2009年5月23日土曜日

*What is a woman for a man?

●趣味(My Hobby)(5月23日)

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「パソコンが趣味です」などと言うと、人は、
(たぶん?)、「そのひとつだけ?」と思うかも
しれない。
しかし「パソコン」といっても、ひとつではない。

たとえば私のばあいは、こうだ。

パソコンを使ってものを書く……執筆が趣味
電子マガジンを発行する……編集が趣味
そのための写真を撮る……写真撮影が趣味
写真を加工する……写真加工が趣味
ビデオを撮る……ビデオ撮影、編集が趣味
HPを編集する……デザインが趣味、と。

ときどき頭がからっぽになるときがある。
書きたいテーマが、見つからないときがある。
そういうときは、マイクに向かって、勝手に
しゃべる。
それを編集して、YOU TUBEに
アップロードする。
そういうときは、放送が趣味、となる。

もちろんパソコン自体にも興味がある。
パーツを取り換えて、パソコンを強化する。
最近、メインのパソコンのハードディスクを、
750GBのものに取り換えた。
もろもろの周辺機器を、最新のものにする。
そのときは、パソコンの改造が趣味、となる。

つまり「パソコン」といっても、パソコン
だけではない。

座右には、
デジタルカメラが、3台、
ビデオカメラが、1台、
ボイスレコーダーが、1台、
ソニーのウォークマンが、1台、
イーモバイルの携帯端末が、1台、
もちろん、パソコンが3台に、モニターが2台、
電子辞書が、1台、
プリンターが、2台などなど。

こういうものを駆使して、はじめて「パソコンが
趣味です」と言うことができる。
で、今は、FLASHと、外国語翻訳に興味がある。
たまたま今日は土曜日だから、少しそれに再挑戦
してみたい。

この広がりというか、奥の深さが、パソコンの
魅力でもある。

そうそう昨日、私のHPやBLOGへのアクセス数が、
驚異的な数字を、(大げさかな?)、記録した。
大ざっぱな計算だが、1日で、計1万件を突破した。
考えてみれば、これは、ものすごいこと。

今から6、7年前、HPを開設したときには、
1日、約20~30件程度のアクセスしかなかった。
(そのうち約半数が、私や家族がしたもの。
あるいは、知人に頼んで、アクセスしてもらった
こともある。ハハハ。)
それが今では、1万件以上!
しかも世界中から、である!

……といっても、悲しいかなその実感が、ほとんどない。
言うなればテレビゲームのようなもの。
「5000ポイント、ゲット!」と喜んでいる子どもと
同じ。

だから「パソコン」に、もうひとつ、趣味を加えたい。
パソコンゲームという趣味である。

さて、今日も始まった。
パソコンゲームが始まった。
5月22日、土曜日。
外は曇天。
秋の終わりのような、空気の冷たさを感じる。

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●中年期の女性観(異性観抜き)

男性は、(女性もそうだと思うが)、中年期(満40歳)を過ぎたら、
異性を異性と思ってはいけない。
(努力して、そう思わないようにする。)
なかなかむずかしいことだが、相手を異性としてではなく、1人の独立した
人間として見る。

R・C・ベックという学者は、こう言っている。
「(中年期にさしかかったら)、異性を性的対象ではなく、個々の人格、
仲間として認識する」(ナツメ社、「発達心理学」)と。

というのも、私を基準にしてものを書くのは危険なことかもしれないが、
若いころ、私にとって女性というのは、宇宙人ほど、異質な存在だった。
高校生のとき、図書館で女体解剖図を見ただけで、歩けなくなってしまった
ことがある。

こうした異性観は、一度できると、そう簡単には、変えられない。
ばあいによっては、50歳になっても、60歳になってもつづく。
(女性のばあいは、よくわからないが……。)
今でも、ふと油断すると、相手を1人の人間としてというよりは、「女」として
見てしまうことがある。
もっとも、それがあるから、人生も楽しいということになる。
それすらもなくなってしまったら、それこそ人生は、花の咲かない砂漠のように
なってしまう(?)。
ただ、こういうことは言える。

これは私のワイフについてだが、大半の時間は、私のワイフは、私のよき友である。
またそういう目で、ワイフを見ている。
しかしときに、ワイフが、「女」に見えることがある。
胸や体にさわってみたくなるときがある。
そういうふうでも、よいのではないか……ということ。
つまり、異性を1人の人間として見ることも大切だが、同時に、異性と意識することも
大切、と。
それが人生に、イロを添える。
実は、私はこのことを、私が55歳くらいのときに、発見した。

私の職場には、いつも若い母親たちがいる。
そういうこともあったのかもしれない。
あるいは男性にも更年期のようなものがあるという。
そのときがそうだったのかもしれない。
そのころ、私は、女性に対して、興味を失ってしまった。
女性が女性と、見えなくなってしまった。
ある日、相撲を見ながら、「関取の胸の方が、若い女性の胸より、ずっと美しい」
と思ったことさえある。

悪いことばかりではない。
そのとき私は、思春期以来はじめて、性欲からの解放を味わった。
同時に私は、それまでの私が、いかに性欲の奴隷であったかを知った。
で、そのときは意識しなかったが、そのころ、私は、男性、女性を問わず、
1人の人間として見るようになった。
R・C・ベックという学者が説いた、「異性を性的対象ではなく、個々の人格、
仲間として認識する」というのは、そういうことではなかったか。
今にして思うと、それがわかる。

しかし、だ。
その時期も、それほど長くはつづかなかった。
記憶は確かではないが、1、2年くらいではなかったか?
それ以後、また少しずつだが、異性観が戻ってきた。
で、今は、以前ほどではないかもしれないが、異性は異性、つまり女性を
「女」として見ることができるようになった。
若い女性の胸や足を見たりすると、再び、ドキッとするようになった。
が、変化も見られる。

そのときどきにおいて、自分の心を、すっきりと整理することができるようになった。
異性を、異性とみるとき。
異性を、1人の人間としてみるとき。
そういうふうに、自分を整理することができるようになった。

たとえば30~40代のころは、相手が若くて美しい女性だったりすると、
何かにつけて甘くなったりした。
証券会社の女子店員に手を握られただけで、証券を買い増ししたりするなど。
(実際、デレ~~として、買ってしまったことがあるぞ。)
しかし、今は、それがない。
そういうふうに、自分の心を整理することができるようになった。

で、冒頭の話に戻る。

男性もある年齢を過ぎたら、努力して、自分から、(異性観抜き)をしなければ
ならないということ。
(異性観抜き)というのは、異性観からの脱却をいう。
が、これは努力の問題である。
それを怠っていると、いつまでも欲望の虜(とりこ)になって、自分を見失って
しまう。
これはあなた自身にとって、たいへん不幸なことと言ってもよい。

中には、70歳を過ぎても、自分の妻を、ただの女か、召使のようにしか考えて
いない男性もいる。
「男は、家の柱であればよい」などと、時代錯誤的なことを口にして、威張っている。
本人はそれで得意になっているが、まわりの人たちはだれも相手にしていない。
孤独でありながら、孤独が何であるかさえ、わかっていない。
そうなる。

こと子どもについて言うなら、子どもに男も女もない。
区別してはいけない。
とくに50歳を過ぎてからの私は、そういう目で、子どもを指導している。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
異性観 異性とは 異性観抜き)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

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