2009年9月22日火曜日

*How to become a good old man

●雑感・あれこれ

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●もう9月も20日

昨日から、市内の鴨江寺で、秋の彼岸会が始まっている。
「秋だなア」と思うと同時に、「今年1年も、あと3カ月・・・」と
思ってしまう。

本当に月日のたつのは早い。
昨日、昔世話になったKさん(男性)を見舞った。
今年79歳になるという。
この5月に敷居でころんで以来、車椅子の生活になったという。
10年ほど前に、一度、すい臓がんを患ったが、そちらのほうは、治ったようだ。
見た目には元気そうだった。

子どもの世界を見ていると、10年単位で、どんどんと変わっていく。
同じように、老人の世界も、10年単位で、どんどんと変わっていく。

●クリスマス

 日本人は、昔から「神様」には、おおらか。
「八百万(やおよろず)の神」というほどで、そのまま読めば、800万人の神様がいることになる。
野にも山にも、小川にも家の中にも・・・。

 だから神様なら、何でもよいということになる。
ある女性(当時、50歳くらい)は昔、私にこう言った。
「人がいいと言っていることは、何でもやったらいいのです」と。
・・・ということで、その女性は、複数(5、6)の信仰団体に出入りしていた。

 仏教もキリスト教も、日本人にとっては、その一部でしかない。
だから仏教徒でありながら、クリスマスを祝ったところで、何ら違和感を覚えない(?)。
神様に対するおおらかさが、ちがう。
寛大さが、ちがう。

 9月も終わりに近づくと、もうクリスマスが気になる。
年賀状が気になる。
その年賀状。
今年から、年賀状を再開。
虚礼を廃して、本当に大切にしたい人だけと交換することにした。

●天国

 仏教には、「天国」という考え方はない。
ないものはないのであって、どうしようもない。
「天上」という言葉はあるが、それは釈迦以前からインドにあった、「先天(しょうてん)思想」をいう。
それが釈迦仏教に混入した。
「天上」というのは、いうなれば「理想郷」をいう。

 「生前、よい行いをすれば、その理想郷で生まれ変わることができる」(「哲学」宇都宮輝夫・PHP)と。

 実際、釈迦自身は、「来世(=あの世)」などという言葉など、一度も使っていない。
来世思想が混入したのは、釈迦入滅後のこと。
「前世」「来世」と言うようになったのは、ヒンズー教の輪廻転生思想の影響によるものである。

 そういう点では、釈迦は、たいへん現実的なものの考え方をしていた(法句経)。
たとえば『苦行では、悟りは得られない』と教え、「中正」という生き方を導く。
わかりやすく言えば、ごくふつうの人間として、ふつうの生活をしながら、その中で自分を磨いていくことこそ、大切、と。

 私はキリスト教徒ではないので、私には「天国」はない。
入りたくても、入れない。
まっ、ここはあきらめるしかない。
「メリークリスマス!」と言いながら、神の国を、横目で見るしかない。

●「我」

 仏教では、「我」を認めない。
わかりやすく言えば、「私」を認めない。
これが「私」と思っているものでも、玉ねぎの皮のようなもの。
一枚ずつ、どんどんとめくっていくと、最後には、何も残らない。

 「私は私」と思っているのは、ただの意識にしか過ぎない。
が、意識こそ、まさに「無」。
だから仏教では、「我」、つまり「私という意識」からの解脱を説く。
「解脱」というのは、「私という執着から、自らを解放すること」をいう。
その「私」に執着すかぎり、安穏たる日々は、ぜったいにやってこない。
そこから「一切皆苦(一切行苦)」という言葉も生まれた。

 平たく言えば、「私の名誉」「私の地位」「私の財産」・・・などと、「私」にこだわっているかぎり、安穏たる日々は、やってこないということ。
が、その「私という意識」から解放されれば、そこは恐ろしく広くて、心静かな世界。
四法印で説く、『涅槃静寂(ねはんせいじゃく)』というのは、そういう世界をいう。

