子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(111)
疑わしきは罰する
今、子どもたちの間で珍現象が起きている。四歳を過ぎても、オムツがはずせない。幼稚園や保育園で、排尿、排便ができず、紙オムツをあててあげると、排尿、排便ができる。六歳になっても、大便のあとお尻がふけない。あるいは幼稚園や保育園では、大便をがまんしてしまう。反対に、その意識がないまま、あたりかまわず排尿してしまう。原因は、紙オムツ。最近の紙オムツは、性能がよすぎる(?)ため、使用しても不快感がない。子どもというのは、排尿後の不快感を体で覚えて、排尿、排便の習慣を身につける。
このことをある雑誌で発表しようとしたら、その部分だけ削除されてしまった(M誌九八年)。「根拠があいまい」というのが表向きの理由だったが、実はスポンサーに遠慮したためだ。根拠があるもないもない。こんなことは幼稚園や保育園では常識で、それを疑う人はいない。紙オムツをあててあげると排尿できるというのが、その証拠である。
……というような問題は、現場にはゴロゴロしている。疑わしいが、はっきりとは言えないというようなことである。その一つが住環境。高層住宅に住んでいる子どもは、情緒が不安定になりやすい…? 実際、高層住宅が人間の心理に与える影響は無視できない。こんな調査結果がある。たとえば妊婦の流産率は、六階以上では二四%、十階以上では三九%(一-五階は五-七%)。流・死産率でも六階以上では二一%(全体八%)(東海大学医学部逢坂氏)。マンションなど集合住宅に住む妊婦で、マタニティーブルー(うつ病)になる妊婦は、一戸建ての居住者の四倍(国立精神神経センター北村俊則氏)など。母親ですら、これだけの影響を受ける。いわんや子どもをや。さらに深刻な話もある。
今どき野外活動か何かで、真っ黒に日焼けするなどということは、自殺的行為と言ってもよい。私の周辺でも、何らかの対策を講じている学校は、一校もない。無頓(とん)着といえば無頓着。無頓着過ぎる。オゾン層のオゾンが一%減少すると、有害な紫外線が二%増加し、皮膚がんの発生率は四-六%も増加するという(岐阜県保健環境研究所)。実際、オーストラリアでは、一九九二年までの七年間だけをみても、皮膚がんによる死亡件数が、毎年一〇%ずつふえている。日光性角皮症や白内障も急増している。
そこでオーストラリアでは、その季節になると、紫外線情報を流し、子どもたちに紫外線防止用の帽子とサングラスの着用を義務づけている。が、この日本では野放し。オーストラリアの友人は、こう言った。「何も対策をとっていない? 信じられない」と。ちなみにこの北半球でも、オゾン層は、すでに一〇-四〇%(日本上空で一〇%)も減少している(NHK「地球法廷」)。
法律の世界では「疑わしきは罰せず」という。しかし教育の世界では「疑わしきは罰する」。子どもの世界は、先手先手で守ってこそ、はじめて、守れる。害が具体的に出るようになってからでは、手遅れ。たとえば紫外線の問題にしても、過度な日焼けはさせない。紫外線防止用の帽子を着用させる、など。あなたが親としてすべきことは多い。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(112)
今を生きる
定年退職が近づくと、それぞれが退職後の夢を話し始める。「田舎へ入って農業をする」「妻と船で世界を回る」「自動車で日本を一周する」など。「四国八十八か所を歩いて回る」と言った人もいた。しかし人生観などというのは、退職と同時にそんなに簡単に変えられるものではない。「組織」というバーチャル(仮想現実)な世界に生きてきた人が、退職と同時に、「生きる本分」に戻れるとは、私は思わない。
このタイプの人は、自分がバーチャルな世界にいることすら気づいていない。退職と同時に、その気力も消えうせ、仮に旅に出たとしても、帰ってきてからの仕事ばかり考えるにちがいない。また退職後、しばらく仕事をしないでいると、体そのものが動かなくなることだってある。いや、それまで健康がもつかどうかさえあやうい。
地位、肩書き、名誉、さらに学歴、家柄がすべてバーチャルであるように、実のところ未来もバーチャルとみる。そんなものはどこにもない。ないことは、飼っている犬を見ればわかる。庭の土の上をうごめくアリを見ればわかる。そんなものはすべて、ここ一〇〇〇年、あるいは二〇〇〇年のうちに人間が勝手に作り出したもの。数一〇万年もの人間の歴史からみれば、ほんの一瞬のうちにできたものにすぎない。
