2009年8月5日水曜日

*Families and Blood Relatives

【家族、そして親戚づき合い】(Families and Blood Relatives)


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家族にもいろいろある。
親戚づきあい。
それにも、いろいろある。
人それぞれ。
みな、ちがう。

家族にせよ、親戚づきあいにせよ、
たがいに良好なら、まだよい。
救われる。
そうでないなら、そうでない。

しかしひとたびこじれると、親戚であるがゆえに、
他人以上の他人になる。
ささいなことでも、はげしく衝突するようになる。
憎しみあい、ののしりあうようになる。

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●姉妹の確執

 最近、A子さん(40歳)は、姉のB子さん(42歳)と縁を切った。
一切、行き来は、なし。
しかしその理由を知る人は少ない。 
A子さんも、それについては、人に話さない。

 A子さんの夫が、姉のB子さんと、不倫関係をもってしまった。
夫のほうが、B子さんに言い寄った。
悪いのは夫、ということになる。
が、いろいろ事情があって、A子さんは、離婚にまでは踏み込めないでいる。
A子さんの心中は、複雑。

●親子の縁
 
 C氏(55歳・男性)は、この10年以上、母親に会っていない。
その母親が、昨年、脳梗塞で倒れた。
伯父から連絡を受けた。
が、C氏は、見舞いにも行っていない。
が、それにも、理由がある。

 C氏は、母親と別の男性との間に生まれた、不倫の子だった。
気がついたのは、学生時代のことだった。
ほかの3人の兄弟(兄2人、妹1人)と、血液型が符合しなかった。
で、念のためにと、DNA鑑定をしてもらった。
結果、C氏だけは、別の男性の子であることがわかった。
C氏はこう言う。

 「父はもう死んでいるから、本当のことを話してほしい。
しかし母は、いまだにとぼけている。
私はそれが許せない」と。

●外面(そとづら)と内面(うちづら)

 外面と内面が、まったく異なる人は、珍しくない。
外の世界では、神のような人物を演ずる。
しかし家の中では、まったくの別人。
わがままで、自分勝手。
Dさん(80歳、女性)も、その1人。
「超」の上に、さらにもうひとつ「超」がつくほど、わがまま。
自分勝手。

 嫁がつくる食事を、「まずい!」と言っては、嫁に投げつける。
息子には、「遺産(=土地)がほしければ、今、お前の貯金をよこせ!」と怒鳴る。
あるいは泣き声で、懇願する。

 が、他人の視線を感じたとたん、豹変する。
表情まで、別人になる。

●親子関係

 その家には、その家の人たちだけにしかわからない、裏の事情というものがある。
外の人には、それはわからない。
が、外の人は、表面的な部分だけを見て、判断をくだす。
自分の意見を添える。
しかしこういう判断や意見は、当事者たちを、とことん傷つける。
ある人(男性、50歳)は、こう言った。

 「それは心臓をえぐられるような苦しみです。
そういう経験のない人には、理解できないでしょう」と。

 とくに親子関係というのは、本能に近い部分にまで刷り込みがなされている。
それを断ち切るのは、容易なことではない。
実際には、不可能。
だから、もがく。
苦しむ。

 親戚関係にしても、そうだ。
そこに至るまでには、長い歴史というものがある。
かさぶたの上に、かさぶたが重なり、傷口にしても、原型をとどめないほどまでに、
複雑になっている。
そういうケースは多い。

●神経戦

 「村八分」という言葉がある。
「今では、死語になっている」と説く人もいる。
「遠い、昔の話」と。
しかし現実には、残っている。
ここにも、そこにも、どこにでも残っている。
「村」という単位ではなく、「親戚」という単位となると、もっと多い。

 が、「八分」にする人も、またされる人も、とことん神経をすり減らす。
すり減らしながら、神経戦を繰り返す。
果てしない消耗戦と言ってもよい。
それが5年、10年単とつづく。

●ダカラ論
 
 要するに、たとえ親戚であっても、家族の問題には、首をつっこまないこと。
相手の側から相談でもあれば、話は別だが、そうでなければ、そっとしておいて
やる。
それが思いやりというもの。
まちがっても、安易な『ダカラ論』や、『スベキ論』で、相手を責めてはいけない。

 私もいろいろあって、この『ダカラ論』や、『スベキ論』に苦しんだ。

 「お前は、子だろ」「お前は、大学まで出してもいらっただろ」「産んでもらった
だろ」「育ててもらっただろ」と。
「いくら事情があっても、親は親だからな」と言ってきた人もいた。
「だから、お前は~~すべき」と。

