ップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(82)
●過関心は心をつぶす
親が自分の子どもに関心をもつのは当然のことだが、それが度を超すと、過関心になる。その過関心、とくに神経質な過関心は、子どもの心をつぶす。
私は私の授業を例外なく、公開している。そういう中でも、ときに親の視線が強すぎて授業そのものがやりにくく感ずることがある。「強い」というより、「刺すような」視線である。それがピリピリと伝わってくる。そこでそれとなくその親の方をみるのだが、表情を見る限り、とくに緊張している様子はない。柔和な笑顔を浮かべていることさえある。しかし視線だけが、異常に強い……!
親の過関心が日常的につづくと、子どもの心は内閉したり、さらにそれが進むと萎縮したりする。(反対に粗放化する子どももいる。このタイプの子どもは、親の過関心をはね返した子どもとみる。)子どもらしいハツラツとした表情が消え、顔もどんよりと曇ってくる。また自分で考えて行動することができなくなるため、外の世界では、常識ハズレな行動をしやすい。
バスの窓から体を乗り出してみせた子ども(小4男児)や、先生のコップに、殺虫剤を入れた子ども(中1男子)がいた。が、そういう事件を起こしても、親にはその自覚がない。ないばかりか、かえって子どもを激しく叱ったりする。この悪循環が、子どもをますます悪い方向に追い込む。
実際、神経質な親は多い。子どもの持ち物は言うにおよばず、机の中や携帯電話の中まで、こっそり調べたりする。子ども部屋に監視カメラをつけている親だっている。こうした親は、口では「私は子どもを愛しています」と言うが、その実、子どもを愛していない。自分の心のすき間を埋めるために、子どもを利用しているだけ(失礼!)。
さらにその原因は何かと言えば、子どもを信じられないという不信感がある。「うちの子は何をしても心配だ」という思いが転じて、過関心になる。もちろん親自身の情緒的欠陥が原因となることもある。このタイプの親は、うつ型タイプの人が多く、一度こまかいことを気にし始めると、そのことばかり気にするようになる。そしてささいなことを問題にしては、おおげさに騒ぐ……。
子どものことで、こまかいことが気になり始めたら、過関心を疑ってみる。そしてもしそうなら、一度思い切って、子どものことは忘れ、子育てそのものから離れてみる。方法はいくらでもある。サークルでも、ボランティアでも何でもすればよい。自分のまわりに、子育てとは関係のない世界をもつ。そしてその結果として、子育てそのものから遠ざかる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(83)
●生きるのがマトリックス(母体)
生きるためにお金を稼ぐ。稼ぐために働く。働くために仕事をする。あくまでも生きることがマトリックス(母体)。それが今、逆転している。仕事が生きることより優先され、仕事のために生きている人はいくらでもいる。たとえば休暇。
私たちは「休みになったら、○○をしよう」と考えて仕事をする。それは問題ないが、休みになったら、休みなったで、今度は仕事のことばかり考える。よく日本人は休暇の過ごし方を知らないと言われるが、その理由の一つはこんなところにもある。子どもの教育とて例外ではない。
土日が休みになって、子どもが家でゴロゴロと横になって休んでいたとする。そういうとき親は、「勉強はしなくていいの?」とか、「もうすぐテストでしょ」とか言って、子どもを追い立てる。
生きることがマトリックス(母体)とするなら、仕事の世界はまさに仮想現実の世界。この世界にハマると、本来大切でないものまで大切と思い込むようになる。学歴だの出世だの、地位だの肩書きだの、そんなことばかりを気にするようになる。それだけならまだしも、その一方で、本来大切にすべきものを、粗末にするようになる。よい例が、単身赴任だ。昔、私のオーストラリアの友人たちがこう言った。「家族がバラバラにされて何が仕事か!」と。
もちろん仕事をするのが悪いと言っているのではない。しかし本分を忘れてはいけない。この本分を忘れると、自分の人生そのものまで犠牲にすることになる。やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……、と。
