2011年12月29日木曜日

●Dec. 28th 2011

【冬休み】(今年は、遊ぼう!)

●第1日目

 昨日、岐阜県関市板取村にある、「山の宿・ひおき」に電話を入れた。
コテジ風の民宿である。
宿泊を申し込もうとしたが、「冬の間は、やっていません」とのこと。
つまり休業中。
残念!

 しかたがないので(失礼!)、今朝、浜名湖かんざんじ荘に電話を入れた。
「本日なら、部屋が取れます」と。
ラッキー!
……ということで、冬休み初日は、かんざんじ荘の温泉(温泉だぞ!)で、1泊。
1年のアカ落としを、そこですることにした。

●年賀状

 本日(28日)、年賀状を発送。
元旦に着くことを願いながら、本局まで行って、投函した。

 途中、DVDショップに立ち寄った。
ワイフは旅館ではいつも、DVDを観る。
そのDVDを借りた。

 ついでに郵便局の帰りに、行きつけのざるそば屋で、ざるそばを食べた。
そのとき私はこう宣言した。
「今年の冬休みは、遊んで、遊んで、遊びまくるぞ」と。

●ベトナム

 オーストラリアの友人は、今、ベトナムにいる。
オーストラリアを出発する前、そんな連絡が入った。
「ベトナムかあ……いいなあ」と。

あの国の人たちは、ヒマさえあれば、外国へ出かける。
距離に対する感覚が、日本人のそれとは、まったくちがう。
500キロ、1000キロなど、彼らにしてみれば、隣町。
加えて移民国家。
「外国」という言葉についても、私たちとはちがった概念をもっている。

●舘山寺に向かう

 舘山寺に向かう前、沼津のH会館(ホテル)に電話した。
正月X日の講演のあと、沼津の温泉に一泊する。
あれこれ迷ったあと、H会館にした。

ネットで予約できないからといって、あきらめてはいけない。
電話で直接交渉すると、繁忙期でも部屋が取れるときがある。
H会館にしても、そうだ。
ネットでは、「満室」となっていた。
「念のため……」と思って電話をすると、「空いています」と。

 ラッキー!

 X日は、そのH会館に一泊することにした。

●小食派
 
 若いころは、温泉に泊まるなどということは、考えもしなかった。
どこか老人臭い。
「温泉というのは、老人が泊まるもの」と。
(たしかにそうだが……。)
そう思っていた。
が、今はちがう。
どこへ行っても、まず温泉地をさがす。
そこで一泊する。

 料理には、あまりこだわらない。
そこそこのものであればよい。
ワイフも私も、小食派。

 ところで「小食」と書くのが正しいのか、それとも「少食」と書くのが正しいのか。
が、こういうときは、その反対を考えてみると、わかる。
「大食」とは言うが、「多食」とは言わない。
だから「小食」が正しいということになる。
理屈の上では……。

●講演

 講演をするようになってから、もう20年になる。
当初は近くの小学校や幼稚園でさせてもらった。
もちろん私のほうから頼んで講演をさせてもらったことは、一度もない。
講演というのは、そういうもの。

 ただ政治家とちがい、講演したからといって、メリットはまったくない。
講演には、(そのつぎ……)がない。
いつも話しっぱなしで、終わる。
名誉にはなるが、数週間もすれば、私の話したことなど、人々の記憶からも消えてしまうだろう。

 が、楽しいことも多い。

●講演旅行

 何が楽しいかといって、そのまま旅行ができること。
その地域の名物が食べられること。
それもあって、講演の依頼があると、すぐその地域の温泉や名物を調べる。

 最近では私たちよりワイフのほうが、楽しみにしている。
「今度、○○で講演だよ」と報告すると、「じゃあ、○○温泉ね」と。
のんきな性格で、私の苦労など、ぜんぜんわかっていない。
講演といっても、かなり神経を使う。
緊張する。
講演のあと数時間は、食欲そのものが失(う)せる。

 実際には、講演のある日は、朝から食事を抜く。
胃の中をからっぽにしておかないと、脳みその活動そのものが鈍る。
それに体調。

大きな講演会があるときは、その1週間ほど前から、運動量をふやす。
また当日にしても、どんなに近くても私は電車を利用する。
車だと、渋滞に巻き込まれたりする。
まだある。
約束の電車より、いつも1つ前の電車で現地へ着くようにする。
この仕事には、遅刻は許されない。

