2011年12月5日月曜日

ADHD Children

【ADHD児について】はやし浩司(2011-12-05マガジンより転載)


●教育観

 教育観は、教師によって、みなちがう。
180度ちがうときもある。
たとえば私は、いつも、(そこにいる子ども)を原点にし、子どもを考える。
さまざまな問題があっても、それはそれ。
仮に何かの障害(?)をもっていても、不問。
IQなど、話題にしたこともない。
すべてが、そこからスタートする。

 一方、テストにテストを重ね、「ここに問題がある」「あそこに問題がある」と子どもの
問題を指摘しながら、指導する教師もいる。
もちろんIQテストも頻繁に繰り返す。
子どもの問題や能力を、数値化する。
指導の結果も、数値化する。
どこか教育の視点が、無機質化している。

 が、この方法は、私のやり方ではない。
AD・HD児を例にあげて、考えてみたい。

●「教育」と「エデュケーション」

 「教育」と「エデュケーション」は、基本的に方向性が、逆。
反対向き。
「教育」とは、「教え育てる」ことをいう。
寺の本山教育を思い起こせばよい。
わかりやすく言えば、「教え育てることによって、子どもを一定のワクに閉じこめようよす
る」。

 一方、エデュケーションは、「educe」が語源になっている。
もともとは「引き出す」という意味である。

 それぞれの子どもには、すでに自ら伸びる能力が宿っている。
その能力を引き出すのが、「educe」。
が、その能力は、みな、ちがう。
個性をもっている。
わかりやすく言えば、「子どもがもつそれぞれの能力を、じょうずに引き出してやる」。
それが「エデュケーション」ということになる。

●AD・HD児

 ……という話は、何度も書いてきた。
田丸謙二先生は、いつもそう言っている。
が、この(ちがい)には、もうひとつ、重要な意味が隠されている。
たとえばこんな例で考えてみよう。

 AD・HD児と呼ばれる子どもがいる。
昔は、多動児とか、多動性児とか、あるいは活発型遅進児(まったく遅れてなどいないが)
とか、呼ばれた。
このタイプの子どもでも、小学3~4年生を境に、急速に症状が落ち着いてくる。
自己認識能力(=自分を客観的に評価する能力)と、自己管理能力(=自分を自らコント
ロールする力)が、身についてくるからである。

 が、幼児期や児童期においては、そうでない。
どう(そうでない)かは、すでに、みな、よくご存知の通り。
「問題児」とか、「指導困難児」とか呼ばれている。

●私の経験

 AD・HD児という言葉がさかんに使われるようになったのは、2000年前後から。
そのころ、日本にはまだ診断基準もなかった。
時の厚生省が研究班を組織し、特定の大学に診断基準の作成を依頼したのも、そのころの
こと。
が、ADHD児と呼ばれる子どもは、すでに40年前にもいた。
(当然のことだが・・・。)

 私は一度、このタイプの子どもに、自分の研究授業をメチャメチャにされたのをきっか
けに、たいへん興味をもつようになった。
強く叱っても、効果は一時的。
10~15秒も効果はつづかなかった。

 で、勤めていた幼稚園の園長に相談し、このタイプの子どもだけを数人、教えさせても
らうことにした。
数人が限度だった。
が、教えるというよりは、毎日、プロレスごっこ。
20代の私でも、1時間、接しただけで、ヘトヘトになるほどだった。

●診断名

 西洋医学の世界では、体に不調が起きると、まず診断名をつける。
診断名をつけたあと、診断名に応じて、攻撃的な治療にとりかかる。
これが西洋医学的なものの考え方であり、治療法である。

 つまり診断基準を設けるということは、すでにその時点において、西洋医学的な視点で
子どもを見ているということになる。
「この子どもは、ADHD児である」と。
一見科学的(?)だが、しかし重要な視点を見落としている。
「相手は、人間である」。

 しかし40年前の当時には、そんな診断名すら、なかった。
またなくても、困らなかった。
私はやがて、・・・といっても、それを知るまでに、10年以上もかかったが、こう考えるよ
うになった。
「時を待てば、自然に解決する」と。
脳の器質的障害(=機質的障害)は別として、AD・HDのような機能的障害については、
子ども自身に自己治癒能力が備わっている。
年齢とともに、脳の機能が、自らを正常化していく。

