2011年10月9日日曜日

*Freedom from Chains of Society

【不完全社会を求めて】(自由への叫び声)+引佐町兎荷・秋の収穫祭



●「週刊現代」&「週刊アスキー」

 ワイフが2階でDVDを選んでいる間、私は2冊の週刊誌を買った。
「週刊現代」と「週刊アスキー」。
週刊現代のほうは、「年金一律5万円時代に」という見出しが気になった。
週刊アスキーのほうは、パラッとめくったとき、TOSHIBAの新型パソコンが目に留まった。
それで2誌、買った。

 TOSHIBA R631/28D。
世界最薄、最軽量という。
OSがSSDから立ち上げる。
「休止状態から約10秒で復帰できる」とある。
最薄部で、たったの約8・3ミリ。
物欲がググーッと、線条体を刺激する。
パブロフの条件反射が起きる。

が、値段が、高い。
「予想実売価格、15万円前後」とある。

 パソコンの寿命は、使う目的にもよるが、長くて3~4年。
新しいOSが発売になれば、さらに短い。
よいのを買っても、すぐ無駄になる。
その3~4年で、どう使うか。
どう使い倒すか。
15万円もしたから……といって、床の間に飾っておく人はいない。

 並んでエイサーのASPIRE S3-2が紹介されていた。
こちらは、予想実売価格は、9万円前後とある。
厚さは13・1ミリ。
TOSHIBAとの違いは、5ミリ。
こちらなら値段を気にせず、使えそう。
 
●年金5万円時代

 週刊現代は、年金も、月額オール5万円になるという。
たったの5万円!
が、現状では、年金5万円時代になっても、文句は言えない。
少子高齢化。
この先何年かすると、1・2人の人が、1人の高齢者を支えなければならなくなるという(週刊現代)。
試算によれば、2050年以後。
逆算すると、現在、現在25~26歳の人が、65歳になるころということになる。

 が、常識で考えても、不可能。
つまり満足な老人福祉など、とうてい不可能。
(現在の今でも、約2・6人の人が、1人の老人を支えている。)
これはかなり深刻な問題と考えてよい。
つまりこの先、子どもの教育どころではなくなってしまう。

 まず、自分の老後を心配する。
子どもの心配は、つぎのつぎ。
今でさえ、子どもに必要以上の教育費をかけるのは、バカげている。
収入に余裕があれば、自分の老後の資金として残しておく。

 ……ということになるが、それがますます日本の経済を萎縮させる。
景気を悪くする。
さらに少子化が進む。

 では、どうするか?

●ゴーストタウン

 話は変わるが、私とワイフは、先日、富士宮まで行ってきた。
富士宮焼きそばで有名な、あの富士宮である。
が、帰りは、そのもうひとつ北側にある西富士宮で電車に乗った。
おいしい店があるというので、西富士宮まで行ったのだが、店からは駅まで歩いた。
30分ほどの距離だった。

 そのときのこと。
私とワイフは、そのあまりのみすぼらしさに、驚いた(西富士宮のみなさん、ごめん)。
この言葉に語弊があるというのなら、「30年前のままだった」と言い換えてもよい。
「40年前のまま」でもよい。
とくに駅前の商店街が、ひどかった。
それなりに開いている店といえば、コンビニと飲食店。
あとはどこも、ガランとしていた。
「ここが日本か」とさえ思った。

 もうおわかりのことと思うが、日本は無駄なものばかり作っている。
第二東名を例にあげるまでもない。
浜松市の北を、東西に走ることになっているが、「ここまでやるか!」と思うほど、ものすごい工事。
町のビルのような橋脚が、山々を貫いて並んでいる。
日本の将来を考えるなら、そうしたお金があるなら、もっと別のことに使うべき。

 そう言えば、SUZUKI自動車の鈴木修社長も、こう言っていた。
「浜松市では、市営住宅の建設のために、(建設費だけで)、坪70万円もかけている」(2011年10月)と。
坪70万円! 

