2011年12月7日水曜日

●金権教





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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司   12月 14日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●11月18日(じっと我慢するしかない)

+++++++++++++++++++++

規則正しい生活は、健康の要(かなめ)という。
しかし不規則という規則もあるのでは?
万事、自然体。

そのことは、犬のハナを見ていると、よくわかる。
ハナは、いつも庭で放し飼いになっている。
しつけらしいしつけは、いっさい、していない。
そのハナ……すでに老齢ということもあるが、
毎日、好き勝手なことをしている。
朝も、昼も、夕方も、起きたいときに起き、
眠りたいときに眠っている。
基本的には、天気任せ。
昨日のように、小春日和(びより)の日は、
芝生の上で、ずっと横になっている。
暑くなったら、そのまま小屋へ。

人間の年齢に換算すると、100歳を超えている。
もう22歳を超えた。

だから……というわけでもないが、私たち夫婦は、
若いときから、不規則であることを、とくに
気にしたことはない。

昨日は8時、起き。
今朝は5時、起き。
起床時刻ですら、めちゃめちゃ。

++++++++++++++++++++++

●EUの金融危機

 私は、言うなれば河原の小石のような人間。
そんな人間が、横を流れる川の心配をしても、どうしようもない。
どうにもならない。

が、だからこそ、おかしなことに、川の流れがよくわかる。
どちらの方向に向かって、どのように流れているか、それがよくわかる。
恐らく川に呑み込まれてしまった人には、それがわからないだろう。
川の中で溺れるまま、右往左往している。
現在のEUの金融危機を、一言で説明すれば、そういうことになる。

●貸し手と借り手

 お金(マネー)の力は、恐ろしく弱い。
人間と人間をつなぐ力(パワー)は、ほとんどない。
貸したほうは、「相手は感謝しているはず」と考える。
が、借りたほうは、一時的。
しばらくすると、それが当たり前になってしまう。
さらにしばらくすると、今度は、貸した方が逆恨みされるようになる。
「オレたちが貧しいのは、お前たちのせい」と。

 これには友人、知人もない。
親類、親、兄弟もない。
もちろん国もない。

 現在のドイツとスペインの関係は、まさに、それ。
ひとり勝ちのドイツ。
借金漬けのスペイン。
強い経済力を背景に、ドイツはスペイン国内でしたい放題。
豪勢なリゾート開発に、豪勢な生活。
肝心のスペイン人は、それを指をくわえて見ているだけ。

●慌てまくるドイツとフランス

 貸し手と借り手。
その借り手が金融危機に陥った。
こういうケースのばあい、慌てまくるのは、貸し手側。
借り手側ではない。
借り手側のほうは、むしろ、のんびりとしたもの。
「破産、結構」と。
むしろ破産したほうが、借金が帳消しになって、気が楽になる。
現在のギリシャ、イタリアが、その立場。

 食べ物とワインと、明るく輝く太陽があれば、それでよい。
そこはまさしく、「オーソレミオ」の世界。
あとはバックギャモンでもして、一日を過ごす。

 が、ドイツとフランスは、事情がちがう。
つまり貸し手側。

●ドイツvsフランス

 フランスは、ユーロ(札)の大増刷で、難局を乗り切ろうとまたまた言い出した。
が、ドイツは、「ナイン(NO)!」。
そんなことをすれば、ユーロの価値が暴落してしまう。
ユーロを大量にもつドイツとしては、それに納得するはずがない。

 かたやフランスはといえば、ギリシャ→イタリアとつづいて、自分の足下(もと)が燃
えだした。
このまま行けば、貸し金の回収どころか、自分まで破産してしまう。
だからドイツに向かって、なりふり構わず、こう言い出した。
「ユーロを大増刷しよう」と。

●アメリカも……

 傍観、静観、無視……。
アメリカはかねてより、EU経済をよく思っていなかった。
ユーロが台頭すればするほど、ドルの価値がさがる。
自分たちの立場が、相対的に弱くなる。

 だから今まで、傍観、静観、無視を決め込んでいた。
が、ここにきて、火の粉が大西洋を越えて、自分たちにも襲いかかってきた。
放っておけば、自分たちまで燃えてしまう。
それもあって、数日前から、オバマ大統領の発言が、目立って多くなった。
「お前たちで、何とかしろ!」と。

 で、こういうとき「ファイア・ウォール(防火壁)」という言葉を使うらしい。
私はずっと、これをパソコン用語と思っていた。
が、経済用語にもなっていた。
つまりオバマ大統領は、「防火壁を作れ」と。
アメリカの株価は、ささいなことに一喜一憂し、大冒頭、大暴落を繰り返している。
つまり大揺れ!

●大国意識

 日本よ、大国意識は、捨てろ。
お人好しは、やめろ。

 この場に及んで、フランス国債やドイツ国債を買い込んで、どうする。
どうなる。
……どうにもならない。

 一時的に日本の金融機関を救済することができても、それは救済というより「避難」。
世界の動き……つまり川の流れは、すでに激流に変わりつつある。
濁流でもよい。
今や、それが大洪水となって、日本をも、巻き込もうとしている。
どうしてこんな簡単なことがわからないのか。

 アメリカにペコペコしていれば、それですむという時期は、とっくの昔に過ぎた。

●狂騒曲

 お金(マネー)が、ゲームの対象になっている。
称して「マネー・ゲーム」。
汗水流し、働いて稼ぐお金もマネーなら、ゲームで稼ぐお金もマネー。
が、桁がちがう。
2桁も、3桁も、ばあいによっては、4桁もちがう。

 そこらの若造が、パソコンの画面を見つめながら、億単位のマネーを買ったり売ったり
している。
その異常性。
つまり、狂っている。
狂ったまま、世界を騒がせている。
まさに「狂騒曲」!
いくら資本主義社会とはいえ、こんなアホなことが、野放しになっていて、よいのか。
「ヘッジファンド」と言えば、聞こえはまだよい。
しかし中身は、博徒。
バクチ屋。
今、そのバクチ屋に、世界が振り回されている。

●大洪水

 長引けば長引くほど……すでに8月3日から4か月になろうとしているが、その波紋は
周辺国に及ぶ。
……及び始めた。
ハンガリーなどの周辺国はもちろん、新興国から、中東へ。
そしてこのアジアまで……。

 へたにあがくから、みなが、迷惑する。
傷口が深くなる。
さっさとEUを一度、解体し、あぶない国は破産させる。
またそのときが来たら、EUを再興させればよい。
一瞬の激流なら、まだ何とかなる。
しかし大洪水となると、そうはいかない。
日々に世界は、疲弊する。
その疲弊がこわい。

●円高

 円売り介入をつづける日本政府と日銀。
しかしそれ以上の円が、買われている。
その差額が、昨日(11・17)あたりで、1兆円とも言われている。
(1兆ドルだったかもしれない。記憶があいまいで、ごめん!)
狂ったバクチ屋どもが、さらなる円高を見越して、円を買いつづけている。

 が、それよりも恐ろしいのは、そのあと、つまり円が行き着くところまで行ったあと、
今度はその揺り戻しが始まること。
円が逆流し、日本中が、円でダブダブになる。
猛烈な円安に、日本は見舞われる。
これは可能性の問題ではない。
確実に起こる、つぎの事実。

 が、そのとき、日本の命運が決まる。
1000兆円以上とも言われる国の借金が、日本経済の息の根を止める。
それがいやなら、今すぐ、超緊縮予算を組み、大増税をするしかない。
役人の数を3分の1に減らし、給料も50%カットする。
消費税を20%にする。

が、現実的には、それは不可能?
だったら、私たち(小石族)は、自ら覚悟するしかない。
大洪水の中で、身を寄せ合って、じっと洪水が収まるのを待つ。
川のいちばん底で、静かにしていれば、流されることもない。

 大恐慌は大恐慌だが、2~3年もすれば、またその先に光が見えてくる。
それまでじっとがまんするしかない。
さあ、今すぐ、その準備を始めよう!

