2010年1月8日金曜日

*Jan 8th 2010

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はやし浩司***************

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 1月 8日
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【2010年】

謹賀新年

明けまして、おめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

・・・と書きましたが、実は、この原稿を書いている今日は、12月1日です。
ちょうど1か月前です。

(マガジンの原稿は、だいたい1か月ほど前に書いています。
原稿の枚数が、20~30枚(1枚=40字x36行)になったところで、
配信予約を入れるようにしています。)

ですから今は本当のところ、「今年も、あと1か月」と思いながら、この文章を
書いています。
「あと、1か月」です。

で、この1か月でしたいことが、あります。
新しいパソコンを買うこと。
正月休みは、それをいじって遊ぶ。
「何だ、そんなことか?」と思う人も、いるかもしれません。
しかしそれがけっこう、たいへんな作業なのです。

セキュリィテイの設定や、Raidの設定などなど。
ホームページだけでも、現在、20本ほど、使っています。
それらすべてのIDおよび、パスワードの再設定をしなければなりません。
ほかにも、いろいろあります。
無線LANの設定とか、各種サービスの設定とか、全部で、200~300くらいは、
あります。
考えただけで、気が遠くなります。

今、使っているパソコンで、何も問題はないのですが、それはそれ。
ときどきこう思うことがあります。
「できるだけ長生きして、どんなパソコンが生まれるか、それを見届けたい」と。

私がパソコンにはじめて出会ったのは、私が26、7歳くらいのときです。
コモドール社(アメリカ)から、PET2000というパソコンが発売になりました。
それを手に入れました。
当時の値段で、32万円もしました。
あとで知ったのですが、同じころ、あのビル・ゲーツ氏も、同じパソコンで遊んで
いたのだそうです。

今から思うと、想像もできないほど、のんびりとしたパソコンでした。
「Y=XxX」というような公式を、ベーシック言語で打ち込むと、ポツポツと、
小さな画面に、曲線を描いてくれました。
ポツポツ、とです。
それがうれしくて、プラス楽しくて、私はあごを両手で支えながら、その点に見とれて
いました。

 それ以後は、パソコンについては、とっかえ、ひっかえ・・・。
35年という年月が過ぎました。
2009年だけでも、4、5台、ノートパソコンやミニパソコンを買い替えました。
で、今度は、いよいよ本丸。
最先端のデスクトップをねらっています。
もちろん周辺機器も!

 この原稿がみなさんの目にとまるころには、私は最先端のパソコンを前に、1月号の
原稿を書いていることと思います。
どうか、ご期待ください!
(見た目には、何も変わりませんが……。)

 で、2010年も、そこにある(真理)を求めて、さまよいつづけます。
そこにある(真理)です。
そこにあるのですが、どうしてもつかみきれない。
が、そのはがゆさが楽しい。
本当に楽しい。
私にとっては、それが生きがいになっています。

 もちろん、みなさんという読者あっての、文章。
みなさんが、こうして読んでくださるのが、何よりも励みになります。
今年も、よろしくお願いします。
私はできるかぎりの力を尽くして、情報を提供します。
みなさんは、私に、(励み)をくださる。
この1年間、どうかよろしくお願いします。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●人間関係

++++++++++++++++

良好な人間関係を結べない人は多い。
初対面では、よい人という印象を受ける。
愛想もよいし、人当たりもよい。
が、しばらくつきあっていると、
様子がおかしくなる。
言うことがコロコロと変わる。
雰囲気そのものも変わる。
気分屋で、ときどきカッとなる。
カッとなると、別人のように攻撃的になったりする。
そのため結果的に、みな、その人から遠ざかっていく。

そういう人は、長い目で見て、何らかの
障害をもっている人と見てよい。
「長い目」というのは、瞬間的に会って
話してみる程度では、わからないということ。
たがいに、ときどきあいさつする程度でも、
わからない。
が、1年単位、2年単位でみると、
どうも様子がおかしい……ということが
わかってくる。

