ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(181)
●依存性
だれしも、多かれ少なかれ何かに依存しながら生きている。生きていることは、その依存するものがなくなったときにわかる。たとえば夫や妻をなくしてガタガタになる人。仕事や地位をなくしてガタガタになる人。お金や財産をなくしてガタガタになる人。宗教から離れたためにガタガタになる人もいる。
人は何かに依存することによって、自らを裏から支える。支えながら、強がって生きる。それ自体は悪いことではないが、問題はその依存する相手と、そしてその程度だ。たとえば子どもに依存する親というのは珍しくない。私はこのことを、依存心の強い子どもを調べていくうちに気がついた。子どもが依存心が強いのではない。その親が依存心が強いから、子どももまた依存心が強くなる……。言いかえると、子どもの依存心ばかりを問題にしても意味がない。
子育ての目標は子どもを自立させること。この原則にたちかえるなら、親の依存心は、それが強ければ強いほど、この自立を妨げることになる。どうせ依存するなら、……というような乱暴なことは言いたくないが、しかしどうせ依存するなら、子どもではなく、もっと別のものにしたらよい。仕事とか、名誉とか、ボランティア活動とか、はたまた政治活動とか、など。しかしこれらでも、本当にその人を裏から支えることができるかどうかということになると疑わしい。依存するなら自分自身。子どもも含めて、自分以外のものには依存しない。
名誉や肩書き、地位など、バーチャルなものや、物や財産など、「形」あるものにも依存しない。……と言っても、ここから先は、あくまでも理想論だが、できれば自分自身の深い人間性や、知性、理性に依存するという方法もある。(私自身も本来ガタガタな人間であり、自分でもできないようなことを、こうしてここに書くのは本当におこがましいことだが……。)そういうものに依存すれば、「なくす」ということがないから、それこそ死ぬまで強がって生きることができる。いや、いろいろな人を見てきたが、本当に強い人というのは、そういう人をいう。
……と書いて、ときどき私はどうなるのだろうと考える。もし私から健康がなくなり、女房が先に死に、おまけに私が書いた本がつぎつぎと古紙回収業の人に回されたら……。そのときでも私は自分の人間性に自信をもち、それに依存して生きていくことができるだろうか。いや、残念ながら、その自信はまったくない。実のところ、こうして「依存心」について書きながら、もう一人の自分が別のところで、「何を偉そうに!」と、先ほどからずっと叫んでいる。だからこの話はここで止める。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(182)
●つらいときが子育て
時の流れというのは、不思議なものだ。風のようなもので、どこからともなくやってきて、またどこかへと去っていく。手でつかんだと思っても、指の間からそのまま漏れていく……。
日々、平穏かつ無事に生きていくことは、それ自体すばらしいことだ。が、皮肉なことに、そういう人生からは何も生まれない。何も残らない。たとえば私の近所に小さな空き地があり、そこは老人たちのかっこうの集まり場所になっている。天気のよい日になると、何かをするでもなし、しないでもなし、老人たちは一日中何やらイスに座って話し込んでいる。のどかな光景だが、そういう人生にどれほどの意味があるというのだろうか。多分話している話の内容も、エンドレスにつづくムダな話ばかり。それをただひたすら繰り返しているだけ……?
子育てもまたそうで、子どもに問題もなく、何ごともなく過ぎていくことはすばらしいことだ。だれしも自分の子育てがそうであることを願う。しかしこんなこともある。
はじめて園児を保育園や幼稚園へ連れてくるような母親というのは、確かに若くてきれいだ。しかしどこか薄っぺらく(失礼!)、中身がない(失礼!)。しかしそんな親でもやがて子育てで苦労をするうちに、やがて腰が低くなり、人間的なまるみができてくる。親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。もっとも親自身がそれに気づくのは、子どもがほとんど巣立つころになってからだが、しかしそれがそのまま子育ての結論であり、人生の結論ではないのか。
今も私の脳裏には、多くの親たちの姿が浮かんでは消える。交通事故で長男をなくしたEさん、脳腫瘍でやはり長男をなくしたPさん、ドクターに息子の生涯の精神障害を宣告されたGさん、など。こういうことは人生の中ではあってはいけないことだが、しかしどの人も今、神々しいほど美しく輝いていて。街ですれ違っても声をかけることができないほどの崇高さを感ずる。そんなことも心のどこかに置いておくと、あなたはひょっとしたら、ほんの少しだけだが、時の流れを手の中でつかむことができるかもしれない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(183)
●できの悪い子どもほど、かわいい
昔から、『できの悪い子どもほど、かわいい』という。それはその通りで、できのよい子どもほど、自分で勝手に成長していく。……成長してしまう。そのためどうしても親子の情が薄くなる。しかしできの悪い子は、そうではない。
I君(小2)は、そのできの悪い子どもだった。言葉の発達もおくれ、その年齢になっても、文字や数にほとんど興味を示さなかった。I君の父親は心やさしい人だったが、学習面でI君に無理を強いた。しかしそれがかえって逆効果。(無理をする)→(逃げる)→(もっと無理をする)の悪循環の中で、I君はますます勉強から遠ざかっていった。
時に父親はI君をはげしく叱った。あるいは脅した。「こんなことでは、勉強におくれてしまうぞ」と。そのたびにI君は、涙をポロポロとこぼしながら、父親にあやまった。一方、父親は父親で、そういうI君を見ながら、はがゆさと切なさで身を焦がした。「泣きながら私の胸に飛び込んできてくれれば、どれほど私も気が楽になることか。叱れば叱るほど、Iの気持ちが遠ざかっていくのがわかった。それがまた、私にはつらかった」と。
このI君のケースでは、母親がおだやかでやさしい人だったのが幸いした。父親が暴走しそうになると、間に入って父親とI君の間を調整した。母親はこう言った。「主人は主人なりに息子のことを心配して、そういう行動に出るのですね。息子もそれがわかっているから、つらがるのでしょう」と。
