2009年6月20日土曜日

*For the "Kosodate Portal Site" (1)

関口様へ

この原稿は、「ママ100賢」(山手書房)で出した本を、6、7年前に
書き改めたものです。
それを再度、今回、書き改めてみることにしました。

タイトル、体裁などは、お任せします。
読者の方に読みやすい体裁にしていただければ、うれしいです。

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【はやし浩司のプロフィール】

●著書に「子育て最前線のあなたへ」(中日新聞社)、「おかしな時代のまともな子育て論」(リヨン社・2002年3月発行)、「ドラえもん野比家の子育て論」(創芸社)など、30冊あまり。うち4冊は中国語にも翻訳出版されている。「まなぶくん幼児教室」(学研)、「ハローワールド」(創刊企画・学研)などの無数の市販教材も手がける。東洋医学、宗教論の著書も計8冊ある。

●教育評論家、現在浜松市伝馬町でBW教室主催。1947年岐阜県生まれ。

●現在は、インターネットを中心に活動中。メルマガ・オブ・ザ・イヤー受賞(08)、
電子マガジン読者数・計3000人(09)、ほか。「BW公開教室」を、HP上にて、公開中。(HPへは、「はやし浩司」で検索、「最前線の子育て論byはやし浩司」より。)

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ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(1)

●あと片づけとあと始末

 あと片づけとあと始末は、基本的に違う。たとえば「部屋に散らかったものを片づける」は、あと片づけ。「使った食器をシンクへもっていき、そこで食器を洗い、ナプキンでふく」は、あと始末。日本人はあと片づけには、うるさいが、あと始末には甘い。これは日本人の国民性のようなもの。日本人は何かにつけて、責任の所在をはっきりさせるよりも、ものごとをナーナーですまそうとする。

 オーストラリア人の子育てをみても、彼らはあと片づけには、それほどうるさくない。子ども部屋だと、散らかっているのが当たり前という状態。しかしあと始末にはうるさい。冷蔵庫から出したものを、テーブルの上に置いておこうものなら、子どもたちは親にひどく叱られる。そうそう以前、こんなことを言ったアメリカ人の友人がいた。

「ヒロシ、日本の子どもたちは、皆、スポイルされているよ」と。「スポイル」というのは、「ドラ息子化している」という意味だ。そこで私が「君はどんなところを見てそう言うのか」と聞くと、こう話してくれた。

 彼はときどき日本の子どもたち(英会話教室の生徒)を、自宅にホームステイさせているのだが、それについて、「食事の前に料理を手伝わない」「食後も食器を洗わない」「シャワーを浴びても、アワを流さない」「朝起きても、ベッドをなおさない」「……何もしないのだよ」と。

 あと片づけをうるさく言い過ぎると、かえって子どもにとっては居心地の悪い世界になってしまう。アメリカの作家のソローも、こう言っている。「ビロードのクッションの上に座るよりも、カボチャンの頭に座るほうが、休まる」と。しかしあと始末は別。子どもにはどんどんとあと始末をさせる。そういう習慣が、責任感の強い子どもをつくる。











ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(2)

●子どもの横を歩く

 親には三つの役目がある。一つ目に子どもの前を歩く。子どものガイドとして。二つ目に、子どものうしろを歩く。子どもの保護者として。そして三つ目に、子どもの横を歩く。子どもの友として。昔、オーストラリアの友人が話してくれたことだ。

 日本人の子育てをみると、このうち一つ目と二つ目については問題ない。が、三つ目が弱い。自分の子どもを「友」としてとらえていえる人は、少ない。あるいはそう感じていても、一方で昔からの「親意識(権威意識)」が強いため、どうしても子どもを「下」に見てしまう。そこでテスト。

