2009年9月6日日曜日

*Good-by, My Home Town

●9月4日

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古里と決別した。
実家を売り払い、家財を処分した。
かなりのモノが残ったが、それはそのままにしておいた。
つぎに入居する人のための、置き土産。
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●損論

 わずかな財産だった。
モノは山のようにあったが、お金にはならなかった。
数十枚もあった着物が、全部で、たったの2万円。
漆(ウルシ)塗りの食器も、10数箱もあったが、一部を除いて、近所の人に
分けてやった。
「ほしい方はどうぞ!」と書いたら、みなが、もち帰っていった。
中には、大きな袋に入れて、もち帰っていった人もいた。
 損?
損といえば、損。
が、私がした損は、そんなものではない。
たとえて言うなら、数千万円も損をした人が、10万円や20万円の損に
こだわるようなもの。
それよりも私は、実家のことで、自分の人生そのものを、犠牲にしてしまった。
失われた時間は、戻ってこない。
その「損」と比べたら、10万円や20万円の損など、なんでもない。
それよりも私は、こうして実家から解放された。
その解放感のほうが、うれしい。

金銭的な価値で計算することはできないが、今から20年も前だったら、
1億円でも高くない。
つまりあのとき、だれかが、「1億円出してくれたら、お前の重荷を代わりに担いで
やる」と言ったら、私は1億円を出しただろう。
そのときすでに私は、合計すれば、それ以上のお金を、実家に貢いでいた。

●財産

 私はそうした財産を処分しながら、何度もこう思った。
祖父の時代から、父の時代。
そして兄の時代へと、3代つづいた自転車店だったが、その「3代」で、残ったものは、
何だったのか?、と。
ときどき、祖父や父や兄たちが、必死になって守ろうとしてきたものは、
何だったのか?、と。

35坪足らずの土地に、古い家屋。
私はその家で生まれ育ったが、その私だって、何だったのか?、と。
わかりきったことだが、モノ、つまり財産のもつ虚しさを、改めて感じた。

●未練

 ワイフも、私の意見とまったく同じだった。
故郷を自分の中から消すということは、一度、自分自身を、(無)に
しなければならない。
未練が残ったら、故郷を消すことはできない。
そのときもし、実家に残っているモノを見ながら、そこに自分の過去を
重ねるようなことをすれば、故郷を去ることはできない。
何もかも棄てるというのは、そういう意味。

「惜しい」と思ったとたん、それは未練に変わる。
未練が残れば、前に向かって歩けない。
未練は、心を、うしろ向きに引っ張る。
だから心の中を、一度、無にする。

ある女性は、漆の食器を、大きな袋に詰めながら、私にこう聞いた。
「本当にいいのですか?」と。
つまり「本当に、もらってもいいのですか?」と。
私はそのつど、笑みを浮かべながら、「どうぞ」「どうぞ」を、繰り返した。
買えば、一個、1万円はくだらない。
お椀の模様にしても、手彫りで、その溝に、金箔が埋め込んである。
それがつぎつぎと消えていくのを見ながら、私はある種の快感を覚えていた。
言うなれば、古里を蹴飛ばすような快感だった。

●夢

 その翌朝。
つまり今日、私は兄の夢を見た。
私は実家のあるゆるい坂道を、実家に向かって歩いていた。
そのときふと横を見ると、兄がいっしょに歩いていた。
ニコニコと笑っていた。
うれしそうな顔だった。
黄色いTシャツを着ていた。
私は、兄を、右手で抱いた。
兄といっても、いつからか、私の弟のようになっていた。
小さな体に、頼りない顔をしていた。

 私は兄に、こう言った。
「仇(かたき)は、取ってやったぞ」と。
それを聞いて、兄は、さらにうれしそうに笑った。
私は夢の中だったが、涙で目がうるんだ。

●家の奴隷
 
 兄は、一家の主人というよりは、家の奴隷だった。
母にしばられ、家にしばられ、社会を知ることもなく、この世を去った。
生涯において、母は、兄を、内科以外の病院へは連れていかなかった。
無知というよりは、兄を「家の恥」と考えていた。

 晩年、母の認知症が進んだこともあり、(実際には、老人性のうつ病だったかも
しれない)、兄は母の虐待を受けるようになった。
一度、ワイフと2人で実家を見舞うと、兄は、何が悲しかったのか、
私の顔を見るやいなや、ポロポロと、大粒の涙をこぼした。
私はその涙を、私のハンカチで拭いてやった。

 今にしてみれば、唯一の、それが、心残りということになる。
どうしてあのとき、私は兄を浜松へ連れてこなかったのか。
その気になれば、それができたはず。
あのときを思い出すたびに、胸が痛くなる。

が、迷ったのには、それなりの理由がある。
兄には、おかしな性癖があった。
私の目を盗んでワイフに抱きついたり、ワイフの入浴中に、風呂の中に、
勝手に入ってきたりした。
その性癖を、兄は、自分ではコントロールできなかった。

●総決算

 その兄の夢が、私の人生の総決算かもしれない。
実家への思いを、それで断ち切ることができた。
兄も、それで断ち切ることができた。
一抹のさみしさがないと言えば、ウソになる。
しかしそれ以上に、実家から解放されたという(ゆるみ)のほうが、
大きい。
長い旅が終わって、気が抜けたような状態。
緊張感そのものが、消えた。
私はその陶酔感に浸りながら、何度も何度も、肩の力が抜けていくのを覚えた。