大切なことは「今」という現実の中で、精一杯、自分らしく、この「時」をしっかりとつかみながら生きること。過去という存在しないものにこだわる必要はない。同じように、未来という存在しないもののために、「今」を犠牲にしてはいけない。結果はあくまでも、あとからついてくる。あるいはその結果として、地位、肩書き、名誉があるとするなら、それはそれでかまわない。大切なことは生きる本分を忘れないことだ。これを忘れると、バーチャルな世界にハマってしまう。
夢があるなら、「今」すればよい。決してあと回しにしてはいけない。田舎へ入って農業をしたければ、今からする。近くに畑を借りて、野菜を育てるのもよいだろう。妻と船で世界を回りたければ、手始めに、韓国や台湾あたりに行ってみればよい。自動車で日本一周をしたければ、今度の日曜日には、あなたの町を一周してみればよい。今、やるべきこと。今、やれることは、いくらでもある。それが「今を生きる」ということになる。
子どもにしてもしかり。大切なことは、子どもが子どもらしく、いかに「今」という時の中で、自分を輝かせていきるか、だ。それともあなたは……、いや、こんな愚かな母親だいた。息子(中三)が高校受験に失敗したとき、その母親は息子にこう言った。「幼稚園のときから英語教室や算数教室に通ったけど、みんなムダだったわね」と。バーチャルな世界に生きる人は、そういうようなものの考え方をする。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(113)
子どもの集中力
集中力と子どもの知的能力は、表裏の関係にある。集中力のある子どもは、すぐれた知的能力をみせる。このタイプの子どもは一度何かに集中し始めると、他人を寄せつけない気迫に包まれる。一方、集中力のない子どももいる。何ごとにつけあきっぽく、しばらくするとすぐ、「退屈~ウ」とか、「つまらな~イ」とか言い出す。
そんなわけで、つまり知的能力を高める方法があまりないのと同じように、集中力をつける方法というのも、それほどない。あるとすれば、集中力をなくさせるようなことをしないという消極的なものでしかない。たとえば無理、強制、条件、比較などを日常的にして、子どもからやる気をうばう。
慢性的な睡眠不足状態にするなど。言いかえると、子どもの集中力を最大限引き出すためには、できるだけこうした方法を避けるということになる。が、それでも集中力が続かないとしたら……。答は簡単。あきらめる。それがその子どもの能力の限界と知ったうえで、あきらめる。
よく誤解されるが、サッカーならサッカーで、すぐれた集中力をみせるからといって、知的な面でも集中力があるということにはならない。(もちろん両面ですぐれた集中力を示す子どももいるが……。)脳の中でも運動面をつかさどるのが、大脳半球の中の運動野(中心前回)という部分。知的能力をつかさどるのが、連合野という部分。連合野は人がサルから進化する過程でとくに発達した部分であり、運動をつかさそる運動野とはまったく別物と考えるのが正しい。
ただ教育的には方法がないわけではない。子どもの方向性を見きわめたうえで、うまく好奇心を引き出しながらそれに集中させるなど。算数はきらいでも、虫が好きで、虫のこととなると夢中で調べる子どもは、いくらでもいる。あるいは英語には、「楽しく学ぶ子どもはよく学ぶ」というのもあるが、子どもを好きにさせるという方法もある。まずいのは、満腹状態の子どもに、さらに食事を与えるような行為。集中力がなくなって当然である。
この集中力がなくなると、子どもは、フリ勉(まじめに勉強しているフリだけをする)、ダラ勉(ダラダラと身をもてあます)、時間ツブシ(つめをほじったり、やらなくてもよいような簡単な問題ばかりをする)がうまくなる。こうした症状が出てきたら、できるだけ早い時期に、家庭教育のあり方を猛省したほうがよい。小学低学年で一度そういう症状を身につけると、なおすのは容易ではない。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(114)
受験競争の魔力
受験競争に巻き込まれれば巻き込まれるほど、子どもはもちろんのこと、親もその住む世界を小さくする。この世界では、勝った負けたは当たり前。取るか取られるか、蹴落とすか蹴落とされるか……。教育とは名ばかり。その底流では、ドス黒い人間の欲望がはげしくウズを巻いている。ある母親は受験どころか、子ども(中学生)がテスト週間を迎えるたびに病院通いをしていた。
いわく「テスト中は、お粥しかのどを通りません」と。子どもの受験競争が高じて、親どうしがいがみあう例となると、まさに日常茶飯事。幼稚園という世界でも、珍しくない。現に今、言ったの言わないのがこじれて、裁判ザタになっているケースすらある(小学校)。さらに息子(中三)が高校受験に失敗したあと、自殺をはかった母親だっている!