(1)預金の現金化(失業しても、2~3年は生きられるようにしておく。)
(2)そのうちの半分は、金、プラチナなどへの、現物資産化。(貴金属は現物でもつ。)
(3)こういうとき、いっぱしの投資家気取りで、株や外債に手を出すと、大やけどをす
る。
(この(1)~(3)は、あくまでも参考的意見。あとの判断は、(つまりリスク負担は)、
自己責任で!)


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【通俗性とどう闘うか】(金権教に毒されると……)

++++++++++++++++++

コンディションは、よくない。
朝からイライラする。
イライラというより、「ピリピリ」。

Ca不足かもしれない。
天候のせいかもしれない。
忙しいこともある。
昨夜も、遅くまで、講演会用のレジュメづくりをした。

++++++++++++++++++

●不快な男

 そういえば、少し前、ある男から電話がかかってきた。
通俗を「地」で這うような男である。
私より、5、6歳、年下。

私が、「毎晩仕事が終わるのは、9時半です」と話すと、こう言った。
「林さん、そんなに稼がなくてもいいんじゃない」と。
私はその言葉を聞いた瞬間、返答に困ってしまった。
「はあ~」と言っただけで、黙ってしまった。

 何もその男を責めているのではない。
その男は、一見、正当なことを言いながら、実は、自分の心の中を吐露した。
つまりその男は、(仕事)を、瞬間、(金)に結びつけた。
それだけ(金)に執着しているからに、ほかならない。

 それがわからなければ、逆の立場で考えてみればよい。
もしあなたなら、こういうケースのばあい、何と答えるだろうか。
久しぶりに、割と仲がよい知人に電話をした。
が、留守だった。
で、夜遅く、電話した。
9時ごろになって、やっと連絡が取れた。
その相手が、こう言った。
「やっと今、仕事が終わったところで……」と。

 いろいろな返事の仕方がある。

(1)「お疲れ様」と相手をねぎらう
(2)「体をこわすないでよ」と相手の健康を心配する。
(3)「がんばれよ」とエールを送る。

 返事の言い方はさまざまある。
そのつど、こちら側の心と反応する。
自分が睡眠不足であったりすると、「眠くないか?」などと言うかもしれない。
しかし「そんなに稼がなくてもいいんじゃない」は、ない?

 つまりその男はそう言いながら、自分の内部に潜む下劣性をさらけ出していた。

●他山の石

 こういう例は多い。
ひとつには、自分の心の中を、思わず吐露してしまうケース。
もうひとつは、醜い自分を、思わぬところで、さらけ出してしまうケース。
先に書いた「通俗」というのは、それをいう。

 では、どうするか。

 こういう不快感をどこかで味わったら、即、反面教師にする。
他山の石でもよい。
他山の石というのは、『他山の石以て玉を攻(おさ)むべし』という意味。
見本といっても、悪い見本。

 が、私にも、こんな失敗がある。
30代のころのことだったと思う。
ある日、オーストラリアの友人にこう聞いたことがある。
「君の給料はいくらだ」と。

 ご存知の人も多いかと思う。
オーストラリア人やアメリカ人に、給料を聞くのはタブー中のタブー。
当時の私は、金権教の信者(=亡者)。
反対に私の方が、叱られてしまった。

●金権教

 通俗と、どう闘っていくか。
自分の中の(通俗)である。
通俗であることが悪いというのではない。
しかし通俗とは、心のどこかで一線を引く。
そうでないと、その人の人間性は、一気に下劣化する。

 その一例というわけではないが、私が嫌いな番組に、『なんでも鑑定団』というのがある。
当初は「おもしろい」と思って見ていたが、やがて自分の心の中に、別の見方が育ってい
るのを知った。
芸術の価値すら、金銭的価値で置き換えてみる見方である。
「この絵は、100万円の価値があるから、すばらしい絵」と。
それについては、以前にも書いたことがある。
原稿をさがしてみる。

++++++++++++++++++はやし浩司

●【金権教】(2009年6月に書いた原稿より)

●ぜいたくな悩み

+++++++++++++++++++++

悩みといっても、本来、悩むような問題ではないかもしれない。
ぜいたくな悩みということは、よくわかっている。
この地球上では、約3分の1の人たちが、飢餓状態に
あると言われている。
食べるのもなくて、困っている。

が、そういう中、私は今、ときどきこんな選択に迫られる。

「食べたら損なのか?」「食べなければ損なのか?」と。

+++++++++++++++++++++

●レストランで……

 昨日、ワイフの誕生日祝いということで、郊外のホテルで昼食をとった。
フルコースの半分の、ハーフコースというのを注文した。
肉料理を省略したコースをいう。

 そのコースのあと、最後にデザートが出た。
最近はやりの、バイキング・デザートというのである。
10種類くらいのケーキから、好きなのを選んで、いくらでも食べられる。

 私はイチゴ系のケーキ、ワイフはオレンジ系のケーキを選んだ。
1個というよりは、ひとかけらと言ったほうがよい。
小さなケーキだった。
で、それを食べ終わるころ、ボーイが、「ほかに、どれになさいますか?」と
聞いてきた。
そのときのこと。
またあの選択が頭の中を横切った。

「食べたら損なのか?」「食べなければ損なのか?」と。

 私は現在、ダイエット中。
昨日の朝、体重計に乗ってみたら、目標にしていた63キロ台!
この1か月半で、約5キロの減量に成功した。
「何としても、今の体重を維持しよう」と、心に決めていた、その矢先のことである。

 私はググーッとわいてくる食欲を懸命に抑えながら、「もう結構です」と答えた。
「食べたら損」のほうを、選択した。

●ムダ肉

 脂肪細胞というのは、わかりやすく言えば、エネルギーの貯蔵庫のようなもの。
ノートパソコンにたとえるなら、バッテリーのようなもの。
たとえば数日おきくらいにしか食べ物にありつけないような環境なら、脂肪細胞も
必要。
脂肪細胞にエネルギーを貯蔵しておく必要がある。

 しかし現在の日本のように、1日3食、もしくは2食、食べるのが当たり前になって
いるような国では、脂肪細胞にエネルギーを貯蔵しても、意味はない。
その必要もない。
必要なエネルギーは、そのつど摂(と)ればよい。
それに体は軽ければ軽いほどよい。
運動量もふえるから、筋肉も鍛えられる。
それが良循環となって、肉体は健康になる。
ポテポテとした肉体を引きずっていて、よいことは、何もない。

 が、どうしてか、「食べなければ損」という意識が、いつも働く。
どうしてだろう?
つまりこんなところでも、マネーの論理が働く。
「同じ値段なのだから、たくさん食べなければ損」と。
言い換えると、その人の健康観まで、マネーに毒されている(?)。
これは忌々(ゆゆ)しき問題と考えてよい。

●金銭的感覚

が、「損とは何か?」「得とは何か?」、それを考えていくと、
その先が、灰色のモヤに包まれてしまう。
何をもって、人は、得といい、何をもって、人は、損というのか?

