2011年12月30日金曜日

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●冬休み、3日目(映画『ニュー・イヤーズ・イブ』 (New Year's Eve)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

昨日、『ニュー・イヤーズ・イブ』という映画を観てきた。
一言で表現すれば、ゴチャゴチャ映画。
8組の人々が新年に向け、それぞれの思いをもって、動き出す。
……という内容の映画。

最初の90%は、観るに耐えない映画。
何度も席を立って帰ろうかと思った。
ボン・ジョビや、ロバート・デニーロなど、スターは
豪華だが、駄作は駄作。
アメリカ人の軽薄さを、そのまま凝縮したような映画。
恋愛主義、セックス主義……。
星など、つけようもない。

おまけに8組の人々が、同時進行で描かれているため、
場面ごとに頭を切り換えるだけでも、たいへん。
何がなんだか、さっぱり訳が分からない。……分からなかった。
料理にたとえるなら、ラーメンと寿司、スパゲッティと
ドーナツ、(←これで4組)、カツ丼と焼き肉、シャブシャブと
豆腐料理、その8組を同時にテーブルに並べたような映画。

最後の10%は、ほどほどのできだったが、それまでがまん
できる人は、少ない。
劇場だったから最後まで観たが、家庭では無理。
家庭だったら、私なら最初の10分で、DVDをパッケージに
しまっていただろう。

頭の中がゴチャゴチャになる苦痛がどういうものか、
それを知りたい人には、最適の映画。
がまんして、椅子に座っている苦痛がどういうものか、
それを知りたい人には、最適の映画。

私はその『ニュー・イヤーズ・イブ』を観ながら、改めて
こう実感した。

「日本は、完全にアメリカ文化にノックアウトされている!」と。
先に書いた恋愛主義もそのひとつ。
「恋愛がすべて」というものの考え方を、恋愛主義、あるいは恋愛
至上主義という。
(私がそういう名前をつけた)。

プラス、セックス主義……といっても、節度のないフリーセックスだが、
日本もそのセックス主義に毒されてしまった。
恋愛とセックス……それがすべて!

私はそのつど、頭の中で、昔の日本と対比させた。
(昔の日本が、かならずしもよいわけではないが……。)
「昔の日本は、こうだったのだがなあ……」と。

『ニュー・イヤーズ・イブ』の中に描かれている世界は、
そっくりそのまま、日本の現代の若い世代の世界ということになる。
享楽主義と快楽追求主義。
親には無私の愛を求めながら、自分たちは勝手し放題。
酒とセックスと金(マネー)。

人間が本来もっているはずの(まじめさ)が、どこにもない。

で、ああいう映画を無批判に観てはいけない。
気がついたつきには、そのままアメリカの低俗文化に、毒されてしまう。
(現代が、そうだが……。)
そのまま恋愛主義、金権主義、ゆがんだ家族主義、さらには
享楽主義、快楽追求主義に、洗脳されてしまう。

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●浜松の言葉

 前にも書いたが、浜松には浜松の、独特の言い方がある。
たとえば、ほかの地方で、「本当ですか?」と言うとき、浜松では、「ウッソー!」と言う。

 浜松の人たちは、ごく日常的にこの言葉を使う。
が、私はそうでなかった。
はじめて浜松へ来たときには、この言葉には心底、面食らった。
「ウソとは何だ!」「失礼ではないか!」と。
本気で、けんか腰になったこともある。

 ほかに、たとえば、「まだ、(あの仕事を)やってるのノ~?」という言葉がある。
「ノ~?」という部分で、尻上がりになる。
「まだ、あの仕事をつづけているのですか?」という意味で、相手に、そう言う。

が、この言葉は、ときとばあいによっては、相手を激怒させる。
浜松に住んで40年以上になるが、今でも、頭にカチンと来る。……ときがある。
たとえば昔の知り合いに、久しぶりに会ったとする。
そのとき、相手が、こう言う。

「まだ、(あの仕事を)やってるのノ~?」と。

 聞き方によっては、「まだ、(あんなつまらない仕事)、つづけているの?」とも取れる。
「いいかげんに、やめたら」とか、「くだらない仕事してるね」とか、そんなふうにも取れる。
だからカチンとくる。