こうした狂騒は部外者が見ると、バカげているとわかるが、当の本人たちはそうでない。それはまさしく命がけ、血みどろの戦い。もっともこうした戦いが親の世界だけでとどまっているならまだしも、子どもの世界まで巻き込んでしまう。さらに学校という教育の世界まで巻き込んでしまう。この受験競争だけが原因とは言えないが、そのため心を病む教師はあとを断たない。
東京都の調べによると、東京都に在籍する約六万人の教職員のうち、新規に病気休職した人は、九三年度から四年間は毎年二一〇人から二二〇人程度で推移していたが、九七年度は、二六一人。さらに九八年度は三五五人にふえていることがわかった(東京都教育委員会調べ・九九年)。この病気休職者のうち、精神系疾患者は。九三年度から増加傾向にあることがわかり、九六年度に一時減ったものの、九七年度は急増し、一三五人になったという。この数字は全休職者の約五二%にあたる。(全国データでは、九七年度は休職者が四一七一人で、精神系疾患者は、一六一九人。)さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、うつ病、うつ状態が約半数をしめていたという。
何だかんだといっても、受験が教育の柱になっている。もしこの日本から、受験という柱を抜いたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育ですら崩壊する。問題はなぜ受験が教育の柱になっているかだが、それについては別のところで考えるとして、結論から先に言えば、受験が子どもや親を大きくする要素などどこにもない。仮にそれに打ち勝ったとしても、「何とかうまくやった」というあと味の悪さが残るだけ。
受験競争は決して教育ではない。そういう前提で、一歩退いてつきあう。そういう冷静さがあなたの心を守り、あなたの子どもの心を守る。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(115)
一〇%のニヒリズム
テレビドラマに「三年B組金八先生」※というのがある。まさに熱血漢教師のドラマだが、実際にはああいう教師はいない。それはちょうどアクションドラマの中で、暴力団と刑事がピストルでバンバンと撃ちあうようなものだ。
ドラマとしてはおもしろいが、現実にはありえない。仮に金八先生のような教師がいたとすると、その教師はあっという間に、身も心もボロボロにされる。第一、この世界には内政不干渉の原則というのがある。いくら問題が家庭におよんでも、教師は家庭問題までクビをつっこんではいけない。またその権利もなければ義務もない。つっこんだらつこんだで、たいへんなことになる。私にもいろいろな経験がある。
私はある時期、毎日のように母親教室を開いていた。が、それがよくなかった。ある朝まだ床の中で眠っていると、一人の男がいきなり飛び込んできて、こう叫んだ。「うちの女房が妊娠した。どうしてくれる!」と。寝耳に水とはまさにこのこと。私が驚いていると、その様子から察したのか、その男はこう言った。「すまんすまん。カマだ」と。話を聞くと、その男の妻がその前夜から家出をしたという。そこでその男は、妻がよく口にしていた私のところへ逃げてきたと思ったらしい。その妻というのは、私の母親教室の熱心な受講生だった。以来私は、毎日の母親教室を、週一回に減らした。同時に、子どもの子育ての問題以外、「私は関係ない」という姿勢を貫くようにした。
こうしたトラブルは、本当に多い。毎年少しずつ賢くなったつもりだが、つい油断をすると、同じような失敗を繰り返す。そこで一〇%のニヒリズム。昔、どこかの教師が懇談会の席でそう教えてくれた。「どんなに教育に没頭しても、一〇〇%、全力投球してはいけない。最後の一〇%は自分のためにとっておく。裏切られてもキズつかないようにするためだ」と。実際、この世界、報われることよりも、裏切られることのほうが多い。一〇%のニヒリズムは、そのための処世術である。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(116)
小食で困ったら、冷蔵庫をカラに
