2011年12月12日月曜日

*Informations vs Wisdom

●情報と思考(物知りと賢い子)

 数日前、テレビを見ながら、ワイフが何かを言った。
言った内容は忘れた。
テレビの内容も忘れた。
何かを言ったのは、覚えている。
そのとき、つぎのように言った。

「情報というのは、頭の中で反芻(はんすう)し、加工しなければ意味がないよ」と。
つまり情報の一方的な受け入れは、意味がない。

●野球中継

 このことは野球中継を見ているとわかる。
たとえば10年前の野球中継を、音声を切った状態でながめてみる。
サッカーの試合でもよい。
(実際に、そういう実験をしたわけではないが……。)
そのときその中継を、10年前のものだとわかる人は、まずいない……と思う。
よほどの野球通でも、わからないだろう。
いわんや、野球中継をたまにしか見ていない人には、ぜったいにわからない。

 端的に言えば、10年前の野球中継も、5年前の野球中継も、そして今見る野球中継も、同じ。
情報というのは、そういうもの。
つまり覚えては忘れる。
その繰り返し。

●反芻(はんすう)と加工

 手に入れた情報は、一度脳の中で、反芻する。
一方的に受け入れてしまうのは、危険なことでもある。
情報を提供する側に、よいように操られてしまう。

 野球中継にしてもそうだ。
興業側の餌にされながら、自分が餌になっていることに、気がつかない。

 ……思い出した。
ワイフが見ていた番組は、太極拳についてのものだった。
1人の女性が中国本場の太極拳を取材していた。
女優だったかもしれない。
「C式太極拳」の取材だったと思う。

 その番組を見ながら、その女性が日本人離れしている体型であることに気づいた。
日本人というより、欧米人。
背が高く、細い体をしていた。
足も長かった。

●スタイル

 たまたまその日、別のニュースサイトで、日本の中高校生たちが、細くなっているという記事を読んだ。
「スタイルを気にする若者がふえた」と。

 私はその記事のことが頭に残っていたので、その女性を見ながら、こう思った。
「最近の若い人は、こういう体型にあこがれているのだ」と。

 その女性は、周囲の中国人とは、明らかにちがう体型をしていた。
が、私が気になったのは、「胸」。
ほかの女性たちは、太極拳をしながら、ユラユラと胸を揺らしていた。
その女性の胸は、大きさは周囲の中国人の女性と、それほどちがわなかった。
しかしまったく、揺れなかった。

 ……なぜか……ということについては、私にはわからない。
しかしそういう体型が、健康的な体型かというと、私は、そうは思わない。
アジア人にはアジア人の体型がある。
それを無視し、体型を欧米人のそれに近づけようと、無理をすればするほど、健康を害する。
もちろんその女性が、そうというのではない。
が、気にはなった。

●太極拳

 さらに言えば、こんな心配もある。
太極拳については知らないが、こうした健康法は、得てしてカルトと結びつきやすい。
オウム真理教を例にあげるまでもない。
オウム真理教は、ヨガと教義を巧みに混ぜ合わせながら、信者を獲得していった。

番組の中でも、指導(?)を始める前に、「老師」と字幕の出た指導者が、(中国語では「老師」というのは、年齢に関係なく、「先生」という意味なのだが)、先祖の墓に参るシーンが出てきた。
「先祖にあいさつしてから、指導する」と。

 まさに宗教的行為!

 さらに気になったのは、その老師の家での食事。
「日本から来た客(?)」ということで、もてなしをしたのだろう。
テーブルの上には、所狭しと、料理が並んでいた。
しかしよくよく考えてみると、へん(?)。
どうしてその老師は、まったくの素人に近いその女性を、そんなにも歓待するのか。
ふつうなら、そんな歓待はしない。
なぜか?

 テレビカメラを背負った人が、そばにいたからなのか。
テレビカメラを背負った人は、どこへでもズカズカと入り込んでいく。
よい例が、NHKの「昼時~~」何とかいう番組。
平気で民家へあがりこみ、ときには、そこに並べてあった昼食までいっしょに食べていく。

が、どうもそれだけではないようだ。
老師は、こう言った。
「日本へも、たびたび(指導に)行っています」と。
それでピンと来た。
宣伝に利用している!