子どもをなぜ教育するかといえば、それは子どもたちに心豊かで、幸せな人生を歩んでほしいからだ。教育に目的があるとするなら、私たちの知識や経験を武器として、子どもに与えることだ。つまりそれが教育のマトリックス(母体)。
たしかにこの日本には学歴社会があり、それにまつわる受験競争もある。しかしその本分は忘れてはいけない。これを忘れると、子ども自身もまた、今のあなたと同じように、いつまでたっても自分の人生をつかめなくなる。いや、その前に、あなたと子どもの関係は、まちがいなく崩壊する。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(84)
●愛情は落差の問題
下の子どもが生まれたりすると、よく下の子どもが赤ちゃんがえりを起こしたりする。(赤ちゃんがえりをマイナス型とするなら、下の子をいじめたり、下の子に乱暴するのをプラス型ということができる。)本能的な嫉妬心が原因だが、本能の部分で行動するため、叱ったり説教しても意味がない。叱れば叱るほど、子どもをますます悪い方向においやるので、注意する。
こういうケースで、よく親は「上の子どもも、下の子どもも同じようにかわいがっています。どうして上の子は不満なのでしょうか」と言う。親にしてみれば、フィフティフィフティ(50%50%)だから文句はないということになるが、上の子どもにしてみれば、その「50%」というのが不満なのだ。つまり下の子どもが生まれるまでは、100%だった親の愛情が、50%に減ったことが問題なのだ。
もっとわかりやすく言えば、子どもにとって愛情の問題というのは、「量」ではなく「落差」。それがわからなければ、あなたの夫(妻)が愛人をつくったことを考えてみればよい。あなたの夫が愛人をつくり、あなたに「おまえも愛人も平等に愛している」とあなたに言ったとしたら、あなたはそれに納得するだろうか。
本来こういうことにならないために、下の子を妊娠したら、上の子どもを孤立させないように、上の子教育を始める。わかりやすく言えば、上の子どもに、下の子どもが生まれてくるのを楽しみにさせるような雰囲気づくりをする。「もうすぐあなたの弟(妹)が生まれてくるわね」「あなたの新しい友だちよ」「いっしょに遊べるからいいね」と。
まずいのはいきなり下の子どもが生まれたというような印象を、上の子どもに与えること。そういう状態になると、子どもの心はゆがむ。ふつう、子ども(幼児)のばあい、嫉妬心と闘争心はいじらないほうがよい。
で、こうした赤ちゃんがえりや下の子いじめを始めたら、(1)様子があまりひどいようであれば、以前と同じように、もう一度100%近い愛情を与えつつ、少しずつ、愛情を減らしていく。(2)症状がそれほどひどくないよなら、フィフティフィフティ(50%50%)を貫き、そのつど、上の子どもに納得させるのどちらかの方法をとる。あとはカルシウム、マグネシウムの多い食生活にこころがける。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(85)
●嫉妬はこころをゆがめる
嫉妬心と闘争心。これら二つの感情は、おそらく人間がきわめて下等な生物であったときからもっていた原始的な感情ではないか。この二つをいじると、子どもの心はゆがむ。とくに嫉妬心は、人間をして、えてして常識ハズレの行動へとかりたてる。
たとえばいじめ。陰湿ないじめが、長期間にわたって続くときは、この嫉妬を疑ってみる。いろいろなケースがある。K子さん(小4)は、学校で、陰湿なもの隠しに苦しんでした。かばんや上履きなどは言うにおよばず、教科書やノート、運動着さらには通知表まで隠された。そのためK子さんと母親は、転校まで考えていた。が、ひょんなことから、その犯人(こういう言い方は好きではないが……)がわかった。
そのもの隠しをしていたのは、そのK子さんの一番の親友と思われていた子どもだった。その子どもは、いつもK子さんの心配をしながら、最後の最後までいっしょになくなったものをさがしてくれていたという。
K子さんは背も高く、頭もよかった。学校でもたいへん目立つ子どもだった。一方、そのもの隠しをしていた子どもは、背も低く、器量も悪かった。そんなところにその子どもが嫉妬する理由があったのかもしれない。
