2009年8月16日日曜日

*Hypocrisy






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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 9月 16日
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●私たちは死なない(What is the Death for Us?)

人は日々に死に、日々に生まれ変わる。
細胞の生死を考えれば、それがわかる。
骨の寿命にしても、それほど長くはない。
6か月とか1年単位で、すべて入れ替わる。

死んだ細胞は、体外へ排出され、ときに
分子レベルまでばらばらになって、また
別の生物や無生物の中へと、取り込まれていく。
同時に、私たちは日々に、ほかの生物や
無生物から、食物として、新しい細胞を
取り入れて、いく。

こうして私たちはありとあらゆる生物と
つながり、今というときを生きている、

では、死んだらどうなるか。
基本的には、人にかぎらず、生き物には死はない。
意識は途絶えるが、(命)は、姿や形を変え、
別の生物となって生きていく。
虫かもしれない。
花や木かもしれない。
動物や、魚かもしれない。
ともかくも、生きていく。

この連続性を総称して、「命」という。
ただそれぞれの意識は、一度、途絶える。
たとえばあれほどまでに人を警戒していた
スズメにしても、死ねば、その羽を
風にさらず。
人につかまれても、身動きひとつしない。
が、だからといって、それが(終わり)を
意味するわけではない。
スズメの意識が、途絶えただけ。

が、意識が途絶えることは、こうした生命の
流れの中では、何でもないこと。
今、あなたが感じている意識しにしても、
あなたの脳の意識の、数十万分の1、
あるいはそれ以下かもしれない。
「これが私」と思っている意識にしても、
そのほとんどが、私であって私でない。
そんな意識が途切れることを、恐れる必要はない。
恐れてはいけない。

それよりもすばらしいことは、あなたの命が、
今のこの瞬間にも、日々に、ほかの生物へと
伝わっているというその事実。
同じように反対に、ほかの生物が、
日々にあなたを作りあげえているという、
その事実。
何も「死」だけが死ではない。
繰り返すが、私たちは、すでに日々に死に、そして日々に
生まれ変わっている。
そうした生物ぜんたいの一部として、私がここにいて、
あなたがそこにいる。

死ぬことを恐れる必要はない。
たとえばあなたはトイレで便を出すことを恐れるだろうか。
そんなことはだれも恐れない。
しかしあの便だって、ほんの1週間、あるいは1か月前には、
あなたの(命)だった。
その命が、便となり、あなたから去っていく。
その便が、いつかどこかで、別の命を構成していく。

もし「死」が何であるかと問われれば、それは
意識の(とだえ)をいう。
死んだとたん、意識は連続性を失う。
しかし心配無用。

ものが見えなくなる。
ものが聞こえなくなる。
しかしそれを悲しむ意識そのものも消える。
だから取り越し苦労はしない。
そのときは、そのとき。
そのときまでものが見えるなら、それを喜べばよい。
ものが聞こえるなら、それを喜べばよい。
それに意識を残す方法は、いくらでもある。

たとえば今、あなたは私の書いたこの文章を読んでいる。
その瞬間、私の意識とあなたの意識はつながる。
私はあなたの意識の中に、入る。
多少の時間差はあるかもしれないが、あなたの意識の中に入る。

「多少の時間差」というのは、数日かもしれないし、
5年とか、10年という年月かもしれない。
しかしどうしてそれが問題なのか。
時の流れというのは、そういうもの。
一瞬を数万年に感ずることもできる。
数万年を一瞬に感ずることもできる。
長い、短いという判断は、主観的なもの。
もともと時の流れに、絶対的な尺度など、ない。

大切なのは、今、この瞬間に、私がここにいて、
あなたがそこにいるという、この事実。
この瞬間にこの文章を私が書き、あなたが
読んでいるという事実。

あなたの意識は、あなたの肉体の死とともに
途絶える。
しかしその意識は、別のだれかに伝えられる。
また、それができる。
ちょうど今、釈迦やキリストの代わりに、
あなたがこの世界を見たり、聞いたりするように、
いつかだれかがあなたの代わりに、この世界を
見たり、聞いたりするようになる。
こうしてあなたは、べつのだれかの中で、
生き返る。
それを繰り返す。

大切なことは、本当に大切なことは、
そのためにも、よい意識を残すこと。
伝えること。
善なる心を残すこと。
伝えること。
その努力を怠ってはいけないということ。
それが私たちが今、ここ生きている、
第一の目的といってもよい。

さあ、死を恐れるのは、もうやめよう。
死なんて、どこにもない。
私たちはこれからも、永遠に生きていく。
姿、形は変わるかもしれないが、もともと
この世のものに、定型などない。

なにも人間の形だけが、「形」ではない。
また私たちの姿、形が、ミミズに変わったとしても、
ミミズはミミズで、土の中で、結構楽しく
暮らしている。
人間だけの判断基準で、ほかの生物を見ては
いけない。

そうそう犬のハナのした糞にさえ、ハエたちは
楽しそうに群がっている。
それが命。

私たちが日々に生き、日々に死ぬことさえわかれば、
最後の死にしても、「命」の一部にすぎない。
そのときは、何もこわがらなくてもよい。
あなたは静かに目を閉じるだけ。
それだけで、すべてがすむ。

すでにあなたの生まれ変わりは、あなたの周囲に、
ゴマンといる。
そこにいるハエだって、ハエはそれを意識することは
ないだろうが、あなたの生まれ変わり。
あなたも、ハエの生まれ変わり。

あなたはありとあらゆる生物の(輪)の中で
生きている。
あなたが死んでも、その輪は残る。
そしてあなたはその輪の中で、永遠に生きる。

繰り返す。
死んだときから、その輪が始まるわけではない。
輪は、すでに永遠の過去から始まり、
この先も永遠につづく。
しかも日々に、この瞬間ごとに、つづく。

あとはその日まで、思う存分、生きること。
目的はただひとつ。
あなたの意識を、深めること。
あなたの意識を、一歩でもよいから、善なるものに
近づけること。
つぎにつづく人や生物たちが、よりよく生きやすく
するために。
それが今を生きる私たちの使命ということになる。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「反戦の誓い」?(Making a Vow not to break out a War?)