●世間体

 母は母で苦しんだ。
それはわかる。
しかし母の人生観が、ほんの少しちがっていたら、その(苦しみ)の
中身もちがっていたことだろう。
私たちの人生も、大きく変わっていたことだろう。
母が悪いというよりは、母はあまりにも通俗的だった。
自分の人生というよりは、「世間体」の中で生きていた。
いつもそこに他人の目を気にしていた。
その通俗性の中で、母は、自分を見失ってしまっていた。

 通俗的になればなるほど、何が大切で、何がそうでないか、それがわからなくなる。
晩年の母は、仏具ばかり磨いていたが、私はそこに、哀れさというよりは、
もの悲しさを感じていた。

●「まんじゅう……1個、80円」

 実家を整理しているとき、兄の残したノートが出てきた。
その1ページに、「まんじゅう……1個、80円」とあった。
その日、どこかでまんじゅうを1個買って、食べたらしい。
それが80円、と。

 それを見たとき、ぐいと胸がふさがれるのを感じた。
貧しい生活。
慎ましやかな生活。
1個80円のまんじゅうまで、ノートに書きとめていた。

 それをワイフに話しながら、ふと、こう漏らした。
「ぼくたちのしたことは、まちがっていなかったね」と。

 母は、そのつど、私から、お金を(まきあげていった)。
額は計算できないが、相当な額である。
そういったお金は、実家の生活費だけではなく、母の実家へと流れていった。
もう一か所、別のところへ流れていき、残ったお金は、母の通帳の中へと消えた。
10数年ほど前だが、現金だけで、母は、3000~4000万円程度は
もっていたはず。
 
 その一部を、兄は母からもらいうけ、それでまんじゅうを買って食べていた。
兄は生涯にわたって、給料らしい給料を手にしたことはなかった。
いつも「小遣い」と称して、小額のお金を、母から受け取っていた。
それだけ。

 兄は、自閉傾向(自閉症ではない)はあったかもしれないが、頭はよかった。
65歳で私の家に来たときも、小学3~4年生の算数の問題を、スラスラと
解いてみせた。

●のろわれた家系

 母が守ったものは、何だったのか。
守ろうとしたものは、何だったのか。
よくわからないというより、あまり考えたくない。
母は母で、自分の人生を懸命に生きた。
それが正しいとか、正しくないとか、そういう判断をくだすこと自体、まちがっている。
母は母でよい。

 が、全体としてみれば、「林家」は、(「家(け)」と家付けで呼ぶのも、
おこがましいが)、(のろわれた家系)である。
ひとつの例外もなく、どの家族も、深い不幸を背負っている。
みな、それぞれ、必死にそれを隠し、ごまかしている。
が、人の口には戸は立てられない。
他人は気づいていないと思っているのは、本人たちだけ。
みな、知っている。
知って、知らぬフリをしている。

●象徴

私には、その象徴が、兄だったように思う。
いつしか兄が、そうした不幸を、一身に背負っているように感じるようになった。
だから兄が死んだときも、その通夜のときも、私はうれしかった。
兄が死んだことを喜んだのではない。
私以上に、重い苦しみを背負い、兄は、もがいた。
健康でそれなりの仕事をしている私だって、苦しんだ。
兄の感じた苦しみは、私のそれとは比較にならなかっただろう。
「家」という呪縛感。
重圧感。
母の異常なまでの過干渉と過関心。
それでいて、それに抵抗する力さえなかった。
つまり兄は、死ぬことで、その苦しみから解放された。
自分の運命に翻弄されるまま、またその運命と闘う力もないまま、この
世を去っていった。

最後は、やらなくてもよいような治療を受け、体中がズタズタにされていた。
食道や胃に穴をあけ、そこから流動食を流し込まれていた。
動くといけないからと、体は、ベッドに固定されたままだった。

 一度、見舞いに行くと、私の声とわかったのか、目だけをギョロギョロと
左右に振った。
三角形の小さな目だった。

 兄は死ぬことで、その苦しみからも解放された。
私はそれがうれしかった。

が、それだけではない。

●犠牲になった兄

兄は、林家にまつわる(のろい)を、一身に背負っていた。
いや、私が兄だったとしても、何も不思議ではない。
兄が、私であったとしても、何も不思議ではない。
たまたま生まれた順序がちがっていただけ。

で、もし反対の立場になっていたら……。
あの兄なら、私のめんどうをみてくれたことだろう。
収入の半分を、私に分け与えてくれただろう。
兄は、私より、ずっと心の温かい、やさしい人間だった。
その兄が(のろい)のすべて背負って、あの世へ旅立ってくれた。
私はそれがうれしかった。
だから祭壇に手を合わせながら、私はこうつぶやいた。
「準ちゃん(=兄名)、ありがとう」と。

●礼の言葉

 葬儀が終わったとき、私は参列者にこう言った。
「今ごろ、兄は、鼻歌でも歌いながら、金の橋を、軽やかに渡っているはずです」と。
それについて、その直後に、寺の住職が、「そういうことはまだです。
四九日の法要が終わってから決まることです」と言った。
つまり「まだ、極楽へ渡ってはいない」と。

 もともと『地蔵十王経』という偽経を根拠にした意見だが、何が四九日だ!
私の人生は61年。
兄の人生は69年。
アホな「十王」どもに、人生の重みがわかってたまるか!

