2009年9月14日月曜日

*Unsseable Crise just in front of Us

●ショッピングセンターで

 ワイフと散歩をしながら、ショッピングセンターへ行ってきた。
その電気店に、ランニングマシン(ルームランナー)が置いてあった。
試してみた。
時間、もしくは距離をインプットすると、それを表示しながら、床が回転する。
それに合わせて、歩いたり、ランニングしたりする。

 値段は、6万円弱。
買うか、買わないか、迷った。
このところ紫外線を避けるため、散歩は、日没後と決めている。
しかしそのマシンがあれば、いつでも運動ができる。

 で、ふと見ると、そのマシンの前に、こんな宣伝文句が張ってあった。
「リハビリに最適」と。

 それを読んで、私はこう考えた。
「リハビリが必要になったら買った方が得なのか、それともそうならないよう、
予防のために買った方が得なのか」と。

 たとえば事故や病気などで、リハビリが必要になったとする。
そのときこうしたマシンは、役に立つ。
それはわかる。
しかし同時に、同じマシンを使えば、健康を増進でき、その類の病気になるのを
未然に防ぐことができるかもしれない。

 だから「どちらが得か」と。

 ・・・そのときのこと。
私の頭の中に、今まで考えたことがないことが、思い浮かんだ。
(そこに見える危機)と、(そこに見えない危機)というのが、それ。

 「リハビリに最適」という文句は、(そこに見える危機)を言ったもの。
しかし私だっていつ、そのリハビリを必要とする体になるかもしれない。
そうしたマシンを否応なしに、買わなければならない立場になるかもしれない。
今はかろうじて健康だから、それ、つまり(リハビリをするという危機)が見えないだけ。
つまりそれが、(そこに見えない危機)ということになる。

 少し長い前置きになったが、(そこに見える危機)と、(そこに見えない危機)に
ついて書いてみたい。
うまく自分の考えをまとめられるかどうか、自信はないが、書いてみる。

●そこに見える危機

+++++++++++++++++

何か不幸なできごとが起きたとする。
事故、病気、災難、何でもよい。
すると人は、そこを起点にものを考え始める。
しかしその不幸なできごとが、本来なら
起こったであろう、さらに大きくて、
不幸なできごとを防いでくれたかも
しれない。

禅問答のような話だが、未来はいつも、
その起点を基準に、プラスの方向か、
マイナスの方向のどちらかに向かう。
確率論的には、50%vs50%とみる。
つまり「フィフティ・フィフティ」。

たとえばあなたの息子が、学校へでかける
とき、玄関先で足をすべらせ、転倒したとする。
足の骨を骨折したとする。
するとあなたは息子の不注意をなじり、
学校へ行けなくなったことを、叱るかも
しれない。

しかしもしそのとき、いつものように
学校へでかけていたら、途中で、交通事故に
あって、障害が残るような大きなけがを
していたかもしれない。
そう考えれば、玄関先で転倒したことは、
むしろ幸運なできごとだったということになる。

するとあなたは、こう反論するかもしれない。
交通事故にあう確率は、ぐんと小さい。
そんなありえない話を前提に、玄関先で
転倒したことを幸運だったと思えと言われても、
それはできない、と。

++++++++++++++++++++

●そこに見える危機

 私たちは常に、(そこに見える危機)と、(そこに見えない危機)の間で生きている。
(そこに見える危機)というのは、たいていはすでに起きた危機と考えてよい。
先の例で言うなら、息子が玄関先で転倒したような事故をいう。

 が、もしそのとき、息子がいつもの時刻どおりに目をさましていたら、その事故は
起きなかったかもしれない。
たまたまその朝は、寝坊をしてしまった。
そのままでは遅刻してしまう。
そこで息子はあわてて玄関を飛び出した。
転倒した。

 つまりすでに事故は、息子が寝坊をした段階で、(そこに見える危機)に向かって、
まっしぐらに進んでいたということになる。
が、そのときは、それがわからない。
つまりまだ(そこに見えない危機)だったということになる。

●健康論

 このことは、健康論についても言える。
つぎのような例は、多い。

 胃の調子が悪いと思って、たまたま病院で検査をしてもらったら、まったく
別のところに悪性腫瘍が見つかった、など。
このばあいは、胃の調子が悪いというのは、(そこに見える危機)ということになる。
が、そのときは、別のところに悪性腫瘍があるなどとは思っていない。
それが(そこに見えない危機)ということになる。