いちばんわかりやすい例でいえば、金銭的な損と得がある。
数字が大きくなることを、「儲けた」といい、数字が小さくなることを、
「損した」という。
しかしそれにも限界がある。
金(マネー)に毒されすぎると、何が大切で、何がそうでないか、
わからなくなってしまう。
ときに人の命まで、金銭的感覚で、判断してしまう。
自分の人生まで、金銭的感覚で、判断してしまう。

●○○鑑定団

私の大嫌いなテレビ番組に、『○○鑑定団』というのがある。
いろいろな人が、いろいろなものをもちよって、その値段を
「鑑定」するという、あの番組である。
しばらくああいう番組を見つづけていると、ものの価値まで、金銭的感覚で、
判断してしまうようになる。
(……なってしまった。)

「この絵は、200万円の価値があるから、すばらしい絵だ」
「あの絵は、10万円の価値しかないから、つまらない絵だ」とか、など。

その絵にしても、有名人(?)の描いたものほど、値段が高い。
が、もし、ものの価値のみならず、美術的価値まで、金銭的感覚で判断する
ようになってしまったら、「美術とはいったい、何か?」ということに
なってしまう。

 モノならまだしも、自分の健康となると、そうはいかない。
またそうであってはいけない。

●社会のCPU(中央演算装置)

 話は少し脱線する。

世の中には、「カルト」と呼ばれる、宗教団体がある。
正確には、「狂信的宗教団体」と言うべきか。
で、そういう団体に属する信者の人たちと話していて、いつも不思議に思うことがある。
10年前に、世間を騒がせた、あの宗教団体の信者の人たちにしても、そうだ。
会って、個人的に話をしている間は、ごくふつうの、どこにでもいるような人。
そういう狂信的な団体に属しているから、どこかおかしいのでは(?)と思って観察して
みるのだが、そういうことはない。
どこもおかしくない。
冗談も通ずる。
ふつうの常識も、もっている。

 が、全体として、つまりその団体を全体としてみると、やはりおかしい(?)。
集団となったとき、反社会的な行為を繰り返す。
団体の教義を批判したり、否定したりすると、彼らは猛烈にそれに対して反発する。
あるいはそのまま私たちを、ワクの外にはじき飛ばしてしまう。

 ……これは「カルト」と呼ばれるカルト教団の話である。
が、実は、私たちも全体として、同じような宗教を信仰しているのではないか。
「マネー教」というカルト教である。
その信者でいながら、全体がそうであるから、それに気がつかない。
そういうことは、じゅうぶん考えられる。

つまり社会のCPU(中央演算装置)そのものが狂っているから、その(狂い)すら、
自分で気がつくことができない。

●私の子ども時代

 このことは、私の子ども時代と比較してみてもわかる。
当時の特徴を2つに分けるとこうなる。

(1) 戦時中の軍国主義的な色彩が、まだ残っていた。
(2) その時代につづく金権主義の色彩は、まだ薄かった。

 軍国主義的な色彩というのは、たとえば教育の世界にも強く残っていた。
(学校の先生)にしても、戦時中のままの教え方をする人もいた。
反対に民主主義的な(?)教え方をする人もいた。
それがおもしろいほど、両極端に分かれていた。

 一方当時は、まだ牧歌的な温もりが残っていた。
私の父にしても、将棋をさしながら、仕事をしていた。
将棋に熱中してくると、客を待たせて将棋をさしていたこともある。
客が、その将棋に加わることもあった。

 そういう時代と比べてみると、たしかに(現代)はおかしい。
狂っている。
が、みな狂っているから、それが見えない。
わからない。

●飽食の時代の中で

 アメリカ(USA)では、肥満をテーマにしたエッセーを書くのは、タブーだそうだ。
それだけで、「差別」ととらえられるらしい。
しかしご存知のように、アメリカ人の肥満には、ものすごいものがある。
どうすごいかは、見たとおり。
あの国では、肥満でない人をさがすほうが、むずかしい。

 で、最近、私は日本もそうなりつつあるのを、感ずる。
アメリカ人型の肥満がふえているように思う。
飽食のせいというよりは、アメリカ型食生活の影響ではないか。
ともかくも、そういった人たちは、よく食べる。

このことは以前にも書いたが、浜松市の郊外に、バイキング料理の店がある。
ランチタイム時は、1人、1200円で、食べ放題。
そういうところで食事をしている人を見ると、まさに「食べなければ損」といった感じ。
デザートのケーキでも、一個を一口で食べている。
パク、パク、パク……の3回で、3個!

 食事を楽しんでいるというよりは、食欲の奴隷。
「食べる」というよりは、「食べさせられている」。
そんな印象すら、もつ。
もちろんそういう人たちは、例外なく、太っている。
歩くのも苦しそう。

 しかしそういう人ほど、「食べたら、損」なはず。
食べれば食べるほど、健康を害する。
が、そういう人たちほど、よく食べる。

●散歩の途中で

 私たちの日常生活は、マネーにあまりにも毒されすぎている。
それに気づかないまま、毒されすぎている。
芸術も文化も、マネー、マネー、マネー。
ついでに健康までも、マネー、マネー、マネー。
その一例として、「食べなければ損」について考えてみた。

 しかしどうして「食べなければ損」なのか。
たまたま今日、ワイフと散歩しながら、途中でラーメン屋に寄った。
今度から「ランチ・メニュー」が始まった。
ラーメン+ギョーザ+ミニ・チャーハンの3点セットで、580円。
安い!
私は、チャーシュー丼を注文した。
ワイフは、ランチセットを注文した。
が、とても2人で食べられるような量ではない。
ランチセットを2人で分けても、まだ量が多すぎる。
しかし1人分の料理を、2人で分けてたべるというのも、気が引ける。
で、2人分、頼んだ。

 が、そこでもあの選択。
「食べたら損」なのか、「食べなければ損」なのか?

 私はチャーシュー丼には、ほとんど口をつけなかった。
そのかわり、ワイフが注文したランチセットを、2人で分けて食べた。
が、それでもラーメンの麺は、40%近く、食べないで、残した。

 大切なことは、「ラーメンの味を楽しんだ」という事実。
味を楽しめばじゅうぶん。
目的は達した。
「もったいないから、食べてしまおう」と思ったとたん、マネー教の虜(とりこ)
になってしまう。

●マネー教からの脱出

 お金がなければ不幸になる。
しかしお金では、幸福は買えない。
心の満足感も買えない。
お金の力には、限界がある。
が、その一方で、人間の欲望には、際限がない。
その(際限なさ)が、ときとして、心をゆがめる。
ゆがめるだけではない。
大切なものを、大切でないと思い込ませたり、大切でないものを、大切と
思い込ませたりする。

 子どもの世界でそれを考えると、よくわかる。

 10年ほど前のこと。
1人の女の子(小学生)が、(たまごっち)というゲームで遊んでいた。
私はそれを借りて、あちこちをいじった。
とたん、あの(たまごっち)が死んでしまった。
その女の子は、「たまごっちが死んでしまったア!」と、大声で泣き出した。

 私たちはそういう女の子を見ると笑う。
しかし本当のところ、私たちはその女の子と変わらないことを、日常的に
繰り返している。
繰り返しながら、それに気づかないでいる。

●ではどうするか?

