2012年7月6日金曜日

A mother and her boy, broken off

【BW子どもクラブより】はやし浩司 2012-07-05

●年中児に英語を教える


●小1~2児に「角」を教える


●小2~3児に「角」と「角度」を教える



Hiroshi Hayashi+++++++July. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【T県のJさん(母親)から、はやし浩司へ】

はやし様

サイトに時々お邪魔させて頂き、育児の参考にして励まされてきた二児の母です。
度々問題を起こす息子と、よく干渉し私や子供たち(特に私へですが)をなじる両親についてです。
自分の存在価値と子供への影響をご相談させて頂きたいと思います。

私たち親子3人は、離婚し実家に戻り長い期間が過ぎた今現在も、とてもふがいないのです。
両親のもとに同居しております。
収入がかなり不安定な上、十分な貯蓄もなく不安なまま今まで過ごしてきました。
が、来年3月の娘の受験終了後、教育に費用もかかる年頃にはなりますが、校区内移転を考えています。

(これは息子が中学生活を終えるまでの間です。
その後は市外移転を考えてます)。

まず両親と私の関係ですが、仲は悪いです。
この年になってまで過干渉すぎるのと、自分たちの思いのみを押し付けてくるからです。
思うようにならなければ、両親は人前や子供の前であろうが容赦なく罵声を浴びせます。
それは私が子供のころからそうでした。
昔から暴力もありました。
今日もあります。

自営業で、自宅の一室を事務所変わりにしています。
が、仕事での外出や来客まで詮索されたりします。
来客については玄関先でのことなのですが、私の話に聞き耳を立てているような状態です。
営業活動で各担当の方が仕事で来ても、気を遣います。
常に父にが余計なことをいわないだろうか、とです。
客にも気を遣わせているので今は、外でわざわざ時間を作ってもらい、先方で会っています。

(実際、両親は、失礼な物言いをして相手を不愉快にさせたことも何度かあります)

子供が登校した後は、家には居場所がないので、外に出て仕事をしている時や、一人でいる時が唯一安心できます。
そんな父に今日、息子を酷く叱責しているときに、子供の前で何発も殴られました。
これまでも息子に明らかな原因があり、叱責しているときに、叱責している私の方が殴られてたことが何度もあります。
息子はをれを見て、笑っており、反省どころか反省する機会さえ奪われることが何度もありました。

今日もそのような場面がありました。
突然血相を変えて殴りかかる父に抵抗していた私を見て、息子は勝ち誇ったように笑っていました。
よそに迷惑をかけていたことなど反省もせず、そのような態度をとったのでビンタをたたきました。

息子は「父に殴られた八つ当たりで叩かれた」としか思っておらず、鼻血を出したのを見た母は、「暴力、暴力」と言って、騒ぎ立てました。
父の暴力の原因が私だと、とにかくすべて私が悪者にされます。
はじめに息子にしていた話はどこに行ったのかわからなくなってしまいました。

隣に住む弟が察して、外に出た息子をなだめにしばらく歩いて話をしてくれたようでした。
が、息子の私に対する信頼などなく、息子の帰宅と同時に、「兄ちゃん(弟)がいてよかったね。じいちゃん達の部屋で寝なさい」と、子供が何をしても、私が悪いとになります。

お金や日常生活についても、息子と娘とでは、息子にだけ甘く、息子と娘の間にトラブルがあり、明らかに息子に原因があった場合でも、息子はかばわれ、娘がひどく怒鳴られ、なじられます。

息子は小学校の低学年と高学年で2回万引きをしています。
そして私は悲しく、仕事も切り上げ帰宅しひどく叱り、一緒に関係先に詫びに行きました。
1度目も2度目も改心しました。
でも2度目はいくら物が欲しかったと言え、2度目の万引きを分別なくやってしまいました。

その辺りにお小遣い以上の買い物を頻繁にしていたのが気になり、何度か問ただしました。が、本人が万引きを否定し、その時は信じましたが、やっぱりかという思いと絶望感でいっぱいでした。
先生から出張中に連絡を受け遠方からでしたが夜帰宅し、やはり2度目ですし、何店か悪事を働いていたので、反省しても態度や友人を巻き込んだ事の重大さがまだ配慮が足りないと伺える言葉が何度か出たので、許せなくて、顔を殴りました。

