2011年10月2日日曜日

(1)メタ認知能力

●10月2日


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今朝、過去に自分が書いたいくつかの
原稿に、目を通してみた。
そのひとつが「メタ認知能力」について
のもの。


もともとは数学の世界で生まれた言葉
というが、心理学の世界でも広く使われて
いる。
「メタ」というのは、「超越した」とか
「高度な」という意味である。


つまり「私を超えた視点で、私を認知する能力」、
それを「メタ認知能力」という。


たとえばほとんどの人は、ほとんどのばあい、
「私は私」と思って行動している。
しかし残念ながら、そのほとんどは、「私で
あって私でない」。
フロイト流に解釈すれば、私たちはその根源に
潜む、リビドー(Libido)(ラテン語で「欲望」を
意味する)によって、操られているにすぎない。


わかりやすい例としては、若い女性が(男性でも
よいが)、化粧する姿を思い浮かべてみればよい。
どの女性も(男性でもよいが)、「自分で考え、
自分の意思で、化粧をしている」と思っている。
しかし実際には、その奥に潜むエネルギーによって、
(フロイトは「性的エネルギー」と呼んだが)、
操られているだけ。


そうした「私」を、より客観的に、私を超越した
立場で、高度な次元から認識する。
その能力を、「メタ認知能力」という。


もっともこれは私の解釈によるもので、まちがって
いるかもしれない。
だったら、「メタ」という言葉をやめてもよい。
「私を超越した認識能力」という意味で、簡単に、
「超自己認知力」と言い替えてもよい。
どうであるにせよ、つまり言葉の問題は別として、
「私」を、私を超えた次元から認知するのは、
とても重要なことである。
それができるかどうかで、人間は自らを、「動物」と
切り離すことができる。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 リピドー(Libido) メタ認知 メタ認知能力)


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●煩悩(ぼんのう)


 「欲望」といえば、「煩悩(ぼんのう)」ということになる。
それについて2007年7月4日のBLOGに書いた記事をそのまま、ここに転載する。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


●煩悩(ぼんのう)


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仏教では、煩悩(ぼんのう)に
2つあると教える。

ひとつは、知性の煩悩。
もうひとつは、感情の煩悩。


そしてその根本はといえば、
「無明」と「愛欲」であると
教える(仏教聖典)。


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 仏教では、煩悩(ぼんのう)に2つあると教える。


ひとつは、知性の煩悩。もうひとつは、感情の煩悩。


そしてその根本はといえば、「無明」と「愛欲」であると教える(仏教聖典)。


 ここでいう「無明」は、「無知」という意味である。しかし無知といっても、「知識のなさ」を言うのではない。
「ものの道理をわきまえないこと」(「仏教聖典」)をいう。


 この煩悩に支配されると、人は、「むさぼり、怒り、愚かになり、邪見をもち、人を恨んだり、ねたんだり、さらには、へつらったり、たぶらかしたり、おごったり、あなどったり、ふまじめになったりする」(「仏教聖典」)という。
つまり、自分を見失ってしまう。


 この中でも、仏教では、とくに(1)むさぼり、(2)怒り(瞋り)、(3)愚かさを、「世の3つの火」と位置づける。
これらの「火」が、自ら善良な心を、焼いて殺してしまうという。そういう例は、多い。


 「むさぼり」(仏教聖典・仏教伝道協会編)とは、私たちが日常的に使う「むさぼり」という意味のことか。
わかりやすく言えば、欲望のおもむくまま、貪欲になることをいう。貪欲な人は、たしかに見苦しい。


 ある女性は、このところ数日おきに、病院にいる義父を見舞っている。義父を思いやる、やさしい心からそうしているのではない。
その財産が目的である。義母がいるが、体も弱く、このところ思考力もかなり低下してきた。


 そんな義母でも、「見舞には来なくていい」とこぼしている。
その女性が義父を見舞うたびに、義父は興奮状態になってしまう。
そのあと様子がおかしくなるという。
しかしその女性は、見舞いをやめる気配はない。