 私たちはカルト教団の信者を見て、笑う。
「私たちは、あんなバカではない」と。
しかし同じようなバカなことをしながら、そういう自分に気づくことはない。
自分を知るというのは、それくらい難しい。

 つまり自分自身を、そうしたカルト教団の信者に置き換えてみればよい。
あなたならそういう信者を、どのようにして説得し、教団から抜けださせることが
できるだろうか。

 いきなり頭から「あなたは、まちがっている!」と言ってはいけない。
梯子(はしご)をはずすのは簡単なこと。
大切なことは、同時に、その人に別の救いの道を提示すること。
それをしないで、一方的に、「あなたはまちがっている」と言ってはいけない。
同じように、自分に対して、「私はまちがっている」と思ってはいけない。
大切なことは、自分の中で、別の価値観を創りあげること。

 方法は、簡単。
常に、何が大切で、何が大切でないか、それを問い続ければよい。
何があっても、それを問い続ける。
あとは、時間が、あなたを導いてくれる。
やがてその向こうに、その(大切なもの)が、見えてくるようになる。

 (見えてくのもの)は、それぞれみなちがうだろう。
しかし見えてくる。
その価値観が優勢になったとき、マネー教はあなたの中から、姿を消す。

●食べたら損

 で、結論は、「食べたら損」ということになる。
いっときの欲望を満足させることはできるが、かえって健康を損(そこ)ねる。
同じように、いくらそのチャンスがあったとしても、人をだましたら、損。
ずるいことをしたら、損。
自分を偽ったら、損。
その分だけ、心の健康を損なう。

 「損(そん)」とは、もともと「損(そこ)なうこと」をいう。
失うことを、「損」というのではない。
が、今では、金銭的な損を、「損」という。
またそういうふうに考える人は多い。

 「食べたら損」なのか、「食べなければ損」なのか。
そういうふうに迷うときがあったら、あなたも勇気を出して、「食べたら損」を
選択してみたらどうだろうか。
たったそれだけのことだが、あなたの心に、何らかの変化をもたらすはず。

 ついでに言うなら、マネーが日本で、一般社会に流通するようになったのは、
江戸時代の中期ごろから。
このことについては、以前、私がかなり詳しく調べたから、まちがいない。
つまりそれまでは、日本人は、マネーとは無縁の生活をしていた。
私が子どものころでさえ、「マネー」を、おおっぴらに口にすることは、
卑しいこととされていた。
それが今は、一変した。
何でも、マネー、マネー、マネーとなった。
マネー教の信者になりながら、信者であることにさえ気がつかなくなってしまった。
その結果が、「今」ということになる。

(付記)

 「食べ物を残すことはもったいない」という意見に、一言。

レストランへ行くと、「お子様ランチ」というのがある。
同じように、「シルバー・ランチ」、もしくは「シルバー・メニュー」のようなものを、
もっと用意してほしい。

 最近の傾向として、レストランでの料理の量が、多くなってきたように感ずる。
全国規模で展開しているレストランほど、そうで、たいてい食べ残してしまう。
しかしこれは食料資源という面で、「もったいない」。
私も、そう思う。
だから高齢者向けに、高齢者用のメニューをふやしてほしい。

 「カロリー少なめ、塩分少なめ、糖分控え目、ハーフサイズ」とか。

 もちろん値段も、その分、安くしてほしい

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て 
Hiroshi Hayashi 林浩司 BW BW教室 マネー教 金権教 金権教団 
はやし浩司 なんでも鑑定団 お宝鑑定団 金権教 マネー教)

++++++++++++++++++はやし浩司

●欲望性

 こうして考えてみると、「通俗」というのは、「マネー」にいかに毒されているかで決ま
るということになる。
わかりやすく言えば、そのさらに向こうにある(欲望)と結びついている。
欲望性が強ければ強いほど、人は通俗になる。
わかりやすく言えば、欲望に溺れるまま生きている人は、通俗的になる。
異論もあるだろうが、それほど的をはずしていない(?)。

 が、マネーと権力。
この2つには恐ろしいほどの魔力がある。
それでもって、相手の価値を判断したり、自分の価値を判断したりする。
こちら側が積極的に闘う姿勢を見せないかぎり、あっという間に、その毒牙にかかってし
まう。

 金権を手中に収め、おごり高ぶることも、毒牙。
反対に、金権といえるようなものもなく、自分を過小評価するのも、これまた毒牙。
冒頭で、私はある男の話を書いた。
「林さん、そんなに稼がなくてもいいんじゃない」と言った、あの男の話である。

 考えてみれば、なぜ私がああまで不愉快に思ったかといえば、私自身の中に潜む金権教
を、その言葉がえぐり出したからとも考えられなくはない。
「痛いところを突かれた」……そうも考えられなくはない。

 しかしその人の文化性の高さは、いかに通俗的でないかによって、決まる。
最後に私がオーストラリアで経験した話を載せる。
これも古い原稿である。
もともとは「意識」について書いた原稿である。
ここでいう「通俗性」の理解に役立てば、うれしい。

++++++++++++++++++はやし浩司

【意識論】

++++++++++++++

自分がもっている(意識)ほど、
アテにならないものはない。

「私は私」と思っていても、
そのほとんどは、(作られたもの)。
本当の「私」など、どこにもない?

++++++++++++++

●日本の商社マンは、軽蔑されている?

 今から、40年も前のこと。日本には、まだ綿棒もなかった。バンドエイドもなかった。
乾燥機もなかった。ほとんどの家では、まだボットン便所を使っていた。

 そんなとき、私は、オーストラリアのメルボルン市へと渡った。人口300万人(当時)
のメルボルン市ですら、日本人の留学生は、私1人だけだった。そんなある日のこと。あ
る友人(顔は覚えているが、名前をどうしても思い出せない)が、私にこう言った。

 「ヒロシ、日本の商社マン(ビジネスマン)は、オーストラリアでは、軽蔑されている」
と。「軽蔑(despise)」という言葉を、はっきりと使った。

 その少し前にも、仲のよかったD君もそう言った。それで気になって、その友人に、私
はこう聞いた。

 「いったい、君は、日本の商社マンのどこを見て、そう思うのか?」と。すると、その
友人は、こう話してくれた。

 その友人の父親も何かのビジネスをしていたらしい。そしてあるとき、日本の商社マン
と知りあいになった。その商社マンを、食事に招待した。向こうの人たちは、少し親しく
なると、自宅へ食事に招待する習慣がある。

 で、いっしょに食事をしているときのこと。日本の商社マンは、家の中をあちこち見ま
わしながら、目ざとく日本製を見つけ、「これは日本製」「あれも日本製」と言いだした。
日本の商社マンにしてみれば、親近感をもってもらいために、そう言ったのかもしれない。
が、オーストラリア人であるその父親にしてみれば、不愉快だった。

 しかしそれで終わったわけではない。食事がすむと日本の商社マンは、大きなバッグか
ら、何かの繊維見本を見せて、「これを買わないか?」ともちかけたという。その父親は、
取り扱い分野がちがうからという理由で、それを断った。するとすかさず、今度は、何か
別の商品を取り出し、「これはどうだ?」と迫ったという。

 ……つまり、そういう経験から、その友人の父親は、日本の商社マンを軽蔑するように
なったという。それでその友人は、そう言った。

●しかし……

 しかし当時の私は、その話を聞いて、日本の商社マンのそうした行為が、どうして「軽
蔑」につながるのか、それが理解できなかった。私自身も、日本の商社への入社が内定し
ていたこともある。その上、当時の日本の経済は、高度成長期へと突入しつつあった。日
本中が、「マネー」「マネー」の大合唱に揺れていた。

 それに羽田―シドニー間の航空運賃(往復)だけでも、42、3万円の時代である。大
卒の初任給が、やっと5万円を超えた時代である。しかもオーストラリアドルは、1ドル
が、400円に固定されていた。