●「親戚」という呪縛

 今、「親戚」という足かせの中で、もがき、苦しんでいる人は多い。
こうした原稿をBLOGなどで発表すると、ものすごく多くの人たちから、反響が届く。
「私も……」「私も……」といった感じである。

 「正月に実家へ帰ると考えただけで、頭が痛くなります」といったレベルの
人まで含めると、3人に1人くらいはいるのでは?
つぎのような原稿があるのを思い出した。
日付を見ると、06年となっている。
今から3年前の原稿である。

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【親子の確執】

フロッピーディスクを整理していたら、

こんな相談が出てきた。



そのときは相談してきた方の立場になって、

それなりに返事を書いたつもりでいる。



しかし、記憶というのは、いいかげんな

もの。「そういうことがあったな」という

程度には、思い出せるが、そこまで。

もし偶然であるにせよ、その相談を見ることが

なかったら、私は、そんな相談があった

ことすら、思い出すこともなかっただろう。



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 何枚かのフロッピーディスクを、整理していたら、こんな相談が出てきた。パソコンからパソコンへの原稿の移動には、私は今でも、フロッピーディスクを使っている。



 まず、そのときの相談を、そのままここに転載する。当時、相談をしてきた方から、転載許可をもらった記憶だけは残っている。



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【YDより、はやし浩司へ】



 以前にもご相談させていただきましたYDです。 今回は私と実父とのことで、ご相談をお願いしたいと思いました。 



18歳のときに、私は、今の主人とつきあい始めました。そのときは、私が進路未定の状態だったので、私たちの交際は、猛反対されました。 



幼稚だった私は当時、交際を隠し続けていたのですが、結局、親が知るところとなり、私は家を飛び出し、主人の所に転がり込む形で、家族との縁を切りました。そのときから体の不調が始まり、主人と同棲を始めると同時に、自律神経失調症とわかり、一年間、薬の服用をしました。(主治医の先生によると、「おびえ」という症状との見解でした。)



 実家とは絶縁状態のまま結婚、出産し、4年が過ぎたころ、実母が亡くなり、家の敷居をまたぐになりましたが、実父との関係は、今でも修復されないままでいます。



 母は子供の頃から誰にも言えない胸のうちでも、私には話せるようで、愚痴の聞き役のような感じでした。家を出てからも、父に隠れながら、毎日のように電話をくれました。しかし私の話より、自分の愚痴や不安を聞かされ、私が励ます内容の電話が多かったと思います。そのせいか、私は心のどこかで、父を軽蔑していると自分では思っています。

 

 母が亡くなった事で、法事などで実家に行くこともありますが、主人は父を嫌って極力実家には近づこうとしません。父にはそれがもの凄く不満のようで、「もっと先祖(=私)を大事にしてくれ」と訴えるのですが、主人は、自分の両親・姉でさえとも一線を引くようなところがあり、自分と合わない人間とは付きあわないところがあります。主人の気持ちも考えると、どちらにも強く言えないでいます。 



 このお正月に母のお墓参りに行きましたが、場所が北海道と遠いこともあり、また車で行くということもあり、雪も降ったあとだったので、詳しい日程が立てられないまま行きました。



 結局、予定より2日も余裕ができたので、叔父達に会いに行くことができましたが、事前に詳しく連絡を入れていなかったことで、父に迷惑がかかり、怒られる結果となりました。



 父は「相手の立場に立って思いやりを持って行動すべきだ。相手にも都合がある。正月という時期だから、余計に考えるべきだった。自分(=父)が何も知らせないで、勝手に決めすぎだ」と言われましたが、今回は行き当たりばったりで、皆に迷惑をかけたのは確かだと、自分では思っています。 



 事前に父に密に予定を話しておけば良かったことなのですが、私自身ごちゃごちゃ言われたくないから、最低限のことだけ伝えればいいやと、父とのコンタクトを避けてしまった結果だと、自分では思っています。 



 父は、私の家族であるリーダーは主人だから、私に言っても仕方なく、主人が考え、行動すべきことであり、主人と話をすることを考えていると言っています。私は主人の性格を考えると、余計に父を疎ましがるのではないかと思い、まずは私が父とコミュニケーションを取れるようにならなければ、今の関係の改善は難しいと思うのですが。



 また、私たち家族が出向くことによって父が、叔父達に「よろしくお願いします」「お世話になりました」と動けるように、私たちから働きかけるべきなのでしょうか? 父にその必要があるのなら、父から聞いてくればいいのにと、どこか反発心もありながら、社会を見ないまま家庭に入った身として、常識に欠けているのか判断ができずにいます。まず何から改善すべきか見出せない現状です。



 文章が支離滅裂でお恥ずかしいのですが、先生はどう感じたでしょうか? 聞かせていただけるととても嬉しいです。



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当時のことを思い出すために、

YDさんからの相談を、自分の

原稿集の中で、検索してみた。



で、さらに驚いたことに、この相談を

もらったのは、(06年 FEB)とある。



つまり今年の2月!



