2009年6月25日木曜日

Consistency of our Thought

【精神的一貫性】(Consistency of our Thought)
Can we be the same under any condition of the circumstances? If so, it is OK, but if it
ins’t, it is not OK.)

++++++++++++++++++++++++++++++

「精神的一貫性」というのは、つまり思想的同一性のことをいう。
状況が大きく変わっても、いつも同じ思想をもちつづけることをいう。
簡単に言えば、「信念」ということになるが、信念ともややちがう。
「思想的一貫性」というか、「人間的な一貫性」とか、状況に影響を
受けない「一貫性」をいう。

が、こう書くと、「何だ、そんなことか」と思う人も多いかと思う。
「そんなことなら、だれにでもできる」と。
しかしそう断言するのは、ちょっと待ってほしい。

たとえば暴力団の男性がいる。
それらしい風体に、それらしい服装。
見るからにそういう人と、わかる。
が、そんな人でも、家庭では、よき夫であり、よき父親であったりすることが多い。
常識も通ずる。
冗談も通ずる。
ちょっとふつうの人とはちがうかなという印象を与えるかもしれないが、
(ふつうの人)と、どこもちがわない。
そういう人を見ると、「なんだ、この世には悪人などいない」と、だれしも思う。
(何も暴力団の構成員がみな、悪人と言っているのではない。誤解のないように!)

が、私の言いたいのは、その逆。
そんな(ふつうの人)でも、状況が変わると、コワ~イ男性に変身したりする。
「泣く子も黙る……」というのは、大げさかもしれないが、そういう男性に
変身したりする。
一喝されただけで、ふつうの人なら、それだけで震えあがる。

家庭ではよき夫であり、父親である。
しかし取り巻く環境が変わると、コワ~イ男性に変身する。
つまり暴力団のこの男性には、「人間的な一貫性」がないということになる。
(あまりよい例でなくて、ごめん!)

+++++++++++++++++++++++++++++++

●一貫性の確立

 自分の中に、いかにして一貫性を構築するか。
簡単なことのようで、それが難しい。
私たちはそのときどきの(縁)に応じて、変化する。
自分を作り変える。
よい人間に作り変えることもあるが、ときには、(縁)に応じて、悪い人間に作り
変えることもある。

 たとえば私がたいへんよく知っていた人に、KY氏という人がいた。
私が子どものころ、すでに60歳くらいだった。
そのKY氏は、あの関東軍七三一部隊で、教授を務めていた。
(研究部隊ということで、内部では、「教授」という肩書になっていた。)
関東軍七三一部隊がどんな部隊であったかについては、今さらここに書くまでもない。

 が、私が知るかぎり、KY氏は、穏やかで、やさしい人だった。
私が子どものころには、近くの川に魚釣りに連れていってくれたこともある。
碁の打ち方を教えてくれたこともある。
そのKY氏が関東軍七三一部隊の教授であったことは、幸いにも(?)、KY氏が
亡くなってから、10年ほどしたときのことである。
私はそのとき30歳くらいになっていた。

 そのKY氏を思い浮かべながら、いまだに、それが信じられないでいる。
私が知っていたKY氏から、関東軍七三一部隊で教授職をしていたKY氏は、
とても想像できない。
はたしてその両者は、同一人物だったのか。

中国のハルピンでは、関東軍七三一部隊は、身の毛もよだつような悪業を重ねていた。
関東軍七三一部隊では、中国人や朝鮮人、さらにはロシア人まで、生きたまま解剖して
いたという。
教授職だったKY氏が、善人だったとは、とても思えない。
が、日本へ帰ってきてからは、一転、私が知るかぎり、仏様のような人間になっていた!
そういうKY氏を思い浮かべると、「この世の中には悪人はいない」「悪いのは戦争だ」
ということになる。
戦争が、KY氏をして、KY氏のような人間にした、と、
が、同時に、このことを反対に言うと、こうなる。
「どんな善人でも、戦争に行くと、悪人になる」と。

 もしKY氏に一貫性があったら、関東軍七三一部隊に入隊したとしても、
それをよしとしなかったはず。
反対に、日本へ帰ってきてからも、鬼のような人間のままであったはず。
が、そのつど、KY氏は、大きく変化した。
(善人)から(悪人)、その(悪人)からまた(善人)へと。

 つまりこれが私が言う、「精神的一貫性」ということになる。

●ナチスドイツ
 
 ナチスドイツは、あのアウシュビッツだけでも、1200万人以上ものユダヤ人を
虐殺した。
第二次大戦で死んだ日本人が、300万人。
日本人が殺した外国人が、300万人。
合計しても、1200万人には、とても及ばない。

 そういう事実を知ると、日本人なら、みなこう言う。
「私たちは、そういうことはしない」と。
「日本人は、そんな残虐なことはしない」とも。
しかし本当に、そうか。
そう断言してよいだろうか。
少なくともあなたには、そういう自信はあるだろうか。
(残念ながら、私には、ない。)

 もし仮に、東南アジアからの不法移民が、この日本に、100万人単位で住んでいたら、
どうだろうか。
その数が、200万人、300万人……となり、さらに1000万人、2000万人と
なったら、どうだろうか。
しかもそうした不法移民が、日本の経済を牛耳るようになったとしたら……。
彼らは日本の文化風習には同化せず、自分たちの言葉を話し、自分たちの宗教を信ずる。

 そういう状況になったときでも、あなたは、「人間はみな、平等だ」と言って、平然と
していられるだろうか。
ヒットラーが政権を握る前のドイツは、まさにそういう状況だった。
(だからといって、ナチスドイツのした行為を正当化しているのではない。
誤解のないように!)

