2009年9月7日月曜日

*Sep 9th 2009 Magazine

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 9月 7日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●8月6日(The Day of A-Bomb in Hiroshima)

+++++++++++++++

2009年8月6日。

今日は原爆記念日。
朝、8時15分に、サイレンが鳴った。
「ああ、そうだった」と思って、一瞬、息を止めた。

先日、豊田町の(ゆや会館)で、原爆資料展を開いていた。
そのとき見た、痛々しい写真が、脳裏を何度もかすめた。

++++++++++++++++++

●もし……

 ナチスドイツによる、ユダヤ人大量虐殺を知って、多くの日本人は、こう思う。
「私たち日本人は、ああいう残酷なことはしない」と。
あるいはアメリカ軍による原爆投下を知って、多くの日本人は、こう思う。
「日本人は、ああいう爆弾は使わない」と。

 しかし本当に、そうか?
自信をもって、あなたは、そう言い切ることができるか。

 もしこの日本に、100万人単位のアジア系流民たちが住むようになり、
日本の経済を牛耳るようになったとしたら……。
日本の文化に同化せず、彼らの宗教を信じ、彼らの言葉を話したとしたら……。
そしてあなたの隣に住み、あなたの家より立派な家に住むようになったとしたら……。

 100万人なら、まだよい。
それが200万人となり、300万人となったとしたら……。
それでもあなたは、「私たち日本人は、ああいう残酷なことはしない」と、
自信をもって言い切れるだろうか。

 原爆についてもしかり。
敗戦直前、日本軍も原爆の開発をもくろんでいた。
ドイツへ研究者も派遣していた。
もしあのとき日本軍が原爆をもっていたとしたら、日本軍は容赦なく、それを使って
アメリカ軍を攻撃していただろう。

●日本の現実

 こうした残虐な行為を止めるゆいいつの方法があるとすれば、私たち1人ひとりが、
高い文化性をもつことでしかない。
高い人間性でもよい。
ふつう程度の文化性や、人間性では、足りない。
現に、シラーやゲーテ、ベートーベンを生んだドイツですら、それを食い止めることは
できなかった。
ジェファーソンやワシントン、リンカーンを生んだアメリカですら、それを食い止める
ことはできなかった。

 日本に、こうした世界に誇ることができるような賢人がいるか?
今までに、いたか?
残念ながら、答えは、NO。
まず、この現実に、目を向けなければならない。
つらいことだが、まず、それを認めなければならない。

●一億、総ギャグ化

 が、現実は、逆。
日本人は、ますます逆の方向に進みつつある。
その一つの例として、あのお笑いタレントをあげたい。
どこかの県の知事になった、あのお笑いタレントである。
(こう書くと、不愉快に思う人が多いことは、認める。
先日も、それについて書いたら、私のBLOGに、「お前は、何様のつもりか?」と
書き込んできた人がいた。)

何もお笑いタレントが、政治家になってはいけないと言っているのではない。
また、その政治家が悪いと言っているのではない。
彼とて、有権者に選ばれたから、知事になった。

あの県では、長い間、プロの政治家(?)による汚職事件が、相次いだ。
そういういきさつは、ある。
が、それでも、つまり全体として見たとき、日本人は今、一億が、総ギャク化している
としか、私には思えない。
あろうことか、当の県知事は、「総裁候補にしてくれるなら、衆議院議員に鞍替えしても
いい」というようなことまで言った。

こうした動きを見ていると、日本人が本来もっていた、あの(まじめさ)そのものが、
どこかへ消えてしまったとしか思えない。
その流れの中で、お笑いタレントが、府知事になったり、県知事になったりする。
そういう現実を、だれも、おかしいと思わない。
私は、それが「おかしい」と言っている。

 誤解があってはいけないので、再度、確認しておきたい。

 人生哲学を語りながら、その中に(ジョーク)があるなら、それはそれでよい。
しかし今の日本には、(ジョーク)ばかりで、人生哲学がない。
きちんとした政治論をもっている人が、たまにジョークを口にするのはよい。
(笑い)も、その中から、生まれる。

 たとえば県知事になるにしても、それだけの実績があるならよい。
民衆とともに歩きながら、少しずつ積み重ねあげてきたという実績である。
が、その実績がない。
ないまま、ある日突然、知名度だけを武器に、中央からやってきて知事になる。

この日本では、まじめに生きようとすればするほど、バカらしさを覚える。
社会そのものが、そういうしくみになってしまった。
その一例として、お笑いタレントをあげた。
私は、それが問題だと言っている。

●悪人の餌

 話は変わるが、たまたま数日前、1人の女優が覚せい剤所持と使用で、逮捕された。
先に、夫が逮捕され、その夫が、妻(=その女優)も使用していたことを認めた。

 その女優は、ある公的機関の、「覚せい剤撲滅運動」のポスターにも顔を出している。

 これはほんの一例だが、こうした矛盾は、いたるところにある。
たとえば難民救済運動。
どこかの有名タレントが、ある日を境に、突然、慈善運動家に変身したりする。
それ以前に、たとえば、若いときからボランティア活動をつづけてきたとか、
ホームレスの人たちに炊き出しをしてきたとか、そういう実績があれば、話もわかる。
そういう実績もないまま、「ある日を境に、突然」である。

 しかも将棋で言えば、いきなり「王手!」。
その運動のトップとして、君臨する。
雑誌やテレビを通して、さも私は善人でございますといった、様子をしてみせる。

 私は、それがおかしいという。
おかしいだけならまだしも、本当に困っている人に対して、失礼。
許しがたい冒涜と断言してもよい。
そういう知名人たちは、一見助けるフリをしながら、困っている人たちを、
その実、食い物にしている。

 どこかの県の知事になったお笑いタレントにしても、その疑いがないとは言わない。
(もちろん、そうであると、断言しているわけでもないが……。)
が、ふつうの常識のある人なら、自分に恥じて、つまりおこがましくて、そういうことは
できない。

 要するに、私は、「仮面」には注意したほうがよいと言っている。
悪をなすことは、悪いことだが、悪人を助けることは、もっと悪い。
昔、恩師の故松下哲子先生は、いつも、私にこう言っていた。
『悪人の餌にだけは、なってはいけませんよ』と。
 
●高い文化性

 高い文化性にせよ、人間性にせよ、それを養うには、(思考)しかない。
思考こそが、人間が人間である、ゆいいつの証(あかし)ということになる。
また思考によって、人間は人間であることを保つことができる。

 数日前もワイフとこんな会話をした。

 「もし裸の若い女性が部屋の中に入ってきて、こう言ったとする。
『抱いて!』と。
すてきな女性だ。
あたりにはだれもいない。
そのとき、それを断るというのは、ふつうの男なら、かなり勇気のいることだ」と。

 あるいは道で、大金の入った財布を拾ったときでもよい。
賄賂(わいろ)を、テーブルの前に、ドカッと積まれたときでもよい。
そういうとき、それを断る勇気が、あなたにはあるだろうか。
つまりそういうときに、私たちは、自分の文化性を試される。
人間性を試される。