私はたった9か月前のことすら、

もう忘れてしまおうとしている!



ついでにそのときYDさんに書いた

返事を、そのままここに載せる。



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●「家族」とは何か?



 多くの人にとっては、「家族」は、その人にとっては、(心のより所)ではあるが、しかし一度、歯車が狂うと、今度は、その「家族」が、重圧となってその人を苦しめることがある。ふつうの苦しみではない。心理学の世界でも、その苦しみを、「幻惑」と呼んでいる。



 そういった「家族」全体がもつ、束縛意識、結束意識、連帯意識を総称して、「家族自我群」と呼ぶ学者もいる。こうした意識は、乳幼児期から、親を中心とする家族から本能に近い部分にまで刷りこまれている。そのため、それから自らを解放させることは、容易なことではない。



 ふつう、生涯にわたって、人は、意識することがないまま、その家族自我群に束縛される。
「親だから……」「子だから……」という、『ダカラ論』も、こうした自我群が背景となって生まれる。



 さらにこの日本では、封建時代の家督制度、長子相続制度、権威主義などが残っていて、親子の関係を、特別視する傾向が強い。私が説くところの、「親・絶対教」は、こうして生まれたが、親を絶対視する子どもは、少なくない。



 が、ときに、親自身が、子どもに対して、その絶対性を強要することがある。これを私は「悪玉親意識」と呼んでいる。俗に言う、親風を吹かす人は、この悪玉親意識の強い人ということになる。こういう人は、「親に向かって、何てことを言うのだ!」「恩知らず!」「産んでやったではないか!」「育ててやったではないか!」「大学まで出してやったではないか!」というような言葉を、よく口にする。



 もともと権威主義的なものの考え方をする傾向が強いから、人とのつながりにおいても、上下意識をもちやすい。「夫が上、妻が下」「男が上、女が下」と。「親が上で、子が下」というのも、それに含まれる。さらにこの悪玉親意識が強くなると、本来なら関係ないはずの、親類の人たちにまで、叔父風、叔母風を吹かすようになる。



 が、親子といえども、基本的には、人間対人間の関係で、決まる。よく「血のつながり」を口にする人もいるが、そんなものはない。ないものはないのであって、どうしようもない。観念的な(つながり)を、「血」という言葉に置きかえただけのことである。



 で、冒頭に書いたように、(家族のつながり)は、それ自体は、甘美なものである。人は家族がもつ安らぎの中で、身や心を休める。が、それには、条件がある。家族どうしが、良好な人間関係を保っているばあいのみ、という条件である。



 しかしその良好な人間関係にヒビが入ると、今度は、逆に(家族のつながり)が、その人を苦しめる、責め道具になる。そういう例は、多い。本当に多い。子ども自身が、自らに「親捨て」というレッテルを張り、生涯にわたって苦しむという例も少なくない。



 それほどまでに、脳に刷りこまれた(家族自我群)は、濃密かつ、根が深い。人間のばあい、鳥類とは違い、生後、0か月から、7~8か月くらいの期間を経て、この刷りこみがなされるという。その期間を、「敏感期」と呼ぶ学者もいる。



 そこで、ここでいう家族自我群による束縛感、重圧感、責務感に苦しんでいる人は、まず、自分自身が、その(刷りこみ)によって苦しんでいることを、知る。だれの責任でもない。もちろんあなたという子どもの責任でもない。人間が、動物として、本来的にもつ、(刷りこみ)という作用によるものだということを知る。



 ただ、本能的な部分にまで、しっかりと刷りこまれているため、意識の世界で、それをコントロールすることは、たいへんむずかしい。家族自我群は、意識の、さらにその奥深い底から、あなたという人間の心を左右する。いくらあなたが、「縁を切った」と思っていても、そう思うのは、あなたの意識だけ。それでその刷りこみが消えるわけではない。



 この相談を寄せてくれた、YDさんにしても、家を出たあと、「体の不調が始まり、主人と同棲を始めると同時に、自律神経失調症とわかり、一年間、薬の服用をしました」と書いている。また実母がなくなったあとも、その縁を断ち切れず、葬儀に出たりしている。

 