子供は口を切りましたが、それを周囲に暴力なら暴力と言われてもいいと、でももう2度目な上に、お友達やそのご家族に大変申し訳なく、そういう行動になりました。
世の中狭い上に、近所での出来事だったので、自分が人の目を気にする場面もでてくるだろうし、娘にもよからぬ迷惑がかかる可能性があることも十分話しました。
そしてもうそんな自分とは決別し、引け目を取らずまっすぐ堂々と過ごしていくよう話ました。

子供の毎月決めている額は(学年)x100円の小遣いと、必要に応じ、私が一緒に買い物について行き買うことにしていました。
ほかに両親から500円ずつ・・のはずだったのですが、父が小遣いを要求されるたびに挙げていた分が月に一万近くあり、申告もないため私が把握できない状況にありました。

その時にお金は決まった額に留めて、もしそれ以外で小遣いを何かの理由であげた場合は息子も父も両方から知らせるよう言ってありましたが、2人とも申告しません。
後で私がわかって確認することがまだ続いています。

父はこのようなことがあってもあえて私には言いません。
私に指図されたくないからです。
ちなみに、万引き2回とも両親は、息子の前で私が原因であると言ってしまいました。

(仕事で家にいないことなどが、原因と両親は言います。)

もう万引きはしませんが、何度もそのような家庭環境と息子とのことで児童相談所にも単独で相談しに行きました。
子供のことでの相談だったので子供を連れてくるよう、担当の方に言われ、「お母さんに言えないことや、何か悩んだりしていることがあれば話を聞いてくれるところがあるから行ってみないか?」と。
なるべく来所できるよう相談所から言われたような言葉をかけられ、訪ねてみました。
息子の返事は「どうして僕がそこにいかなきゃならないの?」でした。

その後しばらく様子を見て、中学に上がって特に心配な要素もなかったので、相談は一旦終了ました。
つごうが悪くなると両親になびき、両親が取り込みます。
親はどっちなのかと、内心私も子供のその行動を見て傷つき、自信を無くし申し訳なく責めてしまいます。
反抗期に入ったのを差し引いても私のことなど聞きませんし、だからといって両親の言うことも聞きません。
そして、いうことを聞かなければ私の躾(しつけ)が悪いと責められます。
父たちから言われたからではありませんが、この頃あまりにも私生活や勉強や塾などでも、わざとけじめをつけようとせず態度も増え、私もひどく怒鳴る回数もビンタの回数も増えてきました。

塾など他方にもご迷惑をかけたからですが、自己嫌悪の連続です。
普段はお友達には優しく協調性もふつうにありますし、部活も目標を持って汗かいて頑張っています。
ですが、家庭では何かあったとき、平気で責任転嫁したり条件を付けてきたりするようになりました。
子供の将来や人格面で心配です。
暴力をしつけだとは思っていませんし、私も両親にされてきた側なので暴力は嫌なのですが、言ってもダメなときや事がまずい方向に傾倒しているときは叩いてでも聞かせようとしているのが現実です。

息子は自分の親が祖父に殴られるのを見、今は自分が私に叩かれたことも開き直り、「暴力」だという事も増えてきました。
そのような状況をつくってしまい、そして自分たち3人の生活の場を作ってこなかった長い期間、不安があったにしても行動できなかった自分をとても後悔しています。

息子の今後の育成と人格についても多大な影響がでないか不安でなりません。
幸せにしたいですし、人々を幸せにして欲しいのです。
3人で生活し穏やかな暮らしを送り、今からでもきちんとした親子関係を取り戻したいのですが、息子の気持ちが離れていたり信頼がなくなっていたりして、3人一つになれるのか、そしてまた両親が過度に干渉し、安易に息子が実家の両親になびいてしまわないか気になります。

移転は娘も準備ができたら、引っ越したいといっております。
移転後は実家とは一切の関わりを、子供たちとも話した上、断とうと思っています。
息子は向き合うことができるのでしょうか。

子供達に対する両親の干渉は生活面や教育・将来のことについてすべてですが、ここ3年くらいは以前にも増して、特定の学校や通塾先を何が何でも意を通したいようです。
通知表も親より先に自分たちに見させよとします。
お金は払うから、祖父母の言う学校に行き、言う通りにしなさいと、私のいないところで圧力をかけているので、娘はそれに反発し私に知らせてくれます。

当然娘は自分なりに学校を決め、両親が強く進めていた大手塾とは別の個人塾を選んで頑張っています。
息子もお姉ちゃんがいるため、自然とお世話になる形で同じ塾に通っています。
(塾は嫌いではないです。)

