2009年9月25日金曜日

*Magazine dated Sep 25th

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 9月 25日
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●クレヨンしんちゃん

++++++++++++++++++

ある高校生から、掲示板のほうに、
こんな書きこみがあった。

【Tさんより、はやし浩司へ】

私は、高校2年生の遠山です。
今私は放送部に所属しています。
毎年秋のアナウンス大会では、「自分の住んでいる県または市について」という題で
原稿を書いています。そこで今年は私が住んでいる埼玉県の話ということで春日部市が
舞台になっているクレヨンしんちゃんについて書こうと思っています。

理由は、私自身が昔からしんちゃんが好きだという気持ちもあるのですが、しんちゃんの
育児教育についてテレビで目にしたからです。この大会の原稿というのは、ただ単に地元
話題を書くだけではなく、その話題の内容を含めて日本の社会のありかたなど、誰が聞いてもためになる話であったり、理解され受け入れてくれる話でなければいけないのです。

私は、クレヨンしんちゃんの面白さ以外の意味をこの年になって初めて知りました。この
しんちゃんのもうひとつの意味をみんなに知って欲しい(特に同年代の人に)と思ってい
ます。

もしよければはやし先生にクレヨンしんちゃんの親と子の関係の良さと、現代の日本の教
育との関係などについてお答えいただければと思っております。

せっかくの子供の教育についてのご相談の場所においてこのような質問をし、大変申し訳
ございません。是非ともお答えのほうよろしくお願いいたします。

【はやし浩司より、Tさんへ】

 クレヨンしんちゃんについては、大きな誤解があります。
テレビのアニメ番組について、「子どもに見せたくない番組」のワーストワンに
あげられることもしばしばです。

 しかしもしあなたが、コミック本のほうの、Vol.1~12前後まで読まれたら、印象は
大きく変わるでしょう。
そういう点では、テレビのアニメ番組のほうは、ギャグ化され、しんのすけ君の悪い面ば
かりが、おもしろおかしく、誇張されすぎています。
とても残念に思っています。

 いくつか、よい点をあげてみます。

(1)最近、しんのすけ君のようなたくましい男児が、減っている。(男児の女児化が問題
になって、すでに20年以上になる。母親中心の育児環境が、男児の女児化を促進
してしまった。)
(2)みさえさんの育児観がすばらしい。(夫に対しても、しんのすけ君に対しても、全幅
に心を開いている。基本的信頼関係の構築という点では、世の母親たちは、おおい
にに見習うべき。言い換えると、心を閉ざした育児ほど、子どもに悪影響を与える
ものはない。)
(3)育児のたいへんさをうまく表現している。(育児は、それ自体重労働。たいへんな重
労働。それを世の男性諸君は、知らなさすぎる。『男は仕事、女は家庭、育児』と安
易に考えすぎている。)
(4)みさえさんの生きざまは、新しい母親像の見本。(とくに新潟と九州の父親とのやり
取りが、おもしろい。相手が舅(しゅうと)といっても、遠慮する必要はない。今、
舅、姑との確執問題で悩んでいる若い母親が多い。おおいに参考にしたらよい。)
(5)友だち親子。(みさえやヒロシは、しんのすけを、1人の人間として、その人格を尊
重している。こうした育児観は日本人にはないもの。つまり日本の親たちは、「友」
として子どもの横に立つという習慣をもっていない。そういう点で、野原家の育児
論は、参考になる。
(6)子どもらしい性への疑問と関心。(コミック本のほうでは、しんのすけ君の、性への
疑問と関心が、実にうまく生き生きと描かれている。Vol1~12あたりまでは、臼井
家族の実体験的なコミックと考えてよい。私も幼児を教えて40年以上になるが、
読んでいて、違和感がないのは、そのため。ただし繰り返すが、テレビのアニメ番
組のほうは、たしかによくない。制作を担当しているプロダクションが勝手に料理
しすぎているためでは!)

 ほかにもいろいろよい点はたくさんあります。
小生の「野原家の育児論」を参考にしてください。
なおこの文中では、急いで書いたため、固有名詞、名前など、まちがっているところがあ
るかもしれません。
(はやし浩司曰く……)と断りを入れてくださるなら、ここに書いた原稿を、自由に使っ
ていただいて、結構です。

参考……
http://shizuoka.cool.ne.jp/bwhayashi/page065.html

 では、はやし浩司

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 クレヨンしんちゃん・野原家の子育て論)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【たぬき村】(改作・追加)

