2010年3月21日日曜日

*Is One Year too long or too short?

●「あと1年」vs「1年もある!」

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昨夜、『愛のそよ風(Breeze)』という
DVDを見た。
クリント・イーストウッドが監督した、
第一作目の映画ということだった。
が、私は最初の20分程度で、ギブアップ。
そのまま書斎へ。
星は、1つの★。
が、ワイフは、最後まで見た。

内容は、70歳近い男性と、10代後半の
若い女性の恋愛映画。
あとでワイフがそう話してくれた。

その中で、男のほうがこう言った。
「(結婚生活といっても)、1年くらいしか、
もたない」と。
それに答えて、若い女性は、「1年も!」と。
そう言って、驚く。

同じ「1年」を、老人のほうは、「1年しかない」と
考える。
若い女性は、「1年も」と考える。
ワイフから聞いた話なので、こまかい点では
まちがっているかもしれない。
しかしその話を聞いて、私はドキッとした。
私はいつも、こう言っている。
「平均寿命まで、あと16年しかない」と。

しかしこの発想そのものが、うしろ向き。
ジジ臭い。
それに気づいた!

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●同じ「16年」

 小学生たちに、「16年」という年数を言うと、たぶん彼らは、「長い」と
感ずるだろう。
そうした感覚を、私は知ることはできないが、自分の過去をさぐることによって、
推察することはできる。

 私も20代のころ、50歳とか60歳とかいう人たちが、自分にはありえない、
遠い未来の人間に見えた。
小学生のころは、20代の先生ですら、自分たちとは無縁の(おとな)に見えた。
だからたとえば私が今、小学生たちに、「ぼくの残りの人生は16年」とでも言ったら、
彼らはこう答えるにちがいない。

「16年も!」と。

 私には「16年しかない」16年だが、子どもたちには、「16年もある」16年
ということになる。
こうしたものの見方のちがいは、どこから生まれるのか。

●死の影

 ひとつには、「死の影」がある。
「平均寿命まで16年」といっても、運がよければという前提条件がつく。
運が悪ければ、明日にでも大病を言い渡されるかもしれない。
言うなれば、これからの16年は、ハラハラしながら過ごす16年ということになる。

 一方、子どもたちの16年には、それがない。
「死ぬ」ということとは、無縁の世界で生きている。
子どもたちにとっての「16年」は、丸々「16年」ということになる。

 が、もうひとつ、おおきな理由がある。

●クロック数

 このことは前にも書いたが、コンピュータの世界には、「クロック数」という
言葉がある。
1秒あたり、何回演算を繰り返すかというのが、クロック数ということになる。
現在私が使っているパソコンは、3GHz前後。
1秒間に、1MHzで、100万回。
その3000倍だから……、30億回……?
(「ギガ」は、もともとはギリシャ語で、「巨人」を表す。
10億倍のことを、「ギガ」とう。)

 1秒間に30億回!
改めて驚く。

 そのクロック数だが、子どものもつクロック数と、おとなのもつクロック数は、
明らかにちがう。
もちろん子どものほうが、速い。
たとえば年長児(5~6歳児)にしても、私たちおとなより、数倍は、速い。
言い替えると、おとなにとっての1年は、子どもたちにとっては、数年ということになる。

●密度

 結局は、「密度」の問題ということになる。
その密度がちがう。
だから同じ1年でも、老人のほうは、「1年しかない」と考える。
若い女性は、「1年も」と考える。

 そこで私は考え方を改めることにした。
すぐ改められるかどうかについては、自信がない。
ないが、しかしジジ臭い考え方はやめた。
これからは「16年しかない」という言い方はやめる。
「16年もある」という言い方にする。
前向きに生きるというのは、そういうことをいう。

 そう、16年もあれば、かなりのことができる。
私という人間を、一度、20歳前後に置いてみればよい。
あのころの10年は、今よりはるかに長かった。
それを思い出せばよい。

 ……というようなことを、ワイフの話を聞いて、考えた。
さらに……。

 運がよければ、その16年で終わるわけではない。
20年かもしれないし、30年かもしれない。
いや、「運がよければ」という言い方そのものも、ジジ臭い。
うしろ向き。

 健康にしても、向こうからやってくるものではない。
自分で作るもの。
人生を長くするかどうかは、努力によって決まる。
「運」で決まるものではない。

 ハハハ。
……ということで、今朝は、新しい人生観をひとつ、ゲット!
気分は、よい。

 そうそう今朝、恩師のTK先生からメールが入っていた。
奥さんの命日供養のため、となりの磐田市まで来るとか。
午後に、会いにいってくる。
ほぼ1年ぶり。
「これが最後かもしれない」と、先生は言っている。
が、そういう発想そのものが、ジジ臭い。


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

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