2010年3月17日水曜日

*Father-Sons Relationship

●父子関係(Father-Children Relationship)

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たとえば今、「父親を尊敬していない」と
考えている中高校生は55%もいる。
「父親のようになりたくない」と思っている
中高校生は79%もいる(『青少年白書』平成10年)。

少し古い調査だが、それ以後改善したという
話は聞いていない。
現在、この数値は、さらに高くなっていると思われる。

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●幻想

 こういう調査結果を見ても、「うちはだいじょうぶ」とか、「私と子どもの関係はぜったい」とか思う父親は、多い。
しかし残念ながら、そういう父親ほど、あぶない。
それにはちゃんとした理由がある。

 つまり「うちはあぶない」と思っている父親ほど、家族や子どもに対して謙虚。
家族や子どもの心に耳を傾ける。
「だいじょうぶ」と思っている父親ほど、権威主義的。
その分だけ、家族の心がバラバラになりやすい。
しかも「79%」という数字は、「ほとんど」という数字。
が、なぜほとんどなのか。

●価値観の相違

 一世代ちがうと、価値観、ものの考え方、見方が大きく変わる。
音楽にしても、私たちの世代は、「舟木和夫」。
それがつぎの世代には、「尾崎豊」になり、さらにつぎの世代には、「アリス・ナイン」となる。
遊び方もちがう。

言い替えると、こと父と子の関係について言えば、断絶して当然。
またそういう前提で考える。
つまり幻想は、もたない。
さらに言い替えると、父親は、父親としてできるだけ早い時期に、子離れをすます。
自分で自分の生き様を確立する。
いつまでも子どもにベタベタしている父親のほうが、おかしい。
さらに言えば、子どもというのは、父親を踏み台にしておとなになっていく。
踏み台にされることを、恐れてはいけない。

 私も多くの子どもたちを教えさせてもらっている。
が、子どもというのは、小学3~4年生を境に、急速に(先生離れ)を始める。
へたに「教えてやろうか」と助け船を出すと、「いらない!」とか、「うるさい!」とか言って、それを拒絶する。

 一見、生意気に見えるが、子どもの成長(=独立)ということを考えるなら、そのほうが望ましい。
また子ども自身がそうできるように、うまく、しむける。
 
●父親像

 不幸にして不幸な家庭に育った父親ほど、しっかりとした父親像が脳にインプットされていない。
そのため、どうしても気負い先行型の子育てになりやすい。
いつも「これでいいのか」という迷いをもちやすい。
あるいは権威主義的になり、子どもの反抗を許さない。
こうした(気負い)が、子離れの時期を見失わせる。

 まずいのは、「私はぜったい正しい」と、カラにこもること。
子育てで何がこわいかといって、風通しの悪い子育てほど、こわいものはない。
独善と独断。
これがつづくと、親子関係どころか、家族関係もおかしくなる。

 だからもしあなたが、不幸にして不幸な家庭に育ったとするなら、風通しのよい子育てに心がける。
近隣の人や、親戚の人などの意見に、すなおに耳を傾ける。
いろいろな親子と交流を繰り返す。
こうして自分の父親像を修正していく。

 要するに、父親というのは、子どもに嫌われて当然。
嫌われたからといって、カリカリしないこと。
ガタガタしないこと。
あなたはあなたで、勝手に、前に向かって進んでいけばよい。


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●思想の偏向(Inclines Thoughts)

少し前、「あなたの思想には問題がある」と
言ってきた人がいた。
「教育者」というのは、思想的に、無色、
透明でなければならないのだそうだ。

そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
しかし思想のない教育者ほど、こわいものは
ない。
進学受験塾の若い講師を頭に思い浮かべてみれば、
それがわかる。

もし点数や成績だけで、子どもという(人間)を
判断するようになったら、どうなる。
どうする。
そういう人を、「教育者」と呼ぶ人は、いない。

もちろん「教育者」にはふさわしくない思想もある。
たとえば、超自然現象を信奉している人。
極端な思想にかぶれている人。
良好な対人関係が結べない人。
一般的な常識から、はずれている人などなど。

恐ろしいといえば、ハリーポッターが学んでいる
いるような魔法の学校。
あれほど、恐ろしい学校はない。
数学の問題を、杖を使って解いたり、
化学の実験で、水から金塊を作ったりするように
なったら、どうなる?
すべての(合理)が、吹き飛んでしまう。
文学も、地理学も、歴史学も不要。
航空力学も不要。
箒(ほうき)があれば、自由に空を飛べる。

ハリーポッターが籍を置くような学校は、学校ではない。
少なくとも「教育の場」ではない。
またその学校にいる教師たちは、教師ではない。
もちろん教育者でもない。
頭の狂った、ただの魔法使い。

もちろん私は、そういう(非合理)とは無縁の
世界にいる。
が、だからといって、何も考えていないわけではない。
毎日、何かを考えている。
その(考えている部分)で、いろいろなことを書く。
それが(思想)ということになる。
が、それがだめというのなら、私は進学塾の講師に
なるしかない。

 ……と書きながらも、実は、こうしたものの
考え方自体が、偏向しているのかもしれない。
そういう心配は、ある。
たとえばアメリカの南部の学校では、いまだに
ダーウィンの進化論を否定しているところがある。
そういうところで、「進化論は正しい」などと
主張しようものなら、私など即、「偏向教師」の
ラベルを張られててしまうだろう。

 つまりこれも相対的な問題ということになる。
偏向している人から見れば、私は偏向している。
が、自分が偏向していたら、自分の偏向に
気づくことはない。

 だから今は、こう思う。
「私の思想には問題があるのかなあ」と。
ここは謙虚にその人の意見に耳を傾けてみる必要がある。
……というより、さらに自分を疑ってみる必要がある。
「私は偏向しているかもしれない」と。

 毎日が、その繰り返し……。
それとの闘い。
偏向すればするほど、真理は私から遠ざかる。


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

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