●あいさつ

++++++++++++++++++

ムカ~シ(昔)といっても、今の時代だが、
あるところに、「たぬき村」という村があった。……ある。

そこでは、何が本当で、何がウソか、まったくわからない。
虚々実々。
たとえば村の人たちの交わすあいさつにしても、こうだ。

「よお、うちで、昼飯でも食っていかんけエ?」と声をかける。
これに答えて、声をかけられたほうは、
「悪いのオ、今、食べてきたところでのオ」と。

昼飯を誘う方も、本気で誘っているのではない。
形だけ。
本気で、「昼飯を食っていけ」と言っているのではない。
あくまでもあいさつ。

言われたほうも、それをよく承知している。
いくら空腹でも、そう答える。
「食べてきたところでのオ」と。

そのあたりでは、どこの家も、昼は茶漬けですますという習慣がある。
食事らしい食事を用意している家など、ない。
本当に相手が、「食べていこうか」などとでも答えたら、さあ、たいへん。
上を下をの、大騒ぎになる。

で、たぬき村。
その物語。
始まり、始まり……。

++++++++++++++++++

●村の習慣

 うまいものは、隠れて食べる。
まずいものは、隠して食べる。
食べ方は同じだが、中身がちがう。

 うまいものを食べているのを知られると、「ぜいたく」と叱られる。
まずいものを食べているのを知られると、「貧乏」と笑われる。
だからうまいものは、隠れて食べる。
まずいものは、隠して食べる。
それがその村の習慣。

みながそうしているから、ひとりだけ別行動と言うわけにはいかない。
別行動をしたとたん、「変わり者」というレッテルを張られる。
さらにさからえば、あの恐ろしい「村八分」。
村八分が待っている!

●詮索

 村の人たちは、詮索しあって生きている。
「他人の不幸話ほど、おもしろいものはない」と、だれも、口にこそ出しては言わないが、
みな、そう思っている。
 で、ひとたび、どこかの家で不幸な話があると、またたく間に、村中に広がる。

「ああ、あわれや、あわれや……。Aさんとこの息子は、傷害事件を起こし、今度
高校を退学になったそうや……。ああ、あわれや。かわいそうや」と。

 ときに涙声になるが、もちろん、涙は一滴も出ない。
あるいはよく使う言葉が、これ。

「ここだけの話ですがね……」
「あの人の悪口だけは言いたくないのですがね……」
「私はどちらでもいいと思っているのですが、村の人ほかのたちは、
何と言いますかねエ……」と。

●相対的価値観

 だからたぬき村の人たちは、たがいの家の内情を、たいへんよく知っている。
昔から『米櫃(びつ)の中の、米の数まで知っている』というが、それはけっして
おおげさな言い方ではない。
それこそ息子や娘たちの給料の明細まで、知っている。
 現金収入、アルバイト収入、副収入……。
すべて知っている。

 そしてたぬき村での幸福感は、相対的なもの。
「他人より、よい生活ができれば、リッチ、幸福」
「他人より、悪い生活になれば、プア、不幸」と。

 だから隣人の生活が気になる。
気になってしかたない。
そして最後は、こうなる。

『みんなで渡れば怖くない』
『出る釘は打たれる』
『渡る世間は、鬼ばかり』と。

 それがたぬき村の処世術。

●ドロドロした人間関係

 年功序列、上下意識、権威主義、家父長意識、加えて「家」意識。
たぬき村には、みな、残っている。
封建時代の邑(むら)意識が、そのまま、残っている。
しっかりと残っている。
たぬき村には、「正直」「誠実」という言葉は、ない。
あるとすれば……、

『小悪を暴露して、大悪を隠す』
『小善をなして、善人ぶる』
『建前で本音を隠す』などなど。

 ついでに『面従腹背』というのもある。
表面的にはにこやかにつきあいながら、裏で足を引きあう。
のどかな、のどかな、どこまでも牧歌的な温もりのする世界だが、
その皮を一枚むけば、そこにあるのはドロドロした人関係。
それが底なしに渦巻いている。

●嫉妬と見栄

 たぬき村の人は、概して言えば、嫉妬深い。
それが先に書いた、足の引きあいということになる。
驚くなかれ、たぬき村では、「香典抜き」は、日常茶飯事。

 だれかが亡くなって葬式になったとする。
で、そういうとき、香典を、ぜったいに村の人に預けてはいけない。
頼んでもいけない。
3万円の香典が、1万円に化けるなどということは、当たり前。
中には、香典そのものをかすめてしまう人もいる。

 遠方に住む親類からの送金については、なおさらである。
……こんなことを書くと、「そんなことをすれば、すぐバレてしまうでしょう」
と思う人もいるかもしれない。

 しかしそこはたぬき村。
香典抜きをするにしても、たがいの微妙な人間関係を知り尽くした上でする。
たがいに連絡を取り合うことはないだろうということを知り尽くした上で、それを
する。