 兄は、あの夜、まちがいなく、金の橋を渡って、極楽へと旅立った。

●終焉

 こうしてあの「林家」は、終わった。
が、すべてがハッピーエンドというわけではない。
問題は残っている。
残っているが、これからはそのつど、蹴飛ばしていけばよい。
私の知ったことではない。
いまさら誤解を解きたいなどとは思わない。

●運命

最後に、これだけは、ここで自信をもって言える。
もしあなたが運命に逆らえば、運命は、キバをむいてあなたに
襲いかかってくる。
しかし運命というのは、一度受け入れてしまえば、向こうから尻尾を
巻いて逃げていく。
もともと気が小さくて、臆病。
そこに運命を感じても、おびえてはいけない。
逃げてはいけない。
受け入れる。
そしてあとはやるべきことをやりながら、時の流れに身を任す。
あとは必ず、時間が解決してくれる。

 つまりこうして今まで、おびただしい数の人の人生が流れた。
あたかも何ごともなかったかのように……。

 準ちゃん、ぼくももうすぐそちらへ行くからな。
またそこで会おう!

(補記)(のろい論)

 私はここで(のろい)という言葉を使った。
しかしスピリチュアル(=霊的)な、のろいをいうのではない。
ひとつの大きな運命が、つぎつぎと別の運命の糸を引き、ときとして
それぞれの家族を、翻弄する。
それを私は、(のろい)という。
ふつうの不幸ではない。
ふつうの不幸ではないから、(のろい)という。
が、それは偶然によるものかもしれない。
たまたまそうなっただけかもしれない。
しかし私はそうした(不幸)に間に、一本の糸でつながれた、
運命を感ずる。

 それについて書くのは、ここではさしひかえたい。
まだ生きている人も多いし、みな、それぞれの運命を引きずりながら、
懸命に生きている。
私とて例外ではない。
ある時期、私は、心底、そっとしてほしいと願ったときもあった。
けっして、問題から逃げようとしたわけではない。
どうにもならない袋小路に入ってしまい、身動きできなくなってしまった
ときのことだった。

 しかしそういうときにかぎって、事情も知らないノー天気な人たちが、
あれこれと世話を焼いてくる。
わずか数歳、年上というだけで、年長風を吹かしてくる。
その苦痛には、相当なものがある。
私はそれを身をみって、体験した。

 だから、……というわけでもないが、もしその人が、今、苦しんで
いるなら、そっとしておいてやることこそ、重要ではないか。
もちろん相手が求めてくれば、話は別。
そうでないなら、そっとしておいてやる。
それも気配りのひとつ。
思いやりのひとつ、ということになる。

 
Hiroshi Hayashi++++++++AUG 09++++++++はやし浩司

●伊豆・熱川(あたがわ)温泉にて

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今日は、講演のつづきで、伊豆の熱川温泉に泊まった。
きびしい海岸線にへばりついたような温泉街で、いたるところから白い蒸気が立ち上って
いるのがわかった。
ホテルに着くと私たちはすぐ、海岸へ出てみた。
やや荒い波が、黒っぽい砂浜に絶え間なく、打ち寄せていた。
何組のかの若い男女が、波と戯れていた。
私は、DVDカメラを回しつづけた。

泊まったホテルは、「ホテル・セタスロイヤル」。
「セタス」というのは、「クジラ座」という意味だそうだ。
駅からホテルまで運んでくれた運転手が、そう教えてくれた。
この地域は、何かのことでクジラと縁があるらしい。
9階の私たちの部屋から、そのまま太平洋が一望できた。
すばらしい!
ワイフは、「私は海が好き」と、子どものようにはしゃいでいた。

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●セタスロイヤル
 
 実名を出してしまったので、評価することはできない。
しかし熱川温泉では、海に面した、見晴らしのよさでは、最高のホテル。
各部屋から、太平洋が、視界が届く限り、端から端まで、一望できる。
加えて6階にある露天風呂がすばらしい。
広くて、美しい。

ただ露天風呂までの通路が長いのが、やや気になる。
寒い冬などは、それだけで体が冷えてしまうだろう。
が、長い通路を通りぬけて行くだけの価値はじゅうぶん、ある。
私たちはそのホテルの最上階、つまり9階に部屋にあてがわれた。

 で、このところ私たちは、ほかにホテルがあっても、その土地へ行ったら、
できるだけ同じホテルに泊まるようにしている。
新しいところで冒険するより、勝手がよくわかったホテルのほうが、落ち着く。
2度目より3度目。
3度目より4度目のほうが、落ち着く。
次回、何かの機会で熱川温泉へ来るようなことがあれば、まちがいなくセタスロイヤルに
泊まるだろう。

●旅のよさ

 人生を旅に例える人は、多い。
たしかに旅だ。
もう少し詳しく表現すれば、人生は、(時の旅)。
旅は、(位置の旅)。
時間と空間のちがいということになるが、今では、時間と空間は、物理学の世界では、
「同じ」と考える。
たとえば時間が止まれば、物体の移動も止まる。
時間が動き出せば、物体もまた動き出す。
見た目には静止していても、分子レベルでは、猛烈な勢いで動き出す。

