2009年6月16日火曜日

*June 14th - June 16th

【金権教】

●ぜいたくな悩み

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悩みといっても、本来、悩むような問題ではないかもしれない。
ぜいたくな悩みということは、よくわかっている。
この地球上では、約3分の1の人たちが、飢餓状態に
あると言われている。
食べるのもなくて、困っている。

が、そういう中、私は今、ときどきこんな選択に迫られる。

「食べたら損なのか?」「食べなければ損なのか?」と。

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●レストランで……

 昨日、ワイフの誕生日祝いということで、郊外のホテルで昼食をとった。
フルコースの半分の、ハーフコースというのを注文した。
肉料理を省略したコースをいう。

 そのコースのあと、最後にデザートが出た。
最近はやりの、バイキング・デザートというのである。
10種類くらいのケーキから、好きなのを選んで、いくらでも食べられる。

 私はイチゴ系のケーキ、ワイフはオレンジ系のケーキを選んだ。
1個というよりは、ひとかけらと言ったほうがよい。
小さなケーキだった。
で、それを食べ終わるころ、ボーイが、「ほかに、どれになさいますか?」と
聞いてきた。
そのときのこと。
またあの選択が頭の中を横切った。

「食べたら損なのか?」「食べなければ損なのか?」と。

 私は現在、ダイエット中。
昨日の朝、体重計に乗ってみたら、目標にしていた63キロ台!
この1か月半で、約5キロの減量に成功した。
「何としても、今の体重を維持しよう」と、心に決めていた、その矢先のことである。

 私はググーッとわいてくる食欲を懸命に抑えながら、「もう結構です」と答えた。
「食べたら損」のほうを、選択した。

●ムダ肉

 脂肪細胞というのは、わかりやすく言えば、エネルギーの貯蔵庫のようなもの。
ノートパソコンにたとえるなら、バッテリーのようなもの。
たとえば数日おきくらいにしか食べ物にありつけないような環境なら、脂肪細胞も
必要。
脂肪細胞にエネルギーを貯蔵しておく必要がある。

 しかし現在の日本のように、1日3食、もしくは2食、食べるのが当たり前になって
いるような国では、脂肪細胞にエネルギーを貯蔵しても、意味はない。
その必要もない。
必要なエネルギーは、そのつど摂(と)ればよい。
それに体は軽ければ軽いほどよい。
運動量もふえるから、筋肉も鍛えられる。
それが良循環となって、肉体は健康になる。
ポテポテとした肉体を引きずっていて、よいことは、何もない。

 が、どうしてか、「食べなければ損」という意識が、いつも働く。
どうしてだろう?
つまりこんなところでも、マネーの論理が働く。
「同じ値段なのだから、たくさん食べなければ損」と。
言い換えると、その人の健康観まで、マネーに毒されている(?)。
これは忌々(ゆゆ)しき問題と考えてよい。

●金銭的感覚

が、「損とは何か?」「得とは何か?」、それを考えていくと、
その先が、灰色のモヤに包まれてしまう。
何をもって、人は、得といい、何をもって、人は、損というのか?

いちばんわかりやすい例でいえば、金銭的な損と得がある。
数字が大きくなることを、「儲けた」といい、数字が小さくなることを、
「損した」という。
しかしそれにも限界がある。
金(マネー)に毒されすぎると、何が大切で、何がそうでないか、
わからなくなってしまう。
ときに人の命まで、金銭的感覚で、判断してしまう。
自分の人生まで、金銭的感覚で、判断してしまう。

●○○鑑定団

私の大嫌いなテレビ番組に、『○○鑑定団』というのがある。
いろいろな人が、いろいろなものをもちよって、その値段を
「鑑定」するという、あの番組である。
しばらくああいう番組を見つづけていると、ものの価値まで、金銭的感覚で、
判断してしまうようになる。
(……なってしまった。)

「この絵は、200万円の価値があるから、すばらしい絵だ」
「あの絵は、10万円の価値しかないから、つまらない絵だ」とか、など。

その絵にしても、有名人(?)の描いたものほど、値段が高い。
が、もし、ものの価値のみならず、美術的価値まで、金銭的感覚で判断する
ようになってしまったら、「美術とはいったい、何か?」ということに
なってしまう。

 モノならまだしも、自分の健康となると、そうはいかない。
またそうであってはいけない。

●社会のCPU(中央演算装置)

 話は少し脱線する。

世の中には、「カルト」と呼ばれる、宗教団体がある。
正確には、「宗教的団体」と言うべきか。
で、そういう団体に属する信者の人たちと話していて、いつも不思議に思うことがある。
10年前に、世間を騒がせた、あの宗教団体の信者の人たちにしても、そうだ。
会って、個人的に話をしている間は、ごくふつうの、どこにでもいるような人。
そういう狂信的な団体に属しているから、どこかおかしいのでは(?)と思って観察して
みるのだが、そういうことはない。
どこもおかしくない。
冗談も通ずる。
ふつうの常識も、もっている。

 が、全体として、つまりその団体を全体としてみると、やはりおかしい(?)。
集団となったとき、反社会的な行為を繰り返す。
団体の教義を批判したり、否定したりすると、彼らは猛烈にそれに対して反発する。
あるいはそのまま私たちを、ワクの外にはじき飛ばしてしまう。

 ……これは「カルト」と呼ばれるカルト教団の話である。
が、実は、私たちも全体として、同じような宗教を信仰しているのではないか。
「マネー教」というカルト教である。
その信者でいながら、全体がそうであるから、それに気がつかない。
そういうことは、じゅうぶん考えられる。

つまり社会のCPU(中央演算装置)そのものが狂っているから、その(狂い)すら、
自分で気がつくことができない。

●私の子ども時代

 このことは、私の子ども時代と比較してみてもわかる。
当時の特徴を2つに分けるとこうなる。

(1) 戦時中の軍国主義的な色彩が、まだ残っていた。
(2) その時代につづく金権主義の色彩は、まだ薄かった。

 軍国主義的な色彩というのは、たとえば教育の世界にも強く残っていた。
(学校の先生)にしても、戦時中のままの教え方をする人もいた。
反対に民主主義的な(?)教え方をする人もいた。
それがおもしろいほど、両極端に分かれていた。

 一方当時は、まだ牧歌的な温もりが残っていた。
私の父にしても、将棋をさしながら、仕事をしていた。
将棋に熱中してくると、客を待たせて将棋をさしていたこともある。
客が、その将棋に加わることもあった。

 そういう時代と比べてみると、たしかに(現代)はおかしい。
狂っている。
が、みな狂っているから、それが見えない。
わからない。

●飽食の時代の中で

 アメリカ(USA)では、肥満をテーマにしたエッセーを書くのは、タブーだそうだ。
それだけで、「差別」ととらえられるらしい。
しかしご存知のように、アメリカ人の肥満には、ものすごいものがある。
どうすごいかは、見たとおり。
あの国では、肥満でない人をさがすほうが、むずかしい。

 で、最近、私は日本もそうなりつつあるのを、感ずる。
アメリカ人型の肥満がふえているように思う。
飽食のせいというよりは、アメリカ型食生活の影響ではないか。
ともかくも、そういった人たちは、よく食べる。

このことは以前にも書いたが、浜松市の郊外に、バイキング料理の店がある。
ランチタイム時は、1人、1200円で、食べ放題。
そういうところで食事をしている人を見ると、まさに「食べなければ損」といった感じ。
デザートのケーキでも、一個を一口で食べている。
パク、パク、パク……の3回で、3個!

 食事を楽しんでいるというよりは、食欲の奴隷。
「食べる」というよりは、「食べさせられている」。
そんな印象すら、もつ。
もちろんそういう人たちは、例外なく、太っている。
歩くのも苦しそう。

 しかしそういう人ほど、「食べたら、損」なはず。
食べれば食べるほど、健康を害する。
が、そういう人たちほど、よく食べる。

●散歩の途中で

 私たちの日常生活は、マネーにあまりにも毒されすぎている。
それに気づかないまま、毒されすぎている。
芸術も文化も、マネー、マネー、マネー。
ついでに健康までも、マネー、マネー、マネー。
その一例として、「食べなければ損」について考えてみた。

 しかしどうして「食べなければ損」なのか。
たまたま今日、ワイフと散歩しながら、途中でラーメン屋に寄った。
今度から「ランチ・メニュー」が始まった。
ラーメン+ギョーザ+ミニ・チャーハンの3点セットで、580円。
安い!
私は、チャーシュー丼を注文した。
ワイフは、ランチセットを注文した。
が、とても2人で食べられるような量ではない。
ランチセットを2人で分けても、まだ量が多すぎる。
しかし1人分の料理を、2人で分けてたべるというのも、気が引ける。
で、2人分、頼んだ。

 が、そこでもあの選択。
「食べたら損」なのか、「食べなければ損」なのか?