とにかく干渉しすぎる上に、甘やかしたとたんそれが裏目にでると怒鳴り散らして怒ります。
子供も一時は何が良くて何がいけないのかよくわからずとてもきつそうでした。
食事の時も例えば直前までたくさんの袋菓子を一緒に買いに行きごはんを食べるなら買ってもいいとむちゃくちゃなことを言いながら買い与え、当然食事などキチンと食べられるわけないので、ご飯を食べると約束して買ってあげたのにどうして食べないのか」と、ものすごい剣幕で怒鳴り散らします。
で、一挙一動父に見張られ揚げ足をとられて罵倒されますので、一緒に食事をしたくないと居間で食べようとすることもよくありますが、食卓で食事をさせています。

父には席を外すよう言いますが、「俺がその場を離れる必要はない」と、状況を分かってくれません。
母も長年そんな父の機嫌が悪い時は私たちのせいにされていましたし、子供達にも同じように責めます。

私の事など両親にとっては関係なく、このような状況が横行しています。

力が足りずふがいない私ですがよろしくお願い致します

長文ですが最後まで読んでいただき感謝致します。
ありがとうございました。

【はやし浩司より、Jさんへ】

 きびしいことを書きますが、お許しください。
これもあなたのためです。

 で、一読し、正直に告白しますが、気分が悪くなりました。
これほどまでに「暴力」が、日常化している家庭は、そうはありません。
(統計上、50%の母親が暴力を加えていることはわかっていますが……。)

 あなたは(子育て)に名を借り、自分を顧みることなく、子どもに(すべて)を押しつけているだけです。
またあなたは自分の子どもを、「所有物」か、何かのように考えている。
自分の思い通りにならないからといっては、怒り、暴力を振るっている。

 今どき、1度や2度、万引きをしない子どもはいません。
(だからといって、それを許せということではありませんが……。)
それをまあ、ことさら大げさに考え、あとは取り越し苦労と、ぬか喜び。
それを繰り返しているだけ。
つまりひとり芝居!

 最初にはっきり言っておきますが、あなたの家には、何も問題はありません。
すばらしいとまでは言えなくも、ごく平均的な家庭です。
あなたの子どもも、ごく平均的です。
問題があるとすれば、あなた自身です。
それともあなたは、聖母なのでしょうか?
それほどまでにすばらしい母親なのでしょうか?

 メールを読んで、まず最初に思い出したのが、イラン映画『桜桃の味』です。
その中に、こんなジュークが出てきます。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

ある男が病院へ来てこう言った。「ドクター、私は頭を押さえても頭が痛い。腹を押させても腹が痛い。
足を押さえても足が痛い。
体中、どこを押させても痛い。私は何の病気でしょうか」と。
するとそのドクターは、こう言った。
「あなたはどこも悪くない。ただあなたの指が折れているだけだよ」と。
 
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

ほんの少しだけ見方を変えると、ものの考え方も180度変わるということです。
「何もかもダメだ」と思うときも、見方を変えると一変する。
ダメなのは、子どもでも、両親でもない。
あなた自身の「目」なのです。

 あなたとあなたの両親、それにあなたと子どもたち。
その間の歯車は、完全にズレている。
「狂っている」と言っても過言ではないでしょう。

(「親子3人」という言い方も、気になります。
正しくは、「家族5人」です。
ちがいますか?)

●二番底

 あなたは今、こう思っています。
「最悪!」と。

 しかしこの種の問題は、さらに別の「底」があります。
私は「二番底」「三番底」と呼んでいます。
そのうちあなたの子どもは非行を繰り返し、家出……ということにもなりかねません。
つまり「まだ、以前のほうがよかった」ということを繰り返しながら、二番底、三番底に向かいます。

 では、どうするか、ですね。

(1)今より、状況を悪くしないことだけを考え、あとはあきらめなさい。
あなたと両親の関係はともかくも、あなたと息子さんの関係は、完全に断絶しています。
心さえ、通いあっていない。
今の息子さんの年齢からして、修復は不可能と考えてください。
ただ、息子さんが、40代、50代になれば、少しはあなたを理解することができるようになるかもしれません。
が、今は、無理です。

 あなたの子育てを客観的にみるなら、典型的な「代償的過保護」です。
子どもを自分の支配下において、自分の思い通りにしたいだけ。
が、思い通りにならない。
だからひとりで、イライラしているだけ。
いったい、あなたは自分の子どもを、どのようにしたいのですか?
またどうあれば、満足するのですか?