 私たちは位置を移動することによって、そこに時間の動きを感ずることができる。
わかりやすく言えば、(変化)を感ずることができる。
(時間の変化)を感ずることができる。
その時間の変化を感ずるために、旅をする。

●時間の変化

 わかりにくいことを書いた。
理屈っぽくすぎて、「?」と思った人も多いことだろう。
つまり旅をすることによって、それまで止まっていた時計が、
再び動き出す。
時間の変化を感ずることができる。
もし旅をしなかったら、今日は昨日のまま過ぎ、明日は今日のまま過ぎる。
「マンネリ」という言葉も、そういうときの状態を表現するためにある。
わかりやすく言えば、そういうこと。

 が、旅は、その時の流れに、ひとつの区切りを入れてくれる。
今日と昨日の間に、区切りを入れてくれる。
今日と明日の間に、区切りを入れてくれる。
今度の旅は、確実に、その区切りを入れてくれた。

●朝、5時に起床

 朝、5時に目が覚めた。
昨夜は、午後9時半ごろ、それまでの疲れがどっと出たのか、そのまま眠ってしまった。
それで5時。

 静かにカーテンをあけると、そこに再び、太平洋が現れた。
窓を開けると、潮騒の音が、部屋中に響いた。
空はほんのりと、ピンク色。
紫色の雲が、左から右へと、ゆっくりと流れているのがわかる。
その下を細いひだになった波が、手前へと流れている。
壮大な景色である。
水平線だけの、壮大な景色である。

 私はDVDを回し、つづいてカメラのシャッターを切る。
午前5時26分。
日の出。
真っ赤な、小さな光点が、水平線から顔を出す。

●リバウンド?

 伊東もよい。
稲取もよい。
しかしここ熱川もよい。
伊豆半島の東岸には、すばらしい温泉地が並ぶ。
近く、下田の市民文化会館で、講演をすることになっている。
そのときは、下田市に一泊するつもり。
楽しみ。

 そうそう昨夜は料理で、一夜にして、3日分を食べた。
量的には、それくらいあった。
あとで体重計に乗るのがこわい。
おそらく63キロ台に戻っているはず。
私は食べたら、食べた分だけ太る。
今日は、がまんして、絶食。

(浴場にあった体重計に乗ってみたら、意外や意外!
体重は、60キロを切っていた!
「?」と思いながら、数回、量りなおしてみる。
私は講演期間中は、食事の量を極端に減らしている。
講演中に眠くなってしまう。
今日も、口にしたのは、稲荷寿司、数個だけだった。
リバウンドしていなかったことを、喜んだ。)

●心の整理

 ワイフが楽しそうなのが、うれしい。
家の中で見るワイフと、旅先で見るワイフは、別人のよう。
昔から、「電車に乗っているだけで、楽しい」と、口癖のように言う。

 一方、私は実家の問題が、解決した。
実家から解放された。
ついでに姉夫婦とも、xxした。
いろいろあった。
ありすぎて、ここには書けない。
それに書けば、いろいろと問題になる。
姉の娘が、ときどき私のHPをのぞいている。
のぞいては、内容を、あちこちに知らせている。

ただできるなら、もう私たちのことは、放っておいてほしい。
気になるのはわかるが、あなたがたはあなたがたの人生を生きればよい。
私の家の心配をするよりも、あなたがたの家の心配をしたほうがよいのでは・・・?
このままでは・・・?
この先のことは、あなたがたが、いちばん、よく知っているはず。
私が何も知らないと思っているのは、あなたたちだけ。
(わかりましたか、SRさん、それにMSさん!)

 ともかくも、今は病気に例えるなら、病後の養生期。
ゆっくりと静養して、つぎの人生に備える。

●新しい人生

 こうして私の新しい人生は、始まった。
太平洋に昇る朝日を見ながら、それを感じた。
老後なんて、私には関係ない。
これからが私の人生。
今まで苦しんだ分だけ、自由に、この大空をはばたいてみたい。
今日が、その第一歩。

 2009年9月6日、日曜日。


Hiroshi Hayashi++++++++SEP.09+++++++++はやし浩司【別記】

●M町を去る(別記)

古い家だった。
家全体が、骨董品の倉庫のよう。
昔の人は、冠婚葬祭を自宅で、した。
そのときの道具が、一そろい、残っている。
奥の戸棚を開けると、古い木箱に入った道具類が、
山のように出てきた。

浜松へ持ち帰るとしても、たいへんな作業になる。
「どうしようか?」と考えているうち、GOOD IDEA!