 そのとき、「私は、まちがったことはしない」と言って、それを断ることができれば、
それはそれでよい。
そうでないなら、言葉はきついが、「偉そうなことは言うな」となる。

 つまりその延長線上に、ナチスドイツによるユダヤ人大量虐殺がある。
広島、長崎への原爆投下がある。

●もし……

 「戦争、反対!」「原爆、反対!」と叫ぶのは、簡単なこと。
大切なのは、それを口にする前に、高い文化性と、人間性が、自分の中にあるかどうか
ということ。
それがあってはじめて、私たち日本人は、世界に向かって、「日本人は平和を
愛する国民です」と言うことができる。
世界の人たちを納得させることができる。

 戦後、たまたま日本が平和を守れたのは、日本人が、それだけ平和を愛する
国民だったからではない。
また平和を守ったからでもない。
アメリカ軍という世界最強の軍隊が、日本に駐留していたから、である。
もしアメリカ軍が駐留していなかったら、日本は繰り返し、戦禍にのみ込まれていたはず。

 スターリン・ソ連、毛沢東・中国、李承晩・韓国、金日成・K国……。
そういう国々が、日本に対して報復戦争をしかけてきたはず。
そのつど日本は、メチャメチャになっていたはず。
また報復されてもしかたないようなことを、日本軍は、戦争を通して、してしまった。
アメリカにしても、最後の最後まで、「Remember Pearl Harbor(真珠湾を忘れるな)」を
合言葉にしていた!

仮にあのとき日本軍が原爆をもっていたとしたら、一時的には優位になっていたかも
しれない。
が、今ごろは、北海道から沖縄まで、日本は完全な廃墟と化していたにちがいない。
「日本」「日本人」という言葉すら、この地球上から消えていたかもしれない。

 それが現実。
まぎれもない現実。
8月6日。
今年もまた、去年と同じようなことを考えた。

(追伸)

 ついでに一言。
あどけない小学生に、平和宣言など、させてはいけない。
平和を守るのは、私たちおとなの責務。
こういう場で子どもを利用するのは、どこかのテロ組織が、自爆攻撃用にと、
子どもを利用するのと同じ。
「平和目的ならいい」「戦争目的は、だめ」というのは、おとなの勝手な論理に
すぎない。
あるいはどこでどう、線を引くというのか?

++++++++++++++++++++

6年前に書いた原稿を、そのまま紹介します。

+++++++++++++++++++++++++++

●子どもによる平和宣言(Declaration for Peace by Children)

+++++++++++++++++++++++++++

今年も、広島、長崎で、子どもを使った
平和宣言がなされた。

それについて、私はかねてより、「子どもに
そんなことをさせてはいけない」と書いて
きた。

平和を守るのは、おとなである私たちの
責任。
子どもたちの未来を守るのも、おとなで
ある私たちの責任。

子どもを使うのは、卑怯だ!

+++++++++++++++++

8月8日、韓国で奇妙な事件が起きている。
どこかに立てこもった一群の中の子どもたちが、韓国の大統領である、イ大統領を
口汚く、ののしっているという。

文章を簡潔にして、紹介させてもらう。

+++++++++以下、朝鮮N報++++++++++++

「李明博(イ・ミョンバク)、なんでそんなやり方で国を治めるんだ」
「お前が死んだら僕は気持ちよく笑えるだろう。この××野郎よりダメなやつ!」
「お前がそんなことをするなら、僕はお前を殺してやる」

 先月23日、体験学習のためソウルにやってきた地方の小学生たちが、曹渓寺(ソウル
市鍾路区)に立てこもっている、「狂牛病(BSE)の危険のある米国産牛肉の全面輸入に
反対する国民対策会議」(以下、対策会議)の芳名録に書いた、文や動画が公開され、韓国
社会は衝撃を受けた。

この小学生たちは10歳前後、小学3~5年生の子どもたちだった。「立てこもっている人
たちがけしかけた」という学校側の主張と、「自発的に書いた」という対策会議側の主張は
食い違っている。

これについては警察の捜査で明らかになるだろう。

+++++++++以上、朝鮮N報++++++++++++

少しわかりにくい話なので、解説してみる。

現在、ソウルの曹渓寺というところに、アメリカ産の牛肉の輸入に反対する団体が、立て
こもって、それに反対しているという。
その寺の芳名録に、その小学校を訪れた子どもたちが、芳名録に書き込みをした。
それが冒頭にあげた、文章である。

「李明博(イ・ミョンバク)、なんでそんなやり方で国を治めるんだ」
「お前が死んだら僕は気持ちよく笑えるだろう。この××野郎よりダメなやつ!」
「お前がそんなことをするなら、僕はお前を殺してやる」と。

これについて、(1)立てこもっている人たちが、子どもたちにけしかけた。(2)子ども
たちが自主的に書いたと、意見が分かれているという。

が、どちらであるにせよ、つまりけしかけられたにせよ、自主的に書いたにせよ、その背
後には、(おとなたちの意思)が、感じられる。
少なくとも、こうした言葉は、子どもたちだけの発想では生まれない。

そこで日本の子どもたちによる、平和宣言。
私は、平和宣言がまちがっているというのではない。
それ自体は尊いものであり、世界に向かって宣言して、当然である。

しかし、子どもを使って、それをしてはいけない。

5年前(03年)に、こんな原稿を書いたことがある。

++++++++++++++++++

●子どもによる平和宣言

 よくどこかの会場で、小学生くらいの子どもが、平和宣言をすることがある。「私たちは、
平和を守り……。戦争に反対し……。核兵器を廃絶し……」とか。たいていは、……とい
うより、ほとんどは、おとなたちが用意した原稿を、子どもが読みあげているだけ。たま
たま、この原稿を書いている今日も、「地雷をなくそう、全国子どもサミット」(03年2
月8日)があった。疑問がないわけでもないが、しかしそういうのなら、私も、まだ理解
できる。

 しかし子どもを使って、平和宣言など、子どもに言わせてはいけない。子どもをそうい
うふうに利用してはいけない。それはあまりにも酷というもの。だいたいそんな子どもに、
戦争だとか、平和がわかるわけがない。だれだって、戦争より平和のほうがよいと思って
いるに決まっている。

しかし平和というのは、それを求めて積極的に戦ってこそ、得られるもの。皮肉なことに、
戦争のない平和はない。ただ「殺しあいは、いやだから」という理由だけで、逃げまわっ
ている人には、平和など、ぜったいにやってこない。世界は、そして人間が本来的にもつ
性(さが)は、そんな甘いものではない。

 たとえば戦後、つまりこの58年間、日本がかろうじて平和を保つことができたのは、
日本人がそれだけの努力をしてきたからではない。日本人が平和を愛したからでもない。
日本が、戦後、58年間という長きにわたって平和を保つことができたのは、アメリカと
いう強大な軍事力をもった国に、保護されていたからにほかならない。