 ほかにもある。

 浜松の人は、相手の行為を傍から見ながら、よくこう言う。

たとえば自転車に乗ろうとすると、それを傍から見ながら、こう言う。
「自転車に乗るのオ~?」と。
とたん、「見ればわかるだろ!」と言い返したくなる。
わかりきったことを、いちいち確認してくる。

 これも聞き方によっては、馬鹿にされたように感ずる。
「今どき、自転車で通勤するなんて!」とも取れる。
「恥ずかしくない?」とも取れる。

 全体としてみると、浜松の言葉は、ぶっきらぼう。
感情をそのままぶつけてくる。
そのため、奥ゆかしさがない。
浜松が、「街道沿いの宿場町」と言われる所以(ゆえん)は、こんなところにもある。

●恋愛主義

 映画『ニュー・イヤーズ・イブ』の話に戻る。

 先に「恋愛主義(恋愛至上主義)」について、書いた。
「恋愛こそ、すべて」と考え、行動の原点にするのが、恋愛主義。
ほかにも出世主義、金権主義、家族主義などがある。

『ニュー・イヤーズ・イブ』に出てくる、8つの組のうち、7組までが、恋愛がらみ。
残り1組だけが、死にいく父親(ロバート・デニーロ)と娘の関係。 
それぞれがそれぞれの立場で、恋愛を成就していく。
が、どうしてそれが「奇跡」(映画案内)なのか。
 
 もちろん私は恋愛を否定する者ではない。
しかしそれにも、限度というものがある。
人間は恋愛のためだけに、生きているのではない。
いわんやセックスのためだけに、生きているのではない。
それぞれがそれぞれの目的や使命をもって、生きている。
が、こうしたアメリカ映画ばかり観ていると、それがわからなくなる。
そこらのイヌやネコと同じことをしながら、それが最高にすばらしいことと錯覚してしまう。

●お涙ちょうだい

 ロバート・デニーロ演ずる父親は、最後に娘と再会し、そのまま息を引き取る。
そのあとのこと。
娘が父親の遺品をみると、そこに自分の子ども時代の写真があることを知る。
娘は、じっとその写真に見入る……。

 おなじみの(お涙ちょうだいシーン)である。
が、現実は、きびしい。

 昨年、こんな話を聞いた。
この話も前に書いたことがあるが、こんな話。

 父親が臨終を迎えた。
そこで娘が、遠くにいる弟に連絡をした。
弟、つまりその父親の息子からは、15年来、音信がなかった。

 息子が病院へかけつけると、それを制したのは、母親だった。
母親はその息子に、こう言った。
「今ごろ、何をしに来たの!」と。
息子は病院の玄関先で、追い返されてしまった。

●幻想

 こういう話を聞くと、若い人ならこう思うにちがいない。
「何てひどい母親なんだ!」と。
が、本当にそうだろうか。
そう思ってよいのだろうか。

 その母親というのは、ワイフの遠い親類にあたる女性だが、ワイフにはこう言った。
「夫(息子の父親)からは、万が一、息子が会いに来ても、部屋へ通すなと言われていましたから」と。

 それぞれの家庭には、それぞれの家庭の、複雑な事情というものがある。
その事情を無視し、第三者が短絡的に判断をくだしてはいけない。
その父親と母親にしても、息子が去ったさびしさを、15年間も堪え忍んだ。
15年間だぞ!
それは想像を絶する苦しみだったにちがいない。
そのため、夫婦関係がおかしくなったこともあるという。
そういう困難を何とか、夫婦で力を合わせ、乗り越えた。
その結果の、15年間である。

 息子は、「親だから……」という幻想でもって、親をみるかもしれない。
「親だから、子どもに深い愛があるはず」と。
しかし親とて、1人の人間。
神や仏ではない。
息子のほうは、神や仏のような愛や慈悲を期待するかもしれない。
が、それは先にもかいたように、「幻想」。

 映画『ニュー・イヤーズ・イブ』の中では、父親と娘が最後の瞬間、抱き合って、(許し合う)。
感動的なシーン(?)のはずだったが、私は感動しなかった。
私なら、こう思っただろう。
「このまま、そっと死なせてくれ」と。

 先に書いた父親と母親だが、ワイフが聞いたところによると、息子を忘れるため、アルバムさえ、すべて燃やしてしまったという。
私はこちらのほうが(現実)だと思う。
恋愛主義、セックス主義の若い人たちには、それが理解できないかもしれないが……。

 もちろんその逆もある。

●山城新吾

 少し前、俳優の山城新吾氏が亡くなった。
生前、山城新吾は、娘にだけは会いたがっていた。
が、娘は、それをがんとして拒否した。

 そのころ、つまり山城新吾氏が亡くなったころ書いた原稿に、こんなのがある。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「やさしさがないなとは思う」とは?

