2011年12月25日日曜日

●映画「山本五十六」  ●はやし浩司 世にも不思議な留学記

●映画『山本五十六』、『世にも不思議な留学記』

●12月25日(風邪?)

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 昨夜、寒い中、がまんしたのがよくなかった。
11時ごろまで、書斎で、あれこれ作業をしていた。
というか、このところ気温センサーが鈍くなったよう(?)。
寒いはずなのに、それほど寒く感じない。
足腰が金属のように冷たくなって、はじめて寒さを感ずる。
昨夜が、そうだった。
「寒い」というより、冷え冷えとした感覚が足の先から腰までやってきて、はじめて外気の冷たさがわかった。
それがわかって、あわてて暖かいはずの布団の中に入った。
が、足の先だけは、なかなか温まらなかった。
足を布団の中でこすりつけたりした。
30分ほど、もがいた。

 ……ということで、今朝は、起きたときからゾクゾクする。
腰が痛い。
のども痛い。
どうやら風邪をひいたらしい。
が、負けてはおられない。

 10分のウォーキングのあと、熱い風呂へ飛び込む。
まだ風邪薬はのんでいないが、あとで葛根湯をのむつもり。

風邪(かぜ)のひき始めは、葛根湯(かこんとう)。
風邪(ふうじゃ)が、体の内部に入り、悪寒がするようになったら、麻黄湯(まおうとう)。
インフエンザのばあいは、張仲景の『傷寒論』(『傷寒雑病論』ともいう)が、参考になる。
後漢時代の医家である。

(注:ただし、張仲景が言う「傷寒・雑病」というのは、チフスやコレラのような伝染病をさすという説もある。
「傷寒」というのは、文字通り、「寒邪に敗れる」を意味する。
それもあって、私は「インフルエンザ説」を唱える。)

 ともあれ、今日は、とくに予定はなし。
家で静かにしている。
ゾクゾク……。
症状が麻黄湯に近くなってきたような感じがする。 

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●「はやし浩司 目で見る漢方診断」

 たった今、ヤフーの検索機能を使って、「はやし浩司 目で見る漢方診断」を検索してみた。
2340件、ヒットした。
そのトップに、「AMAZON COM JP」があった。
それをクリック。
私の本が、AMAZONで、6339円で売られているのを知った。
紹介には、こうあった。

「……状態の悪い本です、カバーがなく、ページに水ぬれ跡がずっとついています。書き込みや線引き、ページの欠落はありませんが、読めればよい方向けです」(わだ古書店)と。

 うれしかった。
ボロボロの中古本が、6339円!
少し状態のよい本になると、7000~9000円で取り引きされている。
現在、その「目で見る漢方診断」は、HPのほうで無料で公開している。
興味のある人は、どうか、そちらを見てほしい。

http://bwtachiyomi.ninja-web.net/page051.html

(私が生きている間の、早いもの勝ち! ……つまり死んだら、HPは、閉鎖になり、公開も終わるという意味。
無料で読むなら、今のうち!)

 おかしなもので、最近は、自分の書いた本を参考にし、ものを書くことがときどきある。
『目で見る漢方診断』にしても、100%、私が書いた本である。
にもかかわらず、同時に2000年前(黄帝の時代になると、5500年前)に、他人によって書かれた本のような感じもする。
自分の本であって、自分の本でない?
その本を書いたころでさえ、遠い遠い昔のような気がする。

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●映画『山本五十六』

 昨日の午後、映画『山本五十六』を観てきた。
久々に観る、邦画である。
CGの稚拙さは随所に見られたが、星は3つの、★★★。
よかった。
途中、何度か涙がこぼれた。

 ただし悪役の新聞記者の演技が、大げさ。
露骨。
俳優そのものの、脳みそが薄っぺらい。
だから演技に、深みが出てこない。

知的な俳優が、ああいう役をこなせば、すばらしい俳優ということになる。
が、そうでない俳優が、無理に悪役を演ずるから、かえって底が見えてしまう。
現実に、ああまで感情をむき出しにする人がいたら、私たちはその人を「バカ」という。
もし『山本五十六』を観る機会があったら、新聞記者の演技に注目してほしい。
私がここで言っている意味が、わかってもらえるはず。

