2012年7月1日日曜日

老人性自己中心主義

●今日から2012年7月

【2012年の折り返し点で考える】

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

2012年も、今日が折り返し点。
今日から7月1日(日曜日)。
時刻は午前5時15分。
ひんやりとした森の冷気が心地よい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●心の反 面性

 心には常に、反面性がある。
わかりやすいのが、泥棒。
昔から『泥棒の家は、戸締りが厳重』という。
自分が泥棒だから、泥棒に入られるのが、気になる。
戸締りが厳重になる。

 似たような例だが、『女遊びをしている人ほど、自分の娘に厳しい』というのもある。
先日も、「娘には、門限だけは、しっかりと守らせています」と言った男性がいた。
娘といっても、28歳。
28歳の娘に門限?

 もう少しわかりやすい例では、世間体を気にする人ほど、他人の生活が気になる。
幸福感も相対的なもので、他人より幸福なら、自分は幸福と思う。
他人より、そうでないなら、そうでないと思う。
こんな例もある。

 私の知りあいに、健康であることを、ことさら強調する男性(80歳くらい)がいる。
会うたびに、健康の話をする。
自慢話をする。
「無病息災が第一だよ」などと言ったりする。
(「息災」というのは、仏の力で、災いを取り除くことをいう。転じて「健康」の意。)

 が、80歳を過ぎれば、無病という人は、ほとんどいない。
その人が自分の健康を自慢するのは、その人の勝手。
が、聞く人によっては、イヤミ。
当の本人には、それがわからない。
問題は、なぜ、健康であることを自慢するか。

 このタイプの男性は、「長生きをする人イコール、人生の勝者」と考えている。
ことあるごとに、それを話題にする。
そういった話題に、会話を引き込む。
たとえば「あいつは、Y会社で取締役までしたが、70歳で死んだ。意味ないよ」と。

 こういうのを年齢中心主義という。
老人が陥りやすいので、老人性・年齢中心主義という。
命そのものを損得とからめて考える。
元公務員にこのタイプの人間が多いのは、年金を無視することができない。
「長く生きれば生きるほど、得」と考える。
そう言えば、こんな女性がいた。

 テレビ画面に向かって、堂々とこう言っていた。
「父ちゃん(=その女性の夫)が、がんばってくれたおかげで、娘の家が建ちました」と。

 その「父ちゃん」は、何かの大病を患ったらしい。
しかし1~2年ほど、寝たきりの状態だった。
生死の境をさまよった。
その間に入った年金で、「娘の家が建った」と。

 人の心も、欲に毒されると、そこまで言うようになる。
なお先の男性(=健康を自慢する男性)は、個人の不動産屋を営んでいたこともある。
私にこう言った。
「ぼくはね、新聞を開くと、まっさきに死亡通知欄を見るよ」と。
人が死ぬと、不動産が真っ先に動く。
それはわかるが、同時に彼は、他人の死を確認しながら、それを自分の喜びにつなげる。

 念のため申し添えるなら、私は死亡通知欄なるものは、見たことがない。
その男性も「本当ですか?」と驚いていたが、見たことがない。
(内心では、ああいう欄はやめたらとよいと思っている。
欧米では反対に、子どもの誕生や、結婚などを載せている。)

●幸福度

 幸福度というのは、「尺度」を切り離したところで、決まる。
何かのBLOGに書いてあったが、「老後の幸福度というのは、夫婦の円満度で決まる」と。
それに安あがり。
一理ある。

 劇場で映画を見る。
夫婦(シルバー料金)で、2000円(1人、1000円)。
帰りに回転寿司で、寿司を食べる。
1000円(2人で10皿)。
計、3000円で、結構、ハッピーな気持ちになれる(某BLOG)。
 
●金持ち

 が、この日本では、金持ちほど成功者。
金持ちほど住む世界が広い。
金持ちほど人格者、と。
そういう人生観に毒されている人は、多い。
あの高度成長期の中で、それなりに成功した人ほど、そういう人生観をもちやすい。
が、事実は、逆。

 金(マネー)というのは、中身と言えば、欲望の化身。
金に毒された人ほど、実際には、住む世界が狭く、低俗。
ブランド品を身に着け、それでもって「私はすばらしい」と思いこむ。
心はさみしい。
人間関係もさみしい。
さらに人生そのものからも、回り道をする。
回り道をしたまま、人生の迷路、つまり袋小路に入ってしまう。
大切なものを失いながら、その失っているという自覚そのものがない。

●誰が永遠に生きたいか?

 大切なのは、中身。
何をしてきたかという中身。
人生の長短ではない。
長短で、幸福感は決まらない。
逆に、こういう曲もある。
「♪だれが永遠に生きたいと思うか(Who wants to live forever?)」と。
つまり永遠に生きたところで、それがどうしたのか、と。
有名な曲だから、YOUTUBEにも収録されている。
サラ・ブライトマンの歌で、どうぞ!

