2009年8月8日土曜日

*My Life Style

【人生論】(What is the Life for us?)

●今日の言葉(イギリスのBLOGより)

Life is an unfoldment, and the further we travel the more truth we can comprehend. To understand the things that are at our door is the best preparation for understanding those that lie beyond
- Hypatia,  In Religion

人生というのは、開いていくもの。先へ行けば行くほど、より多くの真理を理解できるようになる。ドアの近くにあるものを理解することは、遠くにあるものを理解するのに、もっとも役立つ。

●真理

 同じようなことを、私も以前、書いたことがある。
その原稿を探してみた。
「03年」とあるから、6年前の原稿ということになる。

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●豊かさとは、何か?

 生活の豊かさを測る尺度は、決して、一つではない。

 もちろん収入は、多ければ、多いほどよい。お金の嫌いな人はいない。私も嫌いではない。

 しかし収入だけで、豊かさは、測れない。

 自由な時間は、どれだけあるか?
 家族と過ごせる時間は、どれだけあるか?
 住んでいる環境は、どうだ?
 友だちの数はどうだ?
 人間関係は、どうだ、など。

 健康の度合いも、豊かさの一つということになる。しかし本当の豊かさは、「心」で決まる。

 心が平穏であるか。満足しているか。やさしく、思いやりがあるか。過去を悔やむこともなければ、未来を不安に思うこともない。夢や希望があり、目標もある。毎日、前向きに生き生きと、過ごすことができる。そういった状態を、心の豊かさという。

 もちろん、心の貧しい人もいる。このときも、収入とは、関係ない。億万長者でも、心の貧しい人は、いくらでもいる。もちろんお金がなければ、苦労する。不幸になることもある。しかしお金で、豊かさは買えない。

 中学生たちに聞いてみた。「君たちの夢は何か?」と。多くの中学生は、「お金持ちになりたい」「有名になりたい」と言う。

 しかしそのお金で、何をするか。その未来像が、見えてこない。また有名になるとしても、それはあくまでも結果。そこに至る、現実が見えてこない。

 手っ取り早く、豊かになるためには、自分の住む世界を、ぐんと小さくすればよい。あるいは何かの宗教に身を寄せ、その世界に安住するという方法もある。この世界、広く生きようと思えば思うほど、人との摩擦(まさつ)も大きくなる。ひとりで生きようと思えば思うほど、障害も大きくなる。

そこで私は、気がついた。豊かさは、求めるものではなく、その人の生きザマの中から、結果として生まれるもの、と。少し話が、飛躍してしまったかもしれないが、こういうことだ。

 私の知人に、長野県の山奥で、床屋を営んでいる人がいる。今年、六〇歳を超えた。彼は父親の仕事を引き継いで、床屋を始めたわけだが、もし人生の成功者という人がいるとするなら、彼のような人をいうのではないか。

 釣り名人で、そのあたりでは、「釣り聖」と呼ばれている。床屋という職業もあって、村長も、助役も、村の有力者たちも、みな、彼の前では、頭をさげる。もちろん村一番の情報通。もし彼を敵に回したら、村議会の議員にすら、なれない。

 今は、その人は、日本画にこっていて、毎日、その日本画に没頭している。「個展を開いたら……」とすすめると、うれしそうに笑っていた。

 一方、過去の肩書きや地位にぶらさがり、その亡霊から、逃れられない人もいる。退職したあとも、プリプリといばっている。「仕事がない」と言うから、「貿易の知識を利用して、中国の物産でも売ってみたら」と提案すると、こう言った。「そんな恥ずかしいことは、できない」と。(商売することを、「恥ずかしい」と言うのだ!)