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8月15日、麻生総理が「不戦の誓いを新たにし、
世界の恒久平和の確立に向けて積極的に貢献していくことを誓う」と
式辞を述べたあと、正午からは1分間の黙祷が行われたという。
(全国戦没者追悼式・日本武道館)

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●反戦の誓い?

「反戦の誓い」とは、何か?
私には理解できない。
文字通りに解釈すれば、「戦争に反対する誓い」ということになる。
それに、「誓い」といっても、いったいだれに対してするのか。

 何度も繰り返し書くが、戦後、日本がかろうじて平和を保つことができたのは、
「反戦の誓い」があったからではない。
世界最強のアメリカ軍が駐留していたからにほかならない。
もしアメリカ軍が日本に駐留していなかったら、あるいはあのまま日本を去って
いたら、日本は繰り返し、外国の攻撃にさらされていたはず。
これは(可能性)の問題ではない。
(確実にそうなったであろう)という話である。

 毛沢東・中国、李承晩・韓国、金日成・北朝鮮、マルコス・フィリッピン。
それにスターリン・ソ連などなど。
アジアの国々が連合軍を組織して、日本を攻めたかもしれない。

 何もこう書くからといって、「反戦の誓い」がまちがっているというのではない。
言葉としては、美しい。
美しいが、それだけ。
もし仮に、アメリカのオバマ大統領が、「反戦の誓い」なるものをしたとしたら、
どうなる?
その瞬間から、世界中は、大混乱に陥るはず。
日本だけが、「反戦の誓い」とやらをしながら、自分だけ安全圏に逃れるのは、
果たして許されることなのか。

 もし全国戦没者追悼式で宣言することがあるとするなら、「反戦の誓い」ではなく、
「反省の決意」である。
私たち日本人は、世界各国から戦後、袋だたきにあってもしかたのないようなことを、
先の戦争でしてしまった。
いくら弁解しても、この事実をゆがめることはできない。
もし戦時中の日本軍の行動が正しかったと言うのなら、逆に、現在の日本が、その反対の
ことをされても、文句を言わないことだ。
どこかの国の植民地になったとしても、文句を言わないことだ。
つまりそこまで覚悟して、「反戦の誓い」は、意味をもつ。

 反戦も結構。
しかし先のK国のミサイル発射実験を例にあげるまでもなく、仮に、どこかの国が
日本を攻撃してきたら、どうするのか?
「自衛は反戦ではない」と、そのときは「誓い」を捨てるつもりなのか?

 反戦という以上、「戦争はしない」。
たとえどこかの国が攻めてきても、戦争はしない。
というのも、自衛と戦争の間に、線を引くことはできない。
現に先のミサイル発射実験のときには、敵地攻撃論、さらには最近に至っては、
先制攻撃論、核兵器保有論まで、政府の高官の口から出てきている。
「坐して死を待つことはない」と。

 自衛戦争は、即、「戦争」そのもの。
古今東西、どの国も、「自衛」を口実に、世界に向かって戦争をしかけていった。
つまりこれほどまでにいいかげんな「誓い」というのは、そうはない。
だいたい、だれに向かって誓うというのか?

 自分か?
日本国民か?
それとも世界か?
あるいは神や仏か?

 平和というのは、他国の平和をまず考えてやってこそ、守れる。
インドの元首相のネールも、そう言っている。
わかりやすく言えば、他国に脅威を与えない。
「日本は脅威ではありませんよ」という印象を与えてこそ、日本の平和は守れる。
誓うとしたら、「他国に脅威を与えるようなことはしません」でもよい。
そういう具体性、かつ、世界の人が納得する(誓い)であるなら、私も賛成する。
が、そうでないから、私は首をかしげる。
しかしそれにしても、10年、20年一律のごとく、「反戦の誓い」とは?

 少しは自分の頭で考えて、進歩しろ!