●口がうまい

 たぬき村の人は、口がうまい。
お世辞、へつらい、おじょうずは、日常の会話。

「あなたが今度、祭の役人に加わってくださったら、みんな、喜びますよ。
なんといっても、あなたがこの村の立役者ですから」と。
で、その人がその気になって祭の会合に出ても、その話はいっさい、なし。
どこかみな、シラーとしている。

 が、こんな程度のことで、腹を立てていたら、村の人たちとのつきあいはできない。
「そういうもの」と割り切ってつきあうしかない。
だから会合に誘ってくれた人には、こう言って言い返す。

「みんな楽しそうですね。いい雰囲気です。何といっても、祭は祭りですから……」と。
ついでにカラ笑いをしてみせる。
カラカラと豪快に、カラ笑いをしてみせるほど、よい。

●新しく薬局が開店

 そんな村に大異変が起きた。
「田舎暮らし」キャンペーンとかなんとかに踊らされた、1人の都会人が、
その村に移住してきた。
村のはずれに、薬局を開いた。
元、薬剤師の男性だった。

 その男性は、近所のあちこちを回り、それなりに礼を尽くした。
しかし開店当日から、客はゼロ。
あの手この手で、宣伝に努めたが、(もちろん価格も安くしたが……)、
客はゼロ。

 それもそのはず。
その村には、もう一軒、薬局というより、昔からの小さな薬屋があった。
その薬屋の経営者が、その村でも長老格の親分だった。

 村の人たちは、無言の圧力を感じて、新しい薬局へ入ることができなかった。

●浜松市

 日本もまだまだ、広い。
つまい地域によっては、こうしたウソがまったく通用しない地域もある。

 たとえば私が現在住んでいる浜松市の人たちは、ものの考え方がストレート。
もの売買でも、駆け引きをしない。
ものを買うとき、それを値切る人はいない。
口もへただし、おじょうずも言わない。

 私もこの町に住んで40年近くになる。
当初はあれこれ、戸惑ったこともあるが、今は、この町が好き。
すがすがしさを覚える。
この町では、なにかにつけ、相手が言った通りのことをすればよい。
私の義兄、義姉にしても、みな、そうだ。
私のワイフなど、とくにそうだ。

 また同じ「村」といっても、浜松市周辺の村々は、たいへんわかりやすい。
ときに、それを冷たく感ずることもあるが、そのほうが気が楽。
そんなある日、ワイフと私が、たぬき村にある、一軒の家に一泊することになった。

●タクシー

 ある出版社の編集部長の紹介で、M氏という人の家に一泊することになった。
編集部長の母親の実家だった。
「その村のレポートを書いてほしい」と頼まれて、一泊することになった。

 が、居心地はよくなかった。
で、朝になって帰る支度をしているときのこと。
私がM氏の妻に、こう頼んだ。
「今なら10時ごろの電車に間に合いますから、タクシーを呼んでくれませんか」と。
たぬき村から、JRのN駅までは、車でちょうど1時間。
帰り支度をしていると、そこでM氏がやってきた。
そして私にこう言った。

 「なあ、あんたさん、そのタクシー代、私にくれんかね?
私が駅まで送ってやるに」と。

 この言葉には、言いようのない不快感を覚えた。
タクシー代といっても、8000円前後。
そのタクシー代を、「くれんかね?」と。
私は、その申し出を、ていねいに断った。

そうそう、その朝、こんなこともあった。

「電車の時刻もあるから、私は、朝食は結構ですと断った。
しかし、である。
さあ、M氏の家を出ようとすると、そこに朝食が用意してあった。

 私が「朝食は食べないと言ったつもりですが……」と言うと、M氏の
妻(50歳くらい)はこう言った。
「まあ、そんなこと言わんでもいいから、食べていきなさい。
また来てもらわねばならなんから」と。

 一事が万事というか、たぬき村では、日本語が通じない。
みな、それぞれが、自分流のやり方で動いてしまう。

「この村の人たちは、何を考えているか、さっぱりわからない」と。
私はふと、タクシーの中で、そう漏らした。

 そう、まったくわからない。
だから「たぬき村」。

●相づち

 たぬき村では、相手が何を言っても、相づちだけは打ってはいけない。
相づちを打てば、今度は、あなたが言ったこととして、他人に話が伝わってしまう。

 たとえばMさんが、あなたにこう言ったとする。
「Xさんって、ずるい人よ」と。
それに応えて、あなたが、「そうよ」と言ったら、さあたいへん。
収拾がつかなくなってしまう。
今度は、Mさんは、あなたが言った言葉として、みなに知らせてしまう。