++++++++++++++++

●xx障害者

 どんな人にも、性格や性質というものがある。
私にもあるし、あなたにもある。
そういう性格や性質が、ある一定の枠(わく)の中にある間は、問題ない。
しかしその枠を超えて、それが原因で、良好な対人関係が築けないというのであれば、
その人自身に、何か深刻な精神的欠陥があるとみてよい。

●Nさんのケース

 Nさんという女性(40歳くらい、架空の人物、マンション住まい)がいる。
人当たりは悪くない。
とくに初対面のときは、悪くない。
何かを頼むと、しすぎるほど、いろいろなことをしてくれる。

 が、どうも様子がおかしい。
落ち着かない。
ときに善意の押し売りをされているような気分になる。

●気分屋

 が、やがて本性が現れてくる。
ささいなことで気分を損ねたりすると、今度は手のひらを返したように、
攻撃的な態度となって、はね返ってくる。

 たとえばこんなことがあった。

 Nさんの隣の部屋に、新しい人が引っ越してきた。
Nさんは、その人を、手厚く(?)歓迎した。
あれこれと世話をした。
引っ越してきた夜には、わざわざ夕食まで届けてくれたという。

 で、しばらくは、穏やかな日がつづいた。
隣人は、Nさんに感謝した。
Nさんのことを、心のおおらかな、やさしい人と思っていた。
が、ある日のこと。
Nさんが、その隣人の家に、怒鳴り込んできた。
まだ夜も明けきらない、寒い冬の朝のことだった。
ものすごい剣幕だった。
「どうして、通路に、生ゴミを置いておくのだア!」と。

 あわてて通路に出てみると、生ゴミが散乱していた。
隣人が生ゴミを、うっかり通路に置き忘れたのが悪かった。
それをカラスが食い散らしたらしい。

 あまりの剣幕に、Nさんの足は震えたという。
で、その日以来、隣人はNさんとは、一線を引くようにした。
が、これがそれにつづく、地獄の始まりだった……。

●『二匹のヤマアラシ論』

 ……というようなケースは、話としてよく聞く。
またNさんのような人は、珍しくない。
ショーペンハウエルの『二匹のヤマアラシ論』※を、改めて取り上げるまでもない。

 孤独だから、他人に接しようとする。
しかし他人に接したとたん、たがいに傷つけあってしまう。
だから離れる。
離れたとたん、また孤独になる。
Nさんは、それをいつも繰り返していた。

●精神的欠陥

 こういうケースのばあい、Nさんが、いつどこで自分の精神的欠陥に気づくかが、
問題となる。
夫は何度も、Nさんを心療内科へ連れていこうとした。
が、Nさんは、それを強く拒否。
「私は何でもない!」と。
もちろん夫婦喧嘩も絶えなかった。
ふつうの夫婦喧嘩ではない。
「フライパンが宙を飛び交うような喧嘩だった」(隣人談)そうだ。

●他山の石

 こういうケースを見聞きしたら、それを他山の石として、自己診断するしかない。
つまり自分で自分を知る。

 実のところ、私もNさんに似ているから、偉そうなことは言えない。
Nさんの話を聞いたとき、「私のことだ」と思ってしまった。
私のように、乳幼児期に、母子との間において、基本的信頼関係の構築に失敗した
人は、多い。
そういう人は、多かれ少なかれ、Nさんのような人になりやすい。
他人に対して、心を開くことができない。
だから孤独。
孤独だから他人との接触を試みる。
しかし接触したとたん、神経疲れを起こす。
神経疲れを起こすから、カラにこもる。
孤独になる。
あとはこれを繰り返す。

●自己診断

 このタイプの人を、「xx障害者」と呼ぶ。
「xx」としたが、病名など、何でもよい。
しかしつぎのような症状に当てはまるようであれば、その「xx障害者」という
ことになる。

( )行き来する友人の数が、極端に少ない。
( )つきあった人とは、たいてい1~2年以内に、喧嘩別れとなる。(相手が避ける)
( )孤独と、他人との衝突を繰り返す。
( )初対面の人などには、たいへん親切。
( )気分屋で、気分に応じて行動しやすい。
( )他人とのつきあいは、表面的かつ、形だけ。
( )カッとなると、人間関係を破滅的に導いてしまう。