 私のまわりには、いろいろな人がいる。みな、違った方法で、豊かさを求め、幸福になろうとしている。もちろん、私も、そうだ。しかし豊かさというのは、求めたところで、向こうからやってくるものではない。しかし生きザマさえ、しっかりしていれば、向こうからやってくる。

 大切なことは、その生きザマを、どう確立するかということ。が、ここで誤解してはいけないのは、その豊かさというのは、虹のかなたの、その向こうにあるのではないということ。あなたのすぐそばにあって、あなたに見つけてもらうのを、息をひそめて待っている。

 土地を売って大金を手に入れたからとか、あるいは大企業の部長になったからとか、著名なタレントになったからとか、そういうことで、ここでいう「豊かさ」を手に入れることは、ない。豊かさというのは、あくまでも、「心」の問題。名誉、地位、財産、肩書きとは、まったく、関係がない。

 大切なことは、できるだけ早い時期にそれに気づき、そうしたものに、心が毒されないようにすること。毒されれば毒されるほど、心の豊かさは、あなたから遠ざかる。

 ……と、大上段に構えて、「豊かさ」について、書いてみた。「何を偉そうに……」と思う人も、いるかもしれない。もしそうなら、許してほしい。私自身も、こうして自分なりに、結論らしきものを出しておかないと、前に進めない。頭のてっぺんから、足の爪の先まで、現代社会がもつ矛盾に、毒されている。

このつづきは、一度頭を冷やしたあとに、考えてみたい。
(031030)

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同じような内容だが、こんなことを書いたこともある。

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●生きる哲学

 生きる哲学にせよ、倫理にせよ、そんなむずかしいものではない。もっともっと簡単なことだ。人にウソをつかないとか、人がいやがることをしないとか、自分に誠実であるとか、そういうことだ。もっと言えば、自分の心に静かに耳を傾けてみる。

そのとき、ここちよい響きがすれば、それが「善」。不愉快な響きがすれば、それが「悪」。あとはその善悪の判断に従って行動すればよい。人間には生まれながらにして、そういう力がすでに備わっている。それを「常識」というが、決してむずかしいことではない。もしあなたが何かのことで迷ったら、あなた自身のその「常識」に問いかけてみればよい。

 人間は過去数10万年ものあいだ、この常識にしたがって生きてきた。むずかしい哲学や倫理が先にあって生きてきたわけではない。宗教が先にあって生きてきたわけでもない。たとえば鳥は水の中にはもぐらない。魚は陸にあがらない。そんなことをすれば死んでしまうこと、みんな知っている。そういうのを常識という。この常識があるから、人間は過去数10万もの間、生きるのびることができた。またこの常識にしたがえば、これからもずっとみんな、仲よく生きていくことができる。

 そこで大切なことは、いかにして自分自身の中の常識をみがくかということ。あるいはいかにして自分自身の中の常識に耳を傾けるかということ。たいていの人は、自分自身の中にそういう常識があることにすら気づかない。気づいても、それを無視する。粗末にする。そして常識に反したことをしながら、それが「正しい道」と思い込む。あえて不愉快なことしながら、自分をごまかし、相手をキズつける。そして結果として、自分の人生そのものをムダにする。

 人生の真理などというものは、そんなに遠くにあるのではない。あなたのすぐそばにあって、あなたに見つけてもらうのを、息をひそめて静かに待っている。遠いと思うから遠いだけ。しかもその真理というのは、みんなが平等にもっている。賢い人もそうでない人も、老人も若い人も、学問のある人もない人も、みんなが平等にもっている。子どもだって、幼児だってもっている。赤子だってもっている。あとはそれを自らが発見するだけ。方法は簡単。何かあったら、静かに、静かに、自分の心に問いかけてみればよい。答はいつもそこにある。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●常識をみがく

 常識をみがくことは、身のまわりの、ほんのささいなことから始まる。花が美しいと思えば、美しいと思えばよい。青い空が気持ちよいと思えば、気持ちよいと思えばよい。そういう自分に静かに耳を傾けていくと、何が自分にとってここちよく、また何が自分にとって不愉快かがわかるようになる。無理をすることは、ない。道ばたに散ったゴミやポリ袋を美しいと思う人はいない。排気ガスで汚れた空を気持ちよいと思う人はいない。あなたはすでにそれを知っている。それが「常識」だ。

