2011年9月23日金曜日

*A Letter to Ms. K

K子様へ

拝啓

 長い電話をし、すみませんでした。
久しぶりのことで、楽しかったです。
お元気そうで、たいへんうれしかったです。
いろいろ勉強になりました。
同時に、いろいろ考えさせられました。
ありがとうございました。

順に、自分の考えをまとめてみたいと思っています。

●信仰について

 信仰は、基本的には、人、それぞれです。
それを大切に思う人もいれば、そうでない人もいます。
宗教や宗派によっても、考え方もちがうでしょう。
大切なことは、それぞれの人の考え方を尊重するということではないでしょうか。

 自分が「する」からといって、しない人を、非難するのは許されません。
反対に「しない」からといって、する人を、非難するのは許されません。
たがいに、そっとしておいてやる。
それが「信仰」と、私は考えています。

●伝統的儀式について

 「伝統」を背中に背負っている人は、強いです。
たとえば盆の墓参りにしても、「昔から、みな、そうしている」と言えば、すべてが正当化されます。
言うなれば、水戸黄門の葵三つ葉の紋章のようなものです。
それを高くかかげ、「控えおろう」と。

 しかしそれほど楽な生き方はありません。
あとからまたそれについて書くことになりますが、自分では何も考えなくてすむからです。
昔からの(?)、言い伝えだけを、守ればよい。
世間的にも(?)、人との摩擦を避けることができます。

 しかし今、その伝統が、大きく崩れ始めているのも事実です。
都会地域では、直葬といって、病院で死んだあと、葬儀をしないまま火葬するというケースがふえています。
全体の30%ほどと聞いています。
またこのあたりでも、墓をもたないで、散骨という方法を選ぶ人もふえてきました。

 浜松市の郊外でも、このところ無住の寺が増えてきました。
さらにこれは長野県の友人(北信)に聞いた話ですが、無縁仏が増え、寺ごとにそうした遺骨を集めた納骨堂を建てているということです。
この傾向は、ここ浜松市でも見られます。

 要するに、人、それぞれ、ですね。
それぞれがそれぞれの生き方を選び、死に方を選ぶ。
大切なことは、先にも書いたように、それぞれの人の生き方、死に方を、そっと見守るということです。

 「私が正しい」と思うのは、その人の勝手ですが、返す刀で、「あなたはまちがっている」と切り返すのは、許されません。
それこそ、傲慢というものです。

●肉親関係

 Kさんも、いろいろ問題をかかえておられることは、よくわかりました。
しかしどの家族も、似たような問題をかかえています。
いろいろな話を聞いていますが、Kさんの家族のケースは、その中でも「軽い」(失礼!)ほうではないでしょうか。

 深刻なケースとなると、まさに想像を絶するといったふうです。
最近でも、玄関先で兄弟同士が怒鳴りあったという話も聞いています。
この世界、まさに何でもござれ!
で、それなりの人たちとは、それなりのつきあい方をする。
他人でも、身内でも、です。
一定の距離を置く。
それでよいのではないでしょうか。

 ただ人も、60歳を過ぎると、(50歳でもよいのですが……)、仮面(ペルソナ)をかぶってつきあうのも、疲れます。
つまりいい人ぶるのは、疲れます。
私のばあいは、こうしてものを書くのが仕事ですから、一言でもその人を悪く書いたり、批判したばあいは、以後、交際を絶つようにしています。
一方で悪く書きながら、一方で笑顔で話すなどということは、私には、できません。
またそういうことを繰り返していると、脳みそがバラバラになってしまいます。

 あとは、ありのまま生きる。
今さら身を飾っても、意味はありません。

●生き様

 ある人の手記を読みました。
アメリカ人の青年が書いた手記です。
その青年は、20代でHIV(エイズ)を発症。
余命、半年余りと宣告されました。

 その青年は、こう書いています。
「無駄な人と、無駄な交際はしたくない。時間を無駄にしたくない」と。

 20代の青年がそう書いたことに驚きました。
しかしこの話は、何も、20代の青年だけの話ではありません。
私たちだって、すでに「死の宣告」を受けているわけです。

 私も平均余命まで、16年を切りました。
今のところ、とくに大きな病気はありませんが、一般論から言えば、平均余命から10年を引いた年齢が、健康寿命ということになります。
最後の10年は、病魔と闘いながら、徐々に死に向かっていく……。