 子どもは、暴力を加えても、どうにもなりません。
あなた自身だって、父親から暴力を振るわれ、それをいちばんよく知っているはずです。
それともあなたは父親の暴力に、感謝していますか?

 仮に今、引っ越して、別のところに住んでも、息子さんの心を呼び寄せることは、不可能です。
両親と切り離すことなど、さらに不可能です。
だからもう、あきらめなさい。
こんな状況で、塾だの、受験勉強だのと、言ったところで、どうにもなりません。
あなたの息子さんの気持ちは、ますますあなたから離れていきます。
(あなたは「いつかは、親であるあなたに感謝するだろう」という幻想をもっているかもしれませんが……。
が、幻想は幻想。
夏の日のかげろうのように、はかないものです。)

 そのかわり、あなたはあなたで、自分の人生を生きます。
息子さんに対しても、(やるべきこと)はやる。
しかしそこまで。
先にも書きましたが、「今の状況を、これ以上、悪くさせないこと」だけを考え、現状維持ができれば、それでよしとします。

●両親に任せる

 あなた自身が、(よき家庭)の味を知らない。
不幸な家庭に育った人です。
両親から日常的に、暴力を受けていた。
だから子育てが、ちぐはぐになっています。

 で、あなたは今、自分が受けた子育てを、無意識のうちに繰り返している。
これを「世代連鎖」と呼んでいます。
あなたの子どももまた、おとなになり、家庭と子どもをもったとき、同じことを繰り返します。
つまりあなたの目の前で、あなたの子どもは、あなたの孫を、殴ったり、叩いたりするようになります。
「子育ては本能ではなく、学習」というのは、そういう意味です。

 では、どうするか。

●親風

 任すところは、両親に任せなさい。
子どもたちの意思と判断に任せなさい。
私があなたの子どもなら、私でも、あなたから逃げていくでしょう。
こまごまとうるさいのは、仕方ないとしても、あなたは子どものことを、まったく信用していない。
それが転じて、子どもも、またあなたのことを、まったく信用していない。
あなた自身も、親意識が強く、常に親風を吹かしている。
加えて、「私は子どもたちのために犠牲になっている」という犠牲心も強い。
わかりやすく言えば、「私はすばらしい母親」と思い込んでいるだけ。

 だから任すところは、両親に任せなさい。
多少、ドラ息子、ドラ娘化はするでしょうが、子育ての世界では、マイナーな問題です。
あなたはあなたで、そういう環境をうまく利用し、仕事に没頭するなど、好き勝手なことをすればよいのです。
すばらしい環境じゃあ、ないですか!
まだ若いのですから、おしゃれでもし、再婚も考えたらよいのです。
自ら出口をふさぐようなことはせず、前向きに生きていくのです。
心を解き放てば、体はあとからついてきます。

 息子さんや、娘さんに何かを期待するのは、もうやめなさい。
すでに心は、遠いところに行ってしまっています。
あなたが今、両親を捨てることだけを考えているように、あなたの子どもたちも、やがてすぐ、あなたを捨てることだけを考えるようになるでしょう。
修復できる時期があるとするなら、それは子どもが0~4歳の幼児期までです。
思春期に入った子どもは、すでに1人の人間です。
修復など、(たとえば基本的信頼関係の再構築にしても)、不可能です。

 今の状況で、あなたが「まだ何とかなる」と焦れば焦るほど、先にも書きましたように、二番底、三番底へと、子どもたちは落ちていきます。
むしろ、それを防いでいるのは、あなたの両親ですよ。
両親が、あなたの代わりに親をしてくれるというのなら、御の字。
「よろしくお願いします」と言えばよいのです。
「お金も出してくれる」と言っているのですから、こんなありがたい話は、ありません。

 が、肝心のあなたも、自分の両親を信じていない。
これでは、ますますあなたは、あなた自身を、追いつめるだけです。
このままでは、あなたの人生は、孤独で、さみしいものになってしまいますよ。
(だれか近くに、あなたの信頼できる人がいればいいのですが……。
何でも話せる人は、いませんか?)