 オーストラリアでの生活費は、日本での生活費の、10倍、もしくはそれ以上だった。
オーストラリアへやってきた商社マンたちも、それゆえ、必死だった。

 今でこそ、日本は豊かになった。しかし当時の日本人のだれが、日本がここまで豊かに
なると予想しただろうか。私はあるとき日記に、こう書いたのを覚えている。「日本が、オ
ーストラリアに追いつくためには、50年かかる。あるいは、100年でも不可能かもし
れない」と。

 ほとんどの学生は、車をもっていた。学生の親たちは、別荘をもっていた。農場を経営
していたT君(南オーストラリア州)の父親の年収は、1400~1500万円(当時)
もあった。ごくふつうの、平均的な農場主である。

 「1400~1500万円」と聞くと驚く人もいるかもしれないが、1ドルを400円
で計算すると、そうなった。とくにリッチな生活をしていたわけではないのだが……。

●作られる意識

 一方、私たちはどうかというと、みな、就職といえば、迷わず、銀行、証券会社、商社
の道を選んだ。またそれが学生が進むべき道として、正しい方向と信じていた。

 私も三井物産という会社と、伊藤忠商事という会社の2社の入社試験に合格した。しかし「大きいほうがいい」ということで、三井物産という会社にした。

 日本でいえば「商社マン」だが、オーストラリアでは、「ビジネスマン」。その商社マン
が、軽蔑されていると知って、心底、驚いた。私は、商社マンは尊敬されることはあって
も、軽蔑される存在などとは、考えたこともなかった。

 が、こうした意識も、同じように外国からやってきた留学生たちの意識とくらべてみる
と、作られたものだということがわかった。たとえばフィリッピンからやってきた留学生
は、こう言った。

 「ヒロシ、君は、どうして日本の軍隊に入らないのか?」と。

 当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍人になること、イコール、出世コースとい
うことになっていた。(今も、基本的にはそうだが……。)彼らがもっていた、軍事として
のエリート意識には、相当なものがあった。

 一方、私は私で、ほかに自慢できるものがなかったこともあり、ことあるごとに、私は、
「日本へ帰ったら、ミツイ&カンパニーの商社マンになる」と、言っていた。が、先の友
人は、こう言った。

 「ヒロシ、そんなことを言うのは、もうよせ。君は知らないかもしれないが、日本の商
社マンは、ここオーストラリアでは、軽蔑されている」と。

●それから40年

 それから40年。私ももうすぐ60歳になる。三井物産という会社は、どうにもこうに
も肌に合わなくて、入社後半年を待たずして、やめた。

 理由はいろいろある。が、その前に、私の意識そのものが変わってしまった。その話は
ともかくも、今度は、反対の立場で、似たような経験をすることになった。

 いきさつはともかくも、ある女性から、ある日、電話がかかってきた。「どうしても会い
たいので、会ってほしい」「お伝えしたいことがある」と。

 二男が高校生のとき世話になった友人の母親からのものである。私はその申し出をてい
ねいに受けた。そして食事に招待することにした。

 私はその母親と会うことについて、かなり緊張した。そのとき二男はすでにアメリカに
渡っていた。内心では、二男が何かトラブルでも起こしたのではないかと心配していた。

 が、食事は始終、よい雰囲気のままだった。私はほっとした。が、そのあとのこと。私
がおもむろに、「で、大切な話というのは何ですか?」と切り出した。

 とたんその母親の表情が、さらに緩(ゆる)んだ。その母親は、こう言った。

 「林さん、こういう健康食品がありますが、興味ありません?」と。

 その母親は、ズラズラと、テーブルの上に健康食品を並べた。とたん、私はむっとする
ような不快感を覚えた。「私に会いたいというから会ったが、こんな話で会いたかったの
か!」と。

 利用されたという不快感。金儲けに利用されたという不快感。そういう商品を売りつけ
られるという不快感。そうした不快感は、その女性が、「漢方」という名前を出したときに、
頂点に達した。

 漢方(東洋医学)の「カ」の字も知らない女性が、私に漢方の説明をし始めた。そして
こうも言った。

 「林さんは、お顔も広いようですから、ほかに買ってくださる方を紹介してくださった
ら、1個につき、xx%のマージンをさしあげます」と。

 私は、そのときは、はっきりとこう言った。その少し前にも同じような経験をしたこと
もあった。「お帰りください。あなたが話があると言ったから、こういう場を用意しました。
しかしモノを売りつけるために、こんな場を利用するなんて、失敬でしょ!」と。

 私は、その瞬間、40年前の、あのオーストラリアの友人の言った言葉を思い出した。

●意識

 私たちがもっている(意識)ほど、アテにならないものはない。40年前のその少しあ
と、私は、三井物産という会社をやめ、そのあとしばらくして、幼稚園の講師になった。
それについても、当時の私を知る人たちは、みな、こう言った。

 「あの林は、頭がおかしくなった」と。

 たしかに私の頭はおかしい。今も、おかしい。それはわかる。しかしそうした私を支え
てくれたのは、実は、オーストラリアの友人たちだった。私が幼稚園で働いていると手紙
に書くと、みな、こう言った。

 「ヒロシ、すばらしい選択だ」と。

 今でこそ、私のような生き方をする人がふえてきた。だから商社マンをやめて、幼稚園
の講師になった人がいたとしても、それほど目立たない。しかし当時は、ちがった。私の
母ですら、電話口の向こうで泣き崩れてしまった。「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア!」
と。

 けっして母を責めているのではない。母は、母で、当時の常識をもとにして、そう言っ
た。「常識」というよりは、「意識」と言ったほうがよいかもしれない。

 で、この話の結論。

 私たちは、無数の意識をもっている。しかしその意識にも、2種類ある。意識的に意識
する意識と、無意識のまま意識しない意識である。

 脳みその活動をもとにすると、私たちが意識できる(意識)というのは、脳みそ全体の
数10万分の1にもならないという。あるいは、もっと少ないかもしれない。

 つまり人間の脳みその中には、無意識のまま意識しない意識のほうが、絶対的に多いと
いうこと。ほとんどがそうであるとみてよい。

 この無意識のまま意識しない意識が、実は、私たちの意識を、ウラから操る。が、その
操られる私たちは、それに気づかない。操られていると知ることもなく、操られている。
実は、ここに、(意識)のおもしろさというか、恐ろしさがある。

 ……ということで、この話は、おしまい。今までに「意識」について書いた原稿を、こ
こに添付する。

+++++++++++++

●指で鼻をさす(教育のダークサイド)

 子どもたち(小学生)は、「自分」を表すとき、指で鼻先を押さえる。欧米では、親指で
自分の胸を押さえる。そこで私はいつごろから、子どもたちが自分の鼻を押さえるように
なるかを調べてみた。「調べた」というのもおおげさだが、授業の途中で、子どもたちにど
うするかを聞いてみた。

結果、年長児ではほぼ全員。年中児でも、ほぼ全員。年少児になると、何割かは鼻先を押
さえるが、ウロウロと迷う子どもが多いということがわかった。そんなことで、こういう
習慣は、四歳から五歳ぐらいにかけてできるということがわかった。つまりこの時期、子
どもたちは誰に教えてもらうわけでもなく、いつの間にか、そういう習慣に染まっていく。