またこんなことも。Oさん(中2女子)も、同じようにもの隠しに悩んでいた。私に相談があったので、私はその母親にこう聞いた。「Oさんの一番そばにして、親友と思われる子どもはだれですか?」と。する母親はこう言った。「そう言えば、毎朝、娘を迎えにきてくれる子がいます」と。
私はその子どもをまず疑ってみるべきだと話したあと、母親にこう言った。「明日その子が迎えにきたら、その子の目をしっかりと見て、『おばさんは何でも知っていますからね』とだけ言いなさい」と。その母親は翌日、私が言ったとおりにしたが、その日を境に、Oさんのまわりでのもの隠しは、ピタリとなくなった。
つぎに闘争心だが、いわゆる動物的な、かつ攻撃的な闘争心は、幼児期はできるだけ避ける。幼児期は「静かな心」づくりを大切にする。この時期に一度、攻撃的な闘争心(興奮状態になって、見境なく相手を暴力で攻撃するという闘争心)が身につくと、それをなおすのは容易ではない。
スポーツの世界では、こうした闘争心がもてはやされることもある。たとえばサッカーなどでも、能力というよりも、攻撃心の強い子どもほど、よい成績をあげたりする。ある程度の攻撃心は、子どもを伸ばすのに必要だが、幼児期にはそれにも限度があるのでは……?
もっともこれ以上のことは、親自身の判断と方針に任せるしかない。それがよいと思う人は、そうすればよいし、それが悪いと思う人は、やめればよい。あくまでも参考意見の一つと考えてほしい。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(86)
●仮面治癒に注意!
子どもの心の問題をあつかっていると、ときどき不思議な現象にであう。私が最初にある子どもに出会ったとき、「この子の心の問題がなおるには、数年かかるだろうな」と思ったとする。で、それなりの対処をしているのだが、数か月もたたないうちに、「なおった?」ような状態になることがある。
たとえばF君(年中児・5歳)がそうだった。最初母親も、「3歳のとき、病院で自閉症と診断されました」と話していた。(たしかに自閉傾向はあったが、私がみたところ自閉症ではなかった。母親が聞きまちがえたのだろうとそのときはそう思った。)自分勝手な行動が目立ち、私の言うことなどほとんど聞かなかった。
が、指導を始めて数か月後のこと。ふと気づくと、F君が別人のようにおとなしく、しおらしい様子で、私の指示に従っていた! 驚いてうしろで参観していた母親のほうを見ると、母親はそれを見て喜んでいたが、どうもおかしい。そこで母親からあれこれ話を聞くと、F君はある訓練教室で訓練を受けているという。はげしい暴力的な訓練で有名な訓練教室である。
こうしたケースは極端なケースだが、大前提として、子どもの心の問題は、簡単にはなおらない。無理をすれば一見、なおったかのように見えることがある。私はこれを仮面治癒と呼んでいるが、仮面は仮面。なおったのではない。症状はさらに奥の深いところにもぐったと考える。心の問題は、決しておさえてなおるものではない。むしろ反対に、不登校にせよ、引きこもりにせよ、もろもろの情緒障害にせよ、心の問題は、外へ解放させることによってなおす。一年単位の恐ろしく時間のかかる作業だが、これが大原則である。
こうした問題で、たとえば別の形で強度の恐怖心を与えたりすると、子どもは退避的に、自己コントロールするようになる。F君がその教室で受けた訓練は、そういうものだったが、しかしそれは風邪をひいて熱を出している子どもに、頭から水をかけるようなものである。熱はさがるかもしれないが、それですむわけがない。事実そのあと数か月もすると、F君に妙な現象が出てきた。絵を描いているときでも、何を思ったのかひとりでニヤニヤ笑ってみせたり、突発的に大声を張りあげて、泣き叫んだりするなど。
子どもに心の問題を感じたら、親のほうが一歩も二歩も引きさがる。今の状態をそれ以上悪くしないことだけを考えて、無理をしない。無理をすればするほど逆効果。さらに無理をすれば、ここでいう仮面治癒を引き起こすことがある。こうなると、「教育」という場で対処できる問題ではなくなってしまう。その訓練教室では、「なおった、なおった」とさかんに宣伝しているが、本当に「なおった」とみてよいのか。私がいう仮面治癒に、皆さんもじゅうぶん注意してほしい。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(87)