 不信と過干渉、それに暴力!
その「連鎖」を断ち切るのは、あなたしかいません。
またあなたしか、できません。
子どもを叱る前に、自分の暴力を叱りなさい。
でないと、今、暴力を振るった分だけ、あなたが今度は、暴力を受けるようになりますよ。
あなたの息子さんは、やがてあなたより大きな男性になるでしょう。
腕力もつきます。
つまりそのとき、逆襲を受けます。
(それができなほどまでに、子どもを押し込めてしまえば、話は別です。
が、そうなればなったで、ハキのない、ナヨナヨした子どもになってしまうでしょう。)
 
●前向きに

 子育ては、重労働です。
が、やがてすぐ、あなたはその重労働から解放されるときがやってきます。
だったら、ものごとは、前向きに考えます。
今のあなたは、(子ども)という過去、(子ども)という内側世界に向きすぎています。
妄想性も強いかもしれません。
取り越し苦労が、そのままグチにつながっている?
グチは、アメリカでは、うつ病の診断基準の柱になっていますよ。
だからグチは言わないこと!

 また生き様そのものが、後ろ向き+内向き。
ささいなことで、「児童相談所」とは!
あなたの息子さんは、少なくともあなたより、すばらしい人になります。
(あなたという人も、その両親に育てられたのですから……。)
だからこれ以上、心配しないこと。
あなたが前向きに、生き生きと生活している姿こそが、あなたの子どもの心を伸します。
あとは、勇気を出し、子離れすればよいのです。

「私は私の人生を生きる。
私の残り少ない人生を、あなたたちのために犠牲にしない。
だからあなたたちは、あなたたちで、勝手に生きていきなさい」とです。

 最後に一言。

 暴力は、やめなさい!
あなた自身の人格を、醜くするだけです。

 以上、Jさんにはきびしいことばかり書きました。
しかしこの程度の問題は、思春期を迎えた子どもをもつ家庭では、ごくありふれたことです。
大半がそうではないでしょうか。
もっと正確には、70~80%が、そうであると考えてください。
もう少し風通しをよくし、同じ年齢の子どもをもつ親たちと交流してみたらどうでしょうか。
「うちもそうなんです」「うちも……」という話が、つぎつぎと出てくるはずです。

 なお子どもの学費は、ほどほどに。
それよりもあなた自身の老後を考え、生活設計を始めたらよいです。
あなたの子どもには期待しないこと。
今は、そういう時代です。

 以下、参考になる資料を添えておきます。
2012/07/06

Hiroshi Hayashi+++++++July. 2012++++++はやし浩司・林浩司

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基本的信頼関係について書いた原稿
などを、参考のために、ここに添付
しておきます。

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【基本的信頼関係】

●信頼性

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外ではない。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、反対にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような調子で、答えてあげること。こうした一貫性をとおして、子どもは、あなたと安定的な人間関係を結ぶことができる。その安定的な人間関係が、ここでいう信頼関係の基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基本的信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの三つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。これを第一世界という。園や学校での世界。これを第二世界という。そしてそれ以外の、友だちとの世界。これを第三世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第二世界、つづいて第三世界へと、応用していくことができる。しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第二世界、第三世界での信頼関係を築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の基本となる。だから「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親側の情緒不安。親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなばあい、子どもは、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、人間関係になる。これを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分野で現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ねたみ症状などは、こうした基本的不信関係から生まれる。第二世界、第三世界においても、良好な人間関係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れる。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安心して」というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分をさらけ出しても、気にしない」環境をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役目ということになる。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよい。

● 「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
● 子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じように接する。
● きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くなるというのは、避ける。

(030422)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 基本的信頼関係 信頼関係 子供との信頼関係)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●代償的過保護

 同じ過保護でも、その基盤に愛情がなく、子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいという過保護を、代償的過保護という。

 ふつう「過保護」というときは、その背景に、親の濃密な愛情がある。

 しかし代償的過保護には、それがない。一見、同じ過保護に見えるが、そういう意味では、代償的過保護は、過保護とは、区別して考えたほうがよい。

 親が子どもに対して、支配的であると、詫摩武俊氏は、子どもに、つぎのような特徴がみられるようになると書いている(1969)。

 服従的になる。
 自発性がなくなる。
 消極的になる。
 依存的になる。
 温和になる。

 さらにつけ加えるなら、現実検証能力の欠如(現実を理解できない)、管理能力の不足(してよいことと悪いことの区別ができない)、極端な自己中心性なども、見られるようになる。

 この琢摩氏の指摘の中で、私が注目したのは、「温和」という部分である。ハキがなく、親に追従的、依存的であるがために、表面的には、温和に見えるようになる。しかしその温和性は、長い人生経験の中で、養われてできる人格的な温和性とは、まったく異質のものである。