 あなたの子どもがあなたに向かって、「バカヤロー」と怒鳴ったとする。そのとき、あなたは、
(1)「『親に向かって、何だ!』と子どもを叱る。そういうことを言うのは許さない」、
(2)「子どものことだから口が悪いのは当たり前。相手にしない」の、どちらだろうか。親意識の強い人ほど、(1)のように感ずるし、そうでない人ほど、(2)のように感ずる。もちろんその中間もある。またこう書いたからといって、子どもが親に「バカヤロー」と言うのを容認せよということでもない。

むしろ問題は、子どもがそういうことを言えないほどまでに、親の親意識で子どもを抑え込んでしまうこと。子どもは親の前では仮面をかぶるようになり、そのかぶった分だけ、子どもの心はあなたから離れる。

 子どもと「友」になるということは、子どもの言いなりになれということではない。子どもを甘やかせということでもない。子どもの「友」になるということは、子どもを「下」に見るのではなく、対等の人間としてみるということ。たとえばアメリカでは、親子でもこんな会話をしている。
父「お前は、パパに何をしてほしい?」、
子「パパは、ぼくに何をしてほしい?」と。
こうした謙虚な気持ちが、子どもの心を開く。親子の断絶を防ぐ。











ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(3)

●家庭教育の誤解

(1) 忍耐力……よく「うちの子はサッカーだと一日中している。ああいう力を勉強に向けさせたい」という親がいる。しかしこういう力は忍耐力とは言わない。好きなことをしているだけ。子どもにとって忍耐力というのは、「いやなことをする力」をいう。たとえば台所の生ゴミを手で始末するとか、風呂場の排水口にたまった毛玉を始末するとか、そういうことができる子どもを忍耐力のある子どもという。

(2) やさしさ……公園でブランコを横取りされたとする。そういうときニッコリと笑いながら、そのブランコを明け渡すような子どもを、「やさしい子ども」と考えている人がいる。しかしこれも誤解。このタイプの子どもは、それだけ」ストレスをためやすく、いろいろな問題を起こす。子どもにとって「やさしさ」とは、いかに相手の立場になって、相手の気持ちを考えられるかで決まる。もっと言えば、相手が喜ぶように自ら行動する子どもを、やさしい子どもという。

そのやさしい子どもにするには、買い物に行っても、いつも、「これがあるとパパが喜ぶわね」「これを買ってあげるから、妹の○○に半分分けてあげてね」と、日常的にいつもだれかを喜ばすようにしむけるとよい。

(3) まじめさ……従順で、言われたことをキチンとするのを、「まじめ」というのではない。まじめというのは、自己規範のこと。こんな子ども(小3女子)がいた。バス停でたまたま会ったので、「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、こう言った。「これから家で夕食を食べますから、いらない。缶ジュースを飲んだら、ごはんが食べられなくなります」と。こういう子どもを「まじめな子ども」という。

(4) すなおさ……やはり言われたことに従順に従うことを、「すなおな子ども」と考えている人は多い。しかし教育の世界で「すなおな子ども」というときは、心の状態(情意)と、顔の表情が一致している子どもをいう。怒っているときには、怒った顔をする。悲しいときには悲しい顔をする、など。情意と表情が一致しないことを、「遊離」という。子どもにとっては、たいへん望ましくない状態と考えてよい。たとえば自閉傾向のある子どもがいる。このタイプの子どもの心は、柔和な表情をしたまま、まったく別のことを考えていたりする。

(5) がまん……子どもにがまんさせることは大切なことだが、心の問題とからむときは、がまんはかえって逆効果になるから注意する。たとえば暗闇恐怖症の子ども(3歳児)がいた。子どもは夜になると、「こわい」と言ってなかなか寝つかなかったが、父親はそれを「わがまま」と決めつけて、いつも無理に寝させていた。がまんさせるということは、結局は子どもの言いなりにならないこと。そのためにも 親側に、一本スジのとおったポリシーがあることをいう。そういう意味で、子どものがまんの問題は、決して子どもだけの問題ではない。







ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(4)