 家族自我群による「幻惑」作用というのは、それほどまでに強力なものである。



 で、ここで人は、2つの道のどちらかを選ぶ。(1)家族自我群の中に、身を埋没させ、安穏に、何も考えずに生きる。(2)家族自我群と妥協し、一線を引きながらも、適当につきあって生きる。もう1つ、本当に縁を切ってしまうという生き方もあるが、それはここでは考えない。



 (2)の方法を、いいかげんな生き方と思う人もいるかもしれないが、自分の苦しみの原因が、家族自我群による幻惑とわかれば、それなりにそれに妥協することも、むずかしくはない。
文字が示すとおり、「幻惑」は、「幻惑」なのである。もっとわかりやすく言えば、得体の知れない、亡霊のようなもの。そう考えて、妥協する。



 YDさんに特殊な問題があるとすれば、あくまでもこのメールから私がそう感ずるだけだが、それはYDさん自身の、依存性がある。YDさんは、親に対してというより、自分自身が、だれかに依存していないと、落ち着かない女性のように感ずる。そしてその依存性の原因としては、YDさんには、きわめて強い(弱化の原理)が働いているのではないか(?)。



 自信のなさ、そういう自分自身を、YDさんは、「幼稚」と呼ぶ。もう少し精神的に自立していれば、自分をそういうふうに呼ぶことはない。YDさんは、恐らく幼いときから、「おまえはダメな子」式の子育てを受けてきたのではないか。とくに父親から、そう言われつづけてきたように思う。



 そのことにYDさん自身が気づけば、もっとわかりやすい形で、この問題は解決すると思われる。



 あえてYDさんに言うべきことがあるとするなら、もう親戚のことや、父親のことは忘れたほうがよいということ。YDさんがもっとも大切にすべきは、夫であり、父親ではない。いわんや、郷里へ帰って、親戚に義理だてする必要など、どこにもない。それについてたとえYDさんの父親が、不満を言ったとしても、不満を言う、父親のほうがおかしい。それこそまさに、悪玉親意識。YDさんは、すでにおとな。親戚にまで親風を吹かす父親のほうこそ、幼稚と言うべきである。詳しくは、このあとそれについて書いた原稿を添付しておく。



【YDさんへ……】



 お元気ですか。ここまでに書いたことで、すでに返事になってしまったようです。



 私のアドバイスは、簡単です。あなたの父親のことは、相手のほうから、何か助けを求めてくるまで、放っておきなさい。あなたがあれこれ気をもんだところで、しかたのないことです。またどうにもなりません。



 父親が何か苦情を言ってきたら、「あら、そうね。これからは気をつけます」と、ケラケラと笑ってすませばよいのです。何も深刻に考えるような問題ではありません。



 あなたの結婚当初の問題についても、そうです。いつまでも過去をずるずると引っぱっていると、前に進めなくなります。



 で、もっと広い視野で考えるなら、そういうふうにYDさんを苦しめている、あるいはその原因となっているあなたの父親は、それだけでも、親失格ということになります。天上高くいる神なら、そう考えると思いますよ。



 本来なら、そういう苦しみを与えないように、子どもを見守るのが親の務めです。あなたの父親は、結果としてあなたという子どもを苦しめ、悲しませている。不幸にしている。だから、あなたの父親は、親失格ということになるのです。



 そんな父親に義理立てすることはないですよ。



 今は、一日も早く、「ファーザー・コンプレックス(マザコンに似たもの)」を捨て、あなたの夫のところで、羽を休めればよいのです。あなたの夫と、前に進めばよいのです。あなたの夫が、「実家へ行きたくない」と言えば、「そうね」と、それに同意すればよいのです。



 私は、あなたの夫の考え方に、賛成します。同感で、同意します。



 では、今日は、これで失礼します。



 出先で、この返事を書いたので、YDさんとわからないようにして、R天日記のほうに返事を書いておきます。お許しください。



【YDさんより、はやし浩司へ】



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私が返事を書いた、翌日、

YDさんより、こんな

メールが届いた。



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はやし先生



 先ほど楽天日記を読ませていただきました。



心が楽になりました。ありがとうございまいた。



 家族自我群にあてはまるのだと教えて頂き、とても感謝しています。先生のホームページから勉強させて頂きマガジンからも勉強させていただいていますが、私は自分の都合の良い情報ばかりを集めて自分を正当化しようと思っているのではないかと思っていました。