 どこか、やさしい感じがする。どこか、柔和な感じがする。どこか、穏かな感じがする……といったふうになる。

 そのため親、とくに母親の多くは、かえってそういう子どもほど、「できのいい子ども」と誤解する傾向がみられる。そしてますます、問題の本質を見失う。

 ある母親(70歳)は、そういう息子(40歳)を、「すばらしい子ども」と評価している。臆面もなく、「うちの息子ほど、できのいい子どもはいない」と、自慢している。親の前では、借りてきたネコの子のようにおとなしく、ハキがない。

 子どもでも、小学3、4年生を境に、その傾向が、はっきりしてくる。が、本当の問題は、そのことではない。

 つまりこうした症状が現れることではなく、生涯にわたって、その子ども自身が、その呪縛性に苦しむということ。どこか、わけのわからない人生を送りながら、それが何であるかわからないまま、どこか悶々とした状態で過ごすということ。意識するかどうかは別として、その重圧感は、相当なものである。

 もっとも早い段階で、その呪縛性に気がつけばよい。しかし大半の人は、その呪縛性に気がつくこともなく、生涯を終える。あるいは中には、「母親の葬儀が終わったあと、生まれてはじめて、解放感を味わった」と言う人もいた。

 題名は忘れたが、息子が、父親をイスにしばりつけ、その父親を殴打しつづける映画もあった。アメリカ映画だったが、その息子も、それまで、父親の呪縛に苦しんでいた。

 ここでいう代償的過保護を、決して、軽く考えてはいけない。

【自己診断】

 ここにも書いたように、親の代償的過保護で、(つくられたあなた)を知るためには、まず、あなたの親があなたに対して、どうであったかを知る。そしてそれを手がかりに、あなた自身の中の、(つくられたあなた)を知る。

( )あなたの親は、(とくに母親は)、親意識が強く、親風をよく吹かした。
( )あなたの教育にせよ、進路にせよ、結局は、あなたの親は、自分の思いどおりにしてきた。
( )あなたから見て、あなたの親は、自分勝手でわがままなところがあった。
( )あなたの親は、あなたに過酷な勉強や、スポーツなどの練習、訓練を強いたことがある。
( )あなたの親は、あなたが従順であればあるほど、機嫌がよく、満足そうな表情を見せた。
( )あなたの子ども時代を思い浮かべたとき、いつもそこに絶大な親の影をいつも感ずる。

 これらの項目に当てはまるようであれば、あなたはまさに親の代償的過保護の被害者と考えてよい。あなた自身の中の(あなた)である部分と、(つくられたあなた)を、冷静に分析してみるとよい。

【補記】

 子どもに過酷なまでの勉強や、スポーツなどの訓練を強いる親は、少なくない。「子どものため」を口実にしながら、結局は、自分の不安や心配を解消するための道具として、子どもを利用する。

 あるいは自分の果たせなかった夢や希望をかなえるための道具として、子どもを利用する。

 このタイプの親は、ときとして、子どもを奴隷化する。タイプとしては、攻撃的、暴力的、威圧的になる親と、反対に、子どもの服従的、隷属的、同情的になる親がいる。

 「勉強しなさい!」と怒鳴りしらしながら、子どもを従わせるタイプを攻撃型とするなら、お涙ちょうだい式に、わざと親のうしろ姿(=生活や子育てで苦労している姿)を見せつけながら、子どもを従わせるタイプは、同情型ということになる。

 どちらにせよ、子どもは、親の意向のまま、操られることになる。そして操られながら、操られているという意識すらもたない。子ども自身が、親の奴隷になりながら、その親に、異常なまでに依存するというケースも多い。
(はやし浩司 代償的過保護 過保護 過干渉)

【補記2】

 よく柔和で穏やか、やさしい子どもを、「できのいい子ども」と評価する人がいる。

 しかし子どもにかぎらず、その人の人格は、幾多の荒波にもまれてできあがるもの。生まれながらにして、(できのいい子ども)など、存在しない。もしそう見えるなら、その子ども自身が、かなり無理をしていると考えてよい。

 外からは見えないが、その(ひずみ)は、何らかの形で、子どもの心の中に蓄積される。そして子どもの心を、ゆがめる。

 そういう意味で、子どもの世界、なかんずく幼児の世界では、心の状態(情意)と、顔の表情とが一致している子どものことを、すなおな子どもという。

 うれしいときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔をする。怒っているときは、怒った顔をする。そしてそれらを自然な形で、行動として、表現する。そういう子どもを、すなおな子どもという。

 子どもは、そういう子どもにする。 

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 代償的過保護 すなおな子ども 素直な子供 子どもの素直さ 子供のすなおさ)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【自分を見失う子どもたち】(Spoiled Children)

Where should I go? What should I do? What do I want to do? These children don’t know even what they really are.