 ……であるなら、なおさら、疑ってみる必要がある。
こうした健康指導団体は、組織化しやすい。
「法輪功」と呼ばれる教団も、そのひとつ。
組織化が悪いというのではない。
が、どうして組織化するのか。
健康指導団体が、どうして組織化するのか?
(そのC式太極拳がそうであるというのではない。誤解のないように!)

●ウソと本当

 こうして番組を見ながら、自分の頭で考え、判断をくだす。
これが「反芻と思考」ということになる。
が、それをしないで、一方的に、「すばらしい」「私もやってみよう」などと、短絡的に行動してはいけない。
中には「天下のBSで紹介されていたから、安全」と考える人もいるかもしれない。
が、NHKがアテにならないことは、今回の3・11大震災で証明された。
「ウソは言わないが、本当のことも言わない」。

●情報に操られる
 
 私たちは知らず知らずのうちに、情報に操られる。
 子どもの世界も、また同じ。
1年前のこと。
PSP(ソニーのゲーム機)のソフトで、「モンスター・ハンター・サード(3rd)」が発売になった。
そのソフトについて、予約で買った子どもが、私の生徒の中にも何人かいた。
「中身を確かめてから買ったのか?」と聞くと、「そんな必要はない」と。
「どうして?」と聞くと、「おもしろいに決まっている」と。

 子どもたちの世界では、いかに他人より1歩抜きんでるかが、重大事。
1日でも早く先へ進むのが、ステータスにもなっている。
が、そんな子どもたちは、(もちろんそれだけの知恵も経験もないから、しかたないが)、自分たちが情報に操られていることに、気づいていない。
もっと辛辣な言い方をすれば、おとなたちの金儲けの餌になっているだけ。

●では、どうするか

 情報を得たら、反芻し、その情報をもとに、自分の思想を組み立てる。
方法はいろいろある。
近くの人と議論するのもよし。
日記風に書きとめるだけでもよい。
さらに言えば、それについて、自分なりの意見をまとめてみる。

 こわいのは、情報の渦に、のみ込まれてしまうこと。
それを無批判なまま、脳の中に格納してはいけない。
もし「反芻する時間がない」というのであれば、むしろそういう情報には接しないほうがよい。
そうでなくても、現代社会は、情報にあふれている。
10分、ネットサーフィンしただけで、頭の中が満杯になる。
が、さらにこわいことがある。
情報には、中毒性がある。

●情報中毒

 「情報中毒」について、以前、こんな原稿を書いたことがある。
日付は、2007年10月になっている。

●情報、過剰社会(2007年10月に書いた原稿より)

++++++++++++++

いつも音を聞いていないと、
落ち着かない……とまあ、
そんな人は多いですね。

何かの雑誌に書いてあったので
すが、日本では、エレベーターの
中、バス停でも、音声ガイダンス
が流れますね。それについて、ある
外人が驚いていたそうです。

日本人には、静かな環境で、静かにものを
考えるという習慣そのものがない?

あるいは、日本人は、静かに
ものを考えるという習慣そのものを
放棄してしまったのかもしれません。

情報、また情報。
情報の洪水の中で、情報が途切れたとたん、
不安になってしまう?

よい例が、バスガイドのガイドです。
聞いてもすぐ忘れるような情報を、
つぎからつぎへと流す。

またそれをもって、サービス?、と
誤解している。
どこかおかしいですね。

++++++++++++++

●情報の洪水

 先日、パソコンで、メモリー診断をしようと思いついた。VISTAには、メモリー自己診断ツールが標準でついている。以前には、何度か使ったことがある。

 が、である。その何度か使ったはずのツールがどこにあるかわからない。あちこちをさがしてみたが、結局は、見つからなかった。その説明をしてある雑誌をさがしてみたが、その雑紙もどこかへ、なくしてしまった。