 私はチャーシュー丼には、ほとんど口をつけなかった。
そのかわり、ワイフが注文したランチセットを、2人で分けて食べた。
が、それでもラーメンの麺は、40%近く、食べないで、残した。

 大切なことは、「ラーメンの味を楽しんだ」という事実。
味を楽しめばじゅうぶん。
目的は達した。
「もったいないから、食べてしまおう」と思ったとたん、マネー教の虜(とりこ)
になってしまう。

●マネー教からの脱出

 お金がなければ不幸になる。
しかしお金では、幸福は買えない。
心の満足感も買えない。
お金の力には、限界がある。
が、その一方で、人間の欲望には、際限がない。
その(際限なさ)が、ときとして、心をゆがめる。
ゆがめるだけではない。
大切なものを、大切でないと思い込ませたり、大切でないものを、大切と
思い込ませたりする。

 子どもの世界でそれを考えると、よくわかる。

 10年ほど前のこと。
1人の女の子(小学生)が、(たまごっち)というゲームで遊んでいた。
私はそれを借りて、あちこちをいじった。
とたん、あの(たまごっち)が死んでしまった。
その女の子は、「たまごっちが死んでしまったア!」と、大声で泣き出した。

 私たちはそういう女の子を見ると笑う。
しかし本当のところ、私たちはその女の子と変わらないことを、日常的に
繰り返している。
繰り返しながら、それに気づかないでいる。

●ではどうするか?

 私たちはカルト教団の信者を見て、笑う。
「私たちは、あんなバカではない」と。
しかし同じようなバカなことをしながら、そういう自分に気づくことはない。
自分を知るというのは、それくらい難しい。

 つまり自分自身を、そうしたカルト教団の信者に置き換えてみればよい。
あなたならそういう信者を、どのようにして説得し、教団から抜けださせることが
できるだろうか。

 いきなり頭から「あなたは、まちがっている!」と言ってはいけない。
梯子(はしご)をはずすのは簡単なこと。
大切なことは、同時に、その人に別の救いの道を提示すること。
それをしないで、一方的に、「あなたはまちがっている」と言ってはいけない。
同じように、自分に対して、「私はまちがっている」と思ってはいけない。
大切なことは、自分の中で、別の価値観を創りあげること。

 方法は、簡単。
常に、何が大切で、何が大切でないか、それを問い続ければよい。
何があっても、それを問い続ける。
あとは、時間が、あなたを導いてくれる。
やがてその向こうに、その(大切なもの)が、見えてくるようになる。

 (見えてくのもの)は、それぞれみなちがうだろう。
しかし見えてくる。
その価値観が優勢になったとき、マネー教はあなたの中から、姿を消す。

●食べたら損

 で、結論は、「食べたら損」ということになる。
いっときの欲望を満足させることはできるが、かえって健康を損(そこ)ねる。
同じように、いくらそのチャンスがあったとしても、人をだましたら、損。
ずるいことをしたら、損。
自分を偽ったら、損。
その分だけ、心の健康を損なう。

 「損(そん)」とは、もともと「損(そこ)なうこと」をいう。
失うことを、「損」というのではない。
が、今では、金銭的な損を、「損」という。
またそういうふうに考える人は多い。

 「食べたら損」なのか、「食べなければ損」なのか。
そういうふうに迷うときがあったら、あなたも勇気を出して、「食べたら損」を
選択してみたらどうだろうか。
たったそれだけのことだが、あなたの心に、何らかの変化をもたらすはず。

 ついでに言うなら、マネーが日本で、一般社会に流通するようになったのは、
江戸時代の中期ごろから。
このことについては、以前、私がかなり詳しく調べたから、まちがいない。
つまりそれまでは、日本人は、マネーとは無縁の生活をしていた。
私が子どものころでさえ、「マネー」を、おおっぴらに口にすることは、
卑しいこととされていた。
それが今は、一変した。
何でも、マネー、マネー、マネーとなった。
マネー教の信者になりながら、信者であることにさえ気がつかなくなってしまった。
その結果が、「今」ということになる。

(付記)

 「食べ物を残すことはもったいない」という意見に、一言。

レストランへ行くと、「お子様ランチ」というのがある。
同じように、「シルバー・ランチ」、もしくは「シルバー・メニュー」のようなものを、
もっと用意してほしい。

 最近の傾向として、レストランでの料理の量が、多くなってきたように感ずる。
全国規模で展開しているレストランほど、そうで、たいてい食べ残してしまう。
しかしこれは食料資源という面で、「もったいない」。
私も、そう思う。
だから高齢者向けに、高齢者用のメニューをふやしてほしい。

 「カロリー少なめ、塩分少なめ、糖分控え目、ハーフサイズ」とか。

 もちろん値段も、その分、安くしてほしい

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て 
Hiroshi Hayashi 林浩司 BW BW教室 マネー教 金権教 金権教団)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●金権教

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お金がすべて……。
お金しか、信じない。
そういう人は、多い。
称して、「金権教」という。

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●戦争の後遺症

あの戦争が残した最大の後遺症と言えば、
金権教と考えてよい。
それまでは天皇が神だった。
その天皇が人間宣言をして、神の座をおりた。
とたん、多くの日本人は、行き場を失ってしまった。
心のより所を失ってしまった。
戦後しばらくの間、放心状態になってしまった人も多い。
戦後、雨後の竹の子のように新興宗教が生まれたのも
そのためと考えてよい。

が、中でも最大の新興宗教といえば、金権教ということになる。
「マネー教」と言ってもよい。
「マネーがすべて」「マネーがあれば幸せ」「マネーがあれば、どんな
夢もかなう」と。
基本的には、現在の日本は、いまだにその(流れ)の中にある。

かなり大ざっぱな書き方をしたが、大筋ではまちがっていない。

●仕事第一主義

ひとつの価値観を妄信すると、他の別の価値観が犠牲になる。
これは私の価値観というよりは、私たちの世代に共通した価値観と言ってもよい。
今でこそ、「仕事より家族のほうが大切」と考える人は多い。
しかし私たちが、20代、30代のころは、そうではなかった。
「仕事か家族か」と問われれば、みな、まちがいなく「仕事」を選んだ。
「仕事あっての家族」と考える人もいた。

だから「仕事」という言葉は、それ自体が、トランプでいえば、ジョーカー
の働きをした。

A「明日、会合に出てくれますか?」
B「私は、仕事がありますから」
A「ああ、それなら結構です」と。

戦前の「お国のため」が、「会社のため」になった。
戦前の「兵士」が、「企業戦士」となった。
仕事第一主義は、そこから生まれた。
「会社人間」という言葉も、そこから生まれた。

しかしそれを裏から支えたのが、金権教ということになる。

●ぜいたくが当たり前

お金がなければ、不幸になる。
それは事実。
しかしお金では、幸福は買えない。
それもまた事実。
お金で私たちは欲望を満足させることはできる。
しかしその欲望には、際限がない。

戦後生まれの私たちと、今の人たちを比較するのもどうかと思うが、
いろいろな場面で、私は、その(ちがい)を強く感ずる。
とくに今の若い人たちの(ぜいたく)を見たりすると、ときに、それに
ついていけないときがある。

もう15年近くも前のことだが、こんなことがあった。
息子たちが、スキーに出かけた。
スキーをするということ自体、私たちの世代には、考えられないことだった。
どこかの金持ちの、最高のぜいたくということになっていた。
が、その息子が、手ぶらでスキーにでかけ、手ぶらで、スキーから帰ってきた。
「荷物はどうした?」と聞くと、息子たちは、平然とこう答えた。
「宅急便で送った」と。

私には、その(ぜいたくさ)が理解できなかった。
そこで息子たちを叱ったのだが、少しあとになって、そのことを友人に話すと、
「今は、みな、そうだ」という返事をもらった。