形こそ多少いびつだが、それも親の愛。子どものできが悪いがゆえに燃えあがる、親の愛。その父親が私を食事に誘ってくれた。私はその席で意を決して、父親にこう告げた。「お父さん、もうあきらめましょう。お父さんががんばればがんばるほど、I君は、ますます勉強から遠ざかっていきます。心がゆがむかもしれません。しかし今ならまだ間にあいます。あきらめて、I君の好きなようにさせましょう」と。
そのとき父親の箸をもつ手が、小刻みに震えるのを、私は見た。「先生、そうはおっしゃるが、このままでは息子は、ダメになってしまいます」「しかしI君の顔から、笑顔が消えたら、どうしますか」「私は嫌われてもいい。嫌われるぐらいですむなら、がまんできます。しかしこのまま息子が、落ちこぼれていくのには耐えられません」「落ちこぼれる? 何から落ちこぼれるのですか」「先生は、他人の子どもだから、そういうふうに言うことができる」「他人の子ども? 実は私はその問題で、10年以上も悩んだのです。自分の子ども、他人の子ども、ということでね。しかし今は、もうありません。今は、そういう区別をしていません」
いかに子どものできが悪くても、子ども自身がもつ生命力さえ残っていれば、必ずその子どもは自立する。そして何10年後かには、心豊かな家庭を築くことができる。しかし親があせって、その生命力までつぶしてしまうと、ことは簡単ではない。一生ナヨナヨとした人間になってしまう。立ちなおるということは、たいへん難しい。I君はそのとき、その瀬戸ぎわにいた。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(184)
●今を生きる
英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなっている格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、結局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはいけません」と教えている。
たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がいる。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。こうした子育て観、
つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、ここでいう愚かな生き方そのものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自分のものにすることができない。あるいは社会へ出てからも、そういう生き方が基本になっているから、結局は自分の人生を無駄にしてしまう。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。
ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽らずに生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高校生が自殺に追いこまれるという映画である。この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反対の位置にある。
これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。しかし今、あなたの周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現実であって、過去や未来などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。だったら精一杯、この「今」の中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。子どもたちとて同じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子ども時代は子ども時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないのか。
もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」ということは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、そのつどなすべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。たとえば私は生徒たちには、いつもこう言っている。
「今、やるべきことをやろうではないか。それでいい。結果はあとからついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に追い求めたら、君たちの人生は、見苦しくなる」と。
同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では「がんばれ!」と拍車をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本的な違いを感ずる。その違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味がわからないのではないか……と、私は心配する。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(185)
●てこずったら、抱く
子どもの心の問題で、何か行きづまりを感じたら、子どもは抱いてみる。ぐずったり、泣いたり、だだをこねたりするようなときである。「何かおかしい」とか、「わけがわからない」と感じたときも、やさしく抱いてみる。しばらくは抵抗する様子を見せるかもしれないが、やがて収まる。と、同時に、子どもの情緒(心)も安定する。
ところが、だ。こんなショッキングな報告もある(2000年)。抱こうとしても抱かれない子どもが、4分の1もいるというのだ。
「全国各地の保育士が、預かった0歳児を抱っこする際、以前はほとんど感じなかった『拒否、抵抗する』などの違和感のある赤ちゃんが、4分の1に及ぶことが、『臨床育児・保育研究会』(代表・汐見稔幸氏)の実態調査で判明した」(中日新聞)と。
