2011年12月4日日曜日

*AUTHORITARIANISM of the Japanese

●映画『タンタンの冒険』(はやし浩司 2011-12-03夜)

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今夜、『タンタンの冒険』(日本語吹き替え版)を観てきた。
3D映画。
子ども向け映画。

が、またまた映像技術の進歩に驚く。
『三銃士とダビンチの飛行船』は、すごかった。
今回の『タンタンの冒険』も、これまたすごかった。
いったい、映像技術は、どこまで進むのか。
CG映画だったが、皮膚の質感まで、
リアルすぎるほどリアルに、表現されていた。
(あるいは皮膚、そのもの?)

『スター・ウォーズ』(エピソード・1)が、
近く、封切られる。
あの『スター・ウォーズ』(日本公開・1978年)
のリメイク版らしい。
楽しみ。

プラス、おととい、『第九』演奏会のチケットを申し込んできた。
今年は、S席で聴く。
東京フィル+浜松フロイデ合唱団。
これまた楽しみ。
学生時代は、合唱団員として、毎年歌っていた。
指揮者はいつも、朝比奈隆だった。

言い忘れたが、『タンタンの冒険』は、星4つの★★★★。
『三銃士』を観ていなかったら、星は5つ。
映画館を出たとき、ワイフと「すごい映画だったね」と、
たがいに言いあった。
ボケ防止のためというには、もったいないような映画だった。

なお土曜日の夕方だったが、観客は私たちを含めて、5人だけ。
「営業として成り立つのだろうか」と、心のどこかで、
ふとそんな心配もした。

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●宇宙時代

 映画『スター・ウォーズ』は、「遠い昔、昔……」という設定になっている。
人間の未来ではなく、過去。
しかし同時に、それは人間の未来でもある。
やがて人間は、この宇宙を自由に行き交うようになる。
それはそれですばらしいこと。
が、利害が対立すれば、当然、紛争も起きるようになる。
戦争も起きるようになる。

 科学技術の進歩と、兵器の進歩は、比例する。
多くは、兵器の進歩が科学技術の進歩を先導する。
人間が宇宙を自由に行き交うようになるころには、兵器もより強力になる。
価値観の基準をどこに置くかにもよるが、「未来イコール、善なる世界」ではない。
それを「宇宙時代」と呼ぶなら、宇宙時代はかならずしも、人間にとって好ましい世界とはいえない。
それこそ爆弾一発で、地球が粉々になる。
そういうことも起こりえる。

 まさにそこは、スター・ウォーズ(星間戦争)の世界。

●スター・ウォーズ

 ところで私は、かつてスター・ウォーズについて書いたことがあるのだろうか。
記憶というのは、実にいいかげんなもの。
書いたことがあるような気もするし、ないような気もする。
「はやし浩司 スター・ウォーズ」で検索をかけてみる。

 ……原稿はいろいろ出てきたが、映画『スター・ウォーズ』について、直接書いたものは見つからなかった。
やはり映画『スター・ウォーズ』については、何も書いていない。
ただよく覚えているのは、当時、つまり1978年ごろは、よく生徒を連れて映画を観に行ったこと。
そのひとつに、『スター・ウォーズ』があった。
が、よく覚えているのは、そのことではない。
その生徒の中に、河合さんという女の子がいたこと。
弟も一緒に来ていた。

 その2人のことをよく覚えているのには、理由がある。
その直後に、母親が亡くなったからである。
私とワイフは、その母親の葬儀に出た。
それでその2人のことをよく覚えている。
ここで「河合さん」と書いたが、実名である。
「スター・ウォーズ」という名前を耳にするたびに、どういうわけか、その河合さんを思い出す。
あのころ小学4、5年生だったから、今ごろは、45歳前後になっているはず。


Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司

●主張訓練法(2011-12-03改)
 
【BW教室の指導から】(主張訓練法)