あとは、この繰り返し。
それが無数に積み重なって、現代という時代になった。

●あるのが当たり前

しかし今はよい。
何とか日本の経済は、持ちこたえている。
しかし日本の経済が、後退期に入ったら、どうなるか。

たとえば今では、子ども部屋といっても、完全冷暖房が常識。
夏は、一晩中、冷房をかけっぱなしにしている。
冬は、一晩中、暖房をかけっぱなしにしている。
今の子どもたちに、ボットン便所で用を足せと言っても、できないだろう。
何でも、「あるのが当たり前」という生活をしている。

これではいくらお金があっても、足りない。
足りないから、その負担は、結局は、親に回ってくる。
ざっと見聞きした範囲でも、現在、親から仕送りしてもらっている若い夫婦は、
約50%はいるとみてよい。
結婚式の費用、新居の費用、出産の費用などなど。
さらには子ども(=孫)のおけいこ代まで。

しかしこうした(ゆがんだ生活観)を支えているのも、金権教ということになる。
「お金を出してやれば、親子の絆(きずな)は深まるはず」
「お金を出してやれば、子どもは、それに感謝するはず」と。

子どもについて言えば、クリスマスのプレゼントにせよ、誕生日のプレゼントにせよ、
より高価なものであればあるほど、よいということになっている。

●金権教と闘う

金権教といっても、まさにカルト。
一度自分の体にしみついたカルトを抜くのは、容易なことではない。
長い時間をかけて、その人の人生観、さらには人生哲学になっている。

「あなたはまちがっていますよ」と言っても、意味はない。
その人は、かえって混乱状態に陥ってしまう。
言うなら言うで、それに代わる別の価値観を容易してやらなければならない。
……と書いたが、それは私たち自身の問題でもある。

金権教と闘うといっても、金権教自体と闘っても、意味はない。
自分の中に新しい価値観を構築し、その結果として、金権教と闘う。
金権教を自分の中で、無意味化する。

が、だからといって、マネーを否定せよとか、マネーには意味がないとか、
そんなことを言っているのではない。
現代社会では、マネーに背を向けては、生きていけない。
しかし毒されすぎるのも、危険と、私は言っている。
へたをすれば、人生そのものを、棒に振ってしまう。
事実、そういう人は多い。

そこでもしあなたに子どもがいるなら、育児の場で、金権教と闘ってみよう。

(1) 子どもには、ぜいたくをさせない。
(2) 子どもには、高価なものを買い与えない。
(3) 子どもには、必要なものだけを買い与える。

少しテーマがちがうが、あのバートランド・ラッセル(一八七二~一九七〇)は、
こう書いている。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」と。

要するに、「程度を超えない」ということ。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●徘徊(はいかい)心理(Walk About)

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私には、徘徊ぐせがある。
それに気づいたのは最近だが、
ほぼまちがいない。
私には、たしかに徘徊ぐせがある。

たとえば職場でいやなことがあったりすると、
私はそのまま道路に出て、家まで歩いて帰る。
ふだんは、自転車やバス、タクシーで帰る。
が、そういうときは、歩いて帰る。

といっても、急ぎ足で歩いても、1時間半はかかる。
ゆっくり歩けば、2時間以上はかかる。
家に帰ると、ワイフが、私にこう言って叱る。
「どうして電話してくれなかったの!」と。

しかし電話など、できるものではない。
電話する気にもならない。
私は歩くことで、悲しさやつらさを忘れる。
頭の中を、からっぽにすることができる。
それにそういうときというのは、本当のことを
言うと、家には帰りたくない。
どこかを、……とくに目的地はないが、ただ、
どこかをめざして、歩きたい。

当然、歩くと言っても、トボトボ……
という感じになる。
スタスタではない。
が、フラフラというほどでもない。
トボトボ……、である。
まっすぐ家路をめざすというよりは、気が向いた
ところで、角を曲がり、そのまま路地を歩く。

++++++++++++++++++

●徘徊

 職を失った人が、失ったことは家族に話さないで、いつものように会社に
出かけるフリをするという話を、よく聞く。
ネクタイを締め、カバンをもって、家を出る。
しかし会社には行かない。
そのままどこかで時間をつぶす。
そして帰宅時刻になると、家路をめざす。
「ただいま!」と言って、家の中に入る。

 そういう話を聞くと、多くの人は、「どうしてそんなバカなことをするのか」と
思うかもしれない。
しかし私には、そういうことをする人の気持ちがよくわかる。
私も、同じような立場になったら、同じようにするだろう。
いつものようにネクタイを締め、カバンをもち、会社へ出かけるフリをする。
そしてどこかで時間をつぶして、その時刻になったら、家に帰る。

 そういう自分と、先に書いた徘徊ぐせと重ねあわせてみると、そこに徘徊する
老人の心理が浮かびあがってくる。
帰宅するときばかりではない。
家の中で何かいやなことがあると、私は家を出る。
飛び出すというような大げさな行為ではないが、家を出る。
そしてそのあたりを、トボトボと歩き回る。
もしそういうのを「徘徊」というのなら、徘徊ということになる。
で、そういう行動の延長線上に、痴呆老人の、あの徘徊があるとするなら、
徘徊する老人たちの心理が、私には痛いほど、よく理解できる。

 徘徊する老人たちは、背中に感ずる不安や心配から逃れたい。
歩けば、それから遠ざかることができると思う。
頭の中をからっぽにすることができる。
だから歩く。
が、けっして目的もなく、歩くわけではない。
歩くこと自体が、目的なのである。
歩くことによって、悲しみや苦しみを忘れることができる。
そこに何があるかわからないが、しかし、何かあるかもしれない
という期待が、心をなぐさめてくれる。
実際、歩いていると、それだけで気がまぎれる。

ワ「どうしてバスに乗って来なかったの?」
私「そういうのとは、ちがうよ」
ワ「タクシーだって、あるでしょ!」
私「そういうのとも、ちがうよ」
ワ「電話くらいしてくれればいいのに。迎えに行ったわよ」
私「そういうのとも、ちがうよ」と。

 私は老人になり、認知症か何かになったら、まちがいなく徘徊老人になるだろう。
今の今でさえ、徘徊ぐせがある。
何かいやなことがあると、そのまま外へ出てしまう。
出て、歩き出してしまう。

 が、しかし私が認知症か何かになって、徘徊するようになっても、
そのままにしておいてほしい。
歩きたいだけ、歩かせてほしい。
できればそうしてほしい。
……多分、無理だろうが……。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●映画『真夏のオリオン』

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私は潜水艦映画が、大好き。
閉所恐怖症だからこそ、潜水艦映画が、大好き。
潜水艦の出る映画は、ほとんどすべてを観てきた。

……ということで、今夜、映画『真夏のオリオン』を観てきた。
涙もろくなったせいもあるが、何か所で
涙がポロポロと出た。
が、だからといって、映画がよかったわけではない。
星は2つもむずかしいかなというところの、2つ。
★★(-)
理由がある。

++++++++++++++++

(1) 冒頭のシーンとラストのシーンで、元潜水艦の乗組員だった老人と、
若い女性が、会話を繰り返す。
そのセリフが不自然。
まるでよくできた作文を読んでいるかのよう。
だいたい、「こんなところで老人と若い女性が面会するだろうか?」と
思うような場所で、2人は、面会する。

(2) その若い女性だが、美しく見せたいという気持ちはよくわかる。
しかし化粧のしすぎ。
歩き方も、カメラを意識しすぎてか(?)、不自然。
ぎこちない。
つまり自然ぽさのないのが、日本映画の欠点。

(3) くだらない説教と、説明が多すぎる。
何も私たちは反戦映画を見に行ったわけではない。
また乗組員が何かの装置を操作するたびに、その説明がつづく。
さらに例によって例のごとく、俳優たちが、力みすぎ。
もう少し肩の力を抜いて、自然ぽく演技してほしかった。

(4) いわゆる「お涙ちょうだい」的な構成が、できすぎ。
一枚の楽譜が、乗組員の命を救ったというストーリーだが、どこか『一杯の
かけそば』風。
昔、『ビルマの竪琴』という映画があった。
『真夏のオリオン』を観ている最中、その映画を思い出した。

(5) エンディングで、「映画が終わった」と思って席を立ったところで、突然、
映画のおまけシーンが出てくる。
「せいこいことをするな」と、私は感じた。
やり方が、姑息。