●ドイツ人vs日本人

 「私たち日本人は、ナチスドイツがしたようなことはしない」と言うのは簡単。
「私たちはドイツ人とは、ちがう」と。
しかしそれだけの精神的一貫性を、私たち日本人は、ほんとうにもっているだろうか。
が、私の印象では、もし日本が同じような状況になったとしたら、ひょっとしたら
日本は、ナチスドイツがしたよりも、もっとひどいことをするかもしれない。
悲しいかな、日本には、それだけの文化的な蓄積すらない。
忘れてならないのは、ゲーテやシラー、さらにはベートーベンを生み出したドイツですら、
そんなことをしたということ。

 そこで精神的一貫性。
精神的一貫性が確立していれば、まわりの状況が変わったとしても、私は私でいられる。
そうでなければ、そうでない。
一貫性のない人は、まわりの状況に応じて、そのつど主義主張まで、変えてしまう。
カメレオンのように、周囲の色に合わせて、自分の色まで変えてしまう。
考えようによっては、これほど、恐ろしいことはない。
どう恐ろしいかは、先に書いたとおりである。

●精神的一貫性の確立
 
 実は今、私は精神的一貫性の確立について、悩んでいる。
考えようによっては、それほど深刻な問題ではないかもしれない。
しかし悩んでいる。

 私は昨年、実兄と実母を、あいついで亡くした。
2度の葬儀と、それにつづく法要の数々。
四九忌まで、毎週1回ずつの法要、そして百か日忌。
が、それが今度は、1周期!
来年には、また3回忌。
(仏教では、死んだ前の日から年数を数え始めるため、2年目に、3回忌をする。)

 が、こうした法要の根拠は、鎌倉時代にできた『地蔵十王経』という、偽経である。
まっかな偽教である。
どこの寺も、偽教ということを百も承知の上で、それを根拠に法要を私たちに強いてくる。
しかしこうした法要そのものが、私の主義主張と、まっこうから対立する。
「長いものには巻かれろ」式の妥協をすることも考えた。
しかし妥協を繰り返すのも、このところ、疲れた。
だから「悩む」ということになる。

●ケチ
 
 こう書くと、「ケチ」と誤解する人がいるかもしれない。
しかし今、介護費用も、相当な額になった。
当時、救急車で一回、病院へ運ばれただけで、それだけで、15万円前後の費用がかった
(08年)。
救急車は無料だが、病院での検査、治療費などなど。
(無駄な検査の多いのには、驚いた!※)
で、救急車で運ばれると、たいてい特別の個室をあてがわれる。
「大部屋があいていないので、個室で」となる。
この費用が大きい。
1泊するだけでも、3万円弱。
数泊しれば、10万円。
帰りも救急車というわけにはいかない。
寝台つきのタクシーを使うと、料金メーターの数字が、1000円単位であがっていく。
それで15万円前後ということになる。

 そこへもってきて、葬儀。
今、全国平均で、1回の葬儀にかかる費用は、240万円前後。
香典でまかなえる人も多いと聞くが、私のばあいは、香典で集まったのは、実兄のときも、
実母のときも、40万円程度でしかなかった。
あとは私の持ち出しということになった。

が、それで終わったわけではない。
今では、一回の法事ごとに、寺に支払う布施にしても、5万円が相場。
初盆ともなると、いくら安くあげても、数10万円はかかる。

生きている人間にお金を使うのは当然としても、どうして死んだ人間にまで、こうまで
お金を払いつづけなければならないのか。

いや、お金にこだわっているわけではない。
死者にそれだけのお金を使うくらいなら、その分、今、生きている人たちのために
使いたい。
事実、私は息子たちの学費については、一円たりとも惜しんだことはない。

 私はケチではない。
こうした儀式そのものが、私の主義主張に反している!

●私たちは、だいじょうぶか?

 精神的一貫性を保つのは、容易なことではない。
戦地に赴く兵士にしても、そうだ。
先に書いたKY氏にしても、兵士になる前は、私やあなたとどこもちがわない、
ごくふつうの人だったにちがいない。
が、そういう状況に包まれたとたん、その人は、その人になる。
精神的一貫性そのものが、どこかへ吹き飛んでしまう。

 では、私はだいじょうぶなのか?
あなたは、だいじょうぶなのか?