 これも(むさぼり)のひとつと考えてよい。
その女性はまさに、義父の心を、むさぼっている。

 つぎに怒り。仏教聖典のほうでは、(瞋り)となっている。
私は勝手に「怒り」としたが、研究者がこの文を見たら、吹きだすかもしれない。
仏教でいう(瞋り)、つまり(怒り)というのは、感情のおもむくまま、腹を立てたり、どなったり、暴れたりすることをいう。


 ただ、(怒り)そのものを、悪いと決めつけて考えることはできない。
たとえば今、私は、社会保険庁のずさんな事務処理に、怒りを感じている。
K国の金xxにも、怒りを感じている。
元公安調査庁の長官による不正疑惑にも、怒りを感じている。
さらには、防衛大臣の失言にも、怒りを感じている。


 その(怒り)が、こうしてものを書く、原動力にもなっている。
つまり(怒り)が正義と結びついていれば、(怒り)も善であり、そうでなければ、そうでない。


 3つ目に、(愚かさ)。愚かであるということは、それ自体、罪である。
しかし先にも書いたように、「知識がないこと」を、愚かというのではない。
ものの道理をわきまえないことを、(愚か)という。
 

 では(道理)とは何か。現代風に言えば、(人格の完成度)をさす。
人格の完成度の高い人を、「道理をわきまえている人」という。
他者との共鳴性が高く、良好な人間関係があり、より利他的な人を、人格の完成度の高い人という。


 その道理を身につけるためには、自分で考えるしかない。
考えて、考えて、考えぬく。
パスカルも言っているように、人間は考えるから、人間なのである。
中に、「私はものごとを深く考えない」「考えることが嫌い」「考えるのはめんどう」と豪語(?)する人がいる。
しかしそういう人は、自らを愚かな人間と、公言しているようなもの。


 恥ずべきことではあっても、自慢すべきようなことではない。


 で、これらの3つは、「火」となって、人間の世界を、ときに焼き尽くすこともあるという。「おのれを焼くばかりでなく、他をも苦しめ、人を、身(しん)、口(く)、意(い)の3つの悪い行為に導くことになる」(「仏教聖典」)と。
つまりその人だけの問題では、すまないということ。
 

 が、これにもう一言、つけ足させてもらうなら、こういうことになる。


 悪いことをしないから、善人というわけではない。
よいことをするから、善人というわけでもない。
私たちが善人になるためには、悪と、積極的に戦っていかなければならない。
悪と積極的に戦ってこそ、私たちは、善人になれる。
またそういう人を、善人という。


 話が脱線したが、私たちは、その煩悩のかたまりと言ってもよい。
この瞬間においてすら、その煩悩が、体中で、渦を巻いている。
「どうしたらいいものやら?」と考えたところで、この話は、おしまい。


私自身も、その煩悩の虜(とりこ)になり、いつも道に迷ってばかりいる。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 煩悩論 パーリ 仏教聖典)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


●無明と愛欲


 私はもともとこうした教条的な言い方が、好きではない。
原始の世界では、それなりに説得力もあったかもしれない。
しかしものごとを教条的に並べてしまうと、それ以外の部分が、排斥(カット)されてしまう。


 それはともかくも、仏教の世界では、「ひとつは、知性の煩悩。もうひとつは、感情の煩悩。そしてその根本はといえば、『無明』と『愛欲』であると教える」(仏教聖典)。
わかりやすく言えば、私たちは常に、「無明」と「愛欲」に、よいように操られているだけということになる。
感情と性欲を例にあげるまでもない。


●モヤモヤ


 そこで改めて、自分を見つめ直してみる。
方法は簡単。
静かに目を閉じ、脳の中でざわめくモヤモヤとした思いに、耳を傾けてみればよい。


 ……怒り、喜び、不安、心配、希望、期待、夢、嫌悪……。
そうしたものが、混然一体となって、そこでモヤモヤとしているのがわかる。
このモヤモヤとしたものが、そのつど、状況に応じて脳の表層部分に浮かびあがってくる。
それが感情、あるいは行動となって現れる。