報告によれば、抱っこした赤ちゃんの「様態」について、「手や足を先生の体に回さない」が33%いたのをはじめ、「拒否、抵抗する」「体を動かし、落ちつかない」などの反応が二割前後見られ、調査した六項目の平均で25%に達したという。
また保育士らの実感として、「体が固い」「抱いてもフィットしない」などの違和感も、平均で20%の赤ちゃんから報告されたという。さらにこうした傾向の強い赤ちゃんをもつ母親から聞き取り調査をしたところ、「育児から解放されたい」「抱っこがつらい」「どうして泣くのか不安」などの意識が強いことがわかったという。また抱かれない子どもを調べたところ、その母親が、この数年、流行している「抱っこバンド」を使っているケースが、東京都内ではとくに目立ったという。
報告した同研究会の松永静子氏(東京中野区)は、「仕事を通じ、(抱かれない子どもが)二~三割はいると実感してきたが、(抱かれない子どもがふえたのは)、新生児のスキンシップ不足や、首も座らない赤ちゃんに抱っこバンドを使うことに原因があるのでは」と話している。
赤ちゃんは抱かれるものという常識は、どうも常識ではないようだ。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(186)
●手乗り文鳥は子育てをしない
つい先日、13年をともにした手乗り文鳥が死んだ。私は高校一年生のときからずっと、文長を飼っているが、もうその文鳥を最後にすることにした。私も五四歳になったから、これからは生き物を飼うのは慎重にしたい。
で、その手乗り文鳥だが、私の飼い方が悪いためなのかもしれないが、卵を抱いてヒナをかえすところまでは、何とかする。……できる。しかしそのあと、手乗り文鳥は子育てをしない。自分のヒナを見て逃げまわるのもいた。
子育ては本能でできるようになるのではなく、学習によってできるようになる。つまり親に育てられたという経験があって、自分が親になったとき、自分でも子育てができるようになる。このことを裏づける事実として、一般論として、人工飼育された動物は、自分では子育てができない。知能の高い動物ほどそうで、いわんや人間をや。言いかえると、もしあなたがあなたの子どもにいつか、心豊かで温かい家庭を築いてほしいと願っているなら、幸せな家庭とはどういうものか。心豊かな家庭というのはどういうものか。それを今、しっかりと子どもに見せておかねばならない。いや、見せるだけでは足りない。子どもの体にしっかりと染みこませておかねばならない。
そういう体験があってはじめて、あなたの子どもは自分が親になったとき、自然な形で子育てができるようになる。
……ただ、だからといって、不幸にして不幸な家庭に育った人は、よい家庭を築けないと言っているのではない。人間のばあい、近隣の人や親戚の人の子育てを見たり聞いたりすることによって、いろいろな子育てを模擬体験できる。本や映画を通して学習することもできる。しかしふつうの人よりは苦労することは否定できない。このタイプの人は、「いい家庭をつくろう」「いい親子関係をつくろう」という気負いがどうしても強くなり、その気負いが強いため、どこかギクシャクした家庭や親子関係をつくりやすい。
そういう心配はあるが、しかし問題は、そういう過去があることではなく、そういう過去に気がつかないまま、振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことである。これがこわい。
子育てをするときは、いつも自分の過去をみる。「自分はどうだったか」「自分の生まれ育った環境はどうだったか」と。それが結局は自分を知ることになるし、子育ての失敗を防ぐことになる。一度あなたも自分の過去を冷静に見つめてみたらどうだろうか。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(187)
●行き着くところまで行く
子どもの心に何か問題が起きたとする。するとたいていの親は、それをなおそうとする。「まだ何とかなる」「そんなはずはない」と考える。が、原因が自分にあると考える親は、まずいない。しかも心の問題は外からは見えないため、これまたほんとどの親は、「気のせいだ」「心は気のもちようだ」と軽く考える。しかしこうした誤解が、やがて悪循環を招き、少しずつだが時間をかけて、にっちもさっちもいかなくなる。
S君(年長児)の症状は、軽いチックではじまった。そこで母親はそれを何度となくうるさく注意した。が、チックはやがて階段をのぼるようにトントンと悪化した。症状も大きくなり、複数のチックを同時に併発するようになった。母親はますます子どもを叱った。しかしこれがまずかった。S君は真夜中に、はげしいけいれん状のチックを繰り返すようになった。一度は救急車まで呼んだ。しかし親は、自分に原因があるとは決して思わなかった。R君の母親は、見るからに神経質そうな母親だった。話し方もせっかちで、人の話をまったく聞こうとしなかった。
やがてS君と母親はお決まりの病院めぐり。あちこちで検査を受けては落胆したり、一抹の希望をもったりした。S君が幼稚園へ行きたくないと言い出すと、それはますますエスカレートした。が、病院めぐりをすればするほど、S君の症状は悪化した。
母親はあとになってこう言った。「あのまま不登校児になったらどうしようと、そればかりが心配でした」と。が、結局S君はそのまま不登校児になった。1年生のときも、2年生のときも、ほとんど学校へは行かなかった。私にも相談があったので、「3か月は何も言ってはいけません。S君の好きなようにさせなさい」と言ったが、母親にしてみれば、一か月だって長い。そのつど学校へS君をひっぱっていった。さらに病院めぐりをするようになると、もう私のアドバイスなど聞かなかった。
こうなると、私としては指導の方法はない。さらに病院で処方される「わけのわからない薬」を飲むようになると、S君の症状は一時的には快方に向かったが、しかしそれはあくまでも一時的。そのあと薬の反作用で、症状はますますわけのわからないものになっていった。
……というような話はいくらでもある。親というのは、結局は行き着くところまで自分で行くしかない。冷たい言い方だが、これは子育てにまつわる宿命のようなもの。その途中で私のようなものがいくらアドバイスしても、意味がない。指導する側にしてみれば、そういうむなしさがいつもついて回る。これもやはり宿命のようなもの。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(188)
●3つの依存心