●「NO!」が、はっきり言える子ども

少し前、「YES」「NO」がはっきり言える
子どもについて書いた。

その根拠というか、それが見つかったので
報告します。

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●行動療法

心理学には、「行動療法」というのがある。

その中のひとつに、「主張訓練法」というのがある。

これは子どもに、(おとなでも構わないが)、「YES」「NO」をはっきり言わせることに
よって、「対人場面における、不安感や緊張感を軽減する方法」(臨床心理学・ナツメ出版)である。

もう一度、そのとき書いた原稿をここに添付しますので、どうか、参考になさってください。

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 今週は、どのクラスでも、「NO!(いや!)」とはっきり言える子どもの指導をしている。

指導というよりは、訓練。

大きな声で、しっかりと、「いや!」と言わせる。

この簡単な訓練だけで、子どもから優柔不断さが消える。

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 今週は、幼児クラスを中心に、「いや!」とはっきり言う訓練をしている。方法は、こうだ。

 まず、子どもたちがいやがるような、誘いをかけてみる。

私「ゴキブリ・ハンバーグをあげようか」
子「……いらないよう……」
私「だったら、『いや!』とはっきりと言いなさい!」
子「いや……」
私「そんな声じゃ、だめだよ。いやだったら、はっきりと『いや!』と言わなくては……」
子「いや!」と。

 つづけて、

私「ねずみのシッポのからあげをあげようか」
子「いや!」

私「シカのウンチのから揚げをあげようか」
子「いや!」

私「ミミズのラーメンはどう?」
子「いや!」と。

 こうしたかけあいを、5~10回繰りかえすと、子どもたちは、大声で、「いや!」と言い出す。

 そこでさらに、こう問いかける。
どこかいやらしい中年オジサン風の雰囲気で……。

私「どこかへ連れていってあげようか?」
子「いや!」

私「お菓子を買ってあげようか?」
子「いや!」

私「そんなこと言わないで、車にのってよ」
子「いや!」

私「おもちゃを買ってあげるからさあ」
子「いや!」

私「じゃあ、おじさんのおうちに遊びに来る? お菓子がたくさんあるよ」
子「いや!」と。

 こうした方法は、心理学の世界でも、有効性が証明されている。
「YES」「NO」を、はっきりと言わせることによって、自我の確立を、より確かなものにすることができる。
が、それだけではない。
昨今、子どもを犯罪に巻きこむ事件が、相ついでいる。
この方法は、そうした事件に対する、予防策にもなる。

 もしあなたの子どもに、どこか優柔不断で、グズグズした雰囲気があるなら、一度、この方法を試してみるとよい。

が、本当は、集団教育の場で、みなが大声を張りあげていうような場面が望ましい。
1人、2人だと、大声を出さない子どもでも、みなが大声を張りあげると、つられて自分も大声を出すようになる。

 どこかの見知らぬおじさんが、「お菓子を買ってあげるから、いっしょに来ないか?」と声をかけたとき、子どもが、最初に「いや!」とはっきり言う。
犯罪の防止になるだけではなく、今のこうした社会では、とても大切なことだと思う。

【付記】

 この指導法を参観していた母親が、そのあと、こう言った。

 「私なんか、セールスがきても、はっきりと断れないため、よくトラブルに巻きこまれてしまいます」と。
「私ははっきりと、いやと言うのですが、主人が、優柔不断で、困ります」といった母親もいた。

 もしそうなら、日ごろから、夫婦の間で、こうした訓練をしておくとよい。

夫「奥さん、おもしろい薬があります」
妻「いりません」
夫「お買い得ですよ」
妻「興味ありません」
夫「奥さん、元気が出ますよ。あのK国製ですから」
妻「いりません。お帰りください」と。

 私たち夫婦も、ときどき、この訓練法を自分たちに試している。
私も、若いころは優柔不断なところがあった。
誘われると断りきれず、ついつい……ということがよくあった。
しかし最近は、ない。

 この訓練法のおかげである。

 なお、教育の場で、この訓練法をしているのは、私が知る限り、私のBW教室だけである。
(ほかの幼児教室は、まねしないように!
……少し心が狭いかな?)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 返答訓練法 自我 YES NO はっきり言う子供 はっきりとした子供 行動療法 対人訓練法 はやし浩司 主張訓練法 子供の心理 はっきりと拒否する)


Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司

●12月4日(山岡家のラーメン)

 今朝は7時半、起き。
日曜日。
ウォーキング・マシンの上で一汗かく。
書斎へ入る。

 ……昨夜、近くの『山岡家』というラーメン屋で、ギョーザを食べた。
ワイフはラーメンを食べた。
味は一級!
その山岡家には、テーブルの上に、生ニンニクが用意してある。
土曜日の夜は、それをギョーザやラーメンにたっぷりとかけて、食べる。
が、これがたまらなく、おいしい。
私たちの大好物。

ただし、人に会う前には、それができない。
そこで私たちは、ニンニクをかけて食べるのは、土曜日の夜とか、そういうときに決めている。

 そのせいか、体調はすこぶる、よい。
頭の中も、スッキリしている。
ワイフが店を出るとき、こう言った。
「ラーメンにニンニクを入れると、味がさらにおいしくなるわね」と。
 
 ……ということで、今日は午後まで、人と会う約束はなし。(……会えない。)

Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司

【我ら極東アジア人の、民族的上下意識とそれを支える権威主義】

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12月04日、ネットであちこちの
ニュース・サイトをのぞく。
北朝鮮の記事が、目にとまる。

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●虚勢

 虚勢にも、2種類ある。
外面(そとづら)と、内面(うちづら)。
もう少し正確には、外面虚栄と内面虚栄。
そのことを、今朝、海外の報道記事を読んでいて知った。

●北朝鮮

 あの北朝鮮のP市では、目下、急ピッチで、街作りが進んでいるという。
「食糧も足りないのに……」と私たちは考えるが、あの国の独裁者には、そんな声は届かない。
で、その街作りが、ものすごい。
たとえば通りに面した部分だけ、ビルを作りなおすとか、などなど。
10数階もあるようなアパートを建設したが、エレベーターはなし。
報道によれば、建設には、学生が動員されているとか。
そのため事故も多く、すでに200人近くの学生が亡くなっているそうだ。

●内面虚勢

 こうした報道記事を読んでいると、ではいったい、何のために?、と、そこまで考えてしまう。
報道記事には、「虚勢」という言葉が並ぶ。
しかし外人観光客など、ほとんどいない。
となると、その虚勢は、だれに向けられたものなのか。
……ということで、「内面虚勢」という言葉を思いついた。
虚勢は虚勢でも、国内向けの虚勢。
だから「内面虚勢」

●自尊心

 が、内面虚勢が悪いというのではない。
内面虚勢と自尊心は、よく似ている。
区別できない。

 私にしても、自尊心があるからこそ、こうしてかろうじて生きていられる。
「私はすばらしい」と自分に言って聞かせる。
あるいは自分のよい面だけを信じ、それが「私」と、自分に言って聞かせる。
わかりやすく言えば、自分で自分に虚勢を張る。

 が、これはあくまでも個人の話。
そういう虚勢を張ったところで、だれにも迷惑をかけない。
他人にはバカに見えるかもしれないが、そうであっても、何も構わない。
私は私。
人は人。
つまりそれが国家レベルにまで、巨大化したのが、北朝鮮ということになる。

●極東アジア人

 一方、外面虚勢というのもある。
見栄、体裁、虚栄、世間体……。
極東アジア人というのは、民族的に、外見虚勢を重んずる。
それ自体が、生きる目的にもなっている。
今でこそ色あせてきたが、「出世」という言葉も、まだ死語になったわけではない。

 半面、オーストラリア人などは、みな、外面虚勢とは無縁の世界で生きている。
すがすがしいほど、無縁の世界で生きている。
が、これは意識の問題だから、私がここでいくら説明しても、極東アジア人には、理解できないだろう。
同じように、オーストラリア人に、外面虚勢についていくら説明しても、理解できないだろう。
「どうして、そんなことを気にするのか?」と、逆に質問されてしまう。