 で、今度は、その逆の操作をしてみる。
「なぜ、そうなのか?」と。
わかりやすく言えば、モヤモヤしているものの原点を探ってみる。


が、それは簡単なことではない。
ここでいうモヤモヤというのは、無数の糸が、複雑に絡(から)み合っているような状態をいう。
モヤモヤの原点を探るためには、それぞれの糸を、一本ずつ、ていねいにほぐさなければならない。


 そこで再び、静かに目を閉じ、脳の中を整理してみる。


●脳


 が、脳というのは、それほど器用にできていない。
たとえば慢性的な不安や心配がつづくと、サイトカインというホルモンを分泌する。
それが脳全体に広がる。
で、そういう状態になると、「陰性感情」(フロイト)のみが優性になる。
平たく言えば、不愉快なことばかりが、脳に浮かんでくる。


 もちろんその反対のこともあるが、つまり脳というのは、その一部で喜びを感じ、別の一部で怒りを感ずるということができない。


 で、現在の私の脳は、その陰性感情に支配されている。
寝起きにみた悪夢が影響しているのかもしれない。
不平や不満、心配や不安、怒りや恨みが充満している。
それほど強くはないが、全体として、モヤモヤとしている。


 そこで私は深呼吸を繰り返す。
繰り返しながら、そこへ「陽性感情」を注入する。


 「今日も健康だ」「今度の講演先では、○○温泉に泊まろう」「幼児に方程式の解き方を教えるという実験は成功した」「昼からワイフとドライブに行こう」と。
もっとも効果的な方法は、私のばあい、幼児たちに接すること。
接したとたん、陰性感情は吹き飛んでしまう。
が、だからといって、それで「私」がわかったことにはならない。


 ……どうであるにせよ、モヤモヤの奥にあるものを探るのは、容易なことではない。


●メタ認知能力


 結論から先に言えば、「私」を知ることは、それほどまでに難しいということ。
中には「私のことは私がいちばんよく知っている」と豪語する人がいる。
が、そういう人こそ、本物のバカ(失礼!)と断言してよい。
何も知ろうとしないから、「知っている」と錯覚しているだけ。


 では、どうするかということになるが、それが「メタ認知能力」ということになる。
が、それについては、たびたび書いてきた。
今朝読んだ、自分の原稿をここに掲載する。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


【メタ認知能力】


●メタ認知能力(Metacognitive Ability)とは、何か


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メタ認知能力とは何か。
川島真一郎氏(高知工科大学大学院)の修士学位論文より、
一部を抜粋引用させてもらう。
(出典:メタ認知能力の向上を指向した
高校数学における問題解決方略の体系化
Systematization of Problem Solving Strategy in High
School Mathematics for Improving Metacognitive
Ability(平成19年))


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●メタ認知


メタ認知(metacognition)とは、認知活動についての認知のことである。メタ認知概念
は、ブラウン(A。 Brown)やフラベル(J・H・Flavell)によって1970 年代に提唱され
た。


メタ認知は、まずメタ認知的知識(meta-cognitive knowledge)とメタ認知的活動
(metacognitiveactivity)に分かれ、それぞれがさらに細かく分かれる。
メタ認知的知識
とは、メタ認知の中の知識成分を指す。
メタ認知的知識は、人間の認知特性についての知
識、課題についての知識、課題解決の方略についての知識の3 つに分けて考えることがで
きる。
メタ認知的活動とは、メタ認知の中の活動成分を指す。
メタ認知的活動は、メタ認知的モニタリング、メタ認知的コントロールの2 つに分かれる。
メタ認知的モニタリングとは、認知状態をモニタすることである、認知についての気づき(awareness)、認知についての感覚(feeling)、認知についての予想(prediction)、認知の点検(checking)などが含まれる。
メタ認知的コントロールとは、認知状態をコントロールすることである。
認知の目標設定(goal setting)、認知の計画(planning)、認知の修正(revision)など
が含まれる。


