2009年9月19日土曜日

?Recognizing Myself

●自己認知力

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自分を、自分で、評価する能力があるかないか。
その能力のことを、「自己認知力」という。
ピーター・サロベイの説く「社会適応性」、つまり
EQ論(人格の完成度論)でも、重要なキーワードの
ひとつになっている。

自分で自分を評価する能力の高い人を、自己認知力の
高い人という。
そうでない人を、低い人という。

が、一般的には、自分のもつよい能力を、正当に評価する
能力のことを、「自己認知力」という。
あるいは「私の能力はすぐれている」と信ずる能力のことを、
「自己認知力」という。

この自己認知力には、2種類ある。

(1) 能力があり、それを評価する能力がある。
「自分にはどのような能力があるか」を知る能力をいう。
(2) 能力がないのに、それを評価する能力がない。
「自分には、どのような能力がないか」を知る能力をいう。

ふつう「自己認知力」というときは、前者をいう。
が、後者のケースも少なくない。
最近、私は、こんな話を聞いた。

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●ある葬儀で

 義兄がある葬儀に参列した。
そこでのこと。
亡くなったのは、87歳の女性。
喪主は、その女性の長男、60歳。
ところが、である。
その長男の嫁(58歳)の様子が、異様だったという。
義兄は、こう話してくれた。

「だんなは昔から、静かな人だった。
そのこともあって、嫁が、ひとりではしゃいでいた」と。

私「はしゃいでいた?」
義「そう、はしゃいでいた。キャッキャッと笑ったり、大声で世間話をしていた。ハイになっていた。みな、眉をひそめていたよ」と。

●「私が主人公」

 何かにつけ、自己中心性の強い人は、自分が目立たないと気がすまない。
俗にいう「目立ちたがり屋」というのが、それ。
義兄が言うには、その女性(嫁)が、そうだったという。

 火葬場で火葬を待っているときも、三日目、初七日の法事のときも、「まるでクラブのホステスのように、みなのところを回り、世間話を繰り返していた」と。

「ふつうなら、親(義母)の葬式だから、嫁というのは、しおらしくしているもの。
しかしその女性(嫁)は、まるでパーティでの主人公のように振舞っていました。
で、驚いたのは、火葬が終わって、一度祭事会館へ戻ったときのことです。
最後の焼香というところで、みなの前で、オロオロと泣き崩れてしまったのです。
あれには、みな、あっけに取られました。
というのも、亡くなった女性(姑)とその女性(嫁)とは、昔からうまくいっていなかったことを、みな、知っていたからです」と。

●現実検証能力

 「自分が今、どういう状況に置かれているか」「自分が今、みなに、どう思われているか」。
それを「現実検証能力」ともいう。
しかし「自己認知力」と「現実検証能力」の境目が、よくわからないケースも少なくない。
その女性(嫁)を例にあげて、考えてみよう。

 その女性(嫁)の言動は、たしかに「ふつうではなかった」(義兄談)。
しかしその女性(嫁)は、自分が他人にどう思われているか、それが判断できなかった。
つまり自分を客観的に評価する能力に、欠けていた。
最後の焼香のところで、オロオロと泣き崩れてしまったときも、(横にいた夫が、体を支えたが)、みなはあっけに取られ、言葉を失った。

 が、そこは葬儀の場所。
現実を正確に知る能力があれば、態度ももっと別のものになっていたはず。

●まるで自分のことがわかっていない

 「あの女性(嫁)はね、一族の中でも、変わり者ということになっていますよ」と、義兄は話してくれた。
「ところが、自分では、よくできた嫁と思い込んでいるのですね。みなに好かれ、尊敬されていると思い込んでいるのですね」とも。

 そういう人は、少なくない。
まるで自分のことがわかっていない。
自己中心性が肥大化した人を、自己愛者という。
その自己愛者の症状とも似ている。
完ぺき主義で、他人の批判を許さない。
まちがいを指摘されると、それだけでパニック状態になってしまう。
ギャーギャーと泣きわめく。
あるいは激怒する。

 他人に心を許さない。
許さない分だけ、心の中はいつも緊張状態。
ささいなことでカッとなりやすい。

●自己認知力

 こういうケースも、「自己認知力」という能力で判断する。
自分にその能力がないのに、それを客観的に評価できない。
あとは思い込みと過信、独断と偏見だけで、ふつうではない行動を繰り返す。

 この話をワイフにすると、ワイフはすかさず、こう言った。
「そういう人って、意外と多いわよ」と。

私「ぼくだって、そうかもしれない」
ワ「そうね、あなたにも、そういうところがあるわね」
私「だろ……」
ワ「ほら、学者とか、研究者と言われる人の中にも多いということよ」
私「そうだね。その分野のことはよく知っているけど、その外の世界を知らない。教師の世界も、似たようなものだよ」と。

●では、どうするか

 「自分は他人から、どう見られているか」。
それをいつも自分に問いかける。
(だからといって、他人に迎合しろということではない。誤解のないように!)
私も最近、こんな経験をときどきする。
「私のことを好意的に思ってくれているはず」と信じている人に、裏切られるようなケースである。
それに気づいて、「ああ、ぼくって、そんなふうに思われていたのだ」と、驚いたりする。
最近でも、生徒(中学生)に、こう言われたことがある。
「先生(=私のこと)って、キレやすい」と。

 また反対に、意外な人に、高く評価されているということもある。
つまり自分が他人にどう見られているかを、的確に判断するのは、それくらい難しいことでもある。

●自己中心性

 自己認知力は、このように一方で、その人の自己中心性と深く結びついている。
が、ある程度、自己認知力を高めるためには、ある程度、自己中心的でなければならない。
「私はすばらしい」という思い込みが、その人の自己認知力を高める。
その人を伸ばすということもある。