●孤独な世界

 来世思想を否定すれば、そこに待っているのは、「孤独」という無間地獄。
・・・と考えていたが、このところ、私の考え方が、少し変化してきた。
大切なことは、「私という意識」をどうとらえ、どう解釈するかということ。
「私という意識」を、「私の肉体」に閉じ込めてしまえば、たしかに、そこに待っているのは、「孤独」ということになる。

 しかし「私という意識」には、連帯感をもたせることもできる。
たとえば今、この文章を読んでくれる人がいたとする。
多少の時間差、地域差はあるかもしれないが、(そんなものは、何でもない)、その瞬間、私の意思と、その人の意思が、この文章を介して、つながる。

 つまりこうして「私の意思」を、他人に伝えていけば、仮に肉体は滅びても、意思は残る。
それを「生」ととらえれば、私は不滅ということになる。
孤独にならなければならない理由すら、ない。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司

●加齢と精神の完成度

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加齢とともに、精神的に完成度が高くなる
ということは、まっかなウソ!
むしろ加齢とともに、精神的にガタガタに
なる。
そういう人のほうが、多い。
何かの精神的な病(やまい)をもてば、なおさら。

定番のうつ病(失礼!)のほか、パニック障害、
もろもろの人格障害、精神障害などなど。
何かの認知症になれば、なおさら。

何かの身体的な病気をかかえると、それがきっかけで、
ガタガタになる人も少なくない。

そういう人たちを身近に見ながら、
このところ「じょうずに老いるには、どうしたら
よいか」。
そんなことをよく考える。

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●気力と精神病

 骨だけでは、身体を支えることはできない。
筋肉があって、はじめて、私たちは身体を支えることができる。
同じように、精神力だけでは、私たちの精神を支えることはできない。
「気力」があって、私たちは精神を支えることができる。

 たとえば何か困難な場面に遭遇したとする。
肉親の死や事故など。
そういうとき精神力だけで、自分の精神を支えることは難しい。
「乗り切ってやろう」という気力が必要である。

●仮面

 私たちはみな、仮面をかぶって、生きている。
仕事をしている。
仮面をかぶることが悪いというのではない。
ショッピングセンターの女性店員ですら、仮面をかぶって仕事をしている。
穏やかでやさしそうな笑みを浮かべて、「いらっしゃいませ」と言って頭をさげる。
そういう姿を見て、「この女性は、人間的にすぐれた人格者」などとは思ってはいけない。

 医師だって、政治家だって、企業家だって、みな、仮面をかぶっている。
もちろん私だって、仮面をかぶっている。
その仮面を裏から支えるのが、気力ということになる。

●持病

 同じように、だれしも、何らかの持病をかかえている。
私のばあいも、上から、左耳の難聴。
右の上腕痛。
便秘。
それに脚痛など。

 しかし今はまだ体力があるから、それらを何とか、カバーしている。……できる。
上腕痛は、2か月ほどまで、草刈機を使ったときから、起こるようになった。
便秘は、自分でセンナ茶を煎じて、何とかしのいでいる。
脚痛については、体重を減らしたり、運動量をふやしたりして対処している。

 が、加齢とともに、体力そのものが弱くなる。
とたん、持病が表に出てくる。

●気力

 精神疾患にも似たようなところがある。
私は元来、いじけやすい性格をもっている。
何かのことでつまずいたりすると、そこでいじけてしまう。
が、仕事の上で、いじけることはできない。
いつも先生面(づら)して、偉そうなことを言っている。
それをカバーするのが、気力ということになる。

 持病をカバーする、体力。
精神的もろさをカバーする、気力。
これら両者の関係は、たいへんよく似ている。

 つまり加齢とともに、気力も弱くなり、その下に隠れていた精神的もろさ、つまり人間性が、表に出てくる。

●自分の「地」

 わかりやすく言えば、若いときというのは、いい人ぶるのは、簡単なこと。
それらしい顔をして、それらしいことを言えばよい。
それを支えるのに、じゅうぶんな、気力がある。