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俳優の山城新伍が亡くなったことについて、
波紋が広がりつつある。
山城新伍のマネージャー氏は、次のように
語っている(ディリースポーツ・8月15日)。

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『……山城さんは糖尿病に加え、認知症と高血圧を患っていたという。

 07年7月ごろより、都内を徘徊することが多くなり、昨年3月31日に東京・町田市内の老人ホームに入所。
その際に町田市役所が元妻で女優の花園ひろみと一人娘で女優の南夕花に連絡したが、花園は「静かに暮らしていたのに」と連絡にさえ激怒。
山城さんサイドの家族に、電話で怒鳴り散らしたという。

 その後、山城のマネジャーが花園らに連絡を取ったが、ついには音信不通になってしまったという。
S雄さんは「優しさがないなとは思う。わたしから連絡を取ることもない」と肩を落とした。

 生前、山城さんは「引退した者やから何もしなくていい。
このままひっそりとしてほしい。
人と接したくない」と老人ホームを終(つい)の棲家に考えていたというが、「娘には会いたいなあ」とよくこぼしていたが、その願いはかなわなかった。

 なお密葬は近親者のみで18日に京都で行われ、四十九日法要後、大親友の梅宮辰夫が発起人となり都内で「お別れ会」を開く予定。骨は京都市内に、自身が建てた2カ所のお墓に分骨される……』と。

 この中でとくに気になったのは、『S雄さんは「優しさがないなとは思う。
わたしから連絡を取ることもない」と肩を落とした』という部分。
「S雄氏」というのは、山城新伍の弟氏をいう。

 何があったのか?
私たち部外者の知るところではないが、この記事からも、よほどの確執があったらしいことは、容易に察しがつく。
元妻ですら、「静かに暮らしていたのに」と連絡にさえ激怒。
山城さんサイドの家族に、電話で怒鳴り散らした』という。

 この記事を読んで、あなたなら、どう考えるだろうか?
弟のS雄氏のように、「優しさがない」と思うだろうか。
それとも別の考え方をするだろうか。

 こういうケースのばあい、まず念頭に置かねばならないことは、それぞれの家庭には、
言うに言われない複雑な事情があるということ。
表面的な部分だけをみて、それに自分の常識を当てはめて考えてはいけない。
どんなにあなたが社会経験が豊富で、常識豊かな人であっても、こと家庭の問題となると、
話は別。

 こうした問題で、安易にコメントを寄せる人というのは、それだけでノーブレインの人と考えてよい。
(S雄氏がそうであると言っているのではない。誤解のないように!)
いわんや、その家族のことを批判するのは、最小限にしたい。
元妻の花園さんについても、『……花園は「静かに暮らしていたのに」と連絡にさえ激怒。
山城さんサイドの家族に、電話で怒鳴り散らしたという』とある。

 問題は、そうした電話のやり取りを、だれが外部の人に漏らしたかである。
あるいはどうして私が知っているか、でもよい。
記事の内容からすると、マネージャー氏が、マスコミに暴露したと考えてよい。
となると、これまた背信行為ということになる。

 マネージャーという立場上、元妻や娘を批判したい気持ちはよくわかるが、一方的に、このような内容を暴露するのは、どうか?
たとえそうであっても、やはりこうした話は内々で伏せておくべきではないのか。
こんなことを暴露すれば、今度は、花園さんと弟氏の関係も、破壊されてしまう。
つまりこういうことが重なって、先の記事のような内容になったとも考えられる。

 「電話で怒鳴り散らした」とあるから、相当のわだかまりがあるとみてよい。
であるなら、なおさら、そっとしておいてやるべきではないのか。
何も、山城新伍の死を理由にして、ことを荒立てる必要はない。

