2009年9月19日土曜日

*What is the "House" for the Japanese?

●「実家」離れ

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「親離れ」「子離れ」という言葉がある。
同じように「実家離れ」というのもある。
50歳を過ぎても、60歳を過ぎても、
「実家」「実家」と、何かにつけて、
実家に入り浸りになる。

 背景には、未熟な精神性があるのだが、
マザコンというケースも少なくない。
概して、女性に多い。

(「マザコン」というと、男性だけの問題
と考える人も多いが、女性にも多い。
同性であるだけに、外からは、わかりにくい。)

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●嫁ぎ先?
 
 Mさん(現在55歳、女性)は、結婚してすでに30年以上になる。
夫は公務員で、代々つづいた「家」を守っている。
しかしMさんにとっては、自分の生まれ育った実家が、「家」。
傍から見ていると、そんな感じがする。

 ことあるごとに実家に足を運び、実家を守る弟氏(現在50歳)に、あれこれと指示する。
冠婚葬祭は言うに及ばず、実家の母親(実母)の世話の仕方にまで、口を出す。
墓参りにしても、嫁ぎ先の墓参りよりも、実家の墓参りの回数のほうが多い。
ときどき弟氏が、「お前は、H家に嫁いだのだから、H家の人間だ」といくら諭しても、それが理解できない。
理解できないばかりか、他人には、こう言う。

「N夫(=その女性の弟氏)は、私に頼ってばかりいる」「N夫は、自分では何もできない」「先祖をきちんと供養していない」と。

●実家意識

 「実家」意識の強い人は多い。
ことあるごとに「実家」という言葉をよく使う。
これも「家族自我群」の一種ということになる。
「家族」というしがらみが、無数に「私」にからんでくる。
その呪縛感を「家族自我群」という。

 その家族との関係が良好な間は、家族自我群も、よい方向に作用する。
が、どこかでその歯車が狂う。
そういうケースも多い。
とたん家族自我群は、その人を苦しめる(責め具)として機能する。
「家」に縛られ、「家族」に縛られる。
その呪縛感の中で、もがき苦しんでいる人は多い。

●マザコン

 Mさんのケースは、やや特殊である。
結婚して、H家に嫁いではみたものの、そのH家には同化できなかった。
もともと望んだ結婚ではなかった。
それもあった。
が、それ以上に、Mさんは、マザコンだった。
親を絶対視しながら、同時に親離れできないまま成人になった。
40歳を過ぎても、「母ちゃん」「母ちゃん」と言っては、実家に帰っていた。
50歳を過ぎても、「母ちゃん」「母ちゃん」と言っては、実家に帰っていた。

 が、そういう自分を、「孝行娘」と誤解していた。

●特徴

 このMさんというのは、架空の女性である。
いくつかの例を、ひとつにまとめてみた。
しかしこういう例は、多い。
地方の農村部へ行けば行くほど、似たような話を耳にする。

 特徴としては、つぎのようなものが、あげられる。

(1) 嫁いでも、嫁ぎ先と同化できない。
(2) 嫁いでも、実家意識が強く、実家への帰趨(きすう)本能が強い。
(3) 実家を絶対視する。
(4) ものの考え方が、権威主義的。
(5) 家父長意識、上下意識が強く、「先祖」という言葉をよく使う。

 本来なら、結婚し、相手の夫の側に籍を入れたら、少なくとも夫側の「家」と自分の実家を同等にみる。
あるいは「家」意識そのものを、平等に否定する。
さらに言えば、親が子離れし、子どもが親離れするように、「家」離れをする。
その上で、親子という関係であっても、一対一の人間としての人間関係を築く。

●G・ワシントン

 どうであるにせよ、今どき、「家」意識をもつほうが、おかしい。
江戸時代の昔ならいざ知らず。
今は、そういう時代ではない。
また人間が、「家」に縛られる時代ではない。

 名前(姓)にしても、そうだ。
私の知人の中には、「ルーツさがし」と称して、家系図づくりに熱中している人がいる。
人、それぞれ。
しかしあの福沢諭吉は、アメリカで、こんなことに驚いている。

 福沢諭吉が、G・ワシントンの子孫についてたずねたときのこと。
まわりにいた人たちが、みな、「知らない」と答えた。
当時の日本では考えられなかった。
今の日本でも、考えられない。
「G・ワシントンの子孫がどうなっているか、わからないだと!」と、まあ、福沢諭吉は、そんなふうに驚いたにちがいない。
つまり日本の常識は、けっして世界の常識ではない。

 ちなみに私の祖父は、百姓の出。
一度、祖父は私を、祖父の生家へ連れていってくれたことがある。
土壁むきだしの、窓もないような粗末な家だった。
私が小学6年生か、中学1年生のときのことである。

 だからこれは私のひがみかもしれない。
家系を誇る人に出会うたびに、内心では、「ごくろうさま」と思う。

 今、「私」がここにいる。
ここに生きている。
それでじゅうぶん。

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