 私は何も、ここでジェスチャについて書くつもりはない。私が言いたいのは、教育には、
常に「教えずして教える」という、ダークサイドの部分があるということだ。これはジェ
スチャという、どうでもいいようなことだが、ものの考え方や道筋、思考回路などといっ
たものも、実はこのダークサイドの部分でできる。

しかもその影響は、当然のことながら、幼児期ほど、大きい。この時期に論理的なものの
考え方を見つけた子どもは、ずっと論理的なものの考え方ができるいようになるし、そう
でない子どもは、そうでない。そればかりではない。

この時期に、人生観や価値観の基本までできる。異性観や夫婦像といったものまで、この
時期に完成される。少なくとも、それ以後、大きく変化するということはない。そのこと
はあなた自身を静かに観察してみれば、わかる。

 たとえば私は、今、いろいろなことを考え、こうして文を書いているが、基本的なもの
の考え方が、幼児期以後、変わったという記憶がない。途中で大きく変化したということ
は、ないのだ。今の私は、幼児期の私であり、その幼児期の私が、今の私になっている。
それはちょうど金太郎飴のようなもので、私の人生は、どこで切っても、「私」にほかなら
ない。幼児期に桃太郎だった私が、途中で金太郎になるなどということは、ありえない。

 もうわかっていただけると思うが、幼児教育の重要性は、実はここにある。この時期に
作られる「私」は、一生、「私」の基本になる。あるはその時期にできた方向性に従うだけ
である。中には幼児教育イコール、幼稚教育と考えている人がいるが、それはとんでもな
い誤解である。

 ……と書いたところで、今、ふと、別のことが頭の中を横切った。実は今、ある男の子
(小二)のことが気になっている。彼は男の子なのだが、言い方、ものごしが、女の子っ
ぽいというより、その女の子を通り越して、同性愛者ぽい。まちがいを指摘したりすると、
「イヤーン」と甘ったるい声を出したりする。いくら注意してもなおらない。

で、私が悩んでいることは、このことではなく、それを親に言うべきかどうかということ
だ。もうこの傾向は、ここ1年以上続いている。
なおそうとしてもなおるものではないし、さりとて放置しておくわけにもいかない。放置
しておけば、彼はひょっとしたら、一生、そのままになるだろう。近く、結論を出すつも
りでいる。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 教えずして教えてしまうこと。実は、これがこわい。ユングも、「シャドウ」という言葉
を使って、それを説明した。

 たとえばあなたが、本当は邪悪な人間であったとする。その邪悪さをおおいかくして、
善人ぶっていたとする。そのときその邪悪さが、その人のシャドウとなる。子どもは、あ
なたの近くにいるため、そのシャドウをそのまま引き継いでしまう。

 要するに、ウソやインチキ、ごまかしや仮面で、いくら善人ぶっても、子どもはだませ
ないということ。子どもは、あなたのすべてを見ている。

 そういう意味で、子育ては怖いぞ~オ!

++++++++++++++

内容が少しダブりますが、
こんな原稿を書いたこともあり
ます。
(中日新聞、掲載済み)

++++++++++++++

●国によって違う職業観

 職業観というのは、国によって違う。もう30年も前のことだが、私がメルボルン大学
に留学していたときのこと。当時、あの人口300万人と言われたメルボルン市でさえ、
正規の日本人留学生は私1人だけ。(もう1人、Mという女子学生がいたが、彼女は、もと
もとメルボルンに住んでいた日本人。)そのときのこと。

 私が友人の部屋でお茶を飲んでいると、1通の手紙を見つけた。許可をもらって読むと、
「君を外交官にしたいから、面接に来るように」と。

私が喜んで、「外交官ではないか! おめでとう」と言うと、その友人は何を思ったか、そ
の手紙を丸めてポイと捨てた。「アメリカやイギリスなら行きたいが、99%の国は、行き
たくない」と。考えてみればオーストラリアは移民国家。「外国へ出る」という意識が、日
本人のそれとはまったく違っていた。

 さらにある日。フィリッピンからの留学生と話していると、彼はこう言った。「君は日本
へ帰ったら、ジャパニーズ・アーミィ(軍隊)に入るのか」と。私が「いや、今、日本で
は軍隊はあまり人気がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の伝統ある軍隊になぜ
入らないのか」と、やんやの非難。

当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍人になることイコール、そのまま出世コース
ということになっていた。で、私の番。

 私はほかに自慢できるものがなかったこともあり、最初のころは、会う人ごとに、「ぼく
は日本へ帰ったら、M物産という会社に入る。日本ではナンバーワンの商社だ」と言って
いた。が、ある日、1番仲のよかったデニス君が、こう言った。「ヒロシ、もうそんなこと
を言うのはよせ。日本のビジネスマンは、ここでは軽蔑されている」と。彼は「ディスパ
イズ(軽蔑する)」という言葉を使った。

 当時の日本は高度成長期のまっただ中。ほとんどの学生は何も迷わず、銀行マン、商社
マンの道を歩もうとしていた。外交官になるというのは、エリート中のエリートでしかな
かった。この友人の一言で、私の職業観が大きく変わったことは言うまでもない。

 さて今、あなたはどのような職業観をもっているだろうか。あなたというより、あなた
の夫はどのような職業観をもっているだろうか。それがどんなものであるにせよ、ただこ
れだけは言える。

こうした職業観、つまり常識というのは、決して絶対的なものではないということ。時代
によって、それぞれの国によって、そのときどきの「教育」によってつくられるというこ
と。大切なことは、そういうものを通り越した、その先で子どもの将来を考える必要があ
るということ。

私の母は、私が幼稚園教師になると電話で話したとき、電話口の向こうで、オイオイと泣
き崩れてしまった。「浩ちャーン、あんたは道を誤ったア~」と。母は母の時代の常識にそ
ってそう言っただけだが、その一言が私をどん底に叩き落したことは言うまでもない。

しかしあなたとあなたの子どもの間では、こういうことはあってはならない。これからは、
もうそういう時代ではない。あってはならない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 通俗性 はやし浩司 
金権教 はやし浩司 ディスパイズ despise  軽蔑という言葉を使った)2011/11/19記


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「地元に張りつく」?(日本人の島国根性と、都会的優越感)

++++++++++++++++++はやし浩司

 産経ニュースは、つぎのように伝える(11・17)。

『……民主党の小沢一郎元代表は16日夜、東京・赤坂のレストランで同党所属の衆院当
選1回の若手議員5人と会食し、「年が開ければ、翌年(平成25年)が任期満了で選挙の
空気が強まる。みんな、地元に張り付いてどぶ板でがんばれ」と語った』(産経ニュース)
と。

++++++++++++++++++はやし浩司

●「上」からの視点

 2006年に、こんな原稿を書いた。
私たち浜松に住む人間は、「田舎者」だそうだ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●田舎者はイチコロよ!

+++++++++++++++++++++++

片山さつき氏は、私の選挙区から選出された、
国会議員である。

ふつうは、こうしたエッセーでは、実名を伏せる
ことにしているが、ここでは、あえて、実名で
書かせてもらう。

雑誌「諸君」の中に、こんな記事があった。

「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、
イチコロよ」(片山さつき談)と!

