2011年12月27日火曜日

*Good or Bad in psychology

●寒い朝(12月27日)

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昨日、最後の歳暮の品を、発送した。
「最後」というのは、私はそれぞれの人に、
それぞれの歳暮の品を、送っている。
親類の人たちには、正月に口にしてもらえるのが、
いちばんよい。
そう考え、親類の人たちには、
いつもぎりぎりの年末に送っている。

今日は、12月27日。
火曜日。

昨日、日本列島は、今年いちばんの寒気に見舞われたとか。
この浜松市でもわずかだが、雪が降った。
寒いというより、冷たかった。
夕方、ワイフと市内のレストランへ行ったが、
肌が切れるような冷気を感じた。
そのころ気温は、2~3度ではなかったか。

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【リビドーvsサナトス】(創造vs破壊、生と死のはざまで……)

●心理学で考える、善と悪

●隕石

 昨日、子ども(中学生)たちと、隕石の話になった。
1人が、「2012年に、巨大な隕石が落下し、人類が滅亡するかもしれない」と言った。
それに答えて、ほかの子どもたちが、「おもしろい」とか、「○○国に落ちればいい」とか言った。

 「この日本に落ちるかもしれないよ」と私が言っても、本気にしない。
むしろ楽しみにしているような雰囲気さえある。
ことに深刻さが、まるでわかっていない。
が、こうした心理を、どう理解したらよいのか。
つまり危機的状況を、子どもたちは明らかに楽しんでいる。
こうした心理を、どう理解したらよいのか。

●死へのあこがれ(サナトス)

 フロイトは、「生への欲求」を、「リビドー」と定義した。
その「リビドー」に対して、人間には、「死への欲求」もあると説いた。
「死への欲求」を、「サナトス」という。

 ここでいう「サナトス」とは、自己に向かう破滅的な力を、総称していう。
必ずしも「死」もしくは、「自殺」を意味するのではない。
当然のことである。

 この2つの相反した欲求が、人間の中で、同時に起こる。
「生」と「破滅」。
このことは、年をそれなりに取ると、実感として理解できるようになる。
生命力(=リビドー)そのものが弱くなり、その陰から破滅的なエネルギーが顔を出してくる。
つまり(リビドー)を、生産的な生命力とするなら、(サナトス)は、破滅的な破壊力ということになる。

●創造vs破壊

 誤解してはいけないのは、(サナトス)自体が、エネルギーであるということ。
虚無的になり、逃避し、その結果として「死にたい」というのとは、中身がちがう。
ちがうことは、子どもたちの世界をのぞいてみると、わかる。

 たとえば子どもたちと、ドミノ倒しをしたとする。
ドミノを順に並べ、あとでそれを倒す。
(積み木遊びでも、何でもよい。)

 すると子どもたちの心理が、(リビドー)と(サナトス)の間で、はげしく揺れ動いているのがわかる。
「長く並べたい」という思いは、創造性によるものと考えられる。
「早く倒してみたい」という思いは、破壊性によるものと考えられる。
この両者が、交互に顔を出し、子どもたちの行動を裏から操る。

●フロイト

 フロイトの理論でたいへん興味深いのは、つぎの点である。
フロイトは、ひとつの心理状態があるとすると、他方に、それと相反する心理状態があると考える。
こうした相反する心理状態を、フロイトは、「アンビバレンツ」と名づけた。

 このことは、交感神経と副交感神経に結びつけて考えてみると、わかりやすい。
人間の脳の命令は、つねに(プラス)と(マイナス)が、同時に働く。
「動け」という命令に対して、「止まれ」という命令。
どちらか一方が強すぎると、行動はちぐはぐなものとなる。
つまりこの両者が、バランスよく働いたとき、人間の行動はスムーズなものとなる。

 人間の心理にも、同じように考えることができる。

●プラス型vsマイナス型

 幼児に接していると、常に(プラス型)と(マイナス型)があるのがわかる。
たとえば同じ赤ちゃん返りという現象にしても、下の子ども(弟、妹)に対して攻撃的になるケースがある。
嫉妬がからんでいる分だけ、執拗かつ陰湿になりやすい。
反対に、ネチネチと甘ったるい言い方をし、赤ちゃんぽく演ずることによって、親の関心をひこうとするケースもある。
5、6歳児になって、とつぜん、おもらしをしたりするなど。
(この両者の混在型もあるが……。)