●地位や肩書き

 ひとつの例をあげる。

 日本では、50歳をすぎると、みなリストラされたり、子会社に左遷されたりする。
中にはそれなりの役職に就き、退職後もそれなりの仕事をする人もいる。
いろいろな人がいるが、退職後も、退職前の地位や肩書きを引きずって生きている人は、多い。
またその亡霊から抜け出せないまま、生きている人は多い。

 そのことは、60歳を過ぎると、よくわかる。
名刺をもらったりすると、さらによくわかる。
もっともらしい地位や肩書きを、ズラズラと並べている。
逆に言えば、中身がないから、そうする。
つまり外面虚勢。

●「自分の人生は何だったのか」

 なぜ、極東アジア人は、外面虚勢を重んじるのか。
その理由の第一は、自分自身が、相手を、その外面虚勢で判断しているから。
つまり身分による上下意識が、きわめて強い。
さらにそれを支える権威主義。
極東アジア人は、この権威主義に弱い。

 さらにもう一言、付け加えれば、今ここで外面虚勢を否定されてしまうと、「ではいったい、自分の人生は何だったのか」ということになってしまう。
滅私奉公、一社懸命、企業戦士となってがんばってきた人ほど、そうだろう。
だから地位や肩書きにしがみつく。
それこそ退職して、10年とか20年とか過ぎても、しがみつく。
それについては、すでに何度も書いてきた。
いくつか原稿をさがしてみる。

++++++++++++++++++はやし浩司

2006年の12月にBLOGで発表した原稿より。

++++++++++++++++++はやし浩司

●親風、夫風、兄風

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私のBW教室では、兄弟(姉妹)が入会して
いるばあいには、できるだけ、同じ
クラスで教えるようにしている。

効果は絶大!

たがいにたがいを刺激しあうだけではなく、
1年単位でみると、たいへん仲がよくなる。

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 「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」と、上下意識を無意識のうちにも感じながら呼びあうより、兄弟、姉妹は、名前そのもので呼びあうほうがよい。そのほうが、上下意識がなくなり、いわゆる「友」として、生涯にわたって、仲がよくなる。

 たとえば、「お兄ちゃん」ではなく、「シンちゃん」。「お姉ちゃん」ではなく、「ミサちゃん」と呼びあうなど。

 このことについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。

 ところで最近気がついたのだが、親意識の強い人は、ついでに夫意識が強く、さらに叔父意識、叔母意識も強い。さらに、兄意識も強く、従兄弟(いとこ)に対しても、ほんの数才しか年がちがわないのに、年長意識も強い。

 だから親風を吹かす。夫風を吹かす。叔父、叔母風を吹かす。兄風を吹かす。年長風を吹かす。はたから見れば、(つまりそういう意識のない人から見れば)、バカげているのだが、本人は、そうでない。(上意識)だけで、いっぱしの人物のつもりでいる。

 こういうのを総称して、「権威主義」というが、いまだにその権威主義にこだわっている人は、少なくない。言うまでもなく、権威主義にこだわればこだわるほど、まわりの人たちの心は離れる。それに気がつかないのは、本人だけということになる。

 だから子どもでも、兄弟、姉妹は、名前、もしくは愛称で呼ばせるようにしたほうがよい。そのほうが上下意識がなくなり、その分だけ、「友」として、相手を迎え入れるようになる。

 が、それだけではない。

 親から見れば、兄弟、姉妹は、自分の子どもであり、同じように、兄弟、姉妹も、それなりに仲がよいはずと考えがちである。しかしこれは誤解。

 実際には、兄弟、姉妹でも、他人以上に憎しみあい、疎遠になっているケースは、ゴマンとある。むしろそういうケースのほうが多い。が、それを公(おおやけ)に口に出して言うことができない。だから、自分で自分のクビをしめてしまう。「兄だから」「弟だから」と。そういうケースも、少なくない。

 たとえば私の兄についても、そうである。私より9歳も年上ということもある。子どものころ、いっしょに遊んだという記憶さえない。そういう兄が、数年前、認知症なった。

 一応、私は弟だから、兄のめんどうをみなければならない。それはわかる。しかし「兄だから、お前は愛情を感じているはず」と、一方的に押しつけられると、言いようのない反感を覚える。兄といっても、弟の私から見れば、他人に近い。同年齢の従兄弟たちのほうが、ずっと親近感がある。