 「旅行」と浮かれることができるのは、講演が終わってから。
が、そうでないときもある。
講演のできが悪かったりすると、そのあとガクンと気分が落ち込む。
そうなると旅行気分など、どこかへ吹き飛んでしまう。

●湖上百景・浜名湖かんざんじ荘にて

 かんざんじ荘には、午後4時ごろついた。
軽い悪寒を覚えたので、そのまま温泉に。
温泉には、私、ひとりだけだった。
のんびりできた。
ほぼ夕暮れ時だったが、直線的な白い陽光が、ガラス窓を通して顔に当たった。

 部屋に戻ると、ベランダの椅子に座り、あれこれ考えた。
遠くには、山荘のある山々も見える。
が、この安心感は、どこから来るのか?
……?

 最近、気がついたことがある。
ときどき海ぎわの旅館やホテルに泊まることがある。
そのときのこと。
どうも落ち着かない。
このあたりでも3・11震災並みの大地震が起こるかもしれないという。
もし起これば、同じような津波が海岸地域を襲うはず。
海ぎわの旅館やホテルなど、ひとたまりもない。
それが私を不安にさせる。

 が、このホテルは、山の上。
津波の心配は、まったくない。
それが安心感につながっている。
たぶん……。

●特異現象

 金正日が死んだ日、北朝鮮ではいろいろな特異現象が観察されたという。
たとえば……。

『……冬空に稲妻が走り、タンチョウヅルはこうべを垂れた……。北朝鮮メディアは金正日総書記の死去発表後、特異な自然現象の発生を死去と関連付け相次いで報じている』(ロイター)と。

朝鮮中央通信という公的機関(?)が、そういうことを報道するから楽しい。
いわく『同通信はまた、東部の咸興市に建てられた金日成主席の銅像に20日夜、タンチョウヅルが飛来し、銅像の上を3回、回って木に止まった後、長時間こうべを垂れていたとも伝えた。
目撃者は「ツルも弔意を表したようだ」と話したという』(共同通信)と。

 が、こういう記事を読んで、笑ってはいけない。
この程度の記事なら、カルト教団の機関紙には、いつも載っている。
言い換えると、北朝鮮という国家そのものが、カルト化しているということ。
わかりやすく言えば、「宗教国家」。
核兵器を本尊とする、宗教国家。
またそういう前提で考えないと、あの国を真に理解することはできない。

 だからいくらアメリカや韓国が、がんばっても、北朝鮮は核兵器を放棄などしない。
いくら餓死者が出ても、それはそれ。
カルト教団では、理屈はご法度(はっと)。
理屈で考えたら、教団そのものが崩壊してしまう。
北朝鮮にしてもそうだ。

どうしてタンチョウヅルなのか?
タカやワシでは、だめなのか?
あの種の鳥はどれも、クチバシが長いから、休むときは、みな頭(こうべ)を垂れる。
が、こうして理屈で考えたら、体制そのものが崩壊してしまう。

 もし私が今、北朝鮮に住んでいたら……。
あっという間に、公開処刑!
それを考えると、ゾッとする。

●心の汗?

 肉親や親類の死を知り、ほとんどの人は、その死を悲しむ。
しかし(悲しむ)ことと、(泣く)という行為の間には、大きな距離がある。
個人差もある。
さらに(泣く)といっても、(密かに泣く)という行為と、(公然と泣く)という行為の間には、大きな距離がある。
個人差もある。

 一般論から言えば、人は泣くことによって、抑圧された感情を発散する。
わかりやすく言えば、泣くことによって悲しみを軽減することができる。
が、それにも臨界点がある。

 悲しみもその臨界点を超えると、泣いたくらいでは癒せなくなる。
そのため悲しみを、さらに倍加させてしまう。
このことは泣く子どもを観察してみると、わかる。

 たとえばピアノのレッスンなら、ピアノのレッスンでよい。
そのとき子どもによっては、その前になると、決まってぐずったりする。
が、このばあいの涙は、心の汗のようなもの。
ぐずることによって、心にかかった負担(=ストレス)を発散する。
だからある程度それがすむと、ケロッとし、ピアノのレッスンを始めたりする。

