2009年5月15日金曜日

*My Mother

【私の母】(My Mother)

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私の母は、ああいう女性だったが、今さら母の批判などしても意味はない。
したくも、ない。
母は、私の母だったが、それをのぞけば、どこから見ても、ふつうの女性だった。
特別な女性ではなかった。
よい意味においても、また悪い意味においても、どこにでもいるような女性だった。
そういう母のことを、あれこれ書いても、意味はない。

ただ、どうして私の母は、ああいう女性になったかという点については、興味がある。
ずっと、それを考えてきた。
今も、考えている。

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●最後の会話

2008年、11月11日、夜、11時を少し回ったときのこと。
ふと見ると、母の右目の付け根に、丸い涙がたまっていた。
宝石のように、丸く輝いていた。
私は「?」と思った。
が、そのとき、母の向こう側に回ったワイフが、こう言った。
「あら、お母さん、起きているわ」と。

母は、顔を窓側に向けてベッドに横になっていた。
私も窓側のほうに行ってみると、母は、左目を薄く、開けていた。

「母ちゃんか、起きているのか!」と。
母は、何も答えなかった。
数度、「ぼくや、浩司や、見えるか」と、大きな声で叫んでみた。
母の左目がやや大きく開いた。

私は壁のライトをつけると、それで私の顔を照らし、母の視線の
中に私の顔を置いた。
「母ちゃん、浩司や! 見えるか、浩司やぞ!」
「おい、浩司や、ここにいるぞ、見えるか!」と。

それに合わせて、そのとき、母が、突然、酸素マスクの向こうで、
オー、オー、オーと、4、5回、大きなうめき声をあげた。
と、同時に、細い涙が、数滴、左目から頬を伝って、落ちた。

ワイフが、そばにあったティシュ・ペーパーで、母の頬を拭いた。
私は母の頭を、ゆっくりと撫でた。
しばらくすると母は、再び、ゆっくりと、静かに、眠りの世界に落ちていった。

それが私と母の最後の会話だった。

●男尊女卑思想

男尊女卑思想というと、男性だけがもっている女性蔑視思想と考えられがちである。
しかし女性自身が、男尊女卑思想をもっているケースも多い。
「女は家庭を守るべき」とか、「夫を助けるのが妻の仕事」と。
「男は仕事、女は家庭」とか、「子育ては女の仕事」というのでもよい。
それをそのまま受け入れてしまっている。
私の母もそうだった。

印象に残っているのは、私が高校生のときのこと。
私が何かの料理がしたくて、台所に並んだときのこと。
母は、こう言った。
「男が、こんなところに来るもんじゃ、ない!」と。
ものすごい剣幕だった。
だから私は大学を卒業するまで、料理という料理を経験したことは、ほとんどなかった。

●実家意識

今から思うと母にとっての「家」は、母が嫁いできた「林家」ではなく、実家の「N家」
だった。
「林家」にいながら、いつも心、この家にあらずといった雰囲気だった。

母は、農地解放で農地の大半を没収されるまでは、その村では、1、2を争う地主だった
という。
しかしそれも終戦までの話。
母の実家は、「畑農家」と呼ばれていた。
農家にも2種類あって、「山農家」と「畑農家」。
それだけに農地解放で失った財産も、大きかった。

そのあと、戦後の「N家」は、没落の一途をたどった。
が、気位だけは、そのままだった。
母は子どものころ、その村では、「お姫様」と呼ばれていた。
13人兄弟の中の長女。
10番目に生まれた女児ということで、それこそ蝶よ花よと、親にでき愛されて育った。
言い忘れたが、母は大正5年生まれ。

●不運な結婚

2度目の顔合わせで、母は、私の父と結婚した。
父の父、つまり私の祖父と母の父との間の話し合いで、結婚が決まってしまったという。
母は、父に見初められたというよりは、私の祖父に見初められた。
今にして思うと、そのとおりだったと思う。
母と私の祖父は、まるで恋人どうしのように仲がよかった。
その一方で、父とは仲が悪かった。
「悪い」というより、たがいの会話もなく、関係は冷え切っていた。
私の記憶のどこをどうさがしても、母と父が何か、しんみりと話しあっている姿など、
どこにない。
いっしょに歩いている姿さえない。
そんなわけでいつ離婚してもおかしくない関係だった。
が、父と母の間をつないでいたのは、祖父だった。

●貧乏

私が中学生になるころには、稼業の自転車屋は斜陽の一途。
遅くとも私が高校生のときには、いつ廃業してもおかしくない状態だった。
そんなあるとき、私は1か月に、自転車屋が何台売れたか計算したことがある。
そのときの記憶によれば、中古自転車が数台のほか、新車も数台だけだった。
その数台でも、よく売れたほうだった。
あとはパンク修理だけ。
それで、何とか生活を維持していた。
貧乏といえば貧乏だった。

しかし母は、けっしてそういう様子を外の世界では見せなかった。
『武士は食わねど……』というが、母のそれはまさにそれだった。
家計などあって、ないようなもの。
しかしそれでも母は、姉を日本舞踊に通わせたりしていた。
琴も習わせていた。
当時、日本舞踊や琴を習っている娘というのは、酒屋か医者の娘と、相場は決まっていた。

●自己中心性

私はM町という、田舎の町だが、昔からの町で生まれ育った。
岐阜県に当初、3つの高等学校(=旧制中学校)ができたが、そのひとつが、
私の町にできた。
明治時代の昔には、それなりの町だったということになる。
で、母は、そういう意識を強くもっていた。
「M町こそ、世界の中心」と。
その意識がこっけいなほど、強かった。

だから何かの事情で、M町から岐阜などの都会へ引っ越していく人がいるたびに、
「あの人は出て行った」と言った。
母が「出て行った」というときは、そこには「敗北者」というニュアンスが
こめられていた。
さらに言えば、「軽蔑の念」がこめられていた。
だからあるとき、私にこう反論したことがある。
「M町からG市へ引っ越したということは、成功組ではないか!」と。

●恩着せと脅し

母の子育ての基本は、恩着せと脅しだった。
「産んでやった」「育ててやった」が、恩着せ。
同時にことあるごとに、「お前を捨てる」とか、「家を継げ」とか言った。
それが「脅し」。
当時の私には、稼業の自転車屋を継げという言葉は、「死ね」と言われるのと同じくらい、
恐ろしいことだった、

私はこれらの言葉を、それこそ耳にタコができるほど聞かされて育った。
だからあるとき私は、反発した。
高校1年生か2年生のときのことだったと思う。
「だれが、いつ、お前に産んでくれと頼んだア!」と。