 だから星は2つでもむずかしいかな……ということで、★★(-)。
日本映画よ、もっと「自然ぽさ」を追求せよ!
「映画というのはこういうものでござる」式の演技には、うんざり!
俳優が心底、その人物になりきって演技する。
映画のおもしろさは、そこから生まれる。
その原点を、もう一度、みなが確認してほしい。
(辛辣な批評で、ごめん!)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●中国の教育の現状

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中国の教育の現状を知ると、そのまま
それが40年前、30年前の日本であることを知る。

中国は日本を追いかけているのか。
それとも日本とは別の道を進みつつあるのか。
あるいは日本も中国も、同じなのか。

Record Chinaは、中国の教育にかけるのは、
「議論」と「消化」であると看破している。

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Record Chinaは、中国の教育の現状について、『中国では、哲学者は育たない』と出して、つぎのように伝える(ヤフー・ニュース・09・06・14日より転載)

『2009年6月、米紙ボストングローブは記事「米国人学生の目から見た中国の教育」を掲載した。米国の私立小学校、公立中学校を卒業した学生が、中国の教育について語った。12日、鳳凰鋭評が伝えた。

米国の教室では子どもたちはいつもわいわいと騒いでいた。一方、北京の学校は厳粛な空気に包まれて息苦しいほど。しかしボストンの学校で学んだことは北京の学校で学んだことよりも多かったように思う。

中国の勉強方法といえば、教科書の暗唱、黙って問題を解く、あるいは声をそろえての発話練習など。すべては受験の準備にあてられている。それも仕方がないところだろうか、中国の高校や大学は点数だけで計られるからだ。中国の学生が必死に勉強するさまは、名門ハーバード大学を目指す米国学生ですらもかなわないだろう。

ただし自由討論や自分なりの解決方法の模索に慣れた米国人学生にとって中国の授業はあまりにも空虚で制約されたもののように思える。中国では1クラスには平均45人の学生がいる(ボストンでは28人)。学生の数も教師が一人一人に気をかけることを難しくしている。

中国の教育課程は自由度が少なく、数学もコンピューターの授業もただ一つの解決方法しかない。作文の機会も少なく、読む本といえば歴史や古典、漢詩ばかりで小説を読むことは少ない。しかしこうしたなか、学生は議論の機会を持てず、学んだ知識を消化することができない。米国人にとっては深く思索すること、決断することこそが教育の重要な一部であるが、中国の中高生にはほとんどこうした経験がない。中国の学校にも多くの長所があろうが、しかし哲学者を育てるものではないようだ』(以上、翻訳・編集KT)。

 この記事の中で、とくに気になったのは、「学生は議論の機会を持てず、学んだ知識を消化することができない」という部分。
「議論」と「消化」。
さすがアメリカの学生。
鋭いことを指摘している。

(1)議論

 日本の教育の最大の欠陥といえば、「議論しない」という点にある。
「議論を許したら、教育がバラバラになってしまう」と考える風潮すらある。
明治の昔から、さらに江戸時代の寺子屋の昔から、この日本では、「もの言わぬ従順な民づくり」が基本だった。
「教育」という言葉にしても、「教え育てる」(田丸謙二先生指摘)。
さらに「学ぶ」という言葉も、「マネブ」、つまり「まねる」に由来するという(同)。

 つまり上意下達方式が、日本の教育の(柱)になっている。

(2)消化

 知識や情報は、脳の中で一度加工されて、はじめて意味をもつ。
加工されない知識や情報は、ただの知識であり情報。
田丸先生は、「そんなものは、今ではインターネットで自由に手に入れることができる」と言っている。
つまり無価値。
そういう無価値なものを、価値あるものと錯覚しているところに、日本の教育の最大の悲劇がある。
(ちょっと言いすぎかな?)

 もちろん、だからといって情報や知識を否定しているのではない。
大切なことは、情報や知識を得たら、それを頭の中で加工すること。
わかりやすく言えば、「自ら考えること」。
田丸先生は、「Independent Thinker」(自分で考える人)という言葉を使って、それを説明している。
「教育では、自分の頭で考えさせることが、何よりも大切」と。

 1971年にペキン大学に留学したことのあるD・キシア君(現在、私の親友)は、こう話してくれた。
「みな、中国の学生はテープレコーダーみたいだった」と。
つまりみな、同じようなことしか、言わなかった、と。
同じようなことを田丸先生も、私に話してくれたことがある(YOUTUBEに収録)。
それから40年。
中国はいまだに、その流れの中にあるらしい。

 では、この日本はどうなのか?
だいじょうぶなのか?
その一例として、私はテレビ番組の、あのバラエティ番組をあげる。
何もバラエティ番組が、日本人の脳みそに影響を与えていると思っているわけではない。
ああいう番組が無数にあり、つぎからつぎへと同じような番組が生まれているというところに、日本人の思考能力の貧弱性が集約されている。
視聴率を稼げるから、テレビ局もそういった番組を作りたがる。
つまり日本人が総バラエティ番組化しているのではなく、日本人自身が、そういう番組を下から支えている。

 脳に飛来した情報を、ペラペラと口にしているだけ。
だれも考えない。
何も考えない。
だからいくら話をしても、その話は、そのままどこかへ消えていく。
ただの雑談。
もちろん哲学を生み出すなどということは、夢のまた夢。
言うなれば、情報のゴミ。
そのゴミの中に埋もれながら、私たちは生きている(?)。
(これも、ちょっと言いすぎかな?)

 ともあれ、「議論」と「消化」。
この記事を読んで、私はこの2つの言葉に、ドキッとした。
つづいて、「米国人にとっては深く思索すること、決断することこそが教育の重要な一部であるが、中国の中高生にはほとんどこうした経験がない」とまで言い切っている。
「さすが、アメリカの学生!」と、私は感心した。
と同時に、「いつになったら、日本の学生も、そういうことを言うことができるようになるのか」と、不安になった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 中国の教育の現状 中国の教育 情報と知識 議論 debate)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●分裂する韓国

++++++++++++++++

韓国では、親北派と反北派が、
鋭く対立し始めている。

が、それにしても理解できないのが、
あの金大中。
元韓国大統領。
「ノ前大統領とは、前世では、
兄弟だった」と発言してみせたり、
今度は、「現政権は、独裁政権」と
決めつけてみせたりしている。

700億円で買ったノーベル平和賞
の話は、どうなったのか?

++++++++++++++++

朝鮮N報(090612)は、次のように伝える。

『……金大中(キム・デジュン)元大統領が11日、李明博(イ・ミョンバク)政権を「独裁政権」と決めつけ、国民に行動を起こすよう求めた。

 金元大統領はこの日、ソウル・汝矣島の63ビルで行われた「6・15南北共同宣言9周年記念式典」で講演し、「独裁者に頭を下げ、媚(こ)びへつらうべきではない。この国で独裁政治が復活しつつあり、貧富の格差は史上最悪の水準に達している。われわれが一緒に行動するという良心を見せ、自由・国民経済・南北関係を守るために立ち上がるべきだ。行動を起こさないのは悪だ」と主張した』と。

 一方、そのK国はどうかと言えば、ウソの上にウソを塗り固めたような国。
それについては前からわかっていたが、自らそのウソをバラし始めた。
あれほどウラン加工はしていないと言っておきながら、今になった「実はしていた」と。
時事通信(6月13日)は、次のように伝える。

『13日、北朝鮮外務省の声明を伝える朝鮮中央テレビのアナウンサー。同国外務省は国連安保理による制裁決議採択を非難。その上で軽水炉建設のために「ウラン濃縮作業に着手する」と表明した』(韓国SBSテレビより)と。

 それにしても理解できない。
こういう声明を出すこと自体、「私たちはウソをついていました」ということを公言するようなもの。
となると、あの6か国協議はいったい、何だったのかということにもなってしまう。
表ではプルトニウム。
裏ではウラン。
しかしこんなことは、以前からわかっていたこと。
「私は知らなかった」では、C・ヒル氏よ、すまされないぞ!
あなたのおかげで、極東アジア情勢は、メチャメチャになってしまった!

