2011年12月19日月曜日

●夫婦ぶらり旅(関市 シャッター通り)

【岐阜→関市、ぶらり旅】(はやし浩司 2011-12-18)

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(岐阜市「一兆家」)

●映画『ミッション・インポッシブル』(はやし浩司 2011-12-17)

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今日の午後、映画『ミッション・インポッシブル』を観てきた。
土曜日の午後ということもあり、劇場の後半座席は、ほぼ満員。
トム・クルーズの映画は、いつもそう。
いつも、ほぼ満員。
私も、『トップ・ガン』以来、彼の大ファン。

が、映画そのものは、かなりがっかり。
トム・クルーズの大ファンということで、大甘に採点しても、星は3つの、★★★。
道具仕立ても、チャチ。
随所に無理が見られた。
「?」と思うことも、しばしば。
加えて乱闘シーンが、多すぎた。

昔の「スパイ大作戦(IMF…Impossible Mission Force)」は、もっと知的な仕掛けが多かったように記憶している。
それがおもしろかった。
が、今回は、ハラハラドキドキ……の連続。
……というか、そういう製作意図が見え見え。
だからがっかり。
高所恐怖症の私でも、ほとんどハラハラしなかった?

直近の前作は、(名前は忘れた)、あまりにも複雑すぎた。
だれがだれなのかさえ、よくわからなかった。
が、今回は、わかりやすかった。
が、内容的には、IMFというよりは、007風?
主役がジェームズ・ボンドであっても、何もおかしくない。
そんな映画だった。

 そうそうトム・クルーズも年を取った。
ときどき肌が大写しになった。
そのつど、そう思った。

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●自転車の免許制には反対

 オーストラリアの話をしよう。

 オーストラリアのメルボルン。
大きな道路には、例外なく、自転車道が用意されている。
広い歩道を、歩道と自転車道に分けている。
狭い歩道になると、道路側に線を引き、そこを自転車道にしている。

 自動車が(主)か、自転車が(主)か、と聞かれれば、自動車が(主)。
それはそうだが、しかし自転車の存在感も大きい。
道路の随所には、「貸自転車」の看板が立っている。
その横には自転車が5~10台、並べてある。
観光客などは、自由にその自転車を利用し、街中を回る。

 きびしいと言えば、規則。
どんな田舎町でも、ヘルメットの着用、前部のライトと、後部の赤いテールランプがないと、自転車を乗ることができない。
つまりそういうことなら、私も納得する。

 が、現在のように、自転車の走る道路もない状態で、免許とは?
免許がどうのこうのというより、私たち日本人は、そこまで管理されてよいのか。
管理を許してよいのか。
そういう問題もある。
今ではこの日本は、どこへ行っても、何をしようとしても、許可、認可、資格、免許……。
息苦しいほどまでに、生活そのものが、がんじがらめになっている。

 そこで、今度は、自転車の免許?
この話を聞いて思い出すのが、自転車の鑑札制度。
自転車の登録制のことを言ったが、当時は「カンサツ」と呼んでいた。
今から50年ほど前のことだった。
自転車にも、車と同じナンバーが取りつけられた。
 
 そのカンサツのついていない自転車は、強制的に、自転車屋でカンサツを取りつけるように指導された。
大きさは、ハガキの半分くらい。
それを後部の泥除けの上に、特殊な器具を使い、取りつけられた。
当時私は、自転車屋の息子だったが、そんな私にさえ、それがバカげて見えた。

 そのバカげたことを、また、政府(官僚)は始めようとしている?
そんな制度を作れば作るほど、天下り先がふえるだけ。
その分だけ、税金がふえるだけ。
「もう、いいかげんにしろ!」と。
私は声を大にして、そう叫びたい。

(付記)
 私が小学生のとき、学校で「自転車の乗り方教室」のようなものがあった。
それに参加すると、学校単位の私製の免許証のようなものがもらえた。

●マナーの問題

 要するに、マナーの問題。
法律の問題ではない。
そのマナーまで、規則で縛ってはいけない。
そうでなくても、この日本は息苦しい。
官僚国家というのは、そういうもの。

日本がもつ異常性は、外国の人と話してみると、それがよくわかる。
オーストラリアでは、役人が政治家にたてつけば、即、クビ。
アメリカでは、公務員の解雇は日常茶飯事。
給料も「コンビニの店員より低い」(アメリカの友人)。
それに比べて、イギリスでは、官僚制度が進んでいる。
が、日本とはくらべものにならない。

 むしろ逆。
規制緩和こそが、日本の社会に活性化をもたらす。

 前にも書いたが、あのタイの大洪水のときのこと(2011年)。
何と積み上げられた土嚢の上で、屋台を開いていた人がいたという。
また職を失った16歳の少女は、舟を借り、その舟の上でソーセージを焼いて売っていたという(報道記事)。
今の日本人に欠けるのは、そういう(たくましさ)。
少なくともこの先、日本が外国で生きていくためには、そういう(たくましさ)が必要。
また日本を一歩外に出れば、そういう(たくましい)連中ばかり。
そういう連中を相手に、日本はこの先、どう戦っていくというのか。

 多少の不完全さは、享受しようではないか。
不完全さは、私自身で補完していこうではないか。
今では、道路に落ちた街路樹の葉ですら、市の外郭団体(=天下り先)の人たちがやってきて、清掃している。