●加齢とともに

 しかしNさんの姿は、けっして他人ごとではない。
もうお気づきの人もいるかもしれないが、あるタイプの認知症になると、似たような
症状を示すことがある。
たとえばアルツハイマー病もあるし、それに似た、ピック病というのもある。
そうでなくても、頭がボケてくると、がんこになり、心の余裕を失う。
今、「私はだいじょうぶ」と思っている人でも、老後のことはわからない。
Nさんのようになる可能性は、ないとは言えない。

●では、どうすればよいか

 まず、自分に気がつくこと。
自分がそういう人間であるということに、気がつくこと。
こうした心の問題は、気がつくだけで、そのほとんどが解決したとみる。
時間はかかるが、やがて症状も収まってくる。
そうでなければ、そうでない。
いつまでも同じパターンで、同じ問題を引き起こす。
それを繰り返す。

 ただこの段階で、たいへん興味深いことは、ほとんどの人は、最初、そうであることを
かたくななまでに否定するということ。
Nさんのケースでも、Nさんの異変に、Nさんの夫は結婚当初から気づいていた。
そのため何度も、Nさんを専門医に診察してもらおうとした。
そのことについては、先に書いたとおりである。

 自分がそうであることを認めるのがこわいのか?
それとも、自分で何とかしようとする気持ちが強いのか?
さらには、自分ではどうにもできないと、あきらめているのか?
あるいは、薄々ながら、自分がふつうでないことに、気がついているのかもしれない。

Nさんの夫の話によれば、「病院」とか「病院へ行こう」と言っただけで、Nさんは、
狂乱状態になってしまうという。
さらに最近では、Nさんはことあるごとに、夫にこう言うという。
「あんたは、私を気チxxと言った」「精神病院へ入れようとした」と。
そしてそれがきっかけで、夫婦喧嘩になることも多い、と。

 簡単なことのようだが、他人と良好な人間関係を築くのは、むずかしい。
それができる人には、簡単にできる。
が、できない人には、むずかしい。
Nさんのケースは、けっして他人ごとではない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 良好な人間関係)

(注※)『二匹のヤマアラシ』……寒い夜、二匹のヤマアラシが、身を寄せ合って眠ろうと
した。しかし近づけば、たがいの針で、体が痛い。そこで離れる。しかし離れると、今度
は寒い。こうして二匹のヤマアラシは、一晩中、体を近づけたり、離したりを繰り返した。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ウィルス対策

ヤフーの検索エンジンを使って、「はやし浩司」を検索してみる。
するとあちこちのページが、一覧表となって示される。
私は最近まで、そういうページをほとんど、のぞいたことがない。
気にはなっていたが、見れば、さらに気になる。
が、この数週間、ときどきランダムに選んでは、読ませてもらっている。

が、その中で、「?」と思うページも、いくつかある。
「はやし浩司」を取り上げてはいるが、まったく意味のないページである。
おかしな言葉が、無数に並んでいる。
それだけ。
ちゃんとした文章に、なっていない。
が、タイトルだけは、しっかりしている。
そのため思わず、そのページをのぞいてしまう。

今朝も、床の中で目を覚ましたあと、そうしたページのことを考えていた。
「あれは、いったい、何なんだろう?」と。

そこで思いついたのが、K国による、サイバーテロ。
私はあの国をよく批判する。
そのせいか、数年前までは、ハングル文字の意味不明のメールが、よく届いた。
「ひょっとしたら、新手のサイバーテロかもしれない」と。
(現在は、フィルターをかけて、特定の国からのメールしか受け取らないようにしている。)

つまりこうして「はやし浩司」の検索を通して、私のパソコンに入り込む。
何かしらの悪さをする。
私自身が、検索を通して、そのページを読むことを見越した上で、である。