 だから親にはこう教える。
「子どもがぐずるときは、温かく無視し、ぐずりたいだけぐずらせてあげなさい」と。

 こういうケースのばあい、けっして無理をしてはいけない。
叱ったり、強制してはいけない。
が、それでもぐずるようであれば、本人の処理能力を超えたと判断する。
ピアノのレッスンを控える。

 金正日の葬儀の場で、ワーワーと泣く北朝鮮市民の姿をネットで見ながら、そんなことを考えた。
みなの見ているところで、おおげさに泣いて見せる。
ふつうの常識のある人なら、そんなことはしない。
たとえ本当に悲しくても、そんなことはしない。

感情をむき出しにするというのは、怒りであれ、恨みであれ、それだけその人の人格の完成度が低いことを示す。
もちろん大げさに泣くのも、そのひとつ。

●男が男湯で盗撮?

 さらに驚いた事件が、これ。

『……京都教育大学の職員の男が、東京・調布市にある温泉施設の男湯の脱衣所に、盗撮目的で侵入したとして、警視庁に現行犯逮捕されていたことがわかりました』(TBSi-。ニュース)と。

 男が男の脱衣所に侵入し、カメラで男の裸を撮ろうとした、と。
「京都教育大学の職員」という部分は、愛嬌。
私はこの記事を読んだ直後、「何かのまちがいではないか」と思った。
が、何度読んでも「男湯」。

 どうして?
そんなに見たかったら、湯船にでもつかり、ゆっくりと見ればよい。
どうして盗撮なのか?
性癖ほど、摩訶不思議なものはない。
それはよくわかっているが、この事件は、私の常識をはるかに超えている。

私「妻のために、夫が盗撮してやったのだろうか」
ワ「女性は、そんなこと、望まないわよ」
私「わからないよ。中には男の裸を見たいと、夫にねだる妻だっているかもしれないよ」
ワ「いないわよ……」
私「そう、決めつけてはいけないよ」と。

 以前、記憶にある事件には、こんなのがあった。

 男児や少年の裸を盗撮し、それを児童ポルノとして販売していた男がいた。
そういうケースも考えられなくはない。
が、この記事からだけでは、よくわからない。
何か、裏がありそう。

●男心vs女心

 ここでクェスチョン。

 男が女湯に入ってみたいというのは、よくわかる。
男は視覚的に、女性の中に、「女」を感ずる。
が、女はどうか?

 ワイフの説によれば、女にはそれがないという。
ならば聞くが、どうして女は、男に体を見られるのをいやがるのか。
「見たい」と思う男。
しかし女は、「見られたくない」と。
私は「見られても減るものではないから、もっと見せてくれてもいい」と思う。
が、現実には、そうでない。

 なぜか?
男に、「見たい」という本能があるとするなら、女には「見られたくない」という本能があるということになる。
が、これはおかしい。
「見られたくない」と言いつつ、女は無意識のうちにも、肌を露出し、男心を誘っている。
誘っておきながら、「見られたくない」とは?
そういう矛盾を、どう理解したらよいのか。

●夕食

 浜名湖かんざんじ荘の夕食は、すばらしい。
今回も、もっともスタンダードなコースを頼んだ。
が、それでも大満足。
景観、料理ともに、これで文句を言う人はいない。
ただ部屋だけは、旧国民宿舎ということもあり、狭い。
8畳+2畳ほどのベランダ。
内湯はなし。
部屋食もなし。

 が、こういうところでは、どうしても食べ過ぎてしまう。
「食べたら、損(そこ)ねる」。
それがわかっていても、食べ過ぎてしまう。

 部屋へ戻ってから、しばし後悔の念で、心が塞ぐ。

●DVD『ロシアン・ルーレット』

 ワイフは、『ロシアン・ルーレット』というDVDを観ている。
発想からして、バカげている。
意味のない殺人映画。
こんなシーンが目に留まった。

 10数人の男が、円になってぐるりと並ぶ。
それぞれがその前の人の後頭部に、ピストルの銃口を向ける。
ピストルには、弾が、1発ずつこめられている。
合図と同時に、ピストルの引き金を引く。
(ピストルは、リボルバー式。
弾が1発のときは、弾が発射される確率は、6分の1となる。)