 で、そのK国だが、またまたミサイル発射実験をする構えでいる。
今度は、「ICBMだ」と、明言している。
それについても、もし同じ型のロケットだったら、「私たちはミサイルについても、ウソをついていました」と公言するようなもの。
「先のは、人工衛星ではありませんでした。ミサイルでした」と。
「化けの皮がはがれる」というのは、こういうことを言うのか。
つまりこうしてK国は、自ら醜態をさらしながら、崩壊していく。

【補足】(韓国中央N報より)

『ウラン濃縮計画(UEP)をめぐる朝米間の真実探りが6年8カ月ぶりに終止符を打った。

これまで米国と北朝鮮はUEP問題をめぐり「全部知っているから自白しろ」(米国)という督促と、「そもそもないものをいかにして自白できるか」(北朝鮮)という反論を交わしていた。しかし北朝鮮外務省は13日付の声明を通じ、これまでの「否認戦術」を自らやめた』と。

 つまり今まで言ってきたことが、すべてウソだったということを、
自ら認めた。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●負い目(コンプレックス)

++++++++++++++++++

だれにも負い目というのがある。
あなたにもある。
私にもある。
そのひとつが、私は車の運転免許証をもっていないこと。
同窓会などに出ると、「免許証をもっていないのは、林(=私)
だけだなア」などと、からかわれたりする。

その私だが、オーストラリアから帰ってくると、仮免許証までは取った。
が、そのあと就職とつづいて、そのままになってしまった。
バイクの免許はもっていたが、今は、50ccまでの
ソフトバイクに乗れるだけ。
免許証の更新をするのを忘れてしまった。
あのままもっていたら、今は750ccのバイクだって、
乗ることができるのに!

+++++++++++++++++++

そういう私だから、何度も免許証を取ろうとした。
が、若いころは忙しくて、それができなかった。
やっと時間ができたころには、息子たちがつぎつぎと免許証を
ほしがった。
当時ですら、20~30万円の費用が必要だった。
それで何となく、つまり「息子たちが取れば、車を運転してくれるだろう」
というふうに考えて、あきらめてしまった。

(実際には、運転手として、息子たちが車を運転してくれるようなことは、
めったになかったが……。)

で、もっぱら、ワイフの運転する車に乗ることになった。
が、そのつど、気が引ける。
負い目を感ずる。
コンプレックス(劣等感)というのは、そういうのを言う。
心の壁にぺッタリと張りついて、はがれるということがない。

だから、何かの拍子に、ワイフに、「バスで行ってよ!」とか、
「タクシーで行ったら!」と言われることくらい、つらいことはない。
ワイフはそれほど深く考えて言っているのではない。
それはわかっているが、そういう言葉は、グイと胸を突き刺す。
心をえぐる。
さらに、具体的にバスの乗り方を指示されることくらい、つらいことは
ない。
「駅までバスで行って、そこから電車に乗れば!」と。

そういうとき、実に自分が情けなくなる。
免許証をもっていない負い目が、何百倍にも拡大する。

反対にもし、ワイフが、「お金、ちょうだい」と言ったとき、
私が「自分で仕事をしたら」「ハローワークで仕事をさがしてきたら」と
言ったら、どうなるだろう。
ワイフは傷つくだろうと思う。
そういう悲しい思いをさせたくないから、私は結婚当初から、
給料はすべてワイフに渡している。
が、悲しいかな、そういう私の気持ちは、ワイフには通じない。

(付記)

 子どもの劣等感には注意したほうがよい。
私のようなおとななら、自分でそれを何とか処理できる。
(処理できないときもあるが……。)
子どもは、それができない。
容姿、名前、家族など
とくに容姿について、あれこれ言うのは、タブー中のタブー。
わかりきったことだが……。

(補記)

 だから反対にこういうことも言える。
たとえば夫が稼ぎ柱のとき、妻に対して、恩着せがましいことを
言うのは、たいへん危険ということ。
「オレが働いているから、お前ら、食っていかれるのだ!」とか、
「お前ら、だれのおかげで生活できると思っているのだ!」とか、など。
権威主義の強い夫ほど、そういう言葉を口にする。

 こういう言葉は、夫婦の間に決定的な溝(みぞ)を作る。
夫のほうはそれで自分の立場を主張するつもりかもしれないが、そんな
ことはいちいち言われなくても、わかること。
妻は日常的に、それを負い目として生きている。
それをあえて口にされると、私のようにグイと胸をえぐられる。
そういうことばかり言っていると、いつか「離婚!」ということに
なるかも。

+++++++++++++++++++++

●郡上八幡

++++++++++++++++

明日、バススアーを利用して、岐阜県の
郡上八幡まで行くことになっている。
「ぐじょう・はちまん」と読む。
民謡の「♪かわさき」で有名な、あの郡上八幡である。
(一般には、「♪郡上踊り」として、よく知られている。)

それにしても、いやなところを選んだものだ。
いや、郡上八幡がいやだというのではない。
途中、私の郷里を通過するのが、いや。
「たまの休みだから、どこかへ行こう」ということで、
そうなってしまった。

バスは私の郷里のM町を通る。
それを考えただけで、ゆううつ。
気が重くなる。
私はあのM町が大嫌い。
「故郷」という思いは、まったくない。
「懐かしい」とい思いも、まったくない。
それが、いや。

が、どういうわけか、今、私はその郷里をめざして
電車に乗っている。
この話は、ワイフにも言ってない。
今、私が電車に乗っていることも知らない。
言っても理解できないだろうし、言えば、また「あなた、おかしいわよ」
と言われてしまう。
が、私には、どうしても決着をつけておかねばならないことがある。

+++++++++++++++++

●決着

 これから先のことは、あまりにもプライベートなことなので、
文章として、書き残すことはできない。
ありのままを書いたら、それによって迷惑をこうむる人も出てくる。
だから文章として書くのは、ここまで。(ゴメン!)

 心の決着というのは、そういうもの。
その決着をつけないかぎり、私は明日、郡上八幡へ行くことが
できない。
(たぶん、私は郡上八幡へ行くのを、ドタキャンをするだろう。
何かの理由をつけて……。)


Hiroshi Hayashi++++++++June・09++++++++++++はやし浩司

●話題

 暗い話がつづいたので、話題を変えよう。
といっても、このところ明るい話題はない。
(暗い話もとくにないが……。)

 今、少しハマっているのが、「Facebook」。
ブロフである。
そのFacebookには、いろいろな人からアクセスがある。
昨日は、モロッコのカサブランカに住む、16歳の少女から
アクセスがあった。
日本語を勉強しているとか。
ところどころに、日本語がまざっていた。
その少女と、5~6回ほど、やり取りをした。

「私が61歳で、あなたが16歳だから、ちょうど逆だね」と
書いてやった。
16歳といえば、私には遠い遠い昔の話。
が、満16歳になったときのことは、よく覚えている。
伯父の家の縁側で、記念撮影をした。
その写真は、今でもアルバムの中に残っている。

 その少女は日本語を勉強して、いつか日本へ来るのが夢だという。
その気持ちも、よく理解できる。
私も同じ年齢のころ、アメリカにあこがれた。
当時は文通というのが、はやっていた。
私もアメリカ人の何人かの女の子と文通したことがある。
名前は……オハイオ州の、????。
忘れてしまった。
つい数年前までは覚えていたのだが……。


●アスペルガー

 元(?)アスペルガー障害をもっていた女性と結婚した男性がいる。
今年50歳くらいになるのでは?
妻のほうは3歳ちがいの、47歳くらい。

 アスペルガー児の特徴は、いろいろある。
たとえばまちがいやミスを指摘したりすると、混乱状態になる。
実際には、自分のまちがいやミスを、ぜったいに認めない。
ほかに、たとえば、がんこになる。
ふつうの(がんこ)ではない。
それこそテコでも動かないといった状態になる。
また、ひとつのことにこだわると、その殻(から)の中にこもってしまう。
他人の意見を聞かない。
頭がかたいから、冗談が通じない。
冗談、つまりジョークを言っても、笑わない。
思考の柔軟さが欠ける、など。
動物などには、ほとんど興味を示さない子どもも多い。
ほかに言葉に対して、言葉どおりの行動をすることもよく知られている。

 こんな例があった。
ある女の子に母親が電話をした。
「今日、迎えに行くのが遅くなるから、(学校の)門の前で
待っていてね」と。
その女の子は、その指示に従って、そのままずっと、立っていた。
途中で雨が降ってきたのだが、そのまま真っ暗になるまで
門の前で待っていた。

 一般的に、頭は悪くない。
数学なら数学に、特異な才能を示すことがある。
が、こうした症状も、小学3年生くらいから、少しずつ、見た目には
わからなくなってくる。
子ども自身が、自分で自分をコントロールするようになるからである。