「日本の公務員数は、欧米並み」というのは、真っ赤なウソ!
文科省だけで、天下り先となっている外郭団体が、2000近くもある。
そういう外郭団体の職員は、もちろん公務員としてカウントされていない。
こうした清掃員のような、準公務員を数に入れたら、さらに多くなる。

 道路の落ち葉くらいは、その近所の人たちが清掃すればよい。

●12月18日(岐阜まで、ぶらり旅)

 明けて日曜日。
昼を過ぎて、突然、「どこかへ行こうか?」という話になった。
寒いが、空は青い。
白い雲が美しい。

 「岐阜へ行こうか」と声をかけると、「うん」とワイフ。

 ……若いときから、私たちはいつもそうだった。
夜中でも、よくドライブに出かけた。
一泊旅行もよくした。
私たちはそれを、「ぶらり旅」と呼んでいた。

で、岐阜駅の前にある、岐阜キャッスル・インに予約を入れる。
旅支度(じたく)を整える。
ハナ(犬)の餌を、多めに用意する。
いくつかの事務をすませ、いざ出発!

●豊橋へ

 浜松から岐阜まで行くには、2つの方法がある。
浜松から豊橋までJRで行き、豊橋から岐阜までは名鉄電車で行く。
もうひとつは岐阜まで、JRで行く。
私はいつも豊橋で名鉄電車に乗り換えている。
シートも快適。
今回も、豊橋から名鉄電車に乗り換える。

 その電車の中。
たった今、鷲津駅を通過したところ。
ワイフは家からもってきた新聞に目を通している。
このあたりの紅葉は、今が見ごろ。
遠くの山々が、傾きかけた夕日を浴び、美しく輝いて見える。

●豊橋

 豊橋駅のキオスクで、「週刊アスキー」誌と、「徹底予測2012」(日経BP社)を買う。
その「徹底予測2012」を、先ほどまで読む。
こうした旅の楽しみのひとつが、読書。
電車の規則正しい振動を感じながら、読書する。
私にとっては、至極の時。

 ……ということで、窓の外は、すっかり夕方景色。
橙色の夕日が、真横から注ぎ込んでくる。
家々の壁も橙色。
こうして今日も一日、終わりに近づいてきた。

 名鉄電車は、今、名古屋駅を出て、「こうのみや」という駅に向かっている。
車内にそんなアナウンスが流れた。
どんな字だったかな?
電車の前部の表示板に、「次は、国府宮」と出た。
「国府宮」と書いて、「こうのみや」と読む。
岐阜へ来るのは、1年ぶり。
今年のはじめ、伯父が他界した。

 たった今、右側に、「稲沢総合文化センター」が見えた。
10年ほど前、そこで講演をさせてもらった。
「ほら!」とワイフに声をかけたときには、すでにうしろへと消えていた。

 ……で、岐阜から、その先、どこへ行くか。
大垣、関、板取……。
大垣は近すぎる。
板取は遠すぎる。
関には、刃物会館というのがある。

 岐阜からはバスで、30分ほど(?)。
午後4時37分に、新岐阜駅に着く。
すぐバスに乗れたとしても、関に着くとしても、午後5時過ぎ。
刃物会館は、もう閉まっているかもしれない。

 どうしよう?

 腹も減ってきた。
どこかで何かを食べながら、考えよう。

●岐阜

 岐阜県は私の生まれ故郷。
郷愁感は、あまりない。
とくに母と兄が他界するまでの20年間は、私にとっては苦痛の20年間だった。
今、やっとその苦痛から解放された。
何も考えず、こうして電車に乗っていられる。
むしろ、そちらのほうが不思議。

 仏教の四苦八苦のひとつに、「怨憎会苦(おんぞうえく)」というのがある。
その怨憎会苦を、身をもって体験した。
理由は、今日は書きたくない。
今日は、こうして気楽に岐阜へ行けること。
そのことを、素直に喜びたい。

●関市へ

 ホテルでチェックインをすますと、そのまま岐阜バスの乗り場に向かった。
ワイフが、「岐阜の名物は何?」と聞いた。
歩きながら、何だろうと考えた。
昔からアユ料理とか、そういうのは知っているが、岐阜名物というのは知らない。

 「味噌かつとか、そんなものかなあ……?」と。

 しかしどうして、今、関市に向かっているのか、その理由がわからない。
100%、気まぐれ。
思いつき。
ぶらり旅。

●岐阜から関市へ

 バスに乗ると、雨が降り出した。

私「関には、何か名物があるかもしれない」
ワ「うどんとか、ソバ?」
私「う~ん、そういうものしか思いつかないなあ」
ワ「……」
私「計画性がないというのは、よくないね。時間があれば、板取へ向かったのにね」と。

 バスは学生時代通いなれた道を、ブォーブォーと大きな音をたてながら走っていた。
あたりの様子は、そのころとほとんど変わっていない。
岐阜市は今、不景気のどん底で、もがいている。
この15年、その状態は、そのまま。
それ以前は、既製服の町として栄えた。
が、今は、見る影もない。