++++++++++++++++++++++

 06年の8月。先の衆議院議員選挙(05年8月)が終わって、ちょうど1年になる。
同じ自民党の城内実氏を僅差で破って、衆議院議員になった。それが片山さつき氏である。
城内実氏は、郵政民営化に反対して、K首相の反感をくらった。

 つまり片山さつき氏は、城内実氏をたたき落とすために、中央から送り込まれた、刺客
ということになる。片山さつき氏は、財務省主計局主計官(防衛担当)を退官し、静岡県
7区から立候補した。

 私が住む、この選挙区で、である。

 その片山さつき氏について、倉田真由美氏(マンガ家)が、こんな気になる記事を書い
ている。

 『……片山さつきさんの地元代議士への土下座は、毒々しさすら漂っていた。謝罪では
ない、媚(こび)の土下座は見苦しいし、世間からズレている。未だに「ミス東大→財務
省キャリア」という自意識に浸(つ)かり、「謙虚」のケの字もわからないまま、「私が土
下座なんてしたら、この辺の田舎者は、イチコロよ」と高を括(くく)る。

 そうしたバランス感覚の欠如も、いくら揶揄(やゆ)されても変えない髪型や化粧も、
自分が客観視できない、強すぎる主観の表れだ。

 「私いいオンナだから、これでいいの」という思い込みに対して、周りの人間も、もは
やお手上げなのだろう』(以上、原文のまま。雑誌「諸君」・05年11月号・P87)と。

 この記事の中で、とくに気になったのは、「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、
イチコロよ」という部分である。本当にそう言ったかどうかは、この記事を書いた、倉田
真由美氏に責任を取ってもらうことにして、これほど、頭にカチンときた記事はない。

 片山さつき氏が、どこかの席で、土下座をして、「当選させてほしい」と頼んだという話
は、当時、私も耳にしたことがある。しかしそのあと、東京に戻って、「私が土下座なんて
したら、この辺の田舎者は、イチコロよ」と話した部分については、私は知らなかった。

 何が、「田舎者」だ! 「イチコロ」とは何だ! しかしこれほど、選挙民をバカにした
発言はない。民主主義そのものを否定した発言はない。そういうタイプの女性ではないか
とは疑っていたが、片山さつき氏は、まさにその通りの女性だった。

 私たちが、田舎者? ならば聞くが、いまだにあちこちに張ってある、あのポスターは
何か? あれが都会人の顔か? あれが元ミス東大の顔か? 笑わせるな!

 もしこれらの発言が事実とするなら、私は片山さつき氏を許さない。片山さつき氏は、
まさに選挙のために地元へやってきて、私たち選挙民を利用しただけ。しかも利用するだ
け利用しておきながら、その私たちを、「田舎者」とは!

 そして先の選挙からちょうど1年になるが、片山さつき氏が、この1年間、この地元に
帰ってきて、何かをしたという話を、私は、まったく知らない。念のためワイフにも聞い
てみたが、ワイフも、「知らない」と言った。ワイフの知人も、「知らない」と言った。

 つまり、片山さつき氏は、選挙のために、私たちを利用しただけ。もっとはっきり言え
ば、自己の名聞名利のために、私たちを利用しただけ。

 しかしこれがはたして、民主主義と言えるのか? こんな民主主義が、この日本で、ま
かり通ってよいのか?

 ある日、突然、中央から、天下り官僚がやってくる。それまで名前のナの字も知らない。
もちろん地元のために、何かをしてきた人でもない。そういう人が、うまく選挙だけをく
ぐりぬけて、国会議員になり、また中央へ戻っていく! どうしてそういう人が、地元の
代表なのか?

 そののち片山さつき氏は、派手なパフォーマンスを繰りかえし、政界ではさまざまな話
題をふりまいている。しかしそれらは、あくまでも、自分のため。私たちの住むこの地元
の利益につながったという話は、まったく聞いていない。少なくとも、私は、まったく知
らない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、イチコロよ」

 先の原稿は、2006年に書いたもの。
あの国会議員のパフォーマンスには、どこか不自然なものを感じていた。
そんなとき、雑誌「諸君」は、先の記事をあげた。
「田舎者」と。

 片山さつき氏の選挙区(つまり私の選挙区)は、浜松市の西に位置する。
半分程度は、浜松市内に隣接しているが、「田舎」といえば「田舎」。
しかしそれにしても、「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、イチコロよ」(片山
さつき氏談)とは!

 ……この種の発言は、ときどき中央からこの地方まで、漏れてくる。
冒頭にあげた、「張りつけ発言」(小沢一郎氏談)も、そのひとつ。
中央集権意識がかなり強くなければ、こういう言葉は出てこない。
つまり「主体」は、東京にあり、地方はただの「借り家」?
視点が「上」にある。
地方を上から見ている。
だから下にある地元に、「張りつけ」?

 一方、地方に住む私たちは、そういう考え方をしない。
国会議員というのは、あくまでも私たちの住む地方を代表する議員。
「国会でがんばってきてほしい」とは言うが、「張りついてほしい」とは言わない。

 言葉の切れ端を問題にするつもりはない。
しかし全体としてみると、小沢一郎氏というのは、そういう人物だろうなということが、
よくわかる。
失言というより、「しっぽ」。
まさに氷山の一角。
私にはこう聞こえた。

「土下座でも何でもして、また東京へ戻って来い」と。

●中央集権意識

 中央集権意識というのが、どういうものか。
それはアメリカやオーストラリアへ行ってみると、よくわかる。
とくにオーストラリア。

 もともとは州ごとに独立していた。
列車の線路の幅もちがっていた(1970年当時)。
だから首都をどこにするかで、もめた。
結果、シドニーとメルボルンの間にあるキャンベラに首都が置かれた。

 で、こんなことがある。
「♪ウォルチング・マチルダ」と言えば、だれもが知っているオーストラリアのブッシュ・
ソングである。
しかし南オーストラリア州の人たちは、それを歌わない。
「浩司、あれはニュー・サウス・ウェールズ州(NSW)の歌だよ」と。

 「東京から来た」というだけで、何でもかんでもありがたがる田舎根性。
アホでもバカでもよい。
インチキでもよい。
それを知りたければ、年末恒例のディナーショーをみればよい。
少し大きなホテルになると、東京からタレントを呼んできて、ディナーショーを開く。

 一方、中央(東京)に住む連中は、みな、こう言っている。
「東京で有名になって、地方で稼げ」と。
私は若いころ、NETのアフターヌーショー(川崎敬三)や、11PM(水曜)の脚本を
書いていた。
そのあたりの事情をよく知っている。

 その集約されたものが、「政治」ということになる。

●都会的優越感

 都会的優越感が、いかに幻惑であるかは、都会の中を走る電車に乗ってみればわかる。
私のいちばん記憶に残っているのは、京急久里浜線(神奈川県)に乗ったときのこと。
たしか三崎口(始発)というところから、横浜まで乗った。

 乗ったときは、ガラガラ。
まわりにはまだ田園風景も見られた。
が、4~5駅も過ぎると、ラッシュアワー時ということもあって、急に混み始めた。
ふつうの混み方ではない。
私はそれを見ながら、こう思った。
「このあたりの人たちは、毎日1時間も、こんな環境の中で過ごしているのか」と。
とたん、都会がもつ「幻惑」が、ガラガラと音をたてて崩れていくのを感じた。
私たち地方人のほうが、はるかに人間らしい生活をしている。

 が、都会に住んでいる人たちには、それがわからない。
「自分たちは地方に住んでいる人間より、(偉い)」と思い込んでいる。
馬鹿げた優越感だが、都会に住んでいる人にはわからない。
その理由のひとつが、「田舎根性」。
つまり田舎に住む私たち自身にも、責任がある。

●慇懃無礼

 現在、東京には友人は1人もいない。
親類もいない。
少し前までは、何人かいたが、仕事上のつきあいだった。
だからあえて、書く。……書ける。

 東京から来る人は、それなりに電話などで連絡をしてくる。
「それなり」というのは、「慇懃無礼(いんぎんぶれい)」という意味。
が、決まってこう言う。
「○○時○○分に、浜松駅へ着くから」と。