 たった数か月前にできたことが、できない? 私は改めて、脳みその底にできた(穴)に驚いた。私たちは情報の洪水の中で生きている。それはわかる。が、一方で、その情報は、容赦なく、脳みその底にできた(穴)から、外へ流れ出てしまう。

 情報の洪水は、つぎつぎとやってきて、またどこかへ消えていく。脳みその中に残る情報というのは、ほんとうに少ない。その少ない情報も、時間とともに、どこかへ消えていく……。

●情報中毒

 いつも情報にさらされていないと落ち着かないという人は、多い。情報の流入が途切れたとたん、不安になるらしい。少し前まで、私の母がそうだった。

 実家に行くたびに、テレビはガンガンとかけっぱなしだった。私がそれを止めようとすると、母は、がんこに抵抗した。「見ていないのだからいいだろ?」と言っても、母は納得しなかった。母は、テレビの音が聞こえていないと、落ち着かなかったのだ。

 こういうのを、「情報中毒」という。意味のある情報とか、ない情報とか、そういうことは、考えない。選択することもない。料理番組、健康番組、ニュース……まさに、何でもござれ。そういう情報を、つぎつぎと脳みその中に入れ、また出していく。

 何かの雑紙に書いてあったが、日本へ来た外人が、こんなことに驚いていた。日本では、エレベーターの中、バス停にすら、音声ガイダンスがある、と。その記事を最初に読んだときには、「どうして?」と私は、思った。「どうして、そんな程度のことで、驚いたのか?」と。

 少し前、観光バスで、オーストラリアの友人夫妻を長野県のほうへ連れていってやったのだが、そのときも、そうだった。オーストラリアの友人夫妻は、情報の洪水に驚いていた。バスガイドが、間断なくしゃべりつづけていたからだ。それにどこの観光地へ行っても、ガイド、ガイド、またガイド。「右に見えますのが~~山、左に見えますのが、~~湖」と。

 一度、情報中毒にかかると、情報なしでは、落ち着かない。つまり音が聞こえていないと落ち着かない。

●情報と思考

 何度も書くが、(情報)と(思考)は、まったく別のもの。情報量が多いからといって、その人に思考力があるとはかぎらない。たとえていうなら、幼稚園児が、かけ算の九九を暗記して口にするようなもの。それができたからといって、「算数ができる子ども」ということにはならない。

 しかしほとんどの人は、幼児が、かけ算の九九を口にしただけで、「算数のできる子ども」と思い込んでしまう。しかしそれは誤解。まったくの誤解。

 同じように、バスガイドが、観光地にまつわる歴史的な話をしても、だれも、そのガイドが、歴史のプロだとは思わない。(思う人もいるかもしれないが……。)どうせどこかのガイドブックに出ていたような内容を、丸暗記しているだけ(失礼!)。

 先日も、紀伊半島のほうへ行ったときも、織田信長ゆかりの地を、あちこち回った。そのつど、ガイドは、もの知り顔に、あれこれ説明してくれた。が、どれも、まちがいだらけ。しかしそういう話を聞いて、質問する人は、いない。かけ算の九九を暗記している幼児に向かって、その意味を問いただしても意味はない。それと同じ。

●考えるという習慣

 考えるという習慣のない人に、(考える)ことの重要性を説いても意味はない。(考える)という意味すら、理解できない。できないばかりか、情報の量をもって、つまりもの知りであることをもって、「私は頭がいい」と思いこんでいる。

 しかし重要なのは、(考えること)。さらに言えば、(考えるという習慣)。

 たとえば健康を維持するため、毎朝、ジョギングしている人がいる。毎日の運動が、健康にとっていかに大切であるかを、そういう人たちは知っている。運動をした日と、しない日とでは、体の調子はまるでちがう。運動したあとには、体の細胞のひとつひとつが、ピチピチとはじける音すら、感ずる。

 しかしそういう習慣のない人に、運動の大切さを説いても意味はない。ないばかりか、たとえばテレビの健康番組に流されるまま、「酢がいい」と聞けば、酢を買い、「ニンニクの焼酎漬けがいい」と聞けば、自分でそれを作ってみたりする。無駄とは思わないが、そのつど情報に振り回されているだけ。

