●田丸謙二先生
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今度、恩師の田丸謙二先生が、化学会の化学遺産委員会の
ほうで、インタビューを受けました。
田丸謙二先生の生涯の履歴書のようなものです。
先生から原稿を送ってもらいましたので、そのまま紹介
させてもらいます。
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林様:
例の「名士インタビュー」の最終原稿です。 どうせ文部科学省の連中は読んでくれないと思いますので、「要約」をつけました。 私は大変に大事な教育改革だと思いますが、最近の様子を知らせてください。 日本人は自分の意見を自立して考えて外国人と討論でき、debate ができるようになれるにはどうしたらいいのでしょうか。特に外務省の役人の人たちなど、矢張り小学校の頃から訓練しないといけないのではないでしょうか。
率直なご意見お待ちしています。
田丸謙二
この原稿に写真がつきます。どんなのがつくか分かりませんが。
(2009年5月16日)
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【田丸謙二先生へ】
おはようございます!
ひざの関節のぐあいは、いかがですか?
たった今、送っていただいた原稿を、再度、読ませていただきました。
(先日、プロトタイプの原稿を送っていただきましたので、今回が、2回目という
ことになります。)
Independent Thinkerについてですが、まず第一に、日本の社会のしくみそのものが、
独立してdebateできるようなしくみになっていないということです。
「もの言わぬ従順な民づくり」が、今でも、教育の基本です。
それではいけないと考えている教師も多いようですが、結局は押さえこまれてしまって
います。
あるいは限られたワクの中に、安住してしまっている(?)。
ワーワーと自己主張するような子どもは、集団教育の場では、やりにくいというわけ
です。
これについては、江戸時代の寺子屋教育、さらには明治に入ってからの国策教育が
原点になっていますから、改めるのは容易なことではないでしょうね。
「もの言わぬ従順な民」に教育させられながら、またそういう教育を繰り返しながら、
当の本人たちが、それに気づいていないのですから。
第二に、私自身が、そういう世界に生きてみて実感しているのですが、この日本では、
(力のある子ども)(力のある人)を、どんどんと登用していくというシステム、
そのものが、できていません。
先生がいつもおっしゃっているように、トコロテンのように(流れ)に乗った人は、
それなりのコースを歩くことができますが、そうでない人は、そうでない。
たとえば私の息子たちですが、二男は、現在、インディアナ大学(IU)で、スーパー
コンピュータの技師として働いています。
キャンパスを車で行くだけで、2時間もかかるという広大な大学です。
(多分、先生もご存知かと思いますが……。)
二男はそれを操って、世界中のスパコンをリンクさせるというような仕事をしています。
で、今は、EUが開発した量子加速器(映画『天国と地獄』にも一部、出てきましたが)、
そこから衛星を使って送られてくるデータの分析をしているそうです。
浜松のランクの低い高校を出て、アメリカへ渡り、ワチェタ大学→ヘンダーソン州立大学、
コンピュータ・ソフトウェア会社を経て、IUに移りました。
私はこういうことが自由にできるアメリカのものすごさに、驚いています。
一方、二男の嫁は、ヘンダーソン大学のアメリカ文学部を、主席で卒業したこともあり、
2年前、日本でいう司法試験に合格。
全額奨学金を得て、同じIUに通っています。
2児の母親が受験勉強をして、です。
これもまた日本では考えられないしくみです。
で、三男はどうかというと、横浜国大をセンター試験2位の成績で入学しながら、中退。
オーストラリアのフリンダース大学の語学校を卒業、(つまり卒業ということは、大学の
専門学部への入学資格を取得したという意味です。たいはんの留学生は、入学資格を
取得できないまま、帰国しています。)
そのあと航空大学に入学、現在は、J社で、B-777の最終操縦訓練を受けています。
で、この三男でおもしろいのは、学生時代に、世界的規模のアマチュアビデオコンテスト
(英語名:Fish-eye)で、グランプリ(第一位)を獲得したという点です。
表彰式はロシアのモスクワでありました。
しかし、です。
ここからが日本です。
三男は自分で制作したビデオ類を、昨年、すべてYOUTUBEから取り下げて
しまいました。
詳しくは書けませんが、そういった圧力を、どこかで感じたのでしょう。
つまりこの日本では、(力のある人)が伸びることもできず、「型」にはめられ、
押し殺されてしまうのです。
で、今は、ビデオ制作から、完全に遠ざかってしまっています。
こうした(しくみ)は、私も自分の人生を通して、いやというほど、思い知らされて
います。
なんせ、そこらの出版社の編集部員ですら、そういう(しくみ)に迎合しているのです
からおかしいですね。
(東京の出版社からときどき、客がきますが、みな、手ぶら。
駅からの送り迎えにあわせて、食事の接待などを、平気で私たちにさせたりします。
「ああ、この男は、私をそういうふうに見ているのだな」ということが、それでよく
わかります。)
こういった(しくみ)を変えていくのは、たいへんなことです。
それこそ教育のしくみ、そのものを、根底から変えていかねばなりません。
端的に言えば、現在のように、学校しか道がなく、学校を離れて道がないという(しくみ)
を変えていかねばなりません。
ご存知のように、大学では、EUのように単位の共通化をするという方法もありますが、
たとえば小中学校レベルでは、ドイツやフランス、イタリアのように、「クラブ制」を
もっと導入していきます。
日本でも、あちこちで始まりつつありますが、官製クラブでは、意味がありません。
学校教育そのものが、現在、教育機関として満足に機能できない状態にあります。
教師たちが忙しすぎるというのも、深刻な問題です。
どうしてその上、「クラブ」?、ということになります。
民間に委譲できる部分は、思いきって移譲すればよいのです。
そのEUでは、クラブ制を活用し、その費用は国が負担しています。
(額は、国によってちがいますが、同じくクラブの費用も国によってちがいます。)
もっとも現在のままクラブ制を日本で導入したら、進学に有利なクラブのみが繁盛する
という結果になってしまうと思いますが……。
つまりこの日本では、debateできる国民は求められていないということです。
自分の意見を、自分の名前で発表していく……。
何でもないことのようですが、それができません。
この私についても、「あの林は、共産党員だ」と書いているBLOGもあります。
政治を批判したら、共産党員というわけです。
(最近では、「北朝鮮のミサイル迎撃反対」という意見を書いたら、即刻、「売国奴
BLOG」なるもののリストに、私の名前が載ってしまいました。)
まるで日本全体が、歌舞伎か相撲、茶道、華道、さらには、能の世界みたいです。
が、もちろんこれではdebateなど、求むべくもありません。
Debateしたくても、相手が逃げてしまいます。
毛嫌いされてしまいます。
……とまあ、愚痴ぽくなってしまいました。
で、自分の人生を振り返ってみて、こうも思います。
「私はたしかに自由を求めて生きてきたが、本当にこれでよかったのか?」とです。
あのままどこかの大学に入り、研究者としての道を歩んだほうがよかったかもしれない、
とです。
ワイフもときどき、そう言います。
そのほうがこの日本では、生きやすかったのかもしれません。
しかし悪いことばかりではありません。
この40年間だけをみても、日本は大きく変わりました。
今の今も、変わりつつあります。
不十分かもしれませんが、やっと日本も、民主主義に向けて産声をあげつつあるという
ところではないでしょうか。
(その一方で、復古主義的な動きもありますが……。)
その私も満61歳。
先生が東京理大へ移られた年齢です。
で、もう遠慮はしない。
言いたいことを言い、書きたいことを書く。
そういう姿勢に変わってきました。
「自由」を満喫できるのは、これからだと思っています。
最後になりますが、先生にはいつも、本当に励まされます。
私の知人の中には、(そのほとんどがそうですが……)、定年退職と同時に、
ジジ臭くなってしまい、隠居だの、旅行だの、畑作だの、そんなことばかりして
いる人がいます。
そういう人たちを見るにつけ、「どうしてこの人たちは、もっと天下国家を論じ
ないのだろう」と不思議でなりません。
残り少ない人生を、若い人たちに還元していく。
それこそが私たちの世代の者の使命だと私は思うのですが……。
言いかえると、長い人生の中で、日本という組織の中で、そのように(飼い殺されて
しまった)ということにもなりますね。
「牙を抜かれてしまった」と言い換えてもよいかもしれません。
そしてなお悪いことに、今度はそういう人たちが、保守主義、あるいは保身主義に
陥ってしまっている!
過去を踏襲しながら、踏襲しているという意識そのものがない。
もっともそれをしないと、自己否定の世界に陥ってしまいますから……。
だから私のような人間は、嫌われるのです。
私のような人間に、成功(?)してもらっては、困るのです。
そういう一般のサラリーマンたちがもっている潜在的な意識は、あちこちで、
よく感じます。
またまた愚痴ぽくなってきました。
実のところ、この2週間ほど、スランプ状態で、脳みそが思考停止状態にありました。
思考停止というより、「もうどうでもよくなってしまった」という感じでした。
「どうしてこの私が、日本や、人間や、地球の心配をしなければならないのだ」と、です。
「どうせ私は、だれにも相手にされていないではないか」と、です。
しかしまたまた先生からのメールをもらって、元気100倍!
一気に、ここまで(計6ページ)も書いてしまいました。
今朝は指の動きも軽快です。
久しぶりです。
ありがとうございました。
なおいただいたインタビュー記事ですが、先生のおもしろさが、まったくなく、
私はつまらないと思います。
先生がいつか話してくださった、紅衛兵時代の中国や、東大紛争時代の理学部の話
のほうが、ずっとおもしろいです。
プリンストン大学のアインシュタイン博士の話でもよいです。
先生の父親が、理学研究所でシャワールームを作った話でもおもしろいです。
あるいは東京理大の入試問題の話とか、不合格になった学生の親から抗議を受けた
話とか……など。
私が先生なら、そういう話をまとめて自伝にします。
あらいざらい、この際、世界を蹴とばすようなつもりで書きます。
(私も、現在、そういう心境になりつつあります。)
つまりこの記事は、たしかに「遺産」ですが、(まだ生きている人に向って、
「遺産編集」というのも失敬な話だと思いますが……)、先生はまだ遺産ではない。
「現役」です。
その現役であることに感動しています。
実のところ、先生が数年前、アメリカの化学の教科書を翻訳出版したと聞いたとき、
あるいは50歳を超えて、中国語を勉強し始め、中国科学院で中国語で講演をした
と聞いたとき、そのつど、私は心底、励まされました。
「人間は、やる気になれば、できるのだ」と、です。
先生と私とでは、月とスッポンですが、いつも月をながめてがんばっています。
(実のところ、今のこの日本で認められるということは、あきらめています。
だいたい、この日本を相手にしていないのですから……。)
どうかお体を大切に!