●ではどうしたらよいのか

 では、精神的一貫性を保つためには、どうしたらよいのか。
それについては、2つの方法がある。

(1) 適当に妥協して生きる。
(2) 徹底的に自分の主義、主張を貫く。

 たとえば法事にしても、私は、そのつど、「旅行の一環」と位置づけてきた。
法事に行くたびに、それを利用して、あちこちを旅行した。
地元の旅館に泊まるのも楽しかった。
「法事」と構えると、疲れる。
角が立つ。

 が、先にも書いたように、このところ妥協するのにも、疲れを覚えるようになった。
そこで「悩む」ということになるが、これについては、今まで書いたとおりである。
そこで(2)の徹底的に自分の主義、主張を貫くということになる。
法事というのは、しなければならないものではない。
だれかに義理立てしてまで、しなければならないようなものではない。
私は私。
そういう私を、あれこれ言う人がいたら、言わせておけばよい。

 ということで、母の1周忌を最後に、私は縁を切る。
「縁」と言っても、「寺との縁」のことではない。
不確かで、あやふやな自分と「縁」を切る。
その上で、妥協できることについては、妥協する。 
適当にやって、それですますこところは、すます。
それが私にとっての、精神的一貫性ということになる。

●終わりに……
 
 精神的一貫性を保つためには、確固たる信念と哲学をもたねばならない。
が、もつだけでは足りない。
それを自分の中で、熟成させなければならない。
が、熟成させるだけでも足りない。
自分のもつ文化性を高め、その文化性で、自分の心を包まねばならない。
本を読み、芸術をたしなむ。
信念と哲学が、自分を支える強いバネとなるのは、そのあとのことである。

と、同時に、妥協できる部分については、妥協する。
まわりの人たちがそれで安心するなら、妥協する。
お金の問題ではない。
それが人間が、本来的にもつ(やさしさ)ということになる。
また、その(やさしさ)を忘れてはいけない。

……ということで、精神的一貫性についてのエッセーを終わる。
精神的一貫性をもつことが、いかに難しいかということを、このエッセーを通して
読者の方にわかってもらえれば、うれしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
精神的一貫性 精神的統一性 信念と哲学 はやし浩司 一貫性の確立)

(※付記)

救急車で運ばれると、まず検査。
また検査。
検査につぐ検査。
そこである日、私は担当のドクターにこう言った。
「検査していただけるのは、ありがたいですが、その結果、治療していただけるのですか?」
と。
するとそのドクターは、わざわざ私を応接室へ招いて、こう言った。
「治療はしません」「延命処置もしません」と。

そこで私が、「じゃあ、検査しても意味ないではないですか」と言うと、
あっさりと、「そうですね」と。
要するに、老人が、病院の金儲けの道具にされていた。


Hiroshi Hayashi++++++++June・09++++++++++はやし浩司

●静岡県・知事選

++++++++++++++++

静岡県の知事選が始まった。
4氏が立候補している。
保守系(前副知事)が1人。
野党系が候補統一に失敗し、今のところ
保守系候補が有利。

同時に、昨日、こんなニュースが伝わってきた。
何でもJ党が、宮崎県のA知事に、衆院選挙
への出馬を要請したという。
が、驚くべき発言が、そのA知事の口から出た。
「総裁候補にしてくれるなら、受ける」と。
A知事というのは、元、お笑いタレント。

それに対して、野党がいっせいに、反発。
「J党も、ここまで落ちぶれたのか」と。

そう、J党は、ここまで落ちぶれた!

++++++++++++++++++

●民主主義の危機

 どうしてAS氏のような人が、総理大臣?
 どうしてAZ氏のような人が、宮崎県の県知事?
「あんな人物が?」と言ってもよい。
……良識のある人なら、みな、そう思っている。

 「選挙で選ばれたのだから、民衆の代表」ということになるが、もしそうなら、
それこそ民主主義政治の欠陥と断言してもよい。
知名度だけで議員が決まるとしたら、選挙そのものが意義をなくす。
もっとも、民主主義が生まれたころには、(マスコミ)は、まだ存在していなかった。
かくもマスコミが選挙に影響を与えるなどとは、だれも予想していなかった。
が、今は、ちがう。
その一例が、宮崎県知事ということになる。

このあたりで、一度、(知名度)と(選挙)の関係について、だれかが断をくだして
おかないと、日本のみならず、世界中がメチャメチャになってしまう。

 もっともそれに対抗する方法がないわけではない。
有権者である私たちが、より賢くなることである。
が、それよりも先に、民主主義の欠陥ばかりが、肥大化する。
良識をもった人たちの良識など、こうした欠陥の前では、嵐の中のローソクのようなもの。
その結果が、AS総理大臣ということになる。
AZ宮崎県県知事ということになる。

 何が、総裁候補だ!
バカも休み休み言え……と書きたいが、今、日本の民主主義政治は、そこまで堕落して
いる。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。