●子どもに与えるものは、100倍

 子どもの金銭感覚は、幼稚園の年長児から小学2年ぐらいにかけて完成する。「ふえた」「減った」「トクをした」「損をした」など。お金で物欲を満たす、その満たし方まで、この時期に覚えてしまう。そういうわけでこの時期の金銭感覚が狂うと、あとがたいへん。そこで、子どもに買い与えるものは、心の中で100倍するとよい。

たとえば100円のものは1万円。1000円のものは10万円、と。つまり子どもが100円のものから得る満足感は、おとなが1万円のものから得る満足感と同じということ。1000円のものから得る満足感は、おとなが10万円のものから得る満足感と同じということ。この時期に、1000円や1万円のものをホイホイと買い与えていると、やがて子どもが大きくなり、高校生や大学生になったとき、それこそ10万円のものや、1000万円のものを買い与えないと、満足しなくなる。もしあなたにそれだけの財力があれば話は別だが、安易な気持ちで買い与えるようなことは、やめたほうがよい。

 また「より高価なものを買ってあげればあげるほど、深い親の愛のあかし」と考えている人がいる。戦後のあのひもじい時期を過ごした人ほど、この傾向が強い。しかしこれはまったくの誤解。ではどうするか。

 イギリスの格言に、『子どもに釣り竿を買ってあげるより、魚釣りに釣れていけ』というのがある。子どもの心をつかみたかったら、子どもにものを買い与えるより、魚釣りに行けという意味だが、これは子育ての基本でもある。

多くの親は、「高価なものを買い与えてやったから、子どもは親に感謝しているはず」と考える。しかし実際には、感謝などしていない。「ありがとう」とは言うが、その場だけ。あるいはたいていのばあい、かえって逆効果。

 子どもの場合、不自由やひもじさ、さらには思いどおりにならないことが、子どもの生活力を養う原動力となる。また子どもの心をとらえるということは、もっと別のこと。そういうことも考えながら、子どもの金銭教育を考える。








ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(5)

●知識と「考えること(思考)」は別

 たいていの親は、知識と思考を混同している。「よく知っている」ことを、「頭のよい子」イコール、「よくできる子」と考える。しかしこれは誤解。まったくの誤解。たとえば幼稚園児でも、掛け算の九九をペラペラと言う子どもがいる。しかしそういう子どもを、「頭のよい子」とは言わない。「算数がよくできる子」とも言わない。

中には、全国の列車の時刻表を暗記している子どももいる。音楽の最初の一章節を聞いただけで、曲名を当てたり、車の一部を見ただけで、メーカーと車種をあてる子どももいる。しかし教育の世界では、そういうのは能力とは言わない。「こだわり」とみる。たとえば自閉症の子どもがいる。このタイプの子どもは、ある特定のことがらに、つよいこだわりをもつことが知られている。

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、考えること自体を避けようとする。あるいは考えること自体から逃げようとする。一つの例だが、夜のテレビをにぎわすバラエティ番組がある。ああいった番組の中では、見るからに軽薄そうなタレントが、思いついたままをベラベラというより、ギャーギャーと騒いでいる。彼らはほとんど、自分では何も考えていない。脳の、表層部分に飛来する情報を、そのつど適当に加工して言葉にしているだけ。つまり頭の中はカラッポ。

 パスカルは「パンセ」の中で、『人間は考えるアシである』と書いている。この文を読んで、「あら、私もアシ?」と言った女子高校生がいた。しかし先にも書いたように、「考える」ということは、もっと別のこと。たとえば私はこうして文章を書いているが、数時間も書いて、その中に、「思考」らしきものを見つけるのは、本当にマレなことだ。(これは多分に私の能力の限界かもしれないが……。)

つまり考えるということは、それほどたいへんなことで、決して簡単なことではない。そんなわけで残念だが、その女子高校生は、そのアシですら、ない。彼女もまた、ただ思いついたことをペラペラと口にしているだけ。

 多くの親は、「ほら、英語教室」「ほら、算数教室」と子どもに知識をつけさせることを、教育と思い込んでいる。しかし教育とはもっと別のこと。むしろこういう教育観(?)は子どもから「考える」という習慣をうばってしまう。私はそれを心配する。
 






ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(6)

●いつも前向きの暗示を

 「あなたはどんどんよくなる」「あなたはさらにすばらしい子になる」という、前向きの暗示が、子どもを伸ばす。前向きに伸びている子どもは、ものごとに積極的で攻撃的。何か新しいことをしようかと提案すると、「やる」「やりたい」とか言って、くいついてくる。これは家庭教育の常識だが、しかし問題は、子どもにというより、親にある。

 親自身がまず子どもを信ずること。「うちの子はすばらしい子だ」という思いが、子どもを伸ばす。心というのはそういうもので、長い時間をかけて、相手に伝わる。言葉ではない。そこでテスト。

 あなたが子どもを連れて街の中を歩いていたとする。すると向こうから高校時代の同級生が歩いてきた。そしてあなたの子どもを一度しげしげと見たあと、「(年齢は)いくつ?」と聞いたとする。そのときあなたはどのように感ずるだろうか。

 自分の子どもに自身のある親はこういうとき、「まだ」という言葉を無意識のうちに使う。「まだ5歳ですけど……」と。「うちの子はまだ5歳だけど、すばらしい子どもに見えるでしょ」という気持ちからそう言う。しかし自分の子どもに自信のない親は、どこか顔をしかめながら、「もう」という言葉を使う。「もう5歳なんですけどねえ」と。「もう5歳になるが、その年齢にふさわしくない」という気持ちからそう言う。

もちろんその中間ということもあるが、もしあなたが後者のようななら、あなたの心をつくりかえたほうがよい。でないと、あなたの子どもから明るさがますます消えていく。そうなればなったで、子育ては大失敗。ではどうするか。

 子どもというのは、一度うしろ向きになると、どこまでもうしろ向きになる。そして自ら伸びる芽をつんでしまう。こんな子ども(中学女子)がいた。ここ一番というところになると、いつも、「どうせ私はダメだから」と。そこでどうしてそういうことを言うのかと、ある日聞いてみた。すると彼女はこう言った。

「どうせ、○○小学校の入試で落ちたもんね」と。その子どもは、もうとっくの昔に忘れてよいはずの、しかも10年近くも前のことを気にしていた。こういうことは子どもの世界ではあってはならない。

 そこでどうだろう。今日からでも遅くないから、あなたもあなたの子どもに向かって、「あなたはすばらしい子」を言うようにしてみたら……。最初はウソでもよい。しかしあなたがこの言葉を自然な形で言えるようになったとき、あなたの心は今とは変わっているはずである。当然、あなたの子どもの表情も明るくなっているはずである。







ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(7)

●子どもの横を歩く

 親意識の強い人は、「子どものことは私が一番よく知っている」と、何でもかんでも親が決めてしまう。子どもの意思など、まったくの無視。たとえばおけいこごとを始めるときも、またやめるときもそうだ。「来月から、○○音楽教室へ行きますからね」「来月から、今の教室をやめて、△△教室へ行きますからね」と。子どもは親の意向に振りまわされるだけ。

 こうした子育てのリズムは、親が子どもを妊娠したときから始まる。ある母親は胎教と称して、毎日おなかの子どもに、クラッシックや英会話のテープを聞かせていた。また別の母親は、時計とにらめっこをしながら、その時刻になると赤ちゃんがほしがらなくても、ミルクを赤ちゃんの口につっこんでいた。さらにこんな会話をしたこともある。ある日一人の母親が私のところにきて、こう言った。

 「先生、うちの子(小3男児)を、夏休みの間、サマーキャンプに入れようと思うのですが、どうでしょうか?」と。その子は、ハキのない子どもだった。母親はそれを気にしていた。そこで私が「お子さんは行きたがっているのですか?」と聞くと、「それが行きたがらないので、困っているのです」と。こうしたリズムは、一事が万事。そこでこんなテスト。