けっしてありえない話ではない。
今ではホームページ(ウェブサイト)を開いただけで、感染するウィルスもある。
その目的で、私をそのページに誘導する(?)。

以上は、あくまでも、私の推理。
(邪推?)
……ともあれ、今朝は、朝一番に、ウィルス・チェック。
それと今日から、すべてのパソコンを、無線LANでつなぐことにした。
詳しくはわからないが、無線LANにすると、それ自体が、ウィルス対策になるとか。
こうして二重、三重の防御態勢をとる。

あのK国のしわざとは断定できないが、しかし用心だけはしたほうがよい。
何しろ国をあげて、サイバーテロを繰り返している国である。

(補記)
居間でよく使っているパソコンについて、先ほど、ウィルス・チェックと、
ボット・チェックをしてみた。
ともにシロだった。
ほっとした。


Hiroshi Hayashi+++++林 浩司+++++はやし浩司

●損得論

+++++++++++++++++

損得論は、意外と奥が深い。
こんな話もある。

ある父親が東京に住む娘に、みかんを
送った。
その返事が、父親の方ではなく、母親のほうに、
メールで届いた。
「お母さん、ありがとう」と。

父親は、こうぼやいた。
「みかんを送ったのは、私なんだけどな」と。

また、別の話。

息子が横浜に住む女性と結婚した。
それについて、息子の母親が、こう言った。
「悔しい。
手塩をかけて育てた息子を、横浜の嫁に
取られた」と。

+++++++++++++++++

●ケチの一貫性

 損得論といっても、お金(マネー)だけの問題ではない。
心の問題もある。
しかし人間という動物は、それほど器用にできていない。
お金にケチな人は、心もケチ。
心がケチな人は、お金にもケチ。
そういう意味では、一貫性がある。

 つまり損得論は、その人の人生観、さらには哲学と深く結びついている。
たとえば自分の時間の使い方にしても、ケチな人と、そうでない人がいる。
愛情の示し方にしても、ケチな人と、そうでない人がいる。

 嫉妬深いというのは、そういう意味で、ケチの一様態と考えてよい。
「みかんを送ったのは、私なんだけどな」と言った父親。
「手塩をかけて育てた息子を、横浜の嫁に取られた」と言った母親。
ともにケチな人ということになる。

●ケチを決める人間性

 要するに、損得論というのは、欲望と深く結びついている。
その欲望をコントロールするのが、理性や知性ということになると、ケチ論の先に
見えてくるのは、その人の人間性ということになる。

 いろいろな意味でケチな人というのは、それだけ人間性が薄っぺらいということ。
薄っぺらい人を、ケチな人という。
温もりや、やさしさがない。
言うなれば、心のクッションがない。
いつもどこかで、計算している。
心の余裕がない。
ピリピリしていて、緊張感が取れない。

 そういう人をケチな人という。

●心のクッション

 「心のクッション」という言葉を使ったので、補足しておきたい。

 一般論として、……というより、心理学のテキストなどによれば、自己愛者と
呼ばれる人は、だれか批判されるのを許さない。
自己中心的な人は多いが、その自己中心性が肥大化した人のことを、自己愛者という。
完ぺき主義で、同時に、自分は完成された人間と思い込む。

 このタイプの人は、心にクッションがない。
そこでクッションのある人と、ない人を、対比させてみる。

(穏やか)ー(ピリピリしている)
(共鳴性がある)ー(他人の心に鈍感)
(よき聞き役)ー(一方的に自分の意見を言う)
(自責型タイプ)ー(他責型タイプ)
(控えめ)ー(目立ちたがり屋)

 が、何よりも特徴的なのは、クッションのある人は、「損」に対して、寛大。
おおらか。
クッションのない人は、わずかな「損」に対しても過剰に反応し、おおげさに
騒ぐ。

●2つのタイプ

 ところがたいへん興味深いことに、何かのことで大損をした人は、そのあと、
つぎの2つのタイプに分かれる。
ひとつは、極端なケチになるタイプ。
もうひとつは、損に対して、おおらかになるタイプ。