 フロイトも、たぶん、同じような現象をどこかで見たにちがいない。
「生きたい」という欲求があるなら、当然、「死にたい」という欲求もあるはず。
フロイトがそう考えたところで、何もおかしくない。

●バランス

 要はバランスの問題ということになる。
そのバランスをうまくコントロールしながら、良好な人間関係を保つ。
そのコントロールする力が、「理性」ということになる。
またそれができる人のことを、人格の完成度の高い人という。
ピーター・サロベイのIQ論を引き合いに出すまでもない。

 最初の話に戻る。

 子ども(中学生)たちは、隕石の話をしながら、「そうであってはいけない」という思いと、「そうあってほしい」という思いの中で、揺れ動く。
が、子どもたちであっても、そこに理性の力が働く。
「そうであってほしい」という思いは、冗談として、脳の中で処理される。

 もっとわかりやすい例としては、銀行強盗がある。
私もよく夢想する。
「どうすれば、うまく強盗ができるか」と。
そのときも、「やってみたい」という気持ちと、「やってはだめだ」という気持ちが、同時に働く。
しかし実際に、行動に移すことはない。
脳の中で、強いブレーキが働く。
それが「理性の力」ということになる。

●距離感

 こう考えていくと、では「理性の力」とは、何かということになる。
もちろん程度の差がある。
力の強い人もいれば、そうでない人もいる。
そこでその程度を決めるのが、「距離感」ということになる。

 先に銀行強盗の例をあげた。
わかりやすいから、銀行強盗にした。

 その銀行強盗。
「一度、危険を犯せば、一生、楽な生活ができる」というのは、たしかに魅力的に聞こえる。
あとは遊んで暮らせる。
(もちろん失敗すれば、一生、刑務所の中で過ごすことになるが……。)
だれかが、「おい、林、一度してみないか?」と言ったとする。
そのとき、私は、それをどう思うだろうか。

 ……そこでこう考える。
銀行強盗をするにも、銀行強盗から遠い距離にいる人がいる。
頭の中で空想することはあっても、「実行」ということは、まったく考えない。
が、ひょっとしたら、何かのきっかけさえあれば、「実行」を考える人もいるかもしれない。
このタイプの人は、それだけ銀行強盗に近い距離にいるということになる。
つまりこの「距離感」をつくる力こそが、「理性の力」ということになる。

(私は映画が好きだから、よく映画のシナリオを自分で考える。
そのひとつとして、銀行強盗を頭の中で夢想する。
どうか誤解のないように!)

●サナトス

 さらに踏み込んで考えてみよう。

 フロイトの理論に従えば、リビドーの強い人は、当然、サナトスも強いということになる。
反対にリビドーの弱い人は、当然、サナトスも弱いということになる。

「生きよう」という力の強い人であれば、お金に困れば、銀行強盗を、より強く考えるかもしれない。
反対に、もとから「生きよう」とする力の弱い人であれば、銀行強盗を考える力も弱いということになる。

 つまり「銀行強盗を考えない」からといって、理性の力が強いということにはならない。
もとから生きる力の弱い人は、銀行強盗をしようという気力も弱い。

●善人論vs悪人論

 このことはそのまま、善人論、悪人論に結びつく。

 よいことをするから、善人というわけではない。
(善人の仮面をかぶり、悪いことをしている人はいくらでもいるぞ!)
悪いことをしないから、善人というわけでもない。
(小さな世界で、小さく生きている人は、いくらでもいるぞ!)
善人が善人であるためには、そこにある「悪」と積極に闘わねばならない。
その積極性のある人を、「善人」という。

 つまり「生きる力(リビドー)」の強い人は、「死にたいという力(このばあいは、破滅的な力)」も、同時に強いとことになる。
言い換えると、その分だけ、「理性の力」も、強くなければならない。
もし生きる力だけが強く、理性の力が伴わなければ、その力は破滅的な方向に向かってしまう。
生きる力が強い人は、それだけ悪に手を染めやすいということにもなる。