●しつけは普遍
50歳を過ぎると、その人の持病がドンと前に出てくる。しかし60歳を過ぎると、その人の人格がドンと前に出てくる。ごまかしがきかなくなる。たとえばTさん(70歳女性)は近所でも、「仏様」と呼ばれていた。が、このところ様子がおかしくなってきた。近所を散歩しながら、よその家の庭先にあったような植木鉢や小物を盗んできてしまうのだ。
人はそれを、Tさんが老人になったせいだと話していたが、実のところTさんの盗みグセは、Tさんが2、30歳のときからあった。ただ若いときは巧妙というか、そういう自分をごまかすだけの気力があった。しかし70歳近くもなって、その気力そのものが急速に弱まってきた。と同時に、それと反比例するかのように、Tさんの醜い性格が前に出てきた……。
日々の積み重ねが月となり、月々の積み重ねが歳となり、やがてその人の人格となる。むずかしいことではない。ゴミを捨てないとか、ウソをつかないとか、約束は守るとか、そういうことで決まる。しかもそれはその人が幼児期からの心構えで決まる。子どもが中学生になるころには、すでにその人の人格の方向性は決まる。あとはその方向性に沿っておとなになるだけ。途中で変わるとか、変えるとか、そういうこと自体、ありえない。
たとえばゴミを捨てる子どもがいる。子どもが幼稚園児ならていねいに指導すれば、一度でゴミを捨てなくなる。しかし中学生ともなると、そうはいかない。強く叱っても、その場だけの効果しかない。あるいは小ずるくなって、人前ではしないが、人の見ていないところでは捨てたりする。
さて本題。子どものしつけがよく話題になる。しかし「しつけ」と大上段に構えるから、話がおかしくなる。小中学校で学ぶ道徳にしてもそうだ。人間がもつしつけなどというのは、もっと常識的なもの。むずかしい本など読まなくても、静かに自分の心に問いかけてみれば、それでわかる。してよいことをしたときには、心は穏やかなままである。しかししてはいけないことをしたときには、どこか不快感が心に充満する。そういう常識に従って生きることを教えればよい。そしてそれを教えるのが、「しつけ」ということになる。
そういう意味ではしつけというのは、国や時代を超える。そしてそういう意味で私は、「しつけは普遍」という。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(88)
●教師は聖職者にあらず
たまたま私はこの原稿を、石川県のK市にあるホテルで書いている。小さな会議に出席するためにやってきた。約束の時刻までまだしばらくあるということで、何気なく、……というより部屋の空気を入れかえるために窓をあけて眼下を見ると、露天風呂。しかも女湯! その無防備さに、私は我が目を疑った。私の部屋からその露天風呂までは、ちょうど10階分の落差がある。女性たちがはっきりと見える距離ではないが、しかし遠過ぎるという距離でもない。とたん、私の鼓動が高まるのを覚えた。
人は私のことを勝手に「教育評論家」と呼んでいる。最初はこの言葉に大きな抵抗を感じたが、今では自分からこの名前を使うことがある。しかしこの言葉はどこかいやだ。「教育者」というイメージが強過ぎる。たしかに私はいろいろな子育て論を論ずるが、しかし教育者ではない。いわんや教育者という言葉から受けるような聖職者ではない。
その証拠に、現に今、心臓がドキドキしている。54歳にもなって、そんな世界とはまあ、半ばあきらめたというか、無縁の世界にいるはずなのに、何という現象。何という愚かさ。しかしそれにしても露天風呂の女性たちの大胆さといったらない。大きな石の上に、まさにあぐらをかいて連れ添った別の女性と話し込んでいる。小さな風呂だが、バシャバシャと足で蹴って、水しぶきをたてているのもいる。
