノイローゼというが、精神病というほど重くはない。ないが、対処のし方をまちがえると、深刻な結果を招くことがある。次のような症状が続いたら、育児ノイローゼを疑ってみる。
(1)生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞、
(2)思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の低下)、
(3)精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、日常活動への興味の喪失)、
(4)睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。さらにその状態が進むと、
(5)風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかったり(注意力欠陥障害)、
(6)ムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)、
(7)ささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)、
(8)同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど感情のコントロールができなくなる(感情障害)、
(9)他人との接触を嫌う(回避性障害)、
(10)過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。
(11)また必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)。
もっとも育児ノイローゼになっても、本人がそれに気づくことはまずない。脳のCPU(中央演算部分)が変調するため、本人はそういう状態になりながらも、「自分ではふつう」と思い込む。あるいは他人に「異常」を指摘されたりすると、反対に過度の罪悪感に襲われ、かえって深く落ち込んでしまうこともある。
そこで重要なのが、夫ということになるが、その夫の協力が得られないことが多い。で、もしここに書いたような症状のうち、いくつかに思い当たることがあれば、「今の状態はふつうではない」という前提で、自分のまわりを見なおす必要がある。できれば子育てそのものから離れる。でないと、(こういうことを書くと、ますます症状がひどくなってしまうかもしれないが)、子どもに影響が出てくる。そんなわけで、もし症状がひどいようであれば、一度、精神科のドクターに相談してみる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(45)
●心を通訳しない
英語にはときどき、ハッと思うような表現がある。たとえば「トランスレイト(通訳)」という言葉。相手の心を、「こうだろう」と思って代弁すると、「君の判断で通訳しないでくれ」と言われる。が、日本では、甘い。親が子どもの心を決めてしまうことも、珍しくない。
母「先日は、息子(年長児)が、いろいろお世話になりました。息子も『楽しかった』と喜んでいます」と。しかし肝心の息子は、そ知らぬ顔でプイと遠くを見ている……。
さらに程度が進むと、こんな会話をするようになる。
私、子ども(年長児)に向かって、「この前の日曜日は、どこへ行ったのかな?」、
母、会話に割り込んできて、「おばあちゃんちへ行ったでしょ。ね、そうでしょ」、
私、再び子子どもに向かって、「楽しかったかな?」、
母、再び会話に割り込んできて、「楽しかったでしょ。そうでしょ! どうしてあんたは自分で楽しかったと言えないの!」と。
典型的な過干渉ママの会話だが、こうした会話は親子断絶の第一歩とみてよい。「子どものことは私が一番よく知っていると」と思い込む親。「親は何も私のことをわかってくれない」と思う子ども。いや、子どもが小さいうちは、まだよい。子どもが親に合わせるが、少し大きくなると、そうはいかない。子「うるさい!」、親「何よ、親に向かって!」となる。
子どもの人格を認めるということは、子どもの心を大切にするということ。心を大切にするということは、常に子どもの心を確かめるということ。自分がそう思うからといって、子どももそう思うと考えるのは、まちがい。まったくのまちがい。そういう前提で、子どもの心を確かめる。
よくあるケースは、おけいこごとなど、親が勝手に決めてしまうケース。「来週から、ピアノ教室へ行きますからね」と。やめるときもそうだ。子どもの心を確かめることもなく、「来月から別の教室へ行きます。今、行っているところは、今月でおしまい」と。
子どもの心は通訳しない。これは正常な親子関係を築くための鉄則の一つと考えてよい。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(46)
●子育ての「時」は急がない
時の流れは不思議なものだ。そのときは遅々として進まないようにみえる時の流れも、過ぎ去ってみると、あっという間のできごとのようになる。子育てはとくにそうで、大きくなった自分の子どもをみると、乳幼児のころの子どもが本当にあったのかと思うことさえある。もちろん子育ては苦労の連続。苦労のない子育てはないし、そのときどきにおいては、うんざりすることも多い。しかしそういう時のほうが、思い出の中であとあと光り輝くから、これまた不思議である。
昔、ロビン・ウィリアムズが主演した映画に、『今を生きる』というのがあった。「今という時を、偽らずに生きよう」と教える高校教師。一方、進学指導中心の学校側。この二つのはざまで一人の高校生が自殺に追い込まれるという映画である。
この「今を生きる」という生き方が、ひょっとしたら日本人に、一番欠けている生き方ではないのか。ほとんどの親は幼児期は小学校入学のため、小学校は中学校入学のため、中学や高校は大学入試のため、と考えている。子どもも、それを受け入れてしまう。こうしたいつも未来のために「今」を犠牲にする生き方は、一度身につくと、それがその人の一生の生き方になってしまう。社会へ出てからも、先へ進むことばかり考えて、今をみない。結果として、人生も終わるときになってはじめて、「私は何をしてきたのだろう」と気がつく。実際、そういう人は多い。
