【「私」って、何だろう?】(1)(09年6月22日記)
(意識と肉体の分離)
【菩提心】
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仏教によれば、私たちは煩悩(=欲望)のかたまり
であるという。
煩悩には、たとえば『貪(どん)』『瞋(しん)』『痴(ち)』
などがある。
『貪(どん)』というのは、「貪(むさぼ)ること」をいう。
『瞋(しん)』というのは、「激しく怒(いか)ること」をいう。
『痴(ち)』というのは、「無知なこと」をいう。
そのほかにもいろいろあるが、私たちの肉体は、これらの
煩悩に満ち溢れている。
その煩悩が、自分の内にある『菩提心』(すべての人々を愛すること)
が目覚めるのを邪魔する
世親(300~400年ごろの人、パキスタン、ペシャワール
あたりの人とされる※)が、そう説いている。
だから世親は、菩提心を呼び起こすためには、心(精神)を、
一度、肉体から切り離さなければならないと説いた(『浄土三部経』)。
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●精神と肉体
私は53、4歳のころ、女性に対する興味を、ほとんどなくしてしまった。
女性が、「女」として意識できなくなってしまった。
たとえばある日、テレビで相撲を見ていたときのこと。
相撲取りの胸が、たいへん美しく思えた。
「若い娘の胸より美しい」と思った。
あるいはこんなこともあった。
どこかのレストランで、写真週刊誌を読んでいたときのこと。
後半のほうに、若い女性たちのヌード写真が、たくさん載っていた。
それを見ながら、ふとこう思った。
「今まで、どうしてこんな写真に興味をもったのだろう?」と。
で、家に帰ってワイフに、こう言った。
「あのなア、お前、今のぼくなら、混浴風呂で若い女性と肩を並べて入っても
平気だぞ」と。
それに答えて、ワイフはこう言った。
「バカねえ……。相手の女性がいやがるわよ」と。
あとでそのことを人に話すと、「男の更年期」と教えてくれた人がいた。
「初老性のうつ病の症状かも」と教えてくれた人もいた。
うつ病になると、性的な関心を失い、似たような症状が出ることがあるそうだ。
が、それはともかくも、私はそのときはじめて、……というより、思春期以来はじめて、
性欲からの解放感を味わった。
さばさばしたというよりは、どこか乾いた砂漠の中に入ったような気分だった。
心が恐ろしく軽くなったのを覚えている。
と、同時に、それまでの私が、あまりにも性欲の奴隷だったことを知った。
ありとあらゆる面が、「女性」と結びつき、その向こうにある「性」と結びついていた。
それがそのとき、わかった。
●精神と肉体の分離
たまたま今、私は精神と肉体の分離を、現実に経験している。
(少し、おおげさかな?)
というのも、目下、ダイエット中。
少し油断していたら、体重がいつの間にか68キロ台にまでふえていた。
そこで体重を、63キロ台に落とすことを決意。
それが今の今もつづいている。
で、食事のとき、私はいつも自分にこう問いかけながら、食べている。
「食べたら損(そこ)ねるのか、それとも食べなければ損(そん)なのか」と。
たいへん興味深いことに、「損」という感じは、「損(そこ)ねる」とも使う。
「損(そん)」とも使う。
わかりやすく言えば、「体を損(そこ)ねるほど食べたら、かえって損(そん)」
ということになる。
その食欲は、性欲とたいへんよく似ている。
腹がいっぱいになったとたん、食欲はスーッと消える。
性欲もまた同じ。
回りくどい言い方をしたが、私たちの精神は、常に肉体からの命令によって、
左右される。
食欲にしても、性欲にしても、それらは肉体の反応でしかない。
その肉体の反応が、私たちの精神を操る。
ダイエットをしていると、それがよくわかる。
●肉体の奴隷
が、もし肉体の反応のまま、精神が操られるとしたら……。
それが『貪(どん)』『瞋(しん)』『痴(ち)』ということになる。
ここでいう『痴』というのは、仏教でいうところの『愚痴(ぐち)』ということになる。
(日本語のグチとは、意味がちがう。
しかしグチを言う人は、基本的に愚かな人とみてよい。)
操られるなら操られるなで構わないと、思う人も多いかと思う。
そのほうが楽しい、と。
ほしいものは、何でも手に入れる。
食べたいものは、何でも食べる。