 つまりこうした家族のクサリ(=自我群)に苦しんでいる兄弟、姉妹も、多いということ。

 では、どうするか。

 そのひとつの方法というわけではないが、私の教室(BW)では、ある学年(小学3、4年)になると、兄弟、姉妹は、できるだけ同じクラスで教えるようにしている。その学年になると、それぞれの子どもの進度にあわせて、個別レッスンをするので、技術的には可能である。

 こうすることによって、兄弟、姉妹は、たがいにたがいを刺激しあう。が、それだけではない。思い出を共有することによって、将来にわたって、仲がよくなる。

 が、こういう指導に対して、疑問をもつ父母も少なくない。

 「兄(姉)が、劣等感を覚えないか」と。たとえば年が離れていない兄弟のばあい、弟のほうが兄より、勉強がよくできるというケースもないわけではない。

 しかしそれは、指導力でカバーできる問題と考えてよい。さらにその前提として、生まれながらにして、上下意識がなければ、気にすることはない。そのためにも、兄弟、姉妹には、上下意識をもたせないほうがよい。その前に、親自身も、上下意識をもたないほうがよい。

 親風、ナンセンス。夫風、ナンセンス。兄風、ナンセンス。

 最後に一言。

 私たちは自分の子どもを、たとえば、「お兄ちゃん」と呼ぶことによって、無意識のうちにも、子どもに上下意識を植えつけていることを忘れてはいけない。中には、さらに積極的に、「あなたはお兄ちゃんでしょでしょ!」「お兄ちゃんらしくしなさい!」と、兄意識を強制する親だっている。

 まことにもって愚かな指導法ということになるが、このつづきは、またの機会に!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 兄弟 姉妹 上下意識 権威主義 兄の育て方 姉の育て方)

(付記)

 日本人は、もともと家父長意識の強い民族である。またそういう土着的な意識を、文化風習として背負っている。江戸時代という、とんでもない封建主義時代が、300年以上もつづいたこともある。

 だからいまだに、この権威主義が、大手を振ってのさばっている。またそれを「国家の品格」と位置づけている人さえいる。

 しかし権威主義が、いかにバカげているかは、ほんの少しでもオーストラリア人でもよいが、そういう人たちとつきあってみると、わかる。夫婦でも、おもしろいほど、上下意識がない。食後でも、夫と妻が台所に並んで、洗いものをしている。

 もちろん兄弟、姉妹でも、愛称で呼びあっている。仲がよいというよりも、友として、相手を認めあっている。(だから反対に、友でなければ、兄弟、姉妹でも、他人のように疎遠になるというケースも、ないわけではない。)

 つまり(家族)という概念に、日本人ほど、強くはしばられていない。たがいにサバサバとしている。横で観察していると、そんな印象をもつ。

 要するに、「兄弟(姉妹)だから仲がよいはず」「たがいに愛情を感じているはず」と、子どもに、それを押しつけてはいけない。これはこれからの子育ての第1歩ということになる。(以上、2006年12月記)

++++++++++++++++++はやし浩司

さらに古い原稿だが、日本人の意識の変化を
知るには、よいと思う。
日付は、2001年になっている。
(中日新聞発表済み)

++++++++++++++++++はやし浩司

●上下意識の崩壊

 日本人の上下意識は、近年、急速に崩れ始めている。とくに夫婦の間の上下意識にそれが 顕著に表れている。
内閣府は、夫婦別姓問題(選択的夫婦別姓制度)について、次のような世論調査結果を発表した(2001年)。

 それによると、同制度導入のための法律改正に賛成するという回答は42・1%で、反対した人(29・9%)を上回った。
前回調査(96年)では反対派が多数だったが、賛成派が逆転。
さらに職場や各種証明書などで旧姓(通称)を使用する法改正について容認する人も含めれば、肯定派は計65・1%(前回55・0%)にあがったというのだ。