 同じように、重要なのは、(情報)ではなく、(それを選択し、加工するという習慣)である。

●考えさせない社会

 日本の社会は、騒々しい。ほんとうに騒々しい。どこへ行っても、騒音、また騒音。情報の洪水、また洪水。

 また観光バスの話にもどるが、うるさいのはガイドだけではない。静かな人も多いるが、その一方で、おしゃべりな人も多い。バスに乗っている間中、となりの人と、ペチャペチャと間断なくしゃべっている。概してみれば、女性に多いが、男性にもいる。

 話している内容といえば、たわいもない世間話。あるいはその繰りかえし。私はそういう人たちを見ながら、「こういう人たちは、どこでものを考えているのだろう」と思う。「あるいは、どこでそういう時間をもっているのだろう」とも。

 もっと言えば、日本の社会構造そのものが、そうなっている。つまり、人が静かにものを考えるという社会構造になっていない。さらにもっと言えば、教育の段階で、ものを考える子どもを育てていない。

●情報の選択

 だからといって、情報が無駄であると言っているのではない。良質で、適確な情報は、思考の基盤となる。その情報に上に、私たちは自分の思考を組み立てることができる。

 そこで私たちがすべきことは、情報の選択。洪水なら洪水でもよい。しかしその中から、情報を選択していく。たとえて言うなら、無数の絵画の中から、名画と、そうでないものを選ぶのに似ている。これはそれほどむずかしいことではない。ほんの少し訓練すれば、だれにでもできるようになる。

 私自身は、つぎのようにして選択している。

(1) その人自身の言葉であるか、どうか。
(2) その人自身が、どういう思想的背景をもっているか。
(3) その人自身が、どういう経験をしているか。
(4) その人自身が、どういう経緯で、その情報を手に入れたか。
(5) 普遍性はあるのか。視野の広さはどうか、公正であるか、など。

 つまりその人自身の言葉でないと、意味がないということ。その人自身を見て、判断するということ。

 当然のことながら、苦労に苦労を重ねた人の言葉は、重い。意味がある。そうでない人の言葉は、そうでない。人生も永遠なものであれば、無駄な情報も、それなりに生きることを楽しくしてくれるかもしれない。しかし今は、もうそうではない。今さらパチンコの攻略本を読んで、それを応用してみようなどという気持ちには、とてもなれない。

●生きるということは、考えること

 人は、考えるから、人である。考えない人は、人というより、サル。だからといって、サルが人より劣っているというのではない。サルのほうが、ひょっとしたら、人間より考えているかもしれない。幼児だって、そうだ。

 私たちは、幼児イコール、幼稚と考えやすいが、これはとんでもない誤解。幼児は幼児なりに、懸命に考えている。そういう幼児に出会うと、心底、感動を覚える。ずいぶんと前のことだが、こんなことがあった。

 ある日、幼稚園へ行くと、1人の子ども(年長男児)が、地面を掘っていた。「何をしているの?」と聞くと、その子どもは、こう言った。「石の赤ちゃんをさがしている」と。

 その子どもは、石は、土の中で生まれるものと思っていた。だから地面を掘れば、石の赤ちゃんがそこにあると思っていた。その幼児は、その幼児なりに、懸命にそう考えて、穴を掘っていた。

 レベルの問題ではない。たしかに私たちおとなから見れば、幼稚(?)な行動かもしれないが、そこに、私は、生きる価値を見た。もしそれを否定するとなると、つまり私たち自身も、否定されることになる。

 人間にしても、まだ進化の過程にある。1000年後、あるいは1万年後の人たちが、現在の私たちを見て、幼稚だと思うかもしれない。しかしだからといって、それを批評することは、許されない。それを許すということは、とりもなおさず、私たちが、私たち自身を否定することになる。

私たちは私たちで、懸命に生きている。考えている。内容は幼稚かもしれないが、そこに人が生きる価値がある。それがわからなければ、ここに書いた幼児を頭の中で、もう一度、想像してみてほしい。