したいことをし、行きたいところへ行く。
「それがどうして悪いことなのか」と。
が、しかしそれでは、「真理」に到達することはできない。
菩提心を目覚めさせることはできない。
世親は、それを言った。
●『瞋(しん)』
『瞋(しん)』というのは、「激しい怒り」をいう。
世親がそこまで考えて書いたかどうかは知らないが、怒りといっても、2種類ある。
原子力にたとえるのも、どこか不謹慎な感じがしないでもない。
が、原子力の使い方にも、2種類ある。
原子力発電所として、原子力を利用する方法。
もうひとつは、核爆弾として利用する方法。
私は(怒り)を否定しない。
たとえば今、私はこうしてモノを書いているが、心の根底にあるのは、(怒り)と
言ってもよい。
社会に対する怒り、国に対する怒り、世界に対する怒り、など。
もちろん自分に対する怒りも、ある。
特定の個人に対する怒りも、ないとは言わない。
(できるだけそうしたことに、モノを書くということを利用したくないが……。)
そうした(怒り)がなかったら、こうしてモノなど書かないだろう。
つまり私の感じている(怒り)というのは、原子力発電所の中の原子力のようなもの
である。
これに対して、相手の襟首をつかまえ、「コノヤロー」「バカヤロー」と怒鳴りあうのは、
核爆弾の中の原子力のようなもの、ということになる。
●『痴(ち)』
賢者からは、愚痴な人がよくわかる。
手に取るように、よくわかる。
しかし愚痴な人からは、賢者がわからない。
「自分と同じくらいだろう」くらいにしか考えない。
同じように、自分が愚痴な人だったというのは、自分がより賢者になってみて、
はじめてわかる。
それはちょうど山登りに似ている。
下から見たとき、それほど高くないと思っていても、登ってみると、意外と視野が
広いのに驚く。
また同時に、それまでの自分が、いかに低い位置にいたかを知る。
さらに言えば、賢者も、愚痴な人も、相対的な(差)でしかない。
賢者の上には、さらなる賢者がいる。
愚痴な人の下には、さらなる愚痴の人がいる。
だから釈迦は、『精進(しょうじん)』という言葉を使った。
「日々に、研鑽あるのみ」「死ぬまで、研鑽あるのみ」と。
その努力を怠ったとたん、どんな賢者でも、愚痴の世界に向かって、そのまま
まっしぐらに、ころげ落ちていく。
●『時は金なり』
こうして私たちは、肉体は肉体とし、精神は精神として、分離する。
けっして肉体の奴隷になってはいけない。
奴隷になったとたん、自分を見失う。
見失って、貴重な時間を浪費する。
『時は金なり』とはいうが、『時(=時間)そのものが、貴重』なのだ。
仮に今、あなたが「あなたの余命は、あと半年です」と宣告されたら、あなたは
どうするだろうか。
あなたは自分の命の短いことをのろい、悶絶するかもしれない。
しかし半年でも、10年でも、20年でも、同じではないか。
人はみな、例外なく、死に向かって、静かな行進をしつづける。
今、病気の人たちだけではない。
健康な人も、だ。
●恐怖心
これから先については、私は想像で書くしかない。
「生きとし生けるもの、すべてに愛をもつこと」を『菩提心』というが、それが
どういうものなのかは、私にもわからない。
そこがどんな世界かも、知らない。
またそういう世界へ入っていくことに対して、恐怖心もないわけではない。
そのことは、若いころ、インドのマザーテレサを知ったときにも感じた。
マザーテレサは、私たちのそれとは想像もつかないほど高い境地に達した人だが、
では、それがそのまま私たちの幸福感とつながるのかどうかということに、自信
がもてなかった。
さらに具体的には、こうも考えた。
「もし私の息子の1人が、マザーテレサの弟子になりたいと言い出したら、それを
親として許すか」「許せるか」と。
あなたなら、どうするだろうか。
それがここで私がいう、「恐怖心」ということになる。
●『菩提心』
キリスト教では、愛を説く。
仏教では、慈悲を説く。
イスラム教というと、キリスト教とはまったく異質の宗教と考えている人は多い。
しかしキリスト教とイスラム教は、実際には、兄弟宗教と考えてよい。
この2つは、知れば知るほど、よく似ている。
もちろんイスラム教でも、愛を説く。
これに対して、『菩提心』というのは、愛に合わせて、「智」も含まれる。
だから世親は、人間の欠陥のひとつとして、『痴』という言葉を使った。
「愛だけでは、人間は完成されない。智が伴って、はじめて人間は完成される」と。