私はやがてそういう光景を見ている自分がなさけなくなった。今の私はまさに本能の虜(とりこ)になっている。「見たところでどうということはないではないか」という私。これが理性のあるほうの私。しかし「見ていたい」という私。これが本能の私。が、そのうち、こんなことに気づいた。「こうした無防備さこそが、ホテル側の意図的な戦略ではないか?」「わざと私のような人間に見せるようにしくんでいる?」と。とたん自分の心の中で、スーッと本能が冷めていくのを感じた。
私はあえていう。教師は決して聖職者ではない。教師と言っても、あなたの夫や、あなたの兄や弟とどこも違わない、ただの人間である。この私ですらそうなのだから……という言い方は変だが、私はだれが見ても、「まじめな人間?」に見えるらしい。その私ですらそうなのだから、少なくとも男の教師は皆、そうであるとみてよい。
露天風呂に遊ぶ若い女性を見て、「何も感じない」と、窓をしめる教師などいない。いたらいたで、その「ふつうでないこと」を疑ってみたほうがよい。おなかがすけば何かを食べたくなる。それと同じように、こうした性欲はだれにでもある。もっともあったからといって、それがまちがっているというのではない。それが正常な人間ということになる。
さて本論。よく教師による女生徒へのセクハラ事件が話題になる。教師がハレンチ事件を起こすこともある。そういうとき世間は、鬼の首でもとったかのように騒ぐが、そもそもそういうスキを与えたのもその世間ではないのか。もっとはっきり言えば、教育のシステムをそういう前提、つまり教師といえどもただの人間であるという前提で組み立てるべきではないのか。私はそんなことを考えながら、今度は本気で窓を閉じた。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(89)
●仮面をかぶらせるな
心(情意)と表情が遊離し始めると、子どもは仮面をかぶるようになる。一般論として、情緒に何らかの障害のある子どもは、外から見たとき、何を考えているか、わかりにくくなる。表面的にはよい子ぶったり、柔和な表情を浮かべて親や教師の言うことに従ったりする。しかし仮面は仮面。その仮面の下で、子どもは親や教師の印象とはまったく別のことを考えるようになる。これがこわい。
すなおな子どもというのは、心と表情が一致し、性格的なゆがみのない子どものことをいう。不愉快だったら不愉快そうな顔をする。うれしいときには、うれしそうな顔をする。そういう子どもをすなおな子どもという。
が、たとえば家庭崩壊、育児拒否、愛情不足、親の暴力や虐待が日常化すると、子どもの心はいつも緊張状態に置かれ、そういう状態のところに不安が入り込むと、その不安を解消しようと、情緒が一挙に不安定になる。突発的に激怒する子どももいるが、反対にそうした不安定さを内へ内へとためこんでしまう子どももいる。
そしてその結果、仮面をかぶるようになる。一見愛想はよいが、他人に心を許さない。あるいは他人に裏切られる前に、自分から相手を裏切ったりする。よくある例は、自分が好意をよせている相手に対して、わざと意地悪をしたり、いじめたりするなど。屈折した心の状態が、ひねくれ、いじけ、ひがみ、つっぱりなどの症状を引き起こすこともある。
そこでテスト。あなたの子どもはあなたの前で、言いたいことを言い、したいことをしているだろうか。もしそうであれば問題はない。しかしどこか他人行儀で、よそよそしく、あなたから見て、「何を考えているかわからない」といったふうであれば、家庭のあり方をかなり反省したほうがよい。
子どもに「バカ!」と言われ怒る親もいる。平気な親もいる。「バカ!」と言うことを許せというのではないが、そういうことが言えないほどまでに、子どもをおさえ込んではいけない。
子どもの心は風船のようなもの。どこかで力を加えると、そのひずみは、別のどこかに必ず表れる。で、もしあなたがあなたの子どもに、そんな「ひずみ」を感ずるなら、子どもの心を開放させることを第一に考え、親のリズムを子どもに合わせる。「私は親だ」式の権威主義があれば、改める。
そしてその時期は早ければ早いほどよい。満6歳でこうした症状が一度出たら、子どもをなおすのに6年かかると思うこと。満10歳で出たら、10年かかると思うこと。心というのはそういうもので、簡単にはなおらない。無理をすればするほど逆効果になるので、注意する。
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