 私のことを書いてもあまり意味はないが、損か得かということになれば、私は
自分の人生の中で、損ばかりしてきた。
いまだかって、(もらったお金)と言えば、ワイフの実父が亡くなったとき、義兄から
受け取った10万円だけ。
あとはすべて出超。

 お金だけではない。
いろいろなチャンスがありながら、そのチャンスを生かすことさえできなかった。
いつもあと一歩というところで、身を引いてしまった。
だからときどき、こう考える。
「今さら、何が損か」と。

 おおらかになったわけではないが、損得勘定に、鈍感になってしまった。
で、その一方で、たぶんに言い訳がましいが、こう言って自分をなぐさめる。
「健康で、家族がいるではないか」と。
「たいした人生ではなかったが、思う存分、自分の生きたいように生きることが
できたではないか」と。

●莫大な財産

 損か、得か。
最後に、最近、聞いた話。

 ある妻は、自分の生涯を、夫に捧げた。
夫を愛していたからではない。
家族を大切に考えていたからでもない。
子どもが2人いたが、その子どもたちのためでもない。

 夫の両親がもっていた、莫大な遺産があったからである。
夫婦関係についていえば、子どもたちがまだ小学生のころ、完全に
冷えていた。

 夫の両親は、その妻が、50歳になる少し前に、相次いで他界した。
が、だからといって、夫の両親の財産が、妻のものになったわけではない。
夫の両親の財産は、夫と、夫の弟で、2分した。

 が、夫は、自分が相続した財産を、妻には渡さなかった。
妻が財産目当てに、自分との婚姻関係をつづけてきたことを知っていた。
以来、毎日のように言い争いがつづいた。

 で、そうこうしているうちに、15年が過ぎた。
妻は、現在、65歳前後。
2人の子どもたちはそれぞれが独立し、ほとんど行き来はない。
莫大な財産は、手を伸ばせばすぐそこにあるが、しかしだからといって、それが
どうなのか。
妻は、去年、若年性アルツハイマー病になってしまった。
夫も、軽い脳こうそくを起こし、歩くのもやっとという状態になってしまった。

 損と言えば、これほど損な話はない。
自分の人生そのものを、棒に振ってしまった。
 
●損得論

 資本主義社会になって、損得論が変質してしまった。
金銭的な損得論だけが、ひとり歩きをするようになってしまった。
しかし(生きること)には、もっと別の価値がある。
しかもその価値というのは、金銭的な尺度では、計算できない。
わかりきったことだが、そのわかりきったことが、わかりにくくなってしまった。

 で、最近観た映画に、『クリスマス・キャロル』がある。
自由貿易体制の宗主であるアメリカで、ああした映画が作られるというのも、おもしろい。
あの『クリスマス・キャロル』は、そのわかりにくくなった部分を、鋭くえぐり
出している。

 私たちにとって、何が本当に大切なのか。
生きるとは、本来どういうことなのか。
それを考えていくと、そこに壁のように立ちはだかるのが、損得論ということになる。
言い換えると、その損得論を乗り越えないかぎり、私たちは、その先へ進むことは
できない。

 冒頭で、「損得論は、意外と奥が深い」と書いた意味が、これでわかってもらえた
だろうか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 損得論 ケチ論)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec.09+++++++++はやし浩司

●相続制度の崩壊

+++++++++++++++++++

本来相続権のない、息子や娘が
親に代わって、相続財産の分与を求め、
裁判を起こす。
そんな例がふえているという。

F県で司法書士をしている学生時代の
友人が、そんな話をしてくれた。

もう少し、詳しく説明する。

親が死ねば、その財産は、配偶者と
子どもに、分配される。
これらの人たちを、相続権者という。

が、その子どもの子ども、つまり孫が、
親をたきつけて、相続財産を争う。
もちろん孫には、相続権はない。
ないにもかかわらず、親をたきつけて、
裁判を起こす。
「親の取り分をよこせ!」と。

ある女性(40歳くらい)は、こう言った。
「私の父は、父が実家を出るとき、1円も財産を
分けてもらわなかった。
不公平だ。
だから父の実家に、財産分与を請求して、
どうして悪いですか」と。

+++++++++++++++++++

●孫が親の実家を訴える?