これは私の勝手な判断によるものだが、それほどまちがっていないと思う。
で、その『智』とは何か。
東洋医学では、(意)→(志)→(思)→(慮)→(智)と順に生み出していくと教える。
日本語にも、「意志」「思慮」という言葉がある。
「智」は、その先にある言葉ということになる。
英語では、sharp(頭が切れる)→clever(頭がよい)→wise(賢い)
というふうに使い分ける。
話はそれたが、簡単に言えば、人間は愛だけではだめ。
知性、理性がともなって、はじめて、愛は愛として光り輝く、というふうにも、
解釈できる。
世親のすごさは、一言で言えば、ここにある。
要するに、『菩提心』というのは、心の中にある山の中でも、最高峰ということになる。
そこから見える景色は、どんなものか。
そのとき私はどんな境地に包まれるのか。
それは私にもわからないが、死ぬまでに一度は、その山に登ってみたい。
きっとすばらしい世界にちがいない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て
Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 世親 浄土三部経 菩提心)
(注※……世親、ウィキペディア百科事典より)
『世親(せしん、サンスクリット、vasubandhu ヴァスバンドゥ、音写:婆藪般豆、婆藪般頭、旧訳名:天親〈てんじん〉)は、古代インドの仏教僧。現在のパキスタン、ペシャワールの人で、無著の弟。浄土真宗七高僧の第二祖。
初め部派仏教の説一切有部を学び、有部一の学者として高名をはせた。ところが、兄の無着から大乗仏教を勧められ、下らない教義を聞いていたと自らの耳をそいで、瑜伽行唯識学派に入ったといわれている。その後、唯識思想を学び体系化することに勤めた』『300~400年ごろの人』とある。
Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司
【「私」って、何だろう?】(2)
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今、私はここにいる。
ここにいて、頭蓋骨の中から、外の世界を
ながめている。
下のほうには、自分の鼻先が見える。
メガネのワクも、焦点が合っているわけではないが、
見える。
その向こうにはパソコンの画面。
周囲の雑多な電子機器の数々……。
この頭蓋骨の中にいる私が、「私」ということになる。
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●精子と卵子
若い男性のばあい、1回の射精で、約1億個の精子が放出される。
約1億個、である。
一方、女性のほうは、毎月新しい卵子を排出する。
毎月、である。
その精子と卵子が結合して、1人の人間が誕生する。
確率論的に言えば、1人の人間が「私」になるためには、男性側が毎月10回、射精した
としても、10年の間では、1200億個。
それに女性の卵子の数、120回(10年分)をかけると、約14兆分の1の確率という
ことになる。
約14兆分の1、である。
もしそのとき、卵子に到達する精子が、ほんの1つ、ずれていたとしても、また結合する
時期が、1か月ずれていたとしても、「私」は、この世の中に、いなかったことになる。
●必然的な結果
一方、外から見たらどうだろうか。
そこに一組の夫婦がいる。
その夫婦が、セックスをして、子どもをもうけたとする。
その夫婦からすれば、子どもが生まれるのは、必然的な結果ということになる。
話をわかりやすくするために、川原に向かって小石を投げたばあいを考えてみよう。
投げた石は、重力の法則にしたがって、やがて下に落ちる。
どれかの石に当たる。
必ず、当たる。
しかし当てられたほうの石からみると、それは何百万分の1の確率で、「当たった」
ということになる。
(川原の広さにもよるが……。)
つまり石を投げれば、必ず、どれかの石に当たる。
しかし川原の石から見れば、「私」という自分の石に当たるのは、偶然の、そのまた
偶然ということになる。
●もし……
そこでさらにこう考えてみる。
仮に、卵子に結合した精子が、「私」の精子ではなく、その横を泳いでいた別の精子だった
ら、「私」はどうなっていただろう。