 ためしに他人に親切にしてみるとよい。やさしくしてあげるのもよい。あるいは正直になってみるのもよい。先日、あるレストランへ入ったら、店員が計算をまちがえた。まちがえて50円、余計に私につり銭をくれた。道路へ出てからまたレストランへもどり、私がその50円を返すと、店員さんはうれしそうに笑った。まわりにいた客も、うれしそうに笑った。そのここちよさは、みんなが知っている。

 反対に、相手を裏切ったり、相手にウソを言ったりするのは、不愉快だ。そのときはそうでなくても、しばらく時間がたつと、人生をムダにしたような嫌悪感に襲われる。実のところ、私は若いとき、そして今でも、平気で人を裏切ったり、ウソをついている。自分では「いけないことだ」と思いつつ、どうしてもそういう自分にブレーキをかけることができない。

私の中には、私であって私でない部分が、無数にある。ひねくれたり、いじけたり、つっぱったり……。先日も女房と口論をして、家を飛び出した。で、私はそのあと、電車に飛び乗った。「家になんか帰るか」とそのときはそう思った。で、その夜は隣町の豊橋のホテルに泊まるつもりでいた。が、そのとき、私はふと自分の心に耳を傾けてみた。「私は本当に、ホテルに泊まりたいのか」と。答は「ノー」だった。私は自分の家で、自分のふとんの中で、女房の横で寝たかった。だから私は、最終列車で家に帰ってきた。

 今から思うと、家を飛び出し、「女房にさみしい思いをさせてやる」と思ったのは、私であって、私でない部分だ。私には自分にすなおになれない、そういういじけた部分がある。いつ、なぜそういう部分ができたかということは別にしても、私とて、ときおり、そういう私であって私でない部分に振りまわされる。しかしそういう自分とは戦わねばならない。

 あとはこの繰りかえし。ここちよいことをして、「善」を知り、不愉快なことをして、「悪」を知る。いや、知るだけでは足りない。「善」を追求するにも、「悪」を排斥するにも、それなりに戦わねばならない。それは決して楽なことではないが、その戦いこそが、「常識」をみがくことと言ってもよい。

 「常識」はすべての哲学、倫理、そして宗教をも超える力をもっている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 常識論 常識とは 常識について わかりやすい生き方 シンプルライフ)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

常識といっても、安易な常識論には
警戒したほうがよいですね。

それについて書いた原稿をいくつか、
集めてみました。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●安易な常識論で苦しむ人

 日本にはいろいろな常識(?)がある。「親だから子どもを愛しているはず」「子どもだから故郷(古里)を思い慕っているはず」「親子の縁は絶対に切れない」「子どもが親のめんどうをみるのはあたりまえ」など。

しかしそういう常識が、すべてまちがっているから、おそろしい。あるいはそういう常識にしばられて、人知れず苦しんでいる人はいくらでもいる。たとえば今、自分の子どもを気が合わないと感じている母親は、7%もいることがわかっている(東京都精神医学総合研究所の調査・00年)。「どうしても上の子を好きになれない」「弟はかわいいと思うが、兄と接していると苦痛でならない」とか。

 故郷についても、「実家へ帰るだけで心臓が踊る」「父を前にすると不安でならない」「正月に帰るのが苦痛でならない」という人はいくらでもいる。そういう母親に向かって、「どうして自分の子どもをかわいいと思わないのですか」「あなたも親でしょう」とか、さらに「自分の故郷でしょう」「親を嫌うとはどういうことですか」と言うことは、その人を苦しめることになる。

たまたまあなたが心豊かで、幸福な子ども時代を過ごしたからといって、それを基準にして、他人の過去をみてはいけない。他人の心を判断してはいけない。それぞれの人は、それぞれに過去を引きずって生きている。中には、重く、苦しい過去を、悩みながら引きずっている人もいる。またそういう人のほうが、多い。