 あなたが、「Xさんって、ずるい人よ」と言っていた、と。

 だからだれかの悪口を聞いても、たぬき村の人たちは、意味のわからない笑みか、
フフフと笑って、すます。
否定することもできない。
否定すれば、相手の気分を害する。
気分を害すれば、どこでどのようにまた、あなたの悪口を言われるか、わかったものでは
ない。

 ここが重要な点だから、もう一度、書いておく。
だれかが、だれかの悪口を言っても、あなたはその場は笑ってごまかす!

●たぬき村をつなぐもの

 そんなたぬき村だが、なぜか、結束力は固い。
それもそのはず、みなが、何らかの形で、姻戚関係にある。
A氏の妻は、B氏の妹。
B氏の母親は、C氏の弟。
C氏の弟の娘は、Dさんの嫁・・・、と。

 人間関係だけではない。
土地関係も、これまた複雑に入り組んでいる。

 A氏の宅地の一角に、B氏名義の土地がある。
そのB氏名義の土地の、そのまた中に、C氏名義の土地がある。

 中には、代々放置され、今ではだれの土地かわからないものもある。
登記簿を調べても、3代前のG氏のもの。
G氏の子孫は、みな、たぬき村を離れて、今では、連絡先すらわからない・・・、と。

 こういう関係だから、たがいにいがみあいながらも、それでいて、なんとなくみな、
仲よく暮らしている。
それがたぬき村。

●村祭り

 たぬき村の人口については、よく知らない。
近くの新聞販売店の店主に聞いてみたところ、新聞の配達部数は、45部だそうだ。
それを3倍して、約150人というところか。

 たったの45軒。
あるいは45世帯。
そんな小さな村だが、いちばんの重要ごとは、秋の祭り。
村の予算の8割を、一夜の祭りのために使ってしまうというから、すごい!

 打ち上げ花火、弁当の配布、餅まき・・・と。
その祭りで演じられる神楽舞(かぐらまい)は、300年の歴史があるとか。
テレビや新聞でも、ときどき紹介される。
そのこともあって、たぬき村の人たちは、その祭りをやめるにやめられない。
「祭りは、村の顔」。

 負担も大きい。
村会費(積立金)だけでも、一世帯あたり、毎月、1万5000円。
共働き、兼業農家の世帯は、2万円。
若い人たちの間では、「やめよう」という意見も出ている。
しかし60歳以上の、「長老」と呼ばれる人たちが、それを許さない。

 見栄だけは張る。
張って張って、張りまくる。
それがたぬき村。

●たぬき

 たぬきといっても、(善良なたぬき)もいれば、(腹黒いたぬき)もいる。
が、その差は、紙一重。
(善良なたぬき)といっても、これまた演技。
善良なたぬきと思っていると、それが別のところでは、腹黒いたぬきに変身したりする。
腹黒いたぬきも、それなりに善良なたぬきを演ずることもある。
が、概して言えば、たぬきはたぬき。

『小悪を暴露して、大悪を隠す』
『慇懃(いんぎん)無礼で証拠を残さない』
『連絡を取り継がない』などなど。
話のすりかえ、とぼけ、ごまかしなどは、日常茶飯事。

 一本筋の通った文化性がない。
いつもあたりをキョロキョロを見回しながら、様子をうかがう。
様子をうかがいながら、自分の行動を決める。
だからたぬき村の人たちは、なによりも世間体を気にする。
とくに冠婚葬祭を気にする。

 もちろん派手であればあるほど、よい。
派手であればあるほど、その家の「力」と評価される。
たぬき村での地位も高くなる。

 たぬき村……どこの村の話ということではない。
たぬき村は、どこにでもある。
あなたの近くにもある。

●報復

 こんなことがあった。
ある日Hさん(50歳・女性)の家に電話があった。
Hさんは、留守だった。
で、電話をかけたIさん(50歳・女性)が、伝言を残した。
「風邪だと聞いていたけど、お元気ですか?」と。

 Hさんは、伝言を聞いたが、それには返事をしなかった。
たいした内容の電話ではないと思った。
というより、夜も遅かったので、その電話のことは忘れた。

 が、それから1か月ほどたったある日のこと。
Iさんが、こんな話をしているのを耳にした。
なんでもIさんが、その年に初盆を迎える世帯の人たちのために、世話役を
決めようと、Hさんに相談した。
が、Hさんが、それを無視した、と。