 が、同じ自己認知力でも、「まるで自分のことがわかっていない」という自己認知力は、いただけない。
自分に能力がないのに、それに気づいていない。
プライドばかり強くて、箸にも棒にもかからない。
さらに愚かなことをしながら、それを愚かなこととさえ気がつかない。
そういう人のことを、俗世間では、「バカ」という。
(「バカなことをする人を、バカという。頭じゃないのよ」(フォレスト・ガンプ)。)
 
【補記】

●加齢とともに……

 私の印象では、加齢とともに、自己中心性が強くなっていく人と、反対に『老いては』に従え』式に、自己中心性が弱くなっていく人がいるように感ずる。
そしてそれは、脳の働きとも、密接に関連している(?)。

 たとえば認知症か何かになると、極端に自己中心性が強くなる人がいる。
人格そのものが、崩れるというか、変化する人も珍しくない。
心の余裕がなくなり、思慮深さが消える。
ささいなことでピリピリと反応し、ときに激怒したり、泣き叫んだりする。

 要するに、これは習慣の問題ということになる。
能力ではなく、習慣。
日ごろから、考えるクセがあるかないかということ。
考えるクセが身についていれば、あえて「自己認知力」などという言葉は使わなくても、自分のことを正当に評価できるようになる。
そうでなければ、そうでない。
その(ちがい)は、老齢期になると、さらにはっきりとしてくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 自己認知力 自己評価力 人格の完成度 サロベイ EQ論)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司

●自己認知力

●子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(1)共感性
(2)自己認知力
(3)自己統制力
(4)粘り強さ
(5)楽観性
(6)柔軟性

 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子どもとみる(「EQ論」)。

 順に考えてみよう。

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲しみ、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何をしたいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわからない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っていることを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どものばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにためて、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのために使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にしたり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見ていると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気になる。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どももいる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(5)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、ものを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところで、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすることもある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にもよるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言えば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア~い」と。そこで「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなかったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人もいる。

(6)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。(がんこ)を考える前に、それについて、書いたのが、つぎの原稿である。

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●子どもの意地

 こんな子ども(年長男児)がいた。風邪をひいて熱を出しているにもかかわらず、「幼稚園へ行く」と。休まずに行くと、賞がもらえるからだ。

そこで母親はその子どもをつれて幼稚園へ行った。顔だけ出して帰るつもりだった。しかし幼稚園へ行くと、その子どもは今度は「帰るのはいやだ」と言い出した。子どもながらに、それはずるいことだと思ったのだろう。結局その母親は、昼の給食の時間まで、幼稚園にいることになった。またこんな子ども(年長男児)もいた。

 レストランで、その子どもが「もう一枚ピザを食べる」と言い出した。そこでお母さんが、「お兄ちゃんと半分ずつならいい」と言ったのだが、「どうしてももう一枚食べる」と。そこで母親はもう一枚ピザを頼んだのだが、その子どもはヒーヒー言いながら、そのピザを食べたという。

「おとなでも二枚はきついのに……」と、その母親は笑っていた。
 
今、こういう意地っ張りな子どもが少なくなった。丸くなったというか、やさしくなった。心理学の世界では、意地のことを「自我」という。英語では、EGOとか、SELFとかいう。少し昔の日本人は、「根性」といった。(今でも「根性」という言葉を使うが、どこか暴力的で、私は好きではないが……。)

教える側からすると、このタイプの子どもは、人間としての輪郭がたいへんハッキリとしている。ワーワーと自己主張するが、ウラがなく、扱いやすい。正義感も強い。

 ただし意地とがんこ。さらに意地とわがままは区別する。カラに閉じこもり、融通がきかなくなることをがんこという。毎朝、同じズボンでないと幼稚園へ行かないというのは、がんこ。また「あれを買って!」「買って!」と泣き叫ぶのは、わがままということになる。

がんこについては、別のところで考えるが、わがままは一般的には、無視するという方法で対処する。「わがままを言っても、だれも相手にしない」という雰囲気(ふんいき)を大切にする。

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 心に何か、問題が起きると、子どもは、(がんこ)になる。ある特定の、ささいなことにこだわり、そこから一歩も、抜け出られなくなる。

 よく知られた例に、かん黙児や自閉症児がいる。アスペルガー障害児の子どもも、異常なこだわりを見せることもある。こうしたこだわりにもとづく行動を、「固執行動」という。

 ある特定の席でないとすわらない。特定のスカートでないと、外出しない。お迎えの先生に、一言も口をきかない。学校へ行くのがいやだと、玄関先で、かたまってしまう、など。

 こうした(がんこさ)が、なぜ起きるかという問題はさておき、子どもが、こうした(がんこさ)を示したら、まず家庭環境を猛省する。ほとんどのばあい、親は、それを「わがまま」と決めてかかって、最初の段階で、無理をする。この無理が、子どもの心をゆがめる。症状をこじらせる。

 一方、人格の完成度の高い子どもほど、柔軟なものの考え方ができる。その場に応じて、臨機応変に、ものごとに対処する。趣味や特技も豊富で、友人も多い。そのため、より柔軟な子どもは、それだけ社会適応性がすぐれているということになる。

 一つの目安としては、友人関係を見ると言う方法がある。(だから「社会適応性」というが……。)

 友人の数が多く、いろいろなタイプの友人と、広く交際できると言うのであれば、ここでいう人格の完成度が高い、つまり、社会適応性のすぐれた子どもということになる。

【子ども診断テスト】

(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )してはいけないこと、すべきことを、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。

 ここにあげた項目について、「ほぼ、そうだ」というのであれば、社会適応性のすぐれた子どもとみる。
(はやし浩司 社会適応性 サロベイ サロヴェイ EQ EQ論 人格の完成度)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司

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