関節の具合はいかがですか?
血栓も無事防げたということは、メールを読んでわかりました。
よかったですね。
では……。
先生からいただいたインタビュー記事は、そのままBLOGなどに収録しますが、
よろしいですか。
不都合な点があれば、知らせてください。
なおたびたびですみませんが、先生から預かっている原稿が、山のようになっています。
こうした原稿も、随時、私のHPやBLOGなどで掲載してもよろしいでしょうか。
(現在、掲載しているのは、許可をいただいた分のみです。)
また気分のよいとき、返事をください。
待っています。
林 浩司
***********以下、田丸謙二先生より***************
1:はじめに
○インタビュアー:田丸先生、今日は土曜日で、先生おくつろぎのところ、わざわざ私ど
も化学遺産委員会のためにお時間を割いていただきまして誠にありがとうございます。
私ども化学遺産委員会、日本化学会、もちろん先生は会長を以前にしていただいており
ましてよくご存じのところでございますが、化学遺産委員会というものを昨年3月に立ち
上げまして、その以前には化学アーカイブズという形で3年ぐらい事業を続けたんですが、
化学遺産委員会というわかりやすい名前に変えまして、そこでいろいろな事業を行ってい
るわけですが、その中の一つに、化学における立派なご業績を残された先生方、あるいは
企業で立派な仕事をなさった方々、そういった方々の人となりを声と映像で残そうという
事業を一つ行っております。
○田丸先生:先生は最初からご関係なんですか。
○インタビュアー:はい、一応やらされて。私、一応、今、化学遺産委員会委員長を引き
受けております植村でございます。
それで、今日は、先生がご幼少のころからずっと今まで、どういうふうにして化学の道
に入ってこられて、どのような人生を歩んでこられたのか、それを先生にご自由にお話し
していただけたらと思っております。
2:生まれ育ちについて
まず、どういうところからでも結構なんですが、一応、先生の簡単な生い立ちというも
の、先生は、まさにここ鎌倉でお生まれになったんですか。
○田丸先生:この家で生まれました。
○インタビュアー:そうでございますか。それでずっとここで育たれて、大学は東京大学。
そのときは先生、まだ東京帝国大学ですね。
○田丸先生:はい。
○インタビュアー:帝国大学の理学部化学科に行かれたとお聴きしておりますが、そのあ
たりまでのところで、何か先生、ちょっとお話していただけますとありがたいんですが。
○田丸先生:その辺りのことは私のホームページ(http://www6.ocn.ne.jp/~kenzitmr)に
も書いてあるんですけれども。小学校のときは、ここの鎌倉師範の附属に行っていて、そ
こを出て神奈川県立湘南中学校という、今の湘南高校ですけれども、旧制の中学に入って、
それで、そこでは化学が一番嫌いだったんですよ。成績も他の科目に比べて悪かったんで
す。
私の成績のことをふだん言う人ではなかった父だったんですけれども、父が、やっぱり
自分が化学をやっていたせいか、「化学の何がわかんないの?」と聞かれて、返事に困った
ことがあるんです。要するに分からないというよりも、全くの暗記物だったんです、その
ころですね。だから毎週、もう「これ暗記したか」、「これ暗記したか」とばかり教えられ
て、要するにつまらなかったわけですね。ただ、父が言った一言を覚えているのは、「大学
に行くと、化学は今のと随分違うんだよ」というのは、ちょっと頭の隅に残ってはあった
んですね。
とにかく大嫌いな化学だったのが、旧制高校に入りまして化学を学ぶと、もう全然違う
んですね。それこそ、なるほど、なるほどという話になって、今までのただ暗記すればい
い化学とは全然違って、「これはなかなか面白いな」と考えが変わったのです。
ちょうど大学の入学試験に、僕の年まで分析実験の試験があったんです。未知試料をも
らって、これは何かという答えを2時間で分析して、そのレポートを書く。その練習まで
特別にさせてもらって、それで、なかなか面白いなと思って。今まで嫌いだったのが、そ
の時点で切り替わりました。やはり、なるほどというか、化学って考えてやるもんだなと
いう因子がそこで入ってきたわけです。
そのころは、戦争中でしたから、勤労動員に行ったりしてなかなか勉強しにくかったん
ですけれども、私が大学を卒業したのが昭和21年で、終戦の翌年ですね。その頃は東京の
相当部分が焼け野原でしたし、財閥は賠償に取られるんだとかいろいろの噂があり、もう
いい就職口なんか全然なかったんです。ただ、戦争中に特別研究生と言って、助手並みの
給料をもらいながら研究をする、そういう理系の学生を育てるというシステムが終戦後も
残っていたんですね。
○インタビュアー:聞いたことがございますね。大学院入学から学位をもらうまで
○田丸先生:それで、そのいわゆる特研生にしていただけたものですから大学に残れて、
おかげさまで人生がそこである程度決まったわけです。
○インタビュアー:今、先生が言われましたが、お父様が化学をやっておられて、高名な、
後でまたお話ししていただくと思うんですが、非常に高名な、私が聴いたところによると、
日本化学会の会長先生がこの家から2人出ているというような、お父さんと息子さんでと
いう、そういうことをちょっと耳に挟んだことがありますけれども。
○田丸先生:そうですね。偉はそうえらそうなことを言うのではなくて、医者の子どもが
医者になりたがるのと似たような、余り深い哲学もなくて継いだという面もなくはないと
思うんです。
○インタビュアー:物すごくいい親孝行を先生はされたんですね。
3:大学院時代と就職
○田丸先生:いやいや。
それで、私が後で考えて、一番大事だったと思うのは、大学院に行きまして、鮫島実三
郎先生のところに研究テーマをもらいに行ったわけです。何をしたらいいでしょうかと。
そうしたら鮫島先生が一言、「触媒をおやりになったらどうですか」と言われたんです。そ
のころ、もっとずうずうしければ、触媒をどういうふうにすればいいんですかと質問して
もよかったかもしれないんですけれども、そのころは、先生は偉い人で、そういう一言を
いただいて、「はい」と言って引き下がってきたんです。
ところが、鮫島研究室の中には、例えば助教授の赤松秀雄先生は炭素の電気伝導度、あ
れは後で学士院賞になった有機半導体の研究、それから後にお茶大に移られた立花太郎先
生が煙霧質といって煙のことをやっていらしたし、それから、中川鶴太郎さんという後に
北大に行かれた人は液体の粘弾性というのをやっていたり、みんな違うことを勝手にやっ
ているんですよね。だから、誰に聴こうが、教わる先輩が全然いないんです。「触媒をおや
りになったら」と言われてもね。今、何が面白いんでしょうとか、普通は同じ研究室にみ
んな先輩がいて相談に乗ってくれるんですけれども研究室の中には誰もいない。しかも、
化学教室自体が、水島三一郎先生みたいに分子構造論とか、島村修先生の有機化学なんか
があるんですが、触媒をやっている人なんか一人もいないんです。
しかも、もっと悪いのは、終戦直後ですから外国の文献が全然入ってこなかった。そう
すると、戦前の随分古い文献までしか文献がないんですね。それで、触媒をおやりになっ
たらと言われても、それからの4~5カ月というのは、もう本当に苦しかったんです。何
をしていいのか自分で決めなければいけないわけですね。それで、古い本を見ていても、
分かったことは書いてあるんですけれど、研究というのはどういうものかというのは、大
学院の入りたてですから全然そういう下地がなくて、苦しい4~5カ月に一生懸命考えて、
何をしたらいいだろうと迷いに迷って。1人で考えるものですから全然自信がないんです。
でも、その迷いが後々まで、自分のやっていることが何か間違っていないだろうか、あ
るいはもっと発展するいい考えがないだろうか。それで、どういうふうに考えたらいいん
だろうかと、いつも研究しながら、自分で自分に問いかけながら研究をするという、そう
いう研究の基本を問わず語りに教わったわけですね。僕は、非常にいい経験だったなと後
になって思います。
それで、さんざん迷った挙句実際に決めたのは、パラジウムを触媒とするアセチレンの
水素添加反応で、アセチレンからエチレンになって、更にエタンへ行きますよね。そのと
きに、あのころはもう研究費もないものですから、ただの真空ポンプで、反応容器を真空
にしてアセチレンと2倍の水素を入れてやったんですけれども。そうすると、全圧を計っ
ていると、だんだん時間と共に圧力が減るわけですね、水素化されますから。そうすると、
あるところで、何もしないのに急に反応が早く進むんですよ。「これは何だろう?」とよく
調べてみたら、アセチレンのある間はエチレンからエタンに行く反応が起こらないんです。
アセチレンが全部エチレンになったら、今度はエチレンの水素添加が早く進み始まるんで
すね。そういう二つの反応が一つの実験の中に別々にぽんと入っているんですね。
これは、後で分かったのは、そのころ世界でも誰も知らなかったことだったんです。た
またまそういうものにぶつかったものでした。そうしたら、パラジウム触媒の分散度を変
えたら二つの水素化反応が如何に変わるか、触媒の担体を変えたらどうなるだろうか、そ
れから、触媒を部分的に被毒をさせたらどちらがどうなるだろうかと、いろんな実験がど
んどん後に続くわけですね。
それで、その結果が数年後にアメリカで「Catalysis」というEmmett(BET吸着式の提唱
者の一人)がつくった本があって、その中に3ページほど引用されていて、結構新しい面白
いことだったわけで、それは全く運がよかったわけですよね。
○インタビュアー:先生、そのお仕事は、やはり邦文の論文として。
○田丸先生:欧文誌に出しました。
○インタビュアー:日本化学会の欧文誌に。
○田丸先生:そうです。
○インタビュアー:それは、きちんとエメットなんかが見て、それを。
○田丸先生:そうですね。多分Chemical Abstractsあたりを通したんではないでしょうか。
それでその結果学位をもらえたんです。幾つも印刷発表をしたものですから。そのころは
まだ、本当の大学院が発足していませんでしたけれども、いわゆる論文ドクターで、普通、
論文ドクターは、大学を出て7~8年してもらうものだったんですね。
○インタビュアー:そうですね、普通は時間がかかりますね。
○田丸先生:「鮫島先生が卒業年度を間違えたんじゃないの?」と言われたくらい、4年で
もらえたんですよ。それで、ひき続き就職の話になるんですけれど、一年先輩の学年の人
や兵役解除された人達が一杯いてトテモ空いた地位がない。そのころはGHQがみんなコ
ントロールしていましたから、アメリカと同じに、日本では各県に1つずつ大学をつくる
んだよということになったのです。それまで、大学というのは数少なかったわけですね。
いわゆる旧制大学だけでしたから。それからアメリカ式の教育システムになるという話に
なっていました。丁度その頃横浜国立大学から人を求めてきたからどうですかと言われた