上から下まで、こんなことばかりしている。
しかも官民の給料格差は広がるばかり。
すでに給料だけで、約2倍程度の開きがあるという(「週刊現代」)。

●行政改革

 あの中曽根首相が、行政改革を唱え始めて、もう何年になるだろうか。
行政改革……つまり官僚政治の是正。
が、その行政改革は、一向に進んでいない。
進んでいないばかりか、さらに悪化している。

 官僚とゼネコン、それに政治家、これら3者が一体となり、日本の経済を牛耳っている。
まさにやりたい放題。
つまりここにメスを入れないかぎり、日本に未来はない。
それがわかっていながら、日本はさらに無駄な「箱」ばかり作ろうとしている。

 いいか、読者のみなさん。
作るのは勝手だが、そのあと莫大な維持費がかかってくるのだぞ。
その維持費は、地方自治体、つまり私たちが払うことになるのだぞ。
わかっているのか!

 公共施設だけは、どこも、超立派。
庶民の家は、どこも、ボロボロ。

●お先真っ暗

 こう考えていくと、日本の未来は、お先真っ暗。
本来なら、今すぐにでも、不要な支出を減らし、人件費を減らし、子どもたち、
つまり未来の日本人にお金をかけるべき。
が、こうした常識は、もうこの日本では通用しない。
現在のギリシアのように、日本人も行き着くところまで行かなければ、気がつかない。
あるいは行き着くところまで行っても、気がつかない。
あのギリシアでは、連日、公務員によるストライキが、いまだにつづいているという。

●知的インチキ

 ところで最近読んだ記事の中でおもしろかったのが、ニューズウィーク誌(9・21)の「知的インチキの見破り方」(P69)。
冒頭に、こうある。

『聖書はジョン・F・ケネディ・アメリカ大統領の暗殺を予告していた……そんな話をあなたは信じますか。
「9・11テロはユダヤ人の陰謀」とか、「いろいろ化石はあるけれど、世界の歴史は1万年程度」という説は?

 答えがイエスなら、残念ながらあなたは、「知的ブラックホール」にのみこまれている可能性が高い。

「知的ブラックホール」というのは、イギリスの哲学者スティーブン・ローが好んで使う表現で、「人々をのみ込み、ろくでもないたわ言の奴隷に変えてしまう」精神的なできごとをいう』(以上、ニューズウィーク誌)と。

 こんなことで張り合ってもしかたないが、私は「心のエアーポケット」という言葉を使った。
24年前に書いた、「家庭内宗教戦争」(山手書房新社)という本の中でのことである。
つまり「知的ブラックホール」にせよ、「心のエアーポケット」せよ、心の盲点というのは、たしかにある。
ごくふつうの人が、ある日突然、あるきっかけで、その「穴」にスーッと落ちてしまう。
そしてその日を境に、とんでもないことを言い出す。

 カルト教団はそうした心の盲点をたくみに利用し、勢力を伸ばす。

●逆の知的ブラックホール

 が、逆のエアーポケットというのもある。
たとえば、2050年には、1・2人の人が、1人の老人を支えるようになるというのは、「事実」である。
1+1=2というほどまで、明確な事実とはいいがたいが、それに近い事実である。
が、人々は、「何とかなるだろう」「どうせ、私たちには関係のないこと」と、心の隅に追いやってしまう。
そこにある事実を、信じようとしない。
これなどは、まさしく、「逆のエアーポケット」ということになる。

 つまりインチキを信ずるのが、「知的ブラックホール」と言うなら、事実から目をそらすのは、「逆の知的ブラックホール」ということになる。
一見、正反対の現象に見えるかもしれないが、中身は同じ。

●止まった時計

 今、私の頭の中では、TOSHIBAの新型パソコンと、少子高齢化問題が、行ったり来たりしている。
それがユラリユラリと頭の中で揺れている。
あの西富士宮で見た光景も、頭から離れない。