日本ではよく、「人はひとりでは生きていかれない」と言う。それはそのとおりで、人はいつも何かに依存しながら生きている。「私は自由人だ」「私は天涯孤独だ」「私はだれにも頼らず生きている」と言う人ですら、何かに依存して生きている。
で、その依存するものだが、人によって、大きくつぎの三つに分けられる。(1)ものやお金など、「形」に依存する人、(2)地位や肩書き、学歴や家柄など、バーチャルなものに依存する人、そして(3)自分自身に依存する人、である。
よく財産や仕事をなくしてガタガタになる人や、宗教から離れてガタガタになる人がいる。これらの人は、つまるところ「自分を離れたもの」に依存するから、そうなる。……、いや、だからといって、ガタガタになるのが悪いというのではない。だれしも、それぞれの分野で、ある程度は依存している。宝くじですらそうだ。買ったときには、「当たれば……」とだれしも思い、ハズれたときには、だれしもがっかりする。しかし自分を本当に強くするには、自分自身に依存するしかない。「私」という「自分」なら、私を裏切らない。私を去ることもない。
そこで「自分」とは何かということになる。もっと言えば、「自分が依存し、その一方で自分を支える自分」は、何かということになる。その一つのヒントとして、私にはこんな経験がある。もう25年近くも前のことだが、私はある雑誌で、あるカルト教団を批判したことがある。が、その直後からものすごい抗議の嵐。私たち夫婦は、「地獄へ落ちる」とか、「夜道を歩くときは気をつけろ」と毎日のようにおどされた。そして事実、私たちは何か得体のしれないものにおびえた。
が、それがきっかけで、そのカルト教団についての本を5冊も書くことになってしまった。(もちろんペンネームで、だが。)しかしその結果、そのカルト教団が、ご多分にもれず、まったくのインチキ教団だとわかった。とたん、恐怖感がウソのように消えた。自分に依存するというのはそういうことをいうのではないか。
自分自身の深い人間性や、知性、理性に依存する。どうせ依存するなら、そうする。そのために自分自身をみがく。それはまさに自分との戦いといってもよい。かく言う私だって、そんな偉そうなことは言えない。今ですらガタガタだ。この先、たとえば女房に先だたれるとか、家計が崩壊するとか、あるいは事故や病気になったりして、いつガタガタになるか知れない。そういう不安はいつもついて回る。だから「戦い」ということになる。
そういう意味では、「自分に依存して生きる」ということは、それ自体たいへんなことだ。ああ、私だって、頼れる神や仏がいれば、今すぐ頼りたい。しかしそれをしればしたで、私にとっては、まさに人生の敗北でしかない。だからやはり戦うしかない。
以上、子育てをする上で、一つのヒントになれば幸いである。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(189)
●子どものゲーム
小学生の低学年は、「遊戯王」。高学年から中学生は、「マジック・ザ・ギャザリング(通称、マジギャザ)」。遊戯王について言えば、小学3年生で、約25%以上の男児がハマっている(2000年11月、小3児53名中13名、浜松市内)。
ある日、一人の子ども(小3男児)が、こう教えてくれた。「ブルーアイズを3枚集めて、融合させる。融合させるためには、融合カードを使う。そうすればアルティメットドラゴンをフィールドに出せる。それに巨大化をつけると、攻撃力が9000になる」と。
子どもの言ったことをそのままここに書いたが、さっぱり意味がわからない。基本的にはカードどうしを戦わせるゲームだと思えばよい。戦いは、勝ったほうが相手のカードを取る「カケ勝負」と、取らない「カケなし勝負」とがある。カードは、一パック5枚入りで、150円から330円程度で販売されている。「アルティメット入りのパックは、値段が高い」そうだ。
あのポケモン世代が、小学校の高学年から中学1、2年になった。そこで当時ハマった子どもたち何人かに、「その後」を聞くと、いろいろ話してくれた。M君(中2)いわく、「今はマジギャザだ。少し前までは、遊戯王だったけどね」と。カード(15枚で500円。デパートやおもちゃ屋で販売。遊戯王は、5枚で200円)は、1000枚近く集めたそうだ。
マジギャザというのは、基本的にはポケモンカードと同じような遊び方をするゲームのことだと思えばよい。ただ内容は高度になっている。私も一時間ほど教えてもらったが、正直言ってよくわからない。要するに、ポケモンカードから遊戯王、さらにその遊戯王からマジギャザへと、子どもたちの遊びが移っているということ。カードを戦わせながら遊ぶという点では、共通している。
わかりやすく言えばポケモン世代が、思考回路だけはそのままで、体だけが大きくなったということ。いや、「思考回路」と言えばまだ聞こえはよいが、その中身は中毒。カード中毒。この中毒性がこわい。だから一万枚もカードを集めたりする。一枚のカードに4万円も払ったりする! 親たちは子どもの世界に、もう少し慎重であってもよいのではないのか。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(190)
●子どもをダシに金儲け
以前、「たまごっち」というゲームが全盛期のころのこと。あのわけのわからない生き物が死んだだけで大泣きする子どもはいくらでもいた。東京には、死んだたまごっちを供養する寺まで現れた。ウソや冗談でしているのではない。本気だ。中には北海道からやってきて、涙をこぼしながら供養している20歳代の女性までいた(NHK「電脳の果て」97年12月28日放送)。
そういうゲームにハマっている子どもに向かって、「これは生き物ではない。ただの電気の信号だ」と話しても、彼らには理解できない。が、たかがゲームと笑ってはいけない。その少しあと、ミイラ化した死体を、「生きている」とがんばったカルト教団が現れた。この教団の教祖はその後逮捕され、今も裁判は継続中だが、もともと生きていない「電子の生物」を死んだと思い込む子どもと、「ミイラ化した死体」を生きていると思い込むその教団の信者は、方向性こそ逆だが、その思考回路は同じとみる。あるいはどこがどう違うというのか。ゲームには、そういう危険な面も隠されている。
で、浜松市内の中学一年生について調べたところ、男子の約半数がマジギャザと遊戯王に、多かれ少なかれハマっているのがわかった。1人が平均約1000枚のカードを持っている。中には一万枚も持っている子どももいる。