しかしそれは同時に、私と母の間に、決定的なキレツを入れた。
いや、そのときはわからなかったが、ずっとあとになって、それがわかった。
私にとっては、母は母だったが、母にすれば、私は他人になった。

●帰宅拒否児

私は今で言う、帰宅拒否児だったと思う。
もちろんそのとき、それを意識したわけではない。
今にして振り返ってみると、それがよくわかる。
私は毎日、ほとんど例外なく、学校からまっすぐ家に帰ったことはない。
「寄り道」という言葉があるが、寄り道するのが当たり前。
寄り道しないで家に帰るということそのものが、考えられなかった。

寺の境内で遊んでいるときも、そうだった。
毎日、真っ暗になるまで、そこで遊んでいた。
そういう自分を振り返ってみると、「私は帰宅拒否児だった」とわかる。

原因は、これも今にしてわかることだが、私の家には、私の居場所すらなかった。
町中の小さな自転車屋で、「家庭」という雰囲気は、どこにもなかった。
居間の横が、トイレにつながる土間。
学校から帰ってきても、体を休める場所すらなかった。
加えて父の酒乱。
父は数日置きに酒を飲み、家の中で暴れた。
そのつど私は、近くに住む伯父の家に逃げた。

●親絶対教

私の生まれ育った地方には、「M教」という、親絶対教の本部がある。
私の父がまずその教団に入信。
それがそのまま、私の家の宗教になってしまった。

もっともM教というのは、仏教とかキリスト教とかいうような宗教とは一線を画して
いた。
冠婚葬祭には、ノータッチ。
そのため「道徳科学研究会」というような名前がついていた。
そのM教では、つねに「親」「先祖」、そして「天皇」を、絶対的な権威者として教える。
親や先祖、天皇に反抗するなどということは、もってのほか。
天皇を神格化すると同時に、先祖を神格化し、ついで親を神格化した。
子どもながらに私は、「ずいぶんと親にとっては、つごうのよい宗教だなあ」と思った。
で、ある夜、こんなことがあった。

M教では、毎月(毎週だったかもしれない?)、それぞれの家庭で、持ちまわり式に会合
を開いていた。
その夜も、そうだった。
私の家で、それがあった。

講師の男性が、声、高々に、こう言った。
「親の因果、子にたたり」と。
で、そうした話をしたあと、末席に座っていた私に向かって、その男性がこう言った。

「そこに座っているボーヤ(坊ちゃん)、君は、どう思うかね」と。

私はその夜のことをはっきりと覚えている。
私が小学3年生だったとことも、よく覚えている。
私はこう言った。
「たたりなんて、ない!」と。

そのあとのことはよく覚えていないが、私はその場から追い出された。
母がその場を懸命にとりつくろっていた。
そうした姿だけは、おぼろげながら記憶に残っている。

●母の葛藤

私は母にとっては、自慢の息子だった。
私は勉強もよくでき、学校でも目立った。
そのこともあって、母は、私をでき愛した。
小学3、4年生ごろまで、毎晩、私を抱いて寝た。
私がそれを求めたというよりは、習慣になっていた。
そういう姿を覚えている人は、ずっとあとになってから、私によくこう言った。
「お前は、母親にかわいがってもらったではないか。そういう恩を忘れたのか」と。

忘れたわけではない。
しかし母が本当に私を愛していたかというと、それは疑わしい。
母は、私が母から離れていくのを、何よりも許さなかった。
口答えしただけで、そのつど、ヒステリックな声を張り上げて、こう言った。
「親に向かって、何てことを言う!」「親に逆らうような子どもは、地獄へ落ちる」と。

そして私は中学2、3年になるころ、母は、大きなジレンマに陥った。
「進学校は地元の高校にしろ」「家のあとを継げ」「大学は国立大学以外はだめ」と。
一方で「勉強しろ」と言いながら、「家から出るな」と。

国立大学といっても、当時は一期校と二期校という名前で分類され、倍率はどこも10倍
前後はあった。
私が受験した金沢大学の法文学部法科にしても、倍率は、8・9倍だった。
「国立大学しかだめ」というのは、事実上、「大学へは行くな」という意味だった。

●演技性人格障害者

母は今にして思えば、演技性人格障害者ではなかったか。
極端にやさしく、善人の仮面をかぶった母。
しかしそれは表の顔。
が、その実、その裏に、猛烈にはげしい、別の顔を隠し持っていた。
今でも、母の評価について、「仏様のように、穏やかでやさしい人でした」と言う人は多い。
たしかにそういう面もあった。
私は否定しない。
そういうことを言う人に対しては、「そうです」と言って、それで終わる。
あえて私のほうから、「そうではなかったです」と言う必要はない。
言ったところで、理解してもらえなかっただろう。

しかし私たち子どもに対しては、ちがった。
母は自分に対する批判を、許さなかった。
他人でも母を批判する人を許さなかった。
ジクジクと、いつまでもその人をうらんだりした。

●仕送り

今のワイフと結婚する前から、私は収入の約半分を母に送っていた。
結婚するときも、それを条件に、結婚した。
だからワイフは何も迷わず、毎月、母への仕送りをつづけてくれた。
額にすれば、3万円とか4万円だった。
当時の大卒の初任給が、5~6万円前後の時代だったから、それなりの額だった。
母はそのつど、「かわりに貯金しておいてやる」「あとで返す」とか言った。
が、それはそのまま、やがて実家の生活費に組み込まれていった。

母は、たくみに私を操った。
私が電話で、「生活できるのか?」と聞くと、いつも涙声で、こう言った。

「母ちゃんは、ダイコンを食っているから、心配せんでいい。
近所の人が、野菜を届けてくれるし……」と。

だからといって、私がとくべつに親孝行の息子だったとは思っていない。
当時はまだ「集団就職」という言葉が残っていた。
都会へ出た子どもが、実家にいる親に金銭を仕送りするというようなことは、ごく
ふつうのこととして、みながしていた。
が、こんなこともあった。

●長男の誕生

長男が生まれたときのこと。
そのとき私たちは、6畳と4畳だけのアパートに住んでいた。
母は一週間、ワイフの世話をしてくれるということでやってきた。
しかしその翌日、母は私にこう言った。
「貯金は、いくらあるか?」と。
私は正直に、「24万円、ある」と答えた。
が、それを知ると母は、私にこう言った。
「その金を、私によこしんさい(=よこせ)。私が預かってやる」と。