 あえて言う。
戦争はいやですと言って、逃げて回るのは、平和主義でもなんでもない。
ただの臆病という。
戦争になって、殺されても構いませんと言うのも、これまた平和主義でも
なんでもない。
ただの事なかれ主義という。
いざとなったら、国を守るために戦いますというのが、平和主義ということに
なる。

 つまり平和というのは、つねに積極的に求めてこそ、守れるもの。
「何もしないから、相手も何もしてこないだろう」という考え方は、甘い。
いかに甘いかは、日本軍が戦時中にしたことを思い浮かべてみればわかるはず。
日本軍は、そういう国々をつぎつぎと占領していった。

 それを棚に上げて、「反戦の誓い」はない。
すべきことがあるとするなら、「反省の決意」である。
勇気が必要だが、その勇気を世界に示してこそ、日本ははじめてアジア諸国のみならず、
世界の国々に認められる。
またそのときこそ、日本の平和が保障される。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 平和宣言 反戦の誓い 戦没者追悼式 平和主義 平和主義者 日本
の平和と安全)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●映画『ナイト・ミュージアム2』

+++++++++++++++++

字幕版、『ナイト・ミュージアム2』を見てきた。
字幕版のほか、「日本語・吹き替え版」というのもある。
吹き替え版のほうは、ちょうど夏休みということで、
子ども向けということか。

星は3つの、★★★。
前作は、4つの、★★★★。
今回の「2」は、あまりにもドタバタ。
あれも、これもと、何もかも詰めすぎた。
結果、何がなんだか、訳が分からない映画に
なってしまった。
おもしろい映画だったが、それだけ。
ドタバタ、ドタバタ・・・。
それだけで終わってしまった。
だから星は、やはり3つ。

やはりこの映画は、子ども向け。

+++++++++++++++++++

●映画と文学

 映画のもつアカデミック性は、文学のそれよりは
一般的に低く評価される。
(コミックと文学の関係も、それに似ている。)
映画はあくまでも娯楽、という考え方が、今でも根強い。
私自身も、心のどこかで、そう感じている。
しかしそれは偏見。

映画はそれ自体、すばらしい芸術。
絵画や音楽そのものが、そこへ凝縮されている。
文学と比較しても、なんら遜色がないばかりか、実はその逆。

絵画、音楽、文学の3つが一体化したのが、映画ということになる。
ときに、それ以上のものを表現する。
絵画、音楽、文学では表現できないものを、映画は表現する。
が、問題がないわけではない。
そのひとつが、(時の流れ)。
つまり映画は、製作者の意図したまま、私たち自身を操る。
ときに考えるスキを与えない。

たとえばもし映画を、政府のプロパガンダ(情宣活動)や、
どこかの宗教団体の洗脳教育用に使われたら、たいへんなことになる。

一方、本なら、ときどき読むのをやめたりして、時間を調整することができる。
批判をはさむこともできる。
映画では、それができない。

また文学のもつ(想像性)というのが、映画では、抹殺される。
つまり映画を見ながら、自分の想像力を働かせるということができない。
それ以上のものを、映画は、(現実)として、それを観る人に
押しつけてしまう。

たとえば本で、「水もしたたるような美人」という表現があったとする。
そういうとき私たちは、頭の中で、それぞれの美人を想像する。
が、映画では、その美人そのものまで、画像として出してしまう。

むずかしい話はさておき、映画と文学の最大のちがいは何かといえば、
(考える力)ということになる。
文学では、常に考える力を試される。
一方、映画では、考える力を必要としない。
「観れば、それでわかる」と。

が、もちろん映画には、文学にはない、すばらしい面がある。
それは過去や未来、あるいは遠い見知らぬ国を、先にも
書いたように、それを(現実)のものとして、見せてくれる。
いくら想像力を働かせても、想像できないような世界を見せてくれる。

ただもちろん映画にも限界がある。
たとえば私は今、ここまで40行前後の文章を書いた。
テーマは、「映画と文学」。
こうした文章にみられる、(論理性)というのは、映画にはない。
あるにはあるのだろうが、観る人にその力がないときには、
「ああ、おもしろかった」で終わってしまう。

だからあえて言うなら、映画を観たら、どこかでそれを(思想)として
消化しなければならない。
具体的には、その映画について考え、評論し、思想として抜き出させるものは、
抜き出す。

それをしないで、ただ観っぱなしにすれば、それこそただの娯楽で終わってしまう。 
つまり読む側、観る側の姿勢のちがいによって、文学は文学になり、映画は映画に
なる。

で、最近、DVDで好んで借りてくるのが、実話もの。
昨夜も、オーストラリア映画の、『ディア・マイ・ファーザ(Dear My Father)』というの
借りてきた。
原作は、Raimond Gaita著※の、『Romulus, My Father』となっている。

舞台は、メルボルン市の郊外にあるバララートという、昔からある町。
(最後のエンディングのところで、ビクトリア州のMaldonで撮影、とある。)
今でも、開拓時代の面影を強く残す町として、多くの観光客が訪れている。
内容はともかくも、私はその主人公に興味をもった。

年齢は、私と同じ。
「1960年に、満13歳」とあった。
私も1947年生まれ、1960年には、満13歳!
最後のところには、こうあった。

「主人公のRaimondは、のちに、著名な作家、哲学者となった」と。
ビクトリア州で、哲学科のある大学といえば、メルボルン大学しかない。
大きな大学だから、私と接点があったとは思わないが、その主人公に
たいへん興味をひかれた。
確率論的には、どこかで顔を合わせているはず。

実際、ハウス(カレッジ)の同窓生には、そののち映画監督になったのもいる。
オーストラリア医師会の副会長になったのもいる。
それぞれがそれぞれの分野で、大成している。
哲学者になったのがいたとしても、なにもおかしくない。

最後にこうある。

Raimond Gaita grew up to become an acclaimed author and philosopher.
Romulus Gaita returned to live at Frogmore and eventually remarried.
He died in May 1996.
He is buried in the local cemetery close to Christina.
 