マジギャザはもともとアメリカで生まれたゲームで、そのためアメリカバージョン、フランスバージョン、さらに中国バージョンもある。カード数が多いのは、そのため。「フランス語版は質がよくて、プレミヤのついたカードは、4万円。印刷ミスのも、4万円の価値がある」と。さらにこのカードをつかって、別のカケをしたり、大会で賞品集めをすることもあるという。「大会で勝つと、新しいカードをたくさんもらえる」とのこと。「優勝するのは、たいてい20歳以上のおとなばかりだよ」とも。
子どもをダシにした金儲けは、この不況下でも、大盛況。カードの販売だけで、年間100億円から200億円の市場になっているという(経済誌)。
しかしこれはあくまでも表の数字。闇から闇へと動いているお金はその数倍はあるとみてよい。たとえば今、「融合カード」は、発売中止になっている(注)。子どもたちがそのカードを手に入れるためには、交換するか、友だちから買うしかない。希少価値がある分だけ、値段も高い。しかも、だ。子どもたちは自分の意思というよりは、おとなたちの醜い商魂に操られるまま、そうしている。しかしこんなことが子どもの世界で、許されてよいのか。野放しになってよいのか。
(注)この原稿を書いた2001年はじめには発売中止になっていたが、
2001年の終わりには再び発売されているとのこと。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(191)
●ボンヤリは心の掃除
日中、ときどきもの思いにふけってぼんやりすることがある。これを英語では「デイ・ドリーム」という。日本語に訳すと、「白昼夢」となるが、その言葉から受ける印象ほどおおげさに考える必要はない。
むしろ最近の研究では、このデイ・ドリームは、心のバランスをとるためには必要なものとわかってきた。それだけではない。すばらしい創造性や独創的なアイディアは、そのデイ・ドリームをしている間に生まれるとされる。たとえばエジソンやニュートンは、「デイ・ドリーマー(夢見る人)」というニックネームがつけられていた。
幼児のばあい、ふとしたきっかけで、このデイ・ドリームの状態になる。時間的には数分程度から、長くても5分程度だが、ぽかっと魂が抜けてしまったかのようになる。時と場所に関係なく、運動場で体操をしているようなときにでも、そうなることがある。車の中やソファの上だったりすると、そのまま眠ってしまうこともある。そういうとき親は、「気がゆるんでいるからだ」とか、「学習に集中できないからだ」と考えるが、そのデイ・ドリームを無理に妨げると、子どもの情緒はかえって不安定になる。
私の印象では、子どもは(おとなもそうだが)、デイ・ドリームを見ることにより、心の緊張感をほぐすのではないかと思う。その証拠に、デイ・ドリームから戻った子どもは、実におだやかな表情を見せる。
もちろんデイ・ドリームと集中力、あるいはデイ・ドリームと昼寝グセや睡眠不足は区別しなければならない。同じぼんやりといっても、それが日常的につづくようであれば、今度は別の問題を疑ってみなければならない。それはともかくも、そういった問題もなく、子どもがふとしたきっかけで、どこかぼんやりとするような様子を見せたら、できるだけそっとしておくのがよい。
(付記)私もときどき仕事の合間にぼんやりとすることがある。半覚半眠の状態になるのだが、そういうとき電話がかかってきたりすると、それだけで心臓の鼓動が変化するのがわかる。あるいは授業と授業の間の休み時間に、別の仕事が入ったりすると、そのあとの授業で強い疲れを感ずることがある。私のばあいも、ぼんやりとすることで、心を調整しているのだと思う。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(192)
●友を責めるな行為を責めよ
『友を責めるな、行為を責めよ』……これはイギリスの格言。もしあなたの子どもが、あなたからみて好ましくない友だちとつきあい始めたら、決してその友を責めてはいけない。行為を責める。たとえばあなたの子どもが公園で隠れてタバコを吸ったとする。そういうときは、「タバコを吸うことは悪いことだ」「タバコは体に害がある」「タバコをやめなさい」とは言っても、相手の子どもの名前を出して、その子どもを責めてはいけない。
この段階で、「あの○○君は悪い子だからつきあってはダメ」と子どもに言うのは、親を取るか友だちを取るか、その二者択一を子どもに迫るようなもの。あなたの子どもがあなたを取ればそれでよし。が、もしあなたの子どもが相手の子どもを取ったら、あなたとあなたの子どもの間に、大きなキレツを入れることになる。
もう一つイギリスにはこんな格言がある。『相手はあなたが相手を思うように、あなたのことを思う』と。これはどういう意味かというと、もしあなたがAさんならAさんをよい人だと思っていると、Aさんもあなたのことをよい人だと思っているもの。もしあなたがAさんを悪い人だと思っていると、Aさんもあなたのことを悪い人だと思っているもの。つまり人の心というのは、カガミのようなものだということ。
そこでもし、あなたの子どもがあなたからみてよくない友だちとつきあい始めたら、こうする。つまり相手の子どもをほめる。「あの子はユーモアがあって、おもしろい子ね」「あの子はいい子だから、今度、○○をもっていってあげてね」と。そういう言葉はあなたの子どもを介して、必ず相手の子どもに伝わる。そしてそれを知った相手の子どもは、あなたの期待に答えようと、あなたの子どもをよい方向に導いてくれる。これは子育ての技術の中でも、高等技術に属する。一度試してみてほしい。
とにかくこういうケースでは、親はどうしても頭ごなしの禁止命令を出しやすい。しかし一度歯車が狂い始めたら鉄則はただ一つ。今の状態をより悪くしないことだけを考えて、慎重に推移を見守る。あせってもとに戻そうとすればするほど、逆効果になるので注意する。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(193)
●心はぬいぐるみで知る
子どもの心の中に母性(父性でもよいが)が育っているかどうかは、ぬいぐるみの人形を抱かせてみればわかる。母性が育っている子どもは、ぬいぐるみの人形を見せると、さもいとおしいといった表情を示す。頬を寄せたり、やさしく抱きあげようとしたりする。そうでない子どもは、ぬいぐるみを見ても反応しなかったり、中にはぬいぐるみを足でキックする子どももいる。