んです。しかしそのころは横浜国大と言っても、いわゆる横浜高等工業ですよね。研究な
んか、全然そんな雰囲気のところではなかったわけです。日本のいわゆる新制大学が全部
がそうでしたけれども。その上、横浜には夜学もあって、何か雑用ばかりさせられて、こ
んなことしてたんじゃとてもいけないなという感じで、それで、アメリカのPrinceton大
学に Sir Hugh Taylorという触媒では世界のリーダー的大物で、その弟子たちが各国にい
る、触媒の分野では本当の泰斗というか、開拓者の一人がおられて。
4:アメリカ留学時代
○インタビュアー:Sir Taylor。
○田丸先生:はい、Sir Hugh Taylor。それで、その方に学位論文と自分のことを書いて、
留学できませんかと手紙を直接出したんですね。そうしたら、たまたまテイラー先生がお
若いときにハーバー(Fritz Haber)の研究室を見に行ったら、私の父とお会いになったのを
覚えていらしたんです。それで、ハーバーがアンモニア合成に成功したのは、その下にLe
Rossignolとか、田丸とか、すぐれた人がいたからだよとおっしゃるんです。
つまり、あのころ人類は、人口は増えるけれども、窒素肥料はチリ硝石に主に頼ってい
たんですが、もうそのチリ硝石も枯渇するのが目に見えている、人類の将来は飢餓が訪
れるともっぱら前世紀の初めには言われていて、Ramsay(Sir William Ramsay)とか、
Ostwald(
Wilhelm Ostwald) とか、Nernst(Walther Nernst)とか、後でノーベル賞をもらった連中
がみんな、一生懸命窒素固定のことをやっていたんですね。中には、空気中で放電して
NOxを作ることをやろうとしていたのもいましたけれども、窒素と水素からアンモニ
アをつくるというのが、本当にどれだけ行く反応なのか、窒素は不活性な気体ですから,
平衡定数がよくわからないで、みんな暗中模索でやっていたんですね。
それで、Nernstという人が、高圧がいいに違いないというんで、高圧にして、平衡定数
を計ろうとしたんですけれども、データが不正確で、ブンゼン学会で1907年に有名な討論
があって、ネルンストは、結論として窒素と水素からアンモニアをつくるなんていうのは
工業的にも到底できない反応であると言いきったんですね。ハーバーは、実験が正確では
ないんだというので有名な討論があったのです。ハーバーはアンモニアの合成と分解の両
方から速度を求めただけでなく、窒素と水素の混合気体を触媒を通す循環系を使って循環
させ、それの途中でアンモニアを集める工夫をしてやる。そうするとだんだんアンモニア
がたまってくる。そういうアイデアでやったら、これで行くよという形になって、それで
初めて、1909年に、オスミウムを触媒にして、180 気圧、820 K でうまくやってみせたん
ですね。
それで、BASFがそれに乗り出して、Bosch (Carl Bosch)が大変な苦労をして高温、
高圧の条件でスケイルアップし、Mittasch(Alvin Mittasch) がいい触媒を見つけるのに成
功したわけです。ハーバーは1918年にそれでノーベル賞をもらったんですけれども、ボッ
シュは高温、高圧の化学工業を初めて成功させたというので、1931年ですか、ノーベル賞
を貰っていますね。
○インタビュアー:いわゆる我々がハーバー・ボッシュ法と大学で習うあれでございます
ね。
○田丸先生:そうなんですね。
○インタビュアー:そのときの技術というのは、今の化学工業の一番の礎だ、基礎だとい
うところで、いまだに、それがあったからということを聞きますけれども、そうなんです
か。
○田丸先生:そうなんですね。Mittasch が、その反応に使ういい触媒がないかといって非
常にたくさんのものを探したんですね。その研究が、触媒の本性というか、それを随分明
らかにしたんですね。例えば、その際たまたまスウェーデンから出てきた鉄鉱石がいい触
媒だとわかって、それじゃといって、純粋の鉄を使うとだめなんですね。それで、なぜそ
うなんだろうというので、純粋の鉄に微量なものを加えると活性がぐんと上がる。いろん
なそういういわゆる助触媒作用というものとか、もちろん触媒作用の温度の影響や被毒現
象なんか、そういう触媒の性質を非常に明らかにした。ミッターシュ自身もノーベル賞を
もらってもいいくらい、本当に触媒の本性を初めて明らかにしたわけですね。
テイラー先生はそういうのを見ていらっしゃったから、その田丸の息子なら雇ってもい
いと思われたらしくて、comfortable に生活できるからプリンストンへいらっしゃいと言
われて。
○インタビュアー:それは先生、昭和何年ごろですか。
○田丸先生:1953年です。昭和28年ですね。
○インタビュアー:講和条約ができた直後ですか。
○田丸先生:まだ珍しいころです。
○インタビュアー:そうですね。
○田丸先生:ちょうどフルブライトがあったものですから、それで家内と行かせてもらっ
て。日本じゃ、あのころ、生活費の中で食費が占める割合であるエンゲル係数というのは
大体60%、まだ食べるのがやっとの時代でした。そのころアメリカに行って、日本にまだ
なかったスーパーマーケットで、食べたいものをみんな、アイスクリームでも何でもかご
に入れられて、それが一番の感激でした。一桁以上違う生活レベルでしたから。
それで、実験施設もいいし、テイラー先生がとってもよくしてくださったんです。そこ
で、いろいろの話から問わず語りに、研究というのは頭でするものだよというのを非常に
深く教えていただきました。実際にテイラー先生の弟子たちが、世界中、方々にいたんで
す。ですから、後で方々に行くと、おまえ、「プリンストンの田丸だね」と言って、とても
よくしていただいて。
例えば、ソ連なんかではボレスコフ(G,K,Boreskov)という大物がいたんです。ノボシビ
ルスクの触媒研究所の所長で、アカデミシャンで、ソ連の中で触媒関係についていろいろ
決めていた。それが、「テイラーがあなたのことをベストなスチューデントだと言ってたよ」
といって、私がいろいろな国際会議の議長や国際触媒学会(第9回ICC) (International
Congress on Catalysis)(1956年以来4年毎に開かれている大きな国際触媒学会で、昨年
韓国のソウルで第14回が開催された。第1回からこれまで14回全部のICCに参加したの
が世界で私一人だけになってしまって特別に挨拶させられた)の会長をやっていたときに
も、例えば台湾を1国として数えるかどうかとかいろいろな問題があったんですけれども、
米ソの軋轢の中でボレスコフさんはとても協力的にやってくれました。そういう意味では、
テイラー先生のおかげで、随分助かったんです。
5:In-situ dynamic characterizationの始まり
テイラー先生のところでやった実験というのは、ゲルマニウムの水素化物のゲルマニウ
ムの上での分解反応なんですけれども、それをやっているときに思いついたのは、触媒反
応の反応中の触媒の表面の反応現場、それがどうなっているかを直接調べたいというアイ
デアを生んだんです。それまでは、触媒というのは微量で反応速度を促進するものという
ことで、いつもブラックボックスの中に入っていて、ブラックボックスの入り口と出口の
情報を基にして、例えば反応速度式の情報から、反応はこういうふうに行くのではないか
という推論だけやっていたんですね。
ところが、僕はやっぱり、本当に大事なのは反応をしている最中に触媒表面の現場を見
ることである。何がどんな形でくっついているのか、それがどういうダイナミックな挙動
をするか、どんな反応経路を経て反応が行っているのか、そういうものを、後でisotope jump
method と称したんですが、定常的に反応が進んでいる最中に、ある反応物を同位元素で印
を持ったものにぽっと置き換えるんですね。その同位元素が吸着種の中に現れてきて、そ
れからこっちへ行って最後に反応生成物に行くという、その反応経路もわかるようになる
わけです、
それで、兎に角触媒反応が進んでいる状態で触媒表面を直接調べようということをテイ
ラー先生に申し上げたんです。まず触媒を普段よりうんと多くして、閉じた循環系で
反応速度を測りながらやりますと吸着種とその量が分かるのです。そうしたら、先生はそ
のときに、直ぐにその意味を分かってくださり、「You are very ambitious」更にもう一度
「You are very ambitious!」とため息混じりに二度繰り返されました。でも、まだ世界中
でそれまで誰もしたことがないのに、そんなこと果たして本当にできるのかと先ず仰いま
した。じゃ、その計画を持っていらっしゃいというので、翌日、触媒をこれだけ入れて、
こうやって、こうすると、このくらいできますよといって、「じゃ、やってごらん」という
ので、そこで触媒反応中の触媒表面の直接の観察が初めて始まったんです。
○インタビュアー:You are very ambitiousと言われたわけですね。
○田丸先生:はい。それで、パリで1960年に大きな触媒の国際会議(第2回ICC)があっ
て、そこでテイラー先生が、僕のアイデアを引用して招待講演をなさったんですけれども、
触媒作用はこれまで反応機構が暗中模索だったけれど、これからは田丸のアイデイアで、
新しい頁が開けるよ。こうやって反応の起こっている現場を調べていくと本当の触媒作用
の機構がわかるんだよと。これから新しい触媒の研究面が生まれて、それを基にして、あ
とは反応中間体の調べ方を開拓していけば、ちょうどそのころ、吸着種を調べる赤外分光
も出てきたし、それから電子分光も直ぐに出てきて、そういう新しいアプローチも出てき
たころだったからよかったんですけれども、いわゆるワーキングステイトの触媒の表面が
どうなって、どういう反応経路を経て反応が行くかというのを調べ始めて、程なく何百と
いう研究報告がその新しい線に沿って出てきて、いわゆる触媒作用の分野が本当のサイエ
ンスになったんですね。それまでだとただ外側から推論だけだったのが。
○インタビュアー:今のことは、インサイトーの、インシチユーの、それの中で吸着がど
のようになっているかというようなことを見るというアイデアだったわけですね。
○田丸先生:そうなんですね。触媒のin-situ dynamic characterizationの始まり、つま
り、触媒の表面を反応中に直接調べるという。それで、そういう線に沿ってその後にEXAFS
とかいろんな新しい手法で調べるダイナミックなキャラクタリゼーションを色々の人が始
めて、それがだんだん積み重なって、一昨年、ベルリンのフリッツ・ハーバー研究所のデ
ィレクターだったErtl(Gerhard Ertl)がノーベル化学賞をもらいましたけれども。
○インタビュアー:ドイツの人。
○田丸先生:はい。触媒の基礎としてPhotoemission electron microscope という面白い