ワイフは少なからず抵抗したが、私はその貯金をおろして、母に渡した。
が、それを受け取ると、母は、その翌日の朝早く、実家へ帰ってしまった。

以後、こういうことがしばしばあった。
が、母がお金を返してくれたことは、一度もない。
最後の最後まで、一度もない。

●金づる

話が入れ替わるが、今でもなぜ母が、私から貯金を持ち去ったかについて理由がよく
わからない。
実家は貧乏だったが、長男が生まれた当時はまだ父も生きていた。
祖父も生きていた。
兄も、それなりに稼業の自転車屋を手伝っていた。
お金には困っていなかったはず。

一方、そういうことをされながらも、私は母の行為を批判したりはしなかった。
「かわりに貯金しておいてやるで」という言葉を、まだ私は信じていた。
が、今になってみると、つまりこうして母のあのときの行為を書いてみると、
言いようのない怒りが胸に充満してくる。
「私はただの、金づるだったのか」と。

●逆の立場に立たされてみて

私の二男に子どもができた。
私にとっては、はじめての孫だった。
そのときのこと。
私は二男にお祝いのお金を渡すことは考えた。
しかしその二男からお金を取ることは考えなかった。
いわんや貯金を吐き出させて、自分のものにするなどという考えは、みじんも
考えなかった。
そのことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。

「あなたのお母さんは、特別よ」と。
その言葉を聞いたとき、ムラムラと怒りが私の心の中に充満するのを感じた。
が、私の母は、私に対して、それをした。
してはいけないことを、した。
ふつうの親なら、できないことをした。
それが逆の立場になってみたとき、私にわかった。

●逆の立場

それ以後も、母は、容赦なく、私からお金を奪っていった。
「奪う」という表現に、いささかの誇張もない。
あれこれ理由をつけて、奪っていた。
その行為には、情け容赦がなかった。

「近所の○○さんが、亡くなった。(だから香典を送ってくれ)」
「今度、M(=姉)の娘が結婚することになった。(だから祝儀を送ってくれ)」と。
多いときは、それが月に数度になった。

半端な額ではない。
叔父の葬儀には、50万円。
叔母の葬儀には、15万円。
伯父の葬儀には、30万円、と。

冠婚葬祭だけは派手にやる土地柄である。
私はそう思って仕送りをつづけたが、これにはウラがあった。
実際には、その大部分を母が自分のものにし、相手にはその何分の1も渡していなかった。
やがて私は、そうした母のやり方を知るところとなった。

●「悔しい」

問題は、なぜ、母は、私にそこまでしたかということ。
できたかということ。
それについては、名古屋市に住む従姉(いとこ)が、ずっとあとになって教えてくれた。

その従姉はこう話してくれた。
私が今のワイフと結婚届けを出した夜のこと。
母は親戚という親戚すべてに電話をかけ、「(息子を)取られた」「悔しい」と、
泣きつづけたという。
従姉もその電話を受け取っていた。

母は、私の前ではそういった様子を、おくびにも出さなかった。
私たちの結婚を祝福してくれたように、私は理解していた。
が、そうではなかった。
母は、私という息子を、ワイフに「取られた」と感じたらしい。
つまりそれが母の心の底にあって、その(恨み)が、私からお金を奪うという
行為につながっていった。
「大学まで出してやったのに、恩知らず」と。

今にして思うと、そう解釈できる。

●ダカラ論

『ダカラ論』ほど、身勝手な論理もない。
「親だから……」「子だから……」「男だから……」「女だから……」と。
ダカラ論を振りかざす人たちは、過去の伝統や風習、習慣を背負っているから強い。
問答無用式に、こちらをたたみかけてくる。

一方、それを受け取る側はどうかというと、反論するばあいも、その何十倍も、
理論武装しなければならない。
過去の伝統や風習、習慣と闘うというのは、それ自体、たいへんなことである。
それに相手は多勢。
こちらは無勢。
そういう相手が、どっと私に迫ってくる。
で、結局、『長いものには巻かれろ』式に、妥協するしかない。
「どんな親でも、親は親だからな」と言われ、「そうですね」と言って、そのまま
引きさがる。
いらぬ波風を立てるくらいなら、穏やかにすませたい。
いつしか私と母の関係は、そういう関係になっていった。

●バネ

しかし実際には、これがたいへんだった。
金銭的な負担感というよりは、社会的な負担感。
それがギシギシと、私の心を蝕(むしば)み始めた。
私が仕送りを止めたら、母と兄は、それこそ路頭に迷うことになる。
重圧感を覚えながらも、仕送りを止めるわけにはいかなかった。

が、幸いなことに、私の仕事は順調だった。
家族、みな、健康だった。
それに私は、戦後生まれの団塊の世代として、たくましかった。
あのドサクサの時代の中で、そう育てられた。
だから私は、母にお金を取られるたびに、それ以上のお金を稼いだ。
「畜生!」「畜生!」と、歯をくいしばって、そうした。
だからワイフは、ときどきこう言う。

「かえってそれがバネになったのよ」と。

●家族自我群

人間にも、鳥類に似た、「刷り込み」があるのが、最近の研究でわかってきた。
生後まもなくから、7か月前後までと言われている。
この時期を、「敏感期」と呼んでいる。
この敏感期に、親子の関係は、本能に近い部分にまで、徹底的に刷り込みがなされる。

もっとも親子関係が良好な間は、こうした刷り込みも、それなりに有用である。
親子の絆も、それでしっかりとしたものになる。
しかしその関係が一度崩壊すると、今度はそれが家族自我群となって、その人を苦しめる。

ふつうの苦しみではない。
何しろ本能に近い部分にまで、刷り込まれる。
だから心理学の世界でも、そうした苦しみを、「幻惑」と呼んでいる。
特別なものと考える。
私は、その幻惑に苦しんだ。

記憶にあるのは、40代のはじめのころのこと。
私はいつも電車を乗り継いで郷里へ帰ったが、実家が近づくたびに、電車の中で、
法華経の経文を唱えた。
またそうでもしないと、自分の心を落ち着かせることができなかった。

●兄のこと

兄についても書いておかねばならない。
兄は昭和13年生まれ。
私より9歳、年上だった。

ずっとあとになって、……というより亡くなる数年前に、専門医に自閉症と診断
されている。
そう、自閉症だった。
が、軽重を言えば、軽いものだった。
少なくとも中学校を卒業するまでは、そうだった。
アルバムの中の兄を見ても、ごくふつうの中学生だった。
その兄が大きく変化したのは、兄が中学を卒業し、稼業の自転車屋を継ぐようになって
からである。