ライモンド・ガイタは、著名な作家、哲学者となった。
父のロムラス・ガイタは、フログモアに戻り、再婚した。
彼は1996年の5月の死去。
クリスチーナ(元妻)の近くの墓地に埋葬されている。

実話であるだけに、また実名で映画化されているだけに、元妻の2人の娘たちと
その家族の了解も取り付けたらしい。
「Special Thanks(感謝の意を捧げる)」として、実名と家族名が、それぞれ
公表されている。

内容は、静かな、あのオーストラリアの広大な牧場を舞台とした、どこまでも
静かな映画。
星はつけたくない。
オーストラリアが好きな人には、たまらない映画と思う。
「こういう人生があり、こういう環境で育った子どももいるのだなあ」と思いたい人には、
お勧め。
当時のオーストラリアといえば、世界でも2番目にリッチで、生活が楽な国として
ランクされていた。
メルボルン市にしても、世界でもっとも気候が温暖な都市として、知られていた。
その裏で、こういう世界もあったのか・・・、と。

物語は、1960年から始まる。
私がオーストラリアへ渡る、ちょうど10年前ということになる。
・・・いろいろ考える。

話を戻す。

いくら想像力が豊かでも、本を読んだだけでは、オーストラリアのあの広大な
牧場の景色は思い浮かんでこない。
登場人物の、ちょっとした動作やしぐさにしても、文章を通して読んだら、
日本人のそれをそれに重ねてしまうかもしれない。

映画がよくて、文学がつまらないと書いているのではない。
それぞれに一長一短があるということ。
ときにこうした映画を通して、たがいに補完しあうということもある。

が、残念ながら、映画のアカデミック性は、まだまだ弱い。
大学に、「映画学部」とか、「映画学科」というのが生まれるまでには、
まだ相当の時間がかかる。
(演劇学部というのは、あるが・・・。)
が、だからといって可能性がないわけではない。
映画を観て、人生を学び、真理を探究するという時代も、すぐそこまで来ているように
私は感ずる。

(補記)
 このところ劇場へ足を運ぶと、『20世紀少年』とかなんとかいう、
どこかあやしげな映画の予告編が流される。
どこかの宗教団体と結託してできた映画、という説もある。
あるいはどこかの宗教団体を批判した映画、という説もある。
どこか不自然、かつ不気味?

 もし、どこかの宗教団体が、あの映画制作を裏で操っているとしたら、
これは社会問題ということになる。
そうでないことを願うが、私はああいう映画は、お金を出してまでは観に
行かない。
予告編だけを観た印象では、イヤ~ナ感じ。
だいたいあんな映画が、第3作までつづくということがおかしい。
劇場映画として、劇場まであがってくるのがおかしい。
かなりの資金力が裏で働かなければ、とうていできない芸当である。

 あやしいぞ!
おかしいぞ!
一度、本気で調べてみたい!

(注※)Raimond Gaita(ライモンド・ガイタ)

Gaita attended St. Patrick's College, Ballarat (Victoria) Melbourne High
School(Victoria), University of Melbourne (BA Hons, MA) and University of Leeds
(PhD).
He is married to Yael Gaita, who is a teacher at The King David School, where she
teaches Hebrew. He has two children, Katerina and Eva and two step children, Dahlia
and Michelle.

ガイタは、聖パトリックのカレッジ、Ballarat(ビクトリア)、メルボルン高校(ビクトリ
ア)、メルボルン(オナーBA、MA)大学とリーズ(博士)大学に通う。彼はヤエルGaita
(その人はデイビッド学校王の教師)と結婚。彼女はヘブライ語の教授。彼には、2人の子
供たち、カテリーナとエヴァと2人の継子(Dahliaとミシェル)がいる。

(注)正しくは「レイモンド」だが、オーストラリアでは、「ライモンド」と発音する。
また(オナーBA)というのは、成績優秀者に与えられる学位をいう。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●基本的人生論

++++++++++++++++++

DVD『ディア・マイ・ファーザー』を
ほめてばかりいてはいけない。
DVDを観ながら、こんなことを考えた。

++++++++++++++++++

●裏切られる夫

 映画のストーリーを簡単に説明する。

 夫と妻、それに主人公の息子(ライモンド)の、3人家族。
しかし妻は、つぎからつぎへと男を乗り替え、浮気し放題。
あげくの果てには、夫の友人の弟ともできてしまう。
そしてその弟との間に、子ども(主人公にとっては、
種ちがいの妹)まで作ってしまう。

 が、夫は、静かにそれに耐える。
離婚を考えることもない。
妻はときどき夫のところへ帰ってきて、体を求める。
夫は、どこか冷やかさを残しながらも、そういう妻の求めに応ずる。
そういう家庭環境の中で、主人公の子ども(ライモンド)は成長していく。

 で、最後は、妻は睡眠薬を飲んで自殺。
友人の弟も自殺。
夫は心を病み、精神病院へ……。

 何とも悲惨なストーリーだが、それがこの映画の(柱)に
なっている。

●疑問?