体重一五キロの子どもが、缶ジュースを一本飲むということは、体重六〇キロのおとなが、四本飲む量に等しい。いくらおとなでも、缶ジュースを四本は飲めない。飲めば飲んだで、腹の中がガボガボになってしまう。アイスやソフトクリームもそうだ。子どもの顔よりも大きなソフトクリームを一個子どもに食べさせておきながら、「うちの子は小食で困っています」は、ない。
突発的にキーキー声をはりあげて、興奮状態になる子どもは少なくない。このタイプの子どもでまず疑ってみるべきは、低血糖。一度に甘い食品(精製された白砂糖の多い食品)を大量に与えると、その血糖値をさげようとインスリンが大量に分泌される。が、血糖値がさがっても、さらに血中に残ったインスリンが、必要以上に血糖値をさげてしまう。
つまりこれが甘い食品を大量にとることによる低血糖のメカニズムだが、一度こういう状態になると、脳の抑制命令が変調をきたす。そしてここに書いたように、突発的に興奮状態になって大声をあげたり、暴れたりする。このタイプの子どもは、興奮してくるとなめらかな動きがなくなり、カミソリでものを切るように、スパスパした動きになることが知られている。
アメリカで「過剰行動児」として、二〇年ほど前に話題になったことがある。日本でもこの分野の研究者は多い(岩手大学名誉教授の大澤氏ほか)。そこでもしあなたの子どもにそういう症状が見られたら、一度砂糖断ちをしてみるとよい。効果がなくて、ダメもと。一周間も続けると、子どもによってはウソのように静かに落ち着く。
話がそれたが、子どもの小食で悩んでいる親は多い。「食が細い」「好き嫌いがはげしい」「食事がのろい」など。幼稚園児についていうなら、全体の約五〇%が、この問題で悩んでいる。で、もしそうなら、一度冷蔵庫をカラにしてみる。お菓子やスナック菓子類は、思いきって捨てる。「もったいない」という思いが、つぎからのムダ買いを止める力になる。そして子どもが食事の間に口にできるものを一掃する。子どもの小食で悩んでいる親というのは、たいてい無意識のうちにも、間食を黙認しているケースが多い。もしそうなら、間食はいっさい、やめる。
(小食児へのアドバイス)
(1)ここに書いたように、冷蔵庫をカラにし、菓子類はすべて避ける。
(2)甘い食品(精製された白砂糖の多い食品)を断つ。
(3)カルシウム、マグネシウム分の多い食生活にこころがける。
⑤ 中、汗をかかせるようにする。
ただ小食といっても、家庭によって基準がちがうので、その基準も考えること。ふつうの家庭よりも多い食物を与えながら、「少ない」と悩んでいるケースもある。子どもが健康なら、小食(?)でも問題はないとみる。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(117)
常識は静かに引き出す
ものごとを静かに考え、正しい判断をくだし、その判断に従って行動する力のことを、「バランス感覚」という。このバランス感覚がないと、子どもはかたよった考え方や、極端なものの考え方をするようになる。たとえば「この地球上の人間は、核兵器か何かで、半分くらいは死ねばいい」と言った男子高校生がいた。あるいは「私は結婚して、早く未亡人になり、黒い喪服を着てみたい」と言った女子高校生がいた。そういうようなものの考え方をするようになる。
このバランス感覚を別の言葉で言いかえると、「豊かな常識」ということになる。この常識というのは、だれにも平等に備わっているかのようにみえるが、そうではない。常識のない人はいくらでもいる。しかも幼児期にすでにそれが決まる。そこで「教育!」ということになるが、実際には子どもに教えるのはたいへんむずかしい。
いや、教えて教えられるものではない。親としてせいぜいできることがあるとすれば、常識を奪わないということ。威圧的な過干渉、権威主義的な押しつけ、神経質な過関心が日常化すると、子どもはいわゆる常識ハズレの子どもになる。昔、一生懸命粘土をコンセントに詰めて遊んでいた子ども(年長男児)がいた。先生のコップに殺虫剤を入れた子ども(中学男子)がいた。バケツに絵の具を溶かして、それを二階のベランダから下を歩く子どもにかけていた子ども(年長男児)などがいた。ふつう子どものいたずらというと、どこかほのぼのとした子どもらしさを感ずるが、それがない。常識というブレーキがかからないためと考える。