(日本人は、葬儀という場面になると、どんな無礼なことをしても許されると考える傾向が強い。)

むしろ私も経験があるが、こうした事情をよく知らない人たちが勝手に騒ぎたてると、遺族はそれまで以上に、とことん傷つけられる。
それは身を引きちぎられるような苦痛と表現してもよい。

 恐らくディリースポーツのこの記事を読んで、花園さんや娘さんたちは、さらに激怒しているにちがいない。
傷口に塩を塗りこまれたような状態ではないか。

 私自身は、山城新伍が好きだったし、今も好きだ。
しかしそれはスクリーンを通してでの話。
もちろん実物の山城新伍を知らない。
知る必要もない。
興味もない。
元妻や娘さんに冷たくされたといって、それで私の山城新伍への気持ちが揺らぐわけではない。
どこの家にも、似たような話はある。
だったらなおさら、そっとしておいてやるべきではないのか。
静かに冥福を祈るだけである。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●アメリカ文化の侵襲

 ……かくして日本人の心の中に、今の今も、アメリカ文化が侵襲しつつある。
ありとあらゆるメディアを使って、侵襲しつつある。
それがよいものであれば、それはそれでよい。
しかしこと恋愛主義、セックス主義については、どこかでブレーキをかけないと、人間が本来的にもっている(まじめさ)まで、破壊されてしまう。

 (まじめさ)というのは、静かな牧歌的な温もりのある(まじめさ)をいう。
時間が今より、はるかにのんびりと流れていたころの(まじめさ)をいう。

私が子どものころには、恋愛といっても、そこにはいつも両親がいたし、親類、近所の人たちがいた。
そういう人たちに支えられて、恋愛というものがあった。
だから恋愛するにしても、そういう人たちの気持ちも考えて、恋愛した。
ここでいう(まじめさ)の中には、そういう人たちへの(思いやり)も含まれる。

 が、今は、ちがう。
若い人たちは、恋愛したとたん、両親はもちろん、親類、近所の人たちを蹴飛ばしてしまう。
「自分たちが幸福なら、それでいい」と。
その返す刀で、「息子や娘が幸福なら、親も喜ぶべき」と。
へたに異議を唱えようものなら、息子や娘のほうが、親を捨ててしまう。
先に書いた、父親と母親にしてもそうだ。
その結果の15年である。

 父親が死ぬ間際になって、のこのことやってきた息子。
それにおめおめと会う父親は、いない。
映画の中では、感動的なラスト・シーンということになる。
しかし映画は映画。
機関銃をバンバンと撃ち合う警官と銀行強盗。
映画の中ではおもしろいシーンだが、それと同じように、現実には、ありえない。

私「許すにも、時間がかかるよ」
ワ「そうね、会った瞬間に、許し合うということは、ありえないわよね」
私「それまでのわだかまりを溶かすというのは、容易なことではない」
ワ「……死ぬ間際だったら、余計に、無理でしょうね」
私「みんな、誤解していることがある。それはね……」と。

●死ぬ間際

 死ぬ間際に、人は、どんな心理状態になるか?

 数は多くないが、私も人に死に、何度か立ち会ってきた。
私自身も、そこに死を、直接感じたこともある。
そういうときの心理を、自分なりに解釈してみると、こうなる。

 死ぬ間際というのは、人はみな、心が抜けたような静けさと穏やかさを覚える。
私もそうだった。
ちょうど2年前、山荘の廊下で倒れたときがそうだった。
あれほどまでに死を恐れていた私だったが、こう感じた。
「ああ、これで死ねる」と。

その瞬間、うらみ、ねたみはもちろん、さみしさや孤独、さらには、家族や親類の人たちへの愛や思いまで、消える。
そこは恐ろしく何もない世界。
まったく何もない世界。

 そんな死の瞬間に、「父親と娘が抱き合って、許し合う」などということは、ありえない。
だから私は、先にこう書いた。
「映画は映画」、つまり作り話、と。

●12月30日、金曜日

 これから大掃除。
庭掃除。
正月の準備。
残すところ、今年も、あと1日。

 私の時間も、ここまで。
……ということで、今日もがんばる。

2011/12/30朝記

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 死の瞬間 臨終の心理 臨終の心理学)


Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司

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