もし日本がアメリカの保護下になかったら、60年代には、中国に。70年代には、韓国
や北朝鮮に、そのつど侵略されていただろう。台湾やマレーシアだって、だまっていなか
った。フィリッピンに袋叩きにされていたとしても、おかしくはない。日本は、そういう
ことをされても文句は言えないようなことを、ほかの国に対して、してしまった。

しかももっと悪いことに、いまだに、公式には、日本はその戦争責任を認めていない。中
には、今でも「あの侵略戦争は正しかった」と言う日本人すら、いる。今の北朝鮮を容認
するわけではないが、彼らが日本を憎む理由には、そういう時代的背景がある。

 わかりやすく言えば、子どもが平和宣言をして、それで平和な国がやってくるというの
は、まったくの幻想。平和というのは、それ自体は、薄いガラスでできた箱のように、も
ろく、こわれやすい。ときには、戦争そのもののように、毒々しく、醜い。仮に今、平和
であるとしても、その底流では、つぎの戦争を求めて、人間のどす黒い欲望が渦巻いてい
る。つまり、平和を口にするものは、一方で、そういうものと戦わねばならない。その戦
う意思、その戦う勇気のあるものだけが、平和を口にすることができる。

子どもを使って平和宣言をさせるというのは、子どもを使って宣戦布告するのと同じくら
い、バカげている。それがわからなければ、子どもに、援助交際反対宣言をさせてみれば
よい。子どもに、政治家の汚職追放宣言をさせてみればよい。あるいは覚せい剤禁止宣言
でもよい。環境保護宣言でもよい。

そういうものが何であるかもわからないまま、無知な子どもに、そういうことを言わせて
はいけない。そうそう、あのK国では、幼児までもが、「将軍様を、命がけで守ります」な
どと言っているという。幼児が自分の意思で、自分で考えてそう言うのなら話はわかるが、そんなことはありえない。繰りかえすが、子どもを、そういうふうに利用してはいけない。

 そんなわけで、私は、小学生や中学生が、片手を空に向けて平和宣言をしている姿を見
ると、正直言って、ぞっとする。あるいはあなたは、アメリカやヨーロッパや、オースト
ラリアの子どもたちが、そういうふうに宣言をしている姿を、どこかで見たことがあると
でもいうのだろうか。残念ながら、私はないが、ああいうことを子どもに平気でさせる国
というのは、全体主義国家か、あるいはその流れをくむ国と考えてよい。

 「地雷をなくそう、全国子どもサミット」では、ある子ども(滋賀の小学生)は、つぎ
のように話している。

「地雷でケガをした人を見るのは初めてで、結構びっくりしたからそんなにしゃべったり
できなかったけれど、何かちょっとずつだけど、声がかけられるようになったからよかっ
たと思っています」(TBS報道)と。私たちが聞きたいのは、子どもたちのそういう生の
声である。

子どもたちのために平和を守るのは、私たちおとなの義務なのだ。どこまでいっても、私
たちおとなの義務なのだ。それを忘れてはいけない。
(030209)

++++++++++++++++++

さらに進むと、自爆攻撃がある。
テロリストたちは、まだあどけない子どもを利用して、アメリカ軍などに対して、ゲリラ
攻撃をしかけている。
一度、その指導風景がテレビで紹介されていたが、指導者らしき男は、子どもたちに向か
ってこう説明していた。

「死んでも、この世とまったく同じ世が、向こうの世界にある。だから恐れるな」と。

もしそうなら、テロなどしても意味はないということになるのだが、それはともかくも、
子どもを使うということは、そういうことをいう。

平和宣言だからよい。
ゲリラ戦だからよくない。
そういうふうに線引きすること自体、まちがっている。
それこそ「平和のための戦争」ということになれば、どんな戦争だって、
肯定されてしまう。
どうであるにせよ、おとなたちは、自分が信ずる「正義」に従って、子どもを利用する。
それぞれのおとなたちは、それぞれの思惑をもって、子どもを利用する。
つまり「正義」ほど、いいかげんなものもない。
私はそれがおかしいと言う。

それがわからなければ、もう一度、最初に引用した、朝鮮N報の記事を読みなおしてみる
ことだ。

(子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 子
供による平和宣言 子どもの平和宣言)

(補記)

++++++++++++++++++++

 この原稿を書いて、4か月になる(03年)。いろいろな原稿を書いているが、4か月前
に書いた原稿という気がしない。遠い昔に書いたような気がする。ただ子どもに平和宣言
させることに、全面的に反対というわけではない。子どもに戦争の悲惨さを教え、ついで
平和の尊さを確認させるという点では、意味がある。しかしそれでも、私は、「それでいい」
とは、どうしても思えない。

 いつだったか、どこかのカルト教団の取材に行ったときのこと。全国大会とかで、全国
から数万人の信者が集まっていた。その席でも、やはり小学生代表が、こう叫んでいた。

「私たちは、○○導師様の教えを守り、この信仰を、世界に広めていきます!」と。小学生
による平和宣言などというものは、私には、その延長線上にあるとしか思えない。

 繰りかえすが、平和を守り、子どもたちを守るのは、私たちおとなの義務である。しか
しその平和というのは、自ら戦って、勝ち得るもの。「殺しあいはいやだ」と逃げてまわっ
ていては、平和は絶対に守れない。

 同じく繰りかえすが、平和主義には、二つある。「殺されても、抵抗しません。文句を言
いません」という平和主義。もう一つは、「平和のためなら、命すらおしくない。いざとな
ったら、戦争も辞さない」という平和主義。ここにも書いたように、「殺しあいはいやだ」
と逃げてまわるのは、平和主義でも何でもない。ただの逃避主義でしかない。

 また先の原稿の中で書いたように、戦後の日本がかろうじて平和を保つことができたの
は、それだけ日本人が平和を守ったからではない。また日本人が平和を愛したからでもな
い。日本がかろうじて平和を保つことができたのは、たまたまアメリカという国に占領さ
れ、その保護下にあったからである。

 私は60年代に、交換留学生として、韓国に渡ったが、彼らがもつ反日感情というのは、
感情というレベルを超えた、「憎悪」そのものだった。今でも基本的には、その構図は、変
わっていない。仮に北朝鮮が日本にめがけて核ミサイルを撃ち込んだとしても、それを喜
ぶ韓国人はいても、悲しむ韓国人はいない。そういう現実を前にして、小学生を仕立てて
平和宣言をする。そのオメデタサは、いったいどこからくるのか。(だからといって、私が
戦争を求めているのではない。どうか誤解のないように!)