 で、その山本五十六について、こんな原稿を書いたことがある。
中日新聞に発表させてもらった原稿である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●国によって違う職業観

 職業観というのは、国によって違う。もう30年も前のことだが、私がメルボルン大学
に留学していたときのこと。当時、あの人口300万人と言われたメルボルン市でさえ、
正規の日本人留学生は私1人だけ。(もう1人、Mという女子学生がいたが、彼女は、もと
もとメルボルンに住んでいた日本人。)そのときのこと。

 私が友人の部屋でお茶を飲んでいると、1通の手紙を見つけた。許可をもらって読むと、
「君を外交官にしたいから、面接に来るように」と。

私が喜んで、「外交官ではないか! おめでとう」と言うと、その友人は何を思ったか、そ
の手紙を丸めてポイと捨てた。「アメリカやイギリスなら行きたいが、99%の国は、行き
たくない」と。考えてみればオーストラリアは移民国家。「外国へ出る」という意識が、日
本人のそれとはまったく違っていた。

 さらにある日。フィリッピンからの留学生と話していると、彼はこう言った。「君は日本
へ帰ったら、ジャパニーズ・アーミィ(軍隊)に入るのか」と。私が「いや、今、日本で
は軍隊はあまり人気がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の伝統ある軍隊になぜ
入らないのか」と、やんやの非難。

当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍人になることイコール、そのまま出世コース
ということになっていた。で、私の番。

 私はほかに自慢できるものがなかったこともあり、最初のころは、会う人ごとに、「ぼく
は日本へ帰ったら、M物産という会社に入る。日本ではナンバーワンの商社だ」と言って
いた。が、ある日、1番仲のよかったデニス君が、こう言った。「ヒロシ、もうそんなこと
を言うのはよせ。日本のビジネスマンは、ここでは軽蔑されている」と。彼は「ディスパ
イズ(軽蔑する)」という言葉を使った。

 当時の日本は高度成長期のまっただ中。ほとんどの学生は何も迷わず、銀行マン、商社
マンの道を歩もうとしていた。外交官になるというのは、エリート中のエリートでしかな
かった。この友人の一言で、私の職業観が大きく変わったことは言うまでもない。

 さて今、あなたはどのような職業観をもっているだろうか。あなたというより、あなた
の夫はどのような職業観をもっているだろうか。それがどんなものであるにせよ、ただこ
れだけは言える。

こうした職業観、つまり常識というのは、決して絶対的なものではないということ。時代
によって、それぞれの国によって、そのときどきの「教育」によってつくられるというこ
と。大切なことは、そういうものを通り越した、その先で子どもの将来を考える必要があ
るということ。

私の母は、私が幼稚園教師になると電話で話したとき、電話口の向こうで、オイオイと泣
き崩れてしまった。「浩ちャーン、あんたは道を誤ったア~」と。母は母の時代の常識にそ
ってそう言っただけだが、その一言が私をどん底に叩き落したことは言うまでもない。

しかしあなたとあなたの子どもの間では、こういうことはあってはならない。これからは、
もうそういう時代ではない。あってはならない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 通俗性 はやし浩司 
金権教 はやし浩司 ディスパイズ despise  軽蔑という言葉を使った はやし浩司 山本五十六)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

もう1作。
これも中日新聞で発表済み。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

イソロクはアジアの英雄だった【2】

●自由とは「自らに由る」こと

 オーストラリアには本物の自由があった。自由とは、「自らに由(よ)る」という意味だ。こんなことがあった。

 夏の暑い日のことだった。ハウスの連中が水合戦をしようということになった。で、一人、二、三ドルずつ集めた。消防用の水栓をあけると、二〇ドルの罰金ということになっていた。で、私たちがそのお金を、ハウスの受け付けへもっていくと、窓口の女性は、笑いながら、黙ってそれを受け取ってくれた。