父は兄を毎日のように、叱り、罵倒した。
本来なら母が間に入って、その関係を調整しなければならなかったが、母までが、
兄を毛嫌いし、兄を突き放した。
兄の精神状態がおかしくなり始めたのは、そのころのことだった。

自分の部屋に閉じこもり、レコードを聴いて過ごすことが多くなった。
あるいはニタニタと意味のわからない笑みを浮かべ、独り言を口にしたりした。

●干渉

田舎という地方性があったのかもしれない。
あるいは私の実家だけが、とくに同族意識が強かったのかもしれない。
実家が、「林家」という本家だったこともあり、叔父叔母、伯父伯母は言うに及ばず、
従兄たちまでもが、そのつど、私や私の家族に干渉してきた。

うるさいほどだった。

私の事情も知ることなく、また経緯(いきさつ)を知ることもなく、安易に、ダカラ論
をぶつけてきた。
干渉するほうは、親切心(?)から、そうしてくるのかもしれない。
あるいは好奇心からか?
事実、叔父、叔母も含めて、もちろん従兄弟たちも含めて、私は生涯にわたって、
1円たりとも金銭的援助を受けたことはない。

しかし干渉されるほうは、たまったものではない。
そのつど私は真綿で首を絞められるような苦しみを味わった。

が、いちいち説明することもできない。
私と母の関係を説明することもできない。
何しろ、親絶対教の信者たちばかりである。
そういう世界で、親の悪口を言えば、逆にこちらのほうが寄ってたかって、
袋叩きにされてしまう。

面従腹背というのは、まさにそれをいう。
私は心の奥では運命をのろい、外では、できのよい息子を演じた。
しかしこうした仮面をかぶるのも、疲れる。
一度だけだが、節介焼きの従兄と、喧嘩したこともある。

●従兄

その従兄は、ネチネチとした言い方で、いつも私を揶揄(やゆ)した。
用もないのに、「ゆうべ、浩司クンの夢を見たから……」と。

「Jちゃん(=私の兄名)が、入院したぞ」
「Jちゃんが、ものすごいスピードで、自単車で走っていたぞ」
「親は、どんな親でも、親だかなあ、ハハハ」と。

だから最後の電話で、こう叫んだ。

「偉そうなことを言うな。お前が、ぼくと同じように、20代のときから実家に
仕送りでもしていたというのなら、お前の話を聞いてやる。しかしそういうことも
ロクにせず、偉そうなことを言うな!」と。

それでその従兄とは、縁を切った。
「たがいに死ぬまで、連絡を取らない」と心に決めた。
昔の話ではない。
今から10年ほど前のことである。

●母の悪口

親絶対教の信者でなくても、親の悪口を書くのは気が引ける。
どこかに「書くべきでない」という不文律さえある。
しかし親といえども、1人の人間。
いつか息子や娘に、1人の人間として、評価を受けるときがやってくる。
大切なのはそのとき、その評価に耐えうる親になっているかどうかということ。
「親である」という立場に甘えてはいけない。
「親だから」という理由だけで、子どもの上に君臨してはいけない。

世の中には、親をだます子どもはいくらでもいる。
しかし同時に、子をだます親だっている。
悲しいことに、私の母が、そうだった。

私をだましてお金を奪うなどということは、朝飯前だった。
が、問題は、なぜ、そうだったかということ。
なぜ、母は、そうなったかということ。

●母の奴隷

稼業は自転車屋だったが、生涯において、母は、一度もドライバーを握ったことがない。
手を油で汚したことはない。
店先に立って、客の応対をしたことはよくあるが、それでも手を汚したことはない。

父や兄は仕事が終わると、一度、道路に出て、外付けの水道で手を洗った。
そして裏口から家に入ると、そこでもう一度、手を洗った。
ふつう自転車屋というと、どこも、裏の裏の、トイレのノブまで油で黒くなっている。
が、私の家ではちがった。
母がそれを許さなかった。

そんなこともあって、家の中の掃除は母がしたが、土間の掃除は、兄がした。
窓拭きも、道路掃除も、兄がした。
母はしなかった。
姉もしなかった。
すべて兄がした。
兄は、死ぬまで、ずっと母の奴隷のような存在だった。

●仮面

私の母をさして、「いい人だった」と言う人は、多い。
「あなたのお母さんは、やさしく、親切な人だった」と言う人も、多い。
事実、母は、実にこまめな人だった。
人が来るとお茶を出し、始終、やさしい言葉をかけた。
食事も出し、めんどうもみた。
そしてことあるごとに、相手や相手の家族を気遣った。

「○○さんは、お元気ですかね」と。
穏やかな慈愛に満ちた言い方が、母の特徴だった。
しかし本心で気遣ったわけではない。
母はそういう言い方をしながら、相手の家の内情をさぐった。
だからその人が帰ると、いつもこう言って笑った。

「あの家の嫁さんは、鬼や。株で損して、家計は火の車や」と。

いつしか母は、仮面をかぶったまま、その仮面をはずせなくなってしまった。
恐らく母も、どれが本当の自分の顔かわからなくなってしまっていたのではないか。
自分では、「私は苦労した」「よくできた人間」と、言っていた。
本気でそう思い込んでいた。
で、その一方で、心に別室を作り、邪悪な自分をどんどんとそこへ押し込んでいった。

●仮面

兄もそうだったが、母は、相手の視線を感じたとたん、態度を変えた。
それは天才的ともいえるほどの技術だった。
こんなことがあった。

10年ほど前のこと。
兄、姉、それに私たち夫婦で、いっしょに食事に行ったことがある。
私は久しぶりに母に会った。
が、驚いたことに母は、ほとんど歩けなかった。
で、食事がすんで駐車場に向かうとき、そこまでは10メートル前後だったと思うが、
私とワイフが両側からから、母を支えた。
母は、ほんの数10センチほどずつ、ヨボヨボと歩いた。

で、そのあと、母がいないとき、それについて姉にたずねると、姉は、何かしら
意味のわからない笑みを浮かべた。
私には、その意味がわかった。
事実、その数日後、母は、クラブの仲間と、実家から2キロ戦後もある小間物屋まで
歩いて行っている。

●同情と依存

老人がまわりの人たちの同情を買うため、わざと弱々しい老人を演じてみせることは
よくある。
中にはわざとヨロけてみせたり、ものを食べられないフリをしてみせたりする。
兄にしても、よく道路でころんでみせたりした。
しかしそれとて、まわりの人たちの同情を買うため。
その証拠に、兄にしても、自分の身に危険が及ぶようなところでは、けっして
ころばなかった。