 Hさんは、そこではじめて世話役の話を知った。
が、Iさんから、そんな相談を受けたこともない。
Hさんに、そのことで、それとなく抗議すると、Iさんは、こう言った。
「あら、話しませんでした。留守だったので、留守番電話に伝言を入れておいたのですが
・・・」と。

 たぬき村では、電話をもらったら、必ず、返事をしなければならない。
無視すれば、かならずなんらかの報復を受ける。

●上下意識

 たぬき村の最大の特徴は、上下意識。
上下意識というか、上下関係。
それが年齢に応じて、きびしく決められている。

 たった1歳でも、年長は年長。
年下のものは、年長者に、ぜったい服従。
苦言を口にすることすら、許されない。
そんなわけで、もっとも力のあるのは、村で、「長老」と呼ばれている人たち。
現在、80歳以上の老人が、5人もいる。
1人をのぞいた、残りの4人が、村を取り仕切っている。
1人というのは、村でもつまはじき者。
若い時から、詐欺まがいの仕事ばかりしていた。

 その上下関係のワクの中で、妻や子どもたちの地位や立場も決まる。
村の会合でも、その序列に従って男たちは席につき、女たちは、男たちに給仕する。
序列の低い女たちは、裏方。
序列の高い女たちは、席に出て、茶をくんだり、酒をついだりする。

●「住んでみたいわ」

 そんなたぬき村が、地方局だが、テレビに紹介されたことがある。
2人の旅行者が、あちこちの村を訪れ、いろいろと村の話を聞くという番組だった。
そのときは、たぬき村が選ばれた。
たぬき村の人たちは、みな緊張した。

 結局、その相手は、たぬき村のK氏(44歳)がすることになった。
K氏だけが、学卒、つまり大学を出ていた。

 で、その日はやってきた。
橋を渡って2人の旅行者が村に入る。
それをK氏が迎える。
しばらく村の案内をしたあと、村の人たちが作った山菜料理をみなで食べる。
そういう段取りだった。

 が、突然、旅行者兼レポーターの若い女性が、こう言った。
台本にはないセリフだった。

「すばらしいところですね。緑が多くて、空気がおいしいわ。私、こんなところに
住んでみたい。私のような者でも、住めますか」と。

 K氏は落ち着いた声で、こう答えた。
「ええ・・・住めますよ」と。
 しかしそれを聞いたたぬき村の人たちは、みな、こう言って吐き捨てた。
「こいつはターケぬかせ!」と。
たぬき村では、「愚か者」をさして、「ターケ」という。
つまり、レポーターの若い女性をさして、「バカぬかせ」と言った。

●よそ者

 たぬき村では、外の世界から入ってきた人のことを、「よそ者」と呼ぶ。
しかし「よそ者」というのは、ただのよそ者ではない。
たぬき村では、3代住んで、はじめて仲間という掟(おきて)がある。
それまでは、村八分。
葬儀を除いて、村の行事には参加させてもらえない。

 最近はこの掟も少しは緩んだと聞いているが、しかし3代。
水は、村の中心にある神社、(「お宮様」と彼らは呼んでいるが・・・)、その神社の
横から出ている湧水を分け合って使っている。
3代も住まないと、その水すら、分けてもらえない。

 それまでは井戸の水。
農薬の混ざった井戸の水。

 たぬき村の住人は、こう言った。
「この村で迎えられるのは、元校長格の学校の先生、医者、あるいは芸術家のような
変わり者」と。

 「元サラリーマンはどうですか?」と聞くと、その人は、こう言った。
「そんな人は、住めません」と。

 実際、戦後、たぬき村に移住してきたのは、1人だけ。
しばらく薬局を経営していたが、2年後にはまた、元の都会へと戻っていった。
その男の話は、もう少しあとに書く。

●本音と建前

 たぬき村の人たちは、本音を言わない。
すべてが建前だけで動く。
そのため、一皮むけば、その下でどす黒い、いがみあいが渦を巻いている。

 足の引き合いは、日常茶飯事。
そのためほかの世界では見られない珍現象が、よく起きる。

 たとえばいくら急病でも、救急車は呼ばない。
呼べば、村の話題になるだけ。
そういうこともあって、たぬき村では、葬式が、なによりも重大事。
ある男性は、はからずもこう言った。
「あいつが死ぬのを見届けないかぎり、おれは死なない」と。

 あるいはこう言った男性もいた。
「こいつはオレより年上だから、オレより先に死ぬんだなと思ったら、気が楽に
なった」と。

 最終的な人間関係は、葬式によって結論づけられる。
だから葬式ほど、虚々実々の駆け引きがなされる場も、ない。
悲しくもないのに、悲しそうな顔をする。
うれしいのに、悲しそうな顔をする。