 もっともこのばあいも、いつも(そこに見えない危機)があるわけではない。
たいていは胃薬を処方してもらい、それで胃の調子は、もとにもどる。
悪性腫瘍が見つかる・・・というより、悪性腫瘍がある確率は、ぐんと低い。
つまり(そこに見える危機)の向こうに、いつも(そこに見えない危機)が
潜んでいるわけではない。

●賢人と愚人

 (そこに見える危機)と、(そこに見えない危機)。
賢者は、いつも(そこに見える危機)の向こうに、(そこに見えない危機)があること
を知る。
愚者は、(そこに見えない危機)が、(そこに見える危機)になってから、あわてふた
めく。

 たとえば「今」というこのとき、あなたの身のまわりを静かに観察してみよう。
一見、平和でなにごともなく過ぎていく毎日だが、よくよく考えれば、身のまわりは、
(そこに見えない危機)だらけということがわかるはず。
それがわかると、(今の状態)が、きわめて恵まれた状況であることがわかってくる。

 もう少し具体的に考えてみよう。

●二番底、三番底

 子どもが非行化するときというのは、きわめて短時間でそうなる。
たとえばある夜、あなたの娘が、門限を破って、夜遅く帰宅したとする。
それが(そこに見える危機)ということになる。

 そこであなたは娘を叱る。
「二度と門限を破ってはいけない」と強く、諭(さと)す。
が、その向こうには、(そこに見えない危機)が待ち受けている。
つぎにあなたの娘は、門限を破ったとき、叱られるのがいやで、そのまま外泊
してしまうかもしれない。
それが(そこに見えない危機)ということになる。

 つまりこうしてあなたの娘は、あっという間に、二番底、三番底へと落ちていく。
(外泊)→(連泊)→(家出)と。
さらに進んで、異性と同棲、子どもの出産と進むかもしれない。

●では、どうするか

 大切なことは、いつも(そこに見える危機)を、受け入れていくということ。
受け入れてしまうと、(そこに見えない危機)まで、見えてくるようになる。
冒頭の話について言えば、こうなる。

 玄関先で転倒した子どもについて、「あわてて飛びだしたから、転倒した」と。
そしてなぜあわてて飛びだしたかについては、「寝坊をしたから」と。
もし同じような状態で、道路を横切っていたら、交通事故にあっていたかもしれない。
つまりそのとき、(そこに見えない危機)が、見えてくる。

 門限を破ったあなたの娘についても、そうだ。
たぶんあなたは、「うちの娘にかぎって」とか、「まさか」と思っているかもしれない。
しかし対処の仕方によっては、最終的には、「家出」ということにもなりかねない。
つまりそこまで、(そこに見えない危機)が見えてくる。

●ランニングマシン

 リハビリを必要とするようになってから買うよりも、それ以前から、つまりそうした
病気になる前から、予防のために買う方が、得。
そのほうが長く使える。
それに遅かれ早かれ、そういう時期は、やってくる。
70歳かもしれない。
80歳かもしれない。

 やがて外の道路を歩くのも、つらくなる。
それがここでいう(そこに見えない危機)ということになる。
が、私は、ショッピングセンターで、ランニングマシンを見たとき、(そこに見えない
危機)を、見ることができた。
つまりこの段階で、(そこに見えない危機)が、(そこに見える危機)になった。

 家に帰ってきてから、私はワイフにこう言った。
「あのマシンを買おう」「どうせ必要になるから」と。

 で、ひとつの教訓を得た。
それが先に書いた教訓である。

賢者は、いつも(そこに見える危機)の向こうに、(そこに見えない危機)があること
を知る。
愚者は、(そこに見えない危機)が、(そこに見える危機)になってから、あわてふた
めく。

●終わりに

 何ともまとまりのない、つまり焦点のボケたエッセーになってしまった。
要するに、私たちは、日常的に、(そこに見えない危機)に囲まれているということ。
そうした危機が、そこにあることを忘れてはいけないということ。
その上で、今、(そこに見える危機)を、見直してみるということ。
あるいは(そこに見えない危機)を基準に、現在の(そこに見える危機)を考える。
賢く生きるための、これはひとつの原則ではないだろうか。

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