2009年5月11日月曜日

*Life is the matter of Choice

●5月10日(人生は選択の問題)

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このところフルハイビジョンテレビの迫力に
押されて、映画館へは足を運んでいない。
(見たい映画がないということもあるが……。)
そのかわり、家でビデオを見ることが多くなった。
で、昨夜は、スティーブン・スピルバーグ監督の
『アメージング・ストーリー』。
たいへん古い映画である。
雰囲気からして、20~30年くらい前の映画ではないか。
私はその映画が好きで、ビデオで公開されるたびに、
それを借りてきた。
全部、見た……はず。

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●記憶

DVDは2本、借りてきた。

短編が3作ずつ収録されているから、計6作ということになる。
が、うち4作ほどは、おぼろげながらも、内容を覚えていた。
しかし残り2作は、はじめて見たと言ってよいほど、内容を覚えていなかった。
どういうことだろう?
見ていなかったのか?
それとも忘れてしまったのか?

DVDを見ながら、自信がゆらいできた。
単純に計算すると、こうなる。

仮に私がその映画を、40歳のときに見たとしよう。
この計算によれば、その時代の6分の2、つまり3分の1は、記憶から完全に
消えてしまったことになる。
あの時代の1年のうち、約4か月は、完全に記憶から消えてしまったことになる(?)。
(こんなふうに、単純に計算することは、正しくないことは、よく知っているが……。)

40歳のころ、私はたしかに生きた。
しかしそのうちの3分の1の時間は、「生きた」という実感もないまま、どこかへ
消えてしまった?
……というふうにも、理解できる。
さらに言えば、その時間の中の私は、私は死んだも同然ということにもなる。
(少し、大げさかな?)

●無益に100年生きるよりも……

が、人生というのは、おおむね、そんなもの。
「今」という時にしても、10年後に残る時間など、3分の1もない。
(3分の1も残れば、御の字かも。)
実際には、加齢とともに、人生の密度は薄くなるから、5分の1とか、10分の1
とかになる。

言い換えると、人生というのは、過ごし方の問題。
過ごし方によって、2倍にも、3倍にもすることができる。
反対に過ごし方をまちがえると、(死んだも同然)となる。
そこで結論。

大切なことは、長生きをすることではない。
今のこの時を、2倍、3倍にして生きる。
そうすれば同じ10年でも、それを20年、30年にして生きることができる。
『人生は長さではなく、密度の問題』。

さらに言えば、『無益に100年生きるよりも、有益に1年を生きたほうがよい』と
いうことになる。
『朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり(子曰、朝聞道、夕死可矣)』というのも、
同じ意味である。
論語の中の一節である。
つまり「その日の朝に真実を知れば、それ以上長生きしたところで意味はない。
夕方に死ぬことになっても後悔はしない」と。

●日々を選ぶ

このことは私たちに重要な教訓を残している。
つまり与えられた時間は同じでも、使い方によって、それを2倍にすることもできるが、
反対に半分にしてしまうこともあるということ。
人生というのは、「使い方」というよりは、「選択の問題」ということになる。

たとえば同じDVDを見るにしても、印象に残らないような、くだらないのを見ても、
意味はないということ。
時間の無駄。
人生の無駄。
時間つぶしにもならない。
自分を殺しながら、殺しているという事実にすら、気がつかない。

よい例が、あのバラエティ番組。
見るからにその程度の人たちが、意味のないことを言いあいながら、ゲラゲラ、
ギャーギャーと騒いでいる。
そのときはそれなりに結構楽しいが、そういうのを見ている時間というのは、
結局は、(死んだも同然)ということになる。

そこでどうせ見るなら、10年後、20年後に、しっかりと記憶に残るものがよい。
それが時間を有効に使うということになるし、人生を長く生きるということになる。
つまり「選択の問題」ということになる。

DVDやテレビにかぎらない。
仕事にしても、人と会うにしても、また交際するにしても、そのつど「選ぶ」。
その選び方を誤ると、10年後には、何も残らない人生を送ってしまうことになる。