手法で、反応中の触媒表面を反応中に調べたんですね。そういうこともあってノーベル賞
をもらいましたけれども、私が言い出してからの50年間というのが、そういう触媒のサイ
エンスが飛躍的に進歩発展していった時代で。
○インタビュアー:要するに、先生が、そのノーベル賞につながった一番最初のところの
提案者というか、そういう感じでございますね。
○田丸先生:そうですね。ちょっと言い過ぎかもしれないですが。
6:Princetonからの帰国
それで、1956年にプリンストンから日本へ帰ってきて、触媒討論会で初めてそれの反応
例を、タングステンによるアンモニアの分解の結果を発表したんですね。そうしたら、
堀内寿郎先生という当時北大の触媒研究所の所長さんで、後で総長になられましたけれ
ども、その先生はいつもスピーカーのすぐ前に座っていらっしゃるんですよ。それで、
僕の話が終わったら、すっくと立ち上がって、本当に言葉を尽くして褒めてくださいま
した。これはすばらしい研究だと。触媒の研究が、これでこれからは本当のサイエンス
になるんだと。
それで、私についていらっしゃいと仰るんです。どこへ行くのかなと思ってついて行っ
たら、文部省に行かれて、文部省の研究助成課の課長、中西さんとそのころ言った、その
人に会って、堀内先生だからそういうところへ行って、会えたんですね。田丸は今将来学
士院賞をもらうほどの素晴らしい新しい研究をやっているから、是非幾らかでも補助して
あげられないかと個人的に交渉なさって、当時、特別に15万円もらって。15万円って少額
ですけれども、そのころ私は横浜の助教授の、まだ30歳ちょっと超えたころで、もう本当
に真空ポンプ一つ買うにも苦労していたものですからとっても助かりましたし、そのよう
に励ましていただいたということですね。堀内先生とは師弟関係があったわけじゃなかっ
たんですけれども、そうやって特別に褒めていただいたのは、とてもありがたかったなと
思うんですね。
○インタビュアー:見抜かれる方もそうですが、見抜く方もすごいもんですね、やはり。
立派なものですね。
○田丸先生:それで、これは学士院賞に値すると褒めてくださったんですが、本当にもら
ったのは何十年か後でしたけれども。
○インタビュアー:先生は学士院賞もいただきましたですね。
○田丸先生:だから、触媒が新しいサイエンスとなった、新しいページを開いた時代でし
たから、やること、なすことみんなexcitingで、面白いんですね。基本的な触媒反応につ
いて、この反応の中間体は、今まで教科書なんかに書いてあることと全然違うことも出て
くるんですね。学生たちも非常によく働いてくれたものですから、新しいことが沢山出て
と来てとても面白かった時代です。
○インタビュアー:先生はプリンストンには2年ぐらいいらっしゃったわけですか。
○田丸先生:3年近くいました。あちらで双生児が生まれましてね、おしめのことなどあ
り,まだその頃は長旅はすぐ帰れませんからというので、双生児を理由にして1年延ばし
てもらって。双生児のおかげでよかったんですけれども。 (その双生児が生まれた病院で
一ヶ月後にアインシュタインが亡くなりました)
○インタビュアー:それは、横浜国大に籍を置いたままやらせていただく。
○田丸先生:そうです。それで、横浜の方では、(当然のことながら)人手が足りなくて困
って大分冷たいことを言われましたけれども、双生児で今本当に困っているんだから、長
旅はちょっと待ってよということで。だから、帰国までにいい実験結果もまとまりました
し、帰国後も学生に本当に新しい局面の実験をさせることができたんですけれども。
私がいつも口癖のように言っていたのは、「せっかくいい頭をお持ちなんだから、よく考
えなさい」と。よく偉い先生が、アイデアがたくさんあって、おまえはこれやりなさい、
おまえはこれやりなさいと先生からテーマをもらって、院生は人手として実験して、確か
にいい仕事ができるんですけれども、研究テーマをもらってやっただけでは、その後、独
立すると育たないんですね。それじゃいけないからと思って、テイラー先生のやり方もそ
うだったんですが、とにかく研究は頭でするものだというフィロゾフィーですね。
「せっかくいい頭をお持ちなんだからよく考えなさい」と、ここにいる人たちも言われ
たと思うんです。ただ、初め、みんな皮肉を言われたと思うんですね。ところが、僕にし
てみれば、頭は使えば使うほどいい頭になるんですよね。そういう基本があったものです
から、みんなやはり研究は何か新しいことを、先生からもらったテーマだけじゃなくて、
それをいかに発展させるかというのを考えてくれたというのがあります。そうやって考え
に考えて自分で新しいアイデイアを考え付く体験はその人の一生の宝になるものです。
○インタビュアー:それは、先生も、鮫島先生からそういうご指導を受け、またテイラー
先生から受けられたという、それがきちんと身になって。
7:Independent thinker について
○田丸先生:それが基本になっているのではないかと思いますね。ですから、口の悪いの
が冗談半分に、私がいつもそう言っているのは、「あれは先生にアイデアがないからだよ」
と言った人もいるんですけど、必ずしもそうではなくて、学生によると、僕が例の通りそ
う言うと、これは自分で考えに考えてこう考えるのです、と言うから、それじゃやっぱり
足りないよ。こういうこともあるだろう、ああいうアプローチもあるだろうと、やはりそ
のくらい言える準備はしていないといけないんですけれども。
○インタビュアー:学生が、本当は先生もわかってるんだなと思うわけですね。
○田丸先生:それで皆さん、自分でよく考えていただいて。だから、例えばここにいる人
たちは、みんな東大の名誉教授と東大教授ですけれども、その前は、田中虔一君は北大か
ら東大に呼ばれたし、川合真紀さんは理研から、それから堂免一成君は東工大からとか、
初めいろいろなところへ就職させても、その先々で自分で考えていい仕事をしてくれたも
のですから、その結果として東大に招かれて。だから、僕は別に東大で政治的にどうした
ということは全然なくて、そういう仕事を通して研究室の卒業生の中から東大に8人も集
まったということだと思うんです。その他、京大、阪大、東工大などなどにもいますし、
私の研究室を出て大学教授になった連中はざっと数えても40人近くおりますし、国立の
研究所や企業でも活躍している人達も少なくありません。そういうお弟子さんのおかげで、
それこそ弟子でもってるねというのがそれなんですけれども。
○インタビュアー:今日はちょうどそのお三人の先生方もいてくださっているので、先生
は心強く話していただけると。
○田丸先生:お蔭様で、しかし間違ったことを言ったら言ってください。
○インタビュアー:いやいや、それは本当です。
○田丸先生:考えるに、大学院の時代でも、よく考えろ、考えろと言われると、考えるよ
うになるもんだなという感じがしますね。
本当は、日本の教育が、自分で自立して考える教育というのが大変に乏しい。先生も生
徒も、自分の考えが足りないことは自分では気がつかないものなんです。外国ではもう幼
稚園、小学校からやるんですよね。「お前はどう考えるか」、と。そうしてお互いに議論し
合うことを通して自分の考え方を作り上げるのです。
私の孫で大山令生(レオ)というのは、アメリカで小学校2年までやって日本に帰っ
てきたんですね。それで、何をするかいうと、コップに水を入れて、自分の腕時計を
水の中に入れているんですよ。「おまえ、何してんのよ!」と言ったら、「これ、防水
って書いてある」と。実験しているんですね。
それから、「救急車がこっちへ来るときは高い音で、向こうへ行くとき低い音になるのは
なぜ?」とか、「台風のメってどんなものなの?」とか、小学校2年生のくせに自分で考え
てどんどん質問するんですよね。それで、彼の小学校の先生が、私は長い間先生をしてい
たけれど、こんな利口な子、見たことないと言いました。それが、どうでしょう、日本に
いるともう見る見るうちに質問しなくなりましたね。普通の子になってしまいました。
○インタビュアー:日本に帰ってこられてからですか。
○田丸先生:そうです。日本の教育は教科書を覚えさせられて、入学試験の準備をさせら
れて、ということで、自分で考える教育が殆どない。もう本当に見る見るうちに普通の子
になりました。日本の教育は生まれつき才能を持っている子供たちでもその才能を引き出
して(educeして)育てることなしにみな普通の子にしてしまうんですよね。個性を育てる
本当のeducation が存在していないのです。
そういう個性を伸ばす教育は、小学校時代からちゃんとしないといけないんだなという、
そうするのが本当の教育だなという感じがいたしますね。
○インタビュアー:先生、教育については、日本化学会の雑誌の『化学と工業』とか『化
学と教育』とかにもしばしばエデュースということについて書いていただいていますね。
○田丸先生:アメリカで母親として子供を育てた娘も一緒に書いてくれましたが、小学校
の校長先生にどんな子供を育てるのかと尋ねると、アメリカではindependent thinkerと
言って、自分で考えさせるという基本を小学校時代から心がけるのです。お前はどう考え
るか、の繰り返しで、debateしながら、各人がそれぞれ生来持っている異なった個性を伸
ばしながら、みんなで協力して民主主義が育つんだという哲学ですね。日本の小学校の先
生でindependent thinker を育てようとしている先生が何人いるでしょうか。日本だと、
何かみんなと違う考えだと村八分になったりして、みんなと協力するという、「和をもって
貴しとなす」という、いい面もあるんですけれども、逆に言うと、個が育つ環境がないわ
けですね。
本当に日本はこれから、殊にコンピューターの時代に、時代の変化が加速度的にどんど
ん速くなっていきますね。そういうときに、「教え込み教育」を通して単なる物知りなどを
つくっている教育ではだめなんで、やはり自分で考えられる、そういう変化の激しい時代
をリードできる人間というのは、やっぱりそういうindependent thinkerとして、自分で
考えるクリエイテイブな教育を受けさせることが必要で、これから日本は教育を基本的に
変えていかなければいけないのではないかなという感じがします。私の院生の連中は電子
供与体と電子受容体とを組み合わせて所謂「EDA錯体の触媒作用」もやっていたのもいまし
たが、両者の組み合わせでそれぞれと全く異なった触媒作用が現れるのです。鉄フタロシ
アニンとカリウムの錯体など、アンモニア合成を室温で進ませるものもでてきたりして、
沢山のデータを集めて「EDA錯体の触媒作用」として一冊の本に纏めてあります。
私の経験からも、特に大学院に入って最初の1-2年に知的体力を蓄えることが非常に大
事なんですね、研究とは如何なることをするものかという正しい概念を身につけることで
すが、なかなか難しいことですけれど。現在の一つの現実的な問題は近視眼的な成果を求