 そうそう実の兄が死んだとき、葬式の場で、大声で泣いてみせた女性もいた。
それまでさんざん兄を虐待しておきながら、である。

●みな、武藤

 どこの村にも、そうした話はあるが、たぬき村にもある。
たぬき村は、その昔、○○藩の家老を出した、由緒ある村ということになっていた。
そのこともあって、明治になって名字をもつことが許されるようになると、たぬき村の
人たちは、みな、「武藤」姓を名乗るようになった。

 たぬき村では、1軒をのぞいて、みな、「武藤」。
1軒というのは、昔からの庄屋で、その家だけは、江戸時代の昔から、「泉谷」という
姓を名乗っていた。
 しかし今は、その泉谷家は戦後の農地解放で田畑のほとんどを失い、落ちぶれてしま
った。

 ・・・それはともかくも、たぬき村では、みな、名前のほうで、たがいに呼び合って
いる。
しかも難解な名前が多い。
辞書が手元にあっても、その読み方すらわからない。
たとえば・・・といって、ここに名前を出すわけにはいかない。
創作で適当な名前を書くことも、できなくはないが、しかし私の創作力にも限界がある。
たぬき村の人たちの名前は、私の創作力を超えている。

●では、どうするか?

 たぬき村は、相手を知り尽くせば、それなりにおもしろい。
「日本にも、こういうところが残っているのだなあ」と、ときに、感心することもある。
が、鉄則は、ただひとつ。

 いつもどこかで一線を引いてつきあうこと。
けっして深入りしてはいけない。
巻き込まれてはいけない。
動物園で動物を観察するようなつもりで、観察する。

 というのも、たぬき村の人たちは、自分たちは、それでも(まとも)と思い込んでいる。
外の世界を知らない。
だから自分たちが、(標準)と思い込んでいる。
もちろん自分たちが、(たぬき)とは思っていない。
すべてがそういう尺度で動いている。

 だから、説教したり、説明したりしても、無駄。
言うだけ無駄。
反対に、「あなたには義理人情というものが、わからないのですか」とやり返されてしまう。
200年、300年とつづいた、伝統ある(?)村の意識は、そうは簡単には変えられ
ない。

 そうそう先に薬局を出した男性の話を書いた。
これは私が当事者から直接聞いた、実話である。
「薬局」、つまり「薬屋」というのも、本当の話である。

 で、その男性は、こう考えていた。

「1年ほど薬局を経営してみて、それが軌道に乗ったら、都会に住む家族を呼び寄せよう」
と。
しかし1年を待たずして、薬局は閉店。
つぎには日雇いの労働者となって、工事現場で働くようになった。
が、やがてそれも限界に来た。
その男性は、薬局と自宅を売り払い、さらにその1年後、再び、都会へ逆戻り。

 で、私には、こう言った。
「たぬき村には、もうこりごり。二度と、あんなところへは行きたくありません」と。

 たぬき村とは、そんな村をいう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 たぬき村 タヌキ村 邑意識 邑物語)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●メタ認知能力(Metacognitive Ability)

+++++++++++++++++++++

「メタ認知能力」?
私は新しい概念に出あったりすると、
それが何であるかを知るために、ときどき
こういう手法をもちいる。

(メタ認知能力のすぐれた人)を想定する。
一方で、(メタ認知能力に欠ける人)を想定する。
その両者を比較する。
比較して、その(ちがい)を洗い出す。

この手法は、教室でもよく使う。
たとえば(問題のある子ども)がいたとする。
そういうときは、(問題のない子ども)と比較しながら、
その(ちがい)を洗い出す。

++++++++++++++++++++++

●メタ認知能力のある人

 「メタ認知能力」とは何か?
実のところ、私にもよくわからない。
だから私なりの解釈を加えてみる。
が、私の解釈が正しいとはかぎらない。
実のところ、意識に関する概念は、どれもむずかしい。
意識そのものが、漠然としている。
概念としては理解できるが、そこまで。
たとえば「潜在意識」というものにしても、概念としては理解できるが、
どれが潜在意識で、どれがそうでないかというと、それがよくわからない。
「これが潜在意識」とわかったとたん、それは潜在意識ではなくなる。
「意識」ということになる。

そういう前提で、つまりまちがっているかもしれないという前提で、
私なりに、メタ認知能力について、書いてみる。
だからここに書くことが、「メタ認知能力」というわけではない。