●バランス感覚

 そこで重要なのが、バランス感覚。

 私たちは、(生きたいという力)と、(死にたいという力)、
(創造したいという願望)と、(破壊したいという願望)、
さらに言えば、(善)と(悪)。
その相反するエネルギーの中で、絶妙なバランスを保ちながら生きている。
このバランスが崩れたとき、悪人は悪人になる。
行動が破滅的になり、それがときとして自分に向かう。

 さて、本論。

●老人論

 私は先に、こう書いた。
「年をそれなりに取ると、実感として理解できるようになる」と。
その理由は、年を取ると、生きる力が弱くなる。
そのためそれまで姿を隠していた、サナトスが、姿を現すようになる。
現在の「私」についてではなく、過去の「私」について、である。

 その点、子ども(中学生)たちは、正直に自分を表現する。
自分を隠さない。
しかし同時に、それは私自身の過去の姿でもある。
私も心のどこかで、こう思ったことがある。
「隕石か何か落ちてきて、地球なんか、木っ端微塵に壊れてしまえばいい」と。

 実のところ、最近でもときどきそう思う。
そういう自分が、よく見えるようになる。

●善人vs悪人

 ……こうして考えていくと、結論はただひとつ。
善人も悪人も、違いは、紙一重。
ついでに言えば、成功者も失敗者も、違いは、紙一重。
見た目には大きな違いに見えても、紙一重、と。

 被災地で被災者のために懸命に働く人を、私たちは善人と言う。
隕石の落下を望むような人を、私たちは悪人と言う。
が、そのちがいは何かと言えば、その間には、何もない。
ちょっとしたきっかけで、善人は悪人になる。
悪人は善人になる。

 善人の裏には悪がある。
悪人の裏には善がある。
善だけの善人はいない。
悪だけの悪人はいない。

 ではそのちがいは何かと言えば、「理性の力」ということになる。

 そのきっかけを、どう作っていくかが、結局は「教育」ということになる。
先に書いた「距離感」を作っていくのが、「教育」ということになる。

 今朝は、善と悪について、心理学の立場で考えてみた。

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

以下、2006年にBLOGで発表した原稿です。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【善と悪】(2006-04-28記)
 
●昆虫のような脳みそ

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「昆虫のような脳みそ」と書いたことに
ついて、コメントの書きこみがあった。

「お前は、いったい、何様のつもり?」と。

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 「昆虫のような脳みそ」という言葉を使ったことに対して、コメントの書きこみがあった。「お前は、いったい、何様のつもり?」と。

 たしかに辛(しん)らつな言葉である。私も最初聞いたとき、そう思った。恩師のT教授が、いつも口ぐせのように使っている言葉である。いつの間にか、私も、そのまま使うようになってしまった。しかし、私にも、言い分がある。

 いつだったか、私は、善と悪は、平等ではないと書いた。西欧社会では、『善は神の左手、悪は神の右手』と説く。しかし平等ではない。

 善人になるのは、意外と簡単なことである。約束を守る、ウソをつかない。この2つさえ守れば、どんな人でも、やがて善人になれる。

 しかし自分の中に潜む悪を、自分から追い出すことは、容易なことではない。とくに乳幼児期までに心にしみついた悪を追い出すことは、容易なことではない。生涯にわたって、その人の心の奥底に潜む。

 それについては、以前に書いたので、ここでは、そのつぎを考えてみたい。

 仮にここに10人の人がいたとする。が、そのうちの9人が善人でも、1人が悪人だったとする。数の上では善人のほうが、多いということになる。が、やがてその9人は、1人の悪人に、翻弄(ほんろう)されるようになる。最悪のばあいには、9人の善人たちは、たった1人の悪人の支配下に置かれるようになるかもしれない。

 悪のもつパワーには、ものすごいものがある。一方、善の力は、弱い。善人たちが集まって考えた、社会のルールやマナーが、少人数の悪人によって、こなごなに破壊されるということも、珍しくない。

 この点でも、善と悪は、平等ではない。

 恩師のT教授が、「昆虫のような脳みそ」という言葉を使う背景には、もつろん軽蔑の念もある。しかしそれ以上に、いつも私は、そこに怒りの念がこめられているのを感ずる。「せっかく知的な世界を作ろうとしているのに、昆虫のような脳みそをもった連中が、それを容赦なくこわしてしまう」と。