困難な場面に遭遇したとき、タ認知はその事態を打開すべく、関係のありそうな経験や
知識を想起する。
似たような困難を克服した経験があれば、それは大きな手掛かりとなる。
過去の経験がそのままでは使えないときでも、見方を変えたりすることで使えることもあ
る、直面している問題が極めて困難なときは、条件の一部を解き易い形にした問題をまず
解いてみることが手掛かりになることがある。
また、問題の解決に使えそうな法則なども
思い出し、解決に向けた道筋を描く。
解決に向けた一番確かそうな方針が決まれば、実行してみる。
間違いを犯しそうな場面では注意深く実行し、時々方針が間違っていないか検討を加える。
このようにして、メタ認知はルーティンワークでない困難な問題を解決するときに、力を発揮すると考えられる。


そして、メタ認知能力は使うことで訓練をしなければ、その能力は向上しないと考えられ
る。
訓練するための問題は、メタ認知が働かなくても解決できるような平易過ぎる問題は役に立たない。
適度な難易度の問題を解決することが必要である。
従って、パターン暗記に終始するような学習では、メタ認知能力は向上しないと考えられる。
その意味で、生徒が試行錯誤しながら自力で問題の解決を図る問題解決学習は、その狙いが実現できれば、メタ認知能力の育成に大いに効果を発揮すると考えられる。
(以上、川島真一郎氏の論文より)


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●メタ認知能力(Metacognitive Ability)


 私は「メタ認知能力」なるものについては、すでに10年ほど前から、原稿を書いて
きた。
が、ここ数年、この言葉をあちこちで聞くようになった。
しかし本当のところ、メタ認知能力とは何か、私もよくわかっていない。


 そこでまず私がとった手段は、メタ認知能力、つまりMetacognitive Abilityについて、
できるだけ原文に近い文献をさがすことだった。
最初は、直接アメリカの文献(英文)から調べようとしたが、先に、ひとつの文献を
さがしだすことに成功した。


ここに紹介した川島真一郎氏の修士学位論文が、それである。
わかりやすく書いてあるので、そのまま引用させてもらった。
 つまり私は、(メタ認知能力)とは何か知るために、つまりその壁を打開するため、
今までの経験を総動員して、(おおげさかな?)、あちこちを調べた。
その結果が、先にあげた論文の一部ということになる。


●メタ認知能力


 が、これだけをさっと読んだだけでは、意味がよくわからない。
内容を、もう少し整理してみる。


●メタ認知


(1) メタ認知的知識(meta-cognitive knowledge)
メタ認知の中の知識成分を指す。
 (1) 人間の認知特性についての知識、
 (2) 課題についての知識、
 (3) 課題解決の方略についての知識の、33つに分けて考えることができる。

(2) メタ認知的活動(metacognitive activity)
メタ認知的活動とは、メタ認知の中の活動成分を指す。メタ認知的活動は、
 (1) メタ認知的モニタリング、
 (2) メタ認知的コントロールの2つに分かれる。
 これでだいぶ頭の中がすっきりしてきた。
 さらに、

(1) メタ認知的モニタリングとは、認知状態をモニタすることである。
認知についての気づき(awareness)、認知についての感覚(feeling)、認知についての予
想(prediction)、認知の点検(checking)などが含まれる。

(2) メタ認知的コントロールとは、認知状態をコントロールすることである。
認知の目標設定(goal setting)、認知の計画(planning)、認知の修正(revision)など
が含まれる、と。


●実益


 先にメタ認知能力の実益について、引用させてもらう。
川島真一郎氏は、こう書いている。


『メタ認知はルーティンワークでない困難な問題を解決するときに、力を発揮すると考え
られる。そして、メタ認知能力は使うことで訓練をしなければ、その能力は向上しないと
考えられる』と。


 日常的な行動を同じように繰り返すようなときには、メタ認知能力は、力を発揮しない。
つまり難解で、より高度な知識と経験を必要とするような問題に直面したとき、
メタ認知能力は力を発揮する、と。