 ……こうしてそのつど、何割かの男たちが床に倒れていく。
それを見ながら、別の男たちが、だれが生き残るか、お金を賭ける。

 問題は、その合図。
DVDの中では、天井につりさげられた電球が灯ったとき、みながピストルを撃つ。
そのときのこと。
合図の電球が灯ったら、すかさず、すぐ引き金を引いたほうが得なのか。
それとも遅れ気味で引き金を引いたほうが、得なのか。

(1対1のとき)……すぐ撃ったほうが、得。
(3人のとき)……すぐ撃てば、自分の前の男がピストルを撃つ確率は低くなる。
つまり自分を撃つ男の生き残る確率は高くなる。
その分だけ、自分が撃たれる確率は、高くなる。

が、反対に、遅れ気味で撃てば、自分の前の男がピストルを撃つ確率は高くなる。
つまり自分を撃つ男の死ぬ確率は高くなる。
その分だけ、自分が撃たれる確率は、低くなる。

 だから3人のときは、遅れ気味に引き金を引いたほうがよい。
敵の敵は味方。
そう考えると、わかりやすい。

(4人以上のとき)……どちらが得なのだろう?
合図と同時にすかさず引き金を引いたほうが得なのか。
それとも遅れ気味に引き金を引いたほうが得なのか。

 そんなことをぼんやりと考えていたら、眠くなってきた。

●鈴木M氏

 あの鈴木M氏が、仮釈放により出所してきた。
その鈴木M氏が、すかさず始めた運動が、新党結成。
届け出た名前が、ウサン臭い。
「真民主党」。

 その政党がそうというわけではない。
が、人は、自分の醜い意図を隠すため、えてして逆の名前をつけたがる。
「真」という文字も、そのひとつ。
何をもって、「真」というのか?

それに私の記憶にまちがいがなければ、鈴木M氏は、今後5年間は選挙に出られないはず。
法の趣旨からすれば、5年後であれ、今は選挙活動を自粛するのが常識。
が、ことあの鈴木M氏に関していえば、そういった常識が通じない。……らしい。

 受託収賄罪についても、当初から無罪を主張。
最高裁まで争った経緯がある。
その話は別として、私はあの鈴木M氏を見るたびに、こう思う。
「この男を動かしているエネルギーは、いったい、何なのか。どこから生まれるのか」と。

 ふつうのエネルギーではない。
すさまじいばかりのエネルギーである。
私には権力欲に狂った、ただの亡者にしか見えないのだが、亡者なら亡者でもよい。
どこからそういったエネルギーが生まれるのか。

 「日本をよくしたい」と、鈴木M氏は、本気でそう考えているのかもしれない。
それにしても、すさまじいばかりのエネルギーである。
が、フロイト風に考えるなら、リビドー(性的エネルギー)が強い分だけ、サナトス(破滅的エネルギー)も強いはず。
今はまだよくわからないが、「日本をよくしたい」という思いよりは、「日本をメチャメチャにしたい」という思いのほうが強いのではないのか。
鈴木M氏の今までの言動を追ってみると、私には、そう見える。

 あのタイプの政治家の出現には、じゅうぶん注意したらよい。

●深夜

 午後10時ごろ、2回目の入浴をした。
部屋に帰ると、そのまま就寝。
だから10時半ごろ、就寝したことになる。
が、夜中に夢を見た。
……というか、のどの渇きを覚え、目が覚めた。

●リクラゼーション・ルーム

 温泉の右隣に、リクラゼーション・ルームという部屋がある。
夜中に3時に、パソコンをもち、その部屋に移動した。
その部屋でなら、思う存分、パソコンを叩ける。
そう考えた。

入り口の前には、自動販売機があった。
私は2本のペットボトルを買った。

 ルームの中には、2台のマッサージ機と、いくつかのソファ。
本棚と本箱があった。
本棚には、マンガ本がずらりと並んでいた。
本箱には、「司馬遼太郎・街道をゆく」という写真雑誌が、5冊並んでいた。