 あなたの子どもがまだヨチヨチ歩きをしていたころ、(1)あなたは子どもの前を、子どもの手を引きながら、ぐいぐいと歩いていただろうか。それとも(2)子どものうしろや横に回りながら、子どものリズムで歩いていただろうか。(2)のようであれば、よし。しかしもし(1)のようであれば、そのときから、あなたとあなたの子どものリズムは乱れていたとみる。今も乱れている。そしてやがてあなたは子どもとこんな会話をするようになる。

 母「あんたは、だれのおかげでピアノを弾けるようになったか、それがわかっているの。お母さんが毎週、高い月謝を払って、あなたを音楽教室へ連れていってあげたからよ」、子「いつ、だれが、お前にそんなことをしてくれと頼んだア!」と。

 そうならないためにも、子どもとリズムを合わせる。(子どもはあなたにリズムを合わせることはできないので。)今日からでも遅くないから、子どもの横かうしろを歩く。たったそれだけのことだが、あなたはすばらしい親子関係を築くことができる。










ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(8)

●方向性は図書館で

 子どもの方向性を知るためには、子どもを図書館へ連れていけばよい。そして数時間なら数時間、自由に遊ばせてみる。そしてそのあと、子どもがどんな本を読んでいるかを、静かに観察する。そのときその子どもが読んでいる本が、その子どもの方向性である。たとえばサッカーの好きな子どもは、サッカーの本を読む。乗り物や機械的なものが好きな子どもは、そういう類の本を読む。この方向性をうまく利用すれば、子どもは伸びるし、それにさからえば、子どもは伸びない。こんな例がある。

 子どもに「好きな本を1冊買ってあげるから、選びなさい」と言っておきながら、子どもが何か本を選んでくると、「こんな本ではダメ。もっとおもしろいのにしなさい」と。こういう親の身勝手さは、子どもの方向性をつぶす。

それがたとえ親の意向に反したものであっても、「おもしろそうね。ママも読んでみたいわ」と言ってあげる。そして子どもの方向性を前向きに伸ばしてあげる。たとえば本は嫌いでも、ゲームの攻略本は読むという子どもはいくらでもいる。そういうときは、ゲームの攻略本を利用して、本のおもしろさを子どもに教えればよい。

 要するに子育てで押しつけは禁物。イギリスの格言にも、「楽しく学ぶ子どもはよく学ぶ」(Happy learners  learn  best.)というのがある。子どもに何かをさせたかったら、まず楽しいということを教える。あとは子どもに任せればよい。子どもは自分で伸びる。また多くの親は、「うちの子はやればできるはず」と言う。それはそうだが、しかしやる、やらないも、「力」のうち。そういうときは「やってここまで」とあきらめる。このあきらめが子どもを伸ばす。

 話はそれたが、これからはプロが伸びる時代。そのためには、子どもの一芸を大切にする。この一芸が子どもを側面から支え、ばあいによっては、子どもの職業となることもある。そういう意味でも、子どもの方向性は大切にする。









ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(9)

●親像はぬいぐるみで

 子ども(幼児から小学低学年児)に、母性や父性が育っているかどうかは、ぬいぐるみの人形を抱かせてみればわかる。母性や父性が育っている子どもは、ぬいぐるみを手にすると、さもいとおしいといった表情で、それを抱く。中には頬をすりよせてくる子どももいる。しかしそうでない子どもは、ぬいぐるみをみたとたん、足でキックしたりしてくる。

私が調べたところ、幼稚園の年長児で、男女を問わず、10人のうち8名が、ぬいぐるみを見せるとうれしそうな顔をし、約2人弱が、反応を示さないか、あるいはキックしたりするのがわかった。さらに小学校の4、5年児について調べてみると、約80%が、「ぬいぐるみ大好き」と答え、そのうち約半数が、ごく日常的に多くのぬいぐるみと接しているのがわかった。