●私の性質

 たとえば私は、ひねくれやすい性質をもっている。
子どものころからずっとそうで、それには私の乳幼児期の育児環境が大きく影響して
いる。
こんなことがあった。

 小学2年生のときのことだった。
その日、私は弁当を忘れた。
母が作り忘れた。
で、担任の先生が、自分の弁当箱のフタに、みなから少しずつごはんとおかずを
集めてくれた。
それを私にくれた。
しかし私は、それを食べなかった。
食べられなかった。
がんとして、それを拒否した。

 ふつうなら、みなの好意をそのまま受け入れて、「ありがとう」と言ってたべるだろう。
心がすなおに育っている子どもなら、そうする。
が、私には、それができなかった。
 今でも、それが残っている。

●分離不安症?

 弁当を食べなかったのは、私の(がんこさ)だったかもしれない。
プライドが許さなかったのかもしれない。
が、こういう例で説明すれば、もう少しよく、私のゆがんだ性質を、
わかってもらえるかもしれない。

 たとえば私は子どものころから、ひとりで寝るのが苦手だった。
若いころは、それなりに気力で自分を支えたが、結婚してからは、がくんと
弱くなってしまった。
以来、ワイフとは、いつも床を同じくして、眠っている。
が、これにも私の生い立ちが関係している。

 で、そういう中にありながら、私はそれを心のどこかで(引け目)に感じている。
ときどきワイフも、そういう言う。
「あなたは、おとなの分離不安症よね」と。

 だからたとえば、ワイフが先に、さっさと床に入ってしまったようなときなど、
あのひねくれやすい症状が顔を出す。
置いてきぼりをくらったかのような、怒りを覚える。
そしてこう思う。
「だれがあんなヤツと、いっしょに寝てやるか!」と。

 私は、書斎の横にある部屋で、ひとりで寝る。
そういう私を心配して、ワイフがやってきて、こう言う。
「何をいじけているの! 早く寝なさいよ」と。
私はワイフの言葉にせかされ、いそいそと寝床に入っていく……。

●ひねくれ症状

 実はつい先日も、そういう状況になった。
が、そのときはちがった。
私は「メタ認識能力」という言葉を知っていた。
で、それを自分に応用してみた。

 ワイフは、先に床に入った。
私が部屋に入ると、すでに寝息をたてて眠っていた。
それを見て、またまたあのひねくれ症状が出てきた。

 で、そのとき私はその(症状)がどこから出てくるかを、自分で観察してみた。
が、不思議なことに、本当に不思議なことに、観察し始めたとたん、それが
パーッと、霧のように散ってしまった。

 これには驚いた。
もともと(ひねくれ症状)には、実体がない。
本来の(私)の上に、雲のように、おおいかぶさっているだけ。
理屈があるわけでもない。
理由などない。
私は「ナ~ンだ、こんなものか」と思いながら、いつものように寝床に入った。

●メタ認知能力のない子ども

 が、もしメタ認識能力がなかったら、どうなるか。
(この解釈は、最初に断ったように、私独自の解釈で、正しいとはかぎらない。)
外部に表象される意識だけが、(意識)ということになる。
そして結果的には、その意識だけに振り回されることになる。

 こうした現象は、子どもの世界でも、ときどき観察される。
算数という勉強に当てはめて、考えてみる。

 たとえば何かの問題を解かせると、中に、こう聞いてくる子どもがいる。
「先生、これ足し算の問題? それとも引き算の問題?」と。

 もう少し学年が大きくなってくると、こう聞いてくる子どもがいる。
「先生、割り算でするの? それとも掛け算でするの?」と。

 こうした子どもたちには、問題の中の数字しか目にとまらない。
数字だけ見、それを加工して、答を出そうとする。

 同じようにおとなたちにしても、その場だけの状況に応じて、
ものごとを判断しようとする。
そういうおとなは、多い。
このタイプのおとなは、何かあるとアタフタするだけ。
あとは取り越し苦労とヌカ喜び。
それを繰り返す。

●ある女性

 こんなことがあった。
ある女性(当時、65歳くらい)がいた。
90歳近い母親を介護していた。
その母親について、「夏場になると、老臭がひどくて困る」と。

 そこで私はつぎのように提案してみた。
「換気扇をつけたらどうでしょう」→「それを取りつける、穴がない」
「穴を開ければいいですよ」→「そういう道具がない」
「大きなドリルであけます。電気屋に相談すれば、貸してくれますよ」→「家に傷を
つけたくない」
「換気扇があれば、何かと便利です。家の湿気も取ります」→「うちは湿気ません」と。