それでも卵子と精子は結合し、そこで子どもは誕生する。
で、ここでの最大の問題は、そのときそこで誕生する子どもは、「私」であるか、「私」
ではないかということ。
もちろん「私」ではない。
「私」の兄弟あるいは姉妹かもしれないが、「私」ではない。
このことは、もしあなたに兄弟姉妹がいれば、何でもない疑問ということになる。
あなたの兄弟姉妹が「私」ではないのと同じように、そうして生まれた私は、「私」では
ないということになる。
つまりほんのわずかだけ、タイミングと時期がずれただけで、私という「私」は
生まれず、別の人間が生まれていたことになる。
が、親や、その周囲の人たちからみれば、そこにいるのは、(あなた)ということに
なる。
精子のひとつやふたつズレたところで、親や、その周囲の人たちからみれば、それは
ごく微小な誤差でしかない。
ここが重要な点だから、もう一度、考え直してみる。
●9999万9999人の兄弟・姉妹
仮に1人の男が、1億個の精子を放出したとする。
その中で卵子にたどりつき、生き残るのは、たった1個。
残りの、9999万9999個の精子は、そのまま死滅することになる。
が、仮に、「それはかわいそうだ」ということで、全世界の女性たちから、
9999万9999個の卵子を集めてきて、人工授精したとする。
そしてそれらの女性の体を使って、9999万9999人の子どもを作ったとする。
しかしその9999万9999人の子どもは、あなたの兄弟や姉妹かもしれないが、
けっしてあなたではない。
「私」ではない。
●生の人間
言うなれば生まれた直後の子どもは、(妊娠した直後の子どもでもよいが)、言うなれば、
(生の人間)ということになる。
性質や気質など、親から引き継ぐものも多いが、一応(生の人間)と考える。
この(生の人間)は、その後の環境によって、(あなた)に作りあげられていく。
日本で生まれ育てば、日本人らしくなる。
浜松で生まれ育てば、浜松の言葉を話すようになる。
私の家庭のような環境で育てば、まちがいなく、ドラ息子、ドラ娘になる。
つまりあなたの親を含めて、外の世界から見た(あなた)は、あなた。
卵子と精子が結合するタイミングと時期が、多少程度ずれていたとしても、あなたは
あなた。
しかしこれだけは、絶対、たしか。
その(あなた)は、けっして「私」ではない。
私という「私」は、私になれないまま、他の9999万9999個の精子とともに、
闇から抜け出ることもなく、そのまま死滅する。
もちろんそれらの精子が、「私」を自覚することはない。
●「私」は奇跡中の奇跡
こうして考えてみると、「私」というのが今、ここにいるのは、まさに奇跡中の奇跡、
ということになる。
「約14兆分の1の確率で生まれた」と言っても過言ではない。
もしほんの1つでもタイミングがずれていたとしたら、「私」はいない。
だれかほかの人は生まれたかもしれないが、しかしそれは「私」ではない。
今の私とまったく同じ顔をし、同じことをしているかもしれないが、「私」ではない。
もしタイミングがほんの1つでもタイミングがずれていたとしたら、私は「私」になる
前に、そのまま永遠の闇の中に、葬られていた。
永遠ということは、永遠。
●意識
というふうに考えていくと、「私」というのは、この頭蓋骨の中から外をながめている、
「意識」ということになる。
頭蓋骨から離れたとたん、それは「私」ではなくなってしまう。
こんな例で考えてみれば、それがわかる。
コンピュータの技術が進歩して、あなたの脳をそっくりそのままコピーできるように
なったとしよう。
そっくりそのまま、だ。
が、そのままではその脳は、見ることも、聞くことも、話すこともできない。
そこでそのコピーされた脳に、カメラやイヤホン、それにスピーカーを取りつける。
その脳は、あなたの脳とまったく同じだから、他人から見れば、(あなた)かもしれない。
しかしその脳は、けっして、あなたではない。
あなたがその脳に向かって、名前を聞けば、その脳は、ちゃんとあなたの名前を
言うだろう。
しかし、けっして、あなたではない。
何からなにまで、そっくりあなたと同じであったとしても、あなたではない。
あなたが「私」と言えるのは、そこにあなたの意識があるからだ。
●死後の世界
こう考えていくと、「死後の世界」という「世界」を考えることすら、無意味に
思えてくる。
死んだら、「世界」はない。
少なくとも「私」という意識は、そこで完全に途絶える。