める傾向もあって、日本学生支援機構(旧育英会)からの奨学金返済のシステムの変更があ
りますが、学問する上で学生にとっては大変に重要な問題になっているようです。
一方研究費については昔に比べると場所によっては近頃研究費は随分増えましたね。堂
免君のところなんて30人近くも抱えている。よくやっているとは思いますが。研究費で
は、僕なんていつも研究費が足りないので苦しみ、苦しみしてやってきたものですけれ
ども。ただ、そういう十分になってきた研究費が、さっきのように、本当に研究という
のは、自分でいつも考えに考えてやるものだという、それで練習問題的なことでなく、
新しいことをやらなければいけないという基本的な厳しい考え方が薄れて、イージーに
なってくる恐れを感じるのですが。研究費の出し方も同様ですが。
勝手な考え方ですけれども、やはり、殊に大学院に進んで最初の数カ月、テーマをいた
だいてからの苦しみというか、厳しさというか、本当に研究って何をするんだろう?何を
やっても、もっといい考えがないかとしょっちゅう自分で悩みながら研究をするものだと
いうことを実際に教えていただくという、それは、研究者として基本的な大事なことだと
思います。
○インタビュアー:それが先生の仕事の本当の原点になっているんですね。
○田丸先生:大学院生なんかは、人手として使って、仕事をさせて、ペーパーは出るかも
しれないけれども、本当に研究の基本というものを、大学院生になって初めて研究に携わ
るときに、研究とは何をするのか、independent thinkerとして、自分で考えに考えて自立
した研究者になってくれればいいんですけれどもね。それが「知的体力」作りなんですね。
それをしないと、大学以下の受け取るだけの教育の延長では駄目なので、殊に新しく大学
院に入ってきた連中の研究者としての才能を育てていない感じがします。
○インタビュアー:そういう指導者であるべきだということですね。だから、先生のお弟
子さんは、そういう姿を見ておられるので、そういう感じの指導者になっていっておられ
るんだと私は思いますね。
○田丸先生:私のところから出て独立すると、みんなそれぞれ独立して立派な仕事をして
くれていますから、そこが少し違うのではないかという気がいたします。
○インタビュアー:確かに、最近ですと、大学院もきちんと充実してきて、例えば学部制
で入ってきても、テーマも上の先輩がやっているものの、まずは手助けぐらいから入った
りして、余り考えなくてもごく自然にやる。上の人がある程度仕事をやっていると、論文
として名前が出たりとか、「研究ってこんなものかな」と思いがちなところがございますよ
ね。
○田丸先生:そうなんです。新しく「研究」と言うものを学ぶときに、いい加減なことを
研究だと思い込ませるとその人の研究者としての才能を一生つぶすことになるわけです。
○インタビュアー:それは、一つは有能な方々が集まってきていたということはあったで
しょうね。ほとんど小中高校ぐらいの本当のトップだけが集まっていっているようなとこ
ろですから、先生もそういう指導がいいと思われたのかもしれないですね。
○田丸先生:でも、いわゆる秀才と、それからそういう新しいことを考えれる独創性とは、
やはり根本的に違うんですね。教えられたことを全て答えられる、そういう秀才だからい
い研究者というわけではないんですね。その辺の、習ったことを理解して覚えるだけでは
なくて、independent thinkerとして、自分で新しいことをcreativeに考える努力をする
という、人によって才能も違いますけれども、皆さん、そういう意味で努力してくれた結
果だと思うんです。出藍の誉れというのはみんな。
卒業生の活躍
○インタビュアー:先生もそうでしたし、先生のお弟子さん方も皆、やはり能力ある上に、
よく考えるということをされた方々が、その結果として、先生がおっしゃったように、40
人近い弟子たちが大学教授となり、中には東京大学だけでも8人も教授がいらっしゃる、
あるいは京大や阪大、東工大、北大にもいらっしゃると言うことですが、そういう人たち
が、また次の世代を先生の思想をもとに教えていっているというのは、非常にありがたい
ことですね。うれしいことですね。
○田丸先生:そうですね、今、弟子の弟子、つまり孫弟子を育てていますからね。少なく
とも、孫の育て方を厳しくきちんと考えてやりなさいという考え方を伝えてほしいなと思
うのです。さっき言ったように、時代の変化がますます激しくなってくる、そういう変化
の激しい時代をリードできるには、やはり自分で考えないといけないんですね。コンピュ
ーターができる物知りだけでは、これからはますますいけなくなるのではないかと。僕も、
先が短いですけれども、とにかくそういう、みんなが、もう少し日本人の教育全体的に、
independent thinkerとして、そういう個性を育てる教育がこれからますます必要になるの
ではないかと。
○インタビュアー:ちょっともとへ戻りますが、横浜国大で何年間かいらっしゃった後、
古巣へ戻るというか、先生はまた東京大学へ移られたわけでございますね。それで、そこ
でまた20年ぐらいいらっしゃったのでしょうか。
○田丸先生:そうです。東大の教授になったのが40ちょっと前ですから教授として20年
いました。その前に横浜に教授として4年半いたんです。そのときは僕も一生懸命実験を
したし、それなりに新しいやり方をやってもらったり、したりして、4年半教えた研究室
に毎年4人くらい来ましたか、その中から3人東大教授が出ましたし、大学教授になった
連中も幾人もいます。学生の質もよかったんですけれども、そのころから人が育ち始めて。
夜学なんかは随分つらかったけれども、学生がよくできて、そういう意味では、本当に私
は幸せだったと思います。
8:アドミニストレイションについて
○インタビュアー:先生、東京大学の方に戻られてからは、結構、学内のいろいろなアド
ミニストレーション的なお仕事も大分していらっしゃるのではないですか。
○田丸先生:それは、ちょっと話があるのですけれども、プリンストンに小平邦彦先生と
いうフィールド賞をもらわれた有名な数学の先生がいらして。
○インタビュアー:小平先生、数学者。
○田丸先生:あの方がプリンストンに一番最初からいらして、日本人の仲間の村長さんみ
たいだったんですけれども、その100メートルぐらいのところに私たちは住んでいて、し
ょっちゅうお邪魔に上がり、先生も僕たちとはとてもよく話してくださって、小平式の考
え方がとても勉強になりました。
小平先生が帰国されて程なく、紛争の直後だったわけですよ。それで、事もあろうに、
理学部の教授会が小平先生を理学部長に選んだんですよね。それで、小平先生はもう絶対
に嫌だ、そんなために日本に帰ってきたのではないから絶対に嫌だと言われて。だけれど
も、教授会で一旦選ばれて断れるという前例をつくられると、あの時代に、なる人がいな
くなりますでしょう。だから、みんなで助けるから是非断らないでくれと言って。そうし
たら、化学では田丸さんを知っていると言うんですね。それで僕が学部長補佐の中に入れ
られて、学生とごたごたさせられて。あのころ、いろいろ大変だったでしょう。
○インタビュアー:そうですね。
○田丸先生:もうそれこそ学生が、先生たちは「専門ばか」だと言って。小平先生が、「先
生は「専門ばか」と言われるけど、学生はただの「ばか」だね」と(笑)。小平語録という、そういう面白い話がたくさんあるんです。そんな形で、そういうアドミニストレーション
に引っ張り込まれたわけです。それまではもう研究しかやっていなかったんですけれども。
○インタビュアー:それから後、もちろん研究者としては、我々は日本化学会ですから、
化学会賞も先生に取っていただいていますし、化学会の会長にもなってご尽力していただ
きましたね。いろいろあるんですが、先生は、東京大学をご退官になってから、たしか、
今、山口東京理科大という、最初からそうだったんでしたか。
9:東京理科大時代と新しい大学作り
○田丸先生:東大を辞めて、東京理科大にまず行ったわけですね。理科大で呼んでくださ
って、そこに11年いました。神楽坂のあそこへ。でも、その終わりのころは、山口に短大
があったんですね。それを4年制にするから大学づくりを手伝ってくれと。僕は、まずよ
い大学を作るのには人集めが大切だからといって。でも、田舎の小さい大学なのに、随分
いい人が来てくれました。僕が言うと変ですけれども、田丸先生だからあれだけ集まった
んですねと言われ、例えば、木下実さんという学士院賞を後でもらった人も来てくれたし、
東大からは化学会で賞をもらった戸嶋直樹さんとか、清水忠二先生とか、東工大から山本
経二さんとか、いろいろないい人が随分来てくれて。ただ、残念ながら、今はもうほとん
ど定年になって辞めていきますけれども。だから今、大分苦しい立場らしいですけれども。
そのころは、新しい大学とはどういうものであるべきかというので、初め東京理科大の
中で、橘高先生という偉い理事長さんが、「理科大の教育を高度化する委員会」をつくって、
その委員長をさせられたんです。それで私は、まず、アメリカ式に、教育を充実させよう、
先生の講義に学生が意見を出すべきだと、いろいろなそういう話をしたら、皆さん、その
ときはもう、「とんでもない、学生の分際で先生の講義を……」と、そういう雰囲気だった
んです。それで、その新しい考え方を山口で実施したわけです。ですから、そのころの一
部の人は知っていますけれども、要するに、理科大はこうあるべきだというモデルをそこ
につくって、例えば人事をするときは、自分たちだけではなくて、その分野の専門家も学
外から入れて決めるべきだとか、カリキュラム自体も、例えば数学の先生が書いてくるも
のをそのまま受け取るのではなくて、やはり全体的に客観的な意見を学外からも求めて、
全体的にきちんとしたカリキュラムをするべきだとか、今まで習慣的にやってきた大学の
あり方を大きく変えて、山口で始めました。今どうなっているか知りませんけれども。
10:大学入試について
○インタビュアー:少し戻りますが、先生は、山口東京理科大で、モデルケースをつくろ
うというか、一つの実験をしようという感じだったと思うんですが、入学試験の制度を変
えたらどうかということを、私、何か先生のお話を聴いたことがあるんですが、それはど
んなものだったんでしょうか。
○田丸先生:さっき言ったように、これからあるべき大学の姿をつくりたいといって、入
学試験を面接に加えて教科書持参で筆記試験をやったんです。高校以下の教育を改善する
には大学の入試を改善することが大事なんですね。福井謙一先生も何時も言っておられま
した、「今の大学の入試はどうでもいいこまかいことまで覚えさせられて、あれは若い人の
芽を摘んでいるんですよ」と。
○インタビュアー:教科書持参ですか。なるほど。
○田丸先生:文部省検定の教科書を持ってきていいよ。すると、教科書を持っているから、