……先ほど案内所で、関までの時間を聞いたら、50分と教えてくれた。
50分!
切符を買ってから、それを知った。

 「大垣にすればよかった……」と。

●関の町

 関の町には思い出が多い。
子どものころは、何かにつけ、関まで足を運んだ。
今はシャッター街になってしまったというが、そのころは、私には巨大な都市に見えた。
おもちゃ屋にしても、郷里の美濃町のそれの、何倍も大きかった。

 その関市には、善光寺という天台宗の寺がある。
その善光寺の地下には、「戒壇巡り」という、地下迷路がある。
全国でも地価迷路があるのは、この寺だけと聞いている。
子どものころ、母とその地価迷路に入ったことがある。
壁を手探りで歩きながら先に進む。
そのとき覚えた恐怖感は、今でも忘れない。
私は、それ以前から、閉所恐怖症だった。

●ぶらり旅

 いつか「外出する勇気論」について、書いた。
私の年齢になると、外出すること自体、おっくうになる。
が、それではいけない。

 ワイフはいつもこう言う。
「家にいるのも好き。でも、外出するのも、好き」と。

 私は「外出するのはおっくう。できれば家の中にいたい。しかし外出するたびに、楽しい」と思う。
だから「勇気」。
「外出する勇気論」について、書いた。
外出するときはいつも、それなりの勇気が必要。
その勇気を失ったら、死の待合室にまっしぐら!
こうして外出するのも、私にとっては、必死。

 一方、ワイフは若いときから、行動派。
こうした(ぶらり旅)を、趣味にしている。

●関の町

  それにしても、今回のぶらり旅ほど、目的があいまいなものはない。
それをワイフに話すと、こう言った。
「いいかげんな旅ね」と。

 その関の町。
真っ暗だった。
うわさには聞いていたが、シャッター街は、まさにゴーストタウン。
驚いた。
と、同時に、身が詰まるような、さみしさを覚えた。
脳に刻まれた思い出の一部が、欠け落ちたようなさみしさだった。

 私とワイフは、その通りを歩いたあと、またバス乗り場へ戻った。
戻って、そこから川沿いに、北のほうに向かった。
小学校と高校の恩師が、そのあたりに住んでいた。
小学校のときは、6年生のときの担任。
その先生が、高校生のとき、家庭科の教師として赴任してきた。
言い忘れたが、女性の先生だった。
温厚で、どこまでもやさしかった。
小学校のときは、市原麗子という名前だった。
高校のときは、結婚して、森 麗子という名前だった。
その先生が結婚したとき、みなで先生の家に遊びに行ったのを覚えている。

 が、家は見つからなかった。
暗い夜道で、人通りもなかった。
私とワイフは、そのままもと来た道を通って、バス停まで戻った。

●商店街

 私も商店街で、生まれ育った。
だからというわけでもないが、私は「商売」という仕事そのものが、嫌いだった。
プライドなどというものは、どこにもない。
いつも客にペコペコ、ヘラヘラ。
ペコペコ、頭をさげる。
ヘラヘラ、へつらう。
「商売」というのは、基本的には、だましあい。
売る側と買う側の、だましあい。

 私はいつもそういう印象をもっていた。
だから、嫌いだった。
 
 ……が、そのシャッター街を歩いているとき、そこで店を開いていた人たちの悲鳴が、私には聞こえた。
明日は、今日より悪くなる。
来年は、今年より悪くなる。
それを繰り返しながら、一軒、また一軒と、店はシャッターをおろしていく。
それはたとえて言うなら、真綿で首をしめられるようなもの。
ジワジワ、ジワジワ……、と。

 私の実家もそうだった。
が、客には、そんな姿は見せられない。
精一杯、虚勢を張り、明るい声で、こう叫ぶ。
「いらっしゃいませ!」と。

 以前、こんな原稿を書いた。
この中の『父のうしろ姿』は、中日新聞に載せてもらった。
たいへんな反響があった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

2000年ごろ書いた原稿より。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司 

●貧乏

 私が高校生になるころには、私の家は、まさに火の車。家業は自転車屋だったが、月に、4~5台も売れればよいほう。ときには、数台ということもあった。

 あとはパンク修理で、何とか、その日を食いつないでいた。が、そのパンク修理とて、毎日あったわけではない。一日の大半は、祖父も、父も、兄も、することもなく、店先と奥を行ったりきたりしながら、過ごしていた。

 祖父は、すでに病気がちで、現役から引退していた。祖母は、二階にあった物干し台ですべって腰を打ってからといもの、そのときすでに、寝たきりの状態だった。

 父は、酒を飲みすぎて、すでに肝臓を悪くしていた。兄は、子どものころから、今でいう自閉症で、そのため、母は、兄を、家の中に閉じこめたままにしていた。

 私にとっても、人生の中で、一番、つらい時期だった。

 言い忘れたが、私には、もう1人、姉がいた。5歳年上の姉で、そのときは、G市にある洋裁学校を卒業し、家の中で、縫製の仕事をしていた。稼ぎは、それほど、多くはなかった。

●父の酒乱

 貧乏というのは、慢性疾患に似ている。痛みをともなった慢性疾患である。いつ止(や)むともなしにつづく。が、それだけではない。よどんだ空気、重苦しい空気、それが口をふさぐ。おまけにあの独特の臭い。木にしみこんだ、腐った油の臭い。

 その私は、自転車屋の仕事を、まったく手伝わなかった。手伝おうという気持ちも、起きなかった。すでにそのとき、私の目から見ても、自転車屋という私の家の商売は、もうどうしようもないところまで行ってしまっていた。