 この映画を観ていて、第一の疑問は、「それほどまでに、よくできた男というのは、
本当にいるのか?」ということ。
あるいは、「それほどまでに妻を深く愛せる男というのは、本当にいるのか?」でも
よい。

 つまり(できすぎ)。
この(できすぎ)のところが不自然。
しかしこの話は、実話である。
となると、俳優が悪いということになる。

 映画に出てくる夫は、ハンサムで、かっこいい。
頭もきれそうだし、生活力もありそう。
何かのラブストーリーの主人公になっても、おかしくない。

 私たちは映画を観るとき、俳優を通して、その俳優の心をさぐる。
で、そこで脳みその中で、電気的ショートが起こる。
「こんなすばらしい夫をもちながら、どうして?」と。

 ……ということで、私は、事実は、少し違うのではないかと思う。
ライモンドの実際の父親は、どこか頼りなく、どこか抜けたような、どこか覇気のない
男性ではなかったか、と。
映画に出てくるような、かっこいい男性ではなく、風采のあがらない、なよなよした
男性ではなかったか、と。
これには、理由がある。

●基礎的人間性

 仮にあなたの妻が、外出しては、浮気を重ねていたとしよう。
そしてその浮気相手と、子どもまで、作ってしまったとしよう。
そのとき、あなたなら、どのように反応するだろうか。
それをほんの少しだけ、頭の中で想像してみてほしい。

 こういうケースのばあい、大きく分けて、2つの選択肢がある。

(1) 妻と大喧嘩を繰り返し、離婚を覚悟する。
(2) 妻の浮気を認め、妻のしたいようにさせる。

 が、主人公ライモンドの父親(夫)は、(2)のほうを選択する。
となると、ライモンドの父親は、ものすごい人生観の持ち主ということになる。
あるいは妻に対して、神々しいほどまでの愛を感じているということになる。
すべてを許し、すべてを忘れる……。

 が、ここで大きな壁にぶつかる。
それほどまでの(愛)となると、並大抵の努力では、自分のものにすることはできない。
幾多の苦労に苦労を重ねて、人生の極致に達した人だけがもちうる愛と考えてよい。
それにそこに至るには、熟成期間というのが、必要。
もし私のワイフが、そんなことを繰り返していたら、私なら、即、離婚を考えるだろう。
40年近くもいっしょに暮らし、もうすぐ62歳になる私にしてもそうだ。

 つまり、それが「基礎的人間性」ということになる。

 どんな人にも、その人なりの人間性というものがある。
その人間性を支える、(基礎)というものがある。
その基礎なくして、突然、その人が、神々しい愛をもつなどということは、常識で
考えても、ありえない。
空腹でおなかをすかした幼児が、自分のもっているパンを、友人に分け与えるようなもの
である。

●偽善

 いくつかの例をあげてみよう。

(例1) Kさんは、周囲の人たちから、高い評価を受けていた。
ボランティアとして、近所の独居老人宅を回り、その世話をしていた。
が、自分の親の介護になったとたん、豹変した。
親を虐待した。
親を食卓へ連れてくるときも、首をつかんだまま、廊下を引きずっていた。

(例2) Xさんは、有名なタレントだった。A国の難民救済運動家として活躍していた。
週刊誌や月刊誌にも、写真がよく紹介された。
が、あるカメラマンが、思わぬ光景を目撃してしまう。
情宣用の写真撮影が終わると、Xさんは、赤子を抱いた手や体を消毒薬で
消毒していたという。
つまり写真撮影のためだけに、難民の赤子を抱いていた。

(例3) Yさんも、このところ孤児救済のチャリティバザーを繰り返している。
ラジオに出ては、ボランティア活動の重要さを説いている。
しかしそこに至る実績はゼロ。
若い時から、ホームレスの世話をしたとか、食事の炊き出しをしたとか、
そういう背景と言うか、積み重ねがあれば話は別。
Yさんをよく知る某テレビ局のディレクターは、こう教えてくれた。
「Yさんは、いつも2時間くらいかけて、化粧をしています」と。

 こういうのを、私たちの世界では、「偽善」と呼ぶ。
善人ぶりながら、自分への評価を高め、最終的にはそれを自分への利益へとつなげていく。
こうした偽善を見破るのは、簡単。
どこかに(ちぐはぐさ)を感じたら、それは偽善と判断してよい。

●ディア・マイ・ファーザー

 DVD『ディア・マイ・ファーザー』に話を戻す。
この映画が実話なら、私はやはり、俳優の選択ミスということになる。
ライモンドの父親は、家具職人である。
鉄の棒を熱で曲げながら、いろいろな家具を作る。

 そういう職歴の男性が、こうまで高邁(こうまい)な愛を、はたして
もちうるものだろうか。
(何も、職人という職業がどうのこうのと言っているのではない。
しかしあまりにも、高邁すぎる?)

 それに若い。
映画の中では、30歳前後の男性として登場している。
つまり基礎的人間性が、それなりにあるとしても、映画で表現されているほどはない。
……という点で、不自然。
私はその(不自然さ)を感じてしまった。

 あとの判断は、映画を観た人に任せる。
「林の言ったとおりだな」と思う人もいるかもしれない。
あるいは「林の言っていることは、まちがっている」と思う人もいるかもしれない。
一度、そういう視点で、あの映画を観てみたらどうだろうか。
家庭で観て、損はない映画である。
よい映画であることには、まちがいない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 ライモンド レイモンド ディア・マイ・ファーザー オーストラリア映画 基礎的人間性 基礎人間性 周囲人間性)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●病気見舞い

+++++++++++++++++

冠婚葬祭というと、派手であればあるほどよい
と考える人は多い。
しかしそれはちょうど、子どもに与えるプレゼント
のようなもの。
高価なものであればあるほど、子どもは喜ぶはずと
親は考える。
しかし実際には、逆効果。
(物欲)には、麻薬性がある。
つぎに子どもは、つぎにもっと高価なものを求めるようになる。
また高価なものでないと、満足しなくなる。
さらに言えば、これを繰り返していると、子どもはかえってドラ息子化するだけ。