 先生のお書きになった通り、私は依存性が強い人間です。主人と付きあい始めた当初は自分でも思い出したくないくらいです 苦笑。そして父から褒められた記憶はありません。



 父は「言って聞かないなら殴る。障害者になってもいいんだ」という教育方針で、私が何か悪いことをすると、殴られるのは当たり前でした。お説教の最中に物が飛んでくるのもよくあることでした。なので、父からのお説教があってしばらくはもう二度と可愛いと思ってもらえないかもしれないという恐怖心は強かったと、今になると思います。



 それでも、学校をさぼったりしていたのは、何でだったのか、まだ当時の自分を自己分析できずにいますが・・・。



 「大切にされた記憶がない」と話すと、父は、「毎週(月曜日に剣道に通っていたのですが、終わるのが夜の9時でした)、迎えに行っていたのになぁ」と言われた事があります。私が父の愛情に気付いていなかっただけなのか、自分がされた嫌な事だけしか覚えていないから私は自分を悲劇のヒロイン化させているのかと思っていました。



 その反面、(私は中学生でしたが)、当時の心境は、「夜遊びに走らないように監視されている」のが本当のところではなかったのかと思います。きっとその頃からひずみはすでに始まっていたんでしょう・・・。



 自分では私は「アダルトチルドレン」に入るのではないかと思っています。社会との繋がりがうまく持てない焦りから、今の自分のままでは子供達の成長に良くないのではないかと焦っています。父に「親や、その親、親の兄弟あってのお前なんだから、まわりを大切にすべきだ」と強く言われる事で、自分を見失ってしまいました。



 父の事を思い起こすと未だに震えが起こるので、きちんと文章になっているのか不安ですがお時間を割いて頂きありがとうございました。



 追伸・「ユダヤの格言xx」という本の中で、「父親の生き方から夫の生き方に変え、逆境のときは夫を支え、喜びを分かち合い、女中を雇う余裕があっても怠けることなく、話をしてくるものにはわけへだてなく対応し、困っている人には手を差し伸べる」(ユダヤ人の伝統的な良き妻の像)と言う説を手帳に書き写したことがあります。楽天の日記を読ませていただきこの事を思い出しました。 



 個人的なのですがこの本の先生の見解にとても興味があります。

 長々と読んでいただきありがとうございました。



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● 悪玉親意識



悪玉親意識についての原稿を添付しておきます。



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●悪玉親意識



 親意識にも、親としての責任を果たそうと考える親意識(善玉)と、親風を吹かし、子どもを自分の思いどおりにしたいという親意識(悪玉)がある。その悪玉親意識にも、これまた二種類ある。ひとつは、非依存型親意識。もうひとつは依存型親意識。



 非依存型親意識というのは、一方的に「親は偉い。だから私に従え」と子どもに、自分の価値観を押しつける親意識。子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしようとする。子どもが何か反抗したりすると、「親に向って何だ!」というような言い方をする。



 これに対して依存型親意識というのは、親の恩を子どもに押し売りしながら、子どもをその「恩」でしばりあげるという意識をいう。日本古来の伝統的な子育て法にもなっているため、たいていは無意識のうちのそうすることが多い。親は親で「産んでやった」「育ててやった」と言い、子どもは子どもで、「産んでもらいました」「育てていただきました」と言う。



 さらにその依存型親意識を分析していくと、親の苦労(日本では、これを「親のうしろ姿」という)を、見せつけながら子どもをしばりあげる「押しつけ型親意識」と、子どもの歓心を買いながら、子どもをしばりあげる「コビ売り型親意識」があるのがわかる。



 「あなたを育てるためにママは苦労したのよ」と、そのつど子どもに苦労話などを子どもにするのが前者。クリスマスなどに豪華なプレゼントを用意して、親として子どもに気に入られようとするのが後者ということになる。



 以前、「私からは、(子どもに)何も言えません。(子どもに嫌われるのがいやだから)、先生の方から、(私の言いにくいことを)言ってください」と頼んできた親がいた。それもここでいう後者ということになる。

 これらを表にしたのがつぎである。



   親意識  善玉親意識

        悪玉親意識  非依存型親意識

               依存型親意識   押しつけ型親意識

                        コビ売り型親意識

 

 子どもをもったときから、親は親になり、その時点から親は「親意識」をもつようになる。それは当然のことだが、しかしここに書いたように親意識といっても、一様ではない。はたしてあなたの親意識は、これらの中のどれであろうか。一度あなた自身の親意識を分析してみると、おもしろいのでは……。