……といっても、こうした町の衰退ぶりは、何も、西富士宮だけの話ではない。
最近見た中では、福井県の越前大野市もそうだった。
岐阜県の関市もそうだった。
全国いたるところで、見られる。

 「失われた10年」が、「失われた20年」になる。
本来なら、上海に立っている豪華な高層ビルが、富士宮市や大野市に立っていても、おかしくない。
この20年間、日本の時計は止まったまま。
それが今度は、少しずつだが、逆行し始めている。

 重税につづく重税。
それだけでも、たいへん。
その上、この日本では、ありとあらゆるものが、法律によってがんじがらめに縛られている。
最近知って驚いたのが、「人材派遣業界の現況」。

現在、人材派遣業は、土砂降りの不景気。
どん底。
一時、「派遣切り」が問題になった。
とたん、法による規制がきびしくなった。
とたん、大手の人材派遣会社の倒産がつづいた。

 そこへあの3・11大震災が襲った。
皮肉なことに、今度は、人材そのものがいなくなってしまった。
不景気がさらに追い討ちをかけた。
私の実家は、自転車屋だったが、今ではその自転車屋ですら、簡単には開けない。
床に油が一滴でも落ちていたら、商売ができない。
そんなしくみができあがっている。

●「不完全」という自由

 で、先日、H市の役人とこんな会話をした。
「どうして公共施設だけは、こうまで立派なのか」と聞いたときのこと。
その役人は、こう答えた。
「行政は、法の見本でなくてはならないのです。
その条件をすべて満たしていくと、どうしても、こうした建物にならざるをえないのです」と。

 つまり「法的に」すべて、カンペキでなければならない、と。
結果として、たとえば耐震基準ひとつとっても、カンペキに守らなければならない、と。
つまりその分だけ費用がかさみ、立派になる、と。

 しかしこんなバカげたことをつづけていたら、この日本は、本当に破産する。
今では、リヤカーを引き、通りでモノを売ることさえできない。
小さな町で、観光ガイドを引き受けることさえできない。
自転車屋ですら、消防署の検査を受けなければ、商売をつづけることさえできない。
何からなにまで、カンペキ。

 が、その一方で、あの原子力発電所事故。
こまかいところでカンペキであっても、何の役にも立たない。
ゴミ屋敷の住人が、家の中の一部屋だけ、一生懸命掃除しているようなもの。
そんなことばかりしているから、日本は、ますます世界から取り残される。
よい例が、外資企業。

 現在東京証券所に上場している外資企業は、一桁台になってしまった。
(一時は、300社以上もあった!)
が、みんなシンガポールへ逃げてしまった。
理由は、言わずと知れた「翻訳料」。
外資企業は、すべての書類を一度、日本語に翻訳しなければならない。
それが重荷になった。
プラス規制、規則の許認可。

私たちが今、必要としているのは、「不完全」という自由である。

●老人村
 
 この3~4月、私はオーストラリアのボーダータウンというところに行ってきた。
そこでのこと。
私とワイフは、「Old Man’s Village(老人村)」というのを案内してもらった。
仕事をしなくなった年金受給者たちが寝泊りする施設である。

 その施設を見たとき、「これでいい」と、私は最初に思った。
建物は、平屋のごくふつうの家。
二棟ずつくっついている長屋風。
それが緑の森の中に点在している。

 で、その老人村は、市の中心部からはやや離れているが、隣は幼稚園。
そのまた隣は小学校。
道をはさんで反対側には、日本でいう特別擁護老人ホーム。
そのホームにしても、日本の基準から見ると、実に粗末な建物である。
(日本の特別擁護老人ホームが、いかに豪華なものであるかは、すでにみなさんご存知の通り。)

 もちろんカンペキにしなければならない部分は、カンペキにする。
それにも限度がある。
不必要な施設まで、カンペキにする必要はない。
さらに言えば、人間管理。

 役人というのは、ほんの少しでも不備があると、すぐ法の網をかける。
法の網をかけて、自分たちの権限を拡充する。
これがこの日本をますます小さくしていく。
それがわからなければ、こんな話がある。