一般に子どもがドラ息子化すると、子どもからこのバランス感覚が消える。子どもというのはきびしさとやさしさが、ほどよく調和した環境の中で、心をはぐくむ。が、たとえば父親が極端にきびしく、母親が極端に甘いとか、あるいはガミガミときびしい反面、結局は子どもの言いなりになってしまうような甘い環境が続くと、子どもはドラ息子化する。症状としては、自分勝手でわがまま、約束や目標が守れない、依存心が強い割に無責任になるなど。
常識力を養うためには、子どもには自分で考える時間を、たっぷりとあげる。「あなたはどう思うの?」「あなたはどうしたいの?」と聞きながら、子どもが何かを答えるまでじっと待つ。そういう姿勢が子どもを常識豊かな子どもにする。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(118)
個性とは
「私は私」という生きざまを貫くことを、個性という。しかしこの日本にはそれを支えるだけの土壌がまだない。社会のしくみそのものもそうだ。昨年(二〇〇一年)、東京に「フリーター撲滅運動」なるものを始めた高校の校長がいた。「撲滅」というのは、「たたきのめして滅ぼす」という意味だ。高校の校長という、きわめて恵まれた環境、つまり酸素もエサも自動的に与えられる水槽のような世界に住んでいる人が、そういうことを言うからおかしい。私はそのフリーターを、もう三〇年近くもしてきた。たしかに社会的に不利だが、不利なのは、社会の制度がそれだけ不公平だからにほかならない。
教育もまた、個性を伸ばすしくみになっていない。たとえば全国の小学校で英語教育が実験的になされているが、いまだに「すべきかどうか」で議論している。その議論はちょうど平成元年のころ議論が始まったから、もう一三年になるのでは……?
しかし北海道のハシから沖縄県のハシまで同じ教育というのはおかしい。英語についていえば、英語教育が必要だと思う親もいれば、そうでないと思う親がいる。英語を学びたいと思っている子どももいれば、そうでないと思っている子どももいる。英語教育をしたいと思っている教師もいれば、そうでない教師もいる。だったら、そういうのは、個人の選択に任せればよい。その分学校を早く終わって、ドイツのように子どもたちはクラブへ行けばよい。
こうした実用的な教育は民間に任せたほうが、はるかに効率よくいく。またこういうのを教育の自由化、あるいは規制緩和というのではないのか。学校の先生にしても、教育はもちろんのこと、しつけから心のケア、さらには家庭問題まで、こうまで押しつけられたらたまらない。……と思っていると思う。ある小学校の教師はこう言った。「忙しすぎて、授業中だけが休みの場所です」と。
「子どもの個性を伸ばせ」と簡単に言うが、ではあなた自身が、そういう個性を認めているかどうかというと疑わしい。あるいは個性というのがどういうものか、本当にわかっているだろうか。さらにあなたは「私は私」という生き方をしているだろうか。私たちは尾崎豊の言葉を借りるなら、「しくまれた自由」(「卒業」)の中で、あがきもがいているだけではないのか。
個性とは生きざまの問題。「私は私」という生きざまをどう確立するかで、その人の個性が決まる。くだらないことだが、子どもの髪の毛を茶パツに染めたりすることは、個性とはいわない。また個性というのは、そのレベルの問題ではない。またどこか常識ハズレのことをするのを個性と思っている人は多い。しかし個性というのは、繰り返すが、どこまでも生きざまの問題であって、行動の問題ではない。またそのレベルの問題ではない。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(119)
赤ちゃんがえりを甘く見ない
幼児の世界には、「赤ちゃんがえり」というよく知られた現象がある。これは下の子ども(弟、妹)が生まれたことにより、上の子ども(兄、姉)が、赤ちゃんにもどる症状を示すことをいう。本能的な嫉妬心から、もう一度赤ちゃんを演出することにより、親の愛を取り戻そうとするために起きる現象と考えるとわかりやすい。本能的であるため、叱ったり説教しても意味はない。子どもの理性ではどうにもならない問題であるという前提で対処する。