ぬいぐるみにやさしい反応を示す年長児は約80%、反応を示さない子どもは約20%(筆者調査)。同じような調査だが、小学3年生で、男女を問わず、「ぬいぐるみが好き!」と答えた子どももやはり80%。そのうち約半数は「大好き!」と答え、日常的にぬいぐるみをそばに置いて生活しているということだった(同、筆者調査)。このタイプの子どもは、親になっても、虐待パパや虐待ママにはならない。言いかえると、この時期すでに、親としての「心」が決まる。
同じようなことだが、ふつう愛情豊かな家庭で育った子どもは、静かな落ちつきがある。おだやかで、ものの考え方が常識的。どこかほっとするような温もりを感ずる。それもぬいぐるみを抱かせてみればわかる。両親の愛情をたっぷりと受けて育った子どもは、ぬいぐるみを見せただけで、うれしそうな顔をする。
「子育て」は本能ではない。子どもは親に育てられたという経験があってはじめて、自分が親になったとき、子育てができる。もしあなたが、「うちの子は、どうも心配だ」と思っているなら、ペットの世話をさせるのが一番よい。しかしそれもままならないようなら、ぬいぐるみが効果的である。男の子だからといって、ぬいぐるみで遊んではいけないという理由はない。
私も小学2、3年生のころだが、人形がほしくてたまらなかったときがある。ただ当時は男女の性差に対する偏見がまだ根強く残っていて、おおっぴらにはそれを口に出して言うことはできなかった。しかし伯母の一人に頼むと、伯母はこっそりと私に人形を作ってくれた。私はいつもその人形を抱いて寝ていた。
ただ子どもにぬいぐるみを与えるには、一つのコツがある。おもちゃ屋から買ってきて、袋に入れたまま、ポイと子どもに渡すようなことはしてはいけない。まず親がぬいぐるみをかわいがっている様子を見せる。そういう雰囲気の中に子どもを巻き込んでいくようにする。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(194)
●子どもとペット
オーストラリアでは、子どもの本といえば、動物の本をいう。写真集が多い。またオーストラリアに限らず、欧米では、子どもの誕生日に、ペットを与えることが多い。つまり子どものときから、動物との関わりを深くもたせる。一義的には、子どもは動物を通して、心のやりとりを学ぶ。しかしそれだけではない。
子どもはペットを育てることによって、父性や母性を学ぶ。そんなわけで、機会と余裕があれば、子どもにはペットを飼わせることを勧める。犬やネコが代表的なものだが、心が通いあうペットがよい。が、それが無理なら、ぬいぐるみを与える。やわらかい素材でできた、温もりのあるものがよい。
日本では、「男の子はぬいぐるみでは遊ばないもの」と考えている人が多い。しかしこれは偏見。こと幼児についていうなら、男女の差別はない。あってはならない。つまり男の子がぬいぐるみで遊ぶからといって、それを「おかしい」と思うほうが、おかしい。男児も幼児のときから、たとえばペットや人形を通して、父性を育てたらよい。ただしここでいう人形というのは、その目的にかなった人形をいう。ウルトラマンとかガンダムとかいうのは、ここでいう人形ではない。
また日本では、古来より戦闘的な遊びをするのが、「男」ということになっている。が、これも偏見。悪しき出世主義から生まれた偏見と言ってもよい。その一つの例が、五月人形。弓矢をもった武士が、力強い男の象徴になっている。300年後の子どもたちが、銃をもった軍人や兵隊の人形を飾って遊ぶようなものだ。どこかおかしいが、そのおかしさがわからないほど、日本人はこの出世主義に、こりかたまっている。「男は仕事(出世)、女は家事」という、あの日本独特の男女差別思想も、この出世主義から生まれた。
話を戻す。愛情豊かな家庭で育った子どもは、静かな落ちつきがある。おだやかで、ものの考え方が常識的。どこかほっとするような温もりを感ずる。それもぬいぐるみを抱かせてみればわかる。両親の愛情をたっぷりと受けて育った子どもは、ぬいぐるみを見せただけで、スーッと頬を寄せてくる。こういう子どもは、親になっても、虐待パパや虐待ママにはならない。言いかえると、この時期すでに、親としての「心」が決まる。
ついでに一言。「子育て」は本能ではない。子どもは親に育てられたという経験があってはじめて、自分が親になったとき、子育てができる。もしあなたが、「うちの子は、どうも心配だ」と思っているなら、ぬいぐるみを身近に置いてあげるとよい。ぬいぐるみと遊びながら、子どもは親になるための練習をする。父性や母性も、そこから引き出される。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(195)
●トラブルは親に聞く
子どものことでトラブルが起きたら、一に静観、ニに静観、三、四がなくて、五に親に相談。少子化の流れの中で、親たちは子育てにますます神経質になる傾向をみせている。そうであるからこそなおさら、「静観」。子どもにキズがつくことを恐れてはいけない。子どもというのはキズだらけになって成長する。で、ここでいう「親」というのは、一、二歳年上の子どもをもつ親をいう。そういう親に相談すると、「うちもこんなことがありましたよ」「あら、そうですか」というような会話で、ほとんどの問題は解決する。
話が少しそれるが、私は少し前、ノートパソコンを通信販売で買った。が、そのパソコンには一本のスリキズがついていた。最初私はそのキズが気になってしかたなかった。子どももそうだ。子どもが小さいうちというのは、ささいなキズでも気になってしかたないもの。こんなことを相談してきた母親がいた。
何でもその幼稚園に外人の講師がやってきて、英会話を教えることになったという。それについて、「先生はアイルランド人です。ヘンなアクセントが身につくのではないかと心配です」と。子育てに関心をもつことは大切なことだが、それが度を超すと、親はそんなことまで心配するようになる。
さらに話がそれるが、子どものことでこまかいことが気になり始めたら、育児ノイローゼを疑う。症状としては、つぎのようなものがある。
(1)生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞、
(2)思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の低下)、
(3)精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、日常活動への興味の喪失)、
(4)睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。さらにその状態が進むと、Aさんのように、