「これ覚えているか?」式の暗記問題はできないんですよね。教科書を本当に理解してい
るか、こういう場合はどうすればいいのか、という考える問題にしたのです。福井先生が
それを聞かれて大変に褒めていただきました。その大学の開学式にご挨拶してくださり、
その冒頭に入試についてお褒めの言葉を頂きました。
ですから、例えば、塩と砂糖と白い砂がまざっているものがある。それがどのくらいの
割合であるかどうやって調べればいいか、そうやって教科書には全然出ていない考え方を
聞くわけですね。そうすると、実によくわかりますね、この子は考えることができる子か、
たとえ結論が間違っていても、ちゃんと食いついてくる子かどうかというのが、非常によ
くわかります。
だから、ああいうのは、入学試験で、例えば大学院の試験でもそうかもしれないんです
けれども、普通の講義の試験になっていると、要するに入学試験の準備で、日本は高等学
校の理科を見ても、「わかったか、覚えておけ」、そういう一方的な教え込む授業ばかりで
すよね。またそれが入試対策にはいい教え方なんです。それで、大学へ来ても、そういう
延長ですから、生徒から先生に質問がろくにないわけです。アメリカだと、極端な場合は、
講義の後、先生の部屋の前に並んで待っていますよ、ディスカッションするために。日本
じゃ、ただ受け取るだけの話で、それで大学院へ来るわけですね。それでクリエイティブ
なことをしろと言ったって自立していないからできない。ついイージーな教育になってし
まうので、ほんとうの「研究」から大きく外れて一生損をします。
本当に、さっきの私が経験したような辛い思いを大学院に入って数カ月、「おまえ考えろ」
だけでもいいです。何をすればいいかね。そうやって、やはり研究というのは考えるもの
だと。それが知的体力を鍛えるのです。そうして人生全体に、independent thinkerとして、
やはり考える自立した人間をつくらなければいけないんだということで、入試を変えない
といけないですね。
○インタビュアー:それは、先生がそう言われても、例えば入学試験の問題をつくるのは、
今までいた教官なわけですね。そうするとなかなか。
○田丸先生:それが見えてくる。非常にはっきり分かれるんです。「先生、問題をつくれま
せん」と。確かに容易ではないんですけれどもね。だけども、本当に考えられる人は研究
も立派に出来ます。或いは研究の優れた人は自分で独自に考えることができますし問題も
作れます。きちんと考えますから。だから、僕は、大学院の試験でも同じように、講義の
試験をするようなことではなくて、例えば、高等学校のときに習って覚えている話があり
ますけれども、例えばアボガドロの法則といったようなものを、気体の体積、圧力が同じ
で同じ数の分子があるとか、そういうものを習いますよね。それから、食塩はイオン結晶
だよとか、水素と塩素の反応は連鎖反応だとか教わりますよね。だから、そういう三つの
ことをみんなよく知っているんだけれども、では、それぞれを実験的に証明する仕方を述
べなさいと出題するわけです。そうすると、よくわかるんですよね。よく知っていること
を、どうしてそうなのか実験的に証明しろと言われると、本当にその人の考える力がわか
るんですね。
そういう意味で、教育自体が、入学試験を含めて自分で考えてやるものだという。ただ、
先生がこう言ったから、はいわかりましたと覚えて、物知りになって出てくる、そうやっ
て育ってくる人間ではなくて、「先生そう言うけど、これはなぜ?」とか、さっきの小学校
2年の孫が聞いたのと同じことなんです。そうやって、それぞれの事柄が、バックがきち
んとあるのを、みんなただ教科書を覚えさせられてもだめなんですよね。
○インタビュアー:先生、試験のそういう試みをされたときは、全学の受験生に対してそ
れをされたわけですか、それともある学科だけ。
○田丸先生:いや、全部。全部といっても、学部は1つしかなかった小さい大学ですから。
○インタビュアー:その結果は、先生、どんな感じ、何年間ぐらい続くことが可能でござ
いましたか。
○田丸先生:だから、時々そうやって選んだ生徒はどうなっていますかと言われるんです。
あとよくわからないんですけれども、一つは、初めから受験生の質の問題もありますから
わかりませんが、日本全体の入学試験自体が問題で。アメリカ辺りでも、有名大学によっ
てはクリエイティビティーとリーダーシップを見て選ぶとか言いますね。そうやって人の
上にたつ人を資料や面接を通してきちんと見るんですね。ケンブリッジでもそうです。教
科書を丸暗記しているような子は採らない。やはり自分で考えられる将来のリーダーを選
ぶんですね。
本当は東大でも、そういう意味で、将来のリーダーを選ぶクリエイテイブな入学試験を、
面接などに時間がかかるかもしれないけれども、2倍ぐらいに絞ってからでもいいですが、
そういう自分で考えられる人間を選び育てるんだという姿勢で、それこそ京大でも、東大
でもみんなそういうことにいたしますと、高等学校以下でもそれに備えてそういう準備教
育をいたしますから、だんだん自分で考える人間が育ってくるわけですね。そういうのが
私の意見です。
○インタビュアー:山口理科大で先生がそういう試みをされたときは、そのころは文部省
でしょうか、それは別に、「どうぞやってください」という、それに対して何らか規制とい
うか抵抗は別になかったわけですね。
○田丸先生:私立ですし、理事長さんが僕の意見を入れてくださったからよかったんです。
でも、教科書持参の試験を一部でいいですからやるのもアイデアだと思うんです。
○インタビュアー:そうですね。
○田丸先生:例えばサッカーの選手だって、練習で余りこまかい受験準備はできなかった
けれども、そういう考え方には自信があるよというのは、そっちの方へ行って受けるとか
ね。しかし本当に問題づくりが難しいんですよ。だから、要するに先生のクリエイティビ
ティーの問題なんですよね。
○インタビュアー:そんな感じはしますね。
○田丸先生:ですから、逆に言うと、先生を選ぶ人事のときも、そういうことができる人
間を大学として大事にする、またそういう人は研究面でも必ず優れています。そういうこ
とをしないと、ただ知識を教えるだけなら、教科書に書いてあるのを説明するだけで、「わ
かったか、おい」とかというだけの話ですから自分で考えるようには育たないですね。
11:父親、田丸節郎について
○インタビュアー:先生、ちょっと話が変わりますが、一番最初のころに出ました先生の
お父様、何といってもハーバーとの関係で、我々、表面だけなんですが非常によく存じ上
げているのですが、そのあたりのことをちょっとお伺いしておければありがたいと思うん
ですが、お父様は、やはり東京大学をご卒業されてから向こうに行かれたわけですか。
○田丸先生:そうです。(亡父の兄は田丸卓郎で、東大の物理の教授で寺田寅彦の先生とし
て、またローマ字論者として知られている)
○インタビュアー:第一次世界大戦の前。
○田丸先生:文部省の留学生としてハーバーのところに行ったんですね。それで、カール
スルーエでアンモニア合成をやって、40人もいたそうですけれども、ハーバーがベルリン
の新しい研究所(現 Fritz-Haber-Institut der Max-Planck-Gesellshaft,Berlin)の所
長に選ばれたときに、その中から父を選んで連れていって研究職員にしたんですね。その
研究所が世界一の研究所で、アインシュタイン(Albert Einstein)などもいたし、日本人も
随分そこに留学に行っています。
○インタビュアー:何年間ぐらいドイツというか、いらっしゃったんですか。
○田丸先生:合計8年ぐらいだったと思います。だから、ベルリンにいた日本の大使が父
に、「日本からどんないい職が来ても、私が断ってあげますよ」と言ったそうだけれども、
それだけ日本人として大変に珍しく重要な地位だったらしいのですが、世界大戦が始まる
と、ドイツは日本の敵ですからおれなくなって。
○インタビュアー:第一次世界大戦ですね。
○田丸先生:それでニューヨークに行って、高峰さんなんかと一緒にいて、日本に理研を
つくろうじゃないかと話し合ったりして。ハーバードにもいましたけれども。
○インタビュアー:それで高峰譲吉先生とか
○田丸先生:はい。理研も最初、化学の研究室は父が責任を持ってつくって、日本に初め
て本式の化学の実験室というのをつくりたいというので、相当無理したらしいです。その
頃日本にはなかった本当の化学の研究室のモデルをつくりたいと。それで多分、費用もか
かって大分言われたらしいのですが、大震災で他の建物は大分つぶれてしまったのにその
建物はガラス1枚割れなかったというので大変に評価されたらしいんです。
○インタビュアー:震災というと、それは関東大震災ですか。
○田丸先生:そうです。
○インタビュアー:ああ、そうなんですか。
○田丸先生:大正12年のね。僕が生まれる前です。
父が一番最後に努力したのは、学術振興会をつくることでした。昭和一桁の時は、ご存
じのように、日本の経済は非常に悪かったので、せっかく理研なんかをつくっても、研究
費が削られることはあっても、来にくかったんですね。大学でもほとんど研究費が乏しく
て、これではとてもいけないからというので、桜井錠二先生を担いで、父も必死になって
学術振興会をつくる運動をしました。身体が悪かったんですけれども無理をしながら。結
局、一番最後は、手回ししたんでしょうが、昭和天皇が、私の身の回りのことは幾ら節約
してもいいから、学術振興のためにお金を出してくれとおっしゃってくださったんですね。
それで、昭和7年かにできて、それで、それから急に論文の数が日本で倍くらいに増えて、
論文だけじゃなくて、それで人材が育ったんですね。その人材が次の代を育てて日本が発
展していった、それが父の一番の苦労でした。
○インタビュアー:櫻井錠二先生。お名前は。
○田丸先生:先生の残された遺言書に書いてありますけれども、学術振興会なんかでも、
本当に田丸のおかげでできたと。
○インタビュアー:そうですか、立派なことをなさったんですね。
○田丸先生:それが、日本を欧米並みにしようという努力ですね。理研を作り、理研の実
験室をつくること自体も、そういう意味で大分努力したのではないかと思います。
ハーバーがベルリンに連れていってくれたときも、よく、「田丸は死ぬほど働くから」と
言ったそうなんですけれども、何か死ぬほど働いたらしいんですね。アンモニアの合成な
んかにできるかどうかというのが。それで、死ぬほど働いてどうにかなった。だから、テ
イラー先生も、田丸の息子だからというので、何かにも書いてありましたが、「父親の素質
を受け継いでよくやってくれた」と。
○インタビュアー:先生もお父さんと同じように、死ぬほどテイラー先生のところで働か
れたんですね。
○田丸先生:いいえ、僕はそれほど勤勉ではありません、死ぬほどなどしなかったです。
○インタビュアー:いやいや、周りのアメリカ人とかイギリス人は結構、lazy で、だから
先生を見たらもう脅威だったのではないですか。