症状は、おもらししたり、ぐずったり、ネチネチとわけのわからないことを言うタイプと、下の子どもに暴力を振るったりするタイプに分けて考える。前者をマイナス型、後者をプラス型と私は呼んでいるが、このほか情緒がきわめて不安定になり、神経症や恐怖症、さらには原因不明の体の不調を訴えたりすることもある。このタイプの子どもの症状はまさに千差万別で定型がない。月に数度、数日単位で発熱、腹痛、下痢症状を訴えた子ども(年中女児)がいた。あるいは神経が異常に過敏になり、恐怖症、潔癖症、不潔嫌悪症などの症状を一度に発症した子ども(年中男児)もいた。
こうした赤ちゃんがえりを子どもが示したら、症状の軽重に応じて、対処する。症状がひどいばあいには、もう一度上の子どもに全面的な愛情をもどした上、一からやりなおす。やりなおすというのは、一度そういう状態にもどしてから、一年単位で少しずつ愛情の割合を下の子どもに移していく。コツは、今の状態をより悪くしないことだけを考えて、根気よく子どもの症状に対処すること。年齢的には満四~五歳にもっとも不安定になり、小学校入学を迎えるころには急速に症状が落ち着いてくる。(それ以後も母親のおっぱいを求めるなどの、残像が残ることはあるが……。)
多くの親は子どもが赤ちゃんがえりを起こすと、子どもを叱ったり、あるいは「平等だ」というが、上の子どもにしてみれば、「平等」ということ自体、納得できないのだ。また嫉妬は原始的な感情の一つであるため、扱い方をまちがえると、子どもの精神そのものにまで大きな影響を与えるので注意する。先に書いたプラス型の子どものばあい、下の子どもを「殺す」ところまでする。嫉妬がからむと、子どもでもそこまでする。
要するに赤ちゃんがえりは甘くみてはいけない。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(120)
子どもを叱れない親
叱れない……ということ自体、すでに断絶状態にあるとみる。原因は(1)リズムの乱れ(親側がいつもワンテンポ早い)、(2)価値観の衝突(親側が旧態依然の価値観に固執している)、それに(3)相互不信(「うちの子はダメだ」という思いが強い)。この状態で子どもを叱れば、あとはドロ沼の悪循環!
親には三つの役目がある。(1)ガイドとして子どもの前を歩く。(2)保護者(プロテクター)として子どものうしろを歩く。(3)友(フレンド)として子どもの横を歩く。日本人はこのうち三番目が苦手、……というより、「私は親だ」という親意識だけがやたらと強く、子どもを友として見ることができない。
もしあなたが子どもをこわくて叱れないというのであれば、まず子どものリズムで歩き、親の価値観を一方的に押しつけるのをやめる。そしてここが重要だが、子どもを対等の友として受け入れる。英語国では、親子でも「お前はパパに何をしてほしい?」「パパは、私に何をしてほしい」と聞きあっている。そういう謙虚さが、子どもの心を開く。また一度断絶状態になったら、「修復しよう」などとは考えないで、今の状態をより悪くしないことだけを考えて対処する。
「叱る」というのは、本当のところは、たいへんむずかしい。子どもを叱るというのは、叱る側にそれだけの「人格」がなければならない。たとえば教える立場でいうと、よく宿題を忘れてくる子どもがいる。宿題ならまだしも、テキストや鉛筆すら忘れてくる子どもがいる。しかし私は、どうしてもそういう子どもを叱ることができない。理由は簡単だ。私自身もよく忘れ物をするからだ。自分でもできないのに、どうして子どもを叱ることができるのか。それともあなたは、あなたの子どもに向かって、「正しいことをしなさい」「まちがったことをしてはだめだ」と子どもを叱ることができるとでもいうのか。もしそうなら、きっとあなたはすばらしい人だ。
私は幼児を教えるようになって、もう三〇年になるが、どういうわけだか「叱る」ということに対して、おおきな抵抗を感ずる。ときどきは叱ることもあるが、そのたびに心のどこかで、「何を偉そうなことを」と自分で思ってしまう。そして叱ることをやめてしまう。……そういう意味でも、子どもを叱るというのは、とてもむずかしい。この問題については、また別のところで考えてみる。
2009年6月20日土曜日
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