 そしてそのメタ認知能力は、訓練しなければ、向上しない、ともある。


●因数分解


 川島真一郎氏は、因数分解を例にあげて、メタ認知能力がどういうものであるかを
説明している。
そのまま印象させてもらう。


++++++++++以下、川島真一郎氏の論文より+++++++++++++


7。 <題>求めるもの(答え)と、与えられた条件の関係を発見せよ。[関係は直接的に見
えるときもあれば、仲介物を通して初めて見えて来るときもある。例えば、中間的な目標
を設定せよ。(例)(a + b + c)(bc + ca + ab) ? abc を因数分解せよ。]
8。 <眼><針>関係の有りそうな公式は何か。
9。 <経><予>似た問題を思い出せ。
10。 <経><眼><針>似た問題の方法や結論を利用できないか。[(例)x、 y の対称式
はx + y とxy で表せる。]
11。 <眼><針>求めるもの(答え)の形を考え、それを具体的に(例えば式に)できな
いか。[また、その形のどの部分を求めればよいか。それを求めるのに、条件をどのように
使えるか。]
12。 <眼><針>与えられた条件や式を、解答で使い易いように変形できないか。[場合
によっては、結論の式から解答を進めて、後で比較するのが有効なときも有る。]
13。 <助><検>(方針の選択や解答の進め方について)解法の大筋を捉える。[大まか
な見通しを持つことが、解答への着手を促し、右往左往したり、袋小路に入ったりするの
を防ぐ。(例)増減表を書けば解けそう。判別式を利用できそう。等々]
14。 <経><眼><針>前に使った方法が直接使えないとき、補助的な工夫を加えること
で使えるようにならないか。[(例)角度の問題で、補助線を引く事で三角形の問題と捉
える。]
15。 <眼><針>求める結果が得られたと仮定して、逆向きに解けないか。[求める結果
を明確にイメージすることで、必要となる道筋が見えてくることが有る。]
16。 <眼><針>定義に帰ることで、手掛かりが得られることが有る。[2 次関数関連の
問題と判別式の関係。微分係数の定義。等々]
17。 <困><眼><針>問題を言い換えることで、容易になったり、既習の解法が使えた
りしないか。(そのとき、与えられた条件はどう変わるか。)[問題を違った視点から見る。
(例)sin θ+ cos θ の最大値を求めるのに、単位円周上の点P(x、 y) を利用する。]
18。 <困><眼><針>問題を一般化することで、容易になることがある。[(例)具体的
な数値の問題を、一般的な文字に置き換えることで見通しが良くなることが有る。]
19。 <困><眼><針>問題を特殊化することで、解決の糸口がつかめるときがある。
[(例)直方体の対角線の長さを求める問題で、高さが0 の場合を解いてみる。]
20。 <困><分><眼><針>条件の一部からどんなことが分かるか。[条件を幾つかの
部分に分けられないか。全体の解答とどう関係するか。]
21。 <困><眼><針>解き易い類題を考えることが、元の問題の手掛かりになることが
ある。[問題の一部は解けるか。どういう条件が付加されていれば解き易いか。等々]
22。 <補><検><助>条件の使い忘れはないか。
(CP)
23。 <題><検>方針に従い解答を進め、適当な段階で検討を加え、必要に応じて方針を
見直す。
24。 <補>自信の持てるる解き方から試みよ。[大抵の問題は、何通りか解き方がある。
(例)基本的な公式だけを使う。図形を利用する。微分を利用する。等々]
(LB)
25。 <題>結果の検討。[少しの検討が、長い目で見ると大きな効果をもたらす。]
26。 <検><眼>別の解法はないか。得られた答えが別の簡単な解法や、答えの意味を示
しているときが有る。
4。4 体系化された問題解決方略の適用
27。 <検><眼>使った方法や結果を総括する。他の問題に応用できないか。


++++++++++以上、川島真一郎氏の論文より+++++++++++++


●因数分解(例)