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もう1作……



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●子育て、はじめの一歩



 先日、あるところで講演をしたら、一人の父親からメールが届いた。いわく、「先生(私のこと)は、親は子どもの友になれというが、親子にも上下関係は必要だと思う」と。



 こうした質問や反論は、多い。講演だと、どうしても時間的な制約があって、話のあちこちを端(はし)折ることが多い。それでいつも誤解を招く。で、その人への説明……。



 テレビ番組にも良質のものもあれば、そうでないのもある。そういうのを一緒くたにして、「テレビは是か非か」と論じても意味がない。同じように、「(上下意識のある)親意識は必要か否か」と論じても意味はない。親意識にも、つまり親子の上下関係にも、いろいろなケースがある。私はそれを、善玉親意識と、悪玉親意識に分けている。



 善玉親意識というのは、いわば親が、親の責任としてもつ親意識をいう。「親として、しっかりと子どもを育てよう」とか、そういうふうに、自分に向かう親意識と思えばよい。一方、悪玉親意識というのは、子どもに向かって、「私は親だ!」「親に向かって、何だ!」と、親風を吹かすことをいう。



 つまりその中身を分析することなく、全体として親意識を論ずることは危険なことでもある。同じように「上下意識」も、その中身を分析することなく論じてはいけない。当然、子どもを指導し、保護するうえにおいては、上下意識はあるだろうし、またそれがなければ、子どもを指導することも、保護することもできない。しかし子どもの人格を認めるという点では、この上下意識は禁物である。あればじゃまになる。



 親子の関係もつきつめれば、一対一の人間関係で決まる。「親だから……」「子どもだから……」と、「だから」論で、たがいをしばるのは、ときとしてたがいの姿を見失う原因となる。日本人は世界的にみても、上下意識が強い民族。親子の間にも、(あるいは夫婦の間ですら)、この上下意識をもちこんでしまう。そして結果として、それがたがいの間にキレツを入れ、さらにはたがいを断絶させる。



 が、こうして疑問をもつことは、実は、子育ての「ドア」を開き、子育ての「階段」をのぼる、その「はじめの一歩」でもある。冒頭の父親は、恐らく、「上下関係」というテーマについてそれまで考えたことがなかったのかもしれない。しかし私の講演に疑問をもつことで、その一歩を踏み出した。ここが重要なのである。もし疑問をもたなかったら、その上下意識についてすら、考えることはなかったかもしれない。もっと言えば、親は、子育てをとおして、自ら賢くなる。「上下意識とは何か」「親意識とは何か」「どうして日本人はその親意識が強いか」「親意識にはどんなものがあるか」などなど。そういうことを考えながら、自ら賢くなる。ここが重要なのである。



 子育ての奥は、本当に深い。私は自分の講演をとおして、これからもそれを訴えていきたい。

(はやし浩司 親意識 親との葛藤 家族自我群 はやし浩司 幻惑 はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 悪玉親意識 善玉親意識 親風を吹かす親 上下意識)



【付記】



 今回、ここまでの原稿を再読してみて、いくつか気がついたことがある。



 そのひとつは、ここでいう「悪玉親意識」というのは、(親子の間)だけの話ではないということ。



 悪玉親意識、つまり親風を吹かす人は、あらゆる場面で権威主義的なものの考え方をする。
たとえば弟や妹に対しては、兄風、姉風を吹かす。甥(おい)や姪(めい)に対しては、叔父風、叔母風を吹かすなど。



 あらゆる場面で上下意識が強く、そのわずかな(差)の中で、人間の優劣を決めてしまう。



 で、本人は、それでそれなりにハッピーなのかもしれない。また多くの場合、その周囲の人たちも、それを認めてしまっているから、それなりにうまく(?)いく。兄風を吹かす兄と、それを受け入れる弟との関係を想像してみればよい。



 こうした上下意識は、儒教の影響を受けた日本人独特のもので、欧米には、ない。ないものはないのであって、どうしようもない。はっきり言えば、バカげている。この相談をしてきたYDさんの父親にしても、ここでいう悪玉親意識のたいへん強い人だということがわかる。「親は親だ」「親は偉い」という、あの悪玉親意識である。YDさんは、父親のもつその悪玉親意識に苦しんでいる。



 が、ここで話が終わるわけではない。



 今度はYDさん自身の問題ということになる。



 現在、YDさんは、父親の悪玉親意識に苦しんでいる。それはわかる。しかしここで警戒しなければならないことは、YDさんは、自分の父親を反面教師としながらも、別のところで自分を確立しておかないと、やがてYDさん自身も、その悪玉親意識を引きついでしまうということ。



 たとえば父親が、亡くなったとしよう。そしてそれからしばらく時間がたち、今度はYDさん自身が、なくなった父親の立場になったとしよう。すると、今度は、YDさん自身が、なくなった父親そっくりになるという可能性がないわけではない。