今朝の報道によれば、あの北朝鮮は、すでに核兵器を数個もち、さらに今後、半年の間に、
5~6発の核兵器を製造する能力があるという。さらに今年の終わりには、核実験もする
かもしれないという(クリントン政権時代の北朝鮮担当官・ケネス・キノネス氏)。そうな
れば日本は、もうおしまい。金XXの影におびえながら、毎日ビクビクしながら、生活を
しなければならない。

 小学生による平和宣言の話を書いているうちに、またまた頭が熱くなってしまった。私
の悪いクセだ。しかし、これだけは言える。どんな形であるにせよ、おとなたちは自分た
ちの政治的エゴを追求するために、子どもを利用してはならない。子どもには、子どもの
人権がある。その人権だけは守らねばならないということ。決して、子どもたちを、猿ま
わしのサルのように利用してはいけない。
(030628) 

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
平和論 日本の平和 日本人 広島 原爆の日 はやし浩司 子どもによる平和宣言 子
供による平和宣言)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●夏休み

++++++++++++++++++++

私にも夏休みがあって、明日から、その夏休み。
バンザーイ!

で、その夏休み。
いくつか心に決めていることがある。

(1)運動を欠かさない。
(2)映画を3本、観る。
(3)温泉に2度行く。
(4)三男に会いにC県へ行く。
(5)実家にケリをつけてくる。(温泉に泊まってくる。)
(6)ノートパソコンを1台、買う。
(7)ワイフと喧嘩しない。

夏休みも、すべて、「即、実行!」を貫く。
今できることは、後回しにしない。
今日できることは、明日に延ばさない。
すべて、先手、先手!

プラス、のんびりできるところでは、
思いっきり、のんびりする。

++++++++++++++++++++

●故郷と決別する日

+++++++++++++++++++

近く、実兄と実母(ともに個人)の法事をする。
実家のあるM町で、それをする。
そのあと、実家を売る。
買い手は決まっている。
その契約をすます。

それがすんだら、家財を処分して、M町を去る。
同時に、故郷とは、決別する。

M町には、現在、親戚はいない。
実姉はいるが、M町から離れた、遠い、山の中に住んでいる。
M町に残るのは、墓のみということになる。
が、私は死んでも、あの墓に入るつもりはない。
ワイフも、ぜったいにいやと言っている。

私はその日を最後に、二度と、あのM町には
戻らない。
(よほどのことがあれば、別だが……。)
それを話すと、昨夜、眠る前にワイフが、
こう聞いた。
「さみしくないの?」と。

「そりゃあ、さみしいよ。
しかしね、それ以上に、うれしいよ。
やっと決別できるんだから……」と。

++++++++++++++++++++

●母への恩義

 人は、人とのつながりの中で生きている。
それが無数の糸となって、その人にからんでいる。
親子の糸は、その中でも、とくに太い。
が、親にもいろいろある。
たとえば父は、生涯にわたって、ただの一度も、私を抱いたことがない。
母が抱かせなかった。
父が結核をわずらっていたこともある。
が、母は、それにもまして、異常なまでに潔癖症だった。

 で、残されたのは、つまり私と母の間に残されたのは、細い糸。
が、いくら細い糸ではあっても、人は、その糸に、最後の希望を託す。
こと(故郷)に関して言えば、何もよいことはなかった。
(家族)を通した思い出の中で、楽しかったことなど、ほとんどなかった。
しかしそんな私でも、最後は、こう思う。

 「母も、私には、やさしいときがあった」と。

 それがあるから、今まで故郷を支えてきた。
無住の家となってからも、5年間、支えてきた。
しかしそれを仲のよい従姉(いとこ)に話すと、こう教えてくれた。
「浩司君(=私)、そんなことを、負担に思ってはだめよ。
そんなことは、親の務めなのよ。
子どもを産んだら、責任をもって子どもを育てる。
そんなことは、当たり前のことじゃない」と。

●浜松市が故郷 

 その故郷を、改めて振り返る。
「私にとって、故郷とは、何か?」と。
というより、18歳のときに故郷を離れて、今年で、すでに43年目になる。
いまだに「故郷」にこだわるほいが、どうかしている。
しかし「古里」は、「古里」。
どうしても、こだわってしまう。
なぜか?

 0歳から20歳までの20年と、20歳から40歳までの20年は、密度がちがう。
密度がちがうだけに、思いも、また複雑。
 
だからもうすぐ62歳になろうという私にしても、故郷を心の中から断ち切るのは、
容易なことではない。
本能に近い部分にまで、思い出が刷り込まれている。
が、ずるずると引きずるのも、よくない。
私はこの浜松市で居を構えたし、息子たちにとっては、ここが「故郷」。
その私がふらふらしていて、どうして息子たちの心が落ち着くか。

●解放

 しかし……。
私は、うれしい。
刻一刻と、その日が近づいてきているのが、実感としてわかる。
それがうれしい。
ルンルン気分とまではいかないが、ワクワクしている。
実家を売れば、たいした額ではないが、お金が入ってくる。
そのお金で、ワイフと温泉につかってくるつもり。

 そう、結婚する前から、私は実家に、収入の約半分を送ってきた。
その負担感……金銭的負担感というより、社会的負担感には、相当なものがあった。
あるときから、それは重圧感に変わった。
「親だから……」「子だから……」「兄弟だから……」「大学まで出してもらったのだ
から……」「男だから……」と。
『ダカラ論』だけが、先行した。
それは真綿で首をしめられるような、苦しみだった。
ジワジワと……。
いつ晴れるともなく……。
だれが、というわけではないが、そういう雰囲気の中で、私は生まれ、育った。

 私は母にお金を仕送る。
母は母で、母の実家に、お金を仕送る。
こんな生活が、30年以上もつづいた。
だから私はそのつど、叫んだ。
「もう、いいかげんにしてくれ!」と。

 そう、そう叫ぶのも、これでおしまい。
私は、解放される!

●2人だけ

 だから昨夜、ワイフにはこう言った。
「もうこれからは、2人だけだね。
仲よくしようね」と。

 故郷から決別するということは、同時に、最後の糸を断ち切ることを意味する。
「ひょっとしたら、故郷は助けてくれるかもしれない」「暖かく私を包んでくれるかも
しれない」という糸である。

 しかしそれは、もう、ない。
期待もしていない。
いくら細くても、一本ぐらい、糸を残しておいたほうがよいという考え方もある。
何も自分のほうから断ち切ることもないではないか、と。

 それもそうかもしれないが、しかしそれは私の生き方ではない。
どうせスッキリするなら、何もかも打ち棄てて、心の中を整理したい。
私も、もう62歳。
人生も終盤期に入った。
モヤモヤとした過去にしばられ、立ち止まっている暇は、もうない。
残り少ない時間だからこそ、一瞬一秒を大切に、前に向かって進んでいきたい。

●あとは野となれ、山となれ

 さあ、決別するぞ。
心から消すぞ。
あとのことは、知ったことではない。
野となれ、山となれ。
ははは。

 世の中には、いろいろな家族がある。
家庭環境も、みな、ちがう。
事情も、みな、ちがう。
私は私。
あなたの考え方と、いくらちがっていても、私は私。
私の考え方が、まちがっていると言ってほしくない。
それに私がこういう考え方をするようになったからといって、私の責任ではない。
私の中にも、私自身の意思で作った部分もあれば、私の意思とは無関係に作られた
部分もある。

 ただ覚えておいてほしいのは、世の中には、私のような人間もいるということ。
けっして、少数派ではないということ。
今まで、みな、口に出して言わなかっただけ。
安易な『ダカラ論』に押されて、遠慮していただけ。

 ♪「さらば、ふるさと、さらば、ふるさと、ふるさと、さらばア~」と。

 私はこの歌を、明るくさわやかに歌って、あのM町を去る。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●毒殺?