母もそうで、自分のプライドが傷つくようなところでは、けっして弱みをみせなかった。
たとえば病院の待合室など。
それまではヨボヨボしていても、廊下の向こうから知人が歩いてきたりすると、とたん、
背筋をピンと伸ばしたりした。
話し方までも変えた。

●ものすごい人

それでも私の母を評して、「すばらしい女性」と言う人は多かった。
私も、あえて、それには反論しなかった。
だれしも、表の顔もあれば、裏の顔もある。
私にだって、ある。
が、母のばあい、息子の私ですら、裏の顔を見抜くのに、30数年もかかった。
「どうもおかしい?」と思い始めたのが、そのときだった。
いわんや、他人をや。
「私にだって見抜けなかった。どうしてあなたに……!」と、そのつど思った。

そういう意味では、私の母は、ものすごい女性だった。
尋常の神経の持ち主ではない。
また常識で理解できるような女性でもない。
ワイフもそのつど、こう言った。
「あなたのお母さんは、ものすごい人ね」と。
けっして尊敬していたから、そういったのではない。
「あきれてものも言えない」という意味で、そう言った。

●遊離

心の状態、これを情意という。
その情意と、外に現れた表情が、まったくズレていた。
心理学的には、そういう状態を、「遊離」と呼ぶ。
母を一言で評すると、そういうことになる。

息子の私ですら、母がそのとき何を考えているか、さっぱり理解できないことが多かった。
ウソと虚飾のかたまり。
それが母のすべてだった。

母がまだ私に気を許しているとき、よく叔父や叔母の悪口を言った。
口が枯れるまで、叔父や叔母を、口汚くののしった。
が、そこに叔父や叔母がいると、態度が一変した。
そういう姿を、私はよく見ていた。
だから何度も私は、こう言った。
「そんなにイヤな奴なら、つきあうな」と。
が、母には、それができなかった。
つぎに会うと、再び、何ごともなかったかのように、親しげに話し込んだりしていた。
私が子どものころには、そういう母を、尊敬したこともある。
「商売というのは、そういうもの」と、母を通して、感心したこともある。

どんなに虫の居所が悪くても、瞬時に笑顔に変えて、客と接する、と。
しかしそれも度を越すと、「遊離」となる。
へたをすれば、心がバラバラになってしまう。
そういう意味では、母は、不幸な女性だった。
どこにも自分がなかった。

●信じられるのは、お金だけ(?)

ある日、母から電話がかかってきた。
「(実家の伯父の)、Sを助けてやってほしい」という電話だった。
「今度、(Sの)二男が結婚することになった。ついては、金を貸してやってほしい」と。
私が30歳になったころのことだった。

私は金の貸し借りは、しないと心に決めていた。
で、断った。
が、1週間もしないうちにまた電話があり、「では、山を買ってやってほしい」と。
私は即座に値段を交渉し、その数日後には、x00万円をもって、伯父の家に向かった。

母が先にそこに来ていた。
……ということで、当時ですら、相場の10倍以上の値段で、その山を買わされるハメに
なった。
これはあとで聞いたことだが、伯父にしても、その直前、120万円で購入した山だった。
そればかりか、伯父はその後、10年近く、管理費と称して、私に現金を請求してきた。

以後、伯父からはいっさいの連絡はなし。
「山を買い戻してほしい」と何度も手紙を書いたが、それにも返事もなかった。

母はその伯父とは、一卵性双生児と言われるほど、仲がよかった。
一時は伯父を詐欺罪で告発する準備もしたが、母が間に入っているため、それも
できなかった。

●世間体

母の人生観の基本にあったのが、「世間体」だった。
それが人生観といえるほどの「観」といえるかどうかは、疑問だが、母はあらゆる場面で、
世間体を気にした。

「世間が笑う」
「世間が許さない」
「世間体が悪い」など。
そのつど「世間」という言葉をよく使った。

こうした生き様は、江戸時代の、あの封建主義時代の亡霊そのものと断言してよい。
「みなと同じことをしていれば安心」、しかし「それからはずれると、容赦なく叩かれる」。
没個性の反対側にある生き方、それが母の生き方だった。
だから私も、子どものころから、いつもみなと同じように生きることを強いられた。
服装にしても、そうだった。
髪型にしても、そうだった。
……といっても、当時は、それほどバリエーションがあったわけではない。
が、それでも私が、ふつうの子どもとちがったかっこうをするのを、許さなかった。

母自身にしても、そうだ。
自転車屋の女主人でありながら、生涯にわたって、ただの一度も、自転車にまたがった
ことがない。
「女は自転車に乗ってはいけない」という、いつかどこかで学んだ教え(?)を、
かたくなに守った。
1年のほとんどを、和服で過ごしていたこともある。

●母の苦労

母は、ことあるごとに、「私は苦労した」と言った。
祖父母の介護で、苦労した。
夫の世話で苦労した。
兄で苦労した。
私のことで苦労した、と。
だから近所でも、また親戚中でも、母は、苦労人で通っていた。
だからみなは、こう言う。
「あなたのお母さんは、苦労をなさったからねえ」と。

もし母に苦労があったとするなら、それは運命との戦いだった。
母は、つねに運命と戦った。
不本意な結婚。
病弱な父と兄。
気の強い姑。
その介護。

しかし運命というのは、受け入れてしまえば、何ともない。
運命のほうからシッポを巻いて逃げていく。

その第一。
母は、自転車屋の父と結婚したが、商人の女将にもなりきれなかった。
かといって、金持ちの奥様にもなれなかった。
だからたいへんおかしなことに、最後の最後まで、自分は自転車屋の女将とは、
思っていなかった。
それを認めていなかった。
だからたとえば、近所の人たちの職業を、よくけなした。
「あそこは、どうの」「ここは、どうの」と。
「ロクでもない仕事」という言葉もよく使った。
で、ある日、私はこう言ったことがある。
「うちだって自転車屋だろ。そう、いばれるような職業ではないだろ」と。
それを言ったとき、母は、「うちは、ちがう!」と、血相を変えて怒った。

母にしてみれば、死ぬまで、母はN家という名家の出だった。
またその世界から一歩も、外に出ることがなかった。

また他人は、母のことを苦労人と思っていたが、そう思わせたのは、実は母自身だった。
母は、そういう点でも、口のうまい女性だった。

●一事が万事

そんなわけで、母との思い出は、ほとんどない。
浜松に移り住んでからも、お金を奪いに来たことはあるが、たとえば私の息子たちの
ために何かをしてくれたことは一度もない。
で、三男が小学6年生になったときのこと。
私は「一度でいいから、参観日に来てやってほしい」と懇願したことがある。
「これが最後になるから……」と。