 私は今、無駄に時間を過ごすことに、たいへん神経質になっています。
つまらないことで、半日もつぶしたりすると、「しまった!」と思うことが、よくあります。

●ゆがんだ心

 電話で「ゆがんだ心」について話しました。
心も、顔と同じように、生き様によって、ゆがんできます。
生き様が醜いと、心もゆがんでくるということです。
で、ここが恐いところですが、一度ゆがんだ心は、もとには戻らないということ。
青年期までにゆがむと、その状態は、生涯にわたって、つづきます。
「改心」という言葉もありますが、それは昔の時代劇の話です。
脳の中に、一度できた思考回路を変えることは、簡単なことではありません。
学者ぽい人は、一生、学者ぽい。
ヤクザぽい人は、一生、ヤクザぽい。

 「ゆがむ」ということは、ものの考え方が、悪魔的になったりすることをいいます。
人を恨んだり、妬(ねた)んだり、しやすくなります。
ウソをウソと思わなくなるのも、そのひとつです。
自分の欲望を満足させるために、平気で人を傷つけたり、だましたりします。

 以前、こんな女性(80歳くらい)の話を聞きました。
何でもその女性は、朝早く、散歩にでかけては、近所の植木鉢を持ち帰ってしまうというのです。
私はこの話を聞いたときには、少なからず、混乱しました。
(盗むという行為)と、(美しい花を楽しむ)という行為は、完全に矛盾するからです。
私には……という言い方は避けたいですが、盗んできた花を楽しむということは、私にはとてもできません。
花を見るたびに、いやな気分になるでしょう。

 が、心がゆがんでいる人は、それが平気でできます。

●絶縁

 私もこの10年のうちに、何人かの人と絶縁しました。
それまで何十年も交際してきた人も、含まれています。
たとえば、B氏。

 B氏は、他人の不幸をのぞいては、平気でそれを酒の肴にするような人です。
私の母が、倒れたときもそうです。
妹氏を連れて、見舞いにやってきたそうです。
もちろん心配して見舞いに来たのではなく、ただの見物です。
つまり野次馬。

 それがそうであるかないかは、その人自身の生き様を見ればわかります。
「一貫性」の問題です。
生き様には、よい意味においても、悪い意味においても、一貫性があります。
母にしても、見舞いになど来てほしくなかったのでは、ないでしょうか。
見舞いに行くなら行くで、一度、相手の気持ちを確かめてから行く。
私はそれが常識と考えています。

 中には、(よほど親しい人は別として)、自分の無様(ぶざま)な様子を見せたくない人もいます。
反対に私やあなた自身が、そういう状態になったときのことを考えてみれば、よくわかるはずです。

 無頓着というより、失敬。
失敬というより、あまりにも人道をはずれている。

 が、B氏は、そのあとさらに、事情も知らず、イヤミまで言ってきました。
自分では、ご存知のように、介護の「か」の字も経験したことがない。
父親が倒れて入院したときも、最期まで一度も見舞いに行かなかった。
そういうB氏が、年長風を吹かし、私にイヤミまで言う。

 その瞬間、私とB氏との関係は、切れました。

●人を選ぶ
 
 話が脱線しましたが、50歳を過ぎたら、人を選ぶ。
60歳を過ぎたら、さらに、人を選ぶ。
世界の賢人たちも、異口同音に、こう言っています。
「老後は、少数の人たちと、濃密な関係をもつのがよい」と。

 この考え方は、先に書いたアメリカ人の青年の考え方と共通しています。
本当に心のわかり合える人と、心を通わせて生きる。
反対に言うと、表面的な部分だけで、キツネとタヌキの化かし合いを繰り返す。
私はそれこそ、時間の無駄と考えます。
もちろん私たちは同時に社会的動物ですから、生きていくためには、表面的なつきあいをしなければならないときもあります。