 昨日、2羽のスズメが、庭先で死んでいた。
ワイフがそう言った。
しかしそういうことはありえない。
スズメが、庭先で死ぬなどということは、ありえない。

 で、この話とは別に、最近、気になっていることがひとつ、ある。

私はスズメたちに餌を与えるようになって、もう15年以上になる。
が、ここ1、2年、そのスズメの数が、急激に少なくなった。
10年ほど前には、毎日、数十羽のスズメが、いつも庭で遊んでいた。
が、今は、いても、10~15羽前後。
閑散としている。

 どこかでスズメを駆除しているらしい。
で、近くの農協に電話をしてみた。
「スズメに困っていますが、何か、いい方法はありませんか?」と。

 すると電話口に出た若い男は、こう言った。
「Y農協で、そういった指導をしていますから、そちらへ電話をしてみてください」と。

 で、Y農協に電話をしてみた。
が、はっきりとしたことは言わない。
どうも歯切れが悪い。
「指導会がありますから、また連絡してほしい」とか、何とか。
「どういう指導会ですか」と聞いても、「ええ、指導会です」と。
私はその返事を聞いて、ピンときた。
「毒薬を使っているな……」と。

 もちろん庭先で死んでいたスズメが、毒薬によるものと言っているのではない。
ひょっとしたら、鳥インフルエンザで死んだのかもしれない。
その可能性もないわけではない。
しかしそれにしても、急激に少なくなった。

 おかしいぞ!
 へんだぞ!

 昔から、スズメは、春には益鳥だが、秋には害鳥になるという。
米の収穫期には、米を食べる。
それはわかるが、しかし……。

 ここに書いたことは、あくまでも、私の憶測によるもの。
本当に毒殺しているかどうかは、知らない。
私が、そう疑っているだけという話である。

 が、もし本当にそういうことをしているなら、それだけはしてはいけない。
スズメと同じ餌を食べている野鳥は多い。
ドバトも、そうだ。
(そう言えば、ドバトも少なくなったぞ!)

 一度、この問題を本気で取り上げてみたい。
近く、この問題について、調べてみたい。

(補記)

 そのスズメたち。
数日前に、芝生の種をまいたのだが、あろうことか、私への恩を忘れて、
その種を食べてしまった!

 今朝見たら、種がすべて、もみ殻になっていた。
(「もみ殻」というのは、米の殻のことをいうが……。)

 今度まくときは、浅く掘って、土の中にまく。
ワイフも、そう言っている。
被害額は、1200円あまり。

 しかしこうして(自然)相手に、知恵比べをするのは、楽しい。
相手がスズメでは、怒る気は起きない。

(補記)

 同じ被害の話だが、今度は、猿の話。

 山荘のほうでは、最近、猿害に困っている。
季節になると、そのつど山荘へやってきて、悪さをする。
その(悪さ)が、スズメのそれとは、質的にちがう。
猿のほうは、(やらなくてもよいようなこと)をする。

 たとえば餌を食べるのに、わざわざ大屋根に上って食べる。
そのとき、雨どいを壊す、テレビのアンテナを壊す。
電話線を切る、など。

 山から下りてくるときも、一度、どういうわけか、山荘の屋根を
経由する。
(山)→(山荘の屋根)→(栗の木や柿の木)、と。
山から、直接、栗の木や柿の木に行けばよいと思うが、そこへ猿は、猿的な
遊びをはさむ。
(山荘の屋根)から、電話線や電線を伝って、行く、など。
それだけに、憎たらしい。

 新聞の報道によれば、そのあたりでも、今度、「猿の駆除」を始めたそうだ。
どういうことをするのか、詳しくは書いてなかったが、「駆除」というときは、
ふつうハンターに依頼しての銃殺を意味する。
抵抗を感じないわけではないが、それだけ農家の被害も大きいということか。
もとはと言えば、第二東名高速道路の工事。
その工事で追い出されて、そのあたりまでやってくるようになった。

 言うなれば、白人の開拓団に追われた、アメリカ・インディアンのようなもの。
(インディアンが「猿」というのではない。「立場」が似ているという意味。
誤解のないように!)

猿にも、いろいろ言い分はあるだろう。
(人権)もない。
(言葉)ももっていない。
それだけに、「かわいそうだな」とは思うが、どうしようもない。
何か、よい方法はないものか。
猿は頭がよいだけに、対策もむずかしい。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

【人生論】(What is the Life for us?)

●今日の言葉(イギリスのBLOGより)

Life is an unfoldment, and the further we travel the more truth we can comprehend. To
understand the things that are at our door is the best preparation for understanding
those that lie beyond
- Hypatia,  In Religion

人生というのは、開いていくもの。先へ行けば行くほど、より多くの真理を理解できるよ
うになる。ドアの近くにあるものを理解することは、遠くにあるものを理解するのに、も
っとも役立つ。

●真理

 同じようなことを、私も以前、書いたことがある。
その原稿を探してみた。
「03年」とあるから、6年前の原稿ということになる。

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●豊かさとは、何か?

 生活の豊かさを測る尺度は、決して、一つではない。

 もちろん収入は、多ければ、多いほどよい。お金の嫌いな人はいない。私も嫌いではな
い。

 しかし収入だけで、豊かさは、測れない。

 自由な時間は、どれだけあるか?
 家族と過ごせる時間は、どれだけあるか?
 住んでいる環境は、どうだ?
 友だちの数はどうだ?
 人間関係は、どうだ、など。

 健康の度合いも、豊かさの一つということになる。しかし本当の豊かさは、「心」で決ま
る。

 心が平穏であるか。満足しているか。やさしく、思いやりがあるか。過去を悔やむこと
もなければ、未来を不安に思うこともない。夢や希望があり、目標もある。毎日、前向き
に生き生きと、過ごすことができる。そういった状態を、心の豊かさという。

 もちろん、心の貧しい人もいる。このときも、収入とは、関係ない。億万長者でも、心
の貧しい人は、いくらでもいる。もちろんお金がなければ、苦労する。不幸になることも
ある。しかしお金で、豊かさは買えない。