 その結果というわけではないが、それ以後の研究によれば、あのモーツアルトも、エジ
ソンも、そしてチャーチルも、AD・HD児だったと言われている。
さらに最近では、あのアインシュタインも、そうであったと、言われ始めている。

 もちまえのバイタリィテイが、ある年齢以上になると、よい方向に作用し始める。

●複雑化

 が、2000年以後、診断基準が確立されると、「リタリン」という薬がこの日本でも使
用されるようになった。
私は、即、その薬についての文献を、アメリカでさがした。
が、驚いたことにすでにそのとき(2000年ごろ)、リタリンの副作用や弊害が指摘され
ていた。
そのことは、私のHPにそのまま翻訳し、収録した。
(現在でも、その当時の文献は、そのままHPに残っている。)
が、それから数年の間、リタリンは、ADHD児の特効薬として、ごくふつうに、学校内
部でも使用された。
昼休みの時間などに、保険の教師が、子どもに投与しているのを、私は何度も見かけたこ
とがある。

 が、子どものばあい、とくに幼児のばあい、脳の機能(=脳間伝達物質)をいじる薬物
治療については、慎重であったほうがよい。
脳には、フィードバック機能というのがある。
ある特定の脳間伝達物質を服用すると、脳自体が本来もつ機能を停止してしまう。
これがかえって症状を、悪化させてしまう。

 それが理由だと思うが、現在、リタリンの使用は、AD・HD児に関しては、使用がき
びしく制限されている。

●幼児性

 つまり私はADHD児という言葉がポピュラーになる前、すでに30年近い経験を積ん
でいたことになる。
(こんなことを自慢しても、何にもならないが・・・。)
そこへ降ってわいたように、AD・HD児という言葉が出てきた。
治療法(?)も、出てきた。
学校によっては、診断基準に応じて、特別学級が用意されるようになった。

 たしかにAD・HD児は、「指導困難児」である。
それは事実。
教育の場である「教室の秩序」を、容赦なく破壊してしまう。
が、幼児期から児童期にかけ、症状さえこじらさなければ、先にも書いたように、症状は
やがて落ち着いてくる。
が、こじらせば、話は別。

 薬物療法を受けた子どもや、はげしい指導(強圧的、威圧的な指導)を受けた子どもは、
AD・HDの症状のほか、複合的な症状をあわせもつようになる。
当然のことながら、その分だけ、「立ち直り」が遅れる。
顕著な症状としては、人格の核(コア)形成の遅れがあげられる。
その年齢(学年)なのに、その年齢(学年)に比して、著しく幼い印象を与える。
小学6年生なのに、小学3~4年生のように見えるなど。

 だから指導のポイントは、つぎのようになる。
「症状をこじらせないよう、あとは時期を待つ」。

●自然治癒力

 話を戻す。

 そこにAD・HD児がいたとしても、それはそれ。
まずその子どもが、そういう子どもであることを認める。
診断名がついていたとしても、教育の場では、不問。
わかっていても、知らぬフリをし、指導を開始する。

 指導が「困難」といっても、「不可能」ではない。
それにワクに入らないからといって、「問題児」と決めつけてはいけない。
(日本人は、古来より、「型」を重要視する。
ワクからはみ出る子どもを、嫌う。
しかしこれこそ、悪しき「本山教育」の弊害。)

 ポイントは、先にも書いたように、症状をこじらせることがないよう、時期を待つ。
つまりここで「引き出す」という言葉が生きてくる。
仮にAD・HD児であっても、子ども自身がもつ、自然治癒力や自然平衡能力、そういっ
た力が自然に機能するまで、待つ。

 平たく言えば、脳の機能も、年齢とともに成長する。

●終わりに

 要するに(引き出す)ということ。
つまりこと教育に関して言うなら、(診断)→(治療)という、西洋医学的な視点は、参考
にはなっても、本題であってはならない。
なぜなら、どんな子どもでも、1人の人間であり、現にそこにいるからである。
相手がどんな子どもであっても、そこにいる子どもを認め、その上で、指導を組み立てて
いく。

 教育者の考えるワクに入らないからといって、その子どもを問題視するほうが、まちが
っている。
いわんや「型」に押し込めようとするのは、まちがっている。
もし教師がやるべきことがあるとするなら、その子どもがもつ、自然治癒力を引き出すと
いうことになる。

……という意味で、今一度、「educe(引き出す)」の意味を考えてみた。
その一例として、AD・HD児について、考えてみた。

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