 こうした裁判は、私が若いころには、想像もできなかった。
長子相続制度、家(家督)制度というのは、そのとき廃止されていたが、その意識はまだ
残っていた。
それが社会の常識として定着していた。

「長子相続制度」というのは、長男、もしくは男子が、「家」を継ぐという制度。
女子は、長子相続制度からは、はずされることが多かった。

また「家制度」というのは、「家督制度」とも呼ばれた。
家族(親族)を、「戸主」と「家族」に分け、戸主に統率権限を与えていた制度をいう。
「家」あっての家族ということになる。
同時に、その「家」では、戸主が絶対的な権限を握っていた。

 これら2つの制度は、1947年の民法の大改革によって、廃止されている。
子どもは、みな、平等となった。
つまりそれまでは、「家」を出た者は、当然のこととして、遺産相続権を放棄したものと、
みなされた。
「家族より、家の方が大切」と考えていた。
財産分与を請求すれば、「家」が弱体化する。
そのため財産分与の請求など、常識として、ありえなかった。
むしろ家を出た者は、「本家」を守るため、毎年何かしらの貢ぎ物(=マネー)を
渡すのが習慣になっていた。
私の母ですら、あるとき私にこう言った。
「親が、先祖を守るために、息子の財産を使って、何が悪い!」と。

 そうした意識の片鱗は、実は私の中にも、残っている。
孫の立場の子どもが、親をたきつけて、親の実家に向かって、財産分与を請求する
ということそのものが、理解できない。
が、実際には、先にも書いたように、そういう事例が、ふえている、・・・という。

●農村社会の連続性

 江戸時代は、きびしい身分制度が敷かれていた。
農民は、生まれながらに農民。
それ以外には、なりえなかった。
が、それだけではない。

人口の90%以上が、農民であった。
そういう社会では、世代の連続性が重要視された。
親が死んだ、だから農業を廃業しますというわけにはいかない。
また代々、親が死ぬたびに、農地を分割していたら、3代、4代もすれば、農地が
こまごまになってしまう。
それでは農業そのものが、成り立たなくなってしまう。
そこで(連続性)を維持するために、長子相続制度や家制度が生まれた。

 本家は、一族を代表して、祭祀を執り行った。
一方、本家を出た者たちは、絶対的な服従を強いられた。

 が、時代が変わった。
子どもたちの権利意識も変わった。
農業といっても、今では専業で農業を営んでいる人は少ない。
しかも都会地域の農地は、宅地に転用したとたん、巨億の財産に変身する。
が、何よりも変わったのは、長子相続制度が廃止され、家制度が廃止されたこと。
長男も二男も、男も女も、平等になった。

●遺産相続の手続き

 が、私は、どうしても納得できない。
子どもが、自分の親の死にあたって、遺産相続権を行使するのは、わかる。
が、孫にあたる子どもが、自分の親をたきつけて、親の実家を相手に、遺産相続を
請求するというのは、私の理解の範囲を超える。

 もう一度、冒頭に書いた女性の言葉を思い出してみてほしい。
その女性は、こう言った。

「私の父は、父が実家を出るとき、1円も財産を分けてもらわなかった。
不公平だ。
だから父の実家に、財産分与を請求して、どうして悪いですか」と。

 あなたはこの意見を読んで、「当然のことだ」と考えるだろうか。
それとも、「おかしい」と考えるだろうか。

 さらにこんな例もある。

●複雑な家族関係

(家族関係を説明するときは、言葉の使い方がむずかしい。
書き方をまちがえると、何がなんだか、わけがわからなくなる。)

 そこであらかじめ、家族関係を説明しておく。

(父親と母親・・・X)には、3人の(子ども・・・Y)がいた。
3人の子どもを、A、B、Cとする。
A、B、C、それぞれの子どもには、2人ずつの子どもがいた。
これらの子ども、つまり孫を、(A1)(A2)(B1)(B2)(C1)(C2)とする。