 中学生たちに聞いてみた。「君たちの夢は何か?」と。多くの中学生は、「お金持ちにな
りたい」「有名になりたい」と言う。

 しかしそのお金で、何をするか。その未来像が、見えてこない。また有名になるとして
も、それはあくまでも結果。そこに至る、現実が見えてこない。

 手っ取り早く、豊かになるためには、自分の住む世界を、ぐんと小さくすればよい。あ
るいは何かの宗教に身を寄せ、その世界に安住するという方法もある。この世界、広く生
きようと思えば思うほど、人との摩擦(まさつ)も大きくなる。ひとりで生きようと思え
ば思うほど、障害も大きくなる。

そこで私は、気がついた。豊かさは、求めるものではなく、その人の生きザマの中から、
結果として生まれるもの、と。少し話が、飛躍してしまったかもしれないが、こういうこ
とだ。

 私の知人に、長野県の山奥で、床屋を営んでいる人がいる。今年、六〇歳を超えた。彼
は父親の仕事を引き継いで、床屋を始めたわけだが、もし人生の成功者という人がいると
するなら、彼のような人をいうのではないか。

 釣り名人で、そのあたりでは、「釣り聖」と呼ばれている。床屋という職業もあって、村
長も、助役も、村の有力者たちも、みな、彼の前では、頭をさげる。もちろん村一番の情
報通。もし彼を敵に回したら、村議会の議員にすら、なれない。

 今は、その人は、日本画にこっていて、毎日、その日本画に没頭している。「個展を開い
たら……」とすすめると、うれしそうに笑っていた。

 一方、過去の肩書きや地位にぶらさがり、その亡霊から、逃れられない人もいる。退職
したあとも、プリプリといばっている。「仕事がない」と言うから、「貿易の知識を利用し
て、中国の物産でも売ってみたら」と提案すると、こう言った。「そんな恥ずかしいことは、
できない」と。(商売することを、「恥ずかしい」と言うのだ!)

 私のまわりには、いろいろな人がいる。みな、違った方法で、豊かさを求め、幸福にな
ろうとしている。もちろん、私も、そうだ。しかし豊かさというのは、求めたところで、
向こうからやってくるものではない。しかし生きザマさえ、しっかりしていれば、向こう
からやってくる。

 大切なことは、その生きザマを、どう確立するかということ。が、ここで誤解してはい
けないのは、その豊かさというのは、虹のかなたの、その向こうにあるのではないという
こと。あなたのすぐそばにあって、あなたに見つけてもらうのを、息をひそめて待ってい
る。

 土地を売って大金を手に入れたからとか、あるいは大企業の部長になったからとか、著
名なタレントになったからとか、そういうことで、ここでいう「豊かさ」を手に入れるこ
とは、ない。豊かさというのは、あくまでも、「心」の問題。名誉、地位、財産、肩書きと
は、まったく、関係がない。

 大切なことは、できるだけ早い時期にそれに気づき、そうしたものに、心が毒されない
ようにすること。毒されれば毒されるほど、心の豊かさは、あなたから遠ざかる。

 ……と、大上段に構えて、「豊かさ」について、書いてみた。「何を偉そうに……」と思
う人も、いるかもしれない。もしそうなら、許してほしい。私自身も、こうして自分なり
に、結論らしきものを出しておかないと、前に進めない。頭のてっぺんから、足の爪の先
まで、現代社会がもつ矛盾に、毒されている。

このつづきは、一度頭を冷やしたあとに、考えてみたい。
(031030)

+++++++++++++++++++++

同じような内容だが、こんなことを書いたこともある。

+++++++++++++++++++++

●生きる哲学

 生きる哲学にせよ、倫理にせよ、そんなむずかしいものではない。もっともっと簡単な
ことだ。人にウソをつかないとか、人がいやがることをしないとか、自分に誠実であると
か、そういうことだ。もっと言えば、自分の心に静かに耳を傾けてみる。

そのとき、ここちよい響きがすれば、それが「善」。不愉快な響きがすれば、それが「悪」。
あとはその善悪の判断に従って行動すればよい。人間には生まれながらにして、そういう
力がすでに備わっている。それを「常識」というが、決してむずかしいことではない。も
しあなたが何かのことで迷ったら、あなた自身のその「常識」に問いかけてみればよい。

 人間は過去数10万年ものあいだ、この常識にしたがって生きてきた。むずかしい哲学
や倫理が先にあって生きてきたわけではない。宗教が先にあって生きてきたわけでもない。
たとえば鳥は水の中にはもぐらない。魚は陸にあがらない。そんなことをすれば死んでし
まうこと、みんな知っている。そういうのを常識という。この常識があるから、人間は過
去数10万もの間、生きるのびることができた。またこの常識にしたがえば、これからも
ずっとみんな、仲よく生きていくことができる。

 そこで大切なことは、いかにして自分自身の中の常識をみがくかということ。あるいは
いかにして自分自身の中の常識に耳を傾けるかということ。たいていの人は、自分自身の
中にそういう常識があることにすら気づかない。気づいても、それを無視する。粗末にす
る。そして常識に反したことをしながら、それが「正しい道」と思い込む。あえて不愉快
なことしながら、自分をごまかし、相手をキズつける。そして結果として、自分の人生そ
のものをムダにする。

 人生の真理などというものは、そんなに遠くにあるのではない。あなたのすぐそばにあ
って、あなたに見つけてもらうのを、息をひそめて静かに待っている。遠いと思うから遠
いだけ。しかもその真理というのは、みんなが平等にもっている。賢い人もそうでない人
も、老人も若い人も、学問のある人もない人も、みんなが平等にもっている。子どもだっ
て、幼児だってもっている。赤子だってもっている。あとはそれを自らが発見するだけ。
方法は簡単。何かあったら、静かに、静かに、自分の心に問いかけてみればよい。答はい
つもそこにある。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●常識をみがく

 常識をみがくことは、身のまわりの、ほんのささいなことから始まる。花が美しいと思
えば、美しいと思えばよい。青い空が気持ちよいと思えば、気持ちよいと思えばよい。そ
ういう自分に静かに耳を傾けていくと、何が自分にとってここちよく、また何が自分にと
って不愉快かがわかるようになる。無理をすることは、ない。道ばたに散ったゴミやポリ
袋を美しいと思う人はいない。排気ガスで汚れた空を気持ちよいと思う人はいない。あな
たはすでにそれを知っている。それが「常識」だ。

 ためしに他人に親切にしてみるとよい。やさしくしてあげるのもよい。あるいは正直に
なってみるのもよい。先日、あるレストランへ入ったら、店員が計算をまちがえた。まち
がえて50円、余計に私につり銭をくれた。道路へ出てからまたレストランへもどり、私
がその50円を返すと、店員さんはうれしそうに笑った。まわりにいた客も、うれしそう
に笑った。そのここちよさは、みんなが知っている。

 反対に、相手を裏切ったり、相手にウソを言ったりするのは、不愉快だ。そのときはそ
うでなくても、しばらく時間がたつと、人生をムダにしたような嫌悪感に襲われる。実の
ところ、私は若いとき、そして今でも、平気で人を裏切ったり、ウソをついている。自分
では「いけないことだ」と思いつつ、どうしてもそういう自分にブレーキをかけることが
できない。