 それまでの長いいきさつも、ある。おまけに父は、今でいうアルコール依存症だった。酒を飲まない日には、借りてきた猫の子のように、静かで、おとなしかったが、酒が口に入ると、様子が一変した。

 肝臓を悪くするまで、つまり私が中学3年生くらいまでは、2、3日に一度は、酒を飲み、家の中で暴れた。

 ふつうの暴れ方ではない。食卓のテーブルをひっくり返し、障子やガラス戸を、容赦なくこわした。父が発する大声や、ものをこわす音は、おそらく近所中に聞こえていただろう。が、私は、気にしなかった。

 私の家には、「恥」という言葉すら、もう、なかった。

●大学生に……

 私はいつも母に、こうおどされた。「勉強しなければ、自転車屋を継げ」と。しかしその言葉ほど、私にとっては、恐ろしい言葉はなかった。

 私はいつしか、あの郷里のM町から逃れ出ることだけを考えていた。「ふるさと」という思いは、とっくの昔に消えていた。

 さらに大学入試が近づくと、母は、こう言い出した。「大学は、国立でないと、行くな。お金がない」と。

 それについては、何も母に言われなくても、よくわかっていた。母は、私が、外に出て行くのを、何よりも恐れていた。「地元に残って、私のめんどうをみろ」というようなことまでは言わなかったが、言われなくも、それが私には、よくわかった。

 具体的には、「産んでやった」「育ててやった」「親の恩を忘れるな」と言った。耳にタコができるほど、よく言った。

 その私が、倍率、8・6倍のK大学に合格した。今では考えられないような倍率だが、当時は、どこの国立大学も、同じようなものだった。私たちの世代は、団塊の世代と呼ばれている。中学校でのクラス数も、1学年上が、5、6クラス。私たちの学年からは、11クラスもあった。しかも1クラス、55人前後。まさに寿司詰め!

●仕送りは、1万円だけ

 当時、下宿代が、8~9000円前後だったと思う。4年生のときには、1万2000円になっていた。

 が、実家からの仕送りは、4年間を通して、月に1万円だけ。学費と、足りない分は、アルバイトで稼ぐしかなかった。が、試験期間中になると、そのアルバイトもできなかった。私は、朝と夕に出される下宿の食事だけで、生き延びたこともある。

 その1万円も、母は、「頼母子講(たのもしこう)」と呼ばれた、相互金融救済制度をつかって、工面していた。1万円といっても、当時の大卒の初任給が、4~5万円の時代だった。それなりの高額であったことには、まちがいない。

 こうして私は、大学を卒業するまで、貧乏が当たり前の生活をした。今になってみると、それがよかったのか、悪かったのか……。中には、「若いころに、貧乏を経験しておくといい」と言う人もいるが、その貧乏にも、程度というものがある。それに期間というものがある。

 私のばあい、中学生になるころには、「ジリ貧」を感じていた。ジリジリジリと、家が貧乏になっていくのが、私にも、よくわかった。

 が、父も兄も、なすすべもなく、それに耐えるだけ。祖父は、道楽でオートバイをいじっているだけ。母は母で、おかしな迷信ばかり信じて、そのときすでに私とは、まったく会話がかみあわなかった。今でも家の中には、仏壇のほか、4~5種類の神棚が祭ってある。

 私のばあい、その期間が長すぎた。多情多感なあの思春期という時代にしてみれば、それは「一生」と言えるほど、長すぎた。

●実家への仕送り

 プライド? そんなものは、どこにもなかった。店は、M町という田舎町だったが、その町の中心部にあった。その町の中心部で、父は、先にも書いたように、酒を飲み、大声をあげて、暴れた。

 だれの目にも、私の家が、そういう家であることは、よくわかった。私ができることといえば、居直って生きるだけ。「今だけだ」と、自分を慰めて、生きるだけ。

 私は、そんなわけで、あのM町については、今も、「ふるさと」という思いは、まったく、ない。帰りたいと、思ったこともない。

 ただ私が、ワイフと結婚する前から、収入の約半分を、実家へ仕送りをしていたのは、それをするのが、私の義務と感じていたからにほかならない。「ふるさとを捨てた」という自責の念があったためかもしれない。

 何も、好きこのんで、そうしていたわけではない。

 そういう思いの中で書いたエッセーが、つぎのエッセーである。これは中日新聞に発表した記事だが、ほかの記事とちがって、大きな反響があった。それを紹介する。

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●父のうしろ姿

 私の実家は、昔からの自転車屋とはいえ、私が中学生になるころには、斜陽の一途。私の父は、ふだんは静かな人だったが、酒を飲むと人が変わった。2、3日おきに近所の酒屋で酒を飲み、そして暴れた。大声をあげて、ものを投げつけた。

そんなわけで私には、つらい毎日だった。プライドはズタズタにされた。友人と一緒に学校から帰ってくるときも、家が近づくと、あれこれと口実を作っては、その友人と別れた。父はよく酒を飲んでフラフラと通りを歩いていた。それを友人に見せることは、私にはできなかった。

 その私も52歳。1人、2人と息子を送り出し、今は三男が、高校3年生になった。のんきな子どもだ。受験も押し迫っているというのに、友だちを20人も呼んで、パーティを開くという。「がんばろう会だ」という。