あなたの肉体や脳を作っている無数の分子は、バラバラに解体され、その一部は、
また別の肉体や脳を作るために、再利用される。
が、だからといって、そこであなたの意識が再生されるというわけではない。
肉体や脳のほとんどは、土となり、植物となり、もろもろの生物に生まれ変わる。
念のため、申し添えるなら、死んだとたん、意識をもつあなたの脳は、バラバラに
なる。
たとえはよくないかもしれないが、日々に排泄するあの便と同じ。
つまり意識は消える。
中に、スピリチュアル(霊)とか何とか、わかったようなことを言う人もいるが、
その意識だけが肉体から離れて、別の世界に浮遊するなどということは、ありえない。
●思考の限界を超えて……
このあたりが、人間の思考の限界ということになるのか。
私にしても、この先が、わからない。
だから人間は、その手前で、右往左往する。
「あの世はあるのか」という命題にしても、結論を出すこともできず、今の今も、
迷っている。
またそれを乗り越えて、その先へ進むこともできない。
「その先」というのは、既存の宗教観を乗りこえた、その先という意味である。
宗教を否定しながら、宗教に頼り、宗教に頼りながら、宗教を否定する。
毎日が、その繰り返し。
その先へ、進むことができない。
実際、宗教の先に見えるのは、広大な、それこそ果てしなくつづく広大な原野。
それを知っただけで、人々は、みな、おびえてしまう。
だからこう考える。
「そんな広大な原野にひとり取り残されるよりは、妥協して安易な道を選んだ
ほうがいい」と。
いくら冒険好きといっても、できることと、できないことがある。
大宇宙へ、たったひとりで、宇宙船に乗って出かけるようなもの。
想像するだけで、ぞっとする。
こうしてまたもとの世界に戻ってしまう。
それが「右往左往」ということになる。
●真の勇者
いつか真の勇者が現れるかもしれない。
「私」という意識を乗り越えて、さらに言えば、あらゆる宗教観を乗り越えて、
広大な原野に道を切り開いてくれる人が、現れるかもしれない。
が、それは、庭に遊ぶ犬のハナに、コンピュータの原理を理解しろというくらい、
難しいことかもしれない。
仮にこのまま数万年、進化しつづけたとしても、難しいことかもしれない。
同じように、人間が、そこへ到達するためには、長い長い時間がかかるだろう。
しかしだからといって、あきらめるわけにはいかない。
方法がないわけではない。
あのソクラテス流に言うなら、常に「私とは何か」、それを問いつづけること。
それが重要ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 私論 私とは何か ソクラテス)
(補記)
意識と肉体の分離。
精神と肉体の分離と置き換えてもよい。
常に意識が、肉体を支配し、肉体をコントロールする。
けっして、意識は、肉体にコントロールされてはいけない。
たとえば寒い朝、ジョギングに出かけるときのことを考えてみよう。
あなたは意識の中で、運動の必要性を強く感じている。
が、肉体のほうは、それに抵抗する。
「寒いから、いやだ」「疲れているから、行かない」と。
が、そういう肉体の声に負けてはいけない。
あなたは自分の意思で、ジョギングに出かける。
寒くてつらい思いをするのは、あなたの(意識)のほうではない。
(肉体)のほうである。
もしこのとき意識と肉体の分離がうまくできないと、あなたは肉体のほうの声に
負けてしまうことになる。
そしてこう言うにちがいない。
「そうだ、今日は寒いから、ジョギングにでかけるのをやめよう」と。
しかしそう思って、ジョギングをやめてしまうことは、結局は、
肉体そのものを弱くしてしまうことになる。
基本的に、(肉体)というのは、怠け者。
少しでも疲れたり、痛かったりすると、「休もう」と考える。
そしてあなたの意識を自分の都合のよいように、誘導しようとする。
が、肉体の求める欲望に負けていたら、あなたの意識は、自分の居場所すら、失って
しまうことになる。
肉体あっての意識。
肉体が滅びれば、意識も消える。
これが意識と肉体の関係。
つまり意識と肉体を分離すればするほど、意識は肉体をコントロールしやすくなる。
意識と肉体を分離することの重要さを、これでわかってもらえたことと思う。
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