その電話を受けて、母は、オイオイと電話口の向こうで泣いた。
「浩ちゃん、ごめんな……。母ちゃんは行ってやりたいけど、足が痛いのや……」と。

私はそれを聞いてあきらめたが、この話は、ウソだった。
その日母は、クラブの仲間たちと、一泊旅行に出かけていた。
あとで私がそれを知り、母を責めると、母は悪びれた様子もなく、ケラケラと笑いながら、
こう言った。
「ハハハ、バレたかなも」と。

そんなこともあって、私は母から受け取ったものは、何もない。
私が結婚したとき、親戚の中には、私に祝いを届けてくれた人もいたらしいが、
そういったお金は、すべて、1円残らず、すべて母が自分のふところに入れてしまった。

で、それについても、ずっとあとになってから、私が母に、「お前からもらったものは
何もないなア……」とこぼすと、母は、こう言った。
「そんなこと、あらへん。(二男が生まれたとき)、(二男に)ふとんを送った」と。

私はそれを忘れていた。
で、その話をすると、ワイフはそう言えば……と、そのふとんのことを思い出してくれた。
が、そのふとんというのは、私が幼児のころ使っていたふとんである。
ふとんの絵柄に思い出が残っていた。

まさに一事が万事、万事が一事だった。

●決裂

私が母と決裂したのには、いくつかの理由がある。
理由というより、段階がある。
そのつど、私は母にだまされ、そのつど、それを乗り越えた。
が、最後に決裂したのは、こんな事件があったから。

そのとき私は、母に土地の権利書を渡した。
実家を改築するときに、担保として、私が譲り受けたものである。
実家の改築に1800万円程度の費用がかかった。
大半をローンでまかなった。
そのとき、母名義の土地を、私が譲り受けた。
坪数は30坪前後。
当時の価格からしても、500万円にもならなかった。
銀行に相談しても、「その土地では、金を貸さない」と言われた。

で、そのままその権利書は、私が預かった。
しかたないので、私は私の自宅の土地を担保にして、お金を借りた。

が、その土地を、私が知らないときに、言葉巧みに権利書を自分のものにすると、
それをそのまま他人に転売してしまった。
泣いて私がそれに抗議すると、母は、平然とこう言ってのけた。

「親が先祖を守るために、子の金を使って、何が悪い!」と。
罵声以上の怒鳴り声だった。

●煩悶

それから10か月。
私はワイフの介抱なくして眠られなかった。
夜、床に就くたびに、体中がほてり、脈がはげしくなった。
ワイフはそのつど、氷で頭を冷やしてくれた。

あるいは夜中に、うなされることもつづいた。
突然、飛び起きて、ウォーと声を張り上げることもあった。
しかし夢となると、もっと多かった。
朝起きると、ワイフは、よくこう言った。

「あなた、昨夜も、うなされていたわ。お母さんと喧嘩していたわ」と。

●干渉

が、数か月もすると、伯父から電話がかかってきたりした。
説教がましい電話だった。
裏で、母がどのように伯父に泣きついていたかは、容易に察しがついた。
叔父は、そのつど、こう言った。

「姉を大切にしろよ。親は親だからな」「親の恩を忘れるな」と。

そのうち従兄たちからも電話がかかってくるようになった。
「おばちゃんが、ころんだぞ」
「おばちゃんが、入院したぞ」と。

従兄たちも、母に、よいように操られていた。

私には知ったことではなかった。
実際には、そのつど姉の方から電話を受けて、それを知っていた。
しかし新類は、それを許してくれなかった。
私はそのつど、身をひきちぎる思いで、それに妥協した。

●人間不信

母がああいう母であったことについては、それが運命であるなら、しかたない。
母は母で、あの時代の申し子。
母のような人は、あの時代には、珍しくなかった。
「江戸時代」というと、遠い昔のことのように思う人もいるかもしれない。
しかし母の時代にしてみれば、江戸時代といっても、ほんの一世代前のことだった。
「家」意識にしても、逆に、1世代や2世代くらいで、消えるような意識ではない。
母は、それを引きずっていた。

母だけではない。
どこにでもいるとまでは言わない。
が、似たような人は、いくらでもいた。
今でもいる。

が、私にとって何よりもつらかったのは、そうした母をもったことによって、
人を信じられなくなってしまったこと。
「女はみな、そういうもの」という意識は、「ワイフも似たようなもの」という
意識に、そのつど、変化した。
しかし私がそういう意識をもつことで、いちばん苦しんだのは、結局は、私の
ワイフということになる。

●母の孤独

一方、母の孤独については、とくに晩年、それが痛いほど、よくわかった。
母はちぎり絵に没頭したが、楽しかったから、没頭したわけではない。
何かに取りつかれたかのように没頭した。
楽しんでいるというよりは、何かから逃れるために、そうした。
私にはそれがよくわかったが、しかしどうすることもできなかった。

何度か、まわりの人たちに、「一度でいいから、私に謝罪してほしい」と伝えた
ことがある。
しかしどの人もこう言った。
「親が、子に謝るなどいうことは、あってはならない」
「親は親だから、どんな親でも、親は子に謝る必要はない」と。

親絶対教というのは、そういうのをいう。
しかし私は一度でも母が、「私が悪かった」と言ってくれれば、それで許すつもりでいた。
この小さな地球上の、そのまた小さな国で、近親者が憎しみあって、どうする?
この世に生を受けたこと自体が奇跡。
この地球上に何十億人という人たちがいるが、生涯にわたって交際する人となると、
ほんの数えるほどしかいない。

ウソではない。
私は、一度でも母が、「私が悪かった」と要ってくれれば、それを許すつもりでいた。
が、母は、そういう人ではなかった。
それができる人でもなかった。
もしそれをすれば、母は、それまでの自分に生き様を否定することになる。
母としてそれができなかった。
それも、私にはよくわかっていた。

●10年のブランク

私は母との関係を切った。
それが10年近く、つづいた。
その間、冠婚葬祭、親族会などをのぞいて、私は郷里へは戻らなかった。
お金の仕送りも止めた。

が、その間に、母はいろいろな病気を繰り返した。
骨折して入院もした。
またそれがはじまりで、そのあとは、歩くのもままならなくなった。
介護が必要となった。

母は姉の家に2年いたあと、今度は、私が引き取ることになった。
そして同じく私の家に2年いたあと、他界した。

●最後の会話

2008年、11月11日、夜、11時を少し回ったときのこと。
ふと見ると、母の右目の付け根に、丸い涙がたまっていた。
宝石のように、丸く輝いていた。
私は「?」と思った。
が、そのとき、母の向こう側に回ったワイフが、こう言った。
「あら、お母さん、起きているわ」と。