○田丸先生:そうですね。そういえば、一緒にいたイギリス人が「ケンジは一日16 時間実
験する」と言ったことはあります。家との通勤が片道車でほんの5分くらいでしたし、実験
の合間に食事に帰って、新しい方法で、新しいexciting な興味あるデータがどんどん出て
きて研究がとても面白かったですから。
○インタビュアー:ブラックボックスを先生がちょっと開けて見られたわけで、そういう
感じですね。
○田丸先生:そうですね。でも、その結果というか、それからの50年間が、そういう意味
で触媒の分野が本当に進歩したんですね。反応最中の表面を調べ始めましたから。それで、
いろいろな機器もどんどん進歩しましたから。それで、結論的に、一昨年ノーベル賞をも
らっています。そういう基本的な分野が今、日本で案外なほど少ないんですよ。大学院生
をこれできちんと育てないとという心配もありますね。
○インタビュアー:先生のおっしゃることはよくわかります。私は一応これでも京都で福
井謙一先生の門下生の端くれなんですけれども、福井先生も先生と同じようなことをいつ
も考えておられて、「サイエンスそのものを考えるのが大切だ。その根本を考えろ」といつ
も言われていましたね。それはなかなかわからなかったんですけれども、先生のおっしゃ
るのと、やはりそうなんですね。
12::Catalysis Letters に載った写真について
○田丸先生:先生に一つ見ていただきたいのは、これは、2000年に出たCatalysis Letters
でそんなに昔の話ではないんですけれども、触媒の歴史をまとめて、例えばベルツェリウ
ス(Jons Jacob Berzelius)が「触媒」という言葉を初めて言い出して、ファラデー(Michael
Faraday)が出てきて、そしてハーバーが出ているんですけれども、その中にこういう、こ
の写真を勝手に使ったんですよ。僕の許しを得ないで出していて。
○インタビュアー:どこからこういうのが手に入っていったんですか。先生がどこかに出
されたんですか。
○田丸先生:ここの家の前で撮った写真ですよ。
○インタビュアー:それを誰かから手に入れているわけですか。
○田丸先生:もう一枚、現在の私のと。あなたの写真を2枚入れたよと言ってくれたんで
すが、他人の写真を、これは1984年にベルリンで大きな触媒の学会(第8回ICC)があった
ときに、ハーバーの展示コーナーをつくったんです、ハーバーが初めてアンモニア合成し
たときの装置なんかを出して見せて。それで、僕のところに、何かハーバーに関連したも
のを送ってくれないかというので、それまでほとんど出さなかったんですけれども、その
写真を送ったんですよ。そうしたら、ケンブリッジの教授のジョン・トーマスさんが、僕
に是非このコピーをくれと言って、それで上げたのをオフィスに飾って、日本人が来ると、
この赤ん坊が謙二なんだよと言って。
○インタビュアー:そうですよ、先生、これとこれなんですね。
○田丸先生:この赤ん坊なんですよ。ハーバーに会っている証拠の写真です。
○インタビュアー:だから二つ載っていると、そういう意味ですね。現在のとで二枚。
○田丸先生:そうなんです。そういう、大げさに言えば、化学者になるように運命づけら
れていたということかもしれないんですけれども。
○インタビュアー:すばらしいな。
13:アインシュタインからの手紙について
○田丸先生:それから、私の家宝の一つなんですけれども、これは、この人の手紙ですよ
。
○インタビュアー:アインシュタインですね。
○田丸先生:田丸あてですよ。
○インタビュアー:1949年、すごいですね。
○田丸先生:アインシュタインが、そのころは世界が、第二次大戦が終わって、もう日本
もめちゃくちゃになっちゃったし、ヨーロッパも戦争でめちゃくちゃになって。でも原爆
ができて、だから、トルーマンがスターリンに、もう一回、今米ソでやれば必ず勝つとい
うわけですね。
○インタビュアー:アメリカがソ連にですね。
○田丸先生:いわゆる緊張した時代だったんです。私の父はアインシュタインと同じ研究
所で知っていましたから、その息子なんだけれども、世界がこんなんでいいんだろうかと
いう、若気の過ちで手紙を出したら、きちんと返事が来ましてね。
しかも、面白いのは、世界が平和になるのは、アンダーラインをして、1つの方法しか
ないというんです。それはもう世界連邦しかないと。それから今まで60年ですか、随分た
っていますけれども、今ヨーロッパに行くと、もう本当にそういう感じがしますものね。
各国が同じお金を使うし、パリみたいに、昔は英語なんか全然しゃべらなかった所が、英
語もどうにか通じるようになるし、いわゆる連邦という感じがしますでしょう。
それで、僕は、これから50年のうちには東洋もそうなると思うんですけどね。コンピュ
ーターの時代になって、国や宗教、人種の違いを超えてお互いのcommunicationも加速度
的に自由になって増えてきますし、だんだん世界中そういう連邦になるのではないかと思
って。その方向に。要するにワンウェイしかないと。アインシュタインが自分でサインし
て田丸あてにくれたというのが。
○インタビュアー:湯川秀樹先生も書いているんですね。オール……(以下、アインシュ
タインからの手紙を読む)……すごいな。
○田丸先生:アインシュタインの言葉が、今の現実を見るとき、あのときにはもう全然考
えられない時代でした。フランスとドイツだってお互いに殺し合いをしていた直後でしょ
う。だけれども、それからもう50年、60年たつと、そういう方向にどんどんなっていって
いるというので……。
○インタビュアー:これは先生、是非この冊子に載せさせてくださいね、この言葉はね。
○田丸先生:はい。
○インタビュアー:これはすごいですね。
○田丸先生:僕は、そういう意味で、このアインシュタインの言葉と今の現実とを対比す
ると、本当にそうだなという感じがいたしますね。
○インタビュアー:湯川先生も一生懸命、世界連邦をつくるということを言っておられま
したけれどもね。
○田丸先生:そうですね。
○インタビュアー:早くからそういうふうにね。
○田丸先生:実際に、田丸謙二あてに書いてくれたというのが、僕としてはありがたい言
葉で。それで、僕はある高等学校で化学の話をさせられて、普通の話をして、そのときに
アインシュタインのこの話を一寸出したんです。そうしたら、何かすごくみんなショッキ
ングで、それで、質問が幾つか来て、「どうしたらああいう手紙をもらえるんでしょうか」
と。(笑)
○インタビュアー:なるほど、そうですか。やはり純粋な心を持つということでしょうか。
○田丸先生:つまらない話ばかりして申し訳ないんですけど。
○インタビュアー:いやいや貴重な話ですよ。いろいろお話いただいてお疲れでしょうが、
いろいろ先生からお話を伺って、今、先生はもう満85歳におなりですし、大体、若者に対
しての言葉というものもいただいて、「考えろ」というふうなことなんですが、あとほんの
少し、何か先生、もうちょっとこれだけ言っておきたいということがございましたら、少
しだけでも何かありましたら。
14:日米の教育の差について
○田丸先生:繰り返しになりますが、やはり教育界全体が問題で、例えば20年近い前か
な、アメリカでは、アカデミーを中心にして、これからの子供の教育は、コンピューター
の時代になるし、大幅に変えなければいけないというので、それまでは理科でも、クジラ
の種類を覚えさせたり、そういう理科の授業だった。それではいけないというので、そん
なのは全部やめて、science inquiry という、科学の考え方ですね。さっきのように、「な
ぜこうなのか?」という理科に変えるんだといって猛烈な努力をしたんです。もう全国で
150 回ぐらい講習会を開いて、それから、教育関係学会とも協力し、最後は4万冊刷って
みんなに配って意見を求めて広め、理科を基本的に変えるという時代でした。
ちょうどそのころですよ、日本の化学教育の関係者が集まって、文部省の教科書検定に、
高等学校から「平衡」という言葉を消したんですよ。「平衡」なんていうのは、ものを考え
る一番基本ですよ。例えば蒸気圧一つにしても、平衡で蒸気圧降下はなぜ起こるかとか、
それから、沸点上昇でも、凝固点降下でも、浸透圧でもみんな平衡をもとにして考え方が
出てくるわけですね。それで日本は、むしろ考えない方向にした時代です。今は直りまし
たからいいのですけれど。日米の教育関係者の知的レベルの差はこれほど大きいのです。
大事なことは、そういう日本の教育関係者たちが、本当のことを全くわかっていないと
いうことですね。それで、文部省も有名人を集めて平衡をなくしたわけです。そのくらい
の知的レベルなんですね。それで、アメリカの方ではそういう画期的な努力をして、新し
いものをつくって、それがヨーロッパに広まって、かえってそれが日本に入ってきて、「ゆ
とり教育」を始めようと言い出すわけです。
ゆとり教育というのは、覚えることを少なくさせるための教育ではなくて、考える教
育を育てるというのが基本なんですけれども、日本にそういう基盤がないんですよね。
ろくな準備もしてないで入れるものですから、ますます駄目なのです。本当は知識は
基本的なものに限り、互いに debate し合いながら、それを基に各人が十二分に自立
して「考える教育」に切り替える訓練をして、新しい時代に向けての「考える教育」を
するために非常な努力をしなければいけなかったのです。「化学と教育」誌57巻3号
(2009年)に日本化学会会長の中西宏幸さんがお書きになっています。「イノベーショ
ンを推進するためにはこれを担う人材の育成が急務であるが、残念ながら、わが国の
人材育成は多くの問題を抱え危機的な状況にあると言わざるをえない。コミュニケー
ション能力の不足、専門以外の基礎学力の不足、自分で考える力あるいは意欲の低下
といった問題が感じられるのは私だけではないと思う。」要するに「ゆとり教育」が「教
える知識の減少」のみが実際に実施され、最も肝心な「考える教育」の育成は文科省
も教師も全く受け入れる基盤のない結果として、単に「学力の低下」になってしまっ
た。一番の被害者は生徒たちで、一番大事な考える重要性も、考え方も教わらず、肝
心なその訓練もなく、単に教わる項目が減ったと言うことで、「実力が下がった」と言
われる結果となってしまった。時代の大きな新しい流れに乗って世界的に教育改革を
する折角のいい機会だったのに自国の「考えない入試本位の教育の基本的欠点を改め
ようともせずに、国を損なった文科省を初めとする教育関係者の罪は大変に重いとい
わざるを得ないのではないでしょうか。
考える範囲を限るという考え方は、学術の健全な姿ではないんです。「ゆとり教育」の
初期の議論で再三問われたのは「最低限教える必要のある項目を精査する」ことだった
はずがどこかで「必要十分条件」とすりかえられてしまったことが不幸の始まりだっ
たと思います。自分で考えようとする姿勢を持っている子供たちには、その知的好奇