道路脇並べて、近所の人たちに無料で、分けてやることにした。

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●モノを分ける

 現在の貨幣価値になおして、時の祖父は、そうした道具類を
現在の価値で、何百万円も出して買ったのだろう。
茶碗といっても、本ウルシを塗った高価なもの。
金沢市の駅前のみやげもの店なら、1個、1万円前後で
売っているはず。

 そういうものをビニールシートに並べる。
ほかに焼き物、花瓶、置物などなど。
「どうぞ自由にお持ち帰りください」という張り紙を張ったとたん、
4、5人の人たちが、そこに集まった。
最初は遠慮がちだったが、やがて大きな袋をもってくる人もいた。

 うれしかった。

 私からのプレゼントというよりは、私の祖父母、両親からのプレゼント。
祖父母や両親が、「気前のいい話やなあ」と、どこかで笑っているような
気がした。

●モノ

 モノとは、所詮、そんなもの。
価値があるようで、ない。
あるとしても、思い出。
私の過去は、そうしたモンと、深くからんでいる。
それぞれのものを手に取ってみては、「ああ、これはあのときの
もの」と。

 しかし時間的にも感傷に浸っている時間はない。
11時半から、実家の売買契約。
2時から、法事。
3時から、古物商との商談。
そして5時には、運送会社がやってくる。

●価値

 古物の価値が、さがってきている。
たとえば切手にしても、古銭にしても、売り先を見つけるのさえ難しい。
ネットでオークションに出すという方法もあるが、そのための
時間がない。
ということで、そのまま宝の持ち腐れ?

 そこで改めて、ふと考える。

 私は先日、古いパソコンを、6~7台、処分した。
「古い」といっても、10年ほど前のもの。
当時でもパソコンは、1台20万円前後はした。
ことパソコンに関して言えば、骨董的価値はない。
そのままゴミ。

 となると、祖父が買った茶器類と、私の買ったパソコン類と、
どちらが(価値)があるか、と。
あるいは(価値)を考えること自体、まちがっているのか。

 たとえば茶器にしても、プラスチック製のものよりは、ウルシ塗りの
もののほうが、作るのに手間がかかる分だけ、値段が高い。
値段が高いから、価値があるということになる。
しかしそこでハタと考えてしまう。

「だから、それがどうしたの?」と。

●見るモノと、使うモノ

 一方、パソコンのほうは、それなりの(仕事)をした。
言うなれば骨董品のほうは、(見る)もの。
パソコンのほうは、(使う)もの。
(使う)という視点で価値を判断するなら、数年の1度しか
使わない茶器より、毎日使うパソコンのほうが価値がある。
(価値といっても、金銭的価値だが……。)

 だから10年を経て、それが20万円で買ったものであったと
としても、棄てても悔いはない。
が、ウルシの茶器は、そうでない。
棄てることはできない。
が、骨董屋に売るとなると、二束三文。
だったら、近所の人たちに、無料で分ける。
そのほうが、ずっと気持ちがよい。


Hiroshi Hayashi++++++++SEP.09+++++++++はやし浩司
 
●9月X日、運命の日

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現在の心境。
たいへん軽い。
刻一刻と、時が流れていく。
その音が、やさしいせせらぎのように、
心地よく心に響く。
うれしい。
9月X日。
私は、古里と決別する。
待ちに待った、その瞬間。
それがやってくる。

もちろん不安がないわけではない。
どんな別れにせよ、(別れ)というのは
そういうもの。
いつも不安がともなう。
あえて言うなら、『モヤのかかった
山の頂上に、朝日を見るような』
(シェークスピア)のような心境。

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●実家を売る

 結局、間に立ってくれた人が、「自分でほしい」と言ってくれた。
譲渡価格は、問題ではない。
いくらでもよい。
とにかく買ってくれる人がいたら、それでよい。
そう思って、その人に、売買を一任した。
で、その人自身が、買ってくれることになった。
その人の言い値で売ることにした。
母に直接渡した現金の10分の1にもならない。
しかしそれで(過去)から解放されるなら、文句はない。
いうなれば、人生の(おまけ)。
バンザーイ!

●貧乏

 私が実家を(重荷)に感じ始めたのは、小学5、6年生くらいの
ことではなかったか。
記憶は確かではないが、中学生になるころには、はっきりとそれを
自覚するようになった。
今にして思えば、そういう重圧感を作ったのは、母自身ということになる。
母は私に生まれながらにして、「産んでやった」「育ててやった」「親のめんどう
みるのはお前」と、言いつづけた。
それが母の教育の基本法だった。

 加えてそのころから、稼業の自転車店は、ほとんど開店休業状態。
パンク張りの日銭で、何とかその日をしのいでいるという状態だった。
今になって実家は、町の「伝統的建造物」に指定されている。
大正時代の商家そのままという。

 しかし何も好き好んで、伝統的建造物を守ったわけではない。
改築するお金もないまま、ズルズルと今に至っただけ。
言うなれば、慢性的貧乏。
その象徴が、私の実家。
わかりやすく言えば、そういうことになる。

●保護と依存

(この間、半日が過ぎた。
私は今、実家へ向かう電車の中にいる。
時は9月2日、午前7時40分。)

 要するに保護と依存の関係。
それができてしまった。
保護する側はいつも保護の側に回る。
依存する側は、いつも依存する側に回る。
最初は感謝されることはあっても、それは一時的。
やがてそれが当たり前になり、さらに時間がたつと、相手、つまり
依存する側が、保護する側に請求するようになる。
「何とかしろ」と。

 さらに時間がたつと、保護する側は、今度は、それを義務に感ずる
ようになる。
こうしてつながりそのものが、保護と依存の関係が結ばれたまま、
固定化する。

●解放

 今の私の立場を一言で表現すれば、「何もかも私」という状況。
だれというわけではないが、みな、そう思っている。
私自身もそう思っている。
そういう中で、みなは、ジワジワと私に迫ってくる。
私はそれにジワジワと苦しめられる。