 たとえばこれから私は、ある農家の友人を訪ねることになっています。
頼んでおいた、お茶ができたという連絡を受けたからです。

(今では、お茶も安心して飲めません。
それでその友人に、お茶を頼んでおきました。
その友人が作ったお茶なら、飲めるからです。)
そういう交際まで、無駄と言っているのではありません。

 さわやかに交際し、さわやかに生きる。
それもときには、大切なことですね。

●浅瀬にあだ波

 ただ注意してほしいことがあります。
昔から、『浅瀬にあだ波』と言います。
「思慮の浅い人ほどよくしゃべり、あれこれとうるさく騒ぎ立てるということ。
川の浅瀬には、さざ波がたつところから。
「仇波」はむやみに立ち騒ぐ波のこと」(ウィキペディア百科事典)という意味です。

 K子さんの周りにもそういう人がいると思いますが、一方的な意見だけを聞いて、判断すると、判断を誤ります。
人間関係については、とくにそうです。
同じAさんでも、見る人によって、評価が180度ちがうということは、よくあります。
一見、人道にはずれた(?)行為でも、理由を聞くと、そうでないということは、よくあります。

 私にかぎらず、人がそうした行動に至るには、それなりの前提なり、理由があるということです。
もっとも、私のばあい、いちいち説明するのが面倒なときは、それから逃げてしまいます。
相手次第というわけです。
それなりの人なら、説明も必要かもしれません。
そうでなければ、そうでない。
何か、疑問に思うようなことがあれば、どうか、率直に私に聞いてください。

 K子さんが言われたように、あのM子さんは、悪人ではありません。
ただ気が小さい人だけ。
世間体ばかりを、気にしている。
もともと自分(=コア)のない人ですから、10のうち、9までがウソと考えてよいと思います。
だから言うことが、コロコロと変わる。
一貫性がないという、一貫性(?)。
そういう人です。

●伝統

 が、K子さんは、強気ですね。
「伝統」を背負っているからです。
「昔からのしきたり」と言えば、みな、黙ります。
それをよいことに、自説を展開する。
返す刀で、相手、つまり私を非難する。

 「あの浩司(=私)は、偉そうなことを書いているが、人間のクズ」と。

 でも、そんなことで、地獄へ落ちるというのなら、私はあの世へ行ったら、真っ先にデモ行進でも何でもしてやります。
さらに言えば、地獄へ落ちるのは、この私。
私の心配までしていただかなくても、結構。
K子さんは、K子さんなりのやり方で、「極楽」へ行けばよいのです。

●いい人ぶる

 大切なことは、いい人ぶらないこと。
いい人ぶればぶるほど、疲れます。
英語の格言にも、『2人にはいい顔はできない』というのがあります。
自分のことを悪く言う人もいれば、そうでない人もいます。
若いころなら、誤解を解いて・・・というエネルギーも働きましたが、今は、その元気もありません。
成り行き任せといった感じです。
もう少し辛辣な言い方をすれば、「どうでもいい」?

 どうせ・・・という言い方は失礼かもしれませんが、どうせその程度の人たちです。
総じてみても、日々に精進、努力している人のほうが少ないです。
そこらのオジチャン、オバチャン(私も含めてですが・・・)を相手にしても、しかたないでしょう。
本気に相手にしても、それこそK子さんが言われたように、みなが喜ぶだけです。
私も、そう考えます。

●迷い

 私もよく迷います。
が、そういうときは、「すべてをする」という方法に切り替えます。
たとえば旅行先。

 「Aへ行こうか、Bへ行こうか」と迷ったら、両方とも行きます。
(もちろん費用の問題はありますが……。)
時間というのは不思議なもので、作れば作れるものです。
怠惰に過ごすのも1日。
朝からキビキビと過ごすのも1日。

 ご存知ですか。
あのネズミの脳の周波数を100倍に広げてみたら、人間の脳の周波数と一致したというのです。
つまりネズミは、人間の100倍の速さで、生活しているということになります。
わかりやすく言えば、人間の1秒は、ネズミの100秒に相当するということです。
ですからネズミの寿命を知り、「ネズミは寿命が短い」と考えるのは、まちがいです。