●KA氏の妻

 その男性の名前を、KA氏としておく。
KA氏はこう言う。
「結婚したときから、妻のがんこさは気になっていました。
ほかの女性と比較したことがないので、私はそのまま妻を受け入れて
きました。
しかしやはりふつうではありませんでした。
何かのミスをしたようなとき、ふつうなら、『あら、ごめん』ですむような
話でも、妻はちがいます。
その瞬間、グッと固まってしまうのです。
で、あれこれ私が注意すると、口答えにつづく、口答え。
こちらの気が変になることもあります。
たとえば自分でお茶をこぼしても、すかさず、『あなたがここへお茶を
置いておくから悪いのよ』とやり返してきます。
まだ私が何も言ってないのに、です」と。

しかしKA氏はこう言う。
「結婚して以来、林さん(=私)は信じないかもしれませんが、一度とて、
自分のほうから、『ゴメン』と言ったことがないのですよ。
融通性がまったくと言ってよいほど、ないのです。
その場、その場で、状況に応じて行動を変えるということができません。
だから夫婦喧嘩は絶えませんでした。
今でも、ときどき衝突します」とも。

 KA氏が、自分の妻が、元アスペルガー児ではないかと気がつき始めたのは
最近のこと。
孫がアスペルガーと診断されたことがきっかけだった。
加えて、ときどき妻の兄弟から、妻の子ども時代の様子が、耳に入るようになった。
(KA氏が聞き出したということもあるが……。)
妻の兄弟は、みなこう言っているという。
「異常なまでに、がんこだった」
「冗談が通じなかった。冗談を言うと、それを本気にしてしまった」と。

 もちろん20~30年前には、「アスペルガー」という言葉すらなかった。
「アスペルガー」という言葉が、あちこちで話題になるようになったのは、
2000年に入ってからである。
高機能自閉症のひとつだが、知的な遅れは、観察されない。

 が、KA氏の妻のばあい、KA氏がそれとなく妻の障害について話しても、
妻はそれを認めようとしないらしい。
「私はおかしくない」と。
病識がまったくない。
だから「よけいに扱い方がむずかしい」とも。

 「他人に相談しても、みな『あきらめなさい』と言います。
しかし私は、妻に、自分の障害について気づいてほしいのです。
気づけば時間はかかるかもしれませんが、治るはずですから」と。

 アスペルガー児のばあい、将来的にはこうした問題も残ることになる。
当の本人だけの問題ではすまない。

【参考】(ウィキペディア百科事典より)

『「アスペルガー症候群の定義」や「アスペルガー症候群と高機能自閉症は同じものか否かについて」は、諸説あるが、日本国内においては、高機能自閉症(知的障害のない、あるいはほとんどない自閉症)と区別されることは少ない(アスペルガー症候群は、知的障害の有無を問わず、言語障害のない自閉症を指すという研究者もいる)。
自閉症の軽度例とも考えられているが、知的障害でないからといっても、社会生活での対人関係に問題が起きることもあり、知的障害がないから問題がほとんどないとすることはできない。知能の高低については、相対的に低いよりは高い方が苦しみが軽いという見解がある。日本では従来、アスペルガー症候群への対応が進んでいなかったが、2005年4月1日施行の発達障害者支援法によりアスペルガー症候群と高機能自閉症に対する行政の認知は高まった。しかし、依然社会的認知は低く、カナータイプより対人関係での挫折などが生じやすい環境は変わっていない』(以上、ウィキペディア百科事典)。


●自己嫌悪

 自分で自分がいやになる。
「自己嫌悪」という。
しかしこの自己嫌悪は、扱い方が難しい。
自分を嫌いながら、嫌っていることに気づかない。
たいてい、それを他人のせいにする。
「他人が私を嫌っている」と。

 たとえば自分の中に、いやな面があったとする。
するとそれを直接嫌うのではなく、まわりの親しい人に、
それをぶつける。
「あなたは、私を嫌っている」と。

 本当のところ、だれもその人を嫌っていない。
嫌ってはいないのだが、勝手に、「嫌っているはず」と
決めつけてしまう。
「相手はそういう自分のことを好きなはずはない」という思いが、
「嫌っているはず」となる。

 こうすることによって、自分が自己嫌悪に陥るのを防ぐ。
防衛機制のひとつと考えてよい。
というのも、自己嫌悪ほど、恐ろしいものはない。
ひとたび自己嫌悪に陥ると、心は砂漠のようになる。
こまやかな情感が消え、人を愛することができなくなる。
愛されても、それを理解できなくなる。

●ではどうするか

 自己嫌悪そのものが、うつ症による症状のひとつと考えられている。
脳内の脳間伝達物質の変調が原因ということになる。
自己嫌悪が肥大化すると、それこそ「自己否定」、さらには、
「自殺」ということにも、なりかねない。
 けっして自己嫌悪を、甘くみてはいけない。

 次のような症状が出てきたら、やはり専門医に相談したほうがよい。

(1) 何をやっても、見ても、虚しく覚える。
(2) 心がかわいた砂漠のようになって、こまやかな情感が消える。
(3) 自分はだれにも愛されていない。心配もされていないと感ずる。
(4) みなが、自分を嫌っていると感ずる。
(5) 自分は無価値の人間で、生きていてもしかたないと感ずる、など。

 子どもの様子を見ていて、「みながぼくを嫌っている」というような
言い方をしたときは、それ自体が、自己嫌悪によるものと考えてよい。
自分の気持ちを、相手に投射させて、そう言う。
もし子どもがそういうことを口にしたら、愛情表現を豊かにする。
子ども自身に、「あなたはみなに、愛されている」ということを、
わからせる。

 できれば、「相手があなたを嫌っているのではない」「あなたが相手を
嫌っている」ということをわからせる。
根気のいる、たいへんな作業だが、子どもを自己嫌悪から守るほうほうは、
これしかない。
まちがっても、冷たく、突き放してはいけない。

(付記)
 私も、実は、よく自己嫌悪に陥る。
(だから、自己嫌悪について、詳しい。)
そういうときというのは、何をしても、虚しい。
文を書いていても、「こんなことをしていて、何になるのだ」という
迷いばかりが、胸ふさぐ。
「自分は無価値」とか、「どうせだれにも認められない」とか、
そんなふうに思いながら、どんどんと自分で自分を勝手に否定していく。

 しかし本当のところ、だれにも嫌われていない。
(私を嫌っている人は、いるにはいるが……。)
勝手にそう思い込んでいるだけである。
それを自分に何度も言って聞かせる。
そして自己嫌悪の泥沼から、抜け出す。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
自己嫌悪 負い目 コンプレックス はやし浩司 劣等感 投影 投射 防衛機制)


Hiroshi Hayashi++++++++June・09++++++++++++はやし浩司

●眠られないとき

++++++++++++++++++

私は眠られない夜は、頭の中で、UFOの
設計図を描く。
巨大なUFOで、直径は、数10キロもある。
そのUFOの部分を、毎晩あれこれ考えて、
積み重ねていく。
「今夜は、居住室」「今夜は、観察室」と。
それが習慣になっているため、たいていそのまま
眠ってしまう。

++++++++++++++++++++

【学習】

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少し前に買った本だが、あまり読まないで
座右に置いたままにしておいた。

『時事用語・最重要キーワード』(成美堂出版)
というのがそれ。

今朝(6月15日)は、まずこの本で、
今まで知らなかったことをさがす。

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●ふるさと納税

 自分の望む都道府県・市町村に、5000円を超える寄付をすると、その分だけ、地元で、所得税の控除をしてもらえる制度。

 たとえば私は、静岡県浜松の住民だが、岐阜県のM町に、1万円の寄付をすると、1万円分だけ、所得税を控除してもらえる。
方法は、簡単。
寄付すると、その自治体から領収書を交付してもらえる。
その領収書を添付して、確定申告をすればよい。(以上、参考、同書)。

 同じような方法だが、欧米の企業では、学生の奨学金制度に、この方法を採用している。
学生に奨学金を提供すると、その分だけ、やはり所得税から控除を受けられる。
こうすることにより、企業はあらかじめ、日本でいう「青田買い」のようなことができる。
企業、学生の双方にメリットがあることになる。

 日本でも、ぜひ実行してほしい。


●全国学力テスト(全国学力・学習状況調査)