 調査によると、旧姓使用を含め法律改正を容認する人は女性が68・1%と男性(61・8%)より多く、世代別では、30代女性の86・6%が最高。別姓問題に直面する可能性が高い20代、30代では、男女とも容認回答が八割前後の高率。

「姓が違うと家族の一体感に影響が出るか」の質問では、過半数の52・0%が「影響がない」と答え、「一体感が弱まる」(41・6%)との差は前回調査より広がった。

 ただ、夫婦別姓が子供に与える影響については、「好ましくない影響がある」が66・0%で、「影響はない」の26・8%を大きく上回った。
調査は2001年5月、全国の20歳以上の5000人を対象に実施され、回収率は69・4%だった。
なお夫婦別姓制度導入のための法改正に賛成する人に対し、実現したばあいに結婚前の姓を名乗ることを希望するかどうか尋ねたところ、希望者は18・2%にとどまったという。

 わかりやすく言えば、若い人ほど夫婦別姓に賛成だということだが、夫婦別姓が問題になること自体、私たちの世代では考えられないことであった。
「結婚した女性は、その家に入るもの」という考え方が、常識でもあった。
言いかえると、今、私たちが経験しつつある変化は、まさに革命的とも言えるものである。それこそ100年単位でつづいた日本の常識が、ここでひっくり返ろうとしている。
そうした目で、この問題を考える必要がある。(2001年記、2011年改)

++++++++++++++++++はやし浩司

●水戸黄門

 話せば長くなるが、外面虚勢の裏には、長くつづいた封建制度が深く関わっている。
そのひとつが、上下意識ということになる。

 最後にあの「水戸黄門」をあげる。
世界的に見ても、あれほどバカげた番組はないと思うが、それが今でも、この日本では人気番組のひとつになっている。
どうして三つ葉葵の紋章を見ただけで、みなはハハーと頭をさげるのか。

++++++++++++++++++はやし浩司

『水戸黄門論』……中日新聞発表済み。

++++++++++++++++++はやし浩司

●権威主義の象徴・水戸黄門

 権威主義。その象徴が、あのドラマの『水戸黄門』。側近の者が、葵の紋章を見せ、「控えおろう」と一喝すると、皆が、「ははあ」と言って頭をさげる。
日本人はそういう場面を見ると、「痛快」と思うかもしれない。
が、欧米では通用しない。オーストラリアの友人はこう言った。
「もし水戸黄門が、悪玉だったらどうするのか」と。
フランス革命以来、あるいはそれ以前から、欧米では、歴史と言えば、権威や権力との闘いをいう。

 この権威主義。家庭に入ると、親子関係そのものを狂わす。
Mさん(男性)の家もそうだ。長男夫婦と同居して一五年にもなろうというのに、互いの間に、ほとんど会話がない。
別居も何度か考えたが、世間体に縛られてそれもできなかった。Mさんは、こうこぼす。「今の若い者は、先祖を粗末にする」と。
Mさんがいう「先祖」というのは、自分自身のことか。一方長男は長男で、「おやじといるだけで、不安になる」と言う。
一度、私も間に入って二人の仲を調整しようとしたことがあるが、結局は無駄だった。
長男のもっているわだかまりは、想像以上のものだった。
問題は、ではなぜ、そうなってしまったかということ。

 そう、Mさんは世間体をたいへん気にする人だった。
特に冠婚葬祭については、まったくと言ってよいほど妥協しなかった。
しかも派手。長男の結婚式には、町の助役に仲人になってもらった。
長女の結婚式には、トラック二台分の嫁入り道具を用意した。
そしてことあるごとに、先祖の血筋を自慢した。
Mさんの先祖は、昔、その町内の大半を占めるほどの大地主であった。
ふつうの会話をしていても、「M家は……」と、「家」をつけた。
そしてその勢いを借りて、子どもたちに向かっては、自分の、親としての権威を押しつけた。少しずつだが、しかしそれが積もり積もって、親子の間にミゾを作った。