土曜日の午後で、私と女房は、三男のために台所を片づけた。片づけながら、ふと三男にこう聞いた。「お前は、このうちに友だちを呼んでも、恥ずかしくないか」と。

すると三男は、「どうして?」と聞いた。理由など言っても、三男には理解できないだろう。私には私なりのわだかまりがある。私は高校生のとき、そういうことをしたくても、できなかった。友だちの家に行っても、いつも肩身の狭い思いをしていた。

「今度、はやしの家で集まろう」と言われたら、私は何と答えればよいのだ。父が壊した障子のさんや、ふすまの戸を、どうやって隠せばよいのだ。

 私は父をうらんだ。父は私が30歳になる少し前に死んだが、涙は出なかった。母ですら、どこか生き生きとして見えた。ただ姉だけは、さめざめと泣いていた。私にはそれが奇異な感じがした。が、その思いは、私の年齢とともに変わってきた。

40歳を過ぎるころになると、その当時の父の悲しみや苦しみが、理解できるようになった。商売べたの父。いや、父だって必死だった。近くに大型スーパーができたときも、父は「Jストアよりも安いものもあります」と、どこかしら的はずれな広告を、店先のガラス戸に張りつけていた。

「よそで買った自転車でも、パンクの修理をさせていただきます」という広告を張りつけたこともある。しかもそのJストアに自転車を並べていたのが、父の実弟、つまり私の叔父だった。

叔父は父とは違って、商売がうまかった。父は口にこそ出さなかったが、よほどくやしかったのだろう。戦争の後遺症もあった。父はますます酒に溺れていった。

 同じ親でありながら、父親は孤独な存在だ。前を向いて走ることだけを求められる。だからうしろが見えない。見えないから、子どもたちの心がわからない。ある日気がついてみたら、うしろには誰もいない。そんなことも多い。

ただ私のばあい、孤独の耐え方を知っている。父がそれを教えてくれた。客がいない日は、いつも父は丸い火鉢に身をかがめて、暖をとっていた。あるいは油で汚れた作業台に向かって、黙々と何かを書いていた。そのときの父の気持ちを思いやると、今、私が感じている孤独など、何でもない。

 私と女房は、その夜は家を離れることにした。私たちがいないほうが、三男も気が楽だろう。いそいそと身じたくを整えていると、三男がうしろから、ふとこう言った。

「パパ、ありがとう」と。

そのとき私はどこかで、死んだ父が、ニコッと笑ったような気がした。

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 この中で、「叔父が……」という話を書いた。これについて、その叔父の息子、つまり従兄弟(いとこ)から、「Jストアに店を出したのは、父ではない。このぼくだ。(だから父のことを悪く書かないでほしい)」という、抗議の電話をもらった。

 それについては、私は知らなかった。叔父といっても、私にとっては、父親のような存在だったから、悪口を書いたという思いは、私にはなかった。

 それに私は子どものころから、商売というのは、そういうものだと、わかっていた。勝った、負けたは当たり前。負けたからといって、どうと思うこともないし、私は、何とも思わなかった。つまり叔父をうらんだことは、一度も、ない。

 それに勝ったと思ったところで、そんな思いは、長くても、1世代もつづかない。今度は、自分が、だれかに追われる立場になる。あとは、その繰りかえし。

●貧乏という心のキズ

 そんなわけで、私の心には、無数のキズがついている。貧乏という、キズである。そのキズが、具体的に形となって現れているのが、今の私の不安神経症ではないか? いつも何かに追われているという強迫観念、それが、心のどこかにある。

 悪夢も、よく見る。

 たいていはどこかの旅先にいて、そこでバスや電車に乗り遅れるという夢である。あるいはホテルで荷物の整理をしているうちに、刻々と時間だけが過ぎていく。そんな夢である。

 で、おそらく私は、死ぬまで、そういう夢から解放されることはないだろう。だからといって、そういう自分の過去を、うらんでいるというわけではない。そののち、いろいろな人と会った。知りあった。

 そういう経験を通してみると、ほとんどの人が、形や内容こそちがえ、みな、何らかの心のキズをもっている。心のキズをもっていない人はいない。そしてそれぞれの人が、そのキズを背負いながら、懸命に生きている。それがわかった。

 こうした私の過去は、決して私だけのものではない。むしろ、私など、まだ幸福なほうだったかもしれない。

 そのあと、今のワイフに恵まれた。3人の健康な息子たちにも恵まれた。結婚してからは、それほどぜいたくな生活はできなかったが、ほどほどに、自分の人生を楽しむことができた。今も、こうして自分の人生を、思う存分、楽しんでいる。

 が、ひとつだけ言えることは、私がしたような経験は、私、ひとりでたくさん。息子たちには、そういう思いだけは、させたくないということ。今も、そのつもりで、がんばっている。