 ユングが使った「シャドウ」とは少し意味がちがうかもしれないが、親がもつシャドウ(暗い影)は、そのまま子どもへと伝播(でんぱ)していく。そういう例は、多い。ひょっとしたらあなたの周辺にも似たようなケースがあるはず。静かに観察してみると、それがわかる。



 で、さらに私は、最近、こういうふうに考えるようになった。



 こうした悪玉親意識は、それ自体がカルト化しているということ。「親絶対教」という言葉は、私が考えたが、まさに信仰というにふさわしい。



 だからここでいう悪玉親意識をもつ親に向かって、「あなたはおかしい」「まちがっている」などと言ったりすると、それこそ、たいへんなことになる。だから、結論から先に言えば、そういう人たちは、相手にしないほうがよい。適当に相手に合わせて、それですます。



 実は、この私も、そうしている。そういう人たちはそういう人たちの世界で、それなりにうまく(?)やっている。だからそういう人たちはそういう人たちで、そっとしておいてやるのも、(思いやり)というものではないか。つまりこの問題は、日本の文化、風土、風習の分野まで、しっかりと根づいている。私やあなたが少しくらい騒いだところで、どうにもならない。最近の私は、そう考えるようになった。



 ただし一言。



 あなたの住む世界では、上下意識は、もたないほうがよい。たとえば兄弟姉妹にしても、名前で呼びあっている兄弟姉妹は、そうでない兄弟姉妹より仲がよいという調査結果もある。



 「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」と呼びあうよりも、「ヒロシ」「アキコ」と呼びあうほうが、兄弟姉妹は仲がよくなるということ。



 夫婦についても、同じように考えたらよい。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG 09++++++++++はやし浩司

● 2009年8月5日に……

YDさんとのやり取りをしたのが、2006年の2月~。
それからすでに3年。
改めて自分の書いた原稿を読み直してみる。
「おもしろい」と思うよりも前に、それ以後の私が、ほとんど進歩していないのを知る。
ここに書いた「悪玉親意識」(これは私が考えた言葉)にしても、今では、あちこちで
使われるようになった。
(ためしに、「悪玉親意識」で検索してみるとよい。)

 今回は、「悪玉親戚意識」ということになる。
何かにつけて、年長者が、年長風を吹かす。
たった1、2歳、年上というだけで、相手に向かって説教したりする。
一方、たった1、2歳、年下というだけで、自分は、それをだまって聞く。

 こうした傾向は、地方の田舎へ行けばいくほど、強くなる。

●決別

 私も今回、親類とは、決別することにした。
もちろん、中には親しく交際している人もいる。
そういう人はそういう人で、大切にしたい。

 ただ意識の上から、「親戚」というものを、はずす。
はずした上で、交際する人とは交際し、交際しない人とは、交際しない。
親戚であるとかないとか、そういうことで、相手を判断したくない。
江戸時代の昔なら、いざ知らず。
今は、そういう時代ではない。

 ついでに兄弟、姉妹についても、そういった意識とは決別する。
といっても、私には実姉は、1人しかいない。
大切にしたいとは思うが、今では他人以上の他人になってしまった。
たがいに歳を取りすぎたこともあるが、それ以上に、人生観がまったくかみ合わない。
……というより、実姉にも、どこか認知症の気配が出てきた(……と思う)。
会話そのものが、まったく、かみ合わない。

 ワイフの兄弟たちとは、うまく(たぶん?)、付き合っている。
みな、この浜松市内、およびその周辺に住んでいる。
たがいの行き来もある。
私にとっては、親類というよりは、友だち。
ワイフ自身も、そう思っている(?)。

 で、今、世の中が、急速に変化しつつある。
旧態依然の義理とか、人情とかいう世界が、音をたてて崩れ始めている。
冠婚葬祭にしても、質素になってきた。
驚いたのは、このあたりでも、初盆すらしない家庭がふえていること。

 正確な数字を改めて、拾ってみたい。

●初盆はしない

 ワイフの実母が、浜名湖畔にある、I村という、村の出身である。
昔から何かとしきたりが、きびしい土地がらである。
そんな村で、昨年(08年)、15世帯の家の人たちが、初盆を迎えることになった。
しかし実際、初盆の供養(僧侶、親戚を呼んでの儀式)をした家庭は、7世帯
だけだったという。