 が、加齢とともに、その気力が弱くなる。
長つづきしなくなる。
とたん、自分の「地」が、表に出てくる。

 こんな話を耳にした。

●ある男性(75歳)

 その男性は、現役時代は、XX局の副長をしていた。
人望もあり、統率力もあった。
晩年は、全国の関係機関を回り、その指導を繰り返していた。

 が、それは(表)の顔。
晩年になると、とくに家の中では、様子がまったく違った。
夜中じゅう起きていて、大声で家人を呼びつけていた。
「水、もってこい!」「背中が痛いから、湿布薬を張れ!」と。

 そのため妻や、息子夫婦は、みな、ノイローゼになってしまった。
とくに息子の妻(=嫁)は、痛々しいほどまでに体重を落としてしまった。

が、である。
仮面をかぶる気力がまったくなくなってしまったかというと、そうでもない。
弟夫婦が、遠方から訪ねてきたりすると、別人のように穏やかで、やさしい父親を演じてみせていた。

 そんなキャリアをもつ人でも、そうなる人は、そうなる。

●人間性

 加齢とともに体力は落ちる。
同じように気力も、落ちる。
仮面を維持できなくなる。
そのときその人のもつ人間性が、そのまま(表)に出てくる。

 その人間性がよいものであれば、問題ない。
加齢とともに、ますます円熟味に磨きがかかる。
が、そうでなければ、そうでない。

 へたをすれば、邪悪な性格、醜い人間性が、そのまま表に出てくる。
これがこわい。

●人間性

 その人の人間性は、10年とか20年とか、長い年月を経て、熟成される。
それも健康論に似ている。

 先日、ワイフの友人(男性)が、98歳という年齢で亡くなった。
その男性は、92歳を過ぎても、テニスのコーチとして活躍していた。
いくつかの会場をもっていて、遠いところだと、20キロ近くもある。
その会場へ、毎週、自転車で通っていた。

 その男性は、若いときからテニスが好きで、そのテニスを通して、体を鍛えていた。

 同じように、人間性もまた、日々の鍛錬のみによって、熟成される。
難しいことではない。

(1)ウソをつかない、(2)約束は守る、(3)ルールに従う。

 この3つだけでよい。
この3つだけを守ればよい。
それが10年、20年という年月を経て、その人の人格となり、人間性となって表に表れてくる。

●ズルイ人

 一方、ズルイ人は、ズルイ。
何かにつけて、ズルイ。
一事が万事。
小細工に小細工を重ねる。
小細工を重ねているという意識がないまま、重ねる。
そうした行為が、ごく日常的なことして、できる。

 だからしばらくつきあっていると、何がなんだか、訳が分からなくなる。
ウソとホントが、ごちゃ混ぜになり、ウソを指摘すると、そのつど巧みに、その場を逃げたりする。
あるいはとぼける。
さらに追及すると、興奮状態になったりする。

 が、こういう生き方を、10年、20年とつづけていると、その人の人間性が狂ってくる。
そしてそれがそのままその人の人間性となって、定着してしまう。

●有終の美

 こうして考えてみると、老人になると、その人の人間性が、そのまま出てくると考えてよい。
しかしこれが、先にも書いたように、こわい。
このことは、まわりにいる老人たちを観察してみると、それがわかる。

 老人のなり方は、千差万別。
千人いれば、みな、ちがう。
そこにその人の、それまで歩んできた人生が、すべて凝縮される。
好ましい人格者の人もいれば、もちろんそうでない人もいる。
だからといって、つまりどういう老人であれ、人、それぞれ。
その老人がそれでよいと思っているなら、それはそれでよい。
が、これだけは言える。

 どうせたった1回しかない人生。
自分の納得いく人生を送り、最後は、有終の美を飾って、死んでいきたい。
……というのが、今の目標。

 自信はないが、その目標に向かって、今日も精進(しょうじん)あるのみ。
がんばろう。

 2009年9月22日、火曜日。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司

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