 高校生たちに因数分解を教えるとき、私自身は、半ばルーティンワーク的に解いて
みせている。
(因数分解そのものは、解法公式はほぼ確立していて、簡単な問題に属する。)
しかしこのように内容を秩序だてて分析されると、「なるほど、そうだったのか」と、
改めて、驚かされる。


私はそれほど意識せず、メタ認知能力を、応用かつ利用していたことになる。
率直に言えば、「メタ認知能力というのは、こういうものだったのか」と納得する
と同時に、「奥が深いぞ」と驚く部分が、頭の中で交錯する。
 ちなみに、先の(a + b + c)(bc + ca + ab) - abcを、別の紙で、因数分解してみた。
因数分解の問題としては、見慣れない問題である。


(1)見ただけでは、瞬間、頭の中で公式が浮かんでこない。
(2)直感的に、「いつものやり方ではできない」ということがわかる。
 が、こういうときの鉄則は、(3)「ひとつの文字に着目しろ」である。
この問題では、(a)なら(a)に着目し、(a)について式をまとめる。


 しかしこの場合、一度、式をバラバラにしなければならない。
結構、めんどうな作業である。


が、ここで「こんなめんどうな問題を出題者が出すはずがないぞ」というブレーキが働く。
「時間さえかければ、だれでもできる」というような問題は、数学本来の問題ではない。
ただの作業問題ということになる。


 そこで私は、(4)もっと簡単な方法はないかをさがす。
(bc + ca + ab)という部分に着目する。
(a)でくくれば、(b+c)という因数を導くことができる。
(b+c)を、(B)と一度置き換えてから、因数分解できないかを考える。
しかしもう一つの項、(abc)が残る。


つぎの瞬間、「この方法ではだめだ」と直感する……。
 ……というように、認知の目標設定(goal setting)、認知の計画(planning)、認知の
修正(revision)を繰り返す。


●高度な知的活動


 小学1年生が訓練するような、足し算の練習のような問題は、ただの訓練。
メタ認知能力など、必要としない。

 そこで昨日(8月21日)、メタ認知能力を確かめるため、私は小学2、3年生クラス
で、ツルカメ算の問題を出してみた。
あらかじめ、「ツルが2羽、カメが4匹で、足は合計で何本?」というような練習
問題を5~6問、練習させる。


そのとき「できるだけ掛け算を使って、答を出すように」と指示する。
 それが一通りすんだところで、「ツルとカメが、合わせて、10匹います。
足の数は、全部で、28本です。
ツルとカメは、それぞれ何匹ずついますか?」という問題を出す。
 で、このとき子どもたちを観察してみると、いろいろな反応を示すのがわかる。
(私の教室の子供たちは、幼児期から訓練を受けている子どもたちだから、こうした
問題を出すと、みな「やってやる!」「やりたい!」と言って、食いついてくる。)


 絵を描き始める子ども。
足を描き始める子ども。
意味のわからない記号を書き始める子ども。
2+2+2……と、式を書き始める子どもなどなど。
 こうした指導で大切なことは、(解き方)を教えることではない。
(子ども自身に考えさせること)である。
だから私は、待つ。
ただひたすら、静かに待つ。


 が、やがて1人、表を書き始める子どもが出てきた。
私はすかさず、「ほう、表で解くのか。それはすばらしい」と声をかける。
するとみな、いっせいに、表を描き始める。
表の形などは、みな、ちがう。
しかしそれは構わない……。


 (こうした様子は、YOUTUBEのほうに動画として、収録済み。)


●メタ認知能力の応用


 こうして書いたことからもわかるように、メタ認知能力というのは、もともとは、
数学の問題を解法技法のひとつとして、発見された能力ということになる。
しかしその奥は、先にも書いたように、「深い」。
日常的な思考の、あらゆる分野にそのまま応用できる。
ひとつの例で考えてみよう。


●パソコンショップの店員


 こういう書き方ができるようになったのは、私もその年齢に達したから、ということ
になる。
パソコンショップの店員には、たいへん失礼な言い方になるかもしれないが、そういう
店員を見ていると、ときどき、こう考える。
「だから、どうなの?」
「この人たちは、自分の老後をどう考えているんだろ?」
「もったいないな」と。