 そういう私を知ってか知らずか、息子の1人は、よくこう言う。「パパは、何でも、お金で解決しようとする」と。

 私は、そう言われたとき、ふとこう思う。「何を、生意気なことを! 私の気持ちを話したところで、お前たちに、理解できるものか!」と。

 しかしその(思い)を伝えたくて、今朝、このエッセーを書いた。

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●再び岐阜の町へ

 関市では、30分ほど、過ごした。
で、そのまま再び、岐阜の町へ。

 「お城が見える」とワイフ。
見ると、山の上に城が見えた。
とたんうしろから、岐阜弁が飛び込んできた。

「やっとかめやなア~、~~しちょったんやけどオ~」と。

 「やっとかめやなア~」というのは、「お久しぶりですね」という意味。
「~~しちょったんやけどオ~」というのは、「~~していたのですが」という意味。

 若いころは、岐阜弁にあこがれた。
私の郷里の美濃町の方言とは比較にならないほど、都会的に聞こえた。
が、今はその岐阜弁も、地方の田舎の言葉に聞こえる。
だからといって遠州弁が都会的というのではない。
東京の人たちが聞くと、かなり田舎の言葉に聞こえるらしい。
いつか、ワイフがそう言っていた。
ワイフは、一時期、東京で仕事をしていたことがある。

●一兆家

 岐阜駅へ着くと、夕食屋をさがした。
ホテルのフロントで聞くと、「郵便局の前の~~家がおいしいですよ」と。
それでそこへ行くと、「本日は休業」の看板。
しかたないので、ぐるりと駅前(名鉄新岐阜駅)のほうに回った。
そこで見つけたのが、「一兆家」というラーメン店。
「ゆず塩らーめん」と書いた看板が、大きく目にとまった。

 温もりのあるレタリングが気に入った。

 で、私はその「ゆず塩らーめん」とネギ丼、ワイフはギョーザとチャーシュー丼を注文。
が、これがおいしかった!
星は文句なしの、5つ星、★★★★★。
私はラーメンの最後の一滴まで、飲み干した。

 場所は、名鉄新岐阜駅から郵便局の方面へ向かった、北側の角。
1号店と2号店が並んで営業している。
私たちが入ったのは、1号店のほうだが、本気度、満点。
店は狭いが、その狭さが、たまらなくノスタルジック。

 代金を払うとき、「おいしかったです」と一声かけると、若い店員は、うれしそうに笑った。

 一兆家、ゆず塩らーめん、ぜひ、一度、ご賞味あれ!
チャーシュー丼も、これまたお勧め。

●岐阜キャッスルイン・ホテル

 実は、以前、このホテルに泊まろうとしたことがある。
若いころで、懐(ふところ)に余裕がなかった。
それでこのホテルに泊まるのを、断念。
そんな思いが、心のどこかに残っていた。
つまり断念したという無念さが、どこかに残っていた。

 が、今夜、その仇討(あだうち)をした。……というほど大げさなものではない。
ないが、このところ、そういうものの考え方をすることが多くなった。

 人生も残り少ない。
やり残したことを、つぎつぎと実行していく。
それが最近の私の生き様にもなっている。

 岐阜キャッスルイン・ホテル。
清潔でモダン。
ビジネスホテルとしては、上級クラス。
満足度、Aaa(ムーディーズ評価法)。

 とくに布団、シーツが清潔。
布団は羽根布団。
枕は低反発。
サラサラとした肌触りで、気持ちよい。
今夜は、よく眠られそう。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 一兆家 ゆず塩らーめん 岐阜駅 新岐阜駅)

●団塊の世代

 今日、電車の中で、ワイフとこんな会話をした。

団塊の世代……バイキングでは、いつも食べすぎる。
団塊の世代……拾ったサイフは、自分のもの。(一般論)
団塊の世代……料理屋ではいつも、座席を2人分取る。
団塊の世代……温泉では、1泊する間に、3回、入浴する。
団塊の世代……蟹とエビに、目がない。
団塊の世代……ぜいたくをすることに、罪悪感を覚える。
団塊の世代……負けず嫌いでがんばり屋。

 ほかにもいろいろある。
一言で表現すれば、団塊の世代は、たくましい。

●就寝

 ぶらり旅は、よい運動になる。
今日も、時間にすれば、2~3時間は歩いた。
距離にすれば、10キロ前後か。

 このホテルには、大浴場はない。
残念!
ということで、先ほど、内風呂でゆっくり、体を休めた。
ほどよい睡魔。
ほどよい疲労感。
それにほどよいワインの酔い。

 そろそろ就寝タイム。
ワイフは、洗面所で寝支度をしている。
私は今日最後の、メールチェック。
明日は、朝一で、帰宅。
午前7時にホテルを出れば、9時には、自宅へ戻れるはず。

 ではみなさん、おやすみなさい。

●午前3時起き

 が、午前3時に目が覚めてしまった。
軽い頭痛。
久々の二日酔い(?)。
夕食後に飲んだ、ワイン。
あれがよくなかった。

 しばらくそのままでいると、ワイフが大きく寝返りを打った。
「頭が痛い……」と漏らすと、「私も……」と。

 小瓶で500円前後だった。
「安物のワインは、よくないね」と、私。

 部屋はエアコンで乾燥していた。
のどもガラガラだった。
ワイフは加湿器を取り出し、それに水を入れ、電源をつないだ。

●ラッシュアワー

 しばらく起きていよう……ということで、今、この文章を書いている。
こういうときは、自然体。
自然体がいちばん。

私「明日は、始発で帰ろうか」
ワ「そうねエ」と。

 さっそくネットで時刻表を検索。
始発で帰れば、9時前には、自宅へ戻れる。
それがわかった。

私「5時53分の特急がある」
ワ「まだ暗いうちね……」と。

 名鉄電車は、ラッシュアワーに重なると、たいへん。
東京の山手線程度に、混む。
それを避けなければならない。 
その前に帰るか、そのあとに帰るか。
私たちはその前に帰ることにした。