母は、顔を窓側に向けてベッドに横になっていた。
私も窓側のほうに行ってみると、母は、左目を薄く、開けていた。

「母ちゃんか、起きているのか!」と。
母は、何も答えなかった。
数度、「ぼくや、浩司や、見えるか」と、大きな声で叫んでみた。
母の左目がやや大きく開いた。

私は壁のライトをつけると、それで私の顔を照らし、母の視線の
中に私の顔を置いた。
「母ちゃん、浩司や! 見えるか、浩司やぞ!」
「おい、浩司や、ここにいるぞ、見えるか!」と。

それに合わせて、そのとき、母が、突然、酸素マスクの向こうで、
オー、オー、オーと、4、5回、大きなうめき声をあげた。
と、同時に、細い涙が、数滴、左目から頬を伝って、落ちた。

ワイフが、そばにあったティシュ・ペーパーで、母の頬を拭いた。
私は母の頭を、ゆっくりと撫でた。
しばらくすると母は、再び、ゆっくりと、静かに、眠りの世界に落ちていった。

それが私と母の最後の会話だった。

●あごで呼吸

朝早くから、その日は、ワイフが母のそばに付き添ってくれた。
私は、いくつかの仕事をこなした。
「安定しているわ」「一度帰ります」という電話をもらったのが、昼ごろ。

私が庭で、焚き火をしていると、ワイフが帰ってきた。
が、勝手口へ足を一歩踏み入れたところで、センターから電話。
「呼吸が変わりましたから、すぐ来てください」と。

私と母は、センターへそのまま向かった。
車の中で焚き火の火が、気になったが、それはすぐ忘れた。

センターへ行くと、母は、酸素マスクの中で、数度あえいだあと、そのまま
無呼吸という状態を繰りかえしていた。
「どう、呼吸が変わりましたか?」と聞くと、看護婦さんが、「ほら、
あごで呼吸をなさっているでしょ」と。

私「あごで……?」
看「あごで呼吸をなさるようになると、残念ですが、先は長くないです」と。

私には、静かな呼吸に見えた。

私はワイフに手配して、その日の仕事は、すべてキャンセルにした。
時計を見ると、午後1時だった。

●血圧

血圧は、午前中には、80~40前後はあったという。
それが午後には、60から55へとさがっていった。
「60台になると、あぶない」という話は聞いていたが、今までにも、
そういうことはたびたびあった。
この2月に、救急車で病院へ運ばれたときも、そうだった。

看護婦さんが、30分ごとに血圧を測ってくれた。
午後3時を過ぎるころには、48にまでさがっていた。
私は言われるまま、母の手を握った。
「冷たいでしょ?」と看護婦さんは言ったが、私には、暖かく感じられた。

午後5時ごろまでは、血圧は46~50前後だった。
が、午後5時ごろから、再び血圧があがりはじめた。

そのころ、義兄夫婦が見舞いに来てくれた。
私たちは、いろいろな話をした。

50、52、54……。

「よかった」と私は思った。
しかし「今夜が山」と、私は思った。
それを察して、看護士の人たち数人が、母のベッドの横に、私たち用の
ベッドを並べてくれた。
「今夜は、ここで寝てください」と。

見ると、ワイフがそこに立っていた。
この3日間、ワイフは、ほとんど眠っていなかった。
やつれた顔から生気が消えていた。

「一度、家に帰って、1時間ほど、仮眠してきます」と私は、看護婦さんに告げた。
「今のうちに、そうしてください」と看護婦さん。

私は母の耳元で、「母ちゃん、ごめんな、1時間ほど、家に行ってくる。またすぐ
来るから、待っていてよ」と。

私はワイフの手を引くようにして、外に出た。
家までは、車で、5分前後である。

●急変

家に着き、勝手口のドアを開けたところで、電話が鳴っているのを知った。
急いでかけつけると、電話の向こうで、看護婦さんがこう言って叫んだ。
「血圧が計れません。すぐ来てください。ごめんなさい。もう間に合わないかも
しれません」と。

私はそのまままたセンターへ戻った。
母の部屋にかけつけた。

見ると、先ほどまでの顔色とは変わって、血の気が消え失せていた。
薄い黄色を帯びた、白い顔に変わっていた。

私はベッドの手すりに両手をかけて、母の顔を見た。
とたん、大粒の涙が、止めどもなく、あふれ出た。

●下痢

母が私の家にやってきたのは、その前の年(07年)の1月4日。
姉の家から体を引き抜くようにして、抱いて車に乗せた。
母は、「行きたくない」と、それをこばんだ。

私は母を幾重にもふとんで包むと、そのまま浜松に向かった。
朝の早い時刻だった。

途中、1度、母のおむつを替えたが、そのとき、すでに母は、下痢をしていた。
私は、便の始末は、ワイフにはさせないと心に決めていた。
が、この状態は、家に着いてからも同じだった。

母は、数時間ごとに、下痢を繰り返した。
私はそのたびに、一度母を立たせたあと、おむつを取り替えた。

母は、こう言った。
「なあ、浩司、オメーニ(お前に)、こんなこと、してもらうようになるとは、
思ってもみなかった」と。
私も、こう言った。
「なあ、母ちゃん、ぼくも、お前に、こんなことをするようになるとは、
思ってもみなかった」と。

その瞬間、それまでのわだかまりが、うそのように、消えた。
その瞬間、そこに立っているのは、私が子どものころに見た、あの母だった。
やさしい、慈愛にあふれた、あの母だった。

●こだわり

人は、夢と希望を前にぶらさげて生きるもの。
人は、わだかまりとこだわりを、うしろにぶらさげながら、生きるもの。
夢と希望、わだかまりとこだわり、この4つが無数にからみあいながら、
絹のように美しい衣をつくりあげる。

無数のドラマも、そこから生まれる。
私と母の間には、そのわだかまりとこだわりがあった。
大きなわだかまりだった。
大きなこだわりだった。

が、それがどうであれ、現実には、その母が、そこにいる。
よぼよぼした足で立って、私に、尻を拭いてもらっている。

●優等生

1週間を過ぎると、母は、今度は、便秘症になった。
5、6日に1度くらいの割合になった。
精神も落ち着いてきたらしく、まるで優等生のように、私の言うことを聞いてくれた。