●「街道をゆく」

 3本目のペットボトルを買うため、立った。
そのついでに、「街道をゆく」を、何冊かパラパラとめくって読んでみた。
一読して、「すごい旅行記だなア」と思った。
思ったが、その中の1ページに、立松和平のコラムが載っていた。
とたん、読みたいという気持ちが、スーッと萎えてしまった。

 立松和平……1度、盗作事件が発覚してからというもの、彼の文章を読みたいとは思わなくなってしまった。
が、2度目があった。
そのとき立松和平は、テレビ画面に向かって、こう言って泣きじゃくっていた。
「許してもらえましたア」と。

 盗作した相手に許してもらえた、と。

 が、この問題は、許すとか、許されるとかいうレベルの問題ではない。
私はいつも逆の立場で考える。
こんな事件があった。

●盗作事件

 ちょうど1年ほど前のこと。
ネットで私の文章を検索していたら、私の書いた原稿がそのまま載っているサイトを見つけた。
1ページや2ページではない。
全体で、10ページ前後。
N県の県警本部が管理するサイトであった。
(N県の県警本部という、県警本部が管理するサイトだぞ!)

 私の文章が3~5段に分割され、前後を入れ替えた状態で、そこに掲載されていた。
しかも丁寧に、いちばん下に、「無断転載禁止」と。
私は即座に、そのN県の県警本部に電話を入れた。
が、電話に出た相手は、逆ギレ。
「証拠があるのか!」というようなことまで言った。

 そこで私は私が書いた文章と、そのサイトに載っている文章を、電話口で読み比べてみせた。
1時間半ほど、かかった。
結果、相手はそれを認め、一転、「浜松まで謝罪に行く」と言い出した。

 力のある者が、力のない者を利用する。
有名人が無名人を、利用する。
私は、それが許せなかった。
つまり立松和平がした行為は、まさにそれに当たる。

 もの書きの世界では、一事が万事。
万事が一事。
立松和平は、日常的に盗作をつづけていた。
そう疑われても、しかたない。
そういうことが平気でできる(作家)というのは、そうはいない。

一般の世界では、「ちょっと他人の文章を拝借して……」ということもあるかもしれない。
しかし(ものを書く人間)には、それはない。
それをしたら、おしまい。

 こんな私でも、……つまりまったく無名で、しがないもの書きの私でも、「盗作」だけはしない。
したら、おしまい。
ものを書く人間には、ものを書く人間の(魂)というものがある。
文に対する、思い入れそのものが、ちがう。

立松和平は、そんなもの書きの心を、自ら土足で踏みにじった。
立松和平はそれでよいとしても、その悲しみ、怒りは、盗作されたものでないとわからない。
「許してもらえましたア」と、泣きじゃくって喜ぶようなレベルの話ではない。

 それにもう一言、付け足すと、こうなる。

 「盗作」などというのは、偶然の、そのまた偶然が重ならないと、発覚しない。
N県の県警本部のサイトにしても、それが見つかったのは、偶然中の偶然だった。
相手がサイトにUPしていたからこそ、わかっただけで、ふつうなら、わからない。

●仮面

 人はだれしも、仮面をかぶっている。
私もかぶっているし、あなたもかぶっている。
仮面が悪いというのではない。
仮面をかぶるからこそ、円滑な人間関係が維持できる。
わかりやすいのは、ショッピングセンターの女子店員。
にこやかな顔をし、やさしい声で、こう言う。
「いらっしゃいませ」と。

 が、そういう女子店員を見て、人間的にすぐれた人と思ってはいけない。
(だれもそうは思わないが……。)
女子店員は、「店員」という仮面をかぶっているだけ。
そういう仮面をかぶりながら、私たちをよい気分にさせる。
それを利用し、私たちから、金(マネー)を、むしり取る。
(と、まあ、そこまで考える必要はないが……。)

 が、中には、仮面をかぶったまま、仮面をかぶっていることを、忘れてしまう人がいる。
仮面の自分を、本物の自分と思い込んでしまう。
「聖職者」と呼ばれる人たちに、このタイプの人が多い。

 そこで大切なことは、私たち自身も、その仮面を見抜く力を養うこと。
仮面にだまされては、いけない。
さらに言えば、仮面の向こうにある、本物の相手を見抜くこと。

 このことは子どもを教えてみると、よくわかる。
たとえば中に、従順で、私の指示にそのまま従う子どもがいる。
が、そういう子どもほど、心配。
いろいろな問題を引き起こす。
教えにくい。