●GDPで、20位以下
 
 日本が経済大国という話は、遠い昔の話。
現在、1人当たりのGDPでは、世界で17位(2010年)。
2011年(今年)は、20位以下にさがっているという。
全体としては、世界第3位をかろうじてキープしているが、1人当たりでは20位!
今はまだ円高だからいようなもの。
円安に向かえば、さらに順位はさがる。

 わかりやすく言えば、日本という国が、それだけ貧乏になっているということ。
給料はあがらず、(……実際には、さがっている)、経済も活力を失った。
未来も、お先真っ暗。
国の債務(債務負担)も、1000兆円を超えた。
地方の債務も含めると、さらに多くなる。
EUの金融危機が収束したあとは、この日本。
日本が金融危機に、陥る。

●『徹底予測2012』(日経ビジネス)

 『徹底予測2012』(日経ビジネス)に、こんな興味深い一文が載っていた。
いわく「世界経済の勢力図は、産業革命前に戻る」と。

 つづいて、こうある。
「18世紀の産業革命以前、世界のGDPの過半を占めていたのは、中国とインドだった。その後、世界の覇権はイギリス、アメリカへと移ったが、中国とインドが急成長中。2050年には、産業革命前の姿に戻る」(P11)と。

 今、世界はその流れに沿って、動き始めている。
アメリカは別として、イギリス、つまりEUは、この先どうもがいても、衰退する。
とても残念なことだが、この日本は、その前に消えてなくなる。
同誌10Pには、こうある。

 「日本は少子高齢化の最先端を行く」と。
つまりあと10年もすれば、団塊の世代が後期高齢者になる。
そうなれば、1・2人の実労働者が、1人の後期高齢者を支えることになる。
が、そんなことは常識で考えても、不可能。
現在ですらも貧弱な老人福祉だが、それがさらにひどくなる。
……というか、壊滅状態になる。

(データ:2020年には、全世帯の34・4%が、1人暮らしになる。
2025年には、人口の30%超が、65歳以上になる。……以上、『徹底予測2012年』より。)

●老人福祉の不公平

 それにしても最近、目に余るのが、老人福祉の不公平。
福祉を受けられる人は、徹底的に手厚い福祉(=保護)を受けられる。
そうでない人は、そうでない。

 たとえば知人(近所)の隣人は、夫婦2人。
ともに80歳前後だそうだが、ふだんは介護など必要がないほど、元気。
近くの有料老人ホームにも、入居している。
ところがどこでどう介護度をごまかしたのかは知らないが、週2~3回の訪問介護を受けている。

 で、その訪問介護のある日だけ、自宅に戻る。
動けないフリをしている(?)。
午前10時ごろ訪問介護士がやってくる。
掃除、洗濯、料理をすます。
午後3時ごろ、訪問介護士は帰る。
そのころ、その夫婦は外へ出て、庭いじり。
それが終わると、夜は有料老人ホームへ。

 近所の知人は、こう言う。
「ああいう老人がいるのを知ると、矛盾を感じます」と。
つまりその知人の隣人は、訪問介護士を、自宅管理に利用している……ということになる。

 今、こうした不公平が、あちこちで起きている。

●なすすべもなく……

 そこにヒタヒタと押し寄せてくる、大洪水の兆候。
しかし私たちはその現実を、見て見ぬフリをしながら、それをやり過ごそうとしている。
「何とかなるだろう」「どうにかなるだろう」と。
その前に、どうにもならない。
心配したところで、どうにもならない。
この虚脱感、プラス不安感。
それを救うのが「教育」ということになるが、教育というのは、常に20年後をみて組み立てる。
その視点すら、この日本には、ない。

 相も変わらず、従順でおとなしい子どもほど、「いい子」となっている。
相も変わらず、50年前の教育を繰り返している。
それがわからなければ、どうか私のYOUTUBEをのぞいてみてほしい。
(http://bwopenclass.ninja-web.net/page018.html)
小学1年生だって、方程式だって、負の数だって、分数だって、理解できる。
小数だって、対象図形だって、グラフだって、理解できる。
教えられる。

 さらに皮肉なことがある。
私はこうした教育をYOUTUBEで公開しているが、日本人によるアクセス数と同じくらい最近ふえてきたのが、韓国、台湾からのアクセス。
本当は日本人にもっと見てほしい。
が、肝心の日本人は、安穏の上に、あぐらをかいている。
こんな時代になっても、「英語教育は不要」「コンピューター教育は不要」と。
そういう意見ばかりが、ハバをきかせ、大通りをかっ歩している!