●ドラ息子、ドラ娘

 ドラ息子症候群というのがある。自分勝手でわがまま、ものの考え方が、享楽的で(=その場だけの快楽を求める)、ぜいたく。
自己中心性が強く、対人、対物許容範囲が狭い。好き嫌いを平気で口にし、相手やものの「非」をとらえて、不平、不満を並べる。

 このタイプの子どもについては、たびたび書いてきたので、ここでは、その先を考える。
ずいぶんと前だが、こんな子ども(中学生、女子)がいた。
……といっても、架空の中学生と考えてほしい。いくつかの事例を、ひとつにまとめてみる。
名前を、Yさんとしておく。

 ある日のこと、Yさんが、突然、こう言った。「帰ります」「タクシーを呼んでください」と。あまりにも突然のことなので、驚いた。が、私はその場の雰囲気に負けて、タクシーを呼んだ。

 あとで理由を母親に聞くと、母親は、こう言った。「あの子は、よそのトイレが使えないのです」と。つまり「よその家では、大便ができない」と。

 こういうケースは珍しくない。
わがままというより、ぜいたくざんまいに育てると、子どもは、そうなる。いやなことはしない。
きたない仕事はしない。
つらい経験はしない。
世界が自分を中心に回っているかのように錯覚する。
また世界の中心にいないと、気がすまない。

 そのYさんは、よくこう言った。
「先生は、教室の消毒をしていますか?」と。
「どうして?」と聞くと、「机の上に、ホコリがたまっています」「壁にゴキブリのウンチのシミがついています」と。
こまかいことを、そのつど指摘しては、おおげさに騒いだ。

 で、このタイプの子どもは、学習面でも伸び悩む。
「学習」には、ある種の苦痛がともなう。その苦痛を乗り越える「力」がない。

 これについても、すでにたびたび書いてきたので、ここではさらにその先を書く。

●自己同一性の危機

 このタイプの子どもは、やがて、自分を見失う。
発達心理学の世界には、「自己の同一性」という言葉がある。
その「同一性」が、バラバラになってしまう。

 自分で何を、どうしたらよいかも、わからなくなってしまう。
自分が何をしたいかも、わからなくなってしまう。
自己中心性が強いから、他人から、どのように見られているかも、わからなくなってしまう。

 たとえて言うなら、糸の切れた凧のような状態になる。
フラフラと風任せ。
あるいはそのままドスンと下に落ちてくる。つまり非行の道へと、まっしぐら。

 Yさんは、教室へ入るやいなや、よくこう言った。

 「あんた(=私のこと)も、おかしな顔をしているね」
 「奥さんがかわいそう」
 「こんな暑苦しい部屋じゃ、勉強なんかできない」と。

 もちろん勉強など、しない。能力的には、かなり恵まれた子どもだった。
頭もよかった。
しかしそれだけに、扱い方がむずかしかった。
自分の非を棚にあげて、「ああでもない」「こうでもない」と、他人を批判した。

 Yさん自身も、「私はできるはず」という部分で、葛藤していたと思う。
(プライド)と(現実)のギャップの中で、もがいていた。

 一度、こう言ったことがある。
「そんなにここへ来るのがいやだったら、お母さんに、そう話してあげようか」と。

 しかしそれについては、Yさんは、がんこに拒否した。
心の中では、不満と不平が、ウズを巻いていた。それから生まれる怒りを、私にぶつけていた。
私を口汚くののしることで、欲求不満を解消させようとしていた。
私にも、それがよくわかっていた。

●非行

 で、このタイプの子どもは、一度、非行の道に入ると、そのまま、まっしぐらにその道へと入ってしまう。
(だからといって、非行が悪いというのではない。またそれでもって、子育てに失敗したというわけでもない。誤解のないよう。)

 Yさんは、中学2年になるころには、性的経験をもつようになった。
私には、雰囲気から、それがよくわかった。
ある日、筆入れの中に、子どもがもつようなものでない装飾品が入っていた。
それを私が指でつまんで、「これは何?」と聞くと、Yさんは、艶(なまめ)かしい声で、こう言った。
「ウフン……。いいじゃん……」と。

 私は親に話すべきかどうかで、迷った。
しかし言わなかった。
言えば、私と子どもとの間の信頼関係は消える。
信頼関係が切れた状態で、子どもの指導はできない。
親の側から相談でもあれば話は別だが、こういうケースのばあい、知って知らぬフリをする。
性的経験にしても、「疑わしい」というだけで、確証があるわけではない。

 では、どうするか?