 消防用の水の水圧は、水道の比ではない。まともにくらうと学生でも、体が数メートルは吹っ飛ぶ。私たちはその水合戦を、消防自動車が飛んで来るまで楽しんだ。またこんなこともあった。

 一応ハウスは、女性禁制だった。が、誰もそんなことなど守らない。友人のロスもその朝、ガールフレンドと一緒だった。そこで私たちは、窓とドアから一斉に彼の部屋に飛び込み、ベッド
ごと二人を運び出した。運びだして、ハウスの裏にある公園のまん中まで運んだ。公園といっても、地平線がはるかかなたに見えるほど、広い。

 ロスたちはベッドの上でワーワー叫んでいたが、私たちは無視した。あとで振りかえると、二人は互いの体をシーツでくるんで、公園を走っていた。それを見て、私たちは笑った。公園にいた人たちも笑った。そしてロスたちも笑った。風に舞うシーツが、やたらと白かった。

●「外交官はブタの仕事」

 そしてある日。友人の部屋でお茶を飲んでいると、私は外務省からの手紙をみつけた。許可をもらって読むと、「君を外交官にしたいから、面接に来るように」と。そこで私が「おめでとう」と言うと、彼はその手紙をそのままごみ箱へポイと捨ててしまった。「ブタの仕事だ。アメリカやイギリスなら行きたいが、九九%の国へは行きたくない」と。彼は「ブタ」という言葉を使った。

 あの国はもともと移民国家。「外国へ出る」という意識そのものが、日本人のそれとはまったくちがっていた。同じ公務の仕事というなら、オーストラリア国内のほうがよい、と考えていたようだ。また別の日。

フィリッピンからの留学生が来て、こう言った。「君は日本へ帰ったら、軍隊に入るのか」と。「今、日本では軍隊はあまり人気がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の、伝統ある軍隊になぜ入らない」と、やんやの非難。当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍人になることイコール、出世を意味していた。

 マニラ郊外にマカティと呼ばれる特別居住区があった。軍人の場合、下から二階級昇進するだけで、そのマカティに、家つき、運転手つきの車があてがわれた。またイソロクは、「白人と対等に戦った最初のアジア人」ということで、アジアの学生の間では英雄だった。これには驚いたが、事実は事実だ。日本以外のアジアの国々は、欧米各国の植民地になったという暗い歴史がある。

 そして私の番。ある日、一番仲のよかった友だちが、私にこう言った。「ヒロシ、もうそんなこと言うのはよせ。ここでは、日本人の商社マンは軽蔑されている」と。私はことあるごとに、日本へ帰ったら、M物産という会社に入社することになっていると、言っていた。ほかに自慢するものがなかった。が、国変われば、当然、価値観もちがう。

 私たち戦後生まれの団塊の世代は、就職といえば、迷わず、商社マンや銀行マンの道を選んだ。それが学生として、最良の道だと信じていた。しかしそういう価値観とて、国策の中でつくられたものだった。私は、それを思い知らされた。

 時、まさしく日本は、高度成長へのまっただ中へと、ばく進していた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●山本五十六

 私がいたカレッジには、世界中から学生たちが集まっていた。
アジアからの学生も、70~80人、いた。
が、それらの学生たちは、山本五十六だけは、尊敬していた。
先の原稿の中で書いたことは、事実である。

 東条英機は嫌われていたが、山本五十六は、尊敬されていた。
今でも、「白人と対等に戦った最初のアジア人」と言った相手の名前と顔をよく覚えている。
タン・アー・チュウアン君である。
マレーシアから来ていた留学生だった。
そのタン君について書いた原稿もある。

 それを掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●処刑になったタン君【12】

●日本人にまちがえられたタン君

 私の一番仲のよかった友人に、タン君というのがいた。マレ-シアン中国人で、経済学部に籍をおいていた。

 最初、彼は私とはまったく口をきこうとしなかった。ずっとあとになって理由を聞くと、「ぼくの祖父は、日本兵に殺されたからだ」と教えてくれた。そのタン君。ある日私にこう言った。