心に答えるための教育であるべきです。先程の私の孫の例でもよい参考になりますが。
子供の数が激減している現状では、少人数学級や副主任などの制度が整備されれば、
各人の個性に応じた個別教育に近い対応も可能なのではないかと、思いますが。
○インタビュアー:「ゆとり教育」も何か妙になってしまったんですね、あれも。
○田丸先生:そうなんですね。やはり学力が低下したとかなんか言うんだけれども、本当
の話は、考える教育が世界中に広まってきて、日本だけがそうやって手遅れになってしま
うということです。
それが、大事なことは、文部科学省をはじめとして教育関係者がわかっていないという
ことですね。それで、小学生にindependent thinkerに教育をするんだと思っている先生
なんて、日本にどれだけいるでしょうか!小学生は何も知らないで入ってくるから教える
んだという、教え込むことだけでやっていますね。最近少しずつ変わってきているようで
すが。教え込む方が楽ですし、入学試験もそれでいくし。だから、何かそういう、さっき
のケンブリッジでもそうですけれども、将来のリーダーを育てるという教育が、日本には、
差別というのはいかんという形ですが、差別という意味ではなくて、各人の異なった資質
を区別しながら才能を伸ばす教育、各人が自分の個性を育てるように自分で考える、要す
るに個性を育てる教育に切り替えないと。これは先生からそうだと思う。やはり生徒は先
生の背を見て育ちますから、先生がそうやって自分で考える教育をすると、生徒も考えな
ければいけないんだなということがわかってくると思うんです。
○インタビュアー:先生まで変えていかなければいかんので、これからも時間がかかりま
すね。
○田丸先生:それがいい方向に向かっていればまだいいんだけれども、どうも時代はどん
どん加速度的に変化していきますよね。日本では、それについていけるかどうか。
○インタビュアー:いえいえそんなことは。そうならないようにね。
○田丸先生:政治家でも何でもそうですけれども、立花隆が『天皇と東大』という本を書
きましたが、あれにも書いてあるんですけれども、東大生は習ったことをそのまま理解し
てはき出す、そういう能力は非常に高い者が多いけれども、要するに自分で考えるクリエ
イティブな人は必ずしも多くない。クリエイティビティーで試験をしていませんから。そ
れで、それが大学を出て、公務員試験などを経て、必ずしもクリエイテイブでないリーダ
ーになるわけですね。それが日本の国策を決めていくわけです。ですから、やはり基本は
考えることが大事だ、と。それで、そういう人材のつくり方をきちんとしていかないとい
けないのではないかと思うんですけどね。国の将来は教育が決めるんです。
○インタビュアー:それについて、京都でも考えるんですけれど、私を見てもわかります
ように、大したものがなかなか出ていないというのもあるんですね。
○田丸先生:本当は先生がきちんとすべきなんですよね。先生の再教育のための講習会を
開いても、来る先生はまあいいんだけれども、むしろ来ない先生の方が問題でね。やはり
先生の再教育ということは、本当に大事なことだと思いますね。
○インタビュアー:先生ありがとうございます。
15::テニスと天皇・皇后両陛下について
最後に、全然関係ないですが、先生はお忘れでしょうが、私は昔、先生とテニスをさせ
ていただいたこと、覚えているんですけれども、先生はそのとき、鎌倉のこのあたりのロ
ーンテニスクラブか何かの会長か何かをしているとおっしゃっていた。もうこのごろは、
テニスなんかは全然していらっしゃらない。
○田丸先生:もう今はひざが痛くてできないんですけれどね。会長も、それこそ早稲田の
テニス部の元キャプテンだったなんていううまい人がたくさんいるクラブで、当時六百人
以上のクラブなんです。ただ、そのテニスコートをつくった隣に頼朝がつくったというお
寺があって、それを鎌倉市はもとのお寺に復興させようと。そうすると、そのテニスコー
トがそのお寺の庭になってつぶれる恐れがあるんですよね。鎌倉市は世界史跡都市とかに
なりたいというので一生懸命で、そうしたいと言っていて、2年のうちにそういうふうに
するという時代があったんです。
ちょうど景気の悪くなるちょっと前でしたか。それで、その費用の8割を出す文化庁に
一寸でも顔のきく人がいないか、と。僕は全然だめよと繰り返し言ったんだけれども、会
長にさせられちゃって。そうしたら、ちょうど私が東大の総長特別補佐(副学長)をやら
せてもらったときに、文部省から東大の法学部を出た女の人が学務課長に来ていたんです。
それが文化庁へ戻って、文化庁でその問題を取り扱う隣の課長になっていた。それでもう
その人を頼みにするしかないというので行ったら、とてもよくしてくれて、その係の人た
ちを集めて僕の説明を聞いてくれたり、それで予算のときでも考慮に入れてくれ、それで
一番の危ないときを乗り越えまして、とてもありがたかったんです。
天皇陛下が葉山にいらっしゃるときに、御用邸がありますでしょう、天皇。皇后両陛下
がテニスをしに時々いらっしゃるんですよ。それでそのときに僕は、侍従なんかに言った
ら絶対にだめなんですけれども、天皇陛下に、「ここのクラブの特別名誉会員になっていた
だけますか」と直接お願いしたんです。そうしたら、まんざらでもないお言葉があったん
ですよ。それで、「天皇陛下がいいっておっしゃったよ」とみんなに言いふらして。そうし
たら、本当にそういう手続を一応して、そうなったんです。
天皇。皇后両陛下とも素晴らしいお二人です。形式抜きにおもてなしして、気楽にお話
し下さるようにするんですけれど、本当に素晴らしいご夫婦ですね。ご結婚50周年で新聞
にも出ていましたが、テニスコートにいらっしゃると、テニスだけでなく、お気楽にお話
になる雰囲気がお好きなんですよね。特別名誉会員になっていただいた次のときにいらし
たときに、お帰りになるときに、「おたくのクラブの特別名誉会員にしていただいてありが
とうございました」とお礼をおっしゃるじゃないですか。普通、お礼を言われると、「どう
いたしまして」と言うんですけれど、こういうとき何て言っていいかわからないで、もう
まごまごしてしまったんですけれども。
○インタビュアー:先ほど、先生の写真がね、天皇・皇后両陛下とご一緒に写った写真を
拝見しましたから、ふと、ああ、そうだ、先生テニスをされていたなと思い出したので。
○田丸先生:でも、気楽にお話をすると、とても素晴らしい方々ですよ。皇后陛下もお利
口さんだし、お心遣いもなさり、本当によくできた素晴らしいお二人です。
○インタビュアー:私は、化学会としては6年前に125周年のときに陛下に来ていただい
て。
○田丸先生:そうなんですよね。その前に前立腺の手術をなさったでしょう。そのときに
僕はお見舞い状を出そうやと言ってお見舞い状を出したんです。またお元気になられてテ
ニスをしにいらっしゃいということで。そうしたら翌日、侍従から直接電話が来てね、陛
下がとてもお喜びになりました、と。その時は本当にごらんになったのかなと半信半疑に
思って。だって、沢山の人が祈念しに行ったときでしょう。そうしたら、その後退院され
て初めての公務として化学会にいらしたでしょう。
○インタビュアー:そうです。来ていただいたんですよ。
○田丸先生:それで、立派なお言葉を賜り、その後でレセプションがあったときに、陛下
が僕の顔を見て、いらして、「その節はお見舞いありがとうございました」ってお礼を言わ
れたんですよ。天皇陛下がそこまで細かいことにまで気を遣われるとは夢にも思わなかっ
たんですけれども、僕の顔を見て、お礼をおっしゃいました。
○インタビュアー:先生、本当にいいお話を聞かせていただきました。
○田丸先生:いやいやとんでもないです。つまらない話ばかりで。
16:「サロン・ド・田丸」について
○インタビュアー:今日は、先生のお弟子さんの先生方が沢山お宅に来ていらして。
○田丸先生:そうですね。昨年11月に田丸研究室の出身者の集まりを東京でしたんですけ
れど、皆が来ますと限られた時間内ではお互いにゆっくりと話し合えなかったんですね。
そうしたら、もっと先生と親しくしゃべりたいというので、有志が「サロン・ド・タマル」
というのをつくって、早速12月にやろうというので、もう勝手に企画して、鎌倉駅に早め
に集まって食べるもの飲むものなど全部買い集めて、しかも集まる人数はなるべく10人以
下にしたいというのですが、実際にやって、見ると数名の幹事役を除いても優にその二倍
にもなったりして、私の家で僕を囲んでしゃべるというんです。僕は、その会の幹事役に
任せてあるんですけれど、僕の会費分は僕に払わせてもらって、ただ皆さんが楽しくしゃ
べっているのを聴いて楽しむだけが主な役なんですけれど、今日は午後その日に当たって
いるのです。場合によってはわざわざ大阪からその為に来る人もいます。
研究室として、以前はしょっちゅうここの庭でバーベキューなど集まりをしまして、み
んな仲がいいものだから、一緒に来た外邦人なんかも驚くんですね。アメリカなんかでは
考えられない、と。だから、いつまでも家族的に皆さん仲よくやってくれるという、それ
は、とても素晴らしいことですね。日本的なところでもありますけれども。
○インタビュアー:それは、日本的であると同時に、やはり先生のご人徳であり、一つの
教育を、その場でやはり教育になっているんでしょうね。
○田丸先生:そうですね。出世した弟子たちに今更わたくしからの教育でもないのですが、
意見があれば伝えますが、逆に現役の連中から近頃の様子を教えてもらったり、(折に触れ
て彼らの研究室のゼミに出させてもらっていますが)前回は化学会学会賞が今度3月末か
な、川合真紀さんがもらいますから、それをこのサロンで皆でお祝いし、それから、今日
の午後には、触媒学会賞を今度もらう内藤周弌君夫妻が来ます。お祝いも忙しいですが、
皆さん、弟子の方々がだんだん偉くなって、紫綬褒章も、今までもらった人は研究室出身
者の中から4人ですけれども、将来多分もっと増えるのではないでしょうか。
○インタビュアー:先生、それをいつまでも見届けるように頑張ってください。是非長生
きしていただいて。
○田丸先生:それが私の毎日の楽しみの一つなんです。卒業生の皆さんがメールや電話で
よくお見舞いなどしてくれ有難いことです。一人住まいで不便の面もありますけれど、け
れど毎日がお蔭様で、ありがたく、楽しく、感謝しています。
○インタビュアー:それは、これから元気でいらっしゃる大きなドライビングフォースで
すね。 今日は先生、本当にありがとうございました。
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(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
田丸謙二 田丸先生 Kenzi Tamaru Kenji Tamaru)
2009年5月17日日曜日
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