●二番底に注意

 このタイプの子どもは、進むべき方向性をいっしょにさがしてやるのがよい。
しかし先にも書いたように、自分でも、どうしたらよいか、それがわかっていない。
「あなた何をしたいの?」と聞いても、「遊びたい」とか、「お金がほしい」とか、言う。
そこでさらに、「どんなことをして遊びたいの?」「お金があったら、何を買うの?」と聞いても、その答がない。
「わかんない……」とか言う。

 別の方法としては、スポーツや運動で、自分を燃焼させるというのがある。
しかしこの段階になると、それもしない。
「いやだ」「できない」「したくない」の悪循環の中で、ますます遠ざかっていく。

 ……と書くと、「お先、真っ暗」ということになる。
が、ここで待ってほしいのは、このタイプの子どもは、その状態が、最悪の状態ではないということ。
その「最悪」の下には、さらにその最悪がある。
これを私は「二番底」と呼んでいる。

 (この「二番底」「三番底」論は、はやし浩司のオリジナルである。どうか、無断で流用しないでいただきたい。)

 たとえば非行といっても、いろいろある。(門限破り)→(外泊)→(家出)と進む。さらに(長期家出)→(同棲)→(性病、妊娠)と進む。

 わかりやすく言えば、「直そう」とは思わないこと。それ以上、状態を悪くしないことだけを考えて、対処する。
あとは、時間を待つ。
この段階で、あせって、何かをすればするほど、逆効果。
私が言う、二番底、三番底へと落ちていく。

 その期間は、驚くほど、短い
。ほとんどの親は、こう言う。
「あっという間でした」と。
それこそ、1、2か月の間に、そうなる。それだけに、親が気づくということもない。
「非行に走る」という言葉がある。
まさに「走る」という状態になる。

 で、子どもが非行に走ると、ほとんどの親は、「うちの子は誘われただけです」と言う。
「友だちが悪い」と。
しかしよく調べてみると、その子ども自身が中心核になっているというケースは多い。

●変化に注意

 さらに問題がつづく。
子どもというのは、ウソをつく。
仮面をかぶる。
一方、親のほうは、「まさか……」「うちの子にかぎって……」と、子どもの変化を見逃してしまう。
私の経験からして、こういうケースで、子どもの姿を正確にとらえている親は、まずいない。

 Yさんにしても、父親の前では、借りてきた猫の子のように、おとなしかった。
が、その一方で、母親は、Yさんを溺愛していた。
一度、こんなことがあった。

 私がYさんの希望進学校を聞いたときのこと。
母親は、私にこう言った。「私からは聞けませんので、先生(=私)のほうから、聞いてください」と。
私は、「ハア……」と言っただけで、何も言うことができなかった。
 
 そのYさんについて言えば、極端にきびしい父親、極端に甘い母親の間で、(三角関係)ができていた。
つまり家庭教育そのものが、崩壊していた。

 結局、この問題は、行き着くところまで行く。
行かなければ、親も気がつかない。
この問題だけは、子どもの問題というよりは、親の問題。
親問題というよりは、家庭の問題。子どもは、その(代表)にすぎない。

 が、だからといって、それでその子どもが、ダメになるわけではない。
先に、「非行が悪いわけではない」と書いたが、それは、そういう意味である。
多かれ少なかれ、子どもというのは、同じような道をたどりながら、やがておとなになっていく。
この時期の失敗(?)が、そのまま一生つづくということはない。

 さらに言えば、ドラ息子、ドラ娘ということになれば、日本の子どもたちは、みな、ドラ息子、ドラ娘ということになる。
世界的な水準からすれば、そうである。ある母親は、こう言った。

 「先生は、ドラ息子の話をしますが、私の夫が、そのドラ息子です。どうしたらいいでしょうか?」と。

 しかし……。

 よいか悪いかということになれば、子どもは、ドラ息子、ドラ娘にしないほうがよい。
苦しむのは、結局は、子ども自身ということになる。
それこそおとなになる過程で、「長くて曲がりくねった道」(ビートルズ)を歩かなければならない。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司




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