2010年1月10日日曜日

*What is the Anger?

●BLOGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司

●怒りについて

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仏教では、人間の心は水のようなものと説く。
濁った水になることもあれば、色のついた
水になることもある。
火でわかせば、沸騰することもある。
しかし何よりも大切なのは、澄んだ、濁りのない水。
色のついた水では、真理は見えない。
沸騰した水では、正しく判断することはできない。

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●清らかな心

 3大煩悩に、「貪、瞋、痴」がある。
はげしい怒りのことを、「瞋(しん、じん)」という。

『貪(どん)』というのは、「貪(むさぼ)ること」をいう。
『瞋(しん)』というのは、「激しく怒(いか)ること」をいう。
『痴(ち)』というのは、「無知なこと」をいう。

そのほかにもいろいろあるが、私たちの肉体は、これらの
煩悩に満ち溢れている。
これらの煩悩が、自分の内にある『菩提心』(すべての人々を愛すること)
が目覚めるのを邪魔する。
世親(300~400年ごろの人、パキスタン、ペシャワール
あたりの人とされる※)が、そう説いている。

だから世親は、菩提心を呼び起こすためには、心(精神)を、
一度、肉体から切り離さなければならないと説いた(『浄土三部経』)。

 とくに気をつけたいのが、「貪、瞋、痴」の「瞋」。
「沸騰」というのは、その「怒り」を意味する。
心が煮えたぎったような状態をいう。

●怒り

 (怒り)といっても、(1)感情的な怒りと、(2)非感情的な怒りがある。
感情的な怒りというのは、どこかの暴力団員が、大声でわめき散らしている姿を想像すればよい。
「瞋」とは、それをいう。
それについては異論はない。

 それに対して、非感情的な怒りがある。
拉致被害者のYTさんを思い浮かべてみればよい。
娘のMGさんは、あの金xxの指令によって、K国に拉致されている。
そのため休むことなく、全国を回って、拉致被害者の救済活動をつづけている。
その姿がテレビで報道されるたびに、私たちは、やりようのない、つまりガラス板を爪の先でこするような(怒り)を覚える。
これを「非感情的な怒り」と表現してよいかどうかは、知らない。
そう表現すること自体、YTさんに失礼なことかもしれない。

 が、そうした怒りがあるからこそ、私たちはこうして抗議の念をこめて、K国を糾弾する。
金xxを糾弾する。
(名前を「金xx」と表記しているのも、そのため。)

つまり怒りを忘れたら、私たちは、真・善・美の追求すら、ままならなくなる。
(怒り)が、すべて煩悩というわけではない。

●知らぬが仏

 話は変わるが、『知らぬが仏』という諺もある。
何ごとも、「我、関せず」と、距離を置けば、仏のように静かな境地でいられる。
しかし考えてみれば、これほど、無責任な生き方はない。
またそういった無責任な生き方をしている人を、「仏」とは言わない。

 ただしこれには重要な条件がある。
知るにしても、関するにしても、宇宙的、地球的、人間的、生物的・・・。
そういった規模で、知ったり、関したりする。

 身近な痴話話(ちわばなし)は、知らなくてもよい。
関しなくてもよい。
たとえば以前、こんなことを言った知人がいた。
「ぼくは、毎朝、新聞のお悔やみ欄には、かならず目を通している」と。

 私自身は、めったに見たことがない。
見るとしても、ワイフに誘われて、月に、1、2度程度。
どこでだれが死のうと、私には関係ない。
興味もない。
どうせ「つぎは、私」。

●道理

 もっとも感情的な(怒り)をコントロールするのは、むずかしい。
むずかしいというより、(怒り)は常に、何らかの感情的な反応をともなう。
(怒り)と感情は、表裏一体。

が、もしその間に一線を引くとしたら、(道理)ということになる。
(怒り)を覚えたら、どんどんと自分の中に、道理を掘り下げていく。
道理を掘り下げていくことで、(怒り)と感情を分離する。