 こういうケースのばあい、(父親と母親・・・X)が死亡すれば、その財産は、A、B、C
の3人の子どものものになる。

 が、Aという子どもが、親より先に死ねば、Aがもっていた遺産相続権は、(A1)(A
2)が引き継ぐことになる。
配偶者がいれば、配偶者も、引き継ぐことになる。

仮にそのとき(A1)が死亡していて、(A1)に、3人の子どもがいたとすると、
すると遺産相続権は、さらにその3人の子ども(Xからすれば、ひ孫)が、引き継ぐこと
になる。
こうして権利関係は、恐ろしく複雑になる。

 だから法律をよく知っている人は、みな、こう言う。
「遺産相続の手続きだけは、親が死んだら、すぐしろ」と。

 今では農地でも、50年も放っておいたら、だれのものか、わからなくなってしまう。
相続手続きをしようにも、しようがない。
そんな状態になってしまう。
それこそ「日本中をかけずり回って、何十人もの人たちから、印鑑を集めてこなければな
らなくなる」(友人談)。

●平等意識

 が、みなが、みな、すんなりと相続放棄の書類に判を押してくれるわけではない。
当然何らかの分け前を求めてくる。
「分け前をくれなければ、判は押さない」と。

 つまり孫、あるいはひ孫にあたる人たちが、遺産相続を請求するようになる。
こういう世相を、はたして正常と言ってよいのか、どうか?
法律的には、ほかに妙案がないのだから、現行法を支持するしかない。
が、それもだめというのなら、たとえば死んだら、私有財産は、一度すべて国のものにす
るとか、そういう方法を考えるしかない。
しかしそれをするには、民法どころか、国民の意識、さらには資本主義制度そのものまで、
大改革しなければならない。

●矛盾

 端的に言えば、財産は、自分で作るもの。
死ぬまでに、自分で使いきればよい。
自分が死んだら、息のかかったものどうしで、分ければよい。
だから私は、その女性(40歳くらい)に、こう言いたかった。

 「祖父母の財産を請求するくらいなら、親の財産を請求しなさい」と。

 もちろんそんなことは言わなかったが、ほとんど世話をしたこともない祖父母の財産を
請求するほうが、おかしい。
(祖父母のほうは、あれこれと、孫であるその女性のめんどうをみてくれたかもしれない
が・・・。)
おかしいが、やはりそれ以外に方法がないのだから、今の遺産相続制度を支持するしかな
い。

私「では、親は、何と言っているのですか?」
友「親自身は、遺産なんてどうでもいいと言っているんですがね、その子どもたちが、そ
れではいけないと、親をたきつけているんですね」
私「平等意識というのですかね」
友「結局、そういうことになりますね」と。

 世の中も、変わってきた。
今は、その過渡期イコール、混乱期ということになる。
それがこのエッセーの結論ということになる。

(参考:ウィキペディア百科事典より)

●長子相続(ちょうしそうぞく)とは、最初に生まれた子供(長子)が家産を相続する制
度である。ここでいう長子は、長男のみを指し、「長女」が外されることが多く、「男女を
問わず、最初に生まれた子供が相続する」という真の意味の「長子」相続とは言えない例
が多い。相続する家産は、財産のみならず家督や地位をも含んでいた。

●日本国憲法が施行された1947年には、民法が大規模に改正され、家督相続が廃止された。
この時の改正では、長男相続制も廃止されて、配偶者にもいかなる子供にも平等に相続権
を持つことが規定された。

●家制度(いえせいど)とは、1898年に制定された民法(以降、旧民法という)において
規定された家族制度であり、親族関係を有する者のうち更に狭い範囲の者を、戸主と家族
として一つの家に属させ、戸主に家の統率権限を与えていた制度である。江戸時代に発達
した、武士階級の家父長制的な家族制度を基にしている。

(以上、ウィキペディア百科事典より)


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