●洪水

 アーカンソー州へ行ったときのこと。
その東端を、あのミズーリー川が流れる。
対岸が見えないほど、幅の広い川である。
その川は、ほぼ10年ごとに洪水を引き起こす。
多くの家々が流される。
それについて私が「どうして堤防を作らないのか」と聞くと、案内してくれたスミス氏(市の役人)は、こう話してくれた。

 堤防を作れば、景観を損ねる。
莫大な費用もかかる。
その費用のことを思えば、そのつど、損壊した家々を補償したほうが、安くつく、と。

 アメリカでは、こうした被害が出ると、政府(+地方政府)は、現金で直接、住民にお金を払う。
しかも即決で!
日本のように、ああでもない、こうでもないと、書類を書かせるようなことはしない。
そういうしくみができあがっているから、住民ものんきなもの。
「家が流されたら、また立て直せばいい」と。

 それを「自由」という。
本物の自由という。
が、この日本には、自由がない。
「仕組まれた自由」(尾崎豊)はある。
しかし本物の自由はない。

 なお現在、アメリカの公務員は、コンビニの従業員より給料が安いと言われている。
しかも首切りは、当たり前。

●自由の復権

 いつの間にか、日本は、たいへん「生きにくい」国になってしまった。
「住みやすい」というのとは、ちがう。
生きにくい。
息苦しさえ覚える。
その結果として、人々は、「もの言わぬ従順な民」へと、成り下がってしまった。
いまだに東京電力の本社に向かって、デモ行進ひとつ起きていない。
それをオーストラリアの友人に話すと、その友人は、こう言った。
「本当か? 信じられない!」と。

 自由とは、「自らに由(よ)る」こと。
その自由は、不完全な隙間から生まれる。
だから私は、こう叫ぶ。

 もう規制はたくさん。
資格も認可も許可も、たくさん。
それよりも、私たちの体をがんじがらめにしている、この鎖を解いてほしい、と。

●パソコンと「知的インチキ」

 今の今も、私の頭の中では、TOSHIBAのパソコンと、ニューズウィーク誌の記事が、ユラユラと揺れている。

本当のことを言うと、このところ、ものの考え方が、どこか投げやりになってきている。
私の育児論の原稿にしても、あちこちでパクられている。
先日も、ある月刊誌を見たら、こうあった。

「不登校は前兆を見逃すな」と。

 私がは同じタイトルで、すでに12年前に、原稿を書いていた。
新聞にも発表した。
自分の本の中でも書いた。

 しかしどうせ死ねばおしまい。
実は、昨夜もワイフと寝る前に、こんな話をした。

私「なあ、お前、ぼくのほうが早く死ぬと思うけど、ぼくが死んだら、そんなにがんばらなくてもいいから、早くおいでよ」
ワ「……うん」と。

 長生きをしたいという思いは、とっくの昔に消えた。
この日本への期待も、徐々に薄らいできた。
それよりもみなに迷惑をかけないうちに、あの世へ行きたい。

 今も週刊現代誌(10月22日号)をパラパラとめくってみた。
そこには仙台の横丁の話あり、雑談あり、エッセーあり、そして巻末には、ヌード写真あり。
私の残りの人生も、こうしてパラパラと過ぎていくにちがいない。
期待と幻滅の間を、ユラユラと行ったり来たりしながら……。

 ……とまあ、どうであれ、ともかくも今日も始まった。
これから山荘の道路わきの雑草に、除草剤をまかねばならない。
それが今の(一コマ)。
現実。
がんばるしかない。

これから村の収穫祭に呼ばれているので、行ってくる。

2011年10月8日朝記。
日曜日。


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【浜松市北区引佐町兎荷とつか、秋の収穫祭】

●浜松市北区引佐町兎荷(とつか)の秋の収穫祭に行ってきました。
 冒頭のビデオは、そのときの様子です。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 浜松市北区引佐町兎荷 とつか とっか 引佐町とつか 引佐町とっか)


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司


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