 T教授は、あの東大紛争(1970)を経験している。T教授の理学部研究室は、その東大紛争の拠点となった安田講堂の向かってすぐ右側裏手にあった。そのため、T教授の研究室は、爆弾でも落とされたかのように、破壊されてしまった。うらみは大きい。日ごろは穏やかな恩師だが、こと学生運動については、手きびしい。「昆虫のような脳みそ」という言葉は、そういうところから生まれた(?)。

 「私は善人である」と、自分を悪人の世界から分けて考えることは、簡単なこと。悪いことをしないから、善人というわけでもない。よいことをするから、善人というわけでもない。悪と戦ってはじめて、人は、善人になれる。

 その(戦う)という部分に、この言葉がある。「昆虫のような脳みそ」と。「サルのような脳みそ」という言葉もある。そういえば数年前にベストセラーになった本に、「ケータイをもったサル」というタイトルのもあった。

 あえて言うなら、「昆虫のような脳みそ」というのは、「バカの脳みそ」ということになる。しかし誤解しないでほしい。「バカなことをする人を、バカ」(「フォレスト・ガンプ」)という。知的な能力をさして言うのではない。恩師のT教授が、「昆虫のような脳みそ」と言うときは、「せっかくすばらしい能力をもちながらも、その能力を、悪のために使ってしまう人」を意味する。

 だから何も遠慮することはない。この言葉は、堂々と使えばよい。昆虫のような脳みそをもった人たちを見たら、そう言えばよい。何も善人が、遠慮して生きる必要はない。遠慮したとたん、私たちは、その悪人の餌食(えじき)になる。

 このエッセーが、そのコメントを書いてきた人への、反論ということになる。(コメントそのものは、即、削除してしまったが……。)

 で、私が何様のつもりかって? ハハハ、見たとおりの、ただのドンキホーテ。セルバンテスの男。ハハハ。

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4年前に書いた原稿を、ここに添付します。

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●善と悪

●神の右手と左手
 
昔から、だれが言い出したのかは知らないが、善と悪は、神の右手と左手であるという。善があるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存在しえないということらしい。

 そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いているのがわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。

 『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反キリスト」)

 要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるものすべてが、悪であるというわけである。

●悪と戦う

 私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。それを必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。

トルストイが、「善をなすには、努力が必要。しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が必要」(『読書の輪』)と書いた理由が、よくわかる。もっと言えば、善人のフリをするのは簡単だが、しかし悪人であることをやめようとするのは、至難のワザということになる。もともと善と悪は、対等ではない。しかしこのことは、子どもの道徳を考える上で、たいへん重要な意味をもつ。

 子どもに、「~~しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさい」「クツを並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。人が見ているとか、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして自分の中の邪悪さと戦うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。

 たとえばどこか会館の通路に、1000円札が落ちていたとする。そのとき、まわりにはだれもいない。拾って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういうとき、自分の中の邪悪さと、どうやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそが道徳なのだ。

●近づかない、相手にしない、無視する

 が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのように自分の行動パターンを決めている。

たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」とか、「時間のムダ」と思い、できるだけ神経を使わないようにしている。社会には、無数のルールがある。そういったルールには、ほとんど神経を使わない。すなおにそれに従う。駐車場では、駐車場所に車をとめる。駐車場所があいてないときは、あくまで待つ。交差点へきたら、信号を守る。黄色になったら、止まり、青になったら、動き出す。何でもないことかもしれないが、そういうとき、いちいち、あれこれ神経を使わない。もともと考えなければならないような問題ではない。

 あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。ときとして、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、結局は、近づかない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。それは自分の時間を大切にするという意味で、重要なことである。考えるエネルギーにしても、決して無限にあるわけではない。かぎりがある。そこでどうせそのエネルギーを使うなら、もっと前向きなことで使いたい。だから、近づかない。相手にしない。無視する。

 こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニーチェ)ことにはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、それから逃げているだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くなったのでもない。そこで改めて考えてみる。はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるのか。あるいはまたその「力」を得るには、どうすればよいのか。子どもたちの世界に、その謎(なぞ)を解くカギがあるように思う。

●子どもの世界

 子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。ここに書いたが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子どものばあい、悪への誘惑を、におわしてみると、それがわかる。印象に残っている女の子(小三)に、こんな子どもがいた。

 ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで私が、「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「いいです。私、これから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が食べられない」とも言った。

 この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのものだろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がかたいからだろうか。ノー! では、何か?