 が、それが今日という日を境に、終わる。
私は何もかもから解放されたい。
何もかもから、解放される。
法事の問題、墓の問題も、あるにはある。
あるが、いくらでも先延ばしにできる。

●ドラマ

 ところで昨日、郷里住むいとこと、2回、電話で話した。
どちらも1時間以上の長電話になった。
「明日、M町とは縁を切ってきます」と告げると、「それはよかったね」と。

 で、私は自分の心にけじめをつけるつもりで、今までの心境を語った。
弁解とか、言い訳とか、悪口とか、そういうのではない。
今さら私が苦しんだ話など、だれも聞きたがらない。
話しても意味はない。
いとこはいとこで、自分の経験を、あれこれとしてくれた。
それが参考になった。
心に染み入った。
懸命に生きてきた人には、懸命に生きてきた人のドラマがある。
私にもある。
そのドラマが、今、光り輝く。

●社会的重圧感

 金銭的負担感というよりは、社会的負担感。
負担感というよりは、重圧感。
40歳を過ぎるころから、私はそれに苦しんだ。
貪欲なまでに、私のお金(マネー)を求める母。
といっても、そのころになると、そのつど母は、私を泣き落とした。
一方、私は私で、いつしか、そういう母のやり方に疑念をもつようになった。

 疑念をもちながら、それでも仕送りを止めるわけにはいかない。
それが社会的負担感を増大させた。
実家へ向かうたび、私はどこかで覚えた経文を唱えずして、帰る
ことができなかった。

●不安

 が、不安がないわけではない。
親類がもつ濃密な人間関係は、ほかのものには換えがたい。
それを断ち切るには、それ自体、たいへんな勇気が必要。
断ち切ったとたん、そこに待っているのは、孤立感。
「私にはその孤立感と闘う力はあるのか」と、何度も自問する。
……というより、この10年をかけて、少しずつ、親類との縁を
切ってきた。

幸い、その分だけ、ワイフの兄弟たちとは、親しくさせてもらっている。
心の穏やかな、やさしい人たちである。
息子たちの結婚式など、そのつど、みな協力してくれた。
その温もりが、こういうときこそ、私を横から支えてくれる。

●真理

 そう言えば、今朝、目を覚ましたときのこと。
私の心がいつもになく、穏やかなことを知った。
たいてい……というより、ほとんど毎朝、私は旅行の夢で目が覚める。
が、今朝はちがった。
夢の内容は忘れたが、あのハラハラした気持ちはなかった。
そのかわりに、郷里の人たちが、みな、小さな、どこまでも
小さな人間に思われた。

 つい昨夜まで、心を包んでいたあの緊張感が、消えた。
「どういうことだろう?」と、自分に問いかけた。
いや、ときどき、そういうことはある。

 あるひとつのことで、緊張感が頂点に達したとき、突然、
目の前に、別の世界が広がる。
ひとつの(山)を乗り越えたような気分である。

 たとえば人を恨むことは、よくない。
しかし恨みも頂点に達すると、やがて心の水が枯れる。
枯れたとたん、その人を、別の心で包み込むことができる。
あマザーテレサも、同じようなことを言っている。

『愛して、愛して、愛し疲れるまで、相手を愛せよ』と。

 私はそこまで高邁な心境になることはできないが、マザーテレサの
言葉には、いつも真理が隠されている。

●運命

 そんなわけで、今、苦しみのどん底にいる人たちに、こんなことは
伝えられる。
 どんな問題でも、相手が人間なら、時間がかならず解決してくれる、と。
解決してくれるだけではない。
『時間は心の癒し人』。
心も癒してくれる。

 だからそこに運命を感じたら、あとは静かに身を負かす。
(運命)というのは、それに逆らえば、牙をむいて、その人に襲いかかってくる。
しかしひとたび受け入れてしまえば、尻尾を巻いて逃げていく。
もともと気が小さい。
臆病。
 
 私もある時期、母を恨んだ。
心底、恨んだ。
しかし私の家に住むようになった直後のこと。
下痢で汚れた母の尻を拭いたとたん、その恨みが消えた。
「こんなバーさんを、本気で相手にしていたのか」と。

 と、そのとき母は私にこう言った。
「お前にこんなことをしてもらうようになるとは思わないんだ」と。
それに答えて、私も、「ぼくも、あんたにこんなことをしてやるように
なるとは、思っていなかった」と。

 まだ正月気分も抜けやらない、1月のはじめの日のことだった。
 
●こうして人生は過ぎていく

 こうして人はやってきて、またどこかへと去っていく。
M町にしてみれば、私はただの通行人。
店先をのぞいて、そのまま通り過ぎる、通行人。
あの実家にしても、明日からは別の人が住み、別の生活が始まる。
みやげもの屋、もしくは町の案内所としては、最適。
実家は実家で、また別の人生を生きる。
あたかも何ごともなかったかのように……。

私「M町へ、再び行くようなことはあるだろうか」
ワ「……何か、あればね。今のあなたの気持ちとしては、もう
ないでしょうね」
私「何もなければいいけどね。行くとしても、素通りするよ」
ワ「そうね」と。

 電車は、豊橋を過ぎると、少しずつ混み始めた。
ちょうどラッシュアワーに重なった。
「名古屋を過ぎれば、またすいてくるよ」と私。
不思議なほど、心は静かなまま。
フ~~~ッと。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 09++++++++はやし浩司