●考えることのすばらしさ

 ところで考えることは、宝さがしに似ている。ひとり荒野の中を歩いている。そこで小さな宝石を見つけるのに似ている。小さな宝石かもしれないが、キラリと輝く。それを見つけたときは、うれしい。ほんとうに、うれしい。

 が、考えることは、けっして、楽な作業ではない。難解な数学の問題を前にして、その問題を解くようなもの。考えることには、苦痛や苦労がともなう。しかもその問題は、必ずしも、解けるとはかぎらない。解答用紙もない。

 だからできるなら、考えないですませたいと思う。もっとも手っ取り早い方法は、宗教なら宗教に身を寄せること。思想をだれかに注入してもらうこと。しかしそれは同時に、その人の「死」を意味する。

 パスカルの言葉を借りるまでもなく、たとえか弱く、細いアシであっても、人は、自らの足で立ち上がる。そこに人が生きる意味があるし、気高さも、そこから生まれる。しかし、その価値はある。

 考える人からは、考えない人がどういうものか、よくわかる。反対に考えない人からは、考える人がどういうものか、わからないだろう。だからいって、私がその考える人というわけではない。つまりは相対的な立場でしかない。

 私よりものをよく考える人は、いくらでもいる。そういう人たちから見れば、私など、何も考えない部類の人間でしかない。しかし一度、考える習慣を身につけると、それまで見ていた世界が一変する。

 それは山登りに似ている。下から見ると低く見える山でも、登ってみると、意外と視野が広いのには驚く。そのすばらしさは、山に登ったことがある人でないとわからない。

 同じように、考えることによって、だれでも、思考の山に登ることができる。そしてその視野の広さに驚くことができる。

 さあ、あなたも勇気を出して、考えてみよう。あなたも、きっとそのすばらしさを、実感するはず。……という結論で、この話は、おしまい。
(以上、2007年10月記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●再び、2011年12月(現在へ)

 2007年に書いた原稿を、今、こうして読み直してみる。
内容的には、それ以前に、あちこちで書いたものを寄せ集めただけの原稿である。
で、ここが重要だが、そういう原稿を4年前に書きながら、ではその私は、この4年間で、4年分の進歩をしたかということ。

 答は、「NO」に近い。

 ただ情報を一方的に受け入れることだけは、2007年の当時も、今もしていない。
繰り返しになるが、あの3・11大震災を契機に、私は情報のもつ恐ろしさというか、洗脳されることの恐ろしさを、いやというほど、思い知らされた。
政府にせよ、NHKにせよ、「ウソは言わないが、本当のことも言わない」。

 その(本当のことも言わない部分)で、私たちは日々に少しずつ、洗脳されていく。
すでに今ですら、「原発事故は片づいた」と考えている人は多い。
少し前だが、中学3年生のOさんですら、そう言った。
学年でもトップクラスの成績を収めている子どもである。

私「何も片づいていないよ」
O「ウッソー!」
私「あのね、被害が出てくるのは、これからだよ。チェルノブイリでも被害が出始めたのは、2年後から5年後。10年後にピークを迎えた。現在の今でも、チェルノブイリでは被害がつづいているよ」
O「今でも……?」
私「今でも、だ。そのとき汚染された子どもが母親になり、その母親が子ども産む。その子どもに症状が現れている」と。
 
 不必要に心配することはない。
しかし必要以上に安心するのも、よくない。
今、「もう片づいた」と考えている子どもがいること自体、私たちが情報に操作されていることを示す。
もろもろのどうでもよい情報の洪水の中で、思考力そのものを失っている。
つまり、それが、コ・ワ・イ。

●最後に

 ここに書いたことを参考に、(物知りな子ども)と、(賢い子ども)について考えてみてほしい。
遠回しな言い方をしたが、このエッセーで書きたかったことは、この1点に尽きる。
情報が多いことイコール、思考力があるということではない。
情報と思考は、まったく別のもの。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 情報と思想 情報中毒 思考力 反芻と思考 はやし浩司 物知り もの知り 賢い子ども 考える子ども はやし浩司 情報の反芻 はやし浩司 思想と情報 はやし浩司 情報論)


Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司 

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