要するに日々の選択にこそ、人生をどう生きるかの知恵が隠されている。

●再び、選択

同じ映画でも、強烈な印象を受けた映画は、よく覚えている。
たった1度しか見ていない映画でも、よく覚えている。
そうでない映画は、そうでない。

が、ここでまた別の問題にぶつかる。
映画にせよ、人生にせよ、どう選ぶかという問題である。
中には、「娯楽なのだから、楽しめばいい」と考える人もいるかもしれない。
「見て、すぐ忘れたからといって、無駄になったということではない」と。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。

若いときのように、死がはるか遠くにあって、それを気にしないというのであればよい。
しかし50歳、60歳となると、死をすぐ近くに感ずるようになる。
親しかった人も、つぎつぎと死んでいく。
そうなると、「楽しめばいい」という考え方は、どこかへ吹き飛んでしまう。

そこで大切なことは、やはり、「選択」ということになる。
言い換えると、これから先は、「どう生きるか」ではなく、「どう選択するか」ということ。

人を選ぶ。
仕事を選ぶ。
行動を選ぶ。
常に選びながら、生きる。

年数は正確には計算できないが、スティーブン・スピルバーグの『アメージング・
ストーリー』を見ながら、そんなことを考えた。

(付記)

実のところ、この1週間、原稿をほとんど書いていない。
……書けなかった。
スランプ状態になってしまった。
第一の原因は、電子マガジンの読者が、この数か月以上、ほとんどふえなかった。
毎日が、苦しかった。
「しばらく休刊にしよう」と、何度も考えた。
ワイフもそう言った。
「そんなに苦しいのなら、休刊にしたら」と。

もちろん中には、毎回読んでくれている読者もいる。
ときどきだが、そういうメールをもらう。
しかし90%以上の読者は、(あるいは99%以上の読者は)、軽く目を通して、
そのまま削除。
私自身も、他人のマガジンをそのようにして読んでいるので、その気持ちがよくわかる。
読者の方を責める気持ちは、まったくない。
しょせん電子マガジンというのは、そういうもの。

「何かしら、壮大な無駄をしているのでは?」という、疑問がムラムラと胸をふさいだ。
とたん書く気が半減、喪失した。
「こんなことをしていて、何になるのだろう?」と。

さらに一言、付け加えるなら、私の読者は、そのほとんどが女性。
母親。
よけいに、むずかしい。

女性というのは、情報を得ても、それを自分だけの世界に閉じ込めてしまう。
けっして、外の世界に広めてくれない。
何かよい情報を手に入れたりしても、こっそりと自分のものにして、それでおしまい。
男性のように、他人に向かって、「これはおもしろいから、お前も読んでみろ」という
ようなことをしてくれない。
(もちろんそうでない女性もいるが、しかし私が知るかぎり、そういう女性は少数派。)

ほかにもたとえば子育て相談などにのってやっても、女性のばあいは、たいてい、
「はい、ありがとう」だけですんでしまう。
男性のばあいは、そのあと、何らかのアクションが、かならずといってよいほど、ある。

女性、つまり母親たちとは、もう何十年もつきあってきたから、そういう女性特有の
心理がよくわかっている。
女性を責めているわけではない。
ただ、こういうことは言える。

女性も、そのあたりから自分を基本的に見直さないと、真の意味での男女同権を
達成することはできないのではないか、と。
というのも、こうした女性独特の心理の奥底には、ぬぐいがたい(女性特有の依存性)の
問題が潜んでいる。
どこか男性社会に甘えて生きている。
その(甘え)がなくならないかぎり、真の意味での男女同権はない。

ともかくも、1週間の空白期間を通り抜けて、今、また原稿を書き始めている。
こういうとき私は、自分にこう言って聞かせる。

「こうしてものを書くのは、だれのためでもない。自分のため」と。
言うなれば、肉体を鍛えるジョギングのようなもの。
自分の健康のため。
脳みその健康のため。

もう女性にも、また母親と呼ばれる人たちにも、期待はしない。


Hiroshi Hayashi++++++++May・09++++++++++はやし浩司

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