 2007年度より、小6児と中3生を対象に、全国学力・学習状況調査がなされるようになった。
 結果、日本のばあい、基礎力はまあまあだったが、応用力に問題があることがわかった(同書)。

 で、同時に、世界的な学力調査テスト(OECD・生徒の学習到達度調査・2006)で、にわかにクローズアップされたのが、フィンランド政府による、「フィンランド方式」。

 フィンランド・メソドのポイントは、つぎの5つからなっている。

(1) 発想力
(2) 表現力
(3) コミュニケーション力
(4) 批判的思考力
(5) 論理力(以上、参考、同書)

 これを読んで私はうれしくなってしまった。
(3)のコミュニケーション力をのぞいて、私が日々に実践していることばかりだったからである。

 たとえば(2)の表現力は、「言葉クラブ」で、もう30年以上も前から実践している。
『「森」「花」「子ども」の3つの言葉を使って、簡単な話を作りなさい』(幼児向け)など。

 子どもは、たとえば「子どもが、森で、花を見つけました」などという答を考える。
さらに一歩進んで、
『「山」「川」「魚」の3つの漢字を使って、話を作りなさい』(小1向け)というのもある。

 さらに進んで、こんな問題を出すこともある(幼児向け)。

【問】A
 あなたはUFOにさらわれてしまいました。
高い塔の狭い部屋に閉じ込められていまいました。
窓の外から手紙を落として、助けてもらいます。
あなたはどんな手紙を書きますか

(文字のじょうず・へたは問題にしない。
読めればよしとする。
脱字、誤字も、問題としない。
わからない文字は、そのつど、黒板に書いて教える。)

 これひとつ取り上げても、日本の国語教育には、まだまだ改善の余地がある。
現在の国語教育の基本は、(読んで)(理解して)(子どもを教える側好みの思考をする)にある。
ワークブックを見れば、それがわかる。
しかしそれでは(応用力)は育たない。

 念のため、私の教室(幼児向け)でしている問題のいくつかを、ここに紹介する。
家庭での指導に、応用してほしい。

【問】B
あなたはおばさんの家に、お菓子を届けることにしました。
が、行ってみると、おばさんは、あいにくと留守でした。
そこであなたは、そのお菓子を、窓の下に置き、手紙を
書いておいておくことにしました。
その手紙には何と書けばよいでしょうか。
(具体的に、絵で、どういう状況かを、示してやるとよい。)

【問】C
歩いていると、草むらの中に大きな穴があいていました。
あなたはあやうく、その穴の中に落ちてしまうところでした。
そこであなたはつぎに歩いてくる人が、穴に落ちないように、
立て札を立てることにしました。
その立て札には、何と書けばよいでしょうか。

 こうした問題を、みなと考えながら、レッスンを進める。
最初は、的外れな文章を書いていた子どもでも、数回練習すると、それなりの文章を考えるようになる。

 大切なのは、(中身)。
日本人は、トメ・ハネ・ハライ、さらには書き順などにこだわりすぎる。
そのため、こうした(表現力)の指導がおろそかになりやすい。
文章というのは、こちらの気持ちを相手に伝えるためにある。
その本筋を忘れて、国語教育はない。
たとえばこうした手紙を、下から上に、逆に書く子どもがいる。
誤字、脱字のまま書く子どももいる。
「ゆふぉ、たすけて、つわれていかれてしむ……」と書いても、よしとする。
そのおおらかさが、子どもの豊かな表現力を育てる。

 (私の教室は、『公開教室』で公開している。興味のある人は、そちらを見てほしい。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 子どもの表現力 作文力 子供の表現力
具体的指導法)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

【金権教】(2)

●「食べれば損(そこ)ねるか」「食べなければ損(そん)か」

 ワイフとこんな会話をした。
「食べれば損(そこ)ねるか」「食べなければ損(そん)か」と。
「損」という漢字は、「損(そこ)ねる」とも読める。
「損(そん)」とも読める。

 損ねるというのは、「体のどこかを傷(いた)める」という意味。
損するというのは、金銭的なロスをいう。
それをワイフに話すと、ワイフもすなおに賛成してくれた。
「(金銭的な意味で)、食べなきゃ、損と思っていると、
あっという間に太ってしまうわね」と。

私「じゃあ、金権(マネー)教の人は太りやすいということかな?」
ワ「そうねエ、食べ物を見て、すぐ金銭的な判断をする人は、食べなきゃ、
損を考えるかもね」
私「しかし自分の中から、金権教を抜くのは、たいへんなことだよ。
それまでの価値観を180度、変えなければならない人もいるから」と。

●金権教(マネー教)

 日本というより、世界中が、金権教(マネー教)の毒されている。
だから自分がその信者でいながら、その信者であることにさえ気がつかない。
そのことは隣の中国の人たちと比べてみてもわかる。
10年ほど前のことだが、実際に、こんなことがあった。

 子どもが川にはまって溺れた。
それを見て母親が周囲の人たちに助けを求めた。
で、中に1人、男が名乗り出てきて、こう言ったという。
「~~元、出してくれたら、助けてやる」と。

 こういう話を聞くと、日本人なら、「それはおかしい」と言う。
たしかにおかしい。
しかし当時の中国では、そうでなかったらしい?
あるいは中国でも特異な話だったかもしれない?
ともかくも金権教に毒されると、そういう発想で、世の中を見るようになる。

●ハイパーインフレ

 貧富の差が、さらに広がりつつあるという。
「ワーキングプア」という言葉にしても、新鮮味を失った。
今では、私もあなたも、みんなワーキングプア。

 一方、政府はジャブジャブどころか、どしゃ降り的に、マネーを
ばらまいている。
AS首相は世界へ行くたびに、その先々で、1兆円単位のマネーを
ばらまいている。
もちろん、この日本でも!

 そういったお金は、機関投資家や金融機関へと流れている。
が、庶民に届くのは、もっと先。
が、そのころそこで待っているのは、ハイパーインフレ。
やっとお金が回ってきたと思ったら、物価も消費税も2倍!、と。
AS首相のこうした金融政策に疑問を投げかける専門家も多い。
当然のことながら、09年6月に入って、AS首相の支持率が急落し始めている。

●金万能主義

 昔はその人の「家」を見て、その人を判断した。
「あの人は立派な家を建てた」「だから出世した」とか、など。
江戸時代の家制度の亡霊と考えてよい。

 それがある時代は、「自動車」になった。

大型の乗用車に乗っている人ほど、尊敬の念を集めた(?)。
(数年前の韓国もそうだったという話を聞いたことがある。
みな、こぞって大型車に乗りたがったとか。)
が、今は、金権(マネー)。

 「金権」というときの「権」は、「権力」の「権」ではない。
マネーがもつ「力」をいう。
マネーをもっている人は、その力にものを言わせて、好き勝手なことができる。
「金万能主義」ともいう。
「お金があれば、何でもできる」と、このタイプの人は、そう信じている。
さらに積極的に、「お金しか信じられない」とか、「信じられるのはお金だけ」とか、
そんなふうに考える。

●ではどうすれば、よいか

 自分の体にしみついた金権教を、どうすれば知ることができるか。
自分の心を映すカガミのようなものがあればわかりやすいが、そういうカガミはない。
そこで私なりにテストを考えてみた。

(1) 美術館などで、絵画の価値を、売買金額で決めることが多い。
(2) 金持ちの人を、成功者と称える傾向が強い。
(3) (反対に貧しい自分を、恥じる傾向が強い。)
(4) 世間的な見得を張ることが多く、金持ちぶることが多い。
(5) 明けても暮れても、考えることはマネーのことばかり。
(6) 金銭の損得計算にこまかく、うるさい。
(7) 自分が貧乏人に見られることを、とくに嫌う。
(8) 「人生で、お金がいちばん頼りになる」と信じている。
(9) 金儲けのためなら、家族は犠牲になって当然と考える。

 (1)~(9)までのうち、いくつかが当てはまれば、金権教の信者
ということになる。
相互に関連しあっているので、「何点以上が金権教」というようには、
判断できない。
たとえば見栄っ張りな人は、同時に自分貧乏人に見られることを嫌う。
明けても暮れても金儲けのことしか考えていない人は、当然のことながら、
金儲けためには、家族は犠牲になって当然と考える。

●歴史

 金権教がこれほどまでに優勢になったのは、戦後のことではないか。
とくに1965年前後から始まった、高度成長期以後のことである。
だれもが「マネー」「マネー」と言い出すようになった。