 K市に住むYさん(38歳女性)のケースは、まさに悲惨なものだ。母親は再婚して、Yさんをもうけた。が、その直後、父親は自殺。Yさんは親戚の叔母の家に預けられたが、そこで虐待を受け、別の親戚に。そこでもYさんは叔父に性的暴行を受け、中学生のときに家出。そのころには母の居場所もわからなかったという。

Yさんは、「今はすばらしい夫に恵まれ、何とか幸福な生活を送っています」(手紙)ということだが、Yさんが受けた心のキズの深さは、私たちが想像できる、その範囲をはるかに超えている。Yさんから手紙を受け取ったとき、私は何と返事をしてよいかわからなかった。

 ここでいうような「常識」というのは、一見妥当性があるようで、その実、まったくない。そこで大切なことは、日本のこうした「常識」というのは、一度は疑ってみる必要があるということ。そしてその上で、何が本当に大切なのか。あるいは大切でないのかを考えてみる必要がある。

安易に、つまり何も考えないで、そうした常識を、他人に押しつけるのは、かえって危険なことでもある。とくにこの日本では、子育てにも「流儀(?)」を求め、その「形」を親や子どもに押しつける傾向が強い。こうした方法は、一見便利なようだが、それに頼ると、その実、ものの本質を見失うことにもなりかねない。

 「親である」とか「子であるとか」とかいう「形」ではなく、人間そのものをみる。また人間そのものをみながら、それを原点として、家庭を考え、家族を考える。それがこれからの子育ての基本である。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 安易な常識論 常識論)

Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●類は友を呼ぶ

 おととい、東京に住む友人(64歳・女性)と、電話でこんな話をした。
その友人が、こう教えてくれた。

 「奥さんがずるい人ということは、ダンナもずるい人と考えていいのよ。
だから夫婦でいられるのよ」と。

 『類は友を呼ぶ』というが、『似たもの夫婦』という言葉もある。
どちらか一方がずるくて、他方が、誠実ということは、ありえない。
友人は、こう言った。

 「たとえば奥さんがずるいことをしようとしてもね、ダンナが誠実な人だったら、
それをやめさせるはずよ」と。
つまりたがいに教えあいながら、夫婦というのは成長もするし、反対に堕落もする、と。

で、話がはずみ、私たちの結論は、こうだった。
「その人を知りたければ、その人の周囲の人たちを見ればいい」と。
たとえば兄弟にせよ、友人にせよ、つねに人は類を求めて集まる。
その人の周囲の人たちが不誠実なら、その人自身も、不誠実な人と考えてよい、と。

●縁を切る

 若いころ、1人、たいへんずるい人がいた。
インチキのかたまりのような人だった。
そのためいつも、何かにつけて、小細工ばかりしていた。

 結構、金払いもよく、それなりにおもしろい人だった。
が、あるときから、金銭面で対立するようになった。
そのときのこと。

 気がつくと、私自身も、その人に対して、ずるい人間になっているのを知った。
誠実になれないというか、誠実であることに、ある種のバカらしさを感じた。
つまりそういう人に対して、誠実であっても、意味はない。
誠実そのものが通じない。
こちらが誠実であろうとすればするほど、お人好しで終わってしまう。
そう感じた。

 そのときのことを今、思い出してみると、こういうことが言える。
「不誠実な人とは、勇気をもって、縁を切れ」と。
つきあってよいことは、何もない。
が、それだけではない。
つきあえばつきあうほど、その人の不誠実さに染まってしまう。

 そういう点では、人間の心というのは、それほどタフにはできていない。
何かにつけて、染まりやすい。
とくにこの私は、生まれも育ちも、あまりよくない。
もともとガードが弱い。

●終わりに……

 要するに人生は、短い。
回り道している暇は、ない。
そのためにも、正道を急ぐ。

 最後に、3人の賢人の言葉を引用する。

To live is so startling it leaves little time for anything else.
- Emily Dickinson

生きることはすばらしいことだが、そのほかのための時間は、ほとんど残されていない。

People's whole lives do pass in front of their eyes before they die. The process is called 'living'.
- Terry Pratchet, "The Last Continent"

人生とは、その人が死ぬまで、その人の目の前を通り過ぎるだけ。そのプロセスを、「生きている」という。

 そしてあのアインシュタインの言葉。

Life is a mystery, not a problem to be solved.