英語には『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞にもなっているような格言だが、やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた、と。
大切なのは、「今」というときを、いかに前向きに、輝いて生きるか、だ。もし未来や結果というものがあるとするなら、それはあとからついてくるもの。地位や肩書きや名誉にしてもそうだ。まっさきにそれを追い求めたら、生き方が見苦しくなるだけ。子どももしかり。幼児期にはうんと幼児らしく、少年少女期には、うんと少年や少女らしく生きることのほうが重要。親の立場でいうなら、子どもと「今」という時を、いかに共有するかということ。そのためにも、子育ての「時」は急がない。今は今で、じっくりと子育てをする。そしてそれが結局は、親子の思い出を深くし、親子のきずなを深めることになる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(47)
●子育ては子離れ
子育てを考えたら、その一方で同時に、子離れを考える。「育ててやろう」と考えたら、その一方で同時に、「どうやって手を抜くか」を考える。そのバランスよさが子どもを自立させる。こんなことがあった。
帰りのしたくの時間になっても、D君(年中児)はそのまま立っているだけ。机の上のものをしまうようにと指示するのだが、「しまう」という言葉の意味すら理解できない。そこであれこれ手振り身振りでそれを示すと、D君はそのうちメソメソと泣き出してしまった。多分そうすれば、家ではだれかが助けてくれるのだろう。が、運の悪いことに、その日はたまたま母親がD君を迎えにきていた。D君の泣き声を聞くと教室へ飛び込んできて、私にこう言った。「どうしてうちの子を泣かすのですか!」と。
このタイプの親は、子どもの世話をするのを生きがいにしている。あるいは手をかけることが、親の愛の証(あかし)と誤解している。しかし親が子どもに手をかければかけるほど、子どもはひ弱になる。俗にいう「温室育ち」になり、「外に出すとすぐ風邪をひく」。特徴としては、
(1)人格の「核」形成が遅れる。ふつう子どもというのは、その年齢になるとその年齢にふさわしい「つかみどころ」ができてくる。しかしそのつかみどころがなく、教える側からすると、どういう子どもなのかわかりにくい。
(2)依存心が強くなる。何かにつけて人に頼るようになる。自分で判断して、自分で行動をとれなくなる。先日も新聞の投書欄で、「就職先がないのは、社会の責任だ」と書いていた大学生がいた。そういうものの考え方をするようになる。
(3)精神的にもろくなる。ちょっとしたことでキズついたり、いじけたり、くじけたりしやすくなる。
(4)全体に柔和でやさしく、「いい子」という印象を与えるが、同時に子どもから本来人間がもっているはずの野生臭が消える。
人間の世界を生き抜くためには、ある程度のたくましさが必要である。たとえばモチまきのとき、ぼんやりと突っ立っていては、モチは拾えない。生きていくときも、そうだ。そのたくましさを、どうやって子どもに身につけさせるかも、子育てでは重要なポイントとなる。もしあなたの子どもが、先のD君のようであるなら、つぎのような格言が役にたつ。
「何でも半分」……子どもにしてあげることは、何でも半分にして、それですます。靴下でも片方だけはかせて、もう片方は自分ではかせる。あるいは服でも途中まで着させて、あとは子どもに任す、など。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(48)
●子育ては楽しむ
子育ては本来、楽しいもの。楽しくなかったら、どこかおかしいと思ってよい。実際には約七二%の母親が、「子どものことでイライラする」(日本女子社会教育会・平成7年)と答えているが……。ただこういうことは言える。子育てを楽しんでいる親の子どもは、表情が生き生きとして、明るいということ。そうでない親の子どもは、そうでない。
子育てを楽しむ秘訣、それは子どもの世界に自分も入ること。相手が子どもだからといって、幼稚だとか、愚かだとか考えてはいけない。子どもは未経験で知識はなく、未熟な面はあるが、しかしおとなが考えているよりはるかにその世界は純粋で美しい。人間の「原点」がそこにあると言っても過言ではない。いろいろなことがあった。
幼稚園で一人、両手を下へおろしたまま走っている子ども(年長児)がいた。そこで私が「手を振って走れ!」と号令をかけると、何を思ったかその子どもは、「先生、バイバーイ、先生、バイバーイ」と言って走り出した。あるいは子どもたち(年長児)に、「春になると木に芽が出てきます」と話したときのこと。何人かの子どもたちが、「こわい、こわい」と言い出した。「芽」を「目」と誤解したためだ。子どもといっても、心はおとな。私の子ども観を変えた事件に、こんなことがあった。
一人静かな女の子(年長児)がいた。いつもはほとんど発言しなかったが、その日は違っていた。たまたまその女の子の母親が授業参観に来ていた。何か質問すると、「ハーイ」と言って元気よく手をあげた。そこで私が少しおおげさにほめて、みんなに手を叩かせた。するとその女の子はポロポロと涙をこぼし始めた。
私はてっきりうれし泣きと思ったが、それにしても合点がいかない。そこで授業が終わったあと、「どうして泣いたの?」と聞くと、その女の子はこう言った。「私がほめられたから、ママが喜んでいると思った。ママが喜んでいると思ったら、涙が出てきちゃった」と。その女の子は、母親の気持ちになって涙をこぼしていたのだ!
子どもの世界はあなたが思っているよりはるかに広い。それに気づくか気づかないかは、つまるところあなたの姿勢による。あなたも一度、まさに童心に返って、子どもとともにその世界を楽しんでみたらどうだろうか。子育てもぐんと楽しくなる。そしてそれに合わせてあなたの子どもの表情も明るくなる。
****************090621送信****************
2009年6月21日日曜日
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