で、最近は、冠婚葬祭を質素にすます人がふえてきた。
(形)より(中身)、(中身)より(心)を求める人が、
それだけふえてきたと考えてよい。

++++++++++++++++

●山城新伍

 私の好きな俳優に、山城新伍という人がいた。
おととい(12日)、亡くなったという。
享年、70歳。
長い間、糖尿病を患っていたという。
その山城新伍について、ちょうど1年前(08年の8月)、
こんな原稿を書いていた。
(このとき母は、まだ特別養護老人ホームに入居していた。)

++++++++++++++++++++++

●見舞い

+++++++++++++++++

週刊B春の中で、映画俳優のYS(山城新伍)は、こう語っている。

記者が、「友人の方々が心配しているようです」と語りかけたことに対して、
「そんなもん、会いたくないやろ。それで連絡もとっていない。このまま
消えてしまいたいぐらいや」(「週刊B春・08・9・4日号」と。

YS(69歳)は、現在、特別養護老人ホームに入居している。
持病の糖尿病が悪化、今は介護なしでは、生活できないような状態らしい。

週刊B春のほうは、「消えてしまいたい」という言葉を、新聞広告の
見出しに並べていたが、私はその前の言葉のほうが、気になった。

YSは、こう言っている。

「そんなもん、会いたくないやろ」と。

同じような言葉を、以前、ある末期がんの人が言っていたのを思い出した。
「だれにも会いたくない」「本当に心が安まる人だけと、静かに時間を過ごしたい」と。

それを心配するまわりの人たちは、(本気で心配しているかどうかという問題もあるが)、
「会いたい」と思うかもしれない。
「相手は、私に会いたがっているはず」と思うかもしれない。
しかし当の本人にとっては、ありがた迷惑。

私も母の介護をしていて、それを感じたことがある。

ときどき親類の人たちや、元近所の人たちから、「見舞いに行きたい」などというような
連絡を受ける。
しかし私はそういう申し出を、たいてい、ていねいに断るようにしている。
私の立場というよりは、母の立場で、断わるようにしている。

仮に私が母なら、だれにも会いたくない。
「だれも見舞いに来なければ、さみしいだろう」と、その人は思うかもしれない。
が、それこそ、いらぬお節介。
母にしても、本当に会い人などというのは、そうはいない。
家族とか親友、その範囲の数人と考えてよい。

母にしても、自分の無様(ぶざま)な姿など、見せたくもないだろう。
が、無神経な人は、それほど親しくもないのに、「喜んでくれるはず」と、
勝手にそう決めて、やってくる。

さらに無神経な人は、興味本位で電話をかけてくる。
「お母さんの、具合はいかがですか?」と。

母は元気なころ、陰で、その人の悪口ばかり言っていた。
そういう母の気持ちを私はよく知っている。
だから、断る。

YSは、そういう心情を、率直に表現した。
「そんなもん、会いたくないやろ」と。

週刊B春によれば、こうある。

「実は今年の春先、山城の友人や知人の間で、山城の所在を
めぐり、ちょっとした騒動が持ちあがっていたのである。
『S伍の携帯に何度かけても、つながらないんだ。こっちが
いやがっても電話をしてくるような男なのに、何かあったんじゃ
ないだろうか」
「どこかの病院に入院したと聞いたんだが、S吾が、『面会に
来ないでくれ』と言っているそうだ」と。

治る見込みのある病気ならまだしも、そうでない病気なら、
そうかもしれない。
私自身は、まだそういう大病を経験していないので、本当の
ところ、YSの心情を理解できるというわけではない。
しかし私がYSの立場なら、おそらくYSと同じように考えるに
ちがいない。

希薄な人間関係など、いくら重ねても、自分の心の隙間を
埋めることはできない。
かえって騒々しいだけ。
わずらわしいだけ。
それがわからなければ、都会の雑踏の中をひとりで歩いてみることだ。

相手がそういう状態なら、そっとしておいてやることこそ、思いやり。
相手から「会いたい」という連絡でもあれば、話は別だが、
そうでないなら、そっとしておいてやる。

これは人生の末期にいる人たちへの、たいへん重要なマナーのひとつと
考えてよい。

Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●「形」だけの人間社会

++++++++++++++++++++

形だけの言葉、形だけのあいさつ、形だけの心配、
形だけの喜び、形だけの行為、形だけの悲しみ……。

ふと気がついてみると、私のまわりには、「形」だけ……
ということは多い。
私も他人に対してそうだし、他人も、私に対してそうである。

身内にも、それがある。
親子にも、それがある。
夫婦にも、それがある。

++++++++++++++++++++

総じてみれば、この世は「形」だけ。
そう言い切るのは、少し乱暴すぎるかもしれないが、
否定するのは、もっとむずかしい。
つまりまず形をつくって、自分への責任を回避しようとする。
それだけ人間関係が希薄になったとも考えられる。
あるいは人間関係が広がりすぎ、その分だけ複雑になったとも考えられる。