●本音と建前

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学生時代、オーストラリアの人たちはみな、
私に親切だった。
あの人口300万人と言われたメルボルン市でさえ、
日本人の留学生は、私、1人だけ。
もの珍しさもあったのかもしれない。

が、あるとき、どういうきっかけかは覚えていないが、
こう感じたことがある。
「友人としてつきあう分については、そうかもしれないが、
一線を越えたらそうではないだろうな」と。

++++++++++++++++++++++

●社会的距離尺度(ボガーダス)

 たとえば(結婚)。
(友人)としての範囲なら、親しく接してくれるオーストラリアの人たち。
しかしその範囲を越えて、たとえば(結婚)となったら、どうだろうか。
当時の状況からして、それはありえないことだった。

 1970年当時、白豪主義は、残っていた。
日本人は、まだ第二級人種と位置づけられていた。 
仮に相手がオーストラリア人であっても、第二級人種と結婚したばあい、
そのオーストラリア人も、第二級人種に格下げされた。

 こうした距離感を、「社会的距離尺度」(ボガーダス)という。
つまり表面的には受容的であっても、内面では、否定的。
その距離感のことをいう。
日本的に考えれば、(本音)と(建前)ということになる。

●心の遊び

 日本人には、うつ病の人は少ないと言われている。
その理由のひとつに、日本人の精神構造がダブルになっていることが
あげられる。
(本音)と(建前)というのが、それ。
表と裏を、うまく使い分ける。
それが心に穴をあける。
風通しをよくする。
悪く言えば、平気でウソをつく。
ウソをつきながら、自分をとがめない。

 一方、それに比較して、欧米人は、なにごとにつけ、ストレート。
日本的に本音と建前を使い分けると、「うそつき」というレッテルを
張られる。
その分だけ、心の(遊び)がない。
だからうつ病になりやすい。

●本音で生きる

 が、できれば、日本人の私たちも、できるだけ本音で生きるように
したい。
本音と建前を分ければ分けるほど、外から見ると、訳の分からない民族
ということになる。
その典型的な例というわけでもないが、よく話題になるのが、日本人の
(笑い)。

 よく電車に乗り遅れたような人が、プラットフォームで苦笑いするような
ことがある。
ああした(笑い)は、欧米人には理解できない。
最近ではぐんと少なくなったが、デッドボールを当てたピッチャーが苦笑いを
するのもそれ。

 内心と表情が、別々の反応を示す。
いやなヤツと思っていても、ニコニコと笑いながら接する。
そういう場面は多い。
しかしそういう生き様は、時分自身を見苦しくする。
あとで振り返っても、後味が悪い。

●「自分の心を偽るな!」

 平たく言えば、「どうすれば社会的距離尺度を、短くすることが
できるか」ということ。
で、私はここ1年ほど、子どもたちを指導しながら、こんなことに
注意している。

 幼稚園の年中児でも、「君たちは、おっぱいが好きか?」と聞くと、
みな、恥ずかしそうな顔をして、こう言う。
「嫌いだよ~」「いやだよ~」と。

 そこですかさず私は、真顔で、子どもたちを叱る。

「ウソをつくな!」「好きだったら、好きと言え!」
「自分の心を偽るな!」と。

 2、3度、真剣にそう叱ると、子どもたちはみな、
「好きだよ~」と、小さな声で答える。
つまり日本人独特の、本音と建前は、こうして生まれ、
子どもたちの心に根付く。
(少し大げさかな?)

●本音で生きよう

 本音で生きるということは、勇気がいる。
しかしその分だけ、人生がわかりやすくなる。
すがすがしくなる。

 自分を飾ったり、ごまかしても、意味がない。
後味が悪いだけ。
どうせ一回しかない人生。
だったら、思う存分、本音で生きてみる。
ものを書く立場で言うなら、ありのままをありのままに書く。
こう書くからといって、誤解しないでほしい。
読者あっての(文章)だが、このところ読者の目は、ほとんど
気にしていない。
読んでくれる人がいるなら、それでよし。
読んでくれなくても、それでもよい、と。

 どう判断されようが、私の知ったことではない。
(自分の力では、どうしようもないが・・・。)
大切なことは、こうして懸命に生きている人間がいること、
……過去にいたことを、何らかの形で、だれかに伝えること。
それができれば、御の字。
それ以上、何を望むことができるというのか?

(つい先週も、40年来の友人から、こんなメールが届いた。
「君はプライベートなことを書いているが、気にしないのか」と。)

 話はそれたが、本音で生きるということには、そういう意味も
含まれる。
余計なことかもしれないが……。


Hiroshi Hayashi++++++++SEP.09+++++++++はやし浩司

●夢判断

++++++++++++++++++++

夢判断というのは、たしかにある。
私にとっては、2009年9月2日は、心の大きな転機になった。
そのせいだろうと思うが、その日を境に、夢の内容が、がらりと変わった。

それまでは夢といえば、旅行先の夢ばかりだった。
どこかの旅館やホテルにいて、帰りのバスや飛行機の時刻を心配する
そんな夢ばかりだった。

おかしなことに、夢の、こまかい部分については、そのつど、ちがった。
同じ内容の夢を見ることは、ほとんどない。

が、9月3日は、忘れたが、旅行の夢ではなかった。
9月4日は、兄の夢。
9月5日も忘れたが、旅行の夢ではなかった。
9月6日、つまり今朝は、浜松の自宅に、生徒たちが遊びに来た夢。