 その言葉の向こうで、「当然、浜松駅まで、迎えに来い」と。
いまだかって、「あなたの自宅へ、何時ごろ着く」と言った人は、1人もいない。
JR浜松駅から、私の自宅まで、タクシーで約25分。
料金は2000円とちょっと(2011年現在)。
この浜松市を、地図上の「点」としか考えていない。

 帰るときもそうだ。
いまだかって、「タクシーを呼んでください」と言った人は、これまた1人もいない。
が、その一方で、礼儀正しいのは、むしろオーストラリア人。
どう礼儀正しいかは、今さらここに書くまでもない。

●「地元に張りつく」

 恐らく東京に住んでいる人には、理解できないだろう。
「地元に張りつく」という言葉を聞いても、それを当然と思うかもしれない。
それ以前に、疑問にも思わないだろう。

 が、私はちがう。
この浜松市に住んで40年。
50歳になるころまで、浜松と東京の間を行き来しながら、仕事をしてきた。
だから東京に住む都会人がどのように考え、一方地方に住む「田舎人」がどのように考え
るか、それがよくわかる。

 さいごに今朝の中日新聞に載った、放射線拡散の様子をシミュレーションした図を紹介
する(気象研究所発表)。
3・11大震災のあと、3月19日と3月20日の拡散様子図である。

 ここで見てほしいのは、放射線の拡散した様子ではない。
いかにこの日本が小さいかということ。
こんな小さな国で、中央だの、地方だの言っていること自体、馬鹿げている。
それがわかってほしかったから、あえて紹介する。

img230.jpg

 ……改めて、日本が島国であることを知る。
本当に日本は、小さな国。
この図をじっとながめていると、それがよくわかる。


Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司
 
●映画『インモータルズ』

+++++++++++++++++++

今夜、映画『インモータルズ』を観てきた。
が、驚いたのは、観客。
観客は、私たち2人だけ。
(あの広い劇場で、私たち2人だけだぞ!)

3D映画で、アメリカでは大好評だったとか。
しかし私はあの手の映画は、見飽きた。
いつもパターンは同じ。

で、ほしはきびしいく、2つの★★。

で、再び、観客の話。
私たちだけということで、おしゃべり自由。
それが楽しかった。

++++++++++++++++++++

●浜松駅前

 駅前は活気を取り戻しつつある。
それは私にもわかる。
が、その一方で、駅(JR浜松駅)から歩いて数分も離れると、とたんに人影はまばらに
なる。
5分も歩けば、ザザ・シティというショッピング・センターにやってくる。
現在、中央館と西館が営業している。
しかし大理石のらせん階段をおりると、そこはスーパー。
たこ焼き屋に、いくつかの飲食店。
占いのコーナーもある。
少し前まで、100円ショップもあった。

 無残なのは、中央館。
1階ですら、人影はまばら。
2~4階は、まばらどころか、空き部屋だらけ。
エスカレーターで上がってくる人も、ほとんどいない。

 駅前にEデパートがオープンしてから、人足がさらに遠のいた。

●失敗の連続

 私が浜松に住むようになってしばらくしてからのこと。
そのザザ・シティのあったところに、西武デパートができた。
当初はたいへんなにぎわいようだった。
が、駅前に、イトーヨーカー堂ができた。
その前にJR浜松駅が大改修を行い、メイワンというデパートもできた。
とたん、西武デパートから人が去った。

 が、決定的だったのは、昔からあった松菱デパートの倒産。
駅とザザ・シティの中間あたりに位置していた。
その数か月前、つまり松菱デパートが倒産する数か月前、ザザ・シティと松菱デパートを
つなぐ空中歩道を市が建設した。
空中歩道は、まったくの無駄づかいになった。
もちろん税金の無駄づかいである。

●ザザ・シティの不振

 今日も映画の帰りに、ザザ・シティの中を歩いてみた。
(映画館はそのザザ・シティの西館にある。)
が、今夜も、人影はほとんどなかった。
あやしげな雰囲気の男子高校生、女子高校生が、あちこちに数人ずつのかたまりをつくっ
ていた。
それだけ。
1階には店が並んでいるが、客のいる店はなかった。

 ザザ・シティは、今、沈没しかかっている。

●行政不信

 考えてみれば、浜松市はおかしなことばかりしている。
たとえば駅前に巨大なビルを建てた。
アクトタワーというビルである。
が、フタをあけてみると、新規に外からやってきて事務所を開いた会社はゼロ(当時)。
みな、市内から、横滑りで入居していった。

 その結果、市内の貸しビルは、空き室だらけになってしまった。
不動産業を営んでいた友人(学生時代の同級生)は、こう言った。
「3分の2が空き室だ」(当時)と。

 それからもう12、3年になる。
その状況は、今も変わっていない。

 で、今回の駅前開発。
駅前に力を注げば注ぐほど、その直近にある外側のデパートや商店街から客足が遠のく。
市内へやってくる客の数は、ほとんど変わらない。
たとえば駅から歩いて1~2分のところにある、「べんがら横丁」は、今、3分の1ほどが
店を閉めている。

 で、今度は、ザザ・シティ。
笛吹けど、(客は)、踊らず。
そのつど、いったいいくらの税金が無駄になっていることやら。

●発想の転換

 何度も書くが、「駅前は浜松市の顔」という発想を捨てる。
よくても、悪くても、浜松市の工業にはほとんど影響はない。
無理に活性化させようとしても、うまくいくはずがない。
それが世界の常識。
郊外に大型店があれば、なおさら。

 外国へ行っても、駅前はどこもガランとしている。
倉庫街の真ん中にあるところもある。
どうして日本人だけが、(浜松だけが)、駅前に、こうもこだわるのか。
そんな化粧をしても、見る人が見れば、わかる。
そういうのを「化けの皮」という。

●映画『源氏物語』

 まだ予告編しか観ていない。
映画『源氏物語』。
その予告編の中で、男女が接吻(=口と口の接吻)するシーンが出てくる。
まことにもって、生々しいシーンだが、ちょっと待った!

 平安時代の昔、日本人は、接吻などしただろうか?
私が子どものころですらなかった。
日本人が接吻をするようになったのは、戦後のこと。
アメリカ映画の影響とされる。
(つまり映画のもつ影響力には、ものすごいものがある。)
ときのGHQは、日本映画界に対して、1回はかならず接吻シーンを入れろという命令を
出したとか。
昔、そんな風説を耳にしたことがある。

 そこであちこちを調べてみた。
この分野の研究は、みなが関心をもっているだけに、かなり進んでいる。
その中でも、「教えて、GOO」の中に、こんな記述があった。
そのまま一部を紹介させてもらう。

『……文献にも、平安初期の「土佐日記」に

「ただ押鮎の口をのみぞ吸ふ。この吸ふ人々の口を押鮎もし思ふやうあらむや」

船旅の途中、正月に祝い膳もなく、口吸いたい恋人もいないから、押し鮎を(彼女に見立
てて)吸ってみたりしたよ。鮎も、口吸ってる相手(=人)の事を、愛しいと思ってくれ
るかなぁ~(笑)(私訳)

と言う記述があります』と。

 「ああ、日本にもあったんだ!」というところで、この話はおしまい。
しかし、だ。
日本人がこうまで接吻をするようになったのは、最近のことだぞ!
2011/11/17朝記
 

Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

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