そのつどいちいち心を入れていたら、それこそ身がもたない。
よい例が、冠婚葬祭
とくに葬儀。
葬儀は、「形」の集合。
私は兄の葬儀のときに、そう感じた。

何からなにまで「形」が決まっていて、まるで流れ作業のよう。
形、形、形……また、形。
線香の立て方から、焼香のしかた、さらには僧侶への礼の仕方まで。
「形」から踏み出すことを、みな、恐れているかのようですらあった。喪主ということで、
葬儀社の人から、ことこまかく、指示を受けた。

それぞれが自分のやり方をしたら、かえって葬儀が混乱してしまう。
参列する人にしても、そうだろう。
しかし、葬儀といえども、どうして個性的であってはいけないのか。
自分で考えた葬儀では、どうしていけないのか。

「形」を決めておけば、楽は楽。
しかしそうした葬儀のあり方には、疑問ばかりが残る。

というのも、兄は、生前において人間関係が、きわめて希薄だった。
弟という私に対しても、一度だって、何かの祝いをしてくれたことはない。
結婚したときも、子どもが生まれたときも……。
そういう意味では、生まれながらにして、きわめて依存心の強い人だった。
生活能力も、ほとんどなかった。

そういう兄を、母は、よく「生まれつき」と言ったが、
生まれつきそうであるかどうか、そんなことがわかる親はいない。
病院の医師だってそうだろう。

母の異常なまでの溺愛と過関心、過干渉が、兄をして、兄のような
人間にした。

だから葬儀に来た人の中でも、兄と個人的な思い出、あるいは
つながりのある人は、ほとんどいなかった。
この私ですら、9歳、齢が離れていることもあったが、
一度とて、兄といっしょに遊んだ記憶そのものがない。

むしろそういう兄であったがために、私に対する社会的重圧感には、
相当なものがあった。
経済的重圧感というより、社会的重圧感である。
とくにあのG県の郷里では、それを許してくれなかった。
「家意識」も色濃く残っている。
それこそ「借金をしてでも、実家を守れ」と言う人さえいる。
「兄のめんどうは、弟のお前がみるべき」と。

だから参列に来てくれた人たちが、それなりにしおらしい顔をして、
「ご愁傷様です」などと言ってくれても、私にはピンとこなかった。
私のほうも、それらしい顔をして、「ありがとうございます」と答える。

形だけの心配、形だけのあいさつ、形だけの言葉。
晩年の兄が感じていただろう(孤独)にしても、それを孤独として
本当に理解していた人は、何人いただろう。
仮に理解していたとしても、だれにも、何もできなかった。

だからといって、いいかげんな葬儀でよかったと言っているのではない。
むしろ、その逆。
そういう兄だったからこそ、私は人並み以上の葬儀に……と思った。
広い会場だったこともあり、参列者はガラガラだった。
空いている椅子は、参列者の数倍は、あった。

で、結局、何ごともなかったかのように、葬儀は終わった。
だれも、兄が背負ったであろう孤独感や絶望感について話題にしなかった。
(もちろん私も、しなかった。)
死んだ人は、仏……ということか。
あるいは「終わった人は、終わり」ということか。
食べて、飲んで、雑談をして、おしまい。

それも「形」なのかもしれない。
が、だとするなら
葬儀というよりは、「人の死」とは何かということになる。
さらに言えば、「命」とは何かということになる。

こうして1人の人間が、あたかも何ごともなかったかのように、
この世から消えた。
その人間にしてみれば、この宇宙もろともに、である。

葬儀……もっと心を大切にすべきではないか。
故人の心を、である。
でないと、それこそ兄の死は、本当に無駄死で終わってしまう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 山城新伍 山城S伍 形だけの人間関係)

+++++++++++++以上、08年8月記+++++++++++++

●「そんなもん、会いたくないやろ」

 山城新伍は、こう言ったという。
「そんなもん、会いたくないやろ」と。

 この一言だけで、山城新伍を判断するわけではないが、しかしこの
一言だけでも、山城新伍は、ものすごい人ということがわかる。
大物というか、自分に正直。
だれしも山城新伍のような生き方をしたいと思いつつ、それができないでいる。
見栄や体裁に振り回される。

 こんなことがあった。

 私の母が死んでちょうど1年になる。
その当時を思い出しながら、ある女性(66歳)がこう言った。
「もっと、あなたのお母さんを見舞ってやればよかった」と。

 私はその言葉を聞いて、その女性の自己中心性に驚いた。
まるで自分のことがわかっていない。
生前、母は、その女性のことをたいへん嫌っていた。
私が知るかぎり、死ぬ間際まで、嫌っていた。
母にしてみれば、見舞いに来てほしくない第一の女性だった。
そんな女性が、自分だけの判断で、「もっと見舞ってやればよかった」とは!

 またこんな話もある。

 ワイフの友人(55歳・女性)が、子宮筋腫の手術で、1週間ほど
病院に入院した。
それについて、ワイフの友人は、そのことをだれにも話さなかった。
自分の夫にすら、「だれにも言わないでほしい」と念を押していたという。

 さらにこんな話もある。
このことは以前にも書いたが、Yさんという友人の夫(43歳)が、交通事故
で入院した。
それについて夫の友人の1人が、その日のうちにあちこちへ電話をかけ、みなに
知らせてしまった。
親切心からそうしたのだろうが、Yさんの気持ちを、先に確かめるべきだった。
Yさんは、こう言った。
「入院したその日に、ドヤドヤと、いろいろな人が見舞いに来て、その応対だけで
疲れてしまいました」と。