 さらにハチがいます。
スズメバチ(雄)の寿命は、約3か月程度と言われています。
しかしスズメバチは、その3か月で、人間の50~60年分を生きているのかもしれません。

 つまり人生というのは、「時間」ではなく、「密度」の問題ということです。
そこにある時間をどう使うかで、人生を長く生きることもできるということです。

 だから迷ったら、両方する。
費用の問題が生じたら、2倍、仕事をすればよい……ということになりますね。

●心配ごと

 もちろん私にも、心配ごとはあります。
家族、仕事などなど。
老後の問題は、目下、現在進行中。
あとは健康。
とくにボケ(認知症)が恐いです。
ボケると、私が私でなくなってしまう。

 今は、まだこうしてものを書くことができますが、ボケたら、それもできなくなります。
だから今は、こう考えます。
ピンコロこそ、私の死に方、と。

 無駄に長生きをしても、みなに、迷惑をかけるだけ。
この先、私たち老人組は、ますます嫌われることはあっても、好かれることはないでしょう。
若い人たちの書くBLOGを読んでいると、それがよくわかります。
で、そういうのを読んでいると、「では、自分の人生は何だったのか」とよく思います。
たとえば私は結婚前から、収入の約半分を、実家へ納めてきました。
加えて盆や暮れに帰省するたびに、20~30万円を納めてきました。
それを40歳までつづけ、40歳から45歳までは、毎月10万円、納めてきました。
いろいろあって、その額にしてもらいました。

 27、8歳以後は、法事の費用全額、税金、商品などの仕入れ金なども支払ってきました。
その間に、実家の建て直しもありました。
一方、母は母で、そうしたお金で、親戚の人たちの生活を助けていました。

 私は私なりに懸命に働かざるをえなかったわけです。
1か月に、休みが1日だけという年も、何年かつづきました。
が、結果はどうか。

 この先、今までしてきたことが報われるということは、ないでしょう。
また期待していません。
無縁死、孤独死は、当然。
60%の人がそうなると言われていますから、もうあきらめています。
「孤独死、それもいいではないか」と、です。

 もっとも、70歳までには、有料の老人ホームへ入ることも考えていますが、それもたいへんです。
現在の今ですら、7年待ちといった状況です。
しかも入居条件の第一が、「健康で、自活できること」となっています。

 ボケたら、そこへ入ることもできません。

●「今」が常にゴール

 そういうことも考えていくと、何のために生きてきたか、わからなくなります。
人生の最後に、「死」がある。
生きるのもたいへん。
しかし死ぬのもたいへん。

 だからこう考えるようになりました。
要するに人生には、ゴールはない、と。
あるとすれば、「今」が、その「ゴール」。
常に今があり、常にゴールがある。
そう考えれば、「何のために・・・」という部分が、少しは和らぎます。

 だから私のばあい、「とにかく今をがんばろう」という気持ちで生きています。
「明日は、今の結果としてやってくる」と。
たとえば健康にしても、今日、運動をこなす。
「今日、こなせば、明日も健康でいられるだろう」という思いが、あるからです。

 ただ、「道」だけは、大切にしています。
道のない人生を歩むことほど、つらいものはありません。
何度も経験しました。
だから「道」を見失わない。
わかりやすく言えば、仕事ということになります。
どんな形であれ、死ぬまで、仕事をする。
できればピンコロ・・・。
そう願っています。

●目的

 自分のことばかり書きましたが、K子さんのことを書くと、K子さんがだれか、わかってしまいます。
この世界にも、いろいろあります。
いろいろな人がいます。
こうして私は自分のことを洗いざらい書いているものですから、中には、興味本位で私の私生活をのぞいている人もいます。
それはそれで仕方のないことですが、みながみな、好意的というわけではありません。
先日も、こう言ってきた人がいました。

 「浩司くんは、毎日、あんなことをしていますが、何の役に立つのですか」と。
「あんなこと」というのは、毎日、こうして私が原稿を書いていることをいいます。
悪気があってそう言ったのではないと思います。
「本を出すとか、そういう方法なら、利益にもなるし、私が死んだ後も残る」という意味で、そう言いました。