 もともと権威には根拠がない。
でないというのなら、なぜ水戸黄門が偉いのか、それを説明できる人はいるだろうか。
あるいはなぜ、皆が頭をさげるのか。またさげなければならないのか。
だいたいにおいて、「偉い」ということは、どういうことなのか。

 権威というのは、ほとんどのばあい、相手を問答無用式に黙らせるための道具として使われる。
もう少しわかりやすく言えば、人間の上下関係を位置づけるための道具。
命令と服従、保護と依存の関係と言ってもよい。
そういう関係から、良好な人間関係など生まれるはずがない。
権威を振りかざせばかざすほど、人の心は離れる。親子とて例外ではない。
権威、つまり「私は親だ」という親意識が強ければ強いほど、どうしても指示は親から子どもへと、一方的なものになる。
そのため子どもは心を閉ざす。Mさん親子は、まさにその典型例と言える。
「親に向かって、何だ、その態度は!」と怒る、Mさん。
しかしそれをそのまま黙って無視する長男。

 こういうケースでは、親が権威主義を捨てるのが一番よいが、それはできない。
権威主義的であること自体が、その人の生きざまになっている。
それを否定するということは、自分を否定することになる。
が、これだけは言える。もしあなたが将来、あなたの子どもと良好な親子関係を築きたいと思っているなら、権威主義は百害あって一利なし。
『水戸黄門』をおもしろいと思っている人ほど、あぶない。(1999年ごろ記)

++++++++++++++++++はやし浩司

上述の原稿を、さらに書き改めのが、つぎの原稿。

++++++++++++++++++はやし浩司

●水戸黄門論

 テレビドラマに「水戸黄門」というのがある。葵三つ葉の紋章を見せて、側近のものが、「控え おろう!」と一喝するシーンは、あまりにも有名である。
今でも、視聴率が20~25%もあるというから、驚きである。

 で、あの水戸黄門というのは、水戸藩二代藩主の徳川光圀(みつくに)と、家来の中山市正と井上玄洞をモデルとした漫遊記と言われている。
隠居した光圀は、水戸の郊外、西山村に移り住み、百姓光右衛門と名乗り、そのとき、先の二人を連れて、関東を漫遊したという。
それが芝居、映画、テレビドラマになり、「水戸黄門」が生まれた。(芝居の中では、二人の家来は、佐々木助三郎(通称「助さん」)と、渥美格之進(通称「格さん」)になっている。)

 徳川光圀は実在した人物だが、ただ光圀自身は、関東地域からは一歩も出ていない。
それはさておき、水戸黄門は、全国各地を漫遊しながら、悪代官をこらしめたり、仇討ちの助けをしたりして、大活躍をする。
日本人にはたいへん痛快な物語だが、ではなぜ「痛快」と思うかというところに、大きな問題が隠されている。

以前、オーストラリアの友人が私にこう聞いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことをしたら、日本人はどうするのか」と。
そこで私が「水戸黄門は悪いことはしないよ」と言うと、「それはおかしい」と。

 考えてみれば、水戸黄門がたまたま善人だったからよいようなものの、もし悪人だったら、その権威と権力を使って、したい放題のことができる。
だれか文句を言う人がいたら、それこそ「控えおろう!」と一喝すればすんでしまう。
民衆の私たちは、水戸黄門の善行のみをみて、それをたたえるが、権威や権力というのは、ひとつ使われ方がまちがうと、とんでもないことになる。

だいたいにおいて水戸黄門は封建時代の柱である、身分制度という制度をフルに利用している。
身分制度を巨悪とするなら、代官の悪行など、かわいいものだ。
善行も何も、ない。
「頂点にたつ権力者は悪いことをしない」という錯覚は、恐らく日本人だけがもつ幻想ではないのか。
長くつづいた封建制度の中で、日本人は骨のズイまで魂を抜かれてしまった。
もっと言えば、あの番組を痛快と思う人は、無意識のうちにも、封建時代を是認し、身分制度を是認し、さらに権威主義を是認していることになるのでは……?
 あるいは権威や権力に、あこがれをいだいている……?