 反対に、そのつど反発する子どもがいる。
プリントを渡したりすると、「また、プリント! いやだ!」と。
このタイプの子どもは、一見生意気で、教えにくい。
が、その実、心がつかみやすい。
教えやすい。

●得体の知れない人

 私の年齢になると、人間関係を総括することが多くなる。
が、それはむずかしい作業ではない。
心の中の印象をさぐってみればよい。

 そのとき、ふと温かい印象が返ってくる人もいれば、そうでない人もいる。
中には、20年とか30年もつきあっているはずなのに、得体の知れない人もいる。
いろいろ思い出してみるのだが、その人の(形)が浮かび上がってこない。
上辺(うわべ)では、よい人ぶっている。
しかしその実、心の中は、ねたみと怒り、恨みと不平不満だらけ。

 こんな人もいた。

●辛辣(しんらつ)な書き込み

 こうして文や動画を公表していると、ときどき、辛辣な批判が届く。
が、そんなことをいちいち気にしていたら、文や動画など、公表できない。
しかしその批判は、群を抜いていた。
原文のまま、ここに紹介する。

「このおっさんなんですか、全然わかってない。
本人にしかわかんないこともあるんだよ。
このおっさん何でたらめばかり言ってんだ。
ちゃんと勉強してから出直せば・・・・ って言いたいです。
とにかくでたらめ。
やってる子供は気持ちいいって何・・ xx症の娘を持つ母親ですが、この人、何者。
ドーパミン説は知っていますが、なぜ、ドーパミンが過剰分泌されるか(その反対でもよい)、そこに家庭に原因があると解いています。
今は家庭環境のせいではなく、ドーパミンの過剰発生が原因とされているようです。
親の教育が悪いというのは偏見だそうです。
偏見を助長するだけだよ。
娘は辛くて泣きそうなんだよ 浜松のおっさんへ!
育児論で障害を語るなよ」と。

 反論は別の機会にすることにして、私はこの女性に興味をもった。
そこでいろいろなチャンネルを使って、この女性を追跡してみた。

 まずハンドルネームを検索。
そこからその女性が発行している、別のBLOGをヒット。
さらにそこで使っている、別のハンドルネーム(MR)を検索。
最終的に、九州のK県に住んでいる、45歳の女性ということがわかった。
本名もわかった(TM)。
しかもその女性は、1冊だが、育児書を出版していることまで、わかった(「~~日記」)。

「ちゃんと勉強してから出直せば・・・・」という言葉も、そのあたりの(自信?)から出てきたらしい。

 「○○症」という神経症の多くが、家庭環境に原因があると書いたのが、よほど強く癇(かん)に障(さわ)ったらしい。

が、現在では、子どもの問題は、家族の問題と考えるのが常識。
子どもは家族の「代表」にすぎない。
私がそう言っているのではない。
医療機関でも、子どもに何かの問題があると家族全員を集め、家族全員を指導する。
2000年ごろから、そういう傾向がたいへん強くなった。

 それはともかくも驚いたのは、その女性が別のBLOGなどでは、まさにレディ然とした文章を書いていること。
どちらが仮面で、どちらが本物かなどということは、論ずるまでもない。
私はその(落差)に驚いた。

●仮面は仮面

 話を戻す。

 仮面は仮面。
仮面はかぶらないほうがよい。
かぶっても、それが仮面であることを、いつも自覚する。
また相手を見るときも、そうだ。
仮面の向こうにどんな顔があるかを、知る。

 こうした操作を忘れると、人間関係がメチャメチャになってしまう。
みながみな、悪人というわけではない。
しかし同時に、みながみな、善人というわけでもない。

●第2日目

 冬休み、第2日目になった。
12月29日、木曜日。
部屋のカーテンを開けると、真っ青な空が一面に飛び込んできた。
朝食まで、あと15分。
現在時刻は、午前7時15分。
そろそろ帰り支度をしなければならない。

 ……ということで、浜名湖かんざんじ荘とも、そろそろお別れ。

 では、みなさん、おはようございます!
(はやし浩司 2011-12-29朝記)


Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司

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