 が、私はもうそういうことが、どうでもよくなりました。
本を出しても、どうせ売れないでしょうし、死んだ後のことは、その後の人たちに任せればよいのです。
それよりも大切なことは、「今」、それを「生きがい」とできるかどうかということです。
それができれば、それでよし、です。
たとえば朝、起きますね。
今の私は軽い運動をすますと、まっすぐ書斎へ入ります。
おもむろにパソコンに電源を入れ、キーボードを叩き始める。
それがたまらなく楽しいです。
ときどきそういう私を、私は、幸福と感じます。

 他人の批評など、気にすることはない、ですね。
そういう点では、どこかカルト的ですが、しかし同時にときどき、こう思います。
「1人くらい、私のような馬鹿がいてもいいのではないか」とです。
どうであるにせよ、今の私には、それしかできませんし・・・。
今さら、自分の道を変えることもできません。
「無駄だった」と認めることは、そのまま「自己否定」につながってしまいます。
その心配があるならなおさら、目を閉じて生きていくしかありません。

●終わりに

 とにかく1日でも長く、健康に。
若い時は、こんなことは考えもしませんでした。
しかし今は、ちがいます。
健康であることが、かくも重要なこととは、知りませんでした。
だから「一日でも・・・」となります。

 がんばって生きていきましょう。
いつも長電話になってすみません。

 台風一過。
秋の気配を感じます。
朝夕などは、寒いほどです。
どうか、お体を大切に。
今日は、これで失礼します。

はやし浩司

2011/09/23記


Hiroshi Hayashi++++++Sep. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●9月23日(金曜日)

 1人のバカ親父がいる。
たいした仕事もせず、道楽三昧。
毎日していることと言えば、庭いじり。
一本何百万もするような庭木を植えては、それを楽しんでいる。
10年前に離れの家を建てたばかりなのに、今度は茶室も造るという。

 3人の息子と2人の娘がいる。
5人とも、朝早くから、夜遅くまで働いている。
給料は悪くはないが、毎月、月末になると、バカ親父が、金を借りに来る。
その額、すでに10億円。
5人の息子や娘の年収の、約20倍。

 そこで息子や娘たちが、こう言った。
「お父さん、道楽も、もうほどほどにしてよ」と。
が、そんな願いなど、どこ吹く風。
バカ親父は、相も変わらず、道楽三昧。

 が、ここにきて、問題が起きた。
息子や娘たちの勤めている会社が、このところ様子がおかしい。
売り上げが落ちてきた。
株価が下がってきた。
当然、給料も下がってきた。
息子や娘たちは、バカ親父の道楽を支えるだけで、精一杯。
……というか、限界。
と、思っていたところ、大事件。

 息子の家が、火事で燃えてしまった。
が、それを知ってもバカ親父は、道楽はそのまま。
「オレがここで庭いじりをやめたら、庭師たちが生活に困る」と。

 そこでバカ親父は、残った4人に、さらなる借金を申し込んだ。
「もっと、金を出せ」と。

 現在の日本の現状を、ひとつの家族にたとえると、だいたいこんな感じになる。


Hiroshi Hayashi++++++Sep. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【今日のBW教室】(折れ線グラフの学習)

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今週は、小1児、小2児に
折れ線グラフを教えてみました。
試行錯誤を重ねた結果、今回は、何とか
ねらい通りのレッスンができました。

使った教材は同じものですが、
(また同じように教えてみましたが)、
子どもたちの反応によって、
雰囲気がまったくちがったものに
なりました。

重要なことは、教える私のほうが、
楽しむこと。
そうすれば、子どもたちもそのまま
自然な形で、学ぶことを楽しんで
くれます。
ややふざけたレッスンになりましたが、
「折れ線グラフの勉強は楽しかった」という
印象が、つぎの学習意欲へとつながって
いきます。

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【小1児】

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【小1・小2児、混成クラス】

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Hiroshi Hayashi++++++Sep. 2011++++++はやし浩司・林浩司

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