2011年9月8日木曜日

*Another world

●再び、「浜名湖弁天リゾート・ジ・オーシャン」に一泊

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先週、この「ジ・オーシャン(The Ocean)」に一泊。
満足した。
で、今日も、一泊することにした。
ビジネスホテルの料金で、旅館+温泉気分が楽しめる。
窓からの景色もよい。

夕食は持ち込み。
電話で問い合わせたら、「いいですよ」とのこと。
こういう寛大なホテル(旅館)は、うれしい。

私たち夫婦は、少食派。
バイキング料理も悪くはないが、その分だけ割高感が残る。

ここ(The Ocean)へ来る前、途中で、スーパーで弁当を買った。
おにぎりとパック寿司。
飲み物も買った。
気分は、まさに遠足。

ところでこのホテルの名前は、「浜名湖弁天リゾート・ジ・オーシャン」だそうだ。
昨日、104の電話番号案内で「ジ・オーシャン」をさがしてもらったが、かなりてこずった。

しばらくは、このホテルのリピーターになりそう。

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●今夜の挑戦

 このところ私の脳みそがサビついた?
書くことが、かったるい。
つっこみも甘い。
どうでもよいような駄作ばかり。
日記にもならない、日記。

 平和でのどかな毎日。
とくに問題はなし。
あえて言えば、昨夜、ある従弟(いとこ)と、2年ぶりに話した。
子どものころから、私を兄のように慕ってくれている。
ただの従弟ではない。
剣道は、10段を公式に認定されている。
日本に、何人もいないそうである。
人格者でもある。
私より10歳近く、年下だが、彼にだけは、一目をおいている。

●従弟

 話題はもっぱら、自然のこと。
熊や猿やイノシシのこと。
そんな話だけで、1時間ほど過ぎてしまった。
今度浜松のほうへ来たいと言うから、「いつでもいいよ」と答えた。

 儀礼で、「おいでください」と言う人も多いが、私はそういういいかげんな外交辞令(ウソ)は言わない。
「おいでください」というのは、「おいでください」。
「近くおいでよ」と言ったら、「行きます」と答えた。
そういう素直さが、その従弟のよいところ。
来たら大歓迎する。

日程を調整し、この1~2か月のうちに、来ると言う。

●温泉

 たった今、温泉につかってきた。
男湯には、私一人だけ。
女湯には、ワイフ一人だけ。
のんびり……と考えていたが、部屋でビデオを回していたのに気づいた。
夕日が沈むのを、ベランダで撮影していた。
「風で飛ばされたら、たいへん」と、軽く体を洗って、部屋に。
しばらくすると、ワイフも戻ってきた。

●至極の時

 夕食を食べながら、ワイフはビデオを観ている。
私は、横でこうしてパソコンを叩いている。
私にとっては、至極の時。
ただこのところ画面の小さいパソコンで文字を叩いていると、疲れを覚えるようになった。
長く続けていると、こめかみの奥が痛くなる。

 老人には、(自分はまだその老人ではないが)、画面の大きいパソコンのほうがよい。
画面というより、文字が大きく映し出せるパソコンのほうがよい。
で、今夜のお供は、ダイナブックのTX。
15インチ。

●旅

 私はこうして知的世界の原野に旅立つ。
そこに何があるかわからない。
読者の人には、たいへん失礼な言い方になるかもしれないが、何かを書きたいから、書いているのではない。
まず書く。
旅にたとえるなら、まず一歩を踏み出す。
私の旅はそこから始まる。

●知的世界

 脳みその中には、原野が広がっている。
原野といっても、この宇宙より広い。
そこをひとりで歩く。
この自由感。
この解放感。

 が、それにはいろいろな条件がある。
原野といっても、明るい日向(ひなた)に向かって歩く。
ものごとには、常に二面性がある。
さらに書き方によっては、明るい景色も暗くなる。
暗い景色も、明るくなる。

●パソコン

 今日、午前中、講演をした。
豊田町の「アミューズメント豊田」というところだった。
そこでの講演は、もう4、5回目になる。
観客席が大きな段になっていて、私のほうからも、来てくれている人の顔がよく見える。
いつ講演しても、たいへん話しやすい。

 その帰り、JR浜松駅の横にあるパソコンショップへ寄った。
いつもの習慣である。
言うなれば、私の遊園地。
一日でもそこにいたいが、ワイフがいるときは、見たいものだけを見て、出る。
今日は、パソコンのカタログを、雑誌1冊分、集めて、外に出た。
今では、ノートパソコンですら、2・0~2・4GhzのCPUを積んでいる。
ほんの3、4年前のデスクトップ並みの性能である。

 そういう進歩を実感するのが、私は好き。

●パソコンの世界
 
 今さら改めて書くまでもないことだが、パソコンは、人間の生活を大きく変えた。
これからも、もっと変えていく。
どこまで変えていくか、わからない。
ただここで言えることは、こういうこと。
少しわかりにくい話になるかもしれない。