 

 ……と書くのも、私もそろそろ死を覚悟する年齢になった。
「できるだけ健康でいたい」とは思うが、「長生きをしたい」とは思わない。
長生きをすればするほど、みなに迷惑をかける。
が、それよりも恐ろしいのが、孤独。
私には、その孤独に耐える力はない。
自分でも、それがよくわかっている。
ときどきこんなささやきも聞こえてくる。
悪魔のささやきである。

「死を待つくらいなら、自分で死を選べ」と。

 ……というか、それが私の人生観の基本にもなっている。
川で魚ととるときも、私には「釣る」ということができない。
モリを手に握り、川の中に飛び込んでいく。
それで突いて魚をとる。
それが私の生き様でもあった。

 その私がどうして死を待たねばならないのか。
その状況にならなければわからないが、私はいさぎよく、死ぬ。……死にたい。

●誤差の範囲

 こうして考えてみると、すでに私の人生の結果は、出ている。
この先、いくらジタバタしても、それは誤差をほんの少しだけ、補正するだけ。
その程度の意味しかない。
今まで何もできなかった私が、この先、何ができるというのか。

 たとえば今、ある出版社と、本の出版の話を進めている。
若いころなら、それだけで私は燃えあがった。
が、今の私は冷めたまま。
「今さら……」という気持ちが、どうしても先に立ってしまう。
数年前、あるラジオ局(横浜のR・日本)で、講演を収録したときも、そう言われた。
「この世界(マスコミの世界)では、50歳までに決まります」と。

 つまり50歳までに、どれだけ有名人になっているかどうかで、その人の価値は決まる、と。
60歳を過ぎた私では、講演にしても、聞く人もいないだろう、と。
もっとも、そんなことは他人に言われなくても、自分でもよくわかっている。
その「今さら……」という部分が、先に書いた「誤差の範囲」ということになる。

●真・善・美

 人は何を求めて生きているか。
それで人生の目的も意味も決まる。

 真・善・美という言葉もあるが、それを追求できる人は、ごく一部。
大半の人は、生きていくだけで精一杯。
仮に求めたとしても、さらに大半の人は、その途中で、頓挫(とんざ)する。
ほどほどのところで、ほどほどの人生を終える。
あとは自己満足。
自分で自分を、さみしく慰める。
さらに言えば、見ざる、聞かざる、言わず。

 へたに見たり、聞いたり、言えば、かえって自己否定に世界に落ち込んでしまう。
まちがいを知る。
能力の限界を知る。
話しても、だれにも相手にされない。
「自分のしてきたことは、この程度のことだったのか」と知ることくらい、恐ろしいことはない。

私のばあい、「真・善・美」のうちの「真」ということになるが、この先、何百年がんばっても、その片鱗にさえ手が届かないだろう。
だから目を閉じ、耳を閉じ、口を閉じる。

 ……ほどほどのところで、あきらめる。
その程度のところで満足し、まわりを見ない。

●残りの6か月

 とはいえ、2012年は終わったわけではない。
まだ6か月、ある。
半分、ある。

 とりあえずしなければならないことは、健康の回復。
脚を痛めたおかげで、運動不足になってしまった。
その影響で、自分の体が重くてしかたない。
眠くてしかたない。
脳みそのほうも、調子がよいのは、こうした早朝だけ。
朝食を食べるころには、もうぼんやりとしてくる。

●ボケ

 こわいのは認知症。
ボケ。
すでにその兆候は現れてきている(?)。
集中力がつづかない。
言葉を忘れる。
以前はこういうことはなかったが、たとえば10年ほど前に書いた自分の原稿を読みなおしてみる。
そのとき、「ヘッ、こんなこと書いたのか?」と思うことが、このところ、ときどきある。
文はたしかに私のものだが、中身を忘れてしまっている(?)。

 こういった現象は、脳みその一部が、ドミノ倒しのドミノのように、崩れ落ちたことを意味する。
というのも、文というのは、常に過去に書いた文の上に、上書きしていく。
今、こうして書いている文にしても、過去に書いた文を基礎としている。
どこかでつながっている。

が、今までは、そういうことはなかった。
どんな文でも、私の文かどうかは、即座に判断できた。
現在に至るまで、その(つながり)が残っている。

 その(つながり)が消えたということは、一連の基礎まで消えたことを意味する。
が、これほど恐ろしいことはない。
ある朝、起きてみたら、それまで5本あった指が、4本になっている。
それくらいの衝撃はある。

 で、そういうときは、自分の文を何度も読み返してみる。
現在の自分とどうつながっているかを確認する。
そのときはじめて、こう思う。
「ああ、これは私の書いた文だ」と。

 ……これも認知症の症状のひとつかもしれない。
過去が、どんどんとどこかへ流れ落ちていく。
忘れるというよりは、抜けたように落ちていく。

 言い換えると、残り6か月とはいうが、現状維持だけで精一杯。
それができれば御の字。
新しい発見など、10日に1度もない。
進歩など、もう期待できない。
だから自分にこう言って聞かせる。

「がんばるしかない」と。
そう、それが今の私の口癖になっている。
がんばるしかない。

 ……とりあえず、今日の目標。
運動2単位。
(1単位は40分。)
それでも調子が戻るまでに、2週間はかかる。
今までの経験では、そう。

 何ともグチぽいエッセーになってしまった。
7月の初日だから、もう少しまともな文を書きたかった。
読んでくれた人が、元気になるような文を書きたかった。
どこか湿っぽくなってしまったのは、天気のせい(?)。
外は曇天。
小雨が降っているかもしれない。
網戸越しに見る、森の木々が、まるで絵画のように美しい。

 今日も、がんばるしかない!
2012-07-01朝記

(追記)

 まったく今日の話には関係ないが、この6月10日ごろに発売された、ソニーのRX100というデジタルカメラ。
あれはすごいね。
昨日、近くの大型店で、触れさせてもらったが、ちがいがズシンとわかった。
値段がまだ、5万円以上もするので、おいそれとは買えないが、それにしてもすごい。
このボーナス期を過ぎれば、多少、値段もさがるはず。
ビデオカメラのPJ760Vといい、このところソニーは、すばらしい製品をつづけて出している。
がんばれ、ソニー!

 ところで、私はここ数年、パソコンはTOSHIBA、カメラ類はソニーと決めている。


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2012++++++はやし浩司・林浩司

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