 愚痴になるが、(実際、愚痴だが……)、1980年には、日本は電子立国をめざすべきだった。
あのころ先陣を切っていたら、今ごろ日本は、コンピューターの分野で、世界の覇者として君臨していたはず。
が、田中角栄には、その知力はなかった。
列島改造論を唱え、土建業に邁進した。
その結果が今。

 ほとんど車が走らないような林道さえも、オーストラリアのハイウェイ並みに整備されている。
「公」の名をもつ会館は、どこも、超の上に超がつくほど、立派。
豪華。
アメリカのカーネギーホール(ニューヨークにあるMusic Hall)より、豪華。
カーネギーホールは、古ぼけた4~5階建の建物。

作るのは簡単。
建てるのは簡単。
今、地方自治体は、その維持費で苦しんでいる。
なすすべもなく……。

●さて、帰り支度

 今、時刻は、5時17分。
5時53分の始発まで、あと30分と少し。
帰り支度を始める。

 2011年12月19日、朝。
みなさん、おはようございます。

●名鉄電車の中で

 1号車(指定席)の客は、私たち夫婦だけ。
貸し切り電車。
もうすぐ名古屋だが、窓の外は真っ暗。
今日は雨。
これは予想していなかった。

●ぶらり旅

 今回のぶらり旅で印象的だったのは、やはり関市、「関の町」。
うわさには聞いていたが、シャッター街が、これほどまでに凄まじいものとは、知らなかった。
同時に、関市へ入る街道筋の変化。
大型店舗が、ズラリと並んでいた。
浜松で見る、ファースト・フードの店も、すべて並んでいた。
「ガスト」「吉野家」「マック」などの馴染み店のほか、「ジョイフル」「はま寿司」「かつや」「かっぱ寿司」などなど。

 関市としては、苦渋の選択だったかもしれない。
市内の旧商店街を犠牲にし、郊外に大型店を誘致した。
そこに大型店が並べば、周辺の市町村の客も呼び込める。
全体としてみれば、税収はふえる。
しかしこんな状況も、長くはつづかない。

この先、大型店どうしの競争は、さらに熾烈さをます。
全国規模のファースト・フード・チェーン店も、低価格競争で、そのうち何割かが消えるだろうと言われている。
鍵は、いかにサロン風にし、女性客を呼び込めるかという点にあるそうだ(「徹底予測2012」)。
 
 浜松だけに住んでいると、その変化はわからない。
子どものころよく知っていた町へ行くと、その変化がよくわかる。
今回のぶらり旅の成果は、それを肌で感ずることができたこと。

●名古屋

 電車は今、名古屋駅の構内へと進んでいる。
速度を落とし、信号待ちをしているよう。
並行して走る新幹線は、動きを止めている。
たぶん名古屋始発の新幹線なのだろう。

 横のワイフは、目を閉じ、静かに休んでいる。
先ほどまで、「日本が5位に転落?」と驚いていた。
日本の自動車産業は、世界5位(生産台数)に転落する。
それを読んで、驚いていた。

 今にして思うと、1970年代がなつかしい。
あのころは、日本中が輝いていた。
何をやっても、押せ押せムード。
私たち団塊の世代が、その先陣を切った。
が、ここで日本が終わるわけではない。
終わらせてはいけない。

 「では、どうするか?」と。

 今回のEUの金融危機の最中にあっても、スウェーデンやフィンランドは、きわめて安定的な経済運営をしている。
もし日本がモデルにする国があるとすれば、(官僚や役人はいやがるだろうが)、スェーデンやフィンランドということになる。

●行政改革

現在のように、日本が稼ぐ外貨のほとんどが、公務員と準公務員の人件費に消えていくというのは、どう考えても尋常ではない。
もちろんひとりひとりの公務員の人たちに、責任があるというのではない。
しかし行政改革(=官僚制度の是正)は、もう待ったなし。
この先、日本人の平均余命は、2020年以後、毎年1年ずつ上昇していく。
公務員だけが豊かな年金を死ぬまでもらえるというのは、どう考えてもおかしい。
そのおかしさを正さないかぎり、日本に未来はない。 

 さらに言えば、「教育」。
「人材」。
人材教育をどうするか。
 
●ハーバード大学

 先日、私の教え子(女性)が、ハーバード大学へ入ったことを知った。
現在は2つの博士号をものにし、同大学の医学部で、医局をもっているという。
東大や京大では驚かなくなった私だが、「ハーバード」という名前には驚いた。
母親はこう言った。
「あの子は、子どものころから負けん気が強くて……」と。
そう、その「負けん気」を育てるのが、幼児教育ということになる。
(多分に手前味噌的で、申し訳ないが……。)
そのあたりから、日本の教育を見なしていく。

 先に書いたことの繰り返しになるが、総じてみても、日本の子どもたちは、キバを抜かれたような子どもたちばかり。
むしろこの日本では、キバのある子どもを、「できの悪い子」と位置づけてしまう。
こんなこともあった。

もう10年ほど前になるだろうか。
私が「日本ではシャイな子どもほど、いい子となっている」と言ったら、相手のアメリカ人の女性(小学校の校長)は、心底、驚いていた。
「シャイな子ども」は、アメリカでは、AD・HD児や、LD児と並んで、問題児に位置づけられている、と。
小児うつ病の診断基準のひとつにもなっている。

●もうすぐ豊橋

 名残惜しいが、もうすぐ豊橋。
今回の(ぶらり旅)も、これでおしまい。
窓の外は、美しい朝焼け。
茜色のちぎれた雲の間から、黄金色の太陽が輝いている。

 はやし浩司 2011-12-19朝記。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 ぶらり旅 はやし浩司 行政改革 平均余命 日本の凋落)


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