夢の内容を判断するかぎり、私の心境は、大きく変化した。

++++++++++++++++++++

●深層心理

 心の奥底にあって、人間の意思や意識をコントロールする。
それが深層心理ということになる。
人間のばあい、(人間だけにかぎらないのだろうが)、深層心理のほうが分量的にも、
はるかに大きい。

 一説によれば、脳の中で意識として活動している部分は、脳全体の20万分の1
程度という。
何かの本でそう読んだ。

 つまり私たちの意識は、その20万倍もの無意識や潜在意識によって支配
されている。
私が毎晩、ちがった夢を20年間見たとしても、365x20=7300。
20万倍には、遠く及ばない。

 わかりやすく言えば、私たちの意識は、常に、無意識や潜在意識によって
支配され、コントロールされている。
私が旅行先の夢を見るのは、焦燥感、不安感、心配、不信感などが、ベース
になっているからと考えてよい。
が、それが消えた。

●墓参り

 そのうち心境が変化するかもしれない。
しかし今の私には、墓参りをするという意識そのものがない。
祖父も、父も、墓参りだけは、したことがない。
墓参りした姿さえ、記憶にない。
理由はわからない。

 が、墓参りを大切にしている人もいる。
人は、人それぞれだし、それぞれの思いの中で、墓参りをする。
私がしないからといって、それでもって他人のことをとやかく言っては
いけない。
が、同時に、自分が墓参りするからといって、私のことをとやかく言って
ほしくはない。
私は、私。
それでバチ(?)なるものが当たるとしたら、それは私のバチ。
あなたには関係のないこと。

 ただ言えることは、合理的に考えれば、遺骨に霊(スピリチュアル)が
宿るということは、ありえない。
人間の肉体は、骨も含めて、常に新しく生まれ、そして死ぬ。
もし魂が宿るとしたら、むしろ脳みそということになる。
心臓でもよい。
しかし脳みそや心臓は、保存には適さない。
だから「骨」あるいは「髪の毛」ということになった。

 言うなれば、人間のご都合主義が、「骨」にした。

●それぞれの思い

 話はそれたが、墓参りを熱心にする人というのは、何かしらの
(わだかまり)が、心の奥にあるためではないか。
罪滅ぼし?
懺悔?
後悔?
うしろめたさ?
何でもよい。

 こう決めてかかると、墓参りを熱心にしている人に対して失礼な
言い方になるかもしれない。
多くの人は、故人をしのび、故人を供養するために、墓参りをする。
「先祖を祭り、大切にするため」と主張する人もいる。
それはそれでわかる。

 しかし私は墓参りも、自然体でよいのではないかと考える。
参りたいと思うときに、参ればよい。
もちろんそれぞれの思いに従えばよい。
罪滅ぼしであっても、また故人の供養でもよい。

ただ遺骨に、必要以上の意味をもたせることは、好ましいことではない。
もっと言えば、墓参りをすることによって、「今」そのものを見失って
しまう。
こんな女性(60歳くらい、当時)がいた。

 その女性の母親が生きている間は、虐待に近い虐待を繰り返していた。
で、その母親は、ある寒い冬の夜、「ふとんの中で眠ったまま」(その
女性の言葉)、死んでしまった。

 その女性の墓参りがつづくようになったのは、しばらくしてからのこと
だった。
一説によると、夜な夜な、母の亡霊が枕元に立ったからという。
あるいはその女性は、罪の意識に苛(さいな)まれたのかもしれない。
それで墓参りをするようになった(?)。

 よくある話である。

●今が大切

 死者を弔うことも大切だが、それ以上に、はるかに大切なことは、
「今」を大切にすること。
これは私の人生観とも深くからんでいるが、母を介護しているときにも、
それを強く感じた。

 介護といっても、そのつど、多額の介護費用などがかかる。
救急車で病院へ一度運んでもらえば、救急車代は別としても、1回につき、
10万円前後の検査費、入院費、治療費がかかった。

 しかしそういう費用が、惜しいとか、そういうふうに考えたことは一度も
ない。
「高額だな」と反感を覚えたことはあるが、それは医療体制に対しての
ものであって、母に対してではない。

 しかし今、法事に、読経をしてもらうだけで、1回5万円ということに
ついては、矛盾というより、バカらしさを覚える。
信仰心のあるなしとは、関係ない。
まただからといって、母の死を軽んじているわけでもない。
この落差というか、(心の変化)を、どう私は理解したらよいのか。

 同じように、私は、「今」を生きている。
懸命に生きている。
もし息子たちに、私やワイフを大切にしてくれる気持ちが少しでもあるなら、
今の私たちを大切にしてほしい。
死んでから、墓参りに来てくれても、うれしくはないし、またそんな
ことをしてくれても、私には意味はない。
またそれで私が地獄へ落ちるとしたら、仏教のほうがまちがっている。
カルト以下のカルト。

 供養するかしないかは、あくまでも(心)の問題。
心があれば、毎日だって墓参りをすればよい。
また心があるなら、墓参りなどしなくても、どこにいても、供養はできる。

 この3日間、いろいろと考えた。
私には、収穫の多い、3日間だった。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 09++++++++はやし浩司

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