人生(生命)は、ミステリー(謎)だ。そのミステリーは、解けるような問題ではない。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●K国の金xx

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昨日(09年8月5日)、K国に抑留されていた
2人のアメリカ人記者が、金xxの「特赦」(?)に
よって、解放された。
5か月ぶりの解放である。

K国は、「(ゴア元副大統領ではだめだ)、クリントン元大統領をよこせ。
よこしたら、解放してやる」と、アメリカに迫った。
その結果、クリントン大統領自身が、K国まで、出かけていった。

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●現実検証能力

あれほどまでに現実検証能力のない人間は、そうはいない。
まるで自分のことがわかっていない。
K国に金xxを見ていると、そう思う。
 どこかの政治評論家たちは、「金xxの国際政治感覚は一級だ」とか何とかもちあげて
いるが、基本的には、ノーブレイン。
その一例が、今回発表された、一枚の写真。

 金xxが右側に座り、むっつり、上機嫌(?)。
クリントン元大統領が左側に座り、同じくむっつり、無表情(?)。
うしろには、立ったままの、5、6人のアメリカ人。
(韓国紙の報道によれば、金xxは、始終、上機嫌であったという。)

 アメリカ側、つまりクリントン元大統領は、ノーコメントを繰り返しているが、
こうした状況を、アメリカ国民はもちろん、クリントン元大統領自身も、不愉快に
思っていることは明らか。
その(不愉快さ)も理解できないほど、金xxは、ノーブレイン。

 金xxは、アメリカに謝罪させ、(アメリカ側は、謝罪したことを否定)、勝ったつもり
でいるかもしれない。
国内でも、「元大統領が謝罪に来た」と、大々的に報道ししている。
しかし今回の一連の事件は、基本的な部分で、おかしい。
狂っている。

●ノーブレイン

 ありもしない外国の脅威を理由に、自国民を締め上げる。
核兵器やミサイルを開発する。
自国民が飢えて苦しもうが、国を捨てる人が続出しようが、知らぬ顔。
その上で、取材のため、インタビューを試みた記者を、逮捕、抑留。
報道によれば、一度、川を渡ってK国側に入ったのは事実だが、拉致されたのは、
中国領土側のほうであったという。

 で、お飾りの裁判。
判決は12年の懲役刑。
その上で、「2人の記者を返してほしかったら……」と。

 アメリカ側はプライドを捨てて、2人の記者の救出を図ったわけだが、アメリカ人が
怒るのは、これから。
日本の一部の報道機関は、「米朝関係が、これをきっかけに好転する」と書いている。
しかしそんなことは、常識で考えても、ありえない。
もしそうなら、アメリカも、ノーブレイン。

●わかりやすく言えば……

 わかりやすく言えば、誘拐犯に子どもを誘拐された親が、誘拐犯に頭をさげて、
子どもを返しにもらいに行ったようなもの。
ところが誘拐犯のほうは、事情がどうなっているかもわからず、「相手が頭をさげて、
頼みにきた」と、喜んでいる(?)。
だいたい、記念撮影すること自体、バカげている。
どうして、記念撮影?
こんなバカげた構図が、ほかのどの世界にある?
つまりその(バカさかげん)がわからないほどまで、金xxは、現実検証能力を
失っている。

 日本の拉致事件についても、そうだ。
誘拐した側のほうが、一国の首相を呼びつけて、いばっている。
謝罪するのは当たり前のことなのに、「謝罪してやった」と、いばっている。
こんなバカげた国を相手に、これから先、日本はどうやって外交交渉を進めていく
つもりなのか。
考えれば考えるほど、気が重くなる。
ホント!

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