 子育ては本能ではなく、学習によってできるようになる。つまり親によって育てられたという経験が身にしみこんでいて、今度は自分が親になったとき、子育てができるようになる。それを「親像」という。が、不幸にして、不幸な家庭で育てられ、この親像がしっかりしていない人がいる。しかし問題は親像がないことではない。むしろ何不自由なく、親の温かい愛情に恵まれて育った人のほうが少ない。

問題は、その親像のないことに気づかないまま、それに引きまわされ、同じ失敗を何度も繰り返すことである。ある父親は、私にこう相談してきた。「娘を抱いていても、どれだけ抱けばいいのか。どう抱けばいいのか。それがわからない」と。その父親は、彼の父親を戦争でなくし、母親の手だけで育てられていた。つまり彼の中には「父親像」がなかった。

 話がそれたが、これだけは言える。ぬいぐるみを見せたとき、いとおしそうな表情を示す子どもは、将来、やさしいパパやママになることができる。(そうでない子どもは、そうでなくなるとは言えないが……。)そんなわけでもし心配な点があるなら、子どもにはぬいぐるみをもたせるとよい。これには男女の差別はない。またあってはならない。男の子でも、ぬいぐるみで遊んでいる子どもはいくらでもいる。
 












ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(10)

●一芸を大切に

 子どもには一芸をもたせる。「一芸」というのは、子どもの側からすれば、「これだけは絶対に人には負けない」というもの。周囲の側からすれば、「このことについては、あいつにかなうものはいない」というもの。この一芸が子どもを伸ばす。あるいは子どもを側面から支える。中には、「勉強、一本!」という子どももいるが、このタイプの子どもは、一度勉強でつまずくと、あとは坂をころげ落ちるかのように、成績がさがる。

 一芸は、見つけるもの。この一芸は、つくろうとしてつくれるものではない。子どもの日ごろの様子を観察していると、「これは!」というものに気がつく。それが一芸。ある女の子(1歳)は、風呂の中でも平気で湯にもぐって遊んでいた。

そこで母親がその子どもを水泳教室へ入れてみたが、案の定、「水を得た魚」のように泳ぎ始めた。また別の男の子(5歳児)は、父親が新車を購入すると、スイッチに興味をもち、「このスイッチは何だ」と聞きつづけた。そこで私に相談があったので、パソコンを買ってあげることをすすめた。この子どもも予想通り、パソコンに夢中になり、やがて小学3年生になるころには、ベーシック言語で、自分でつくったゲームで遊ぶようになった。

 ただし同じ一芸でも、ゲームがうまいとか、カードをたくさん集めるとかいうのは、ここでいう一芸ではない。一芸というのは、将来に向って創造的なもの、あるいは努力と練習によって、より光る要素のあるものをいう。そういう一芸を子どもの中に見つけたら、思い切り時間とお金をかける。この「思い切りのよさ」が、子どもの一芸を伸ばす。

 さらにその一芸が、子どもの天職になることもある。ある男の子(高校生)は、ほとんど学校へ行かなかった。毎日、近くの公園でゴルフばかりしていた。しかし10年後、会ってみると、彼はゴルフのプロコーチになっていた。当時私は40歳前後だったが、そのときすでに、私の年収の何倍ものお金を稼いでいた。同じように中学時代、手芸ばかりしている女の子がいた。学校ではほとんど目立たなかったが、今、市内の中心部で、大きなブテイックの店を構えている。一芸には、そういう意味も含まれる。












ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(11)

●過関心は百害のもと

 ある朝、一人の母親から電話がかかってきた。そしてものすごい剣幕でこう言った。いわく、「学校の席替えをするときのこと。先生が、『好きな子どうし並んでいい』と言ったが、(私の子どものように)友だちのいない子どもはどうすればいいのか。そういう子どもに対する配慮が足りない。こういうことは許せない。先生、一緒に学校へ抗議に行ってくれないか」と。

その子どもには、チックもあった。軽いが吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、そういうことはこの母親にはわかっていない。もし問題があるとするなら、むしろ母親のほうだ。こんなこともあった。