 こういう意味のない押し問答がいつまでも、つづいた。
つまりその女性の頭の中には、(老臭)という問題しかなかった。
「だからどうしたらいいのか」と、考えることすらできなかった。
で、この女性の思考回路は、先に「先生、これ足し算の問題? それとも引き算の問題?」
と聞いた小学生の思考回路と、どこもちがわない。

 が、メタ認識能力というときは、さらにその先をいう。
もしその女性が、「なぜ、自分が老臭を嫌うという意識をもつのか」という心の深い部分
にまでメスを入れていたら、もう少し介護の仕方も変わっていたのではないか。

 つまりその女性にとっては、親の介護そのものが負担だった。
そこに至る理由はいろいろあるだろう。
私のような部外者の知るところではない。
それが形を変えて、「老臭」につながった。
だから最初から、その女性にしてみれば、老臭など、どうでもよかった。
「介護はたいへんだ」ということを他人に訴えるための、口実にすぎなかった。
ただの愚痴にすぎなかった。

 だから私があれこれと解決策を示しても、その女性はそれには応じてこなかった。
ああでもない、こうでもないと、別の理由をこじつけては、それに反論した。

 メタ認知能力がないと、自分を客観的に観察する能力すら、失う。
そこにある問題に気づくこともなく、あわてふためく。

●ちがい

 こうして考えていくと、メタ認知能力のある・なしを、比較することができる。
(かっこ)内は、メタ認知能力がない人ということになる。

(1)自分を客観的に評価できる。(視野が狭くなる。)
(2)自分の未来を、予想することができる。(その場だけのことしかわからない。)
(3)問題解決の技法を、すみやかに見つけることができる。(あたふたするだけ。)
(4)解決方法を、多角的に見つけることができる。(ひとつの方法にこだわる。)
(5)新しい問題に対して、チャレンジする。(できることしか、しない。)
(6)感情のコントロールができる。(感情的になりやすい。)
(7)臨機応変に環境に適応できる。(不適応症状を示しやすい。)
(8)人間的な豊かさ、深みがある。(全体に浅はかな印象を与える。)
(9)心に余裕があり、おおらか。(心に余裕がなく、セカセカしている。)

 このメタ認知能力は、「訓練によってのみ、伸ばすことができる」(ブラウン、フラベル)
という。
そのためには、まず、メタ認知能力というものがどういうものであるかを知らなければ
ならない。

 わかりやすく言えば、「意識を意識化する」。
今、自分がもっている意識を、別の意識で客観的に知る。
それによって、メタ認知能力を身につけることができる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW メタ認知能力 Metacognitive Ability メタ認識 メタ認知)

(補記)

 私たちがもっている「意識」ほど、不可解で、いいかげんなものはない。
「私は私」と思う意識にしても、そうだ。
どこからどこまでが「私」かとなると、それがわからない。

 最近の大脳生理学によれば、私たちの意識ですらも、脳の別のところであらかじめ
作られるということまで、わかってきた。
それが無意識の段階から、意識の段階まであがってきて、私たちはそのとき、
それを自分の意識として自覚する。
そしてそれを「私」という。

 わかりやすい例でいえば、女性が化粧をするのも、男性がかっこよく見せようとする
のも、結局は、性的エネルギー(フロイト)が、裏からその人を操っているからにほか
ならない。
当の本人は、「私の意思で化粧している」「ぼくの意思でかっこよくしている」と思って
いるかもしれない。
が、実のところ心の奥深くから湧きおこる、性的エネルギーに操られているだけ。

 私たちが意識として意識できる部分というのは、脳の中でも、ほんの一部にすぎない。
一説によれば、数10万分の1とも言われている。
そのほかの意識は、無意識の世界で、私たちを内側から操っている。

 となると、メタ認知能力の重要性がますますクローズアップされてくる。
私たちの(意識)を、その奥にある意識でもって、客観的に観察、判断、さらには
コントロールする。

 こうした能力は、ほかの動物たちにはない能力とみてよい。
ほかの動物たちは、意識される意識のみに従って、行動している。
が、人間はちがう。
意識される意識を、べつの意識で観察、判断、さらにはコントロールする。
つまりそれこそが、人間と、他の動物たちを隔てる壁ということになる。

●補記

 ここに書いたことは、まちがっているかもしれない。
(多分、まちがっている。)
しかし考えるテーマとしては、おもしろい。
もし「私」を、別の「私」によって、知ることができたら、これほど楽しいことはない。
言うなれば、心の鏡のようなもの。
その鏡に自分の心を映して、自分の心を知る。
心がどんな顔をしているかが、それでわかる。

 まだまだ、このつづきを考えてみたい。


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