 見舞いといっても、みながみな、それを望んでいるわけではない。
また来てほしい人というのは、かぎられている。
で、それなりの立場でないなら、安易に見舞うというのは、やめたほうがよい。
かえってありがた迷惑になるだけ。
Yさんのケースにしても、そっとしておいてやることこそ、大切。

 もう一例、こんな話もある。

 2年前に、私の友人が亡くなった。
で、その初盆が昨年の7月にあった。
私はすっかりその日を忘れてしまっていた。
(私の生まれ故郷では、8月に盆供養をする習わしになっている。)

 それでそれをわびるために出向くと、奥さんは、こう言った。
「正直に言いますとね、初盆のほうが、葬式よりたいへんでした。
そのあと体の調子を崩してしまい、1週間ほど、寝込んでしまいました」と。

 周囲の人にしても、そうだ。
「親だから・・・」「子だから・・・」という理由だけで、それを前提として
ものを考えてはいけない。
親といってもさまざま。
子どもといってもさまざま。
親子関係となると、さらにざまざま。
「親の顔を見るだけで、ゾッとする」という人もいる。
「子の顔を見るだけで、ゾッとする」という人もいる。
それがわからないのは、あなただけ。

 いろいろなケースがある。
しかしこと病気の見舞いとなると、それを望まない人のほうが多いのでは?
(あるいは私の意見が、否定的すぎるかな?)
そこで大切なことは、一度家族の人の意見を聞いてみるということ。
その上で、見舞いに行くかどうかを決めればよい。
「私が見舞いに行けば、相手は喜ぶはず」という、「ハズ論」だけでものを
考えてはいけない。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 見舞い 病気見舞い エチケット)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●リバウンド(?)

+++++++++++++++++

飢えた摂取細胞が、猛烈な勢いで、
反撃に転じている……らしい。
今朝、体重を測定したら、2キロオーバーの
62・5キロ。

ここ2日、風邪気味。
病院で出してもらった
薬をのむためには、食事をきちんと
とらなければならない。
それが災い(?)した。
加えて、休みに入って、運動不足?

今日からしばらく、菜食主義+2食。
このあと、サイクリングをしてくる。
目標は、佐鳴湖一周。

それにしても、たった1日で2キロとは!

+++++++++++++++++

●使わない筋肉は、衰える?

 こんなおもしろい現象を経験しつつある。
2週間ほど前、ジョギング中に、こむら返りを経験した。
突然、足がひきつって、歩けなくなった。
それから数日間、歩くのもままならなかった。
が、自転車をこいでみて、驚いた。
そんな足でも、自転車のほうは、平気!
いつものようにスイスイと自転車をこぐことができた。

 ジョギングで使う足の筋肉と、サイクリングで使う
足の筋肉は、ちがうらしい。
言い換えると、ジョギングで鍛えたからといって、
サイクリングができるようになるとはかぎらない。
サイクリングで鍛えたからといって、ジョギングが
できるようになるとはかぎらない。

 こういうのを専門用語で、「廃用性機能低下」という。
平たく言えば、「使っていない機能は、低下する」ということ。
何も筋肉にかぎらない。
脳みそだって、そうだ。
それが顕著に現れるのが、(ものを書く力)。

 しばらくものを書いていないと、とたんに勘が鈍る。
パソコンに向かっても、文そのものが、わいてこない。
書いても、考えがまとまらない。

 仮にこんな生活を半年とか1年もつづけたら、
それこそ本当に文章を書けなくなってしまうだろう。
しかしこのことは、別の重要な教訓を、私たちに
教えている。

 ある特定のことに秀(ひい)でることはよいとしても、
そればかりに集中していると、そのほかの部分が、
おろそかになるということ。
機能そのものが、低下する。
体を鍛えるにしても、脳を鍛えるにしても、いつも(全体)
を見ながら、鍛える。
毎日ジョギングしているから、それでよいということには
ならない。
文章を毎日書いているから、それでよいということには
ならない。
「廃用性機能低下」というのには、そういう意味も含まれる。
 
 たとえば知人の中に、何かにつけて、こまかいことに
こだわる女性(60歳)がいる。
実にこまかい。
孫の話などをするときも、不必要なことまで話す。
「靴下の色はどうだった」「汚れていた」「実家へ来るなら、
(嫁は)洗濯した靴下をはかせるべきだ」とかなど。

 一見、よく気がつく女性に思うかもしれないが、その
ほかの部分は、眠ったような状態になっている。
つい1週間前の約束すら、忘れてしまう。
少し難解な説明書になると、読んでそれを理解することも
できない。
つまり脳みそでも、使っている部分は、ほんの一部と
いうことになる。
そのほかの部分は、機能そのものが低下してしまっている。
こうした現象も、「廃用性機能低下」という言葉で
説明できる。

 ではどうするか。

 体にせよ、脳にせよ、いろいろな場面で、いろいろな方法で
使う必要がある。
そのためには、生活そのものを豊かにする。
バラエティ豊かなものにする。
単調でマンネリ化した生活は、体にとっても、また脳みそにとっても、
よくない。

 さて今日から数日、またまた苦しい闘いが始まる。
まだ咳が少し残っている。
体重が60キロに戻るまで、がんばろう!

 ……では、これからサイクリングに!
時刻は、午前6時、少し前。
雲が多いが、その向うに水色の澄んだ空が見える。
サイクリングをするには、よい朝だ。

 では、みなさん、おはようございます!

2009年8月14日、金曜日

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 廃用性機能低下)


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