●考える力

 そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判断して、「飲んではだめ」という結論を出した。それは「意思の力」と考えるかもしれないが、こうしたケースでは、意思の力だけでは、説明がつかない。「飲みたい」という意思ならわかるが、「飲みたくない」とか、「飲んだらだめ」という意思は、そのときはなかったはずである。あるとすれば、自分の判断に従って行動しようとする意思ということになる。

 となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自ら考える力」こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』という言葉を使って、それを説明した。言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人にはなりえない。よく誤解されるが、よいことをするから善人というわけではない。悪いことをしないから善人というわけでもない。人は、自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじめて、善人になれる。

 が、ここで「考える力」といっても、二つに分かれることがわかる。

一つは、「考え」そのものを、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理ということになる。子どものばあい、しつけも、それに含まれる。

もう一つは、自分で考えるという方法。前者は、いわば、手っ取り早く、考える人間になる方法。一方、後者は、それなりにいつも苦痛がともなう方法、ということになる。どちらを選ぶかは、その人自身の問題ということになるが、実は、ここに「生きる」という問題がからんでくる。それについては、また別のところで書くとして、こうして考えていくと、人間が人間であるのは、その「考える力」があるからということになる。

 とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく行動できるというわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも収拾できなくなってしまうだろう。もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、その考える力、あるいは考えるという習慣があったからにほかならない。つまり「考える力」こそが、善と悪を分ける、「神の力」ということになる。
(02-10-25)※

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●補足

 善人論は、むずかしい。古今東西の哲学者が繰り返し論じている。これはあくまでも個人的な意見だが、私はこう考える。

 今、ここに、平凡で、何ごともなく暮らしている人がいる。おだやかで、だれとも争わず、ただひたすらまじめに生きている。人に迷惑をかけることもないが、それ以上のことも、何もしない。小さな世界にとじこもって、自分のことだけしかしない。日本ではこういう人を善人というが、本当にそういう人は、善人なのか。善人といえるのか。

 私は収賄罪で逮捕される政治家を見ると、ときどきこう考えるときがある。その政治家は悪い人だと言うのは簡単なことだ。しかし、では自分が同じ立場に置かれたら、どうなのか、と。目の前に大金を積まれたら、はたしてそれを断る勇気があるのか、と。刑法上の罪に問われるとか、問われないとかいうことではない。自分で自分をそこまで律する力があるのか、と。

 本当の善人というのは、そのつど、いろいろな場面で、自分の中の邪悪な部分と戦う人をいう。つまりその戦う場面をもたない人は、もともと善人ではありえない。小さな世界で、そこそこに小さく生きることなら、ひょっとしたら、だれにだってできる(失礼!)。しかしその人は、ただ「生きているだけ」(失礼!)。が、それでは善人ということにはならない。繰り返すが、人は、自分の中の邪悪さと戦ってこそ、はじめて善人になる。

 いつかこの問題については、改めて考えてみたい。以前書いた原稿(中日新聞掲載済み)をここに転載する。

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●四割の善と、四割の悪
(以前、掲載したのと同じ原稿です。お許しください。)

子どもに善と悪を教えるとき

●四割の善と四割の悪 

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をする者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマりやすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生徒を、プールの中に放り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対してはどうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびしいのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすくらいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。神はこう答えている。「希望を与えるため」と。もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それがわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけをどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。

問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそれと闘っているだろうか。

私の知人の中には50歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際をしていたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。

「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それが問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人
 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。

(参考)

 子どもたちへ

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。

(詩集「子どもたちへ」より)


Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司






Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司

●数遊び

今日のテーマは、数遊び。
年中児(4~5歳児)のみなさんです。
数をテーマに、子どもの脳をいろいろな角度から、刺激してみました。


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(4)



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