(5)風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかったり(注意力欠陥障害)、
(6)ムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)、
(7)ささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)、
(8)同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど感情のコントロールができなくなる(感情障害)、
(9)他人との接触を嫌う(回避性障害)、
(10)過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。
(11)また必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)。
こうした兆候が見られたら、黄信号ととらえる。育児ノイローゼが、悲惨な事件につながることも珍しくない。子どもが間にからんでいるため、子どもが犠牲になることも多い。
要するに風とおしをよくするということ。そのためにも、同年齢もしくはやや年齢が上の子どもをもつ親と情報交換をするとよい。とくに長男、長女は親も神経質になりやすいので、そうする。……そうそう、そう言えば、今では私のパソコンもキズだらけ。しかし使い勝手はずっとよくなった。そういうパソコンを使いながら、「子どもも同じ」と、今、つくづくとそう思っている。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(196)
●ドラ息子の五大症状
ドラ息子、ドラ娘には、つぎのような特徴がある。もしこれらの項目のいくつかに当てはまるようなら、あなたの子どもはかなりのドラ息子、ドラ娘とみてよい。今はまだ体も小さく、あなたの保護のもとでおとなしくしているかもしれないが、やがてあなたの手に負えなくなる。
(1)ものの考え方が自己中心的。自分のことはするが他人のことはしない。他人は自分を喜ばせるためにいると考える。ゲームなどで負けたりすると、泣いたり怒ったりする。自分の思いどおりにならないと、不機嫌になる。あるいは自分より先に行くものを許さない。いつも自分が皆の中心にいないと、気がすまない。
(2)ものの考え方が退行的。約束やルールが守れない。目標を定めることができず、目標を定めても、それを達成することができない。あれこれ理由をつけては、目標を放棄してしまう。ほしいものにブレーキをかけることができない。生活習慣そのものがだらしなくなる。その場を楽しめばそれでよいという考え方が強くなり、享楽的かつ消費的な行動が多くなる。
(3)ものの考え方が無責任。他人に対して無礼、無作法になる。依存心が強い割には、自分勝手。わがままな割には、幼児性が残るなどのアンバランスさが目立つ。
(5) バランス感覚が消える。ものごとを静かに考えて、正しく判断し、その判断に従って行動することができない、など。
こうした症状は、早い子どもで、年中児の中ごろ(四・五歳)前後で表れてくる。しかし一度この時期にこういう症状が出てくると、それ以後、それをなおすのは容易ではない。ドラ息子、ドラ娘というのは、その子どもに問題があるというよりは、家庭のあり方そのものに原因があるからである。
また私のようなものがそれを指摘したりすると、家庭のあり方を反省する前に、叱って子どもをなおそうとする。あるいは私に向かって、「内政干渉しないでほしい」とか言って、それをはねのけてしまう。そういう姿勢が、子どもをますますドラ息子、ドラ娘にする。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(197)
●泥棒の家は戸締りが厳重
昔から『泥棒の家は戸締りが厳重』という。人は何か負い目をもっていると、それをことさら気にすることを言ったもの。たとえば女遊びを繰り返している父親ほど、自分の娘にきびしいなど。あるいは娘の交際相手をいつも疑ってかかる……?
同じようなことだが、いつも学歴を笠に着て生きている人ほど、自分の子どもの学歴にうるさいなど。ある父親はいつもS高校の出身であることを、いばっていた。会話の中にそれとなく出身校をにおわすというのが彼のやり方だった。「今度S高校の同窓会の幹事をやることになりましてね」と。で、その彼の息子がいよいよ受験ということになった。が、その息子にはそれだけの力がなかった。だからその父親と息子は、毎晩のように、「勉強しろ!」「うるさ!」の大乱闘を繰り返していた。
一般論として、子どもの進学に神経質な親ほど、どこかで学歴を強く意識した人とみてよい。自分自身も高学歴であったり、あるいは反対に学歴にコンプレックスをもっていたりするなど。人というのは、だれしも何かの負い目をもっているものであり、その負い目を気にしたり、あるいは無意識のうちにも、その負い目に裏から操られたりする。問題はそうした負い目があることではなく、その負い目に振り回され、本来大切にすべきものを粗末にしたり、本来大切でないものを大切と思い込み、それに振り回されることである。
たとえば子どもの教育にしても、この日本では受験勉強は避けてはとおれないものかもしれないが、しかしその受験勉強には、親子関係を犠牲にするほどまでの価値はない。日本人は「いい学校」は口にするが、「いい家庭」を口にしない。中には、「親子関係が犠牲になってもいい。息子さえ、いい大学へ入ってくれれば。息子もいつかそれで私に感謝するはず」と言う親さえいる。こうした教育観が、子育てそのものまでゆがめる。
そこでどうだろう。もしあなたが今、子どもの勉強のことでカリカリしているようなら、あなた自身の負い目を疑ってみたら。何かあるはずである。この問題も、その負い目に気づくだけでよい、あとは少し時間がかかるが、それでその負い目から解放される。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(198)
●どんな雲にも銀のふちどり
イギリスの格言に、『どんな雲にも銀のふちどり』という格言がある。つまりどんな雲にも、そのまわりには銀色に輝くふちどりがあることを言ったもの。「どんなに苦しいときでも、必ず希望があるから、その希望を捨ててはいけない」と。