 つまりパソコンショップの店員の目的は、パソコンを客に売ること。
しかしそんな仕事を、仮に10年つづけていても、身につくものは何もない。
店が大きくなり、支店がふえれば、支店長ぐらいにはなれるが、そこまで。
だから「だから、どうなの?」となる。


 つぎにパソコンショップの店員たちは、よく勉強している。
その道のプロである。
しかしプロといっても、一般ユーザーの目から見てのプロに過ぎない。
パソコンを自由に操ることはできるが、その先、たとえばプログラミングの仕事とか、
さらには、スーパーコンピュータの操作となると、それはできない。


 そこで私はこう考える。
「こうした知識と経験を使って、別の仕事をしたら、すばらしいのに」と。
たとえばデザインのような、クリエイティブな仕事でもよい。
それが「もったにないな」という気持ちに変わる。


 そこでメタ認知能力の登場!

(1) 自分の置かれた職場環境の把握
(2) その職業を長くつづけたときの、メリット、デメリットの計算
(3) 老後が近づいたときの、将来設計
(4) 収入の具体的な使い道などなど。

 
 そうしたことを順に考え、自分の生活の場で、位置づけていく。
中には、「お金を稼いで、高級車を買う」という人もいるかもしれない。
しかしそれについても、メタ認知能力が関係してくる。
「だから、それがどうしたの?」と。
 高級車を乗り回したからといって、一時的な享楽的幸福感を味わうことは
できる。
が、できても、そこまで。
4~5年もすれば、車は中古化して、当初の喜びも、半減する。


 ……つまりこうしてパソコンショップの店員は、メタ認知能力が少しでもあれば、
「もったいないな」を自覚するようになる。
また自覚すれば、生きざまも変わってくる。
同じ店員をしながらも、ただの店員で終わるか、あるいはつぎのステップに進むか、
そのちがいとなって、現れてくる。


 が、このことは、家庭に主婦(母親)として入った女性についても、言える。


●生きざまの問題に直結


 日常的な作業(=ルーティンワーク)だけをし、またそれだけで終わっていたら、
その女性の知的能力は、(高度)とは、ほど遠いものになってしまう。
電車やバスの中で、たわいもない愚痴話に花を咲かせているオバチャンや、オジチャン
たちを見れば、それがわかる。


 そこで重要なことは、あくまでもメタ認知能力の訓練のためということになるが、
つねに問題意識をもち、(問題)そのものを、身の回りから見つけていくということ。
問題あっての、メタ認知能力である。


 社会問題、政治問題、経済問題、さらには教育問題などなど。
あえてその中に、首をつっこんでいく。
ワーワーと声をあげて、自分で騒いでみる。
私はそのとき、そのつど文章を書くことを提唱するが、これはあまりにも手前みそ過ぎる。
が、(書く)ということは、そのまま(考える)ことに直結する。
ほかによい方法を私は知らないので、やはり書くことを提唱する。


 で、こうして書くことによって、たとえば今、「メタ認知能力」についての理解を
深め、問題点を知ることができる。
同時に、応用分野についても、知ることができる。
こうして自分がもつ知的能力を高めることができる。
そしてそれがその人の生きざまへと直結していく……。


 簡単に言えば、「自分の意識を意識化すること」。
それがメタ認知能力ということになる。

オックスフォード英英辞典によれば、「Meta」は、「higher(より高度の)」「beyond
(超えた)」という意味である。
「より高度の認知能力」とも解釈できるし、「認知能力を超えた認知能力」とも解釈
できる。


 私はこのメタ認知能力の先に、(ヒト)と(動物)を分ける、重大なヒントが隠されて
いるように感ずるが、それは私の思いすごしだろうか?
つまりメタ認知能力をもつことによって、ヒトは、自らをより高いステージへと、自分を
もちあげることができる。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 メタ メタ認知能力 metacognitive ability 高度な知的活動)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

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