 私はときどき、席を離れてフラフラ歩いている子どもにこう言う。「おしりにウンチがついているなら、歩いていていい」と。しかしこの一言が、父親を激怒させた。ある夜、猛烈な抗議の電話がかかってきた。いわく、「おしりのウンチのことで、子どもに恥をかかせるとは、どういうことだ!」と。その子ども(小3男児)は、たまたま学校で、「ウンチもらし」と呼ばれていた。小学2年生のとき、学校でウンチをもらし、大騒ぎになったことがある。もちろん私はそれを知らなかった。

 しかし問題は、席替えでも、ウンチでもない。問題は、なぜ子どもに友だちがいないかということ。さらにはなぜ、小学2年生のときにそれをもらしたかということだ。さらにこうした子どもどうしのトラブルは、まさに日常茶飯事。教える側にしても、いちいちそんなことに神経を払っていたら、授業そのものが成りたたなくなる。子どもたちも、息がつまるだろう。教育は『まじめ7割、いいかげんさ3割』である。子どもは、この「いいかげんさ」の部分で、息を抜き、自分を伸ばす。ギスギスは、何かにつけてよくない。

 親が教育に熱心になるのは、それはしかたないことだ。しかし度を越した過関心は、子どもをつぶす。人間関係も破壊する。もっと言えば、子どもというのは、ある意味でキズまるけになりながら成長する。キズをつくことを恐れてはいけないし、子ども自身がそれを自分で解決しようとしているなら、親はそれをそっと見守るべきだ。へたな口出しは、かえって子どもの成長をさまたげる。







ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(12)

●子どもの心を大切に

 子どもの心を大切にするということは、無理をしないということ。たとえば神経症にせよ恐怖症にせよ、さらにはチック、怠学(なまけ)や不登校など、心の問題をどこかに感じたら、決して無理をしてはいけない。中には、「気はもちようだ」「わがままだ」と決めつけて、無理をする人がいる。さらに無理をしないことを、甘やかしと誤解している人がいる。

しかし子どもの心は、無理をすればするほど、こじれる。そしてその分だけ、立ちなおりが遅れる。しかし親というのは、それがわからない。結局は行きつくところまで行って、はじめて気がつく。その途中で私のようなものがアドバイスしても、ムダ。「あなた本当のところがわかっていない」とか、「うちの子どものことは私が一番よく知っている」と言ってはねのけてしまう。あとはこの繰り返し。

 子どもというのは、一度悪循環に入ると、「以前のほうが症状が軽かった」ということを繰り返しながら、悪くなる。そのとき親が何かをすれば、すればするほど裏目、裏目に出てくる。もしそんな悪循環を心のどこかで感じたら、鉄則はただ一つ。あきらめる。そしてその状態を受け入れ、それ以上悪くしないことだけを考えて、現状維持をはかる。

よくある例が、子どもの非行。子どもの非行は、ある日突然、始まる。それは軽い盗みや、夜遊びであったりする。しかしこの段階で、子どもの心に静かに耳を傾ける人はまずいない。たいていの親は強く叱ったり、体罰を加えたりする。しかしこうした一方的な行為は、症状をますます悪化させる。万引きから恐喝、外泊から家出へと進んでいく。

 子どもというのは、親の期待を一枚ずつはぎとりながら成長していく。また巣立ちも、決して美しいものばかりではない。中には、「バカヤロー」と悪態をついて巣立ちしていく子どもいる。しかし巣立ちは巣立ち。要はそれを受け入れること。それがわからなければ、あなた自身を振り返ってみればよい。あなたは親の期待にじゅうぶん答えながらおとなになっただろうか。あるいはあなたの巣立ちは、美しく、すばらしいものであっただろうか。そうでないなら、あまり子どもには期待しないこと。昔からこう言うではないか。

『ウリのつるにナスビはならぬ』と。失礼な言い方かもしれないが、子育てというのは、もともとそういうもの。







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