 この数字は、私が改めて確認したものなので、正確。

 浜松市内のような都会での数字ではない。
I村という、(昔からのしきたりが、きびしい土地)での話である。

 私はその話を、直接、喪主から聞いた。
加えて、驚いた。

●これからの日本

 で、それがよいことなのか、悪いことなのかは、私にもわからない。
どういう方向に向かっているのかも、私にもわからない。
わからないが、今、この日本も、大きく変わりつつある。
それだけは事実。

 で、来週あたり、私は、実兄と実母の、一周忌の法要をすることになっている。
(私の宗派では、盆供養はしない。
その代わり、一周忌の供養はすることになっている。)

 それについて、「私は、それが最後」と心に決めている。
私も、今年、満62歳になる。
自分の哲学や人生観をねじまげてまで、世間に迎合するのも疲れた。
もとはといえば、『地蔵十王経』。
鎌倉時代にできた、まっかなニセ経。
そんな経典に従って、何年も何年も、供養(?)をつづけることに、どういう意味が
あるのか。
それがはたして、仏教と言えるのか。
(教え)と言えるのか。
 
 簡単に言えば、日本の仏教そのものが、カルト化している。
カルト化したまま、日本の風土の中に、定着してしまっている。

●人それぞれ

 頭が熱くなったが、親戚づきあいにしても、そのカルトの上に乗っている。
もちろん、たがいに濃密な世界を築いている人もいれば、希薄な人もいる。

 私の実家は濃密だが、それと比べると、ワイフの実家は希薄である。
また同じワイフの兄弟、姉妹でも、濃淡には、大きな違いがある。
だから最初の話に戻る。

「親戚づきあい。
いろいろある。
人それぞれ。
みな、ちがう」と。

 たがいにうまくいっているなら、それはそれでよい。
何も私のような他人がとやかく言う必要はない。
ただこれだけは、覚えておいてほしい。

 自分たちがうまくいっているからといって、その尺度で他人を見てはいけない
ということ。
自分の価値観、あるいは価値基準を他人に押しつけることだけは、避けてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
親類づきあい 親戚付き合い 親類との確執 親子の確執)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG 09++++++++++はやし浩司

●愚痴

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数日前から、「グチ(愚痴)」について書いている。
仏教で教える「愚痴」というのは、読んで字のとおり、
「愚かさが極まった状態」をいう。

が、日本語で「グチ」というと、不平、不満を、
意味もなくタラタラと口にすることをいう。

そのグチについて調べていたら、アメリカでは、
不安神経障害(Anxiety Disorder)の主症状の
ひとつであることがわかった。

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●日本人のグチ

 この日本では、グチを言う人も、またそれを聞く人も、グチについては甘い。
「グチ」を、精神障害の症状のひとつと考えている人は、少ない。
実のところ、私も、そうだった。

 私自身も、グチを平気で口にしていた。
また私に対してグチを言う人がいても、「そういう話を聞いてやるのも、大切な
こと」と考えて、耳を傾けてやった。

 しかしグチはグチ。
精神障害にそのまま結びつくかどうかは別として、たしかにグチというのは、
それ自体、見苦しい。
グチをこぼす人も見苦しいが、それを聞くほうも、つらい。
不愉快。
よいことは何もない。

 で、これからはちがう。
「精神障害の主症状のひとつ」と考えて、私はグチを言わない。
一方、私にグチを言う人がいても、耳は貸さない。
聞いてやる必要もない。

 もしグチを言う人がいたら、こう言ってやるのはどうか。
「一度、精神科で診てもらったら?」と。
……と書くのは、少し言いすぎというのは、わかっている。
というのも、グチを言う人は、グチを言いながら、心に風穴をあけている。
言うなれば、ストレス発散のひとつの方法として、グチを言う。
だからその人のグチを抑え込んでしまったら、かえって症状は重くなってしまう
かもしれない。

 ただこういうことは言える。

 私の友人(外国人)たちを思い浮かべてみても、私にグチを言った人は、
ほとんどいないということ。
実際には、記憶のどこをさがしても、そういう人が出てこない。
日本人特有の、あのグチである。
記憶の中に、そういう人が出てこない。

 ということは、欧米人の間には、やはり「グチというのは、精神疾患の主症状
のひとつ」という認識があるからではないか、……ということになる。
グチを口にしたら、精神障害者と疑われてもしかたない(?)。
あるいは幼いころから、また環境的にも、歴史的にも、グチを言わない社会に
なっている(?)。

 日本では当たり前のように、言ったり、聞いたりしているグチだが、外国では
別の考え方をしている。
それだけは、確かなようである。

【はやし浩司流、今日の教え】

● グチは言わない。聞かない。
グチを言う前に自分で考えて、行動し、自分で解決せよ。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG 09++++++++++はやし浩司

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