ディサービスにも、またショートステイにも、一度とて、それに抵抗することなく、
行ってくれた。
ただ、やる気は、失っていた。

あれほどまでに熱心に信仰したにもかかわらず、仏壇に向かって手を合わせることも
なかった。
ちぎり絵も用意してみたが、見向きもしなかった。
春先になって、植木鉢を、20個ほど並べてみたが、水をやる程度で、
それ以上のことはしなかった。
一方で、母はやがて我が家に溶け込み、私たち家族の一員となった。

●事故

それまでに大きな事故が、3度、重なった。
どれも発見が早かったからよかったようなもの。
もしそれぞれのばあい、発見が、あと1~2時間、遅れていたら、母は死んでいた
かもしれない。

一度は、ベッドと簡易ベッドの間のパイプに首をはさんでしまっていた。
一度は、服箱の中に、さかさまに体をつっこんでしまっていた。
もう一度は、寒い夜だったが、床の上にへたりと座り込んでしまっていた。

部屋中にパイプをはわせたのが、かえってよくなかった。
母は、それにつたって、歩くことはできたが、一度、床にへたりと座ってしまうと、
自分の手の力だけでは、身を立てることはできなかった。

私とワイフは、ケアマネ(ケア・マネージャー)に相談した。
結論は、「添い寝をするしかありませんね」だった。
しかしそれは不可能だった。

●センターへの申し込み

このあたりでも、センターへの入居は、1年待ちとか、1年半待ちとか言われている。
入居を申し込んだからといって、すぐ入居できるわけではない。
重度の人や、家庭に深い事情のある人が優先される。
だから「申し込みだけは早めにしておこう」ということで、近くのMセンターに
足を運んだ。
が、相談するやいなや、「ちょうど、明日から1人あきますから、入りますか?」と。

これには驚いた。
私たちにも、まだ、心の準備ができていなかった。
で、一度家に帰り、義姉に相談すると、「入れなさい!」と。

義姉は、介護の会の指導員をしていた。
「今、断ると、1年先になるのよ」と。
これはあとでわかったことだったが、そのとき相談にのってくれたセンターの
女性は、そのセンターの園長だった。

●入居

母が入居したとたん、私の家は、ウソのように静かになった。
……といっても、そのころのことは、よく覚えていない。
私とワイフは、こう誓いあった。

「できるだけ、毎日、見舞いに行ってやろう」
「休みには、どこかへ連れていってやろう」と。

しかし仕事をもっているものには、これはままならない。
面会時間と仕事の時間が重なってしまう。
それに近くの公園へ連れていっても、また私の山荘へ連れていっても、
母は、ひたすら眠っているだけ。
「楽しむ」という心さえ、失ってしまったかのように見えた。

●優等生

もちろん母が入居したからといって、肩の荷がおりたわけではない。
一泊の旅行は、三男の大学の卒業式のとき、一度しただけ。
どこへ行くにも、一度、センターへ電話を入れ、母の様子を聞いてからに
しなければならなかった。

それに電話がかかってくるたびに、そのつど、ツンとした緊張感が走った。
母は、何度か、体調を崩し、救急車で病院へ運ばれた。
センターには、医療施設はなかった。

ただうれしかったのは、母は、生徒にたとえるなら、センターでは
ほとんど世話のかからない優等生であったこと。
冗談好きで、みなに好かれていたこと。
私が一度、「友だちはできたか?」と聞いたときのこと。
母は、こう言った。
「みんな、役立たずばっかや(ばかりや)」と。
それを聞いて、私は大声で笑った。
横にいたワイフも、大声で笑った。
「お前だって、役だ立たずやろが」と。

加えて、母には、持病がなかった。
毎日服用しなければならないような薬もなかった。

●問題

親の介護で、パニックになる人もいる。
まったく平静な人もいる。
そのちがいは、結局は(愛情)の問題ということになる。
もっと言えば、「運命は受け入れる」。

運命というのは、それを拒否すると、牙をむいて、その人に襲いかかってくる。
しかしそれを受け入れてしまえば、向こうから、尻尾を巻いて逃げていく。
運命は、気が小さく、おくびょう者。

私たちに気苦労がなかったと言えば、うそになる。
できれば介護など、したくない。
しかしそれも工夫しだいでどうにでもなる。

加齢臭については、換気扇をつける。
事故については、無線のベルをもたせる。
便の始末については、私のばあいは、部屋の横の庭に、50センチほどの
深さの穴を掘り、そこへそのまま捨てていた。
水道管も、そこまではわせた。

ただ困ったことがひとつ、ある。
我が家にはイヌがいる。
「ハナ」という名前の猟犬である。
母と、そしてその少し前まで私の家にいた兄とも、相性が合わなかった。
ハナは、母を見るたびに、けたたましくほえた。
真夜中であろうが、早朝であろうが、おかまいなしに、ほえた。

これについても、いろいろ工夫した。
たとえば母の部屋は、一日中、電気をつけっぱなしにした。
暖房もつけっぱなしにした。
そうすることによって、母が深夜や早朝に、カーテンをあけるのをやめさせた。
ハナは、そのとき、母と顔を合わせて、ほえた。
いろいろあったが、私とワイフは、そういう工夫をむしろ楽しんだ。

●あんたら、鬼や

それから約1年半。
母の92歳の誕生日を終えた。
といっても、そのとき母は、ゼリー状のものしか、食べることができなくなっていた。
嚥下障害が起きていた。
それが起きるたびに、吸引器具でそれを吸い出した。
母は、それをたいへんいやがった。
ときに看護士さんたちに向かって、「あんたら、鬼や」と叫んでいたという。

郷里の言葉である。

私はその言葉を聞いて笑った。
私も子どものころ、母によくそう言われた。
母は何か気に入らないことがあると、きまって、その言葉を使った。
「お前ら、鬼や」と。

●他界

こうして母は、他界した。
そのときはじめて、兄が死んだ話もした。
「Jちゃん(=兄)も、そこにいるやろ。待っていてくれたやろ」と。
兄は、2か月前の8月2日に、他界していた。

母の死は、安らかな死だった。
どこまでも、どこまでも、安らかな死だった。
静かだった。
母は、最期の最期まで、苦しむこともなく、見取ってくれた看護婦さんの
話では、無呼吸が長いかなと感じていたら、そのまま死んでしまったという。

穏やかな顔だった。
やさしい顔だった。
顔色も、美しかった。

母ちゃん、ありがとう。
私はベッドから手を放すとき、そうつぶやいた。

2008年10月13日、午後5時55分、母、安らかに息を引き取る。


Hiroshi Hayashi++++++++May・09++++++++++はやし浩司

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