 よく「日本人には宗教観がない」と言われる。
それはその通りで、仏教そのものが形骸化し、中身を失ってしまった。
かわって金権教が台頭してきた。
中には「この仏法を信ずれば、庭の枯れ木に札の花が咲く」と教えて、
戦後急速に勢力を伸ばした新興宗教団体もある。

 で、今は、その高度成長期も一段落し、円熟期というか、後退期に
入っている。
金権教の信者だった人も、「今までどおりでよいのか」と疑問をもち
始めている。
出世主義が崩壊し、家族主義が主流になったのも、そのひとつ。
「仕事より家族が大切」などという考え方は、40年前には想像もつかなかった。

●ではどうするか

 先のテストで、「私は金権教の信者」と気づいたら、同時に、別の価値観
の創造をしなければならない。
それしないまま、金権教を自分からはずすと、それこそ糸の切れた凧の
ようになってしまう。

 では、その価値観とは何か?
どうすれば自分の中に、作ることができるか?
が、こればかりは、人それぞれ。
みなちがう。
自然主義、人間中心主義、平和主義、人道主義などなど。
真・善・美の追求もすばらしい。

 そうしたものに向けて、自分を燃焼させていく。
またそういう方法で、自分の価値観を創造していく。
で、私のばあいは、どうか。

 何を隠そう、私も団塊の世代の常として、金権教の信者だった。
人一倍、そうだった。……ように思う。
しかしそういう時代というのは、今から思い出しても、残るのは、後味の悪さだけ。
そういう自分を思い出しながら、人生を無駄にしたように感ずることもある。
お金の使い方にしても、もう少し賢い使い方をすれば、より中身の濃い人生
にすることができたと思う。
人間関係にしても、そうだ。

親類にすら、お金をだまし取られた。
が、それとて、私が蒔いた種。
いいかっこうをしすぎた(?)。
私自身に責任がなかったとは、言えない。

●私のばあい

 いまだに模索状態。
何かがそこにあるはずなのに、それがつかめない。
悶々としている。
もちろん金権教も残っている。
マネーは嫌いではない。
あればあるほど、楽しい。
ないと不安というより、収入として入ってくるマネーの流れが
止まるのが心配。
いまだに何かに追い立てられているような感じがする。
そういう感じを断ち切ることができない。
……難しい。

 ただ若いころとちがうのは、マネーの限界を強く感ずるようになったこと。
「マネーでは、幸福は買えない。
命も健康も買えない。
マネーでは、生きがいを買えない」と。

 その限界を、加齢とともに、強く感ずるようになった。
この傾向は、この先、ますます増大するだろう。
その結果……。

 それには私より年配の人たちの生き様が参考になるはずなのだが、
ざっと見回したところ、そういう人が、1人しかいない。
恩師のTK先生である。
肩書きを並べただけでも、数枚の紙に収まらないだろう。
しかしTK先生のばあい、一度とて、自分のほうからそれを求めた
ことはない。
人徳というか、結果として、そうなった。

 で、そのTK先生自身は、木造の古い家に住んでいる。
大正時代に建てられた家という。
研究者らしく、モノとしての財産には、ほとんど興味がない。
先日も会ったとき、こんな話をしてくれた。
「窒素の固定化を、そこらの植物がしています。
その分子を調べたら、20数万個もの元素でできているのです※。
どうしてああいうものが、自然界で、何の苦もなくできていくのか、
不思議でなりません」と。

 興味の対象、そのものがちがう。
私はその話を聞いたとき、TK先生を、心底、うらやましく思った。
TK先生は、いつも頭の中で、そんなことを考えている。

●終わりに……

 が、無数の人の金権教のおかげで、今の日本がある。
これからの日本を支えていくためには、(少なくとも、この自由主義
貿易陣営の中で生きていこうとするなら)、金権教は必要である。
完全に否定することはできない。

 が、それに毒されすぎてもいけない。
毒されたとたん、自分を見失う。
が、それこそ人生の無駄。
損。
本物の損ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++June・09++++++++++++はやし浩司

●時間教

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『ピーターパン』の話に出てくる、フック船長は
あのワニが大の苦手。
ワニがチックタックと音を出して近づいてくるだけで、
フック船長は、震えあがる。

ワニは、いつか、目覚まし時計を飲み込んだ。
それでチックタックという音を出すようになった。
原作者のジェームズ・マシュー・バリーにそういう
意図があったかどうかは、わからない。
しかしフック船長は、そのまま、時間に追われて生きる現代人を、
象徴している(?)。

現代人はいつも、チクタクと時間に追われて生活している。

+++++++++++++++++++

●時間こそ財産

 「時間こそ財産」ということには、いくつかの意味が含まれる。
また「時間」は、使い方の問題。
 よく「Time is Money(時は金なり)」と、時間をマネーにたとえて
考える人がいる。
ここでいう「時間こそ財産」というのは、もっとちがった意味で、
私はそういう。

 「時間」という言い方に問題があるなら、「命」と置き換えてもよい。
生きている命そのものが、財産。
命の長さを数値で表したものが、「時間」と考えればよい。

 また「使い方の問題」というのは、要するに、何のために使うか
ということ。
金儲けのためだけに使えば、それこそフック船長ということになる。
毎日時間に追われて、あくせくする。
一方、真・善・美の追求のために使うなら、時間はつねに財産ということに
なる。

●時間との勝負

 私のばあい、「時間との勝負」「健康との勝負」の2つが加わる。
「健康」には、「肉体の健康」と「脳みその健康」がある。
一般的には、健康寿命(健康でいられる寿命)は、平均寿命から
10年を引いた分と言われている。
平均寿命が84歳なら、健康寿命は、74歳ということになる。
だれしも晩年の10年は、病気との闘いということになる。
しかしそうなったのでは、当然、脳みその働きも鈍くなる。
ものも考えられなくなる。

 肉体の健康ということになれば、そのときはそのとき。
そのとき恐れないように、今を、じゅんぶん生きていく。
何がこわいかといって、「後悔の念」ほど、怖いものはない。
その「念」だけは、それまでに、しっかりと払拭しておきたい。
そのために、「今」がある。
今、がんばる。

●時間教の勧め

 もしあなたが今、健康で、元気なら、今こそ、時間を大切にしたらよい。
目が見える、音が聞こえる、歩くことができる、話をすることができる。
食事がおいしい、初夏のそよ風が心地よい、ものを考えることができる。
 それこそが、時間教の恵みということになる。
その時間を生かして、今、やるべきことをさがし、(「したいこと」では
ない。「やるべきこと」)、そのやるべきことに自分を統合させていく。

 かなり説教ぽい書き方になってしまった。
が、これは私自身の目標でもある。
またそれができないから、(正直なところ)、悶々としている。
だいたいにおいて、(やるべきこと)が、いまだに定まっていない。
その(やるべきこ)は、エリクソンも言っているように、無私無欲でなけ
ればならない。
損得勘定、欲得が混入したとたん、統合性は霧散する。
あくまでも人のため、社会のため、人類、地球のため……。
そういう意識は高邁(こうまい)であればあるほど、よい。
つまり俗世間を相手にしないところに、統合性の確立の意味がある。
またそれなくして、統合性の確立は、ありえない。

 これは時間教の根幹をなす考え方である。

 さあ、今日一日、どうやって時間を過ごすか。
がんばってみよう。
6月15日、朝、記す。


Hiroshi Hayashi+++++++June 09++++++++++++はやし浩司

●郡上八幡

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今日、岐阜県の郡上八幡へ行ってきた。
ワイフと2人で、人力車に乗った。
郡上城にも、登った。
初夏というより、すでに夏。
しばらく歩くだけで、ジワジワと体中が
汗ばんでくるのがわかった。

昼ごろ、私はざるソバ、ワイフは何とかという
名前のついた、その店の特製ソバを食べた。
このところ小食になったのが、自分でもよくわかる。
胃袋そのものが、小さくなった感じ。
で、今朝、体重を量ったら、62・5キロ。

BMI体重判定法によれば、値は、「20!」。
理想的な体型だそうだ。

もし健康な男性が、どういう体型をしているかを
知りたかったら、私を見ればよい。
いつまでつづくかはわからないが、今日は、
そうだった!

あとはこの体重を維持する。
がんばろう!
がんばります!

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