私の中には、私であって私でない部分が、無数にある。ひねくれたり、いじけたり、つっ
ぱったり……。先日も女房と口論をして、家を飛び出した。で、私はそのあと、電車に飛
び乗った。「家になんか帰るか」とそのときはそう思った。で、その夜は隣町の豊橋のホテ
ルに泊まるつもりでいた。が、そのとき、私はふと自分の心に耳を傾けてみた。「私は本当
に、ホテルに泊まりたいのか」と。答は「ノー」だった。私は自分の家で、自分のふとん
の中で、女房の横で寝たかった。だから私は、最終列車で家に帰ってきた。

 今から思うと、家を飛び出し、「女房にさみしい思いをさせてやる」と思ったのは、私で
あって、私でない部分だ。私には自分にすなおになれない、そういういじけた部分がある。
いつ、なぜそういう部分ができたかということは別にしても、私とて、ときおり、そうい
う私であって私でない部分に振りまわされる。しかしそういう自分とは戦わねばならない。

 あとはこの繰りかえし。ここちよいことをして、「善」を知り、不愉快なことをして、「悪」
を知る。いや、知るだけでは足りない。「善」を追求するにも、「悪」を排斥するにも、そ
れなりに戦わねばならない。それは決して楽なことではないが、その戦いこそが、「常識」
をみがくことと言ってもよい。

 「常識」はすべての哲学、倫理、そして宗教をも超える力をもっている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
常識論 常識とは 常識について わかりやすい生き方 シンプルライフ)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

常識といっても、安易な常識論には
警戒したほうがよいですね。

それについて書いた原稿をいくつか、
集めてみました。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●安易な常識論で苦しむ人

 日本にはいろいろな常識(?)がある。「親だから子どもを愛しているはず」「子どもだ
から故郷(古里)を思い慕っているはず」「親子の縁は絶対に切れない」「子どもが親のめ
んどうをみるのはあたりまえ」など。

しかしそういう常識が、すべてまちがっているから、おそろしい。あるいはそういう常識
にしばられて、人知れず苦しんでいる人はいくらでもいる。たとえば今、自分の子どもを
気が合わないと感じている母親は、7%もいることがわかっている(東京都精神医学総合
研究所の調査・00年)。「どうしても上の子を好きになれない」「弟はかわいいと思うが、
兄と接していると苦痛でならない」とか。

 故郷についても、「実家へ帰るだけで心臓が踊る」「父を前にすると不安でならない」「正
月に帰るのが苦痛でならない」という人はいくらでもいる。そういう母親に向かって、「ど
うして自分の子どもをかわいいと思わないのですか」「あなたも親でしょう」とか、さらに
「自分の故郷でしょう」「親を嫌うとはどういうことですか」と言うことは、その人を苦し
めることになる。

たまたまあなたが心豊かで、幸福な子ども時代を過ごしたからといって、それを基準にし
て、他人の過去をみてはいけない。他人の心を判断してはいけない。それぞれの人は、そ
れぞれに過去を引きずって生きている。中には、重く、苦しい過去を、悩みながら引きず
っている人もいる。またそういう人のほうが、多い。

 K市に住むYさん(38歳女性)のケースは、まさに悲惨なものだ。母親は再婚して、
Yさんをもうけた。が、その直後、父親は自殺。Yさんは親戚の叔母の家に預けられたが、
そこで虐待を受け、別の親戚に。そこでもYさんは叔父に性的暴行を受け、中学生のとき
に家出。そのころには母の居場所もわからなかったという。

Yさんは、「今はすばらしい夫に恵まれ、何とか幸福な生活を送っています」(手紙)とい
うことだが、Yさんが受けた心のキズの深さは、私たちが想像できる、その範囲をはるか
に超えている。Yさんから手紙を受け取ったとき、私は何と返事をしてよいかわからなか
った。

 ここでいうような「常識」というのは、一見妥当性があるようで、その実、まったくな
い。そこで大切なことは、日本のこうした「常識」というのは、一度は疑ってみる必要が
あるということ。そしてその上で、何が本当に大切なのか。あるいは大切でないのかを考
えてみる必要がある。

安易に、つまり何も考えないで、そうした常識を、他人に押しつけるのは、かえって危険
なことでもある。とくにこの日本では、子育てにも「流儀(?)」を求め、その「形」を親
や子どもに押しつける傾向が強い。こうした方法は、一見便利なようだが、それに頼ると、
その実、ものの本質を見失うことにもなりかねない。

 「親である」とか「子であるとか」とかいう「形」ではなく、人間そのものをみる。ま
た人間そのものをみながら、それを原点として、家庭を考え、家族を考える。それがこれ
からの子育ての基本である。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 安易な常識論 常識論)

Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●類は友を呼ぶ

 おととい、東京に住む友人(64歳・女性)と、電話でこんな話をした。
その友人が、こう教えてくれた。

 「奥さんがずるい人ということは、ダンナもずるい人と考えていいのよ。
だから夫婦でいられるのよ」と。

 『類は友を呼ぶ』というが、『似たもの夫婦』という言葉もある。
どちらか一方がずるくて、他方が、誠実ということは、ありえない。
友人は、こう言った。

 「たとえば奥さんがずるいことをしようとしてもね、ダンナが誠実な人だったら、
それをやめさせるはずよ」と。
つまりたがいに教えあいながら、夫婦というのは成長もするし、反対に堕落もする、と。

で、話がはずみ、私たちの結論は、こうだった。
「その人を知りたければ、その人の周囲の人たちを見ればいい」と。
たとえば兄弟にせよ、友人にせよ、つねに人は類を求めて集まる。
その人の周囲の人たちが不誠実なら、その人自身も、不誠実な人と考えてよい、と。

●縁を切る

 若いころ、1人、たいへんずるい人がいた。
インチキのかたまりのような人だった。
そのためいつも、何かにつけて、小細工ばかりしていた。

 結構、金払いもよく、それなりにおもしろい人だった。
が、あるときから、金銭面で対立するようになった。
そのときのこと。

 気がつくと、私自身も、その人に対して、ずるい人間になっているのを知った。
誠実になれないというか、誠実であることに、ある種のバカらしさを感じた。
つまりそういう人に対して、誠実であっても、意味はない。
誠実そのものが通じない。
こちらが誠実であろうとすればするほど、お人好しで終わってしまう。
そう感じた。

 そのときのことを今、思い出してみると、こういうことが言える。
「不誠実な人とは、勇気をもって、縁を切れ」と。
つきあってよいことは、何もない。
が、それだけではない。
つきあえばつきあうほど、その人の不誠実さに染まってしまう。

 そういう点では、人間の心というのは、それほどタフにはできていない。
何かにつけて、染まりやすい。
とくにこの私は、生まれも育ちも、あまりよくない。
もともとガードが弱い。

●終わりに……

 要するに人生は、短い。
回り道している暇は、ない。
そのためにも、正道を急ぐ。

 最後に、3人の賢人の言葉を引用する。

To live is so startling it leaves little time for anything else.
- Emily Dickinson

生きることはすばらしいことだが、そのほかのための時間は、ほとんど残されていない。

People's whole lives do pass in front of their eyes before they die. The process is called
'living'.
- Terry Pratchet, "The Last Continent"

人生とは、その人が死ぬまで、その人の目の前を通り過ぎるだけ。そのプロセスを、「生き
ている」という。

 そしてあのアインシュタインの言葉。

Life is a mystery, not a problem to be solved.