●光と分子の世界

 私たちが住むこの世界は、光と分子によってできている。
今、ここで見ているものにしても、「そこにものがある」と錯覚しているだけ。
そのものの光の反射を目がとらえ、それを後頭部にある視覚野に、映し出している。
この段階では、まだ(もの)にはなっていない。
光の点の集合に過ぎない。

 そこで脳みそは、その集合から、映像を、いくつかのフィルターを通して、選り分けていく。
残った映像が、(もの)ということになる。

 同じことがこの大宇宙についても、言える。
私たちは天空を見上げ、そこに大宇宙を見る。
夜空のほうが、わかりやすい。
そしてこう思う。
「そこに大宇宙がある」と。

 しかしそのときも、私たちは視覚野に映し出された映像を見ているに過ぎない。
そこでこう考える。
もし視覚野に映し出されるものであれば、それが現実の光によるものであれ、パソコンの画面によるものであれ、同じではないか、と。
平たく言えば、天空に見える大宇宙も、パソコンの画面に移る大宇宙も、同じ。
言い換えると、私たちはコンピューターを手に入れ、第二の宇宙を自分のものにした。
まだ未熟で未完成かもしれないが、その可能性は、現実の大宇宙ほど、無限に広い。

●感情

 考えてみれば、その通り。
私たち人間にしても、脳みそがあっての人間。
コンピューター自体が、その脳みそに、かぎりなく近づきつつある。
やがて人間の脳みそ以上の能力をもったコンピュータが現れるはず。
時間の問題と考えてよい。

 が、ここでひとつの問題にぶつかる。
「感情」という問題である。
が、これもやがて解決されるであろう。
現在科学によれば、ホルモン説が常識になりつつある。
つまり私たちが「感情」とよんでいるものは、脳内ホルモンの作用によるもの、と。

 たとえば何かよいことをする。
その(よいことをした)という情報は、辺縁系にある扁桃核に送られる。
そこで扁桃核は、その刺激に応じて、エンケファリン系、エンドロフィン系のホルモンを分泌する。
モルヒネの一種である。
その結果、脳内は、甘い陶酔感に満たされる。
それが「楽しいという感情」につながる。

 コンピューターの内部でも、それが可能になる。
が、現実問題として、その必要性は、まったく、ない。
コンピューターを操るのは、あくまでも人間。
コンピューターが、感情の趣(おもむ)くまま、勝手に動くようでは困る。

●私の夢

 ところで私には、こんな夢がある。

 いつか人間と複雑な対話ができるロボットが出現するはず。
討論や議論さえもできる。
そのときそのロボットに必要なのは、それにふさわしい情報。
膨大な量の情報。
ひょっとしたら、今、私がここで書き残していることが、その「情報」になりえるかもしれない。
何しろ、膨大な量の情報である。
正確な枚数はわからないが、40字x36行詰めの原稿用紙で、すでに5~6万枚以上になるのでは?
もっとあるかもしれない。

 こんな量の原稿でも、現在のUSBメモリーで、3~4Gバイトもあれば、収まってしまう。
そのUSBから相手の言葉に応じて、必要な情報を取り出して、話をすることなど、簡単なこと。

 たとえば、こう……。

人間「あなたは、知的荒野についてどう思いますか」
私の情報をもったロボット「未知の世界を歩くような楽しさを覚えます」
人間「あなたが発見したことを、どうか話してください」と。

 あとは必要な情報集め、音声化する。
そしてその人間と対話をする。
いつか、そういう形で、私はこの世界に、よみがえるかもしれない。

●命

 ここまで書いてくると、つぎに「命」。
つまり「命とは何か」と。

 人間の脳の中では、無数の神経細胞が、それぞれこれまた無数のシナプスによってつながれている。
そのシナプスの間を、無数の信号が行き交い、思考を形成し、感情を生み出し、最終的には「私」を創りだしている。
それを私たちは「命」と呼んでいる。
しかしもう少しコンピューターが進歩すれば、コンピューターはやがてそれ以上のことをするようになるだろう。
つまり「命」さえも、創りだす。

 ……ということを逆に考えていくと、では「命」とは何かということになってしまう。
コンピューターの命ではなく、私たち人間の命、である。

●私のコピー

 もし私の脳みそをそっくりそのままコピーしたコンピューターができたとする。
今まで書いてきた原稿も、そのままコンピューターの中に、ファイルとして格納されたとする。
そのコンピューターは、「私」と言えるかどうか。

 少なくとも私以外の他人から見れば、そのコンピューターは、「はやし浩司」ということになる。
希望に応じて、講演もするだろう。
が、私から見れば、もちろん「私」ではない。
「コンピューター」という他人である。
そのギャップをどう埋めればよいか。
またそれは可能なのか。
そのひとつのヒントが、親子関係にある。

●意識

 コンピューターの世界では、あらゆることがらが、瞬時、瞬時に進む。
人間の脳をそのままコピーするにしても、やがてそれが可能になるころには、数秒もかからないだろう。

 ところで、その「数秒」を、10年単位で延ばしたのが、親子関係ということになる。
親は子どもを産み、育てる。
自分がもっている知恵や知識を子どもに、分け与える。
ときにコピーする。