 「日本は中国の属国だ」と。そこで私が猛烈に反発すると、「じゃ、お前の名前を、日本語で書いてみろ」と。私が「林浩司」と漢字で書くと、「それ見ろ、中国語じゃないか」と笑った。

 そう、彼はマレーシア国籍をもっていたが、自分では決してマレーシア人とは言わなかった。
「ぼくは中国人だ」といつも言っていた。マレー語もほとんど話さなかった。話さないばかりか、マレー人そのものを、どこかで軽蔑していた。

 日本人が中国人にまちがえられると、たいていの日本人は怒る。しかし中国人が日本人にまちがえられると、もっと怒る。タン君は、自分が日本人にまちがえられるのを、何よりも嫌った。街を歩いているときもそうだった。「お前も日本人か」と聞かれたとき、タン君は、地面を足で蹴飛ばしながら、「ノー(違う)!」と叫んでいた。

 そのタン君には一人のガ-ルフレンドがいた。しかし彼は決して、彼女を私に紹介しようとしなかった。一度ベッドの中で一緒にいるところを見かけたが、すぐ毛布で顔を隠してしまった。が、やがて卒業式が近づいてきた。

 タン君は成績上位者に与えられる、名誉学士号(オナー・ディグリー)を取得していた。そのタン君が、ある日、中華街のレストランで、こう話してくれた。「ヒロシ、ぼくのジェニ-は……」と。喉の奥から絞り出すような声だった。「ジェニ-は四二歳だ。人妻だ。しかも子どもがいる。今、夫から訴えられている」と。

 そう言い終わったとき、彼は緊張のあまり、手をブルブルと震わした。

●赤軍に、そして処刑

 そのタン君と私は、たまたま東大から来ていた田丸謙二教授の部屋で、よく徹夜した。教授の部屋は広く、それにいつも食べ物が豊富にあった。

 田丸教授は、『東大闘争』で疲れたとかで、休暇をもらってメルボルン大学へ来ていた。教授はその後、東大の総長特別補佐、つまり副総長になられたが、タン君がマレ-シアで処刑されたと聞いたときには、ユネスコの国内委員会の委員もしていた。

 この話は確認がとれていないので、もし世界のどこかでタン君が生きているとしたら、それはそれですばらしいことだと思う。しかし私に届いた情報にまちがいがなければ、タン君は、マレ-シアで、一九八〇年ごろ処刑されている。タン君は大学を卒業すると同時に、ジェニ-とクアラルンプ-ルへ駆け落ちし、そこで兄を手伝ってビジネスを始めた。

 しばらくは音信があったが、あるときからプツリと途絶えてしまった。何度か電話をしてみたが、いつも別の人が出て、英語そのものが通じなかった。で、これから先は、偶然、見つけた新聞記事によるものだ。

 その後、タン君は、マレ-シアでは非合法組織である赤軍に身を投じ、逮捕、投獄され、そして処刑されてしまった。遺骨は今、兄の手でシンガポ-ルの墓地に埋葬されているという。

 田丸教授にその話をすると、教授は、「私なら(ユネスコを通して)何とかできたのに……」と、さかんにくやしがっておられた。そうそう私は彼にで会ってからというもの、「私は日本人だ」と言うのをやめた。「私はアジア人だ」と言うようになった。その心は今も私の心の中で生きている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 タン君 タン・アー・チュアン マレーシア 田丸謙二 はやし浩司 世にも不思議な留学記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

これらの原稿は、以下のところで紹介している。

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page195.html

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●では、今日は、ここまで

 やはりこれから葛根湯をのんでくる。
そのあとのことはわからないが、しばらく布団の中で横になるつもり。
ワイフは、現在、美容院へ行っている。
ワイフが帰ってくるまで、無事、生きていたい。

 2011/12/25朝記

Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司






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