 教育の世界には、まだ権威や権力がはびこっている。
こうした権威や権力は、その世界に住んでいる人には居心地のよいものらしいが、その外で、いかに多くの民衆が犠牲になっていることか。

むずかしいことはさておき、あのドラマを見るとき、一度でよいから、水戸黄門の目線ではなく、その前で頭を地面にこすりつける庶民の目線で、あのドラマを見てほしい。
あなたもあのドラマを見る目が変わるはずである。

++++++++++++++++++はやし浩司

さらにダメ押し。
日本の常識は、けっして世界の常識ではない。

++++++++++++++++++はやし浩司

●日本の常識、世界の非常識


● 「水戸黄門」論……日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちが
っているかといっても、身分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分
制度という(巨悪)にどっぷりとつかりながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、
その「おかしさ」がわからないほどまで、この権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋
章を見せつけて、人をひれ伏せさせる前に、その矛盾に、水戸黄門は気づくべきではない
のか。仮に水戸黄門が悪いことをしようとしたら、どんなことでもできる。それこそ19
歳の舞妓を、「仕事のこやし」(人間国宝と言われる人物の言葉。不倫が発覚したとき、そ
う言って居直った)と称して、手玉にして遊ぶこともできる。


● 「釣りバカ日誌」論……男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になってい
る。その背景にあるのが、「男は仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関
係なし」と。しかしこれこそまさに、世界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事
の同僚と飲み食い(パーティ)をするときは、妻の同伴が原則である。いわんや休日を、
夫たちだけで過ごすということは、ありえない。そんなことをすれば、即、離婚事由。「仕
事第一主義社会」が生んだ、ゆがんだ男性観が、その基本にあるとみる。


● 「森S一のおふくろさん」論……夜空を見あげて、大のおとなが、「ママー、ママー」と
泣く民族は、世界広しといえども、そうはいない。あの歌の中に出てくる母親は、たしか
にすばらしい人だ。しかしすばらしすぎる。「人の傘になれ」とその母親は教えたというが、
こうした美化論にはじゅうぶん注意したほうがよい。マザコン型の人ほど、親を徹底的に
美化することで、自分のマザコン性を正当化する傾向が強い。


●「かあさんの歌」論……窪田S氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(3行目と4行目)
は、かっこ(「」)つきになっている。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだ
だよ」「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だ
で。畑が待ってるよ」と。しかしこれほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。
親が子どもに手紙を書くとしたら、「♪村の祭に行ったら、手袋を売っていたよ。あんたに
似合うと思ったから、買っておいたよ」「♪おとうは居間で俳句づくり。新聞にもときどき
載るよ」「♪春になったら、村のみんなと温泉に行ってくるよ」だ。


● 「内助の功」論……封建時代の出世主義社会では、「内助の功」という言葉が好んで用い
られた。しかしこの言葉ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう
論ずるまでもない。しかし問題は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いという
こと。約23%の女性が、「それでいい」と答えている※。決して男性だけの問題ではない
ようだ。


※……全国家庭動向調査(厚生省98)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」
という考えに反対した人が、23・3%もいることがわかった。

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●外面(そとづら)虚勢からの解放

 さあ、あなたも勇気を出して、外面虚勢から、自らを解放してみよう。
そこはまさに、すがすがしい世界。
あなたがあなた自身でいられる世界。

 今まで外面虚勢(上下意識、権威主義)で生きてきたなら、なおさら。
60歳を過ぎていても、70歳を過ぎていても、遅すぎるということはない。
方法は簡単。
一度、身ぐるみはいで、裸になればよい。
それともあなたは、最後の最後まで、過去の地位や肩書きにしがみついて生きていくというのか。

 ……それにしても我ら極東アジア人というのは、おもしろい。
一方で水戸黄門を美化しながら、他方で北朝鮮を非難する。
ともにその底流で流れている意識は、同じ。
極端な権威主義。

 もしこんな矛盾した論理がまかり通りなら、逆に考えてみればよい。
「もし水戸黄門がまちがった指示を出したら、この日本はどうなるのか」と。
あるいは「いくら独裁者でも、よいことをすれば、許されるのか」でもよい。

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Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司

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