 そこで私はときどきこう考える。
「息子や娘は、私なのか?」と。

 答は、「NO!」。
親とはいうが、親自身、子ども自身、とてつもなく大きな流れの中にいる。
それがわからなければ、自分の指先を見つめてみればよい。
その指を見て、「この指は、私が作ったもの」と思う人はいないはず。
同じように、自分の子どもの指を見つめ、「この指は、私が作ったもの」と思う人はいないはず。

 私たちはもっと大きな流れの中で、創りだされている。
生殖、出産、育児などといったものは、その一部に過ぎない。
「私の体」「私の指」などと言うのはその人の勝手だが、実際のところ「私のもの」など、ほとんどない。
あるとすれば、「意識」。
意識は「私」。

●意識

 ということで、私の持論。
私が私であるのは、「意識」によるもの。
意識があってはじめて、私は私。
逆に言えば、意識のない私は、私ではない。
よい例が、特別養護老人ホームなどで、その日、その日をぼんやりと過ごしている老人たち。
(だからといって、そういう老人たちが、無意味と書いているのではない。
どうか誤解のないように!)

 そういう老人たちを見ながら、「あなたは何か」と問うても、意味はない。
すでに「私」を喪失している。
つまり私が私であるためには、意識をもつこと。
心理学的に言えば、「自我」。
それがあって私たちは、はじめて、「私」ということになる。

 では、その「私」をもつためには、どうすればよいか。
それが私にとっては、「書く」ということになる。

●書く

 私はこうして書いているときだけが、「私」でいられる。
それ以外の私は、言うなれば、魂の抜け殻のようなもの。
バカな話をし、バカなことを繰り返しているだけ。

 反対にしばらくものを書かないでいると、すぐ頭の中がモヤモヤしてきてしまう。
が、これは私だけの現象かもしれない。
ワイフに、「お前はどうか?」と聞くと、「私にはそういうことはない」と答える。

私「じゃあさア、たとえば経済新聞を読んだとするよね。原発事故についての記事でもいい。そういうとき、何か、怒りのようなものを覚えることはないか?」
ワ「そりゃあ、怒れるけど、どうしようもないじゃない」と。

 ワイフは、どこまでも楽天的。
基本的な部分で、性格がちがうようだ。

●宝石

 ともあれ、こうして私は、自分の脳みその中をさまよい歩く。
目的をもって書くこともあるが、今夜の私はさまよい歩く。
あっちへ行ってみたり、こっちへ来てみたり……。

 ときにその中に、キラリと光るものを見ることがあるが、それはめったにない。
言うなれば、知性の宝石。
今までだれも気づかなかったようなこと。
そういうときは、本当にうれしい。
が、そういうのほど、他人に盗用されやすい。

 たとえばもう15年近くも前のこと。
「愛国心」という言葉が話題になった。
そこで英語では、どう言うのか調べてみた。
いや、英語ではどう言うかは知っていた。
私は、その語源を調べてみた。
結果、ギリシア語にまでたどり着いた。
英語で言う「ペイトリアティズム」は、もともとは「父なる大地を愛する」という意味であることがわかった。
そこには、「国」という意味はなかった。

 それを原稿にした。
しばらくしてからネット上でも発表した。
が、その数年後、気がついてみると、その「宝石」があちこちで使われているのを知った。
新聞でも、テレビでも……。
みな、自分が発見したようなことを言っていた。
さらにそのあと、「愛国心」ではなく、「郷土愛」という言葉を主張する政党まで現れた。

 こうした一連の流れは、「はやし浩司 patriotism」で検索してみれば、わかるはず。

どこかグチぽい原稿になったが、けっしてグチを書いているのではない。
つまりこうして人間に知的世界は広がっていく。
盗用されるのは好きではないが、私も、「私」を越えた人間の一部。
どうであれ、あと15年もすれば、私の肉体も、この世から消えてなくなる。
「私のもの」と主張したところで、それがどういう意味をもつのか。

●意識論

 最後に、意識といっても、それをもって「私」と誤解してはいけない。
言い換えると、この意識ほど、いいかげんなものはない。
私は私と思っている意識の大部分が、私でないものでものが多い。
わかりやすく言えば、もっと奥深い、潜在意識の世界から操られているだけ。
フロイトが説いた、「性的エネルギー」を例にあげるまでもない。

 ためしに電車の中で化粧にいそしむ女性にこう聞いてみるとよい。
「あなたは自分の意思で、化粧をしているのですか」と。
すると例外なく、みなこう答える。
「YES!」と。

 自分の中にあって、自分でないもの。
それを順にはがしていく。
最後に残ったものが、「私」ということになる。

●午後10時 

 そろそろ眠る時刻。
こうしてあれこれ書いてみたが、新しい発見は、今夜もなし。
これから遅い風呂を浴びて、眠る。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 浜名湖弁天リゾート ジ・オーシャン)


Hiroshi Hayashi++++++Sep. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【ジ・オーシャンにて】

(1)乳児期の子どもと、その核(コア)形成



(2)自律期の幼児と、その核(コア)形成



Hiroshi Hayashi++++++Sep. 2011++++++はやし浩司・林浩司

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