 が、それで(怒り)が消えるわけではない。
中には、(許しがたい怒り)というのもある。
どう理性で割り切ろうとしても、割り切れない(怒り)というのもある。
自分の力では、乗り越えられない(怒り)というのもある。

が、その(怒り)すらも否定してしまうと、そのあとにやってくるのは、乾いた絶望感。
虚脱感。

●痴話話(ちわばなし)

  たとえば信頼していた人に裏切られたようなケースを、想像してみればよい。
夫(妻)でもよい。
親や兄弟でもよい。
息子や娘でもよい。

卑近な例として、夫(妻)に愛人ができ、その愛人と不倫関係をもったばあいを想像してみればよい。
そこはまさに、世親が説く、「瞋」の世界。
そのとき冷静でいられる人は、いったい、どれだけいるだろうか。
道理の世界でもない。
また道理だけでは、乗り越えることはできない。
しかし、これこそが、私が言う「痴話話」ということになる。

●未来に向けた怒り

 そこで(怒り)をさらに掘り下げてみる。
するとその(怒り)にも、2種類あるのが、わかる。
(1) 過去に向けた(怒り)と、(2)未来に向けた(怒り)。

 「今は、常に過去の結果」と考えると、(怒り)は、常に過去に向かう。
夫(妻)に愛人ができ、不倫しているのがわかったとき、妻(夫)がどのように反応するか。
それが過去に向けた怒りということになる。
「私の人生は、何だったのよ!」「私の人生を返して!」と。
このばあいは、喪失感がからんでくるため、(怒り)は、どうしても感情的になりやすい。
どんなに悔やんでも過去を取り戻すことはできない。
だから感情的になる。・・・ならざるをえない。

 一方、未来に向かう(怒り)というのもある。
この地球が、やがて火星のようになった状態を想像してみればよい。
このばあいは、(怒り)は常に、道理をともなう。
道理として処理できるから、感情的になることはない。

 つまり(怒り)というのは、過去に向けたものであってはならないということ。
一方、それが、「瞋」であれ、未来に向けたものであれば、許される。
またその(怒り)こそが、私たちが今、なぜここにいて、生きているかという理由にもなる。

●では、どうするか?

 「今が過去の結論」と考えてはいけない。
・・・とっぴもない結論に思う人もいるかもしれない。
しかし(怒り)を分析していくと、そうなる。

 つまりなぜ私たちが(怒り)を覚えたとき、感情的になるかといえば、(思うようにならなかった過去)を引きずるからである。
が、「今」は、けっして過去の結論ではない。
「今」は、常に未来へのスタート点である。

 そういう視点で、身の回りを見ると、世界が一変する。
今、そこにあるものがなんであれ、それを受け入れてしまう。
そしてそこを原点に、未来に向かって、ものを考える。
とたん感情的な(怒り)、過去に向かった(怒り)が、消える。

 だから「今は過去の結論」と考えてはいけない、・・・ということになる。

●まとめ

 自分でもよくわからない。
わからないまま、この文章を書き始めてしまった。
そのためまとまりのない文章になってしまった。
が、こういうことは言える。

要するに「心」というのは、澄んだ、清らかなほうが、よいということ。
そのためにも、「貪、瞋、痴」は、心の大敵ということ。
それは世親が説いたとおり。

ただ(怒り)については、それを頭から否定してしまってはいけない。
ここにも書いたように、内容は、そのときどきによって、大きく変わる。
ときには、生きる原動力になることもある。

もちろん感情的な怒りや、過去に向かった怒りは、避ける。
心を腐らせる。
それを避けるためには、心は常に、未来に向かって大きく開く。
過去ではなく、未来に向かって、である。
(怒り)を覚えたときには、とくにそうである。
それこそ「私の知ったことか!」と叫んで、前に進めばよい。

 私がここで書きたかったことをまとめると、そういうことになる。
しばらく時期をおいて、再び、この問題につて考えなおしてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 世親 貪、瞋、痴 怒りについて、菩提心 心について)

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