人生(生命)は、ミステリー(謎)だ。そのミステリーは、解けるような問題ではない。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●愚痴

+++++++++++++++++++++

数日前から、「グチ(愚痴)」について書いている。
仏教で教える「愚痴」というのは、読んで字のとおり、
「愚かさが極まった状態」をいう。

が、日本語で「グチ」というと、不平、不満を、
意味もなくタラタラと口にすることをいう。

そのグチについて調べていたら、アメリカでは、
不安神経障害(Anxiety Disorder)の主症状の
ひとつであることがわかった。

++++++++++++++++++++++

●日本人のグチ

 この日本では、グチを言う人も、またそれを聞く人も、グチについては甘い。
「グチ」を、精神障害の症状のひとつと考えている人は、少ない。
実のところ、私も、そうだった。

 私自身も、グチを平気で口にしていた。
また私に対してグチを言う人がいても、「そういう話を聞いてやるのも、大切な
こと」と考えて、耳を傾けてやった。

 しかしグチはグチ。
精神障害にそのまま結びつくかどうかは別として、たしかにグチというのは、
それ自体、見苦しい。
グチをこぼす人も見苦しいが、それを聞くほうも、つらい。
不愉快。
よいことは何もない。

 で、これからはちがう。
「精神障害の主症状のひとつ」と考えて、私はグチを言わない。
一方、私にグチを言う人がいても、耳は貸さない。
聞いてやる必要もない。

 もしグチを言う人がいたら、こう言ってやるのはどうか。
「一度、精神科で診てもらったら?」と。
……と書くのは、少し言いすぎというのは、わかっている。
というのも、グチを言う人は、グチを言いながら、心に風穴をあけている。
言うなれば、ストレス発散のひとつの方法として、グチを言う。
だからその人のグチを抑え込んでしまったら、かえって症状は重くなってしまう
かもしれない。

 ただこういうことは言える。

 私の友人(外国人)たちを思い浮かべてみても、私にグチを言った人は、
ほとんどいないということ。
実際には、記憶のどこをさがしても、そういう人が出てこない。
日本人特有の、あのグチである。
記憶の中に、そういう人が出てこない。

 ということは、欧米人の間には、やはり「グチというのは、精神疾患の主症状
のひとつ」という認識があるからではないか、……ということになる。
グチを口にしたら、精神障害者と疑われてもしかたない(?)。
あるいは幼いころから、また環境的にも、歴史的にも、グチを言わない社会に
なっている(?)。

 日本では当たり前のように、言ったり、聞いたりしているグチだが、外国では
別の考え方をしている。
それだけは、確かなようである。

【はやし浩司流、今日の教え】

●グチは言わない。聞かない。
グチを言う前に、自分で考えて、自分で行動し、自分で解決せよ。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●K国の金xx

++++++++++++++++++

昨日(09年8月5日)、K国に抑留されていた
2人のアメリカ人記者が、金xxの「特赦」(?)に
よって、解放された。
5か月ぶりの解放である。

K国は、「(ゴア元副大統領ではだめだ)、クリントン元大統領をよこせ。
よこしたら、解放してやる」と、アメリカに迫った。
その結果、クリントン大統領自身が、K国まで、出かけていった。

++++++++++++++++++

●現実検証能力

あれほどまでに現実検証能力のない人間は、そうはいない。
まるで自分のことがわかっていない。
K国に金xxを見ていると、そう思う。
 どこかの政治評論家たちは、「金xxの国際政治感覚は一級だ」とか何とかもちあげて
いるが、基本的には、ノーブレイン。
その一例が、今回発表された、一枚の写真。

 金xxが右側に座り、むっつり、上機嫌(?)。
クリントン元大統領が左側に座り、同じくむっつり、無表情(?)。
うしろには、立ったままの、5、6人のアメリカ人。
(韓国紙の報道によれば、金xxは、始終、上機嫌であったという。)

 アメリカ側、つまりクリントン元大統領は、ノーコメントを繰り返しているが、
こうした状況を、アメリカ国民はもちろん、クリントン元大統領自身も、不愉快に
思っていることは明らか。
その(不愉快さ)も理解できないほど、金xxは、ノーブレイン。

 金xxは、アメリカに謝罪させ、(アメリカ側は、謝罪したことを否定)、勝ったつもり
でいるかもしれない。
国内でも、「元大統領が謝罪に来た」と、大々的に報道ししている。
しかし今回の一連の事件は、基本的な部分で、おかしい。
狂っている。

●ノーブレイン

 ありもしない外国の脅威を理由に、自国民を締め上げる。
核兵器やミサイルを開発する。
自国民が飢えて苦しもうが、国を捨てる人が続出しようが、知らぬ顔。
その上で、取材のため、インタビューを試みた記者を、逮捕、抑留。
報道によれば、一度、川を渡ってK国側に入ったのは事実だが、拉致されたのは、
中国領土側のほうであったという。

 で、お飾りの裁判。
判決は12年の懲役刑。
その上で、「2人の記者を返してほしかったら……」と。

 アメリカ側はプライドを捨てて、2人の記者の救出を図ったわけだが、アメリカ人が
怒るのは、これから。
日本の一部の報道機関は、「米朝関係が、これをきっかけに好転する」と書いている。
しかしそんなことは、常識で考えても、ありえない。
もしそうなら、アメリカも、ノーブレイン。

●わかりやすく言えば……

 わかりやすく言えば、誘拐犯に子どもを誘拐された親が、誘拐犯に頭をさげて、
子どもを返しにもらいに行ったようなもの。
ところが誘拐犯のほうは、事情がどうなっているかもわからず、「相手が頭をさげて、
頼みにきた」と、喜んでいる(?)。
だいたい、記念撮影すること自体、バカげている。
どうして、記念撮影?
こんなバカげた構図が、ほかのどの世界にある?
つまりその(バカさかげん)がわからないほどまで、金xxは、現実検証能力を
失っている。

 日本の拉致事件についても、そうだ。
誘拐した側のほうが、一国の首相を呼びつけて、いばっている。
謝罪するのは当たり前のことなのに、「謝罪してやった」と、いばっている。
こんなバカげた国を相手に、これから先、日本はどうやって外交交渉を進めていく
つもりなのか。
考えれば考えるほど、気が重くなる。
ホント!


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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