ひとつの固定した視点からみると、どうしても絶望的にならざるをえない子どもというのは、たしかにいる。K君(中1男子)がそうだった。何を教えても、ザルで水をすくうように、その教えたことがどこかへ消えていく。教室といっても、私の教室は1クラス5、6人の小さな教室だが、しかしK君のような生徒がいると、ほかの生徒がどんどんとやめていく。それくらいK君というのは学校でも有名な(?)子どもだった。
で、彼が中学3年生になるころには、生徒は2人だけになってしまった。いや、少しでもK君がふざけた態度をしたら、それを理由に私はK君を教室から追い出していたかもしれない。が、K君はただひたすらに私のところで勉強をした。そんなある日のこと、私はK君にこう言った。「どんな大工でも建てたところからどんどん壊されたら、怒るぞ」と。教えても教えてもそれがムダになっていく自分のはがゆさをK君にぶつけた。が、それでも、K君は涙をこぼしながら私に従った。
希望というのは、視点を変えると、それが希望でなくなるときがある。しかし視点を変えると、今まで以上に明るく輝き始めるときがある。あるいは希望など何もないと思っていたところに、実はすばらしい希望が隠されていたりすることがある。大切なことは、そのつど視点を変えたり、あるいはもう一度、自分を振り返ってみることだ。もっと言えば希望は向こうからやってくるものではない。見つけるもの。
その後K君は高校進学をあきらめ、調理師の専修学校に入学。今は家業であるラーメン屋を手伝っている。で、ある日、そのラーメン屋へ行ってみると、K君がちょうど配達のラーメンをどこかへ届けるところだった。私が母親に「元気そうですね」と声をかけると母親はこう言って笑った。「まじめだけがとりえでねえ」と。K君にとっては、その「まじめ」こそが、銀のふちどりだったということになる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(199)
●内容のない本は身を飾る
雑誌社などをのぞいてみると、実際教えたことがない人が、教材を作っていたりする。(だからといって教えている人が、すばらしい教材を作れるということにはならないが……。)そういうところでは、教材にせよ本にせよ、はたまた雑誌にせよ、それは「商品」でしかない。高邁な教育観をもって教材開発に取り組んでいる編集者など、さがしてもいない。またそういうものを期待するほうがおかしい。
実際のところ、どこの編集部でも「いい教材」よりも、「売れる教材」を念頭において、教材開発をする。あるいは制作と同時に、販売先の確保を優先する。編集部よりも販売部のほうが力がある。
長い前置きになったが、その商品を売るにはコツがある。そのひとつが、「飾る」。実際あったことを書く。数年前だが、私は教育書の大手であるR社に原稿をもちこんだことがある。そのときは「検討しておきます」ということだったが、数日後、編集部の部長から電話があり、長い世間話のあと、おもむろにこう言った。「K教授をご存知ですよね。あのK教授です。あのK教授の名前でなら、あなたの本を出してもいいのですが……」と。
もちろん私は断ったが、こうした出版方法は、この世界では珍しいことではない。ベストセラーを何冊も出したような出版社ともなると、その教授専門のライターを置いているところもある。私が99%書いた本だが、ほかの人の名前になっている本だって、10冊はある。よく盗作が話題になるが、盗作どころではない。盗作以上の盗作が、この世界では平気でなされている。しかもその道の権威者と言われる「すばらしい教育者」(?)たちがそうしている。
要するに「飾り」。飾りがあれば本は売れる。(これは本が売れない私のひがみのようなものかもしれないが……。)そのために出版社はあれこれ飾りを入れる。今でこそ少なくなったが、ほんの少し前まで、ささいな教材や参考書にまで、○○大学××教授監修、あるいは指導と、ぎょうぎょうしい肩書きを載せるのが慣習になっていた。そういうのを載せれば、よく売れるからである。
で、数年後のこと。近くの書店でR出版社のブックコーナーがあった。見るとあのK教授の新刊書がずらりと並んでいた。いくつかをパラパラとめくって読んでみたが、どれもとても八〇歳をこえた老人が書いたと思われないような若々しい文体の本ばかりだった。私は「ああ、あのときの本だな……」と思って、その場を離れた。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(200)
●自分を知る
哲学の究極の目標は、「自分を知る」ことだそうだ。古代ギリシアの七賢人の一人であるターレスも、「汝自身を知れ」という有名な言葉を残している。つまり一見なんでもないようなことだが、自分を知るのはそれくらいむずかしいということ。
話は直接関係ないが、こんなことがあった。オーストラリアの友人夫婦が、一か月ほど我が家にホームステイをして帰るときのこと、私がその友人に、「ぼくの家で気がついたことがあったら言ってくれ」と頼んだときのこと。彼はこう言った。「君の家では、奥さんは召使いのようだな」と。
この言葉には驚いた。私は平均的な日本人よりははるかに民主的な(?)夫だと思っていた。そこで私は彼に「君は私の家庭のどんなところを見てそう言うのか」と聞くと、こう話してくれた。「君の奥さんは、ぼくたちが食事をしているとき、ずっとあれこれ給仕している。キッチンに立ったままではないか」と。日本では見慣れた、というより、当たり前の光景ではないか。私は彼のこの意見には少なからずショックを受けた。
子育ての話にもどるが、親と話していて、これとちょうど反対の思いをすることは多い。たとえば子どもに問題が起きたりすると、ほとんどの親は、「子どもをなおす」という言葉を使う。しかし「自分をなおす」という言葉を使う親は、まずいない。過保護児にしても過干渉児にしても、その症状だけをみて、親は子どもをなおそう(?)とする。しかし問題の原因は、親自身にある。親が日常的に子どもを過保護にし、過干渉しておきながら、「どうしてうちの子は……?」は、ない。
そこで教訓。もしあなたの子どもに何か、問題が起きたら、まずあなた自身を疑う。幼稚園や学校や先生ではない。子どもでもない、あなた自身を、だ。この視点を忘れると、問題が解決しないばかりか、さらに問題はこじれる。悪循環のドロ沼に入り、やがてにっちもさっちもいかなくなる。言いかえると、子育てにおいても、「汝自身を知れ」というのが、究極の目標ということになる。
2009年6月24日水曜日
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