2009年5月22日金曜日

*How are we to live? *North Korea

●さわやかな風

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5月のさわやかな雨上がりの朝、ガーデン・パークに
来てみた。
(ガーデン・パーク……浜名湖の北にある、無料公園。)
ライトブルーの空を背景に、若葉の輝く景色が美しい。
それをぼんやりと眺めていると、やさしい風が
汗ばんだ頬や顔を、静かに冷やしてくれる。

もし「天国」と呼ばれる世界があるなら、きっと、
こんな世界をいうにちがいない。
「極楽」でもよい。

そう、ここはまさに天国だ。

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●休息

デジタルカメラで、花の写真を撮る。
そういうときの私は、無我夢中。
「きれい!」と思ったつぎの瞬間には、シャッターを切る。
パシャ、パシャ、パシャ……と。

こう書くと、花を楽しむ時間がないのではと心配する人もいるかもしれない。
が、心配ご無用!

たった今も軽い食事を終えて、屋根のある小さなベンチに座って、この
文章を書いている。
木々の小枝が、音もなく、たがいにせわしく、こすりあっている。
遠くで子どもの声もする。
鳥のさえずり。
もう30分以上も、こんなことをしている。
言い忘れたが、たった今、お茶を飲んだところ。

●雑念

こういうときというのは、無数の雑念が、つぎからつぎへとわいては消える。
思いつくまま、書き留めてみる。

……たった今、目の前を通り過ぎた、4人組の女性たち。
いつものように、ペチャペチャと、おしゃべり。
女性がグループをつくると、どうしてこうまでおしゃべりになるのだろう。

……チチ、ピピピッと小鳥の声。
コジュウカラか、コガラか?

……大手を振って歩く男。
太りすぎもよくないが、足が、鳥のガラのようでも困る。
先ほど通り過ぎた男の足は、鳥のガラみたいだった。
今、通り過ぎた男は、太りすぎ。
ダイナミックな歩き方からみると、体力にはかなり自信があるらしい。
年齢は、40歳くらいか。

……ワイフが鏡をのぞいて、なにやら気にしている。
あの年齢になっても、女な女かな?

……我が家の庭も、庭園風にしようか。
それとも一面、すべて畑にしようか。
頭の中で、設計図をいろいろと考える。

そんなことを考えていたら、背中の力が抜け始めた。
脳みそは、うたた寝モード。
目を開いているだけでも、つらい。

それに気づいたのか、今、ワイフがこう言った。
「そこで横になったら?」と。

(このあとワイフのひざ枕で、30分ほど、昼寝。)


Hiroshi Hayashi++++++++May・09++++++++++はやし浩司

「生きること」を考える

●観念論vs実存論

おおざっぱに言えば、世の中には、2つの大きな考え方がある。
ひとつは、(1)「私は親に産んでもらった」「先祖があるから、私がいる」
という考え方。
もうひとつは、(2)「私が生まれたら、親がいた」「生まれてみたら先祖がいた」と
いう考え方。
前者は、観念論ということになるし、後者は、実存論ということになる。

おもしろいことに、私の母は、根っからの観念論者だったが、父は、どちらかというと、
実存論者だった。
母は熱心な信者だったが、私は父が仏壇に手を合わせたり、墓参りをしたのを
見たことがない。
天皇を、「天皇」と呼び捨てにしただけで、殴られたことはあるが、それ以外に
信仰らしい信仰はしていなかった。……ようだ。

で、この両者のばあい、とくに大きくちがってくるのが、神や仏の捕らえ方。
神や仏に対する考え方で、2つのうちどちらをとるかで、生き様は決定的に分かれる。
前者は、「神によって、私たちは作られた」と考える。
後者は、「人間が神を作った」と考える。
(実際には、仏教でいう仏というのは、心の中に存在する善なる概念をいう。
キリスト教でいう神のような存在を、仏教では認めない。)

こうしたちがいは、「死」についての考え方に、大きな影響を与える。

前者は、「死んでも魂(霊)は残り、現世と何らかの関係を保つ」と考える。
後者は、「死んだら、自分の肉体、精神とともに、この宇宙すべてが消えてなくなる」と
考える。
「この宇宙すべてが消えてなくなる」というのは、それを認識する「私」という母体が
消滅するのだから、少なくとも私は認識でない。
たとえて言うなら、熟睡しているときの自分を思い出せばよい。
熟睡しているときに、宇宙を認識することなど、できるだろうか。
夢で宇宙らしいものを見ることはあるが、死ねば、その夢も見ない。
だから「消えてなくなる」ということになる。
では、どちらが正しいのか。

●生まれる前

そのヒントとなるのが、生まれる前。
「私」が生まれる前は、どうであったかということ。
死んだあとは、生まれる前と同じ状態と考えるのは、それほどまちがっていない。
もし死んだあと、あの世に行って、この世のことがわかるとするなら、
生まれる前にだって、この世のことがわかるはず。

たとえば私は戦後の生まれだから、あの戦争を知らない。
母の話によれば、岐阜市が大空襲にあったとき、空は真っ赤に燃えあがり、みな
家財道具を乳母車に積み、あちこちを逃げ回ったという。
母は、そのとき死を覚悟したという。
しかしもちろん、私にはその記憶はない。
どこかにその記憶あれば、私は生まれる前から、どこかに存在したということになる。
何しろ、強烈な印象である。
私が生まれる前から、私は存在していたとするなら、そうした記憶の片鱗くらい、
記憶の中に残っていても、おかしくない。

が、何も残っていないということは、やはり生前の私は、この世界に存在しなかった
ことになるのでは……?

さらに言えば、地球の歴史は60億年ともいうが、その60億年の記憶すらない。
その実感となると、これまた、まったく、ない。

私が生まれる前には、この宇宙は存在したのか?

が、もちろんこの宇宙は存在した。
ビッグバンの時代から、この宇宙は存在した。
となると、「私」という個体は死んでも、この宇宙は存在することになる。
「私」は消えても、この宇宙は存在することになる。
そのことは、周囲で死んでいく人たちをみればわかる。
その人は死んで、跡形もなく消えるが、この宇宙はそのまま。
現に今、そのまま残っている。
ということは、「私が死んだら、私もろとも、この宇宙は消えてなくなる」という
考え方は、合理性を失う。
しかし、だ。
が、ここで、また新しい考え方が登場した。

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